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スター・ウォーズのダース・ベイダー卿の衣装のモデルは伊達政宗の兜なのだそうだ(仙台News第9号の記事)。一部の人の間では有名な話なのかも知れないが、私は知らなかった。政宗の覇気はやっぱり世界級でしたね。
2007.01.31
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1 千葉三郎(昭和22年4月)知事が公選制になったのは昭和22年の地方自治法施行によるが、同年4月5日に知事選挙が行われ、実業界出身の最後の官選知事千葉三郎が、大差で当選した。しかし翌昭和23年に県政は「県庁旋風」と称される数々の疑惑を招く。畜産大学設立に絡む背任容疑、県農業会の不正献金、食糧公団の不正献金、繊維組合連合会の背任横領、などなど県幹部を巻き込む疑惑が生じ、県政の信頼は失墜し、千葉知事は衆院選に転じるため昭和24年1月に辞任する。(ちなみにこの総選挙は吉田内閣の「なれ合い解散」総選挙。宮城一区は千葉三郎、庄司一郎、本間俊一、安倍俊吾、佐々木更三。宮城二区は大石武一、内海安吉、角田幸吉、高橋清治郎が当選)2 「百姓知事」佐々木家寿治(昭和24年2月)昭和24年2月に第2回公選。県議から立候補の元代議士佐々木家寿治が高橋清との接戦を制した。民主自由党で立候補し当初は少数与党だったが、佐々木は風水害対策や農村振興で力を発揮し、「百姓知事」を自称して県民に浸透した。佐々木知事は土木や農政に明るく、思うことを高い声でズバズバ言う人だったそうだ。26年の県議選では陣頭指揮により自由党(民自党を改称)を多数当選させて安定与党に成功。しかしこれがワンマン知事の評を呼び、総合運動場建設をめぐる業者との癒着を追求されるなど窮地に追い込まれ、吉田茂の「抜打ち解散」(8月)と総選挙(10月)のドサクサに合わせ、昭和27年9月に任期を5ヶ月残して辞任した。3 「学者知事」宮城音五郎(昭和27年10月)反自由の野党は出遅れたが、東北大工学部長や仙台一高校長を務めた県教委委員長の宮城音五郎(無所属)を推薦した。知事選の4日前の総選挙では吉田自由党が議席を減らし、宮城でも社会党が1議席から4議席に躍進。知事選も当初は圧勝と見られた佐々木家寿治に対して、反自由党の革新候補の宮城が当選。(なお総選挙では、新たに村松久義、菊地養之輔、日野吉夫、竹谷源太郎、只野直三郎が当選。)宮城知事は、兄は元法務大臣、姉は衆院議員だが、自身は博学なるも政治経験がなく議会工作が円滑にできない。野党多数の議会で革新色も出せず、譲歩した総花予算は財政赤字を累積した。宮城県は昭和31年5月に地方財政再建法の適用を受け、国の指導下に置かれる(39年度まで)。独自色を出せない宮城知事は31年10月任期満了で退任。4 「農民知事」大沼康(昭和31年10月)知事選挙に際して保守合同で成立した自由民主党が、副知事早坂冬男(無所属)と遠藤実(自民党)の両陣営に分裂した。このため、予想を覆して県農協経済連会長の大沼康(社会党)が大差で当選。東北初の社会党知事であり、社会党は宮城前知事に続いて少数ながら県政与党となった。大沼は、社会党の政策を押しつけずに、県民の福祉を目標に産業振興と民政安定のため、総合開発を進めた。財政再建も軌道に乗って、やがて革新色の強い政策として、敬老年金等支給条例と農家負債整理促進条例を制定した。しかし34年1月に急逝、3月の知事選を迎える。5 保守が奪回 三浦義男(昭和34年3月)自民党は今回は一本化して鉄道省技師から参院議員となった三浦義男を擁立し、与党が大沼県政の承継として擁立した副知事西宮弘(無所属)を僅差で破る。以後宮城県政は長い保守県政の時代に入る。なお仙台市長は、昭和33年2月に弁護士島野武が当選。これは、岡崎栄松市長の四選目の昭和30年4月に岡崎が島野を僅差で破った選挙が最高裁で無効が確定して行われた「やりなおし選挙」であった。自民党は松川金七を公認したが、革新統一候補の島野が勝利した。ここに全国にも稀な、知事と県都市長の革新首長の時代を迎えたが、大沼の急逝で一年しか続かなかった。以後26年間にわたる島野市政は保守県政との齟齬の時代でもある。三浦は昭和38年に再度西宮を破り再選。40年2月に没するが、仙台新港などの施策は後の高橋・山本県政に引き継がれた。宮城県の財政再建は昭和39年に負債を解消するが、後進の貧乏県から胸を張って県政発展に転じる基礎は、三浦知事の時代に築かれた。■参考 我孫子麟『宮城県の百年 県民百年史4』山川出版社、1999年 佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂出版、1979年
2007.01.30
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ふと考えた。郵便番号も3桁プラス4桁になったから、電話番号と同じ形態だ。では、電話番号と郵便番号が一致している超ラッキーなケースはありうるだろうか。仙台だと郵便番号は98Xで、電話番号(市内局番)は2か3で始まるから、一致することはありえない。ならば、例えば河北新報社の電話番号211-1111に一致する郵便番号はどこか。川崎市中原区が211で始まる郵便番号だ。ここに、河北新報社のような電話番号が可能であれば、超ラッキーもある、ということになるが。それ以上はやめました。
2007.01.29
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6歳の娘が読み出した。「見る、なんとかセキ、てのケツ、食、はやし、うえ...」子どもは一生懸命読みます。ちょうど、それなりに文字になっているし。■仙台百景画像散歩 以前の記事です。 ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2007.01.28
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12世紀の平泉の都市の鳥瞰図がある(岩手県教育委員会サイトから)。清衡の段階では平泉の中枢は中尊寺だが、秀衡の頃には、柳之御所や無量光院も整備され、壮麗な姿を現しただろう。平泉は国道4号線で通過するだけでは、中世の大都市の配置などはイメージもできない。この予想図は初めて目にしたが、なるほどそうだったのか、と思わせる。工藤雅樹『平泉への道-国府多賀城・胆沢鎮守府・平泉藤原氏』(雄山閣、2005年)を読んでいてこの予想図が引用されていたので、岩手県のHPを見てみたのでした。
2007.01.28
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いつしか4万アクセスとなりました。つまらぬ記事を、しっかりと、或いは偶然に読んでいただいた延べ4万の目に見えぬ方々。御礼申し上げます。
2007.01.27
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未明の「朝まで生テレビ」では格差問題と雇用・社会保障などが主なテーマだった。議論の中身はチョイと置いておいて、私は朝まで生テレビの昔のことを思い出していた。あの番組は昭和62年(1987年)がスタートだそうだ。私は1989年頃から見るようになったが、部落問題、外国人労働者、イラク問題などをテーマにしていたように思う。昭和天皇崩御に際するテレ朝のタブーに挑戦する姿勢や、田原の挑戦的司会ぶりのイメージもダブって、価値尺度の絶対性や予定調和的安心感覚を打ち破る、新しい時代の幕開けという意識で見ていた。そういえば当時は「月刊ASAHI」を読んでいた。数年後に「This is 読売」みたいな雑誌サイズになったかと思えばアッサリ廃刊されたが、最初はサイズも表紙も斬新で、外交や政治などで「朝生」にも出る論客達が書いていた。冷戦の二元的価値対立が崩壊し、やがて非自民連立政権も成立したが、時代がうねっていると感じていた。ところで昨日は亘理町の女子高校生殺害事件の公訴時効が午前0時で完成した。刑訴法改正前の事件だから「15年間」が適用になるのだろう。理論的なことだが、刑事訴訟法上の公訴時効の本質論として、講学上、昔は「実体法説」というのがあって、時間の経過により社会の処罰要求や報復感情も薄れるとか、犯人の悪性が消滅する、などとの説明があったが、今思えばやっぱりおかしな話だ。訴追されていない事実状態の尊重を本質とする(新訴訟法説)のが通説だろう。時効完成は残念だ。警察も無念だと思うが、今後も事件一般について迅速な捜査による確実な検挙をお願いしたい。この事件は行方不明の翌年(93年)4月に仙台市大倉の山中に遺棄されたのが発見された。ちょうどその報道の直後の頃、私は定義山に行こうとして大倉の山中の林の中の小道に車で迷い込んでしまったことがあった。産業廃棄物捨て場のような場所を経由して、なんとか公道に抜け出たのだが、報道された事件を連想しながら心細く車を走らせたのを覚えている。15年というスパンは、One Decade(10年ひと昔)よりももう1枚上手だ。かといって、大昔でもない。現在との時間のつながりは意識しつつ、両時点の差異や経過を検討できるスパンだ。15年前は時代のうねりを感じていた。今は朝日新聞も斜め読みするようになってしまった。そして、折り返して15年後はどうだろうか。自民党政権か。自分はまだサラリーマン稼業を続けているだろうが、あるいはクビになってアルバイト生活かも知れぬが。
2007.01.27
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岩手日報のトップページのデザインがいつの間にか変わっていました。特に好き嫌いはないのですが、変わってしまうと前が懐かしくなってしまいます。
2007.01.26
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宮城の大地主と言えば、桃生郡前谷地村(現在は石巻市)の斎藤善右衛門家。酒田の本間家と並び立つ日本の大地主だ。現在では、ホテル仙台プラザ隣接の斎藤報恩会(自然史博物館)としても知られている。明治23年(1890年)に遠田郡小牛田町の会社の資産を買い受けて、一躍1120町歩の巨大地主になった。斎藤家の特徴は、旧来の人格的上下秩序に依拠する小作関係ではなく、近代的な対等の契約に基づく小作経営関係を先取りしていたことである。明治25年(1892年)の斎藤家の「地所管理心得書」には、家族的な親愛と尊敬の関係は昔の大名と百姓の関係と同視する時代遅れの考えであること、小作人の土地使用は権利だからその収穫は当然に小作人のものであり、小作に利益なければ地所を返付する自由もあること、などが記されている。逆に、小作人が契約を守らない場合には取り上げ、また争議化すれば裁判に訴えるのが、斎藤家のやり方だった。家族的関係や力関係ではなく、契約に依拠したのである。ところで、明治後期の凶作続きで小作人の夜逃げが続発した。しかし農民も逃げてばかりではない。小作騒動も頻発した。日本で最も小作騒動の多い県が、宮城県だったという。宮城県の特徴は、小作人同盟会という組織があったこと。小作人が合同で地主に対抗し、小作料引き下げを認めさせた。地主も地主会を組織して対抗したので、組織と組織の対抗となり、各地で争議が起きた。最大のものは、明治41年(1908年)の桃生牡鹿10カ村による「桃生牡鹿連合小作人同盟」闘争である。斎藤善右衛門の支配下にあったものだが、面白いのは、同盟会のリーダーとなった安倍(須江村)、菅原(鷹来村)、加賀(広渕村)などは小作人ではなく小地主で、村長や県会議員を経験し、小作人の窮状を理解して村民とともに村の発展に尽くそうとした特徴があったこと。小作層だけでなく村ぐるみで地主に対抗した運動だった。明治41年の2月に始まったこの闘争は、地主会と小作人同盟会の決裂を受けて、斎藤家が「現今の小作人は、言葉巧みに生活難を針小棒大に、新聞を利用して世の同情を求めるもの」と非難するなど、大事件に発展した。しかし、やがて地主側の統一がくずれはじめ、最後は斎藤家も小作の要求を認める。もっとも、小作人同盟会の組織は長続きしなかった。村の有力者を中心とした村ぐるみの運動という特徴は徐々に崩れ、村内部の対立も反映して、近代的な階級闘争に変わっていく。■参考 我孫子麟『宮城県の百年 県民百年史4』山川出版社、1999年
2007.01.25
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最近ユニバーサルサービスで月7円が掛かるという話があった。そんな関係で調べていたら、NTTは利用料金の請求通知書をやめて、ネットで照会できるようにすれば、基本料金が月100円が値下げになる制度を知った(アットビリング)。前から思っていたが毎月郵送してもらう必要はない。それも、札幌市白石区から、わざわざ。最初の頃は、なぜに札幌なの、と仙台人のプライドを抑えつつも、変に感じていたが、最近は慣れてしまった。紙資源の減量のためにも、さっそく手続します。
2007.01.24
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日曜日(21日)の蔵王温泉スキー場は好天に恵まれ、山形盆地の向こうに山なみが綺麗に見えました。空が青いこと、写真をとるとこのように紺碧に写りました。さて以下は百万人ゲレンデから遠望した光景です。まずは、月山です。写真のやや右手にあるのが月山だと思います。さらに右の遠くには鳥海山も見えたように思うのですが自信がありません。この向こうが庄内平野ですね。次に、上山の市街地の向こうにそびえるのは、朝日岳でしょう。(手前に点在するスキーヤー2名は我が娘たちです。)最後に左(南)に目を転じると、2千メートル級の山なみ。飯豊連峰です。写真の技術が悪いので明るすぎて白い山脈がよく写りませんでした。雄大なる山形のパノラマ遠望でした。
2007.01.23
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と言っても、ブームは終わりですね。昨日(21日)朝の新聞報道で、妻や母はガックリ。この2人の中の1人に至っては、泊まっていた蔵王温泉のホテルにまで、コッソリ納豆パックを持ち込んで、早朝からシャカシャカかき混ぜていたようで、ガックリ感が、TV局と納豆への敵意に変わりそうです。肝心の効果はいかほどか、というともちろんナシ。当たり前。だいたい、あんなTV報道がウソ臭いし、納豆以外の食生活や運動を見直していないでヤセるはずがない。問題は、八つ当たりが納豆に向けられそうなこと。こんな事情で我が家の冷蔵庫にはたっぷり納豆君達が出番を待っています。普通に毎朝納豆を食っている私には、どうでも良いのですが、怒りのために「もう納豆は買わない」とだけはして頂かないように...今回の騒動、納豆にとっては迷惑だったと、思います。もともと素晴らしい食品であるのに、バカな騒動のダシにされてしまって。頑張れ納豆。めげるな。私は毎朝食べますよ。買ってもらえる限り。■関連する過去の記事 ○納豆ブームを考える(07年1月13日)
2007.01.22
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山形蔵王温泉にいます。さすがにこちらは雪も多いです。 スキーと温泉の家族滞在、父母も一緒で賑やかです。
2007.01.21
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今朝の河北新報朝刊を見ていたら、県内の個人の方が企画して、フジ子ヘミングさんのピアノコンサートが実現するのだそうだ。今年の5月に。縁があったこと、企画して実現する意思、支える人たち、来演の意思、などいくつかの良い条件が重ならないと実現できないのでしょう。盛会を祈念します。
2007.01.20
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本当に穏やかな冬ですね。昨朝(18日)は気温が低いようでマイナス2度。それでも朝日が差してくるからか、冷え込んだ感じがしない。庭に目をやったら、シジュウカラがやって来た。あわててカメラを向けて、撮りました。最近私は仕事のせいか、パソコンのせいか、ものすごく肩が凝っています。そうズバ~リ四十肩でしょう。ダジャレでまた肩が凝った。ごめんなシジュウカラ君。もう寝ます。
2007.01.19
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今週末は3県で知事選挙の投票がある。愛媛は現職で決まりだろうが、他の2県は非常に興味深い戦いだ。山梨県知事選挙は、現職山本氏と横内元衆院議員が前回と同様に対決する構図で、互角の戦いを展開している。山本氏は父子2代の甲府市長から知事に転身、方やの横内候補は実弟が韮崎市長と、地域対決の構図でもあるようだ。民主党は県連レベルで山本氏を推薦したが、自民は国会議員と県議が両陣営に分裂しており、接戦だ。山本知事の1期4年の評価が問われるのだろうが、明確な大争点もなく、政界の怨念合戦のような印象を受ける。草の根を強調する横内氏に勢いがあるように感じる。宮崎は、そのまんま東と川村前林野庁長官が横一線というのが、宮崎日日新聞や全国紙の評だ。出直し知事選挙の特殊性で、みんなが改革を訴えるから却って争点がぼける。そこへ来て、表面上は持永氏自公推薦で一本化したが、持永氏と元出納長との「しがらみ」払拭問題や一本化の手法への反発で、離反も生じて保守も分裂。無難な行政経験イメージと、保守の組織戦が前面に出ないこと、更に民主が支援することで、川村氏が優位のようだが、組織を引き締めて持永氏の追い上げも可能だろう。いずれにしても、知名度にまさる東候補は保守層の取り合いによる影響も少なく優位と言える。県民も斬新さを求める。街頭やTVで弁舌が有権者に響けば、リードする可能性も。保守組織戦、手堅い官僚リーダー、タレントという三者三様の候補者像に、出直し選挙という目に見えない有権者心理が渦巻く土俵が与えられ、最後までどこに流れるか不透明だろう。選挙としては極めて面白いと思う。
2007.01.18
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江戸時代中期の名君として名高いのが米沢藩9代藩主の上杉鷹山だ。そもそも上杉家は上杉謙信の血を引く名門で当初は会津若松120万石の大藩であったが、数度の減封と移封で、米沢15万石に至る。収入が激減したのに家臣団はそのまま抱えたから、財政負担は膨大となり、8代藩主重定は幕府に領地返上を願い出たほどである(明和元年=1764年)。明和4年に17歳で9代藩主となったのが養子の上杉治憲(鷹山)である。役人の削減、特産物の奨励、興譲館の創設などの業績を残した。鷹山によって登用された人材の1人が竹俣当綱(まさつな)だ。若いときには藩主重定の奢侈を諌めようとして召上げ閉門の処分を受けたが、その後、実権を握り苛政をしいた森平右衛門を有志と謀議し暗殺する。当綱の献策の第一は、桑、楮(こうぞ)、漆の各百万本植立て計画である。植樹費用を支弁する、成木となれば藩が買い上げるなどの配慮も行った。また、米沢織の国産化も挙げられる。米沢は青苧(あおそ)の産地だが、織りの技法がなく原料として国外に出していた。当綱は織りの産地から職工を移住させて家中の婦女子に技術を学ばせて、米沢織を産業化させた。千石取りから執政筆頭にのし上がった当綱だったが、鷹山の信頼と改革の功のあまりに専制が過ぎて堕落し、天明2年(1782年)に鷹山から隠居押し込めの命を受ける。主君の命を伝えたのは、同じく菁莪社出身で改革をともに推進してきた莅戸(のぞき)善政だった。天明3年から続く凶作は東北地方に凄惨な被害をもたらした。仙台藩だけでも餓死30万人から40万人とされるが、米沢藩は餓死や離散者は格段に少なかった。このように改革の成果は明らかとなったが、天明5年に鷹山は家督を治広に譲って隠退。ときに35歳。訓戒として治広に与えた3か条の「伝国の辞」は有名。鷹山はなお後見役として政務を指導した。やがて莅戸善政は中老職に登用され改革を推進した。中でも養蚕業、織物業の発展が著しく、財政および農村復興の基盤となった。竹俣当綱は鷹山の改革を推進した忠臣であり、また権勢をふりかざした奸臣とも評価される。しかし、一度はともに失脚した同志の莅戸善政が復権して改革を引き継ぎ、そして彼らが世を去り、さらに主君だった鷹山が没した翌年にやっと米沢藩は借金を完済する。■参考 百瀬明治『名君と賢臣』講談社現代新書(1313)、1996年 ほか
2007.01.17
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宮城交通の予約制「温泉バス」という企画があります。県内コース(2900円)は、金成温泉延年閣(2月20日、22日)、薬莱温泉やくらい薬師の湯(3月20日、22日)。県外コース(3900円)は、 1月23日、25日 磐梯熱海温泉ユラックス熱海 2月13日、15日 母畑温泉母畑温泉健康センター 3月6日、8日 野口温泉いきいきランドぽんぽ館となっています。食事は自由昼食、つまり持ち込み制です。バスは仙台北部の住宅地で乗降場所を多く設け、お客さんを乗せながら目的地に行きます。路線バスの延長みたいな感覚で乗っていけるのがウリでしょうか。このような企画はあまり聞いたことがないのですが、いずれも平日(火曜日と木曜日)に実施するとのことで、宮交(宮交観光サービス)としても実験的な企画なのかも知れません。旅行代金(入浴料を含む)の手軽さも打ち出しているのでしょうが、自分で車で行く人にとってはさほど魅力ではないでしょう。おそらく、リタイア世代夫婦や比較的高年齢の主婦層をメインターゲットに、自分で車で運転して出歩くほどではないし、夜に家を空ける(泊まる)ワケにも行かないが、仙台市内の健康センターだけじゃなくて、日頃行ったことのない県内外の温泉にも浸かってみたいワ、という潜在ニーズに着眼した... というところでしょうか。この企画がどれだけヒットするか、何となく気になります。さて、上記の県外の3温泉ですが、私はいずれも行ったことがありません。県外の日帰り温泉だと、天童の「ゆぽぽ」が何回か。それと大石田の「あったまりランド」です。野口温泉は、戸沢村のようです。酒田の行き帰りに国道47号で経由しただけの地ですが、あの目立つ「高麗館」から47号を分かれて北に入っていくようです。未踏の地にあこがれを抱く性分の私ですから、今度機会があれば行きたいです。
2007.01.16
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日曜は水泳競技大会があり、我が子も初参加。記録は自己ベスト(初参加だから当然)だが、順位は随分と下位。本人も目標をもって励むことの動機付けになったでしょう。大会では幾つか新記録も出ました。プログラムに出ている記録集を見ると、アテネのメダリスト森田智己の名が随所に出ています。背泳だけでなく、自由形、バタフライ、個人メドレーでも宮城県記録を持っています。やっぱりすごいですね。我が子の所属するチームにも何人か将来を期待されるホープがいるのだそうです。宮城のヤングパワーの熱気に圧倒された冬の日。「若い力」を唱いながら帰るオジサンでした。
2007.01.15
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面白い記事があった。1月11日の山形県の電力消費量は過去最大だという(毎日記事、山形新聞記事)。2875万kwhと言われても私には実感がないが、寒さで暖房需要が増えたためだそうだ。とは言っても気温の絶対値をみれば格段に寒いわけでもない。山形新聞の記事でも、珍現象とコメントされている。昨年1月24日の東北電力のプレスリリースに、日電力量の記録更新というニュースがある。管内7県の1日あたりの電力消費量が、平成18年1月23日(月)に、過去最高となる2億9,242万7千kwhを記録。これは、同年の1月19日(木)を上回る記録。その前の記録は平成17年8月5日(金)。この日は管内7都市の平均で、-3.4度と寒かった。そのため暖房設備が高稼働したためだろう、と出ている。この後に日電力量に関するリリースはないようだから、全域では昨年1月23日が最高、次いで1月19日、第3位は、平成17年8月5日。一日電力消費量は、夏と冬とで、良い勝負なようだ。山形県の場合も、第2位の記録は平成18年8月8日だそうだ。
2007.01.14
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五星亭さんのブログにもありました。仙台駅前青葉通りの角地のビルがスッポリなくなっています。私は朝の画像を撮ってみました。ここは仙台の顔と言っても過言ではない場所。どんなビルに生まれ変わるのでしょうか。■仙台百景画像散歩 以前の記事です。 ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2007.01.13
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妻やその母はすぐに乗っかるタイプだ。早速やっている。朝から納豆をかき混ぜて、食べている。店では品切れ続出とか。9歳の娘も小学校で話題になっていると話していた。いやはや、またコレだ。私はもともとfashion(一時的なはやり)や権威に冷淡な人間だ。納豆が体に良いかどうか実は知らないが、だいたい毎日食っている。なぜなら、オカズが少ないから。というと妻に申し訳ないから、習慣だから、と言おう。学生時代は白飯にインスタントラーメンに、更に納豆があれば豪華な食事。2週間で何キロやせる、というから妻のような行動をとる人が全国に出現しているのだ。納豆食ったって食わなくたって、心がけていればやせる。もっと言えば、やせるやせないより、健康を維持することが大事で、健康ならやせる必要もない。一生懸命納豆をかき混ぜて食って、他では平気でスナック菓子や饅頭を食っていたら、何にもならないだろう。まあ良いでしょう。自分が好きなのなら。成果志向ではなく、fashionに乗っている安心感覚が良いのだろうか。にがり水、寒天、きなこ、などなど何年に1度我が家にも到来するブーム。実は私がこれを書いているこの瞬間に、階下では音がする。かき混ぜているようですね。ご苦労様。ただ、オレが普通に食う納豆が回ってこないことだけが、困ります。
2007.01.13
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青森県東通村で、1月8日に風力発電の風車が倒れる事故があった。強風を活かす設備が強風で倒れるという、解りやすいような解りにくいような事件だ。(読売記事) 風速60メートルまで耐えうる設計とのことだが、原子力安全・保安院では基礎工事に問題があったとの見方だそうだ。東北電力のHPには何のリリースもコメントもない。風力発電は東北電力ではなく、専門の会社(ユーラスエナジー)が運営しているそうだ。この会社は世界規模で随分スケールの大きい組織のようだ。もちろんこの会社とは別の風力発電プロジェクトもあるはずだが、一体全体風力発電プロジェクトとはどういう構図なのだろうか。地域と電力会社と経済産業省と、どう関わっているのか。気になる。今朝は時間がないので後日勉強します。
2007.01.12
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9日(火曜日)の朝は仙台で今季初めて、うっすらの雪化粧だった。すぐにお日様が出て溶けたが、異常な暖冬のさなかだから何か新鮮な感じを受けた。小さい子どもの頃は単純に地図上で北ほど雪が多いと思っていた。やっぱり東北って雪国なんだ、と。しかし、当然だが単純に緯度の南北ではない。豪雪地域対策特別措置法に基づき指定される豪雪地帯は、全国の市町村数の3割を占める。東北6県で見ると青森、岩手、秋田、山形は全県域が指定されているが、宮城や福島は山間部だけだ。これに対して、新潟、福井、石川、富山、さらには鳥取県も、県の全域が豪雪地帯に指定されている(国土交通省資料)。太平洋側は冬は晴天が多い。東京や東海地方で、たまの降雪なのに事故が多いのも、そのためだろうか。そもそも太平洋側の雪は、毎日のように降る日本海側の雪とはメカニズムが全く違うのだそうだ。日本海側の雪は、北西から張り出したシベリア高気圧により、西高東低の気圧配置となって、大陸から冷たい季節風が日本海を渡ってやって来る。日本海は暖流の対馬海流により表面水温が高いから、季節風との温度差が海面の蒸発を促し雪雲を発達させる。この湿気を含んだ雲が季節風に乗って日本海沿岸に上陸し、山脈にぶつかり上昇すると、冷やされて大雪となるのである。これに対し、太平洋側には、雪を降らせた後の乾いた空っ風が山脈を越えて吹いてくるから、冬は乾燥する。雪が降るのは、シベリア気団のせいではなく、南岸低気圧による。シベリア気団が弱まる2月から3月に東シナ海から本州南岸にかけて発生する前線上の低気圧で、日本上空のジェット気流に流されて東北東に進む。すると北東方面の冷気が低気圧に向かって流れるために雪が降るのだ。低気圧がもたらすため、日本海側に比べて水分が多く重い雪になる。ジェット気流に乗った低気圧の移動は早いから、大雪も1日で止み晴天になる。そして太平洋側の大雪をもたらした低気圧が東の海上に抜けた後は、西高東低の気圧配置になるから、日本海側の大雪の一因ともなる。そんなわけで、日本海側と太平洋側が同時に大雪になることは少なく、どちらかが降っていればどちらかは晴天なのだ。(以上、参考:市川健夫監修『日本地図&地理をもっと楽しむ本』三笠書房、2002年)細長い列島なのに、その脊椎をなす山脈を隔てて、日本海側と太平洋側はかくも別の世界なのだ。それだけ山脈の存在は偉大だ。考えてみれば、我々現代人は、山の「高さ」を軽視しているのではないか。新幹線で2時間や3時間もすれば東北から東京にも水平移動できる。奥羽山脈もトンネルでスイスイ。仙台と山形の間も、古人の苦難など知るよしもない。カーナビもあれば、ネットで空からの映像も自由にのぞきこめる。世の中狭くなったと便利を謳歌しているが、実のところはせいぜい2次元の狭い料簡じゃないか。昔の人は地図もろくに見なかっただろう。それでも、地平の視点から山を仰ぎ見ては山を畏れ、山肌の色や雪解けを見て、夜の星を見て、風を感じて、季節を知っただろう。それは、地上の蟻のような視点かも知れないが、逆にそれだけに世界を立体的に、あるがままに理解しようと努めてきただろう。現代人は、山や空を見上げることが、実のところどれほどあるか。自然や地形を把握し支配し切ったつもりになっているが、半面、自然や地形を畏れ、理解することを忘れていないか。緯度の高低だけで北は雪国だ、なんて機械的な思考に陥っていないか。
2007.01.11
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最近、地域の歴史や文化など、ご当地通を認証する検定制度が登場している。東北では、秋田ふるさと検定(秋田商工会議所)、盛岡もの識り検定(盛岡商工会議所)に次いで、奥州学の検定試験がスタートするそうだ。運営主体はNPO法人の「奥州おもしろ学」。昨日(9日)朝のNHKラジオで聞いた。「奥州おもしろ学」理事長の佐藤秀昭さんは土井晩翠賞を受賞された奥州市の郷土史研究家で、執筆も多数。アテルイの顕彰などに努めてこられた(延歴八年の会 胆沢ダム通信の記事)。ところで、ご当地通の検定制度だが、京都や札幌で始まったのだそうだ(盛岡タイムス記事)。ご当地検定は今はやりのようで、全国のご当地検定を紹介する「御当地通」というサイトもある。地域検定振興協議会だそうだ。いやはや、随分とあちこちに地域検定がある。東北では、米沢なども出ている。検定制度そのものが地域振興につながるほか、商工会議所の収入にする意図もあるようだ。奥州おもしろ学の場合は、商工会議所主催とは異なると思うが、どういう形であれ、このような地域検定制度も1つの取組手法として面白いと思う。佐藤さんはラジオのインタビューでは、人との出会いが大事だ、と話しておられた。検定制度を通じて、人に出会い地域の理解を深めていく、検定が1つのキッカケということだと思う。あちこちで検定ブームだが、京都のように内外の受検者が多数ある場合とは自ずと事情が違うことも冷静に認識すべき。商工会議所がブームとばかり飛びついて、検定制度そのものの運営や収支に目を奪われると、本末転倒になる。検定も1つのアクションで、それを通じて何をめざすのか。水を差すようで申し訳ないが、昨年報道もされた秋田の「公式テキスト」の誤字脱字はいかにも醜態だった。会議所としては丸投げだからこそ実施できたのでしょうね、とも言いたくなる。感覚的なことで恐縮だが、商工会議所主催のものと、地元NPO手作りの動きとでは、早晩明暗が分かれるような気がする。
2007.01.10
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昨日(8日)のことです。天気の良い昼前に下の娘を引き連れて、餅つきをしました。とは言っても自宅でやったのではありません。手作りの伝統遊びを子どもと楽しもうと思っているのですが、先日の凧作りも、今回の餅つきも結局は住宅団地販売促進イベントにチャッカリ乗っかってしまいました。でも指導する方々はその専門ですから、考えようでは良い体験ができるワケです。わが娘も子供用の杵を持たせてもらってペッタン。その前には、炊きあがった餅米ご飯にごま塩をふって食べさせてもらった。あれがウマイんですね。何とも幸福な体験。杵は重かった、との感想でした。実演や指導して下さったのは、山形市の「大曽根餅つき保存会」だそうです。サイトをのぞくと、随分多方面に活躍しているようです。餅のお代わりをした上に、子どもじゃないのに志願して杵のつき方まで指導してもらった、あのオジサンは私です。会のみなさん大変ありがとうございました。納豆モチの納豆と醤油がうまかったので、納豆のパッケージをいただきました。やはり山形県の「中山納豆」です。醤油は保存会のオリジナル。販売もしていたので、思わず買ってしまいました。写真は、その醤油、納豆のパッケージ、それに帰りにおみやげにもらったモチのパック。帰宅したら、姉(上の子)と取り合うようにパクついていました。うまいです。■関連する過去の記事 ○凧揚げをする(07年1月7日)
2007.01.09
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みぞれ混じりの雨が明けて、朝日が差し込んできた朝8時。庭にヒヨドリ君がやって来ました。今年初めて撮影します。おっくうなのでチャッカリ家の中から撮りました。
2007.01.08
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いよいよ決勝の大舞台。東北勢では久しぶりだ。今朝の新聞では盛商優位とでた。もちろん優勝して欲しいが、自分たちの全てを出し切ってほしい。東北のみんなが応援してますよ。岩手のサッカーは長らく遠野と盛岡商業の県立2校が引っ張ってきた。昔々に遠野が準優勝したというが私も生まれる前の話。ラグビーの黒沢尻工の準優勝は記憶にあるが。岩手県民は全国放送で岩手代表の名がとどろくことに、ことのほか高揚感を持つ(と私は思います)。新日鉄釜石の連覇は心の誇りでした。だから、団塊の世代も、私の世代も、もっと若い世代も、岩手県民全体の悲願を背負っての舞台、という感じがする。こういうと重圧になってしまうかも知れないが、斎藤監督の下の選手達がむしろ十分わかっているだろう。もちろん選手達の実力でここまで来たのだ。気負いはなかろう。普段やってきた全てを出して欲しい。おだずまジャーナル編集局も総力を挙げて応援します。
2007.01.08
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午前中は子どもと凧揚げ。手作りの伝統遊びを子どもとやりたいと、思ってはいるものの、材料の用意が面倒だったり、実は知識も自信なかったり。で、実は昨日とある住宅団地のイベントのチラシ広告を見て、凧作り実演指導のコーナーがあるというので、強雨の中、親子で行ってきました。仙台凧の会の皆さんありがとうございました。昨日は結局雨で揚げられなかったので、今日は朝から娘は自慢のドラエもん凧を揚げたくてウズウズしています。ちょっと風が強すぎると思いましたが、決行。画像はその風景です。曇天の下に、ドラエモンが...よく見えないですね。もうすこし風が安定していれば高く飛ぶのですが、強弱がありすぎて、雨もパラついたので20分くらい遊んで帰宅しました。飛び去ってしまわないようにシッカリと糸を握っている娘が印象的でした。手作りの遊びって大事ですね。凧揚げもですが、コマ回しもやってみたいです。それと、餅つき、これも住宅販売イベントであるようで(自由参加)、安易な親ではありますが、連休中に時間があれば寄ってみます。
2007.01.07
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正月三が日の初詣での人出について新聞報道からまとめてみました。○青森(デーリー東北記事) 県警が警備に当たった県内の9神社仏閣の人出総数は、計64万6千人と前年を5万2千人も上回り、過去十年で最高(県警まとめ)。県警は「天候が良く、積雪もなかったため人出が増えたのだろう」としている。 (1)善知鳥神社(青森市) 17万人(前年度比1万人増) (2)櫛引八幡宮(八戸市) 15万人(同1万人増) (3)最勝院(弘前市) 8万人(同5千人増)○宮城(毎日記事) 県内62の神社・仏閣で150万6400人(県警まとめ)。前年比13万4900人増。3人に2人が出掛けた計算。 元日に参拝客が集中する傾向。県警は「元日の天気が良かったため、早めに初詣でを済ませた人が多かった。雪不足でスキーの代わりに初詣でへ出掛けた人もいたのでは」と分析している。 (1)塩釜神社 43万500人(前年比2万500人増)。 (2)竹駒神社 42万人(同2万9000人増) (3)大崎八幡宮 10万1000人(同8000人増)○山形(毎日記事) 前年を約9万8500人上回る約98万9000人(県警まとめ)。大雪の昨年とうって変わり、好天が続いたことが原因。 鶴岡市の荘内神社など庄内地方の寺社は昨年並みだったが、積雪が少ない山形市など村山地方の16の寺社は、軒並み増加。 (1)護国神社(山形市) 約14万人(昨年比約1万人増)。 (2)鳥海月山両所宮(山形市)約10万人(同比約1万5000人増) (3)亀岡文殊(高畠町) 約9万人(同比約1万8000人増)○福島(毎日記事) 暖かく過ごしやすい日が続いたため、初詣で客などが増えた。約109万2000人で、昨年より約3万3000人増加。 一方雪不足が懸念されたスキー場は、年末から山間部に雪が降ったため積雪量が増え、昨年より約2000人増加の約11万1000人が訪れた (1)開成山大神宮(郡山市) 約20万人(昨年同)。 (2)伊佐須美神社(会津美里町) 約18万1000人(昨年比約2万1000人増)岩手と秋田は探し出せませんでした。岩手で多いのは盛岡八幡宮と中尊寺だろう。多くても30万人くらいか。おそらく主催者発表を県警がまとめるのだろうが、マスコミに提供する慣例がないのでしょう。とは言え、全国の集計が出るから、警察庁には報告するのだろう(警察庁プレスリリース)。全国で9,795万人というのは随分多い。たしかに複数回る参拝者がいるだろうけど、大本営発表的なデータが積み上がるからだろう。一昔前のプロ野球の入場者発表みたい。さて、明治神宮の311万人を筆頭に、大宮氷川神社200万人までがベストテン。いずれも3大都市圏だ。わが東北のトップは伝統ある塩釜神社だろうが、全国的にはどの程度なのだろう。ざーっと見てみると(主に毎日記事)、福岡県では、太宰府天満宮201万人、宮地嶽神社105万人、宗像大社65万人、とさすがに多い。北海道は、北海道神宮(札幌市)78万800人だけが飛び抜けている。寒いしそもそも伝統ある寺社が少ないだろう。広島県は広島護国神社(広島市)59万人。新潟県のトップは弥彦神社(弥彦村)の約26万5000人。他に各県のトップを拾ってみると、奈良県は橿原神宮85万人、三重県は伊勢神宮59万8千人、善光寺40万人、出雲大社60万人、照国神社(鹿児島市)37万人、加藤神社(熊本市)37万人、笠間稲荷(茨城県笠間市)81万人、金刀比羅宮(香川県琴平町)が18万2000人、など。もう拾うのに疲れた。やっぱり、100万人を越える寺社仏閣を抱えるのは福岡県くらいだろう。寺社の伝統や風習(参拝に対する考え方)の違い、また気候要素も大きかろうが、それにしても人口集積の圧倒的違いだ。
2007.01.07
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日清食品の創業者の安藤百福さんがなくなったそうだ。昭和33年のチキンラーメン、46年のカップヌードルなど、即席ラーメンの生みの親。思えば私も、随分お世話になった。私の場合、学生時代は袋のインスタントめん、社会人になってからはカップ麺も併用。さすがに結婚後は少なくなったが、人生で相当食べている。学生時代は、白飯にラーメン、という生活をほとんど毎日やっていたな。日本人の1人あたり年間のインスタントラーメン消費量は、42.4食だそうだ((社)日本即席食品工業協会によるインスタントラーメン公式サイト)。世界では年間800億食。各国の需要をみると、中国・香港の激増ぶりはすごい。韓国は家庭の朝食に出ると聞くから、もっと多いかなと思ったが、米国よりも少ない。東北では、青森県の人が即席めんを好んでいるそうだ。 ○青森県のデータ解説 家計調査で青森市の消費量が全国第1位 ○青森銀行のレポート 同趣旨ナゼに青森なのでしょうか。
2007.01.06
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と言ってもTVや雑誌にデビューしたのではありません。今朝の新聞折り込みの広告を眺めていたら、NTT東日本の県内向けキャンペーンの広告で、フレッツ利用者の感想に娘のが出たのです。昨秋に親子でクイズに応募したら、何と2人とも当たって、エゴマと坊ちゃん石鹸をいただいたのですが、その時娘がハガキに直筆で書いたコメントです。あらためまして、NTTさんありがとう。エゴマは、納豆やスープに入れて健康生活していますよ。2日ほど前に、コーヒーに入れて2杯飲んでみましたが、これはイマイチでした。我が子のデビューは、自治体のパンフレット、広報紙、それに河北新報の記事(ある表彰を受けた時の写真)などもありましたが、今回もこの広告を保存しておこうと思うバカ親です。皆さん、マダの方はフレッツに入りましょ~う。おっと、今回もプレゼントクイズに応募するので、当選倍率が上がらないように、こっそり言うんだった...■関連する過去の記事 ○大当たり!(06年12月01日)
2007.01.06
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東北開発と合わせた東北の鉄道建設は、中央政府の強力な推進と各県政界の熱意であるが、地元の民間人にも鉄道の意義をいち早く察知して尽力した人たちがいた。その1人が大河原の尾形安平(初代)である。日本鉄道会社の東北本線建設に際して難点だった株金募集にさいして、尾形安平は率先して仙南の素封家に株応募を勧め、佐藤源三郎(大河原)、竹川重右衛門(同)、渡辺佐吉(白石)、飯淵七三(船岡)などが応じた。また越河桑折間の県境の急勾配(25分の1)に対して、阿武隈川沿いの角田ルートを主張する者があったため、白石-大河原-船岡の路線をいかに実現させるか、に尽力した。鉄道が町の興亡に関わることを理解していたのだ。安平は、明治11年に私財を投じて白石川に橋を架設し(尾形橋)、対岸(本町)を通っていた東北国道を今の尾形町に移した。また当時は桑畑や河原だった尾形町を買収したが、これは後年鉄道が開通することを計算に入れての事である。株募集の3年前、大河原駅設置の8年前の時点である。その上で地元の協力を説いて回った。ルート問題についても、沿線予定地の有力者に株を引き受けさせ、予定地を買収している安平は積極的に動いた。駅敷地と道路を寄付するなどして、明治20年の開通を迎える。これに対して角田側は、自分は城下町で宿場町に過ぎない大河原には負けないと威張るばかりで、江尻(阿武隈川)の難所工事や用地買収にも無関心でいた。大河原は明治23年に町制を敷いたが、仙南の道路網の要衝ともなり、その後の町勢は発展した。尾形安平の功労は多大である。なお、岩切以北について海岸線を主張する説があったのを、利府の素封家の佐々木仁兵衛が先手を打って私有地を停車場に寄付したのも、同様の功労である。■参考 岡田益吉『東北開発夜話・続』金港堂出版、1977年■関連する過去の日記 ○山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) ○山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日) ○仙台駅のはなし・続(06年7月11日) ○仙台駅のはなし(06年7月10日) ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2007.01.05
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新年とともに新市の本宮市が誕生。さっそくホームページを訪れてみました。業務開始前のためか内容は簡素ですが、初々しいですね。福島県内で13番目の市で、面積、人口(31,746人)ともに最小。しかし、平成の大合併の波が一段落した後の「合併新法」(平成17年施行)による合併(新設)としては、全国初。輝かしい(福島民報記事)。総務省の合併情報によると、今後の合併予定(告示済み)としては、新設では岡山県みやま市、京都府木津川市。福島県は前知事の方針なども影響しただろうが、数の点では平成の大合併はさほど進まなかった(90→60)。東北では、青森40、宮城36、岩手と山形が35、最も合併の進んだ秋田は25市町村である。ちなみに、100以上の市町村を35にしたお隣り新潟県も、すごい。それでも福島県下も、田村市、伊達市などの新市を生んだし、原町(南相馬市)、白河、喜多方なども合併が行われた。新参だけどニュータイプの本宮市。小粒だけどピリリと、頑張れ本宮市!!
2007.01.04
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〔前回の続きです〕4 奥羽本線略史奥羽線は明治25年公布の鉄道敷設法の第一期路線として採用された。湯沢を境に、青森から奥羽北線、福島から奥羽南線として、それぞれ建設。北線は27年に青森弘前開通、秋田まで開通が35年10月、湯沢まで開通が38年7月。これにより弘前は津軽の中心として、廃藩置県で衰微した情勢を回復したという。また、木材と鉱物の輸送港である能代は秋から春まで風浪のため舟が出入りできなかったため、鉄道で大いに繁栄した。東京では紀州や尾州の木材を秋田材が駆逐したという。山形念願の鉄道である奥羽南線は明治27年着手、32年5月に米沢まで開通、34年に山形まで開通、湯沢まで全通は明治38年で、東北線に14年遅れている。福島米沢間40キロは特に地形が急峻で、板谷トンネル1603メートルに1年を要し、スイッチバック停車場4カ所を設けた。鉄道開通により米沢では、鷹山公伝統の米沢織の運送で大いに利益を得た。対照的に、秋田織も明治になって隆盛し東北線の黒沢尻(北上)まで峠越えの駄送していたが、奥羽線が開通して運賃が10分の1になったのに、米沢織の発展に圧倒されて衰退してしまった。また、山形県内の蚕糸業も鉄道で大いに発展した。もっとも従来地元の製糸家だけだったのが、鉄道により、他県の製糸業者が買い漁って価格高騰や優秀な女工を争奪されるなどの影響も出たという。奥羽本線に長年月を要したのは、帝国議会で事業年度を数字に渡って繰り延べたためである。しかし、日露戦争(明治37年)の軍事費需要による繰り延べでとうとう工事が中止した際には、地元の請願を受け、戦争中にかかわらず全通にこぎ着けた。5 新潟を結ぶ連絡路問題東北線、奥羽線が開通すると、今度は、新潟を結ぶ交通路が絡んで複雑なルート案が展開される。明治25年の鉄道敷設法公布の際は、北越線と奥羽線の連絡線は、新発田-米沢、もしくは新津-若松-白河(または本宮)などとされ、ハッキリしていなかった。明治25年11月には、地元有志が「奥羽・北越連絡鉄道線路修正趣意書」で、新津-若松-今市(日光線連絡)を主張し、更には野岩越鉄道会社なる名で線路調査報告書を公表した。若松白河間の山脈を回避するものだが、東京と新潟を結ぶルートとして、直江津線(信越線)より100キロほど距離が近いことを主張した(清水トンネル=上越線がなかった)。これに対して新潟市からは新津-若松-白河(本宮)の岩越線を第一期とするよう請願がなされ、政府は岩越線を私設会社に許可し、28年鉄道敷設法を改正して羽越線(新発田-米沢)を岩越線とは明確に区別した予定線と定めた。以上の路線問題は新潟と東京をいかに短く結ぶかにあたが、東京でも「新潟鉄道」(188キロ)を発起し、郡山-若松-新津-新潟の請願(26年)、また、郡山-新津-関屋の「岩越鉄道」(169キロ)の請願(27年)、さらに、野岩鉄道、東北中央鉄道、会津鉄道など多くの私鉄出願もなされた。背景には日本鉄道(東北本線)の営業成績が良かったことと、政府に確固たるルート案がなかったからだという。6 岩越線(磐越西線)岩越線は私設の岩越鉄道会社(27年の請願を許可)によって行われ、明治32年若松、37年には喜多方まで開通した。喜多方が坂下と競争して勝ったという。喜多方-新津間は鉄道国有法施行後政府によって建設され、大正3年全通。今日の磐越西線である。岩越線の開通で、会津の柿が販路を開拓し県外に輸送を増やした。また会津焼や会津塗も産額を増やした。例えば、会津塗は鉄道開通前は猪苗代湖の舟運を経て白河から奥羽街道で東京まで10日以上を要したのが、一挙に短縮されて、産出額を数倍に伸ばしている。7 山形県の横断線敷設の熱意福島県が念願の横断線である磐越線(郡山-平間の磐越東線は大正6年10月全通)を開通させると、いよいよ山形県でも宿望である横断線の実現が望まれた。特に唯一の港である酒田が鉄道から取り残されたことに大きな不満を持っていた。明治20年に米沢-酒田間、次いで酒田-新庄間の鉄道建設の免許を得たが、いずれも期限切れで失効。現在の陸羽東線は45年に新庄と小牛田双方から着手し大正6年に全通。陸羽西線は44年に着工し、大正3年に新庄-酒田間が完成。なお、小牛田から石巻まで(石巻線)は大正元年に実現(仙北軽便鉄道)、石巻のカマボコが一躍全国に売れた。時の馬淵山形県知事は、政友会の多数を背景に、酒田新庄線をタネにして庄内の有力者を政友会に入党させて問題になったというが、とにかく酒田を中心とした鉄道網は山形の悲願であった。鉄道が支線建設の段階にはいると、山形県の鉄道建設熱は続き、大正元年には県会議長高橋勝兵衛が政府に意見書を提出、長年抗争してきた政友会と非政友会が合同して鉄道問題を解決しようとしたほどである。村山、置賜、庄内の3平野は人口も密集し産業も進展し、山辺、長崎、寒河江、左沢などは既に町制を敷いているが、何らの交通機関がない。県の熱意によって、長井線18キロ(大正3年)、左沢線24キロ(大正8年)だけがやっと実現。県会としては、軽便でも良いから他に何本か熱望していた。 ○ 寒河江から奥羽線神町または天童 ○ 左沢から荒砥を経て長井に連絡 ○ 鶴岡から大島鉱山さらに、秋田に至る羽越海岸線と、米沢-坂町の羽越横断線の速成も念願である。上山から七ケ宿を経て白石に出る上白線実現も建議している。山に囲まれた山形県がいかに鉄道に活路を見いだそうとしていたか、その熱意が伺われる。鶴岡出身の文人高山樗牛は、東北に人物が出ないのは交通の貧困による、と交通の充実を唱えた(東北の遺利、明治32年)。羽越本線は、新潟県側から北上、山形県では陸羽西線を南北にのばし、秋田からは秋田市から海岸を南下させる形で工事を進め、大正13年全通する。明治25年の鉄道敷設法公布の際に北越線と奥羽線を結ぶ羽越連絡線とされた「新発田-米沢」間の路線に由来する米坂線は、昭和11年にやっと全通した。■参考 岡田益吉『東北開発夜話・続』金港堂出版、1977年 ほか
2007.01.03
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1 東北本線鉄道建設略史明治の東北開発に交通の発展が不可欠であり、鉄道敷設が急務となった。当時の交通機関は馬車や人力車の乗継ぎで、東京から福島町まで4日掛かったとの記録がある。奥羽方面への鉄道敷設は、明治5年5月に高島嘉右衛門が東京青森間の鉄道を建議。次いで、同年11月に岩倉具視が、京浜鉄道開通の報に接して、ロンドンから三条太政大臣宛に東北鉄道敷設の意見を提出している。明治新政府の東北開発の熱意が伺える。明治11年に岩倉は前田(旧加賀藩)、松平(旧越前藩)らの華族に働きかけて、北陸地方に鉄道敷設を企画したが、募集資本が集まらず失敗してしまう(明治17年11月)。未だ日本人には鉄道が理解しにくかった。岩倉は明治2年に東京横浜間の鉄道建設を決定するが(明治5年開通)、将来東西の都を連絡する幹線として諸藩割拠の弊風を一掃する狙いもあった。北陸鉄道を勧めたのは、凶作に際して米の速やかな輸送を図ることが理由だったとされる。政府では岩倉が、民間では高島が、それぞれ華族に鉄道建設を説いて回る形になる。その後、明治14年1月安場保和らが岩倉に鉄道建設の必要を説き、宿望達成をめざす岩倉も賛成し、東北鉄道建設の動きが活発化して、明治14年、東京青森間の鉄道建設の特許が下り、日本鉄道株式会社が成立した。形は民営だが一切の工事は政府(井上勝)が行っており、実際には半官半民の国策会社である。まず東京高崎間の鉄道を開通させ、次いで大宮から東北本線に着手。宇都宮まで18年7月落成。なお利根川鉄橋は19年6月落成。黒磯まで開通19年1月。白河・郡山まで開通20年7月。仙台・塩釜まで開通20年12月。岩切一関間開通23年4月。盛岡まで開通23年11月。青森までの720キロの全通は24年9月。満9年を要した。なお、我が国最初の鉄道は明治5年の新橋横浜間だが、その次とされる京都大津間の全線開通の直前、明治13年2月に釜石鉄道(17.9キロ)が完成している。鉱山の専用鉄道なのだが、明治15年からは一般旅客にも利用された。しかし、明治16年に大阪の鉄道に資材を転用するために売却してしまう。2 山形県のルート変更運動東京青森間の鉄道については、政府は明治6年から下調査でルートを検討していた(小野友五郎、ボイル、クロフォルドなど)。東北開発と併せて関心が高かったようで、安積疎水や野蒜築港などを視野に入れて、福島・仙台を経由して青森に至るルートを考えていた。これに対して山形県から鉄道建設の運動が起こる。明治18年、東北本線が宇都宮まで開通した頃、宮島家久(米沢)、駒林広運(鶴岡)、重野謙次郎(山形)が発起人となって山形県鉄道会社案を起こす。東北線を福島から分岐させ、米沢を経て酒田に至る鉄道を建設するという案である。県下各郡に株金負担を割り当てるなど、全県総動員で運動した。明治18年10月の折田県令の意見書は、東北本線の支線ではなく本線自体を福島から山形・秋田へ変更せよとするものであった。いわば、東北本線ルートの争奪戦である。政府は19年1月に、折田県令の建議を却下、そのうち工事は福島仙台間の着工に至る。そこで山形県は、今度は仙台から関山峠を越えて山形に達する路線計画を立て、県費で関山トンネル開削費を議決までした。しかしこの第2案も、井上鉄道局長と奈良原社長が実地検分の結果、関山峠の鉄道は不可能だと結論づける。20年には第3の計画として、佐藤里治らが山形鉄道会社を創立、白石から高畠、赤湯を経て大石田に至る124キロの新線を企画して、請願した。山形県側の熱烈な運動に対して、岩手県が反応する。山形・秋田にルートが変わっては県の興廃に関わると、県会では満場一致で石井県令に建議。石井県令は早速財界人を伴い上京して、伊藤首相等に既定方針通りのルートを陳情する。山形、秋田の陳情に先んじたので、伊藤首相は、山形、秋田、福島の3県令を呼び、ルートは変更できないとキッパリ言い渡した。従来酒田港を中心とした西回りの海運が栄えていたのが、明治になり蒸気船が通ると、寒風沢や石巻が栄えた。そして、東北本線の開通により、石巻から塩釜・仙台に繁栄が移った。北上川の舟運から鉄道による陸運に転換したのである。3 山形県民の粘り上述の白石から大石田の路線をあくまで実現すべく、青森、秋田、山形の有志が東京で運動し、明治22年に仮免許状を獲得する。しかし、実測の結果、白石高畠間は山間のため実現不可能とされ、結局、明治18年以来の5年越しの奥羽線実現工作は失敗する。その後、赤湯大石田間だけの仮免状も受けたが失敗。政府の山形県の粘りに動かされ、明治23年、奥羽線について、福島から山形秋田を経由して青森に至るルートなど3路線を実地調査。その結果、いずれも営業路線にはならないと結論した。そして、鉄道国有化の流れもあって、明治25年度から10カ年計画で、官営鉄道として奥羽線(仙台経由の右線に対して左線とも呼ばれた)の建設決定を見る。なお、政府案は新庄から院内を越えて秋田に至るから、取り残された酒田がおさまらず、26年の県会で、奥羽線と平行して羽越線を建設する建議が可決された。■参考 岡田益吉『東北開発夜話・続』金港堂出版、1977年
2007.01.02
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皆さん新年おめでとうございます。2007年も皆様に良い1年で有りますよう。おだずまジャーナルも創立3年目を迎えます。初心?に返って素直な東北人の心で勉強を続けたいと思っております。私は普通に早寝早起きした後、朝は合宿に出発する上の娘を集合場所まで送りました。9歳ですが、家族を離れて寝泊まりするのは初めて、しかも1週間!も。我が娘は今回初参加。本人も内心不安はあるようですが、皆と一緒に行動したい気持ちが先立っているようです。秋からチームに加入したのですが、あまり社交的な方ではないと思われ、まだ完全に一員になりきれない面もあるようで、お姉さん方や同級の友達から声を掛けられて交流が始まった、という感じ。合宿も初めてなので、何を持って行くか、どんなカバンにするか、などなど親に聞いてきます。そんなの友達に聞け、と言ってやりますが、聞きにくいのでしょうか。それでも、最近は毎日の練習の帰りに、家から電話し合ったりして、徐々に友達付き合いも深まったようです。朝の集合途中にコンビニでおにぎりなどを買っていたら、チームのお姉さんもいて、元気にあいさつされたのですが、わが娘はボソボソ。緊張しているのかな?、などと言われましたが、かなり当たっています。それでも、バスに乗り込んだら、横の友達に話しかけられたりしていました。発車してしばらくしたら緊張もほぐれるでしょう。窓の外から見えた横顔は、親としてはまだ七五三をやった5歳の時と同じですが、随分と中身は大人になったはずですから、親元を離れての初の外泊の1週間、大丈夫でしょう。親の役割も変わってくるものです。子どもの成長は常に未知の世界を切り開きますが、親も地味ながら、それに応じて常に新しい役割のページを開いていくのですな。緊張で笑顔のないわが娘を乗せたバスが発車するとき、私は内心勝手に感慨深い思いを感じていました。妻の実家で親戚も来て昼食のあと、一年の無事を祈念に行きませんか、と声を掛けたものの皆コタツに入ったままで誰も乗ってこない。初売りには熱心なのに。それでは、と自分だけで、伝統ある神社に車で向かいましたが、路上駐車の列にウンザリして、何とも信心浅いことにその神社は引き返して、自宅に最も近い小さな神社で、娘の合宿が無事で楽しいものになるようお祈りをしました。温かくて穏やかな正月です。私はこれから岩手県の自分の実家に帰ります。ちなみに、娘の合宿地は仙台から実家までの、更にその倍の距離。今頃はもう宿に着いて、荷物おろして休んでいるかな。どうしても娘が気になる親でした。
2007.01.01
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