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■嵐の活動休止■のニュースがテレビの画面に流れた時は、「うそっ!!」と思った。でも、本当だったのだ・・・。■嵐のメンバー櫻井翔クンパパが都知事に立候補するかも■という時は、勝手に妄想した。その櫻井家でのある日の会話・・・(妄想で敬称略)櫻井パパ(以後パパ):翔、ちょっと話があるんだけど、時間大丈夫か?翔くん(以後翔):2時間後に迎えがくるけど、それまでなら大丈夫だよパパ。パパ:実は・・・。東京都知事選に出ないかと言われているんだ。翔:やっぱり・・・。で、返事したの?パパ:でも、私が都知事選に出たりしたら、翔の仕事にひびくと思って・・・。翔:うーん、そりゃあ、無関係とは言えないけど・・・。 でも、僕がジャニーズに入って、それも勝手にだよ、 それで、パパも仕事上、苦労したんでしょう・・・。パパ:ああ、あの時はね・・・(苦笑)・・・。翔:だから、今回、パパが都知事に出馬しても、僕はかまわないよ。パパ:そう・・・。もう一度、ゆっくり考えてみるよ。翔:そうして・・・(ニコリ)。 じゃあ、僕、仕事の支度するね。パパ:そう、がんばって。翔:パパもね(ニコリ)でも、パパ、そうなると、パパの身に「嵐」が・・・。(笑)パパ:(笑) これは、あくまで妄想です。 松本潤が道明寺を演じた「花より男子(だんご)」もずーっと見ていた。ドラマの中で繰り広げられる、「道明寺ボケ」は、面白かった。■道明寺ボケ1■道明寺:冗談じゃねえよ!あの女にはシナがねえんだよシナが 。F4の三人:シナ?もしかして 品(ひん)って言いたい? 道明寺品:?品川のシナだぞ馬鹿!F4の三人:漢字には訓読みと音読みがあるんだよ 。道明寺:じゃあ何だよ、お前らあれ『ひんがわ』って読むと思ってんの? 二宮和也のツッコミは、島田紳助もほめていた。いっぱい、いっぱい嵐の思い出があることにびっくりしている。思い出ずっと ずっと忘れない・・・。 思い出ずっと ずっと忘れない空 ふたりが離れていってもこんな好きな人に 出逢う季節二度とない光ってもっと最高のLady きっとそっと想い届く信じることがすべて明けない夜はないよ信じることがすべて Love so sweet■嵐■≪Love so sweet 歌詞より抜粋≫■2019年1月見た映画■*日の名残り*グリンチ*チャンス*ライ麦畑の反逆児*この道■書き残したネタ■*中ノ島堀割*M1グランプリ*ローラの発言*コインランドリー「フレディ・レック・ウォッシュサロン」*暖房ネタ*プラスティックごみ。*白樺のかご*天蓋ベッド*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.31
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■この道■♪音が出ます!!そうか、トンデモない人だったんだなぁ!九州柳川から文学を志し上京した北原白秋(大森南朋)は、隣家の美人妻・俊子(松本若菜)に気もそぞろ。逢瀬を俊子の夫に見つかり姦通罪で入獄されてしまう。白秋の才能を眠らすまいと与謝野鉄幹(松重豊)・晶子(羽田美智子)夫妻が奔走。白秋は釈放されるが、恩も顧みずのうのうと俊子と結婚する。だが俊子は家出、白秋は入水自殺を図るが蟹に足を噛まれ断念する。そんななか、日本の子供たちに日本人による“童謡”を創ろうと決起した鈴木三重吉(柳沢慎吾)は奇抜な詩で名を馳せていた白秋と、ドイツ留学を経て日本で初めて交響楽団を結成した音楽家・山田耕作(AKIRA)に童謡創作の白羽の矢を立てる。当初は才能がぶつかり反目する二人だったが、大正12年、関東大震災の惨状を前に打ちひしがれた子供たちを元気づけるため、手を取り合い数々の童謡を発表。しかし、戦争の暗雲が垂れ込めるなか、子供たちを戦場に送り出す軍歌を創るよう命じられた二人は苦悩の淵に立つのだった……。●雨降り●ゆりかごのうた●砂山●からたちの花●この道●ペチカ●あわて床屋●待ちぼうけ●城ヶ島の雨●ちゃっきり節と、北原白秋の歌は、どの歌をとっても知っている歌ばかり。だが、●伏見軍令部総長宮を讃え奉る●皇太子さまお生まれなつた●万歳ヒットラー・ユーゲント●ハワイ大海戦●マレー攻略戦●愛国行進曲●皇軍行進曲●海道東征と戦時下の歌も多く作っていた。■映画メモ■●白秋の知人、知人は有名人ばかり。与謝野鉄幹、与謝野晶子夫婦や石川啄木、室生犀星、鈴木三重吉、山田耕作・・・。綺羅星のごとき詩人や芸術家が白秋のまわりにいた。●白秋は、バツ2。■作曲家の山田耕作。■白秋の詩も、山田耕作の曲がいいからより一層よくなるのだが、多作だ。 ●しかし、戦時下では、戦争を美化する曲を多く作った。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発論争が起き、収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。●1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学。子どもの頃には苦学したという。知らなかった。●山田耕作の家のピアノの上には■ライ麦畑の反逆児■や■サルトルとヴォーヴォワール■で見た緑色のランプが置いてあった。時代に先端のデザインだったのか・・・。■柳川の北原白秋記念館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.29
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■ライ麦畑の反逆児■♪音が出ます!!孤独のなかで 言葉があふれ出す・・・。1939年、ニューヨーク。20歳のジェリーことジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(ニコラス・ホルト)は、大学中退を繰り返していた。父は家業の食品輸入業を継がせようとするが、ジュリーは反発し、コロンビア大学の創作文芸コースを受講。そこでは文芸誌『ストーリー』の編集長でもあるウィット・バーネット教授(ケヴィン・スペイシー)が己の“声”を物語にすることの重要さを説いており、ジェリーは生涯をかけて物語を語る覚悟を問われる。そして完成させた短編『若者たち』が『ストーリー』に採用され、作家としての踏み出していった。そんな時、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ(ゾーイ・ドゥイッチ)と出会い、一目で惹かれたジュリーは奔放なウーナに振り回されながらマンハッタンの社交界に出入りして恋愛を楽しんでいく。 世界的ベストセラーとなった「ライ麦畑でつかまえて」の作者、J.D.サリンジャーの知られざる半生に迫る人間ドラマ。作家を目指す青年が、戦争での地獄のような体験を経て、初長編小説を完成させるまでが描かれる。 サリンジャーは、どこにでもいる普通の青年に思えた。学校も中退を繰り返すし、家の家業も継がずフラフラしているように思える。物書きを目指すも不採用が続く。もし、サリンジャーが普通の家の子だったら小説家になろうなんて思いは、夢で、すぐ働いただろう。しかし彼の家は、彼を自由にさせるだけの経済力があった。 ウーナという女性と知り合って付き合うのだが、彼女の父が、ノーベル賞作家、恋人がJ.D.サリンジャーなのだ。サリンジャーが戦争に行くと結婚。相手は、チャップリン!!親子以上も年の離れたチャップリンと18歳のウーナが結婚したのを知ったのは新聞だったというから驚く。 彼女の裏切りともいえるチャップリンとの結婚や戦地での恐ろしい経験が彼を人嫌いにしたのかもしれないと思う。コロンビア大学の緑色のランプがきれいだった。2011年友人と見た■サルトルとヴォーヴォワール。■冒頭の大学の図書館のシーンの本棚と灯り(緑色)が美しかったのでよく覚えているが、同じものだった。当時の流行だろうか。■ライ麦畑で出会ったら■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.28
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今から60年以上前の岡山県の田舎で私は子供時代を過ごした。当時は、どの家も貧乏で農家をしていた村人が食べるのは、自分の家で作った野菜を中心にしたものだった。そんな中で、少しのクジラ肉とたっぷりの水菜に醤油、みりんの代わりのほんの少しの砂糖で焚く■「クジラと水菜のたいたん」■は冬のご馳走だった。それともうひとつ、「煮ぐい」というご馳走があった。「煮ぐい」は、サバなどの魚と冬野菜のなべだ。肉の代わりに安いサバを、そしてその中に、白菜など野菜を入れて醤油で味をつけて炊く。 畳の上に、板を乗せ、七輪を置着き鍋を置いて炊きながら食べる。サバの出汁で野菜が美味しい。部屋の中も温かくなりし、「煮ぐい」は冬のご馳走だった。 「煮ぐい」には、もう一つのお楽しみがあった。それは翌朝。マイナス近くまで冷えた気温は、そのまま家の中を冷やす。すると昨夜の鍋の残った汁が凍り醤油味のする■煮こごり■になっている。熱々のご飯の上に煮凝りとなった出汁を乗せて、大人も子どもも大喜びで食べた。いつ頃からだったか、煮ぐいは、「水炊き」になってポン酢で食べるようになったのは・・・。熱々のご飯の上に煮凝りとなった出汁を乗せて大喜びで食べていたのも私の世代で終わった。子どもたちは、「煮ぐい」も「煮こごり」も知らない。■煮凝(にこごり)やちちははの世が透けてゐる■ 山田弘子・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.26
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■チャンス■運がよければワシントンの古い邸の主人が、ある朝突然死んだ。後に残された中年庭師のチャンス(ピーター・セラーズ)は、数十年間一歩も外に出たことがなく、読み書きもできず、ひたすら庭いじりとTVを観る楽しみだけで生きてきた。管財人に邸の外に追い出されたチャンスは、見るも聞くも初めての街の様子に気をとられ、高級車と接触してしまう。車に乗っていた貴婦人イヴ(シャーリー・マクレーン)は、チャンスを自宅に招いて手当することになるのだが―。 本作でアカデミー賞主演男優賞候補になったが『クレイマー、クレイマー』のダスティン・ホフマンに敗れた。1980年7月、公開1年後に、54才の若さで亡くなったことが惜しまれる。 知的障害があって読み書きもできないでテレビばかり見ている庭師のチャンス。そのために雇われていることも記録としてなく、この世にいないことになっていた。物腰の柔らかな紳士に見えるために、貴婦人イヴとその夫は、チャンスを事業に失敗して家財を失った実業家であると早合点。チャンスの単なる庭の手入れや植物の生長の話を「経営者は庭師みたいなものだ」と「経済畑」の話と曲解し、不況下にある米国を立て直す暗喩であると考えて大統領・経済人に彼を紹介する 愚者が山から下り教師となって、エンディングではツァラトゥストラに則り超人となってしまという話を下敷きにしているという。■ツァラトゥストラはかく語りき:二ーチェ■●チャンスは湖水の上を歩いて(水上を歩く奇跡を行ったというイエス・キリストの引用)。●チャンスが家を出てワシントンに向かうシーンでは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』(1896年)をアレンジした曲が流れる。 など、知る人が見れが「!!!」となることがいっぱいあったらしいが、私は「ツァラトゥストラ・・・」をはじめキリスト教など、元を全く知らないので言われてみて納得した。■午前十時の映画祭9:2018■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.24
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出す、出さないで迷っていた年賀状の基準を今年の正月から決めた。出す基準は、★一年以内に連絡を取り合った人。会ったり、会えなくても、誘いを受けた人。年賀状だけの付き合いを辞めた。上の基準にあっていなくても、年賀状が来た場合は、即、出した。使ったハガキも年賀状用のものではなく、普通のものに10円と2円の切手を貼って出した。「私は老前整理をしています。ですから、このハガキで失礼します。」というメッセージを添えて・・・。これで処分できたもの。「50円ハガキ、10円切手、2円切手」「老前整理」高齢になればなるほど気力や体力が衰え、片付けはおっくうになります。老いる前に身辺を見直して、今後の生活にいらないものを整理し、快適な老後を送りませんか。あなたがこれからどういう自分になりたいのか、どういう生き方をしたいのかを考え、必要な物を自分で決め、不要な物はそぎ落とす。片付けられず、あふれるモノに囲まれて暮らしている人のための新しい整理術、生き方指南書。一年に一度しか使わないけど、正月用の食器は処分できない。■正月の食器を仕舞う。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.23
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七詩さんのブログに■「しゅっとした」という言葉■というのがあったので、私の記憶を記録としてここに書いておく。 >最近「しゅっとした」という言葉を聞く。 一説によれば関西弁ともいわれるが、関西でも昔は使われなかったともいう。関西では、私の住んでいる所ではよく使われていた。しかし、テレビで聞いたのは、2007年以降。 2006年にM-1グランプリに優勝して一躍全国区になった■暴走するイケメン漫才師「チュートリアル」徳井義実。■テレビで「徳井君なんか、よく、イケメンって言われるやろ」という司会者に徳井「はい、よく言われますよ。『しゅっとしてるな』って。(^-^*) 」これが私がテレビで聞いた「しゅっとしている」のはじめてだった。いや、関西限定のお笑いなどでは、よく使われていたと思うが意識したのがこの時がはじめて。その時、私は「しゅっとしてる」って( ̄m ̄*)ぷっ。。と思った。関西人は、擬音をよく使うがこれもその一つだと思っている。♪「この道ブワーッと行って、グワーッと曲がって、でっかいビル、ボワーン立ってるからその角シュッと曲がんねん」(ウルフルズ「大阪ストラット」より)■ウルフルズ - 大阪ストラット■♪音が出ます!! また、最近テレビで、「酒の肴」のことを「あて」というのを聞く。この「あて」について今から40年くらい前だったと思うが藤本義一氏が次のような内容で書いていた。***東京で酒を飲みに入った。テーブルに座って「あて、なに?」と聞くと店員はキョトンとしていた。***40年前は関西人以外誰も知らなかったが、「あて」も市民権を得ている。■酒のあて■■「あて」はもともとは関西の方言だったのである。■私の周りでも「あて」と言う人は最近増えているのだが、千葉県出身の私はまったくと言っていいほど使うことはない。「さかな」か「つまみ」である。 関西方面ではけっこう古くから酒の肴のことを「あて」と言っていたらしく、『日本国語大辞典(『日国』)』では、『大坂繁花風土記(おおさかはんかふどき)』(1814年)の「酒の肴を、あて」という例を引用している。■どや顔■も関西以外では聞かなかったけれど、最近は関西人以外からも普通に聞く。元々は関西芸人の間で使われていた言葉が、2010年頃から全国的に広まったとされている。松本人志、東野幸治、明石家さんまなど複数の関西芸人による初出の説があるが、どれが発祥かは不明である。 「どうだ!いいだろうという顔」が「どや顔」と短くなるので使われるわけだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.22
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「先生のお庭番」朝井まかて【内容情報】(「BOOK」データベースより) 出島に薬草園を造りたい。依頼を受けた長崎の植木商「京屋」の職人たちは、異国の雰囲気に怖じ気づき、十五歳の熊吉を行かせた。依頼主は阿蘭陀から来た医師しぼると先生。医術を日本に伝えるため自前で薬草を用意する先生に魅せられた熊吉は、失敗を繰り返しながらも園丁として成長していく。四季折々の草花に魅入られたシーボルトは、熊吉に日本の自然の豊かさについて説き、どこの国でも同じだと思っていた熊吉は驚かされる。「草花を母国へ運びたい」先生の意志に熊吉は知恵をしぼるが、思わぬ事件に巻き込まれていく。土と草花を通して人のぬくもりを描いた、感動の職人小説にして成長小説。 シーボルトといえば、高名な医者と思っていたが、いろんな顔があったようだ。まず、植物に詳しいこと。 アジサイに「オタクサ」という名前をつけたことは有名だが、植物を愛する様子がよく分かった。それに、オランダ人だとばかり思っていたが、なんとドイツ人だった!!他にもいろいろ面白かったがメモしておく。出島の中で、「おるそん」という名前の黒人少年がバドミントンをする場面があった。●オランダの船は年に一回やってきた。そうなると長崎は「蘭船(らんせん)が来(こ)らした」と言っては呑み、「帰(かい)らした」と言ってはまた呑んで騒ぐ。●オランダからの荷物を「本方荷」という。砂糖、生糸、毛織物、更紗、薬種など。これとは別の取り寄せは、「脇荷」といった。●オランダ人は、三年に一度の江戸参府と年に一度の祭り以外は、出島から出てはいけない。シーボルトだけは、外出を許されていて、忙しくしていた。●出島は四千坪ほどの島。オランダは、日本に年に店賃として銀五十五貫目(約一億円)を払った。シーボルトを通して日本を見ることによって、当時のヨーロッパと日本の比較が面白かった。●ヨーロッパでは日本のように誰でもが読み書き出来ない。職人も商人も等しく読み書きでき、算術もできる国は日本の他にない。*私は、ヨーロッパの方がアルファベットだから字を覚えるのは簡単だと思うのだが・・・。そこで思ったのが、当時の文献や学術的なものは、ラテン語を使っていたのではないか・・。調べたりやはりそうだった。■(ラテン語)は■読書き主体の文献言語や学術用語として近世のヨーロッパまで発展・存続した。●「引札(ひきふだ)」という今でいう通信販売のようなものが当時あった。今でいうパンフレットを見て植木を注文するという。お金を送っても植木は来ないのではないかというシーボルト。しかし、日本人の園丁、熊吉は、疑わない。立派な植木が届くと、シーボルトは感心して言う。「(この通信販売は)商人だけが優れていても成り立たない。草木を育て出荷する職人、運ぶ人足、その値打ちを分かって金を出す客・・・。そのうちの誰が欠けても、この仕組みは成り立たぬ。どこまで奥が深かとだろう、この国は」シーボルトは長崎弁で、大いに感心した。 アジサイにまつわる話も沢山出てくる。昨年、イギリスに行ったが、アジサイは沢山見た。しかし、あれらの花は全て、シーボルトが持ち帰って増やしたものなのだろうか・・・。 「シーボルト事件」というのも知らなかったのでびっくり。それについても詳しく書かれている。昨年10月に長崎の出島に行ったので余計に興味深く読んだ。ここに使った写真は、2018年10月15日に写したもの。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.21
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正月に食べるめでたい魚は、上方では鰤(ぶり)であった。暮れに買ってきた塩鰤(ぶり)を天井からぶら下げて、元日から身を削いで食す。最後に残ったあらで出汁を取って粕汁を作り、それが奉公人にも振舞われる。この鰤(ぶり)に匹敵するのが、江戸では鮭。だからこそ、澪は、鰤(ぶり)の代わりに鮭を使おうと思ったのだ。「みをつくし料理帖:八朔の雪:ほっこり酒粕汁」 江戸時代、粕汁は、上方のもので、江戸では食べなかったそうだ。私は、粕汁が大好物だが、家人は、それほど好きではない。下の娘など帰ってきても、粕汁というと、食べない。でも、月に2回は作る。 今年の正月に、この小説を再読して、粕汁が食べたくなった。4日には、さっそく粕汁を作った。 20日は正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。この日をもって正月の行事は終了する。 京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月とも言う。骨まで使う料理ってエコ。他にも「みをつくし料理帖:八朔の雪」では、江戸のリサイクルやエコな暮らしが描かれている。●漉(す)き返し紙今でいう、リサイクルペーパー。●出汁をとった煮干し。出汁をとった煮干しで亭主の晩酌用に一品作る。●サツマイモの皮。イモはもちろんだが、皮を厚めに剥いてきんぴらを作る。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.20
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エンブレムは白紙撤回に始まり、2520億円もの巨額の総工費に批判が集まり、計画はいったん白紙になった新国立競技場。きわめつけは、東京オリンピックの誘致に関連した収賄容疑でJOCの竹田会長が訴追されるかもしれないという。■おそらく、日本人の多くはオリンピックをやらないでほしいと思っていると思いますね。■はっきり言って税金の無駄遣いです。消費税がまた上がろうとしている最中、ごたごた続きで、組織を変えても また、同じことがおきます。有名人をたくさん起用していますが、たぶんまた失敗します。すべての責任は、最高責任者が安保法制に現を抜かしていたことになるわけで、安部さんがなんら責任を取らないこともおかしいと思いますね。国民をなめていることの証拠です。どれだけ国民を馬鹿にし、税金を無駄にしたら阿部さんは気が済むのか、ただのお詫びだけで済まそうとする(略)・・・。だが、悲しいことに、国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任な国民は、騙されても、騙されても、自民党を支持し続ける。■「街場の五輪論」■(略)無言の同調圧力を私は五輪招致という論件についても感じる。「そんなことを言っても、いまさら始まらない」という無力感と世論の中で孤立して無用のバッシングを浴びたくないという恐怖心が、五輪問題についての「そんな話、オレは知らんよ」というシニカルな態度を導き出しているということはないのだろうか。(略)正直言って、私たちは「五輪なんかどうだっていい」と思っている。でも、「だから黙っている」という選択肢はどうも許されないような言論状況であるので、この本(「街場の五輪論」)を作ることになった。だから、この本について言えば、そこで語られていることよりも、「こういうことを語る人がこの三人の他にあまりいない」という言論状況そのものの方が問題なのだ。「語られているコンテンツ」より「そのようなことが語られることに対して抑圧が働いている」という事実の方が重いということである。日本は、言論の自由があるなんて、嘘だと思う。すでに、■2017年9月に、こんな記事がある。■■東京の五輪招致については、■シンガポールのブラック・タイディングスという怪しげなペーパーカンパニー(テレビが取材に行ったが、ボロい団地の一室であり、看板もなく、無人だった)にコンサルタント料が振り込まれたことが国会で問題になった。この送金の事実を明らかにしたのは、国際陸連の汚職と資金洗浄を調査していたフランスの検察局である。 国会でも問題にされたが、当時の馳浩文部科学相は「招致委員会は電通からブラック・タイディングス社が実績があるからと勧められ、招致員会が契約することを決定した」と語っている。ブラックタイディングス社の「実績」というのはペーパーカンパニーを経由しての資金洗浄と買収のことである。 支払いは2013年7月と10月の二度にわたって行われたが、これは開催地決定の前後に当たる。誰が見ても「手付金」と「成功報酬」としてしか解釈できない。 国会での答弁では、二度にわけた理由を問われて「金がなくて一度に全額払うことができなかった」とされているが、実際には招致委員会は資金潤沢であり、この説明にはまったく説得力がなかったが、日本のメディアは深追いせず、これを放置した。文科省、招致委員会、電通・・・五輪招致をめぐって、これから忌まわしい事実が次々と暴露されるだろうけれど、それらを解明するのが「海外の司法機関」であり、それを伝えるのが「海外のメディア」であるということに私は日本の社会制度がほんとうに土台から腐ってきていることを実感するのである。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.19
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■グリンチ■このあと、どんどんひねくれる。つぶらな瞳が愛らしい超キュートな幼少期を過ごしながらも、すっかりひねくれた大人に成長したグリンチ。今では洞窟の中で暮らし、愛犬マックスの献身的な振る舞いにもぶっきらぼうな対応。さらには、山麓の村人たちにいじわるをして楽しむという“超”がつくほどのひねくれ者に。不機嫌で孤独なグリンチはやがて、とんでもない計画を立てる。村のみんなが大好きな“クリスマス”を盗もうというのだ。小さい頃はあれほど可愛かったグリンチに、大人になるまでの間、一体何があったのか……?そして、彼のとんでもない計画の行方は……? この映画の見どころは、フーの村の雪景色とクリスマスの様子。鮮やかな色使いとクリスマスのデコレーションでわくわくする。グリンチがおかしな道具(機械?)を使ってクリスマスを盗みに行くのも、笑う。犬のマックスも可愛いし、大人でも十分に楽しめる。 子供時代に、楽しいクリスマスを過ごしたら、クリスマスが好きになるはず。皆が楽しそうにしている時、ひとり寂しいクリスマスを過ごしたら、みんなが楽しそうな分だけ、寂しさが募るものだ。「グリンチ」に込められたテーマは、案外深いのかも。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.18
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(▲■江戸時代に起こった地震の碑文。■)命を守るために、これだけはというポイントをまとめたのが、「命を守る1.2.3」だ。いつかやってくる巨大地震津波に備えて、生死の分かれ目となる大切な3つの数字がある。「1.2.3」とは、1メートル、2時間、3階のこと。■1メートルとは、津波の浸水の高さを示す。1メートルで生存率ゼロが、東日本大震災の被害調査をもとに内閣府が公表した命の教訓だ。水深1メートルなら泳いで逃げられると思うのは危険すぎる誤解。津波の深さが30センチでも大人が立つことが難しく、転倒すれば瓦礫まじりの濁流に流される。津波が来る前に避難することが鉄則だ。■2時間とは、地震の発生から大阪市内に津波が到達するまでの時間。2時間もあると思ってはいけない。その時すぐに逃げられる状況とは限らない。非常時には交通も遮断され、道が人であふれて、ふだんは5分で移動でき場所へ1時間かけても行けないかもしれない。出来る限り早く、安全な場所へ移動すること。(*安政南海地震(1854年12月24日)では、地震を感じて家の一部が損壊し、人々は家の下敷きになるのを恐れて、船に乗って難を逃れようとしたが、地震の2時間後、津波が襲ってきて、船は転覆し、橋は落ち、地震で人は死ななかったが、津波で350人が死んだ。)■3階とは、大阪市で予想される最大に津波が届かないビルの階数をさす。フリーペーパー「月刊島民」2018.3.1より■月刊島民■とは、大阪市北区中之島の島内及び周辺の話題を、毎月提供している月刊誌のフリーペーパーである。副タイトルは橋を渡る人の「街事情」マガジンである。(▲クライストチャーチの写真。2016年1月撮影。)●逃げる時、ガラスなどを踏まないため寝室に、スリッパを置いている。●寝室の家具を少なく、低いものにしたい。今のままだと、危ない。■震災と木造校舎■2011.1.17■竹の仮設住宅■2009.1.17■公務員の通勤手段■2007.1.17■阪神大震災からなにを学んだのか。■2005.1.17■南海地震が起きると■2004.1.17■丸い鯛の目■2003.1.17写真はすべて■クライストチャーチ大地震■の爪痕。クライストチャーチにて、2016年1月撮影。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.17
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■日の名残り■このまま、何も言わずに愛し続けたい。1958年。オックスフォードにある英国貴族ダーリントン卿(ジェームズ・フォックス)の邸は、卿が亡くなった後、米国の名士ルイス(クリストファー・リーヴ)の手に渡っていた。かつて政府要人や外交使節で賑わった邸だが、使用人たちは去り、老執事スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)だけがルイスに仕えていた。ある日、女中頭だったミス・ケントン(エマ・トンプソン)から手紙をもらったスティーヴンスは、彼女の元を訪ねることに―。 1989年、世界的な文学賞・ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの同名小説の映画化。ある侯爵に仕える執事スティーヴンスは、共に屋敷で働く勝気な女性ケントンと対立を繰り返していたが、二人の心には互いへの思慕が芽生えていた。だがある日、ケントンに結婚話が持ち上がり、スティーヴンスは激しく動揺する―。ロンドン在住の原作者カズオ・イシグロは、1954年、長崎生まれの日系イギリス人。1989年、35才で「日の名残り」がブッカー賞を受賞し、イギリスを代表する作家に。4年後の映画化もアカデミー作品賞以下8部門にノミネートされ、高く評価された。昨年2017年にはノーベル文学賞を受賞し、一際大きな注目を集めた。 監督は、ジェイムズ・アイヴォリー。 ジェイムズ・アイヴォリーは、「ハワーズエンド」や「眺めのいい部屋」などイギリスの上流社会を描いて有名だ。日系人のカズオ・イシグロにしても、アメリカ人のアイヴォリー監督にしても、イギリスに生れていないし、その時代を生きていないのに、なぜ、このような作品が生まれるのか・・・。 それの答えが、「細雪」の解説を読んでいて、納得した。■細雪解説■(略)私自身は震災前の大川端の江戸時代の名残も知らないし、大正時代の長堀川の景色も知らない。けれども、それを失ってしまったという取り返しのつかない欠落感については、幸子とも谷崎とも、私はそれを共有することができる。「懐かしいもの」を所有していたときの充足感は彼らとは共有できないが、「懐かしいもの」が失われて、もう二度と戻ってこないという深い欠落感なら、私も彼らと共有することができる。■舞台は2018年6月に行ったところ■「ああ、あそこ!!」と思い出しながら見た。■ダーリントン卿の屋敷の外観として登場するディラム・パークの邸宅は、■この映画の美しさを強調するかのように印象的な存在感を醸し出しています。 世界遺産の街バースから車でほんの20分程で着く、グロスターシャー南部の丘陵地帯に建造された17世紀のバロク式建築物です。約274エーカーの広大な領地には鹿が放たれ、敷地の入り口に当たる丘の上から望む邸宅の姿は、まるで印象派の絵のように美しい構図となっています。その憂愁に満ちた光景は、アンソニー・ホプキンス扮する執事スティーブンの人生をだぶらせているかのようです。入り口から邸宅までは園内専用のバスがありますが、歩いていくことも可能です。■午前十時の映画祭9:2018■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.16
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棄霊島(きれいじま)(下)光彦は、長崎・軍艦島の生まれである教師の篠原雅子とともに、御前崎で元刑事の後口が殺された事件を探るうち、島で不審死した神主が、「大切なもの」を娘に託したことを知る。30年前の夜、島では何が起こったのか……。そして、誰もが口をつぐむ過去の真相とは? 光彦の前に、最大の「巨悪」が姿を現す。 浅見光彦シリーズの棄霊島(きれいじま)(下)を「上」に続き読んだ。■「棄霊島(きれいじま)(上)」■では、長崎県・五島列島に行くフェリーで知り合った元刑事の後口が殺され浅見が例によって事件に巻き込まれるという話。母親と警察のえらいさんのお兄さんの設定もテレビで知っているとおり。「下」では、終戦直後などの日本が無政府状態だったころの事が出てくる。広島、長崎では原爆が投下された。空襲で役所が壊滅的な街も日本中で多かった。そんな中では、偽物の戸籍も簡単に作れたらしい。在日朝鮮人が元からの日本人だと言って戸籍をとることも可能性としてはある。ところで、読んでいて、素朴な疑問が湧いてきた。浅見光彦は、33歳ということになっている。最初、スタートした時は、何歳だったんだろう。33歳からスタートしたんだろうか?それとも、20代からだったのだろうか?「軍艦島のグロテスクな、それでいてどこか哀愁の漂う佇まいは、日本の負の時代のあったことを伝える語り部のような、毅然とした存在感がある。」と最後にあるが、この物語が軍艦島のような重い内容のものだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.14
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■西横堀川(にしよこぼりがわ)は、■かつて大阪府大阪市を流れていた運河。 土佐堀川の■錦橋■上流側より分流し、南に向かって流れて■道頓堀川■に注いでいた。長さは約2.5km。中央区と西区の境界で、埋立後の跡地は阪神高速1号環状線(北行き)の高架と大阪市西横堀駐車場に利用されている。(▲金屋橋から見た、残っている西横堀川。)現在は道頓堀川から北に分流し、金屋橋を少し越えた部分だけが残存し、ここから土佐堀川への合流部まで埋め立てられている。▲埋められた川の跡は、高速道路が走っている。西横堀川は、土佐堀川の肥後橋の北まで流れていた。(▲金屋橋から見た道頓堀川を行く船。)■西横堀川に架かっていた橋■上流から 西国橋 - 土佐堀通船町橋尼ヶ崎橋筋違橋呉服橋京町橋新天満橋相生橋敷津橋信濃橋 - 本町通江達橋 - 中央大通篠橋 - 中央大通新渡辺橋助右衛門橋新町橋上繋橋 - 長堀通下繋橋御池橋清水橋木綿橋現存する橋■金屋橋 - 最下流■西横堀川とその橋の跡を歩く■■川の痕跡巡り■■西横堀川の痕跡と金屋橋■■難波新川の名残り■■天満堀川跡と太平橋■■梅田入堀川跡と出入り橋■■廃川跡を行く■■古代の運河 古市大溝■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.12
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棄霊島(きれいじま)(上):浅見光彦シリーズ浅見光彦は「旅と歴史」の依頼で、長崎県五島列島へ教会堂の取材に行くことになった。飛行機嫌いの浅見がフェリーで九州へ向かっていると、船中で元刑事の後口と出会い意気投合する。彼は浅見を案内しながら、軍艦島で起きた未解決の連続変死事件について語る。だが、後口は娘が住むという長野県へと向かう途中で、静岡県御前崎の海岸で遺体となって発見された。現地で浅見は、後口と意外な人物との接点に気づいたのだがー。テレビではよく見る「浅見光彦シリーズ」。浅見は、取材で長崎の五島列島に行くフェリーの中で、元刑事と知り合い、五島列島を案内してもらう。その元刑事が死に、真っ先に、浅見が疑われるという、テレビでもよく見るパターンだ。昨年10月に行った■長崎県の軍艦島■が舞台だったので興味を持った。飛行機嫌いの浅見は五島列島に行くのに、九州までフェリーで行く。東京から新門司までの航路もあるが33時間かかる。車で4時間かけて直江津まで行き、そこから博多というコースは21時間だそうだ。ちなみに、私たちは■名門大洋フェリーで■大阪から新門司まで12時間だった。長崎の活水女学院がモデルと思われえる学校が出てくる。「石畳のオランダ坂を登って、高台の街を少し行ったところに、長崎K女学院がある。いかにもカトリック系のミッションスクールらしい、いかめしい門の奥に、蔦の絡まるレンガ壁の校舎がひっそりと佇んでいる。」「戦時中、アメリカの潜水艦が軍艦と誤認して、魚雷を発射したという「伝説」が残っているそうだが、シルエットは確かに「軍艦島」と呼ばれるのにふさわしい。見る角度によって空母にも戦艦にも見える。」(▲宮古島)五島列島で「島の主要な産業は何ですか?」と聞く浅見。「現在、五島の主要な産業は、道路」と答える元刑事。これといった産業に恵まれない島の住民の生活は、離島振興法などによって投下される中央からの交付金や補助金で成り立っているというのである。」(▲宮古島) なるほど・・・。■昨年12月に行った宮古島■で人口の少ない島にも関わらず、立派な橋が架かっているのがうなずける。下巻に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.11
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今年の5月から新元号に変わる。元号の良し悪しは、この際おいておいて、なぜ5月からなのか・・・。学校の新学期も4月から、会社や官公庁の始まりも4月から。となれば4月からの方が影響が少なかったのではないかと思う。■元号の存在感薄れる?「西暦の方が便利」■大学の入学願書の様式を調べて見ると、京都大、同志社大、立命館大、京都産業大とも西暦限定。皇室ゆかりの学習院大でさえ現在は西暦しか受け付けず、担当者は「増加する留学生に対応するため」。国際化で元号の使用頻度が低下する実態が垣間見えた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.09
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■渡辺橋の名称は■古代から中世の文献にも見られるが、当時は現在の橋とは異なる位置にあったとされ、古代~中世文献における渡辺橋の正確な位置もはっきりしない。 現在の地に橋が最初に架けられたのは江戸時代で、堂島開発の一環として架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうちの1つである。渡辺橋の名称は、古代大阪の渡辺津(上町台地の北端あたりに比定される説が有力)からとられたとされている。 現在の橋は、地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策の2つの理由により、1966年に架け替えられたものである。1991年には歩道部の改装がおこなわれた。(▲1966年の親柱)2003年に橋面と高欄部の改修が行われたが、その際、1966年に架けられた当時の親柱が橋の南詰東側に保存された。肥後橋と合わせた顕彰碑も同じ場所に設置されている。 「渡辺」は渡しのほとりを意味し、大阪の古地形から上町台地の北端部あたりを指したものと考えられる。平安時代にはこの水陸の結節点に勢力を張った渡辺党という武士団があった。江戸時代になり、堂島開発にともなって渡辺橋はほぼ現在の位置に架けられた。江戸期には大江橋と渡辺橋の間の堂島の浜は、堂島米会所を中心として米仲買人の家が立ち並び、米の街といってもよいほどの盛況であった。(▲肥後橋と渡辺橋のデザインは、今も昔も一緒。)■堂島米市場跡碑■江戸時代米の取引きは、当初蔵屋敷の連なる土佐堀川沿岸の、北浜の路上で行われていた。これを開いたのが豪商淀屋の2代目个庵(こあん)といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。その後、交通妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興もあって、当地に移された(元禄 10年、1697)。この移転は、淀屋の幕府によるとりつぶしの関係も考えられるが、いずれにしても公認のものではなく、米商人の自主的取引きであった。その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、享保(きょうほう)15年(1730)公認の帳合米市場が発足し、ここでの相場が全国の基準となった。幕府崩壊と共に、明治2年(1869年)に明治政府により廃止された。それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収されている。その後、明治4年(1871年)に「堂島米会所」として復活。明治6年(1873年)に油取引を加えて「堂島米油会所」となったが、明治9年(1876年)に油取引を分離して「堂島米商会所」となり、明治26年(1893年)に「大阪堂島米穀取引所」へと発展した。大正7年(1918年)には過剰投機により米騒動を引き起こした。昭和14年(1939年)に米穀配給統制法による日本米穀株式会社に吸収されて幕を閉じた。 北区堂島浜-丁目3中之島ガーデンフリツジ北東詰■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■ 渡辺橋田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.08
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(▲大江橋と堂島川。)中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)、下流が安治川と呼ばれる。(▲大川から堂島川と土佐堀川に分かれるところ。)(▲左・堂島川、右・土佐堀川)中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が■土佐堀川(とさぼりがわ)■と呼ばれる。堂島川はかつて■大江橋■の直前で堂島の北側へ■曽根崎川■を分岐していた。また、1878年(明治11年)には田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて■梅田入堀川(堂島堀割川)■が開削された。しかし、曽根崎川は梅田入堀川より上流部が1909年(明治42年)の「北の大火」(天満焼け)で生じた瓦礫の廃棄場所になって埋め立てられ、1923年(大正14年)には下流部も埋め立てられた。梅田入堀川も1967年(昭和42年)には全て埋め立てられ、阪神高速11号池田線やオオサカガーデンシティの一部に利用されている。■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■鉾流橋(ほこながしばし)■■水晶橋■本来は汚水排出用につくられたダム。■大江橋■ 日の目を見なかった第二案■中之島ガーデンブリッジ■渡辺橋田蓑橋(たみのばし)玉江橋堂島大橋上船津橋船津橋■土佐堀川に架かる橋■■天満橋■洪水で流失、耐久願い鉄橋に■天神橋■江戸時代にだんじり崩落事故。■難波橋(なにわばし)■ライオン橋 ■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋■湊橋(みなとばし)■ - 新なにわ筋の橋■端建蔵橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.07
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■2018年の沖縄本島に行ったとき■添乗員氏いわく。 「沖縄言葉には【あいうえお】のうちの【えお】がないんです。」それを聞いて、なるほどと思った。■そして、先月行った宮古島でも■「お」が「う」読みになっているのを見つけた。 「飲(ぬ)んつかー乗(ぬぅ)らん」 (飲んだら乗らない。) ■島言葉(くとぅば)■「沖縄方言の母音変化」で、母音の『お(O)』は『う(U)』に変化し、『え(E)』は『い(I)』に変化します。『お』は、地域によっては、『う』になったり『うぃ』になったりします。■「宮古(ミヤコ)」という地名は、■元は「ミヤク」であったと考えられている。 今年もいろんな方言に出会いたいな・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.05
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Windows95からSNSまで!時代を駆け抜けたネットの歴史をひも解く!■平成ネット史(仮)■前編:1月2日(水)[Eテレ]後11:30~深夜0:30後編:1月3日(木)[Eテレ]後11:00~深夜0:00再放送1月12日(土)【前編】午後2時〜3時【後編】午後3時〜4時前編は、ネットで“つながった”PC、そして日本独自のネットカルチャーを、当時の映像や一世をふうびした人物のインタビューとともに見ていきます。 前編を見た。この時代は、私もリアルタイムで知っているので興味深かった。私のネット史をメモしておこう。 ■1995年■この年の11月に「Windows95」が発売された。その夜のことを私は鮮明に覚えている。友人の家でこたつに入りながらテレビで大騒ぎしているのを見ていたのだ。友人は、その時すでに、「マック」を持っていて「『Windows95』の持っている能力は、私の持っている「マック」はすでにもっているのよ」と言っていた。ニュースステーションでは、久米宏が、「コンピューターとは」といってワープロと比較して説明していた。■1997年■会社で仕事に使い始めた。マウスを持つのも初めてなので、「マック」の友人に頼んで教えてもらった。以後、エクセルなども彼女に教えてもらった。この時期、うちもパソコンを買った。ものすごく高かったが、仕事のためと割り切った。その他に、当時、市民運動の「通信」を月に一回郵送していたので、その「通信」作りのために使っていた。 ■おしゃれ手紙■は、当時、通信に使った文章だ。ワープロとしてのパソコンの方をよく使った。そのため、字体には、こだわり抜いて、字体ソフトを買って使った。「3.5インチ」に保存して使用。ネットにつないだのは、いつか忘れたが、2000年前までだと思う。番組を見て、ダイヤル回線の音に、一気に懐かしさでいっぱいになった。 ■2000年■会社で、「2000年問題」の対策をしてと言われて、困った。これまでは、1995年だと「95年」と表記されていたが、2000年だとどうなるか・・・案の定、当日は、トラブったが、システム会社に電話して、対応してもらった。この頃は、たぶん、夫もネットを始めたと思う。ネットにつなぐことが出来るのは、一台なので、回線の取り合いになった。当時高かったパソコンを2台も持つのは、贅沢なのだろう。普段は、けちけち暮らす我が家も、パソコンには、お金をかけているのは、今も変わらない。パソコンの線に足を引っかけ、転んでストーブの角でわき腹を打って肋骨が折れたこともあった・・・。 ■2002年■ブログが本格的に始まった年だと番組を見て知った。私は、当時、ブログはよく読んでいたので、■2002年6月■から参加。しかし、当時は楽天ではなく「ライコス」。 ■ライコス■古参ネットユーザーには懐かしいライコスブランドは、複雑な経緯をたどってきた。発祥となる米Lycosは1994年に設立。1998年には住友商事などが出資する「(旧)ライコスジャパン」が設立され、国内でポータルサイトを展開した。同サイトは2002年に楽天の傘下に入り、2003年、同じく楽天傘下のインフォシークに統合される。その後、国内でのライコスブランドは休眠状態となった。 私って、古参ネットユーザーなのか・・・。そこでライコスから楽天に移動したのが、2003年8月あたり。■引っ越し準備:昔の名前で出ています。■あれから15年以上たつので、ライコスの人は、みんなバラバラに。当時からの知り合いで、楽天にいるのは、■七詩さん■だけになった。*「欲張りマイキット」*というサイトも歳時記関係だけを残そうとして、◎日本ちょっと昔話◎を作ったが、「欲張りマイキット」は、数年後になくなった。その後、いつの間にか、PCは薄くなった。繋がるのも早くなって、長時間使っても金額が変わらない設定になっている。(昔は時間の設定があった。)■2012年■(2011年だったかも)ipadを購入。よく友人とスカイプをした。これ以降は海外にはipad持って、夫は、ノートパソコンを持って、行く。■2015年■ipadミニを購入。■2019年■ケイタイは、今もガラケーだ。最近、BBSとかキリ番とかキリ番を踏んだら記念カキコとか聞かないわ・・・。死語なのか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.04
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■島守■中勘助これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。(略)簑笠(みのかさ)をつけた本陣に船頭をたのんでひどい吹きぶりのなかを島へわたった。これから私の住居となる家は年に一度の祭礼に遠方からくる神官の泊るために建てたもので、羽目板はめいたはところどころずり落ち雨戸もまだついていないゆえほんの雨つゆのしのぎになるばかり、夏が過ぎればすぐ冬になるならいの山国の湖のなかにただひとつ浮いて出たようなこの島をめがけて周囲の山やまからおしよせてくる寒さをこの都人に防いでくれるほどの用にも立たない。 世を捨て、島にひとり住む私に、「本陣」という屋号の男がなにくれと世話を焼いてくれる。本陣が鉈(なた)と鋸に豆板、頼んでおいた鰹節と池田さんからことづかった香煎をもってきて 餅は焼いてばかりたべずに雑煮にするがいいといって大きなひね茄子を二つ袂から出した。両手にあまるほど肥えて石みたいに堅い。麹が少いからまずかろうけれどと小さな瓶から味噌を。そしてまな板がわりに拾ってきた板のうえへ鉈で鰹節をかいてくれたが私は雑煮は今度のことにして餅を焼いてたべる。かようにしてこの侘住居には不相応な珍味のかずかずがそなわった。玉子も笊に十ほど、葱が一本、はぜもろこしも残っている。今やこのソロモンの富を得た島守はこれらのものをどういう順序に腹のなかへしまい込もうかについてすくなからず苦労をする。 この物語は、中勘助が1911年と1912年に野尻湖に浮かぶ弁天島にこもった時の日記がもとになっているという。 中勘助の代表作に「銀の匙」があるが、1912年に野尻湖畔の農家にこもって書いたという。この作品も同じ頃のものだろう。■雨蕭蕭■永井荷風同じ本に収められているのが、永井荷風の「雨蕭蕭」。「雨蕭蕭」の中には、漢詩が出てくるわ、フランス語の詩が出てくるわ・・・。日本の近代化に反発し、江戸の昔を憧憬した荷風。彼が愛したのは、「ひとり歩き」と「ひとり暮らし」。都市生活者のライフスタイルを先取りしていた荷風。荷風の作品を読んだのは、はじめてだが、趣味人であり、教養人だと知っていた。主人公には、成金ではなく、金持ちの友人がいるが、彼との手紙のやり取りは、全て候文。本の中に道楽は若い時に女。中年に芸事。老いては普請、庭つくり。とあり、この友人は、全てやっているようだ。荷風も普請、庭つくりは、どうか分からないが、花柳界に入りびたって、二度の離婚歴があるので、若い時は道楽をしたようだ。■寺田寅彦■●この本を読むときは、難しい感じや旧仮名遣いに大変だと思いながら読んだ。読後、今どきの軽いものを読もうとして、物足りなさを感じ読むのをやめた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.03
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■サザンカ(山茶花)は、■ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹。童謡『たきび』の歌詞に登場することでもよく知られる。 漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。 街を歩いていると、けっこうな確率で、木が何かに食い込んでそのまま育っているのを見かける。先日も、自転車で通っていたら、サザンカが塀に食い込んでいるのを発見!!塀が悪いのではないけれど、なんかサザンカが可哀そう・・・。山茶花の樹相めでたし寒天にきらめく諸葉白き花ばな, 窪田空穂■サザンカと椿の違い■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.02
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(▲■イギリス・ワイト島:ヴィクトリア女王の離宮・オズボーンハウスのイノシシ■)あけましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いします。 今年の干支は、イノシシ。そこで、イノシシの語源を調べたら以下のとおり。■イノシシの語源■古い大和言葉では「ヰ(イ)」と呼んだ。イノシシは「ヰ(猪)のシシ(肉)」が語源であり、シシは大和言葉で「肉」を意味する(「ニク」は音読みの呉音)。 そういえば、「ふとりじし」という言葉を読んだことがあった。「肉付きのいい」とか、「太っている」という意味だったんだな・・・。(▲■九州・志賀島で見イノシシの掘り返したあと。■)■イヌ年ですから:昭和の子ども茶碗■2017年■とり年ですから:鳥の形の籠■2016年■器歳時記:馬の絵の湯のみ■2014年■謹賀新年!兎ネタ■2011年・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.01.01
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