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*これがまあ初景色かと能登のなえ はるな*元旦や能登半島に大なえ来(く) はるな*正月や能登に救助の朱の衣 はるな●(1月の句会出席者の句)●*避難所に成人の日や加賀友禅*屠蘇ゆれて地震(ない)は北陸能登とやら*太き地震(なえ)満ち潮迫る元旦夜*青天の霹靂新年を埋め尽くす*元旦に茅の輪の向こう能登嵐*年頭の傷む惨事の恐ろしさ 2024年がスタートしてまだ24時間もたっていない時に、能登に大地震がおきた。1月の句会でも沢山、地震の句がよまれていたのでメモしておく。ちなみに俳句では地震を「なえ」や「ない」と表す。■2024年1月見た映画■*窓ぎわのトットちゃん■動画:【トットちゃん】高畑勲の魂を継ぎ、感動ポルノを殴りに行った傑作です。■*ウォンカとチョコレート工場のはじまり*ショコラ*枯れ葉*カラオケ行こ!*ビヨンド・ユートピア 脱北*バベットの晩餐会*PERFECT DAYS■書き残したネタ■*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*M12023について。*淀殿について*長堀川と橋*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.31
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●古語では、食用になる海藻のことを「め」という。古代では、暖地で採れる若布(わかめ)、荒布(あらめ)、海松布(あらめ)ぐらいが食用海藻で、 北方の海でとれる昆布は、日常のものではなかった。江戸時代の海運が、昆布を、上方の暮らしのなかで常にあるものにした。 はじめは、昆布とよばれるよりも、もっとロマンチックなよばれ方をした。「えびすめ」とよばれた。 アイヌたちが採取する海藻という意味で、いまでも、大阪の塩昆布の商品名として、えびすめということばがつかわれている。(略) えびすめの名がついた塩昆布は、芸術的にまで加工されて、いまでは大阪みやげの一つになっている。北のまほろば:街道をゆく41:司馬遼太郎「えびすめ」は、大阪に本社のある株式会社小倉屋山本(おぐらや やまもと)の商品。創業は嘉永元年(1848年)の老舗。「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至っている。作家の山崎豊子は3代目山本利助の実妹にあたる。作家・山崎豊子は、船場のとうさんで、船場をテーマにした作品を沢山書いている。北海道には、「昆布盛(こんぶもり)」という駅がある。駅名の由来は、アイヌ語の「コㇺプモイ(kompu-moy)」(昆布・湾)に由来する。2024年元旦に放送されていた「孤独のグルメ」で房総半島で採れる海藻「カジメ」を使ったカジメ汁というのが出ていた。主人公・井之頭五郎(松重豊)が美味しそうに「カジメ汁」を飲みながら「(カジメが)ちょいネバ、ちょいネバだ。いいネバネバだ、ネバダ州、ラスベガス」と心の中で駄洒落を言いながら食べていた。((´∀`))ケラケラ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.29
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■PERFECT DAYS■こんなふうに生きていけたなら東京渋谷の公衆トイレの清掃員、平山(役所広司)は押上の古いアパートで一人暮らしている。その日々はきわめて規則正しく、同じことの繰り返しのなかに身を置いているように見えた。ルーティンは孤独を遠ざけるものかもしれない。けれど男のそれはどこか違ってみえた。夜が明ける前に近所の老女が掃除する竹ぼうきの音が響く。それが聞こえると男はすっと目をあける。少しのあいだ天井をみつめる。おもむろに起きあがると薄い布団を畳み、歯を磨き、髭を整え、清掃のユニフォームに身をつつむ。車のキーと小銭とガラケーをいつものようにポケットにしまい部屋をでるドイツの名匠ヴィム・ヴェンダースと日本を代表する俳優 役所広司の美しきセッション。フィクションの存在をドキュメントのように追う。ドキュメントとフィクションを極めたヴェンダースにしか到達できない映画が生まれた。カンヌ国際映画祭では、ヴェンダースの最高傑作との呼び声も高く世界80ヵ国の配給が決定。ドイツ人監督の作品だけに、外人の目線はこうなんだろうなと思うところがいっぱい出てきた。★竹帚での朝の道路掃除。早朝、竹帚で道路をはく音。外人からすれば、竹箒は珍しく、何より公共の道路を毎朝はくという行為が日本人的なのだと思う。★街の中の神社。東京という大都会にあって、樹木の繁る神社は、異空間。そこに入る時のは、鳥居をくぐるのだが、一礼してから鳥居の端を歩く。★銭湯。これも「ザ・日本」。★平山の部屋。小さな6畳くらいの畳の部屋。置いてある家具といえば、小さな箪笥と本棚くらい。テレビもないし、机やパソコンもない。茶室のような部屋だ。★畳の上に布団を敷いて寝る。ベッドは置いてなくて、畳の上に布団。目覚めたら、布団をたたんで部屋の隅に。小さな部屋でも家具が少ないから広く感じる。 第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所が日本人俳優としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶり2人目となる男優賞を受賞した。本作は同映画祭でエキュメニカル審査員賞も受賞している。日本国内のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。主人公の男に与えられた「平山」という名前は、『東京物語』や『秋刀魚の味』で笠智衆が演じた登場人物をはじめ、小津安二郎監督の作品に繰り返し使われる名前である。ユニークな東京の公共トイレが沢山あった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.27
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今年で結婚して50年になる。今から50年前の今頃、母と妹と私は、私が暮らすことになるアパートを掃除するために大阪のH市にある古いアパートに行った。その頃、私たち一家は竜野市という兵庫県の西に位置する町に住んでいた。そこから大阪のH市は、バスで姫路まで行き、そこから新快速で大阪駅、環状線、私鉄を乗り継いで片道3時間近くかかったのではないかと思う。掃除道具は持って行かなかった。私鉄でE駅に着いてそこから北へ、アパートまでは歩いて数分。アパートまでの道は商店街になっていた。アパートのすぐ近くには、市場もあった。掃除道具はそこで買えばいい。どうせこれから使うものだから・・・。私はそう思っていた。 しかしその日は月曜日で商店街は休み。市場も休みだった。私はがっかりし不安になった。掃除ができないことにではない。住むことになる商店街や市場の休日も知らないこと。いや、それを教えてくれる人がいないこと。私はこの地で、誰も教えてくれる人がいない土地でこれから暮らしていくのだという不安にかられた。 そのアパートには、約3年住んだ。その後、駅から南へ数分のところに移り、その後、今住んでいる所に暮らしている。どこも私鉄のE駅から数分のところだ。 本屋、自転車屋、風呂屋、薬局・・・となんでも揃っていた商店街。総菜屋、小間物屋、肉屋、豆腐屋・・・なんでも揃った市場。50年前賑わっていた商店街は、まわりにスーパーが出来始めて少しづつ衰退していった。市場も無くなってその跡には、小型スーパーが出来ている。週に数回、そのスーパーに行くが、行き帰りに顔見知りの人に必ず会う。冬の空嫁してこの地に五十年 はるな・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.26
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■バベットの晩餐会■天使の味をめしあがれ時代は19世紀、重苦しい雲と海を背景にしたユトランドの片田舎が舞台である。美しい姉妹であるマーチーネとフィリパは、牧師である老父と清貧な暮らしを送っている。姉のマーチーネには地元で謹慎中の若い士官ローレンスが、また妹のフィリパには休暇中の著名なフランス人バリトン歌手アシール・パパンが求愛するが、姉妹は父に仕える道を選び、結婚することなく、清廉な人生を過ごしながら年老いていく。やがて姉妹のもとに、パリ・コミューンによって家族を亡くしてフランスから亡命してきた女性バベットがパパンの紹介でやって来て、家政婦として働くようになる。 映画前半は辺境の村を淡々と描写し、また後半は主人公バベットの調理と晩餐会の様子を詳細に映像化しているが、単なるグルメ映画ではなく状況描写を通して人生の幸福を表現した佳品として、批評家や映画愛好者の間では評価が高い。88年度アカデミー外国語映画受賞作のほか、1989年の英国映画テレビ芸術アカデミー賞BAFTA)最優秀外国語映画賞をはじめ、世界各国の映画賞で作品・監督・主演女優の賞を得た。 原作は『愛と哀しみの果て』の作者としても知られるデンマークの作家アイザック・ディネーセン。見どころは何といっても豪勢極まりないフランス料理のフルコース。次々と出される美味しそうな料理の数々は、目を楽しませるだけでなく、大勢で食卓を囲むことの幸せを実感させる。 初公開時のチラシ裏面にはバベットが用意する晩餐会のメニューが紹介されている。「海ガメのスープ」「ロシア産キャビアのドミドフ風」「ウズラのパイケース詰めソースペリグルディーヌ」「サラダ」「チーズ」「ラム酒入りババ」と記されており、合わせるワインは、食前酒の「アモンティヤード・シェリー」から「ヴーヴクリコ・ボンサルダン」「クロ・ド・ヴージョ」「ハイン・コニャック」と続く。どんな料理かは映画を観てのお楽しみ。 良い映画だった。舞台となった19世紀後半のデンマークの寒村の貧しい暮らしがよくわかる。質素なみなりの人々と天井の低い小さな家々。海の近くなので魚は、干ものにしている。それを戻して使用するらしいが、台所の様子もいい。村にある店の中での使用人のバベットの買い物も、玉ねぎ2個、ベーコン少々とつつましく、好ましい。また、当時の郵便事情も分かった。まず、郵便馬車が村に一軒ある店に郵便を持ってくる。それを受け取った店主は、おもむろに帽子をかぶり、郵便配達夫となり、家に配達するのだ。「あなたは、お金持ちになったし、もう私たちに礼をしてくれたから、パリに帰るのでしょう?」と聞く老姉妹。「お金は全部使ってしまいました。」とバベット。「え?!1万フランも・・・?!じゃあ、あなたは私たちのために貧乏になったのですか」と聞く老姉妹。「いえ、貧しい芸術家はいません」ときっぱり、バベットは言う。老姉妹の美しさや清貧という言葉が似合う暮らし。そんな中でも、村の困った人たちに食事を持って回る生活。質素な中に、豊かさを感じる心が洗われるような映画だった。前回は■2011年に見て■今回2回目の映画。前回見て、あまりに素晴らしかったから、原作の小説をすぐ買って読んだ。BSでやっていたから録画している。★1980年代の見た外国語映画賞(含むノミネート☆)★1980年・・・見ていない。★1981年☆泥の河★1982年~1986年:見ていない。★1987年:★バベットの晩餐会★1988年:見ていない。★1989年★ニュー・シネマ・パラダイス・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.24
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■あきない世傳金と銀 特別巻上:契り橋■五鈴屋を出奔した惣次が、如何にして井筒屋三代目保晴となったのかを描いた「風を抱く」。生真面目な佐助の、恋の今昔に纏わる「はた結び」。老いを自覚し、どう生きるか悩むお竹の「百代の過客」。あのひとに対する、賢輔の長きに亘る秘めた想いの行方を描く「契り橋」。商い一筋、ひたむきに懸命に生きてきたひとびとの、切なくとも幸せに至る物語の開幕。シリーズを彩ったさまざまな登場人物たちのうち、四人を各編の主役に据えた短編集。■あきない世傳金と銀■が終わって、ロスな私に、スピンオフ作品が出るというので、図書館で借りることに。さすが、人気作品だけに数か月待って、やっと読めた。私の後にもまだ読みたいという人が待っていてNHKのドラマにもなっている人気作品だ。主人公・幸は、様々な苦難にぶつかる度、己の知恵と周りの教えに助けられ、女中から御寮さん、そして女主人へ。世界も注目する日本の着物文化の神髄に迫る美の世界とその商道を極めることを縦糸に、折々の人間模様を横糸に織りなす細腕繁盛記。主人公の幸(さち)を取り巻く人々が今回の主人公。★第一話:風を抱く。五鈴屋の次男で惣次は、妻の幸の商才に嫉妬するあまり、五鈴屋を飛び出した。その後、江戸で会うのだが、名前が井筒屋三代目保晴で両替商になっていた。その経緯が書いてあって納得。商いにしか興味がなく、冷たい惣次が少しだけ変わっていくのが嬉しかった。●紅うこんは縁起の良い色ですから、殊更、大坂商人には紙入れに好まれる。●(略)古い風通織を前結びにしている。*結婚すると帯は前結びになる。●利ぃ取る、利ぃ取る日一部、日一部如月晦日の澄んだ空に、上機嫌の雲雀の唄が響いて(略)●隅に置かれた*広蓋(ひろぶた)*に、惣次は目を止める。*広蓋(ひろぶた)*1 衣装箱のふた。昔、人に衣服などを与えるとき、これにのせて差し出した。2 縁のある漆塗りの大きな盆。*「もろぶた」という餅を入れるものがあるが同じような形から来ているのだろうか?★第二話:はた結び五鈴屋江戸店の支配人、佐助が主人公。●紋羽織(もんぱおり)というのは紀州で生まれた織物で、木綿にも拘わらず、ふんわりと毛羽立った独特の風合いのものだ。(略)「紋羽織は、泉州の樽井村というところで作られるようになっています。」★第三話:百代の過客大坂五鈴屋から江戸五鈴屋まで主・幸について奉公をするお竹。残りの人生を思い悩む。*白内障と思われる症状がお竹に出ている。薬も手術も出来ない頃、神仏に頼るしかなかった時代、どんなに不安だったかと思う。●「針は、京のみすや針でしょう?」「へぇ、私はそれしかつかいませんよって」*東海道五十三次の始点・三条大橋の先のこの地には約400年前から店舗を構え、当時の京都で謡われた歌や近松門左衛門の浄瑠璃作品“浦島年代記”にも登場する、文字通りの“京都の老舗”。慶安年間の1651年には宮中の御用針司に、現在の“みすや”の屋号は1655年に後西天皇(後西院天皇)より賜ったもの。■みすや針HP■*今も残っていたことにビックリ!!!★第四話:契り橋五鈴屋のデザインを一手に任されている賢輔。性格も男ぶりもいいので、幸の妹や近所の店のお嬢さんに夫と望まれるも断っている。幸より七つ年下。●紀州では、古来、束ねた松の葉で布地を擦って、起毛させていたと聞く。紀州と泉州を結ぶ孝子超(きょうしごえ)街道を経て、紋羽織は泉州に伝わり、そこで技が磨かれた。針を利用した起毛により、肌触りはさらによくなった。今、NHKで■あきない世伝金と銀■放送している。全8回(金曜日)★幸=小芝風花★惣次=加藤シゲアキ★お竹=いしのようこ*幸役は、若いころの深津絵里が一番と思っていたけど、幸は165㎝は欲しいのでちょっとなと考えた・・・。今だったら黒木メイサかな・・・。いや、早見あかりかも・・・。いや、小松奈々!!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.22
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■ビヨンド・ユートピア 脱北■自由に辿り着くまでの旅にカメラが密着した奇跡のドキュメンタリーこれまでに1000人以上の脱北者を手助けしてきた韓国のキム・ソンウン牧師は、北朝鮮から中国へ渡り、山間部で路頭に迷うロ一家の脱北という緊急のミッションに直面する。幼い子ども2人と80代の老婆を含めた5人もの人たちを一度に脱北させることは、とてつもなく危険で困難なことだ。キム牧師が指揮を執り、各地に身を潜める50人ものブローカーが連携し、中国、ベトナム、ラオス、タイを経由して亡命先の韓国を目指す。 ある家族の脱北に密着し、2023年サンダンス映画祭USドキュメンタリー部門観客賞を受賞したドキュメンタリー。祖国を離れ危険な旅に出る2人の幼い子どもと80代の老婆を含む5人の家族、子どもとの再会を切望する母親、彼らを支援する人々の姿を追う。監督は、Netflixドキュメンタリー『シティ・オブ・ジョイ~世界を変える真実の声~』のマドレーヌ・ギャヴィン。 知っているつもりでも、脱北のことを何にも知らなかったとこの映画を見て思った。★脱北、北朝鮮から逃げるには、南北の境界線を越えると思っていた。南北の国境付近には、地雷が無数に埋められていて通れない。今回の映画を見るまで、中国に逃げて、中国から韓国というルートがあると思っていた。しかし、中国は、脱北者を見つけると北へ送り返す。帰された人に待っているのは死。もしくは死よりつらい拷問や投獄。映画の中での脱北ルートは、まず北朝鮮と中国の国境の川を渡る。そこから中国国内を隠れて移動。ベトナム、ラオスを車か歩いて移動。ジャングルの中を夜、小さな灯りだけで10時間くらい歩いたりとまさに命がけ。闇に紛れてメコン川を渡り、タイに着いた。中国もそうだが、ベトナムもラオスも脱北者は、送り返されるので、命がけ。脱北者も、脱北をブルーカーも脱北をコーディネートしている牧師さんも、映画のスタッフもみんな命がけだ。 80歳代の老婆は、苦し目にあいながらも、「偉大なる金さま」と本当に思っている。タイからは脱北者として韓国に送ってもらえる。ほっとした。この映画、沢山の人に見てもらいたいと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.20
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■街道をゆく41:北のまほろば冬■青森空港到着後、弘前へ。石場家を訪れ、家刀自に"洋さん"こと石坂洋次郎の思い出話を聞き、弘前城の本丸から岩木山を眺める。「松陰室」のある養生学園を訪れ陸羯南の書を見て、禅林街にある津軽氏の菩提寺・長勝寺を訪れる。巨大な遮光器土偶がはめ込まれたJR木造駅の駅舎に仰天し、縄文住居展示資料館で亀ケ岡遺跡の発掘品を見る。鰺ケ沢で日本海に出て、七里長浜を十三湖へ。河口沿いでシジミ汁を食べ、福島城跡へ。金木で太宰治の生家「斜陽館」を訪ね、垂柳遺跡を見てから、津軽と南部の藩境塚のある野辺地を通って下北半島へ向かう。田名部で斗南藩の史跡を訪れ、川内、脇野沢を通って、川内の畑の集落でマタギの人と会う。■石場家住宅津軽藩の御用商人であった。弘前城の亀甲門の前に立つ。国の重要文化財。●石場家の家刀自(いえとじ)は、明治四十四(1911)年生まれで津軽文化そのもののような人だ。彼女が県立弘前高等女学校の二年生の時(大正末年か)、まだ若かった石坂洋次郎に教わった。石坂のあだ名は「洋さん」だった。■斜陽館太宰治記念館。金木にある太宰治の生家。*司馬遼太郎は、斜陽館について、ただ大きいだけで風情がないというような書き方をしていた。■弘前城桜の季節が圧巻。天守閣内部には、津軽藩の資料を展示する弘前城史料館がある。●(略)三層の天守閣が、津軽平野の象徴ではなく、じつはこの天守閣は、神である岩木山に仕えているのだということを知らされる。■田名部円通寺、徳玄寺など斗南藩の史跡が残る。●会津藩約一万四千余人の斗南への移住は大変だったろう。移住にあたって、五十人ぐらいを一組とした。陸路をとった組もあれば、仙台や新潟に出て、そこから和船に乗ってここまできた組もあった。藩では、かれらに支給する旅費さえ事欠いた。途中、新政府はその窮状を見かね、アメリカの汽船を雇って輸送したりもした。新政府の側に、内々、会津藩への処置が酷でありすぎたという反省がうまれていたのかもしれない。そのせいか、援助もした。明治三年七月、米四万五千石をあたえた。あらたに隣藩となった弘前藩も、親切だった。明治四年三月、千五百両を贈り、うち五百両は現金ではなく鋤、鍬など千挺という現物でもって支援した。●土地の人は、会津からの移住士族のことを、「会津様」と尊称したが、かげでは「会津の毛虫(けだか)」などとよんだと「斗南藩史」にある。■長勝寺・禅林街津軽氏の菩提寺である長勝寺は、2代藩主・津軽信枚が33カ寺を集めた禅林街に立つ。■つがる市縄文住居展示資料館(通称カルコ)亀ケ岡遺跡からの出土品を中心に、縄文の世界が学べる展示館。■十三湖中世に十三湊として栄えた港湾都市があった。●安野光雅画伯がおいしそうに味噌汁をすすっている。司馬遼太郎と一緒に北海道に行ったことは、安野光雅の書いたエッセイで読んだ。■養生学園かつて吉田松陰が訪れた「松陰室」がある。陸羯南の書も所蔵。■JR木造駅駅舎前面に巨大な遮光器土偶が。■垂柳遺跡田舎館村にある。水田跡が発見された弥生遺跡。■川内江戸時代、南部藩の海港として栄えた。司馬さんは郷土史家の寺田徳穂さんを訪ねる。■蠣崎(かきざき)蝦夷地(北海道)の松前氏がかつて居住していた地。●タイトルの「北のまほろば」について。「まほろば」とは、まろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持のいい野、として理解したい。縄文時代、青森県は、豊かな土地だったと思う。その証拠が三内丸山遺跡だ。●明治初期政府は、強引だった。江戸時代、南部と津軽は犬猿の仲であることを、よく知っていたはずである。その仲のわるさは、津軽の殿様が参勤交代で江戸へ往還するときも、南部領を一度も通らなかったことでもわかる。南部藩のほうも通さなかった。でありながら、明治政府は南部の北半分を津軽と一緒にして青森県を誕生させた。●幼いころに両親をなくし、祖父母に育てられた川端康成。その祖父母も亡くなり、一高の寮に入った。しかし学校が休みの時、帰る家がなかった。そんな川端は、今東光の母親にあたたかく迎えられ、休みになると弘前の今東光の家で過ごした。●関取は、由来、生国の山河を背負っている。あるいはそれら山河の精霊にまもられているのである。*ダムの建設により、水量が減り、自然の形をした川がなくなった現在、川のつく名の関取が少なくなった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.19
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■カラオケ行こ!■さぁ、楽しいレッスンの始まりや。コンクールの日、成田狂児は歌を教えてほしいと合唱部部長の聡実をカラオケに拉致する。何でも狂児のいる組では年に4回カラオケ大会が開かれ、そこで歌ヘタ王になると組長に刺青を彫られるという。刺青が嫌な狂児は何としてでも歌ヘタ王を回避すべく、カラオケで聡実の指導のもと特訓を始める。「歌がうまなるコツ教えてくれへん?」歌がどうしてもうまくならないといけないヤクザは、変声期に悩む合唱部部長の中学生に歌のレッスンを頼んだ。中学3年生の岡聡実と四代目祭林組若頭補佐の成田狂児との奇妙な友情を描いた物語。ヤクザ映画って嫌いっという人も見て欲しい。私もヤクザ映画は嫌いで見ないけど、これはコメディで、穏やかな歌の上手くなりたいヤクザ(本人はブラック企業勤務って言ってるけど((´∀`*))ヶラヶラ)とまじめだけどちょっと生意気な中学三年生合唱部男子。全く接点のない二人の話。漫画ってだいたいそうで、まったく接点のない二人が近づく。主演の綾野剛は、カーネーションの周防さん役で大好きになった。「最高の離婚」も大好きだった。綾野剛よりもイケメンは多いけど今回は、コメディもイケてたし、雰囲気が独特で主役も多いんだなと納得。 中学三年生男子を演じるのは、オーディションで選ばれた齋藤 潤クン。16歳で、綾野剛に比べてちょっと背が低かったけどまだ伸びるのだろうか。次のドラマではどんな顔になっているのだろうか?この期間ってすごく変わるからな・・・。とはいえ、イケメン決定!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.17
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▲■岡山県で見た景色■昔から上のようなところにある家を見ると、不便だろうな・・・と思っていた。なんで山の下の土地に住まないのかと不思議でもあった。 30年ほど前、里山保全のために炭焼きの講座があって山の上に住む古老の講座に通った。その時、「なんで、山の上に住んでいるんですか?」と同じ講座に通っている人が古老に聞いた。「そら、米や」と古老。「下の田んぼは、米作らなあかん。そやから、ここに住んでんねん。」古老はこともなげに言った。水を沢山使う稲作は山の上ではできない、ということを知っていたはずなのに、不思議に心に残っている。●日本人は「水辺の民」であったのであろう。水田のできる低地が一等地で、蕪やネギなどの畑作しかできない丘は三等地であった。中世末期には、丘に住むものを「坂の者」として差別したほどである。いまは、日本人も丘にあこがれている。不動産会社の広告を見ればわかる。この現象は明治後のことで、当初、「異人さんはなぜ水田もできないああいう丘に住むのか」とふしぎがったであろう。やがて異人さん文化へのあこがれが丘について価値観を一変させた。「街道をゆく21」司馬遼太郎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.15
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■枯れ葉■愛を、信じる。北欧の街ヘルシンキ。アンサは理不尽な理由で仕事を失い、ホラッパは酒に溺れながらも、どうにか工事現場で働いている。ある夜、カラオケバーで出会った2人は、互いの名前も知らぬまま惹かれ合う。だが、不運な偶然と現実の過酷さが、彼らをささやかな幸福から遠ざける。果たして2人は、無事に再会を果たし、想いを通い合わせることができるのか……? カンヌ国際映画祭審査員賞に輝いたアキ・カウリスマキのラブストーリー。北欧の街ヘルシンキ。理不尽な理由で仕事を失ったアンサと、酒に溺れながらも工事現場で働くホラッパはある夜、カラオケバーで出会い、互いの名も知らぬまま、惹かれ合うが……。 登場人物たちの横ではつねにロシアによるウクライナ侵攻のニュースが流れ、いま、私たちが生きる悲痛な現実を映し出そうとする意志が感じられる。アキ・カウリスマキ映画のなかでもかつてないほどまっすぐな愛の物語となった本作は、戦争や暴力がはびこる世の中で、それでもたったひとつの愛を信じつづける恋人たちの姿を通して、今を生きる希望を与えてくれる。 映画の中には沢山の曲が流れていた。中でも、ラジオから「竹田の子守歌」が聞こえてきた。「竹田の子守唄」♪守りもいやがる 盆から先にゃ雪もちらつくし 子も泣くしヘルシンキの人なのか日本人ではない発音の曲が、哀愁をおびて、この映画にピッタリ。 家にホラッパを招待し、新しい皿やカトラリーを買うアンサ。食事の後、男が怒ってアンサの部屋を出ていく。残ったアンサは、男の使った食器をゴミ箱に入れる。アンサの心のうちがあらわれたシーンだった。この映画は、底辺の孤独な中年男女を描いていて、ふたりから目が離せなかった。 この映画では、我が家の神様、ブレッソン、小津、チャップリンへ、私のいささか小さな帽子を脱いでささやかな敬意を捧げてみました。 アキ・カウリスマキ(監督)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.13
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■ショコラ■罪深き美味しさ。フランスの小さな村に赤いマントの女性ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)とその娘が越してきた。伝統と規律を重んじるその村で、母娘はチョコレート・ショップを開店する。その店内は見たこともない美味しそうなチョコで溢れ、村人たちは自分の好みにピタリとあわせて勧められるチョコの虜になっていく。村の雰囲気も明るく開放的になっていくが、昔からの伝統を守ろうとするレノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)の反感を買うことに。アカデミー賞5部門にノミネートされた、珠玉の人間ドラマ。幸せを運ぶ不思議なチョコレートを売る母娘と周囲の人々との交流を描く、ハートウォーミングな感動作。★原題 CHOCOLAT★製作国 アメリカ★ジャンル ロマンス★製作年 2000年★上映時間 121分★監督 ラッセ・ハルストレム 楽しみにしていた「午前十時の映画祭」初登場の作品。クラシカルな真赤なマントで小さな村(町)にやってくる謎の女チョコレート職人と娘。時代はいつだろうと思っていたら、戦後。第一次世界大戦後?いやいや、第二次世界大戦後で1950年代後半。私は小学生の頃でつい最近やん。協会の牧師が体をゆすってエルビスを歌っていた。 舞台はフランスの小さな村というけど、皆は英語で会話。しかしネイティブではないっぽい。店は繁盛するのに、風が吹く旅に出たくなる。「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず」(奥の細道」風が吹くと旅に出たくなるって、芭蕉やないかい!! スウェーデンの名匠ラッセ・ハルストレム監督。これまで「午前十時の映画祭」で上映された作品には、アカデミー賞・監督賞候補になった■『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(85)、■ アメリカに招かれ、若きレオナルド・ディカプリオから名演を引き出した『ギルバート・グレイプ』(93)があり、本作でアカデミー賞候補作品、3本目。 人間の持つ味覚は、食欲という欲望にも直結する、まさに官能、エロスの入り口なのである。「ショコラ」はそのことがテーマになっており、ヒロインの作るチョコレートが人々の身体の奥に炎と灯す。 (映画のチラシより)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.11
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■ウォンカとチョコレート工場のはじまり■夢見ることからすべては始まる。発明の天才にしてチョコレートの魔術師、ウィリー・ウォンカの夢は、亡き母との約束を果たし、一流のチョコレート職人が集まる有名な町に、世界一のチョコレート店を開くこと。彼の作りだす“魔法のチョコレート”はあっという間に皆を虜に。少女ヌードルを筆頭に彼を応援する仲間たち、そして彼の才能を妬む“チョコレート組合3人組”や、ウォンカのチョコを盗むウンパルンパに翻弄されながらもウォンカは夢を叶えようとする。 主人公、ウィリー・ウォンカ役に■『君の名前で僕を呼んで』(17)■で一躍世に知らしめ、■『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(19)■や■『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)■などで世界中で大ブレイクし、本作でウィリー・ウォンカ役に抜てきされたティモシー・シャラメ。 ミュージカル映画なので歌ったり踊ったりできるんだとビックリした。時間の関係で吹き替えを見たけど、ティモシー・シャラメの歌声ってどんなんだろう?それにダンスも上手。チョコレートの町にやってきたウォンカが憧れのグルメアーケードを訪れるシーンがある。これって、パリのパサージュだと思っていたが、舞台はロンドンらしい。上の写真2枚は、■パリのパサージュ。■ なぜ、バレンタイン・シーズンに上映しないんだろう?と思った。帰りにチョコレートが食べたくて探したが、量が多くて断念・・・。キラキラした夢のようなミュージカルだった。■★ノッチングヒルの恋人■などで有名な名優ヒュー・グラントが、小人のウンパルンパを演じて可愛らしかった(⌒∇⌒)★「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚(物語の開始時点より前を描いた話)。私は、「チャーリー・・・」を見ていないけど、楽しめた。★ウィリーのベッドが可愛らしい!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.09
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■街道をゆく41:北のまほろば■三内丸山遺跡を訪れる。八甲田山、青森市の棟方志功記念館、津軽半島の外ケ浜にある蟹田、義経伝説の残る三厩、津軽最北端の龍飛崎を訪れ、小泊を通って十三湖で夕陽を見、五所川原へ。●タイトルの「北のまほろば」について。「まほろば」とは、まろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持のいい野、として理解したい。縄文時代、青森県は、豊かな土地だったと思う。その証拠が三内丸山遺跡だ。■三内丸山遺跡青森市郊外で発見された国内最大規模の縄文前期~中期の集落跡。竪穴住居や大型掘立柱建物などが復元され、資料館「縄文時遊館」も併設。国の特別史跡。■八甲田山青森市の南方の山岳地帯。明治35(1902)年、陸軍の歩兵連隊が雪中行軍中に遭難した事件で有名。●師団とは。中将を師団長とするふつう一万数千人の単位。諸兵科をそなえる総合的な戦闘能力をもっている。●「八甲田山死の彷徨」の作者新田次郎は、富士山頂の測候所に六年つとめ、登山家でもあり、当然ながら山岳気象の第一人者であった。■龍飛崎津軽海峡の向こうに北海道を望む津軽半島最北端の岬。灯台や階段国道、太宰治と吉田松陰の記念碑がある。■棟方志功記念館青森市出身の板画家・棟方志功の作品が展示される。展示替えあり。大作「釈迦十大弟子」は常時展示。●大才があって学歴がすくないということが、志功の場合、ユーモラスなほど幸いした。自分の知的世界を構築するための言語は、自分で製造した。造語である。*版画ではなく板画といった。●大正十三年(1924)二十一歳のとき、絵で身を立てるために青森駅を発った。(略)志功はべつに学校に入るためではないが、紺絣に袴をつけ、学生帽をかぶっていた。帽子には徽章までついていた。志功が町の鋳物屋さんに頼んでつくってもらったもので、「画」という文字だった。●志功は、青森市の古名である善知鳥(うとう)の名を冠した神社のそばでうまれた。善知鳥は、外ヶ浜にすむ伝説の鳥の名である。●(最後の将軍)徳川慶喜の頭脳は、この時代の第一級のものだった。かれは先代将軍の補佐をして京都に駐在していたころ、そのするどい論理をもって公家たちを畏怖させ、また長州人のあいだで、「家康以来の器量」とささやかれた。●大正七年(1918)うまれの人口はすくない。そのとし、「スペイン風邪」が流行した。世界的にも、第一次世界大戦の戦死者の数より(スペイン風邪で死んだ人数の方が)多かった。●イギリスがりんごをさかんに栽培したのは、ぶどうが育たず、ワインが出来ないから、りんごでりんご酒を作るためだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.08
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■窓ぎわのトットちゃん■君は、ほんとうは、いい子なんだよ。落ち着きがないことを理由に、小学校を退学になってしまったトットちゃん。新しく通うことになったトモエ学園の校長先生は、出会ったばかりのトットちゃんに優しく語りかけた。「君は、ほんとうは、いい子なんだよ。」トットちゃんの元気いっぱい、すべてが初めてだらけの日々が始まるーーートットちゃんの愉快な日常を通して見えてくる、日々のささやかな幸せ、個性の豊かさ、恩師からの教え、家族・友人への深い愛情。この冬、トットちゃんが日本中に感動と愛情をお届けします。今から約80年前、第二次世界大戦が終わる少し前の激動の時代を背景に、黒柳徹子の幼少期を自伝的に描いた「窓ぎわのトットちゃん」。日本のみならず、海を越えて多くの国で愛される世界的ベストセラー作品が、この冬、ついにアニメーションで初の映画化決定! 今から80年前の東京の山の手の暮らしが描かれていて興味深い。まず、トットちゃんの家が当時としては、超ハイカラ。 朝ごはんは、パンと紅茶で、当時のパンと焼く道具が独特すぎだし、この時代にパンを食べるのかとビックリ。氷を利用した冷蔵庫やラジオ、ピアノ、ヴァイオリン等々当時あったものは、何でも揃っている。私は戦後生まれだが子どもの頃、ここにあるものは何にもなかった。いかに黒柳家がハイカラだったかということだ。トモエ学園に行くと、子供たちはこぎれいな洋装。トットちゃんよりも10歳ほど上で今年100歳で亡くなった夫の母親が小学生の頃、洋服で小学校に来る子供は、数少なかったと言っていた。 トモエ学園は、私立で裕福な家庭の子供が通っていたのだろう。普通、小学生が電車通学なんかしないだろうが、トットちゃんは、普通に通っていた。「窓ぎわのトットちゃん」というタイトルは、トモエ学園でのトットちゃんが窓ぎわに座っていたからということを発見した。★トモエ学園は、リトミック教育を日本で初めて取り入れた学校。★自由が丘の地名と駅名は、自由ヶ丘学園(トモエ学園)からつけられた。★在籍児童の保護者に東京横浜電鉄の重役がいた関係から、廃車となった電車を譲り受け、教室として使用していた時期がある。このころに黒柳徹子が転入しており、『窓ぎわのトットちゃん』では、電車を教室として使用していたことが印象的に描かれている。★トットちゃんというニックネームは、パパが「トット助」と呼ぶから。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.06
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司馬遼太郎作「「北のまほろば:街道をゆく41」に、直木賞選考の様子が書いてある。選者が豪華すぎて、もう笑うしかない。●直木賞の会場。つねにおなじ大広間が用いられていた。委員ごとに自分の好きな席にすわると、そこに借地権でも生じたように、つぎの回も同じ委員がすわった。自然と長老が上座にすわり、若い者(?)が、下座を占めた。 最若年の私のとなりが、私より十四歳上の故松本清張だった。巨人のようなこの風貌の人でさえ、長老に対してつつしみぶかい態度をとっておられたのは、印象的だった。*その時の選者がすごすぎる!!★大佛次郎★今日出海(こんひでみ)ふたり(大佛と今)は鎌倉住まい、フランス学の通だったので通じるものがあった。★川口松太郎啖呵といえるほど古典的な江戸弁だった。「どうだい、この作品に弁護人がいるかい。出てきな。」★柴田錬三郎(大正六・1917年 生まれ)★石坂洋次郎(津軽出身)★松本清張★そして司馬朗太郎。司馬遼太郎が選者をしていたのは、40代~50代の数年。■直木賞とは■文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。★第1回(1935年上半期) - 川口松太郎『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』『明治一代女』★第42回(1959年下半期) - 司馬遼太郎『梟の城』、戸板康二『團十郎切腹事件』他これを読むとドラマが出来そうと思う。柴田錬三郎と司馬遼太郎は、大正生まれ。あとみんな明治生まれの人。大佛次郎など19世紀の末の生まれだそうだ。松本清張や司馬遼太郎という堂々とした人が、下座に座っているのを想像してワロタ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.04
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●かつて南部藩領だった下北半島には江戸初期までアイヌが住んでいた。(まさかりの部分が下北半島)(略)慶長十九年(1614)、いわゆる大坂冬の陣がおこった。南部藩も出兵した。このとき、下北半島田名部のアイヌの人数も中に入っていたという。(略) アイヌたちは、和人の武士たちとともに、はるかに上方へ行った。(略)戦いがすすみ、城近くの前線までくると、鉄砲の音が、落雷のようにひびいた。それまでおだやかに暮らしていたアイヌにとって、はじめて聞く音だった。四方に散り、それを追いかけるうちに戦いは済んだという。 「北のまほろば冬の旅:街道をゆく41」:司馬遼太郎●私は、アイヌが家畜のように使われていることに憤慨している。 大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。大阪の陣とも表記する。大坂の役とも呼ばれている。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣から成る。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.02
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あけましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。 今年は、辰年。龍の年ですね。 ということで、今年は、辰=龍にまつわることを毎月メモみたいに書いていこうと思います。■相場格言■に「子(ね)は繁栄、丑(うし)はつまずき、寅(とら)千里を走り、卯(う)は跳ねる。辰巳天井・・・。」があり、辰年の相場は俗に天井といわれるそうです。皆様の運が天井まで上がりますように・・・。 今年もどうぞよろしくお願いします。m(_ _"m)■うさぎに関する諺■■虎は死して皮を留め・・・■■女賢(さか)しゅうして牛を売り損ね■■ねずみ算・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.01.01
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