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直江山城守と上方にいる千坂景親の、懸命な取り成しで、家康は景勝と山城守に上洛を命じてきた。 岡左内の警護で主従は、翌年の慶長六年に上方に旅立った。 左内は伊達勢との松川合戦のおり、伊達政宗との一騎うちで切りさかれた、猩々緋の羽織を金の糸で縫いあせて先乗りを務めていた。「人生とは朝露(ちょうろ)の如くじゃな」 景勝が独語した。「左様、人生とは儚く脆いものにござる。したが、上杉家が尚武の家であることをお忘れになってはなりませぬ」 「そうよの」 景勝の青味をおびた顔が柔和にみえる。二人の脳裡に御館の乱、魚津城の苦戦、それぞれの戦い日々が過ぎっていた。全てが苦しい合戦の連続であったが、景勝と兼続はそれらを乗り切ってきたのだ。 主従は大阪城の謝罪の席に座していた、正面の上座に肥満した家康が二人を厚い瞼ごしより眺め、傍らには枯れ木のような痩身の、本多正信が細い眼を光らしている。「中納言と山城守か」 家康が天下人の風格をみせ両人に声をかけた。「はっー」 二人は臆する気配もみせずに平伏した。「謝罪に現われるには、些か遅すぎたようじやな」「我等には謝罪の謂れは、ございませぬ」 景勝が武骨な口調で答えた。「ほうー、昨年の合戦では石田三成に属し我等に反抗した筈じゃ」「滅相な、言い掛かりにございます」 山城守が景勝に代り答えた。「山城守、わしが小山に陣を進めた折、三万余の軍勢で出迎えてくれたの」 皮肉を口走り、家康の肉太い頬が引きつっている。「我家は尚武の家として、義と信を家法といたしております。六万余の大軍が、我が国境に迫れば武家の仕来りとし、合戦の用意をつかまつることは、当然至極にございます」 山城守が白皙の顔をみせ、至極当然と返答した。「幸いにも合戦には到らなかったの」 「僥倖にございました」「お二人は謝罪に参られたのでありましょうが」 本多正信が家康の傍らから、しわがれ声を発した。「内府のお尋ねに答えたまでにござる。我等は家の存続のため恭順に罷りこしたまでにござる」 山城守が口調を変えた。兼続の官位は従五位下である。家康の謀臣が、何をほざくかとの意気込みをみせたのだ。「わしが攻め寄せたら、いかがいたした?」 家康が鋭く訊ねた。「合戦に及びました」 景勝がすかさず応じた。「勝てるか?」 「勝っておりましょう」 「なにっー」「我等の標的は内府お一人、総大将を討ち取れば合戦は勝利にございます」 景勝の返答に、百戦練磨の家康の背筋に戦慄が奔りぬけた。改めて小山の陣が思いだされる。あの情況で会津に攻め込んだら、間違いなく深田に足をとられたように、身動き出来なかったであろう。そうなれば西軍の大勝利であった筈である。家康は化生を見るようにな目つきで、二人を睨みみた。 相変わらず景勝は青味をおびた顔をみせ、山城守は動ずる気配も見せず白皙の顔を晒している。家康が瞑目し思案を重ねている。 時が遅々として進まない緊迫したなかで、二人は凝然として腰を据えている。ようやく家康が分厚い瞼を開け、景勝を見据え口をひらいた。「中納言、わしが小山で陣を反転させた時に、追撃せなんだことを愛で、恭順を受け入れよう。ただし、会津百二十万石は没収いたす」 「・・・・」 二人が黙然として次ぎの言葉を待った。「代りに、出羽米沢三十万石を与える」 家康の最後通牒である。「有り難き仰せに存じます」 景勝が答え、平伏した。 こうして厳しい減封を受けたが、上杉家の存続は許された。 二人が退席すると家康が太い吐息を洩らした、正信が初めてみる姿であった。「あの主従を敵に廻したら、再び戦乱が起こったであろう」と、正信に語ったと云われる。とまれ、こうして上杉家は除封(じょほう)を免れた。「とうとう最後まで謝罪の言葉を口にしませんでしたな」 直江山城守の声に笑いが含まれていた。「数年後には、家康の正邪が判明いたそう、わしは、それを楽しみにしておる」 景勝と山城守は、再び天下分け目の合戦が起こるとよんでいた。その時に堂々の勝負を決する覚悟を秘めていたのだ。 こうして二人は大阪城をあとにして行った。 (完)今日をもちまして「小説 上杉景勝」完了いたしました。長いあいだご愛読いただき、また、励ましのコメントを頂き、感謝いたします。途中降板のような形で終りましたが、上杉景勝の資料が、なかなか見つかりません、上杉家の存続が許されたところで区切りといたしました。
Apr 17, 2007
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この場の有様を見つめていた直江山城守が、威儀を正し滔々弁じだした。「意見は出尽くしたとみた、いずれも正論でござろう。この山城にも決めかねる。お屋形のお考えを披瀝ねがい、上杉家の去就を決めていただこう」 一座の者が、一斉に景勝を仰ぎ見た。景勝が剽悍な眼差しをみせ口を開いた。「わしは、この場になって己の節を曲げてもよいと考えておる」 一同の者から声にならない溜息が洩れた。「家康づれに膝を屈するならば、死花を咲かせ見事に散ろうと考えたが、それはわしの我が儘じゃ。恭順した場合、我家の存続を認めてくれるかどうかじゃ」「この西軍の敗北で改易された大名家は、八十八家におよんでおる。減封は三家ある」 山城守が代って答え、なおも言葉をつづけた。「我家が恭順と決しても、存続を認められることは至難の業と思わずばなるまい」 一座に重苦しい雰囲気が漂った。「拙者は我家と常陸の佐竹殿と連携し、我が上杉家の戦法の激しさを家康に見せつけたい」 山城守が烈しい言葉を吐いた。「賛成にござる」 真っ先に甘糟景継が賛意を示した。 彼は主戦派の急先鋒の武将である。景勝が例の浅黒い顔に憂愁の色を浮かべ、暫く黙し再び口を開いた。「山城が、長谷堂城の包囲を完了した日が九月十五日であった。その日に西軍は、たった一日で敗北した。皆に撤兵命令をだし、わしは家康という武将の生きざまに思いを馳せた。少年時代に織田、今川家の人質となり義元公の戦死により、三河を己のものといたし、艱難辛苦のすえに今の地位を築いた。太閤殿下と互角の戦いをした武将は、家康以外はおらぬ。・・・・わしは合戦では家康に敗けぬ自信はある。だが治世面では家康が数段わしより勝ると知った。よって、わしは徳川との和平の道を模索いたす」 景勝が沈痛な面持ちで上杉家の行く末を断じた。一同の者が声を失っている、尚武の家として謙信公以来、天下に恐れられた我家が家康づれに屈服する。その屈辱を押さえ平伏した。「お屋形のお考えが和平と決まれば、拙者にも考えがござる」 直江山城守が全治全能をかたむけた考えを述べはじめた。「下野に居られる、結城秀康殿とは昵懇の間柄。彼の仁は故太閤殿下の養子にござった。拙者は秀康殿を通じ家康に我家の意思を伝えて頂く考えにございます」 山城守が景勝はじめ、一同にむかって語り終えた。「お忘れか、山城守さま。我等は徳川勢に対抗すべく会津の総力をあげ、兵力を白河口に集結した事実を」 すかさず、甘糟景継が声を荒げた。「そんなことで心配する必要はない、合戦を仕かけられ準備せぬ大名があるか。あの時は会津防衛の処置じゃ、我等は家康が小山から軍団を反転した際も、国境から一歩も踏みださなんだ。それは家康が誰よりも一番に承知の筈じゃ、我家は徳川家に、一度も兵力でもって刃向ったことはない」 直江山城守が、明快に断じた。「山城、秀康殿と話をつめてくれえ、わしは本多正信と交渉いたす」 景勝の言葉で山城守は、合点する思いがあった。「あの謀臣の本多正信が、お屋形に和平を勧めると上方の千坂景親から知らせが参りましたな」 「そちには叶わぬ、すべてが見通しじゃな」「お屋形、和平勧告と申しても全面降伏となりましょう。拙者は上杉家の存続を秀康殿にお願いいたす所存にござる」 「もし、ならぬと申したら如何いたす」「ならば、お屋形と枕を並べて討ち死にするだけにござる」 山城守の白皙の顔が引きしまり、景勝の顔つきが和んだ。 こうした決意を秘め、上杉家の重臣会議は和平にむけた方針の決定をみた。会津一帯は武装を解き、恭順の姿勢をしめし静まった。小説上杉景勝(89)へ
Apr 16, 2007
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水原親憲は二百名の鉄砲隊を三隊に分かち、間断のない銃弾の幕をめぐらしたのだ。つぎつぎと敵兵が銃弾の餌食となって坂道を転がり堕ちてゆく。 敵将の最上義光も兜に弾を受けたが、大事に至らず、ほうほうの体で後方に退いた。「皆の者、あわてずに退け、我等には二百挺の鉄砲がある。敵が返してきたら、撃ち放せ」 こうして水原勢も反撃しつつ撤退を開始した。 途中で直江山城守が待ち受けていた。「よう成し遂げた、すでに先陣の一部は街道をぬけた」「このまま会津まで戻りますのか?」 水原親憲が硝煙でくすんだ顔で訊ねた。「米沢城で休息いたす、急げ」 前田慶次も心配して駆けつけてきた。「最上勢の追撃は大丈夫にござるか?」「慶次、義光の兵力は五千名に満たぬ、もはや襲いくる余裕はあるまい」 軍神としてあがめられた『愛宕権現』『愛染明王』からとった山城守の愛の前立てが、きらりと輝いた。 十月四日、上杉勢は米沢城に着いた。こうして最上領からの撤退作戦は終りをみた。山城守は兵士等に二日間の休息を与え、国境防備を厳しくするよう命じ、直ちに若松城に急行した。「お屋形、ただいま戻りました」 景勝が例の顔に憂愁をおびて出迎えた。「山城、そちの進言を聴いておれば西軍は敗れなんだ。わしは後悔しておる」「申されますな、勝敗は兵家の常。運がなかったと諦めることです」 景勝と直江山城守が瞳を見つめあった、二人にしか判らぬ思いがよぎった。「山城、一緒に酒を酌んでくれるか」 「喜んでご相伴つかまつります」 景勝と兼続、城代の大石綱元の三人が、久しぶりに酒席をともにした。「今後の展開をどうよむ」 景勝が濃い髭跡をみせ訊ねた。「拙者にも判別がつきませぬ、家康が天下を得たことのみが真実。だが大阪城には秀頼公が健在におわします」「山城、豊臣家の直轄領は六十五万石に減封されたぞ」 「誠にござるか」 直江山城守の白皙の顔が曇った。「馬鹿をみたのが毛利よ、三成殿は毛利輝元を担ぎだしたが、分家の吉川広家は家康に内通し、参戦しない条件で毛利の全所領の安堵を約束させた。・・・・それ故に南宮山の諸大名は動けなんだ、そのために家康は勝利したが、狸め約束を反故(ほご)にいたし、改易をほのめかしたと云う。広家は輝元の赦免を懇願し、ようやく周防、長門の二ヶ国三十万石の安堵を得たと云うは」「まんざら、家康も馬鹿ではありませぬな」 大石綱元が、含み笑いをし大杯を口にした。「綱元、笑い事では済まぬ、我家はどうなる」 「これは、・・・」「家康が上方に居る、今、一団となり江戸に乱入いたしますか?」「山城、そちは本気か?」 景勝が驚いた顔をみせた。「我家は義と信をもってたつ家、お屋形の下知なれば全員討ち死にの覚悟で合戦におよびまする」 「うーん」 景勝が唸り大杯をあおった。「いずれにせよ、近々のうちに狸爺から恭順か合戦かの使いがござろう」「わしは、奴だけには膝を屈する屈辱を味わいたくはない」「ならば一家全滅を覚悟いたし、奴の非を天下に示す合戦を為されよ」「わしの意地のみで家臣等を殺すことは出来ぬ、そこが苦しい」 景勝が苦しそうに胸中を語った。山城守が笑い声をあげた。「山城、何が可笑しい」 景勝の浅黒い顔に怒気が刻まれている。 山城守が杯で唇を濡らし顔を引き締めた。綱元がその様をみつめている。「拙者は、とうにお屋形に命は預けておりますが、ここは重臣、諸将等の意見も聞かずば成りますまい」 「・・・・」 景勝は無言のままでいる。「一同が合戦を望まぬとしたら、お屋形はいかが為される。家康に膝を屈しまするか」 景勝が山城守の白皙の顔をみつめた。胸中には無念と怒りが渦巻いているが、それを飲み込んで命を下した。「綱元、直ちに三十三の城代と全ての重臣、諸将をこの若松に参集させよ」「はっー」 大石綱元が厳つい顔をして部屋をあとにした。 十月二十日、若松城で会議がひらかれた。今後の方針について激論が交わされた。降伏止むなしの派と合戦に及ぶべきと唱える派が対立し、容易に意見の統一ができず、虚しい議論が続出していた。小説上杉景勝(89)へ
Apr 14, 2007
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翌朝、上杉勢の陣は整然と静まりかえっている。旗指物、幟、旌旗が風をうけ翻り、先陣には鉄砲隊が粛然とし前方をみつめ折り敷いている。 本陣には直江山城守の、鳥を形どった旗印がたてられ、最上勢を圧倒する気配をみせている。 一方の最上義光は、夜半のうちに山形城の兵を引き連れ長谷堂城に入城を果たしていた。西軍が関ヶ原で敗れたことを知った、義光は攻勢に転ずる機会と捉えていたのだ。 東軍勝利の報告で勢いづいた最上勢が攻撃に移った。銃声が轟き兵馬が上杉勢の先陣を目指し押し寄せてきた。 直江山城守の戦術は巧緻を極めていた、今日の合戦を想定し、馬防柵をめぐらし、各部隊から引き抜いた鉄砲隊一千名を前衛に配置していた。 最上勢が報復の勢いで攻め寄せてくる。上杉の本陣から法螺貝が鳴り響いた。 「放てー」 組頭の命で一斉掃射を浴びせた。戦場に銃声が沸騰し白煙があたりを覆いつくした。阿鼻叫喚の悲鳴と怒号のなか最上勢が、たちまち総崩れとなり退却している。両軍が膠着状態となり、睨みあいとなった。 九月末の季節は日暮れが早い、夜の訪れとともに上杉勢の陣営は、真昼のように篝火が焚かれ、哨戒の兵の槍が不気味な輝きをみせている。 そうした中、部隊がぞくそくと陣営を離れ撤退している。 翌日の十月一日、陣屋に火を放ち上杉勢が撤退を開始した。進撃よりも撤退が困難であることは、云うまでもない。まして最上領と米沢のあいだは重畳した連山が連なり、天嶮(てんけん)をなしている。 上杉軍団は狭隘な険路をもみ合うようにして撤退している。 最上義光は、直江山城守に支城を陥とされ、士卒、三千余の損害をだしている。一挙に、その怒りを晴らさんと猛追に転じた。 山城守はこれを予期し、色部光長に街道の補修を命じていた。 またいたる所に、水原親憲と前田慶次の兵を埋伏させていた。「よいか、街道の半ばまでの辛抱じゃ。そこには水原、前田の勢が潜んでおる」山城守は全軍を叱咤し、時には猛烈な逆襲をみせ、且つ退く作戦で見事な退却戦を演じてみせた。 一方の最上義光も、先陣を駆け六尺の愛用の鉄棒を振り回し追撃し、上杉勢の殿軍を一気呵成に破っている。 昨日の色部光長のお蔭で撤退は思いのほかにはかどっているが、これは最上勢にも効果を発揮していた。狭隘険路な街道を執拗に食い下がってくる。 前方の坂道に、甲冑に身をかため小脇に自慢の大身槍を抱え騎馬の前田慶次が姿をあらわした。「ここからは我等が殿軍を受け賜ります」 見ると上杉家の朱槍の勇士と知られる、水野藤兵衛、韮塚理右衛門、宇佐見弥五右衛門、藤田森右衛門の四人の姿もある。いずれも不敵な面魂をみせ朱槍を抱えている。 「水原親憲は?」「鉄砲隊二百名を率い、伏兵として控えております」「慶次、奮戦を期待する」 山城守が騎馬をあおり急坂を駆け上っていった。 敵の先陣と前田勢が鼻先を突きあわせる格好となった。「わしが、前田慶次じゃ。見事に通りぬけるか」 凄まじい大声を発した前田慶次が、自慢の大身槍を旋回させ、最上勢のなかに割って入った。負けずと四人の勇士も朱槍を抱え続いた。 血煙をあげ敵兵が坂を転がり落ちる。「わーっ」と喚声をあげた前田勢の兵が猛烈なる攻撃をみせ、敵勢を圧倒している。 突然の伏兵の出現で最上勢が一町(約百メートル)ほど後退した。「皆の者、引くのじゃ」 見逃さず前田慶次が命じ、己も血塗れの姿で坂道を駆け上がり、全軍一団となって退却をはじめた。 四人の朱槍の勇士のみが踏みとどまり、最上勢の進撃を阻止している。「四人とも坂道に伏せよ」 突然に水原親憲の塩辛声が響いた。「伏せるのじゃ」 四人が騎馬から転がるようにして、坂道に躯を伏せた。「ゴオー」 兜の頭上を震わせ銃弾が最上勢に降り注いだ。「伏兵じゃ」 敵兵の顔面が蒼白となった。狭隘な坂道を密集して攻めのぼって来たために後方に退けない。小説上杉景勝(88)へ
Apr 13, 2007
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矢張り、わしの考えが甘かった。山城の進言どうり家康が小山から反転する時に、総力をあげて追撃するべきであった。 景勝は青味をおびた剽悍な眼差しで、遥か先の美濃につづく地平線を見つめ後悔の念に浸っていた。 これで我が上杉家は孤軍となった。天下に名を轟かした武勇精強でなる、不識庵公以来の武者魂を家康に示すために、一同そろって江戸に乱入いたすか。じゃが、もう遅い。そんな思いを抱き悄然と自室に籠もった。 彼はひたすら大杯を呷って思案にくれている。最上から兵を引き家康に恭順するか、だが、死を命ぜられたら、何のための恭順か分らぬ。 関ヶ原の合戦で家康は天下をほぼ手中とした。それもあの豊臣恩顧の阿呆な猪武者の力が大であった。 彼等が崇拝する秀頼公は、大阪城で健やかに成長なされておる。家康が豊臣家から天下を継承するには、大阪城を攻略せねばならない。その時期がくるまで家康に膝を屈し、奴が牙を剥き出し大阪城を攻めはじめたら、豊臣家のお味方として大阪城に入城し、この度の屈辱を晴らすか。 景勝の思考はちじに乱れていた。彼は城代の大石綱元を呼び出した。「お呼びにございますか?」 綱元が厳つい顔をあわした。「上方の合戦は西軍の敗北に終った」 景勝が無念の形相で告げた。「何とー、石田三成さまが敗れましたか」 大石綱元が唖然としている。「矢張り、石田治部少輔殿には荷が重かったよぅじや」 景勝の脳裡を往年の石田三成の顔がよぎった、あの性格じゃ。西軍の武将連を掌握仕切れなかったのじゃ、今になって判った。「あの剃刀のような武将でも、内府には叶いませでしたか?」「今更、言うても詮なきことじゃ。我が上杉は孤軍となった、このうえは山城に撤兵命令をださずばなるまい」「左様にございますが、西軍の敗戦は何時にございました」「皮肉なものじゃ、山城が長谷堂城を包囲した九月十五日であった」「たった一日でけりがつきましたのか?」 綱元が愕然とした顔をした。「家康の利に調略された結果じゃ、大阪の千坂景親からの報告で察しがつく」 景勝が青味をおびた顔で呟き、大石綱元に命令を伝えた。「わしの書状を山城のもとに届けよ、速やかに撤退させるのじゃ」「はっ、すぐに人選をつかまつります」 若松城から、伝令の将が直江山城守の滞陣する長谷堂城にむかったのは、九月二十九日の早朝であった。 最上義光と伊達政宗には、この日に家康から東軍勝利の知らせが届いていたが、山城守は知らず、明日に陣変えをして決戦場を移す軍議を開いていた。 その日に景勝からの撤兵命令を受け取った。 山城守も暫し茫然とした。島左近とともに三成の壮大な戦略と味方の大軍を知らされ、必勝の信念を胸に秘めていたのだ。 だからこそ、家康が小山から軍勢を反転する際、景勝の意見を尊重し追撃を諦め、この最上領に進攻してきたのだ。 「早々と敗れたか」 関ヶ原合戦の敗北からもう、一ヶ月余りも経ている。山城守の決断は早い。彼は諸将を招集し、西軍の敗戦を伝え撤兵命令をくだした。「色部光長、そちは足軽二千を引き連れ狐越街道に急行いたせ」「はっ、して任務は?」「既にこの知らせは最上と伊達には届いておろう、わしは明日まで攻撃の気配を示し、滞陣いたし両勢の反撃を許さぬつもりじゃ。狐越街道は狭隘険路、我が大軍が素早く撤退できるよう、道路の拡張と補強を行い先鋒隊として会津に帰国いたせ」 色部光長が意図を感じ取り、素早く軍議の場から消えた。「水原親憲に前田慶次」 「はっ」 「そち等も隠密に先発いたせ」「我等も帰国にござるか?」 両人が不満そうな顔をした。「我等が撤退したと知ったら、最上勢の追撃はずいぶんと烈しいものになろう。そち達は険路な場所に伏兵の策をなし、本隊の援護を頼む」「殿軍にござるか」 「そうじゃ、本隊が狐越街道に入ったら両勢が殿軍となる」「心得申した」 二人の猛将が甲冑の音を響かせ本陣から去った。小説上杉景勝(87)へ
Apr 12, 2007
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「敵じゃ」 最上勢が一斉に丘にむかって身構えた。「味方が来るまで敵を引きつけるのじゃ、我等三人での」 泰綱の言葉に二人の部下が声を失った、眼下には百五十名もの敵勢がいる。上泉泰綱は、なんとしても敵の増援部隊を城に入れずに阻止したかった。そのうちに我が軍の救援が来る。泰綱が馬腹を蹴った。騎馬が狂ったように敵勢にむかって駆けた。「上杉が先鋒大将の上泉泰綱なり、いざ見参」「小癪な、一騎で襲ってくるとはいさぎよい」 敵の騎馬武者が数十騎ほど馳せ向かってくる。残りの敵勢は足を早め城に向かってゆく。泰綱が馬上で愛用の大刀を抜き放った、どっと敵の騎馬武者と激突した。先頭の武者とすれ違いざま顔面を薙いだ、悲鳴とともに落馬した。敵の騎馬武者が怒りの形相で手槍を繰りだすが、泰綱は軽々と躱し、的確に一人又一人と斬り伏せている。流石は一刀流の達人である。 馬がいななき、土埃が立ちこめ凄惨な戦いとなっている。「強かじゃ、気をつけよ」 敵の騎馬武者があいだを取っている。 見守る二人は怖気づき蒼白となり、戦いに加わる気配をみせない。 血ぶるいした泰綱が再び突撃し、二人の敵を血祭りとした。「汝等、なぜ加わらぬ」 怒りの声で非難した泰綱の背に手槍が突き刺さった。ふり向きざまに一刀で斬り伏せた泰綱に、銃撃が加えられ。馬がさおだちとなり、どっと落馬した。 「あっー」 見つめる二人が悲鳴をあげた。 泰綱が素早く起き上がり大刀を振り上げた時に、猛射を浴びせられた。 兜が転がり、泰綱の躯が後方に吹き飛んだが、彼は刀を杖として仁王立ちとなった。敵の騎馬武者が猛然と駆け寄り、手槍が襲いかかった。 緩慢な動作で大刀が煌き、一人の武者の首が宙に舞った。それが最後であった。手槍を胸にうけた泰綱の体躯が、地面に転がった。「首を討て」 敵の生き残り武者がどっと駆け寄っている。「おうー」 悲鳴のような声をあげ、二人の部下が騎馬で馳せ下った。 怒号と馬蹄の音が乱れとび、必死で二人が防戦している。「わーっ」 丘に喚声が沸き味方の兵が猛然と駆け下ってくる。ようやく間に合ったが、上泉泰綱は既に呼吸を止めていた。壮烈なる最後であった。 血塗れの二人が茫然としている、前田慶次が騎馬で近づき、無言で非難の眼を浴びせ、上泉泰綱の躯を抱えあげている。 二人の部下の眼に後悔の色が刷かれている、怯懦の振る舞いを恥じているのだ。「ご免ー」 二人が同時に大刀を逆手として己の頚動脈を断ち切った。 上泉主水泰綱の戦死は、上杉の将兵に深い悲しみを残した。 山城守にこの知らせがもたらされた。 「戦死いたしたか」 この合戦を甘く見すぎていた、その思いが山城守の胸を締め付ける。思いもせぬ損害をだし、未だに長谷堂城も上ノ山城も陥とせずにいる。このまでは関ヶ原に出馬することは夢に終る。 我が上杉家の精兵三万名をもってしたも、たかだか一万に満たない最上勢を壊滅できないとは。上方の様子が気にかかるが一切の情報が途切れている。(治部少輔殿、合戦を引き伸ばして下されよ) 直江山城守は仏にすがる思いで本陣に腰を据えていた。 (朝の露) 慶長五年九月二十八日である。景勝は天守閣より南方を展望している。 鈍色(にびいろ)の空が地平線の果てまで広がっている。景勝は、つい先刻、関ヶ原合戦の東軍勝利の知らせを受け取ったのだ。 西軍に加担した諸大名の大軍と、石田三成の描いた壮大な戦略が、開戦一日で破れさるとは、到底、信じられないのだ。負けるいわれのない合戦の筈であ った。 「何故じゃ」 景勝が独語した。 しかし情報によれば、西軍の影の総帥の石田三成や、西軍最大の野戦軍団を率いた宇喜多秀家、小西行長も捕縛されたという。景勝のもとにつぎつぎと関ヶ原の情報がもたらされる。直接の敗戦の原因は、豊臣連枝の小早川秀秋の一万六千の裏切りと知った。さらに南宮山に布陣した、毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家等の諸隊は、最後まで合戦に参加せず、傍観していた事実も知った。小説上杉景勝(86)へ
Apr 11, 2007
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最上勢は必死の抵抗をこころみていた。地の利をえた小城の長谷堂城を、上杉勢はなかなか抜くことが出来ず、戦線は膠着情況に堕ちいっていた。 上ノ山城攻略も、最上勢の善戦のまえで難戦を繰り返している。 そうした形勢をみた伊達政宗が二万の大軍を率い、福島城攻撃を策し、飯坂に陣を敷いた。その翌日、伊達勢の武将木幡四郎右衛門が、敵情視察として手勢百騎を従え、福島城の近辺に姿を現した。 福島城には城代の本庄繁長と、あらたに召抱えられた蒲生家浪人の岡左内が護りを固めていた。左内は七十名の兵を率い城から打って出て乱戦のすえに敵将の小幡四郎右衛門の首級をあげる働きをみせた。 それを見た歴戦の政宗は勢を梁川城へと転進させた。ここの城代は弱冠二十二歳の須田長義であった。彼は防戦につとめ、奇策でもって伊達勢を撃退してみせた。上杉勢の将のなかでも将才をもった若武者であった。 山城守は水原親憲と甘糟景継に、六千名の兵を授け援軍として派遣した。これに勇気百倍した者が、岡左内であった。 彼は黒具足に猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織に南蛮兜で、松川(福島より一里)の陣中にいたが、配下を率い先駆けし伊達勢に迫った。 政宗は小勢の岡隊をみて降参と考え、岡左内に使者を遣わし訊ねさせた。「降参の者か?」 左内は黒の駿馬に跨り、凄味をおびた笑みを浮かべた。「さにあらず、合戦つかまつるなり」 と叫び一団となり突撃した。 これに伊達勢は先鋒の大軍をむけ、乱戦となった。 左内は手勢の半数を討ち取られ、自らも満身創痍となり退却をはじめた。それを見た政宗は騎馬を乗りつけ、斬りかかった。左内は陣羽織と具足の胴を割られたが、すかさず血濡れた太刀で片手拝みとし、政宗の兜の目庇から膝頭まで斬り返し、ひるむ政宗の大刀を薙ぎ折り、後も見ずに川を渡って引きあげた。「逃げるとは卑怯、とって返し勝負せよ」 政宗が面頬の中から叫んだ。水飛沫をあげ対岸に馬を乗り上げた左内は、「眼の利きたる剛の者は、そのような大勢の中には返さぬものよ」 と、云いすて味方の中に駆け込んだ。あとで、あの武者が伊達政宗と聞いた左内は、「さらば組打ちしても、首を討ち取るべきであった」 と長嘆息をしたと云う。 これは戦国武者の荒々しい一事を物語るものであった。戦後、政宗は三万石で左内を召抱えようとしたが、左内は旧主の好み、忘れがたし」と断っている。 この岡左内は奇士であった、日頃から金銭を好み、屋敷の座敷に銭が裸で積まれていたという。人々は眉をひそめていたが、本人は一向に気にせずにいたが、この合戦の前に景勝に永禄銭一万貫を寄進している。また死にのぞみ、同僚に貸した借用書をすべて焼き尽くし、この世を去ったという。 この松川合戦は上杉勢が優勢であった、伊達方の首級を千二百九十余もあげたと言われている。 伊達勢は転進し、九月二十四日、須川のほとりの沼木で陣を敷いた。 山城守も、すかさず陣容をあらため対峙した。こうして長谷堂城をめぐる戦線は膠着状態となったが、この情況でも小競り合いが連日つづいていた。 これを好機と捉えた最上義光は、長谷堂城への兵力増強を計っていた。 上杉の先鋒大将の上泉泰綱は、三名の騎馬武者を伴い周辺を巡視していた。すでにこの山形一帯は冬の気配をみせはじめている。 長谷堂城には旗指物が風にあおられ、依然として健在である。「御大将、馬蹄の音が聞こえます」 四人は馬をとどめ耳をそばだてている。確かに馬蹄の音と甲冑の擦れ合う音が聞こえる、四人が小高い丘に身をひそめた。眼下を騎馬武者が五十騎と、百名ほどの足軽が城に向かっている。「山形城からの増援部隊じゃ、お主は我が陣にもどり兵を率いて参れ。わしは物見をいたす」 泰綱の下知で一騎が足音をひそめ陣中にもどって行った。 敵勢の先頭には大兵の武者が馬を急がせている、なかなかの強者としれる。 泰綱が引き締った横顔をみせ様子を探っていたが、おもむろに命じた。「弓矢を貸せ」 暫くみつめた上泉泰綱が弦を引き絞った。「御大将、無茶にござる」 「無茶は承知じゃ」 矢が弦を離れ、先頭の武者の首筋に命中した、悲鳴もあけずに落馬した。小説上杉景勝(85)へ
Apr 10, 2007
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この緒戦で上杉勢は五百名の首級をえた。山城守は手をゆるめることなく山野辺、谷内、白岩の各支城を抜き、救援の最上勢を蹴散らした。 この上杉勢の猛攻をみた八ッ森、鳥屋森なぞの周辺の城将たちは、戦闘を放棄して逃げ散った。上杉勢の損害は百名をくだるものであった。 残るは最上家の本城、山形城と支城の長谷堂城(はせどうじょう)、上ノ山城の三城である。 最上義光は、この窮状を建て直さんと伊達政宗に救援を要請した。政宗は叔父の留守正景を名代とし、騎馬武者二百名と足軽七百名を派遣するにとどまつた。直江山城守は、鮭延秀綱(されのべひでつな)の護る長谷堂城を攻略目標として城に迫り、瞬く間に包囲した。時は慶長五年の九月十五日であった。 最上義光はこの知らせを受け愕然とした。万一、長谷堂城が落ちたら、上杉勢の大軍は本城の山形城に攻め寄せてくるであろう。そうなれば最上は終りだ、彼は山形城から加勢の軍勢を差し向けた。 こうして東北の関ヶ原と呼ばれる、長谷堂城の攻防戦が幕をきった。 山城守は軍勢を二手に分け、一軍には上ノ山城の攻略を命じ、自身は長谷堂城から十一町(約一・二キロ)の菅沢山に本陣を構え、山裾には万全をきして春日元忠勢を配し、備えを固めた。 一方、最上義光は必死である、もう後のない合戦である。彼は山形城より夜襲を命じ、長谷堂城から二百名の決死隊が、ひそかに春日勢に接近していた。夜の帳が菅沢山を覆いつくし、大篝火が焚かれ真昼のようである。 直江山城守は本陣で戦略を練っている。傍らには上泉泰綱、前田慶次、猛将でなる水原親憲等が控えていた。「山城守さま、上ノ山城もしぶとく粘っておりますな」 前田慶次が、野太い声を発した。「志駄義秀と色部光長に包囲を命じてある、この合戦の要は長谷堂城じゃ。これを攻略すれば、山形城はすぐに陥ちる」「したが、最上義光は古豪にござるな」 水原親憲が感心している。「皆に申し渡す、我等は一時も早くこの合戦を終らせねばならぬ。最上勢に立ち直るすきを与えてはならぬ」「そうでございますな、我等は総力をあげて中原に軍団を進めばなりませぬな」 前田慶次利大が不敵な顔つきをみせた。「夜襲じゃ」 突然に山裾のほうから味方の声があがった。 一座の将が立ち上がるなか、 「春日元忠、眠っておったか」 山城守が落ち着いた声を発し腰を据えている、喚声と怒号が烈しくなった。「拙者が参る」 前田慶次が甲冑の音を響かせ、朱槍を抱え本陣から辞した。外には慶次を師事する、上杉家の槍の勇士と云われた四人が待ちうけていた。水野藤兵衛、宇佐見弥五衛門、韮塚理右衛門、藤田森右衛門等である。彼等の手勢の槍隊四百名が、篝火の脇に待機していた。「夜襲とは小勢じゃ。同士討ちに用心いたせ」 前田慶次が大身槍を抱え本陣を駆け下っていった。 その頃、春日勢は二百名ほどの夜襲隊に襲われ、山頂にむかって逃げ惑っている、まるで烏合の衆であ。 「元忠殿、血迷ったか」 「これは、前田殿」 やはわに慶次の自慢の朱槍が光芒を放ち、斬りこもうした敵の武者が深々と胸を貫かれ、具足の音をたて転がった。「かかれやー」 前田慶次の声に応じ、槍隊が武者声をあげて山を駆け下る。 最上の夜襲隊は、山頂の上杉の本陣を目指していたが、前田勢に討ち果たされ、ほうほうの体で落ちのびた。 翌朝、春日元忠は敗戦をそそぐべく、兵を長谷堂城の外濠に進め、果敢な攻撃を試みたが、城の四方の櫓から銃撃を浴びせられ、甚大な損害をだし敗退した。山城守は援軍の鉄砲隊を繰り出し、春日勢を収容し睨みあいとなった。 山城守は軍議をかさね、長谷堂城の目前に広がる稲田の刈りとりを命じた。彼等はそれを見たら必ず出戦してくるであろう、そこを狙って殲滅する。 誘われるように、鮭延秀綱が旗本百騎を従い討ってでた。上杉勢はわざと破れ退却した。この山城守の刈田誘いを読み、鮭延秀綱は勢を返した。 それを追った上杉勢が大手門一町ほど追いすがると、突然、伏兵の鉄砲隊に銃撃を浴び、上杉勢は退却を強いられた。完全に最上勢に翻弄された。小説上杉景勝(84)へ
Apr 9, 2007
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この戦勝報告をうけた家康は躍りあがった。 「やったかー」彼はこれを待っていたのだ。猪武者の福島正則が、とうとう策にのったのだ。 中納言秀忠は、すでに八月二十四日に宇都宮に出立している、総勢三万八千名の大軍団である。軍監として本多正信に榊原康政が従っていた。 この徳川第二軍団は信州をぬけ、関ヶ原にむかう手筈となっていた。 九月一日、家康がようやく重い腰をあげた。彼は甲冑を用いず平服のままで東海道を西上した、本隊、三万二千の大部隊である。 家康動く、この知らせは翌日に会津にもたらされた。同時に岐阜での西軍の敗戦の知らせも届いていた。それに呼応するかのように最上義光が動いた。 彼は秋田実季(さねすえ)と組んで、上杉領の酒田城攻撃の動きをみせたのだ。最上の領土は上杉百二十万石に対し、三十万石にも満たないものであったが、家康の後ろ盾と伊達政宗の合力を当てにして立ち上がったのだ。 義光は庄内を己の領土としたい野心があり、上杉は会津、庄内、佐渡と領土が分かれ、合戦となると不利な情況であった。そのために最上領の占拠を画策していたのだ。酒田城主は志駄義秀で三千の兵力で守りを固めていた。 兼続に最上領進攻の命が景勝からもたらされた。 九月九日、直江山城守は三万の精鋭を率い、米沢城から出馬した。めざすは最上勢の最前線にあたる畑谷城(はたやじょう)である。 先鋒三千の将、色部光長をはじめとして春日元忠、水原親憲(ちかのり)、上泉泰綱、前田慶次等の猛将が加わっている。 上杉勢の進攻を知るや、最上義光は主城の山形城に兵を引いた。そのために庄内の酒田城から、志駄義秀が三千の兵を率い軍団に加わってきた。 直江山城守は『愛』の前立の兜に薄浅葱糸威最上具足を用い、鹿毛の駿馬に騎乗している。畑谷城の侵入経路は二街道あるが、山城守は狭隘で険路な狐越街道をえらび大軍を進めた。これには山城守の深慮遠謀が働いていた。 最上勢は大軍が通過するに適した中山街道から、上杉勢が押し寄せると考え、街道に伏兵を忍ばせていたが、見事にその策の裏をかかれたのだ。 九月十二日、畑谷城の将兵は仰天した。三万余の上杉勢の大軍が突如として城を包囲したのだ。幟(のぼり)、旌旗(せいき)、指物が風に靡き壮観な眺めである。ここに東北の関ヶ原と呼ばれる合戦が火蓋をきったのだ。 山城守は降伏の使者を遣わしたが、守将の江口五郎兵衛が大手門に姿を現し、「戦わずに降伏するは、武士の作法にあらず」と、これを一蹴した。「小気味よし」 山城守の白皙の面上が紅潮した。 本陣から母衣(ほろ)武者が背の袋を風に膨らませ、先鋒の色部光長の陣に駆けつけた。山城守の攻撃の下知であった。 粛々と毘の指物を靡かせ、色部勢が動きだした。鉄砲隊を先頭として長柄槍隊が後続して大手門に迫っている。 山城守が兜の目庇(まびさし)ごしより鋭く敵城をみつめ采をふった。 勁烈(けいれつ)な法螺貝の音が響き、兵士等の喚声が沸きあがった。 城の前面は水をたたえた濠が横たわり、その奥に大手門がある。 敵兵が銃眼より筒先をつきだしているのが望見できる。色部勢の鉄砲足軽が濠の前に折り伏している。「放てー」 組頭が立ち上がり下知を与えた。凄まじい銃声が轟き白煙が前面を覆いつくしている。城内からも銃撃がはじまり、身を隠す場所のない色部勢が押されている。 「いかん」 山城守が後退を示唆した。 退き鉦が打たれ、味方の色部勢が散々に撃ちしろめられ後退してきた。 山城守は戦法を変え、城の後方に位置する金森山に鉄砲足軽を配し、銃撃戦に切り替えた。この攻撃で畑谷城は甚大な損害をだした。 守将の江口五郎兵衛は、今はこれまでと猛烈な突撃を敢行した。 上杉本陣から炯々と法螺貝が響き、上泉泰綱が五百名の部隊を率い猛攻をかけた。この攻撃は凄まじいもので、泰綱は敵と接触するや騎乗から三名の兜武者を、瞬く間に血祭りにあげた。 この上杉勢の突撃で、江口五郎兵衛は壮烈な討ち死にを遂げた。小説上杉景勝(83)へ
Apr 7, 2007
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この二人の考えは的をえていた。事実、江戸城に居座る家康の杞憂もその一点にあった。豊臣家恩顧の諸大名の節義に疑いをもった。 小山の陣では、誰一人として反対する大名が出なかった。それは贅沢な悩みであっが、逆に疑念がつのっていた。 武門の主たる者は、利にうとく義や信に重きをおくものと考えると福島正則なんぞの、猪武者の心根の貧しさを思い知らされるのだ。 そんな者どもをけしかけ天下を奪わんとする、己の所業にも可笑しみを感じていた。油断は出来ぬ、決定的な動きをみるまでは軽挙妄動は出来ぬ、そう己を律していたのだ。 景勝と兼続は家康の心理を見極めている、だからこそ今回の合戦は長引くと判断した。その間に最上領を傘下におさめ、後顧の憂いをなくし軍勢を率いて西上する。それには家康の江戸出馬が遅くなるほど有利とよんでいた。「奴が美濃に着陣したら、我等は総力をあげて上方にむかいます」「そうじゃ、これが上杉の戦略じゃ」 このことを何度となく二人は確認しあっていた。翌朝の早暁、直江山城守は最上攻めのために若松城から去った。 尾張清洲城で軍議がひらかれている。家康派遣の軍監本多平八郎忠勝と井伊直政はひそかに昨日、福島正則に家康の出馬遅れの原因を語った。「ご両人、内府の考えは当然じゃ」 正則はそれを聞きカラリと答えた。正則と云う男は激高すると手がつけれないが、ことが分ると異常なほどに感激する男でもあった。今の彼は武将としては当然と受け止めたのだ。 軍監の二人は軍議の結果を頭領格の福島正則にすべてを託した。「内府は、我等に自発的な攻撃を示唆されておる。従って我等は西軍の前衛基地の岐阜城を攻略いたす」 正則が諸将の前に仁王立ちとなり大声をあげた。 一座の諸将連が顔を見合わせた、云われることは判る。「その前に木曽川を渡河せねばなるまい」 池田輝政が吠えた。 この二人の掛け合いで瞬時に、岐阜城攻撃が決定をみたのだ。「三左(池田)われは昔、岐阜城の城主であったの。わし同様に地理に詳しい、軍勢を二つに分ける」 正則が猛々しい声をあげた。 「よかろう」「竹ケ鼻城を陥し岐阜城に向かう。上流の浅瀬の河田はわしの担当じゃ、三左は下流の尾越から城の搦め手に向かえ」「それには異存がある。左衛門大夫、われが尾越から攻めよ」 河田からは岐阜城の大手門が近い、それを池田輝政が指摘したのだ。 軍議が決定するや、早、先陣争いが起こっている。本多平八郎と井伊直政がしてやったりとニヤリと顔を見合わせた。「頭領の、わしの指図に従えぬと申すか?」 何しろ二人とも荒大名で聞こえた豪の者である、軍監の本多平八郎が仲裁に入り、福島勢が搦め手を担当いることに決した。 この八月二十二日の早暁、木曽川に銃声が轟き東西の軍が、銃火を交わした。東軍、三万六千名が木曽川を渡河し、猛烈な攻撃を仕かけた。西軍の織田秀信の先鋒隊が押されている。要害で知られた岐阜城に籠もる織田勢は六千余名である。福島勢と池田勢を先鋒とした、三万六千名が木曽川の上流と下流から、攻め上り岐阜城に迫った。 ここに織田秀信と言う城主に筆を進めてみる。彼は織田信長の嫡孫で信長の横死により、織田家の家督争いが秀吉と勝家の間に起こったとき、秀吉が担ぎだした。幼名『三法師君』のことである。今は岐阜中納言織田秀信と名乗り、豊臣政権下の一大名に過ぎない身分となっていた。 ここにも家康の調略の手は伸びていたが、不思議なことに彼は豊臣方についたのだ。祖父の信長、父の信忠に似ずに武よりも遊興に興味をもった若者で、大阪城の秀頼のために与力を決意した稀有の武将であった。 この時、二十一歳の若武者であった。戦後、彼は髪をおろし高野山にのぼり 翌年、病死を遂げている。 東軍の猛烈な攻撃で、さしもの堅固な城塞も翌日には落城した。東軍は余勢をかって竹ケ鼻城と犬山城をも攻め落とした。小説上杉景勝(82)へ
Apr 6, 2007
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(最上攻め) 上杉勢は家康の小山からの反転を見定め、米沢城を拠点として最上領進攻の戦闘準備に追われていた。 一方では旧領回復を目論む、伊達勢との小競り合いが続いていた。 伊達勢には当主の景勝が、みずから兵を指揮しこれに当たっていた。 伊達政宗は最上義光と連携し、上杉包囲網の構築を家康から命じられていたのだ。曲者の政宗の本心は、領土欲で彼は虎視眈々として旧領回復を策し、大軍を上杉国境に集結させていた。 この時期に景勝は、西軍の毛利輝元と宇喜多秀家に書状を送っている。 家康が小山に滞陣している時期で、内容は直ちに関東表に出陣する考えであるが、最上や伊達勢がうるさく思うに任せず、まず、これの対処をなして関東に出馬するむねを告げている。さらに景勝は家康が西上するならば、常陸の佐竹義宜と計って関東へ乱入すると告げ、九月中に出陣を果たすと書き送っていた。この時期景勝の本心は、後顧の憂いをなくすために最上領を手中にせんとする意図があったと見受けられる。 八月中旬に景勝は、伊達勢と対峙している信夫(しのぶ)口の戦線から、若松城に久しぶりに帰還した。理由は伊達勢の攻撃が下火となった結果である。これは家康が小山から軍団を反転させたことが原因であった、この家康の行動が、奥羽各地の大名たちに微妙な影響をもたらしたのだ。 内府は軍令でもって上杉征伐として参集を促しながら、突然に兵を引くとは解せぬ、これが奥羽諸侯の本音であった。 米沢から直江山城守も若松城にもどってきた。二人には、今後の戦略の練り直しがあった。 「お屋形、ご苦労をおかけしました」「なんの、家康追撃を中断いたし血潮が滾っており、ちょうど良い合戦であった。ところで最上攻めの用意はどうじゃ」 日焼けでさらに浅黒さを増した景勝が、兼続に視線をむけた。 「九月そうそうに最上に進攻いたします」 相変わらず二人は無口である、必要な事柄しか口にしない。腰元が二人の前に膳部をならべて引き下がった。「ほお、なかなかなご馳走にござるな」 兼続が感心している。「戦場帰りじゃ、体力をつけねばの」 早速、景勝が大杯を数杯あおった。 兼続は一口啜り膳の鮎に箸をつけた。 「越後の情況はどうじゃ」 景勝が鮎を頭から咀嚼しつつ訊ねた。「堀家もなかなかしぶとく難儀いたしております」 「一揆は成功と聞き及ぶ」「左様、されど援軍の軍勢がことごとく敗れております」「仕方があるまい、津川口の前田勢や堀勢の進攻が止まっておる。良しとせねばの」 景勝の指摘どおり、越後では上杉遺臣等を中心とした一揆が各地で勃発していたが、それを支援する上杉勢が撃退されていた。越後坂戸城を攻撃した、松本伊豆守は堀直寄に撃退され、一揆勢が陥した下倉城も取り返されていた。「山城、越後は越後勢に任せよう、兵の小出しは兵法に反する」「左様に、そのように取り計らいます」「久しぶりじゃ、今宵は大いに飲み戦塵の疲れを癒そう」 景勝が顔色も変えずに、豪快に飲んでいる。「お屋形、なぜ家康の軍団が反転いたした時に、追撃を諦めました」 兼続には未だにそれが疑問として残っていた。「追撃すれば乾坤一擲の勝負となろう。あの狸爺のことじゃ、万全な態勢で反転いたしたであろう。あの時に追撃いたせば、あるいは勝ちを治めたかも知れぬ。が、我等も全滅の憂き目におうたかも知れぬ、わしは賭けを止め西上に上杉の運命をゆだねた」 語り終わり、景勝が剽悍な眼差しをしている。「左様な心配りを為されましたか?」 初めて兼続は景勝の胸中を知った。同時に武将としての成長をみる思いであった。「東西の合戦は未だ始まってはおらぬ、合戦は長引こう。この隙に最上を攻略する」 「未だ狸は江戸から腰をあげませぬな」「奴は味方した豊臣恩顧の大名どもに疑念があるのじゃ」「疑念と仰せあるか」 兼続は己の疑問と一致した景勝の答えに内心、舌を巻いた。 「奴に味方となった大名どもは、福島正則の居城、清洲城に集結し、狸爺を待って居ると聞く」 「成るほど、清洲城の大名どもが西軍とひと戦せねば、信用できぬと考えておりますか」 薄っすらと兼続が笑みを浮かべた。「そうじゃ、のこのこ江戸から直営軍を率いて奴等に裏切られたら、奴は最後じゃ」 景勝が、にこりともせずに大杯をあおった。小説上杉景勝(81)へ
Apr 5, 2007
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伊達勢の白石城攻撃の、この日、下野小山の東軍陣営でである。 家康は肥満した体躯を運んでいた。陣屋には家康に従ったきた諸侯が全員顔を揃えている筈である。 「福島正則は大事ないか?」「黒田長政の篭絡(ろうらく)が功を奏しております」 傍らの本多正信のしわがれ声に、満足げに肯いた。「歳を経ると暑さがことのほか堪える」 家康は平服で大広間に一歩踏み込んだ。すでに諸侯たちが全員うち揃っている、福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政、浅野幸長、加藤嘉明等の荒大名に、海道筋の諸侯等である。 家康が上段の席に腰をすえ、かたわらに本多正信と本多平八郎が並んで座した。あとはすべて豊臣家恩顧の大名ばかりである。「方々、すでに聞きおよびのこととは存ずるが、大阪表で奉行どもが秀頼公をあざむき、内府を討たんとする暴挙が出立いたした」 本多正信が、しわがれ声を張り上げた。「おおかた佐和山の治部少の差し金でありましょう」 福島正則が大声をあげた。家康は黙然と態度も変えずに座している。(この分では巧くいきそうじゃな) と、内心ほくそ笑んでいる。「妻子を大阪城に人質として捕らえられておられる方々も居られよう、また豊臣家の恩顧を大切に為されようと思われる方々も居られよう。そのようなお人は去就を自儘(じまま)に為され、今から陣を払い領国にお帰りなされよ。遺恨には感じもうさぬ」 本多正信が声を張り上げている。「あいや、待たれよ」 一同を制するごとく福島正則が進みでた。「余人は知らず、この左衛門大夫は治部少輔に加担する謂れはござらん。拙者は内府にお見方つかまつり、そのご先鋒を賜りたい」 一瞬、一座が沈黙したが、時の勢いで次々と全員が賛意を示した。「拙者、内府殿に掛け合いがござる」 見ると遠州掛川六万石の山内一豊である。 「何事かな対州殿?」「お味方としての証といたし、領土も城もすべて内府殿に差し上げまする」 この凄まじい提案に海道筋の諸将たちも争って同意した。彼等の思惑は別として、ことの成行きであった。思ってもみない展開に家康は驚喜した。「対州殿、かたじけない」 座を降り、山内一豊の手をとり、おし戴いた。 この海道筋の大名たちは、秀吉生前に家康の備えとし律儀者を揃えていたのだ。その彼等が秀吉の思惑を無視し、あっさりと家康に寝返ったのだ。 まさに恩から利へと転換した瞬間であった。 その後、本多平八郎の音頭で軍議がとり行われた。「西に石田方が蜂起した今、上杉家を討ち果たすべきか皆さまにお尋ねいたす」「知れたこと、これを内府は待っていた筈じゃ。これより西上いたし治部少輔とそれに味方する者どもを討ち果たすべきにござる」 福島正則が、今にも出陣せんばかりの勢いをみせた。「ご異存はありませぬな、さらば先鋒は一存で決め申した。福島正則殿と池田輝政殿にお願いつかまつる」 「畏まった」「お聞きいたす、内府はいかがなされます」「左衛門大夫殿、上杉勢の動きを牽制いたし、一度、江戸に立ち戻ります」「我等のみで西上いたしますのか?」 福島正則が不審げに訊ねた。「時期をみて西上いたす。方々は福島殿の領土尾張清洲にて軍を止められよ。わしも近々に清洲に出向き、ご一同と合流いたす」 これが世に名高い「小山評定」であった。 翌日から諸大名の軍勢がせめぎあって奥州街道を南下して行く。家康は小山から動かず、上杉勢の動きを観望している。 わしの反転を待って討ってでるか?、この一念に的を絞っている。そうした中で最上、伊達と連携を保ち、会津の上杉家、常陸の佐竹家の牽制として中納言秀忠を下野の宇都宮城にとどめ、下野の領主、結城秀康に増援の軍勢を与えている。 何度も云うが、家康という男は臆病なほど猜疑心が強い男であった。 人は利に弱い、このことが彼を小心にさせ慎重にさせているのだ。 こうして万全を期して徳川本隊を率い、八月五日に江戸城に帰城した。 この間、上杉勢は景勝の命を守り、一兵も国境から足を踏み出さず、去り行く徳川本隊を無言でみつめていた。小説上杉景勝(80)へ
Apr 4, 2007
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「山城、そちが狸ならば軍団を小山から反転いたすか?」 景勝が何事かを思案しながら訊ねた。「勿論にござる。天下を手中にいたすためには軍を西上いたさねばなりません」「このまま、上方に向かうかの」「いや、拙者なれば大名等を西上させ、一度、江戸にもどり暫く動きを見届けますな」 「あの福島正則や黒田長政どもが、それを許すかの」「許しましょうな、福島正則は治部少輔殿を仇敵と思っております。天下を簒奪する者は治部少殿と吹き込めば、簡単にのりましょうな」「豊臣家連枝の福島正則、そこまで阿呆か」 景勝の態度がいつもと違ってみえる。 「お屋形、合戦を控えて心配ごとでもござるか?」「狸成敗のことじゃ、奴が反転した時の我等の戦略じゃ」 山城守の顔色が変わった。「内府を追撃せぬと仰せか」 「思案中じゃ」「我家の戦略は決まっておりましたぞ、この度の合戦では内府が反転した時が勝負。全兵力でもって背後を衝かねば勝てませぬぞ」「分っておる。我が領内に一歩でも踏み込んだら、全力をあげて叩きふせる。その為の佐竹殿との同盟じゃ、わしは西軍と東軍の大軍同士の戦闘の帰趨が知りたい。この勝負は長期戦となろう」 青味をおびた景勝の顔面が紅潮してみえる。「山城、川中島の合戦を思い起こせ、一ヶ月もの睨みあいの末の合戦となった。今回の合戦は日本を真っ二つとした大合戦じゃ、勝敗がつくまでに何か月もかかろう」 直江山城守が反論した。「お屋形は、何を考えてござる。合戦とは勝てる時に仕かけねば勝てる戦にも勝てませぬ、追撃こそが我家の軍法にござるぞ」「山城、そちは忘れたか、我家は義と信を奉ずる家柄じゃ。狸の背後を襲うなんぞは、我家の家法に恥じる」 はじめて主従の意見が異なった。「山城、わしも堂々と西軍の一員として合戦に参加したい。それには兵力不足じゃ、よって最上領を先に攻略したい」 兼続は言葉を飲み込んだ、彼の明敏な頭脳に不安感が奔りぬけた。「もしも、最上攻めの最中に西軍が、敗れるような事態となればいかがなされる」「杞憂じゃ、西軍には治部少輔殿と左近もおられる。信州には真田昌幸もおる、天下の三代軍師と云われたそちが、何を恐れる」「余りにも巧緻な戦略ですぞ。万一の場合は我が上杉家は、家康の前に膝を屈することになりますぞ」「西軍に負ける要素は見当たらぬ、わしは最上領を手に入れ、背後の愁いをなくし精兵を率いて西上いたす。これがわしの夢じゃ」 主人の景勝の命令は絶対である。「分り申した。内府が小山を転進する時は軍勢を動かしませぬ。しかし攻撃をうけた時の準備だけは整えておきます」「山城、了解をしてくれたか、わしの夢を叶えてくれえ」 ここに上杉家の方針が大きく転換したのだ、山城守も景勝の言い分は分るのだ。せめて関ヶ原における合戦は、一ヶ月ちかくの長期戦になるよう望みを託した。その間に最上領を攻略してみせる、そう心に決した。 直江山城守は景勝の意をていし、ひそかに支城に使いを派遣し出陣の用意を命じた。七月二十五日に若松城に急使が駆けつけてきた。 白石城落城の知らせであった。前日の早暁、にわかに伊達勢の大軍が攻め寄せてきたのだ。あいにく守将の甘糟景継は、徳川対策で若松城に出張中であり、弟の登坂式部が留守をあずかっていたが、徳川軍団が会津に侵攻するとの情報を得た伊達政宗は、ただちに行動を起こしたのだ。 白石城は、もともと伊達家の旧領であった。白石城の上杉勢は果敢な抵抗をみせたが、政宗は一万余の大軍を擁して攻め寄せたのだ。 登坂式部は衆寡敵せずとみて降伏した、流石は奥州の覇者と異名をとるだけの伊達政宗の素早い攻撃であった。これを聞いた景勝は激怒した。 すでに最上攻めを命じていたが、急遽、伊達勢に対しても交戦するよう下知を発した。小説上杉景勝(79)へ
Apr 3, 2007
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会津には本城の若松城と三十二の支城があり、それぞれ城代が配されていた。これまで最も重要視されていた城は白石城であった。 伊達勢に対する最前衛基地としての役割として、城代は猛将で名高い甘糟景継(かげつぐ)を入れていた。さらに最上勢の備えとして米沢城があった。 この両城についで南会津の要として南山城(みなみやまじょう)が重要視されていた。ここは越後と下野の国境に近く、堀秀治対策として兼続くの実弟の大国実頼(さねより)を配していた。 だが、徳川家康の伏見出陣により、白河口に面する白河城が最も重要な拠点となってきた。ここは重臣の芋川正親(ただちか)が城代であった。 六月に入り景勝は城の補強を命じ、懸命な工事が進められていた。さらに徳川軍団との合戦に備え、ぞくぞくと大軍が集結していた。 会津若松城の居室で景勝と直江山城守が密談をかわしている。「お屋形、とうとう石田治部少輔三成殿が挙兵しましたな」 山城守が扇子で太腿をたたき白皙の顔で景勝をみつめた。「英雄じゃな」 景勝が浅黒い顔をみせ呟いた。「左様、佐和山十九万石の身代で西国雄藩の大名を動かし、影の総帥となられるとは、たいした人物にござる」「伏見城を陥して大垣城を攻略したときく」「島左近殿の申されたとおり、美濃が正念場となりましょうな」「美濃のどこを主戦場とみる」 「関ヶ原と推測つかまつります」 家康が小山に滞陣しているいうのに、二人は天下の展望を語り合っている。「西軍は九万余の大軍じゃ、すでに畿内と美濃で戦線を動かしておるが、家康は今もって小山で滞陣いたしておる。狸の今後の動きをどう読む」「我が会津に向かってまいった軍勢の大半は、豊臣恩顧の大名にござる。総勢六万名の大軍。・・・恐らく上方への転進を奴は考えておりましょう」「いかなる理由で諸大名どもを納得させるか見ものじゃの」「左様、西軍の総帥として毛利輝元殿が大阪城に入られましたな、これで西軍が正統な豊臣軍団の証となりました」「山城、そちもわしも真っ正直者じゃ、人は利に弱いと聞く」 景勝が剽悍な眼差しを見せた。「これは驚きました」 日頃の景勝らしくない言葉に、山城守が不審そうに、景勝を仰ぎみた。「上方におる千坂景親からの報告で知った。太閤殿下の死去で次ぎの天下人はは、徳川家康じゃと申す者が圧倒的に多いそうじゃ」 千坂景親とは、景勝が上方の情勢を知るために残してきた家臣である。「お屋形は石田殿に同調した大名等に、内符に心を寄せる者がおる申されるか」 兼続は内心、景勝の言葉に驚いた。何時の間にか上方の情勢を読みきっている。「上杉家の家法に馴染んだ、わしには信じられない事じゃがな」「恩と利の戦いと仰せか?」 「わしにも分らぬ」 「醜い世になりましたな」「ところで軍勢の集まり具合はどうじゃ。万一にも狸が我が領土に一歩でも踏み込むことあれば、徹底的にたたき潰す」 景勝が激越な口調で断じた。「すでに白河口には、三万名が集結を終えております。この若松城にも一万五千名が籠もっております、いざとなれば一斉に押し出します」「巧くゆけば狸の首が拝めるの」 「御意に」「常陸の佐竹義宜殿は、いかがなされておられる」「仙道口を任され、一万六千名の軍勢で待機なされておられます。内符が我が領土に進攻すれば、背後を衝き我等と東軍を挟撃することになりましょう」「いずれにしても、会津進攻を行えば狸の命はなくなるの」「天下静謐のために命を捨ててもらわねばなりませぬな」 直江山城守が気負いもみせずに言い放った。それだけこの合戦の帰趨に自信があるのだ。上杉勢と佐竹勢を加えれば優に兵数は互角となる、さらに東軍は寄せ集めの軍団であるが、我が上杉勢も佐竹勢も一致団結した精強なる軍団である。謙信の薫陶をうけた将兵も数多く残っている。小説上杉景勝(78)へ
Apr 2, 2007
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