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「安村隊士、無事でしたか」 茂吉が安堵の声をかけた。 その茂吉と血塗れの隊士を見つけ、坂田副長と速水参謀長が駆けよってくる。 「隊長、健在でしたか。安村、貴様いつ入城した」 こもごも無事を喜びあった。速水参謀長が隊士の人数を数えている。「三十二名しか居りませんな」 「いや、雀林病院に四名居りますよ」「四名が負傷しましたか?」 速水参謀長が顔を曇らせ訊ねた。「小出隊士の負傷は知ってますよね。小野軍医と牧野隊士、孫太郎が付き添っています」 「そうですか、全員三十六名ですな」「わずか五ヶ月で戦死六名、負傷者が一名と逃亡者が二名ですか」 坂田副長が複雑な顔をしている。「わたしの責任です」 隊長の茂吉の胸に痛みが奔った。「日向内記殿が隊長にお会いしたいと待っておられます」 安村隊士が不動の姿勢で報告した。 「日向隊長はご健在ですか?」 「はい、ご案内いたします」 安村敬三郎が慣れた態度で西出丸のなかを案内する。「安村さん、城内には詳しそうですね」 「数日前に入城しましたので、ここら辺りは隅から隅まで承知しております」 安村隊士が胸を張った。「それは心強い」 「隊長、勝手な行動をお詫びいたします」「戦闘中の出来事です、生き残ってくれて嬉しいですよ」「朝比奈隊長、一別以来ですな」 長の籠城の疲れも見せず、日向内記が端正な顔に笑みを浮かべ詰め所の前に出迎えていた。「今市でお別れしましたが、お元気そうですね」「凌霜隊の活躍は城内にも聞こえています。隊士たちも皆さんにお会いすることを楽しみにしておりますよ」 今市では砲兵隊長であった日向内記が、戸ノ口原で白虎隊を率いて惨敗した事は、風の便りで聞いて承知していた。「朝比奈隊長、ここでも白虎隊を率いています。全員五十名ですが戦意は旺盛です。今は日向隊と名乗ってます」 「だいぶ消耗したと聞いております」 茂吉の返答に日向内記の顔色が曇った。「数々の戦闘と戸ノ口原で一隊が全滅いたし、三百五十名の白虎隊士が五十名に減りました」 「たった五十名でこの西出丸の守備ですか?」「わたしは日向隊として玄武隊や朱雀隊の一部も指揮しています」「そうですか、して我等の持ち場は?」「申し遅れましたが、貴隊はわたしの指揮下に入って頂きます」「本当ですか」 茂吉が嬉しそうに白い歯を見せた。「屯所はこの出丸の金銀吹所の建物と決まりました。応急の修理はしておきましたが、敵の砲撃が烈しいので砲撃を防ぐ手立ては貴隊にお願いします」「了解しました」 「お引取り頂き、今日はゆっくりと寛いで下さい」 茂吉は詰め所を出て、安村隊士の案内で金銀吹所を下見した。かなり大きく確りとした建物であった。「安村さん、屯所が決まりましたので全員集まるように伝えて下さい」 安村隊士が去り茂吉は担当区域を見渡した。濠をへだて石塁が北側の西追手門から、南の讃岐門までコの字形に三百メートルもある。これが西出丸の全容であった。この出丸の西に川原町口、材木町口と花畑口の三つの門がある。 ここが来襲する日光口軍団の攻め口となる、茂吉はそう感じた。さすがにこの三門は堅固な構造となっいる、石塁が一番長く百六十メートルの規模を誇っていた。さらに北側が四十七メートル、南が九十七メートルにも及んでいる。これだけの石塁に囲まれた広場には北から金銀吹所、焔硝蔵、倉庫、蝋蔵、弾薬庫が並び、塁上の西南角と西北角に隅櫓(すみやぐら)がある。 この西出丸が突破されなければ、敵を西中門に入れることはない。 茂吉は詳細に検分している、ここから北西に燃え残った建物が見える。丁度、北出丸の西にあたる、そこに敵が籠もると面倒だ。茂吉は知らないが、あれが有名な日新館の焼け跡であった。「厄介な物がある」 茂吉が呟いた。焔硝蔵と弾薬庫が眼についた。あそこに敵弾が命中すれば、我々は全滅するだろう。 隊士たちが次々と現れた。 「これは頑丈じゃ」 坂田副長の声が一段と高い。 「すき間風が入るの」 速水参謀長である。「日向隊長のお蔭で応急修理は出来ておりますが、あとは我々でやります」「そうですな、ここが我々の最後の砦ですからな」 氏井工兵士官が自信のある声を発した。「ここの修理補強も陣地構築も工兵士官に、お任せいたします」 茂吉の命令に、氏井工兵士官がニヤリと笑顔で応じていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 26, 2007
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その日、凌霜隊士は戦火をまぬがれた秋月梯次郎(ていじろう)の屋敷に泊まる事となった。会津の秋月梯次郎は、江戸でも高名な漢学者として知られた人物であった。 「奇縁ですな、秋月先生のお屋敷にお世話になるとは」「ご高説をうかがう事が出来れば、生涯の思い出となったのに残念です」 国学者の速水小三郎と漢学に造詣の深い、岡本文造が感慨ぶかそうに語りあっている。全員は死んだように眠りこんでいる。 無理のないことである、江戸から戦いの連続であった。ようやく目的地の鶴ヶ城に着いたのだ。 「参謀長、隊長は無事だろうかの」 坂田副長が鼾をかいて眠りこんでいる隊士を眺め、速水に尋ねている。「拙者も心配しています、なまじ一刀流の腕が禍をせぬかと思っています」「多分、主力を率いて斬りぬけてくれたと思うがの」 二人が暗闇のなかで消息を絶った茂吉の無事を祈り溜息をついていた。 茂吉は残りの隊士と追いずがる敵兵を斬り捨てながら、関山から本郷村へと進み城外西南部の飯寺で一泊し、九月五日の早暁を迎えていた。彼も姿を見せない隊士の安否を気遣っていた。関山の激戦で負傷した小出隊士に、軍医の小野三秋、牧野平蔵、小者の孫太郎は雀林病院に向かったから、四人は無事の筈である。残りの隊士には坂田副長と参謀長がついているので安心だろうと思うが、心が騒ぐのだ。 この一帯に戦雲がたなびき、会津藩兵と政府軍の凄まじい白兵戦がはじまろうとしていた。材木町付近を警戒していた会津藩の田中左内と大沼城之助率いる二砲隊がこの日の朝、住吉神社とその南に連なる秀長寺付近に陣地を転換していたのだ。 そこは霜枯れてはいるが、潅木が繁り絶好の場所であった。 その近くに佐川官兵衛が潜んでいた。彼は長命寺の戦闘に敗れ西出丸に近い米代一ノ丁の小笠原邸を本陣として城外で活動していた。長命寺の敗戦から会津藩が降伏するまで城に入らず、戦後も戦いつづけた陣将で鬼官と異名をとり、その豪勇は政府軍にも鳴り響いている男であった。 政府軍は城の西南一帯の制圧を目論み、日光口軍団の到着を首を長くして待っていた。ようやく機会が訪れようとしていたのだ。薩摩、肥前、中津、宇都宮、安芸、人吉、黒羽、館林、大垣、今治の十藩の連合軍が城下に向かうとの情報を獲た、政府軍は喜びに沸き立っていた。それが洩れたのだ。 会津藩はその背後を襲わんと満を持して待ち構えていたのだ。日光口軍団と城を取り巻く政府軍が合流したら、会津藩は完全に包囲される、それだけは絶対に避けねばならない。 政府軍の先鋒隊は本郷村から一路北進し、鶴ヶ城の城北に向かって滔々と渦巻く大川を渡河し、追廻原から材木町裏鍋屋付近に集結していた。 それを待ち受けていた秀長寺の会津砲兵隊が猛射をはじめた。それを合図に会津藩の諸隊も一斉に火蓋をきった。日光口軍団の先鋒隊は右側面を攻撃され、反撃の暇がない隠れる遮蔽物もなく死傷者が続出した、右手と正面攻撃で左手に向かって雪崩をうって潰走した。と、その前に大川の濁流が待ち構えていた。南に引きかえそうとすると、新手の会津藩兵が突撃してくる。 先鋒隊は三面攻撃をうけ、壊滅状態で逃げ散った。この戦闘に飯寺にいた朝比奈隊長の率いる十八名の凌霜隊士も加わっていた。至る所で白兵戦が演じられ、凌霜隊士は全員軍服を血潮に染めて奮戦した。一方、秋月邸の坂田副長率いる凌霜隊も、水戸脱藩兵の市川隊と合流し、柳原方面から迎撃戦に加わり奮戦していた。 この戦闘で政府軍が遺棄していった武器弾薬、糧食、毛布などは戊辰戦争中で、もっとも多かったと云われている。 朝比奈隊長率いる凌霜隊は、潰走する政府軍を追撃し余勢をかって鶴ヶ城の西出丸に辿り着いた。見渡すと一面の焼け野原となっており、やや西北に焼け落ちた大きな建物が目についた。城の天守閣は砲弾の痕が生々しく残っている。 「これは酷い」 覚えず茂吉が独り言を呟いた。「隊長、安村敬三郎です。こちらにおいで下さい」 聞きなれた声が響き、行方不明であった安村敬三郎が駆け寄ってくる。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 24, 2007
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幸い夕暮れを迎え敵からは姿が見つからない、各人、思いのまま退却した。矢野原与七と鈴木三蔵は二人で逃げた。途中で氏井儀左衛門と斉藤巳喜助に会って四人は、警戒しながら高田村に着いた。「ここまで来れば若松まで一里半じゃ」 「おっ、居酒屋があるぞ」「これは良い、ちょうど咽喉が渇いたところだ」 四人は銃を構え縄暖簾を潜り、酒で咽喉の渇きを癒した。「美味い、随分と飲まなかったな、腸に染み入る」 四人とも酒豪でかなり飲んだ。空腹と疲労で酔いのまわりが早い。 小野三秋軍医と牧野平蔵に小者の孫太郎は、負傷した小出隊士をいたわりながら戦場を抜け出た。途中で駕籠を見つけ、会津藩の雀林病院に小出を入院させた。この雀林(じゃくりん)の地は高田村から半里の山中にあった。城下の病院が焼け落ちたので、この地に移設したのだ。多くの傷病兵が収容され手当てを受けていた。 「これで一安心じゃ」 小野軍医がほっとしている。 一方、酔いのまわった四人は高田村で宿屋を探すが、どこにも見つからない。弱り果て代官所の役人の口利きで、居酒屋の向かいの家で一泊した。 大内峠の方角から砲声の音が聞こえるが、四人は久々に平安な一夜を過ごした。 (鶴ヶ城入城) 九月四日、四人は早朝に出発した。相変わらず氷雨が降っている。「朝比奈隊長や皆は無事に撤退できましたかね」 矢野原隊士が心配する。「凌霜隊は強かじゃ、城下に入るまでには会えるじゃろう」 工兵士官の氏井儀左衛門が確信ある口調で断じた。「無理を承知で城下に入りますぞ」 歩兵士官の斉藤巳喜之助が不敵な面で念を押した、益々、雨脚が強まってくる。 「やりきれんな、会津に入ったら雨ばかりじゃ」 矢野原与七が不平を洩らしながら先頭にたった。 四人は警戒を強め小道を急いだ、九時頃にひよっこりと砲術士官の武井安三と出会った。 「武井さん、ご無事でしたか?」「物見じゃ。市野村から小山田隊長と撤退したが、坂田副長もご無事じゃ。その先に松尾才治、浅井晴次郎、斉藤弥門、野田弥助等も休息しておる」「これで十名ですね」 鈴木三蔵が笑みを浮かべた。 合流した一行は黙々と氷雨の中を会津城下をめざした。途中で速水参謀長と岡本文造、山田熊之助の三名も加わってきた。これで一気に士気があがった。途中の寺で小休止する。ここには関山から撤退した会津藩兵約百名が集まっていた。城下の方角から砲声がしきりと聞こえてくる。 早速、斥候が鶴ヶ城北西に向かい、敵の情報を獲て戻って来た。 「敵は薩摩、備州藩、宇都宮藩、黒羽藩の合同部隊だそうです。幸いにも奴等は、城下と高田五万石との境を流れる川の手前に、陣を構えているそうです。我々は敵の背後から奇襲をかけます」 小山田隊長が意気込んでいる。 総勢一団となって間道をぬけ、敵勢の背後に忍びよった。「大内峠と関山のお返しをしてやる」 凌霜隊の意気込みも凄まじい。 小銃を浴びせ喚声をあげ一団となって突撃した、不意を衝かれた政府軍は後方遮断を恐れ、たちまち退いて行く。彼等は材木町、川原町口を放火し黒煙が天を覆っている。味方は猛然と大川の渡河を開始した。 何としても政府軍を潰走させる、その一念のみであった。 敵はどんどん後退し一キロ先の川向こうの七日町、穢多町(えたまち)方面にさがっている。味方は焦りで渡河が思うにまかせない、ようやく浅瀬を探し全員が対岸に這い上がった。この戦闘で政府軍は大量の武器、弾薬や多数の物資を置き捨て逃げ去った。大砲四門、弾薬、小銃、天幕、毛布、それらを鹵獲した。凌霜隊も渡河に苦しんだが、ずぶ濡れで対岸に這い上がり、城下をめざして駆けた。 「敵勢は居ないと聞く、集合地点は材木町じゃ」 速水参謀長が先頭を駆け、隊士たちは銃を構え警戒を募らせて駆けた。 城内からも援兵が繰り出されてくる。会津諸隊と共に凌霜隊の一部は念願の鶴ヶ城の郭内に一歩をしるした。郭内とは東西約二キロ、南北一・五キロの土手に囲まれた外郭の事である、この外郭には十六の門が配置されていた。 この広大な郭内には、かって藩士たちの屋敷が建ち並んでいたが、今は見渡すかぎり焼け野原となっていた。あちこちに壊れた土塀や土蔵が残骸を晒している。 「これは酷い」 「激戦の跡ですな」 凌霜隊士たちは茫然と凄まじい光景に目を奪われていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 23, 2007
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九月三日、関山で陣替えが行われた。唐木遊撃隊が陣をはらい市野村にまわり、代わりの隊が陣取った。ここから市野村までの半里一帯に兵を配置する作戦であった。凌霜隊は動かずに同じ陣地を受け持った。 この陣地から鶴ヶ城がよく見渡せる、大砲の音が遠雷のように轟き、城下の燃える炎と煙が物凄い。 「城には五千人もの人たちが籠城しているそうじゃ」「ご夫人たちも数百名おられると聞く」 隊士らがひそひそと喋りあっている。「監視を怠るな」 速水参謀長の檄がとび陣地に緊張感が漂った。 戦闘が始まったのは午後からで双方の砲撃と銃撃が特に烈しく、弾薬運びに雇った村人が恐怖にかられて逃げ去るさまである。仕方なく兵士が運びあげる。 この関山が抜かれたら一大事である、各隊も懸命に防戦に努めている。 銃弾が切り裂くように集中する。 「伏せるのじゃ」 坂田副長のしわがれ声が響いている。この陣地の前には清龍足軽二番隊が布陣しているが、彼等も必死で撃ちまくるが余り巧くない。 敵の兵力は益々増強され、双方、三百メートルほどに接近し胸壁、木立を盾として撃ちあう。矢野原与七は大木の翳に身を隠し伏せたまま応戦していたが、背後の小出於兎次郎(おとじろう)が連続速射をするので、耳が痛くなり傍の木陰に退いた。 「矢野原、銃を貸してくれ」 斉藤巳喜之助の声である、銃身が焼けたようだ。「待って下さい、あそこに赤髪(しゃぐま)が居ります。斃したら貸しますよ」 矢野原が慎重に狙いをつけ引き金を絞った。 「やったー」 赤髪が胸を抱え崖から転がり落ちた。 「やるな、早く銃を貸せ」斉藤隊士に銃を投げ、矢野原与七は匍匐(ほふく)し、数十メートルさがり木陰に入ると、硝煙ですすけた顔をした鈴木三蔵が煙草をふかしていた。「火を貸してくれ」 「矢野原さん、本格的な攻撃ですね」 鈴木三蔵が紫煙を吐き眼下を眺めている。 「弾丸はあるかね」「充分です」 「やられた」 小出隊士の悲鳴に二人が駆けつけた。 小出於兎次郎が右腕の上腕部から血を流している。「痛いが我慢して下さい」 矢野原が慣れた手つきで手拭で血止めをした。「さがって軍医殿に治療を受けて下さい、銃は与ります。鈴木君、小出隊士を頼む」 敵の歩兵が木陰をぬって接近してきた。 「この野郎」矢野原が立ち上がり、連続速射で二名を撃ちとった。 「矢野原さん、危険です」 林定三郎と中瀬鐘太郎が並んで高地の木陰から発砲しながら叫んだ。「あんな奴等の弾に当たるもんか」 「うっー」 林隊士が吹っ飛んだ。「定三郎ー」 「頭部に直撃です」 中瀬鐘太郎が泣き声をあげている。 林定三郎は即死であった、池尾幾三郎と金子勇次郎、土井重蔵、山田熊之助が二挺の銃を担架がわりとして林の遺体をのせ、二キロ離れた福永村の畑に埋葬した。それを見た敵兵は一発も撃ってこない。 「彼等も武士じゃな」 何時の間にか速水参謀長が傍らに居て呟いた。一時の休戦が終り、再び戦闘開始である。清龍足軽の隊士が重傷を負って呻いているが、同隊の誰も助けようとはしない。 「薄情な奴等だ」 「こんな奴等と戦うとは情けない」 凌霜隊士は憤慨するが、敵は続々と正面に兵力を集中し、それどころの騒ぎではない。死に物狂いの防戦で疲労困憊し、頭の中が真っ白くなる。 前衛の小山から、横川隊の兵士が弾薬が尽き退却をはじめた。敵がえたりと喚声をあげ追撃に移っている。 「援護射撃」 茂吉の下知がとんだ。 川向こうの友軍も徐々に後退を始めている。勢いづいた敵が懸け声をあげ、横川隊が放棄した小山に駆けあがり、猛烈に撃ってくる。 凌霜隊と清龍足軽隊の両隊が必死で頑張るが、弱兵の清龍足軽隊は二、三名が負傷すると全員が木陰に逃げ込んでしまう。敵の先鋒が山際まで接近し銃弾を撃ちあげてくる。 「ひるむな」 朝比奈隊長が抜刀し叱咤する。「隊長、これまでですな」 坂田副長が川向こうに顎をしゃくった。 続々と味方の兵が撤退している。茂吉が全隊士に命令を下した。「皆さん、ここから引きあげます、山を越えたら鶴ヶ城はすぐです。各人の判断で山を降って退却して下さい」 「おうー」 全隊士が雄叫びをあげた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 22, 2007
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城内の守備兵力は少なく藩境の主力軍団の帰還を首を長くして待っていた。 政府軍は郭内の会津藩士の屋敷に籠もり、三ノ丸の濠をへだて猛烈な攻撃を加えていた。会津藩は対抗すべき新式銃が不足しており、城兵の被害は甚大であった。出撃し敵を殲滅しょうとの勇壮な議論もあったが、それは無理な議論であった。最後の手段として敵の籠もる屋敷の焼き払い策が具申され、東南の風の強い日を選び火矢を放った。 瞬く間に諸邸は炎上し政府軍は後退したが、彼等も放火して郭外に逃れた。 郭内の武家屋敷は燃え上がり、一帯は火炎につつまれ炎が天を焦がした。これは政府軍の誤算であった。会津藩が自らの手で焦土戦術で対抗するとは考えもしないことであった。彼等は会津藩の強烈な意志を何度も見てきた、常識を覆す何ものかの存在に威圧感をうけた。重臣の婦女子等の自刃、さらに藩士の住まいを平然と焼き払う、会津藩の執念に恐れを覚えた。 政府軍は郭外の町屋に引き上げ援軍を待つ持久作戦をとった。一方、会津藩の籠城した藩士は老兵と若年兵が主力で壮年の兵士は少なく、彼等は各門の守備に追われていた。この時期、城内では六百名の婦女子が籠城に加わっていた。ここに急遽、会津夫人隊が結成された。 その頃、ようやく鶴ヶ城入城をめざし、主力軍団の引きあげが始まっていた。柳橋の戦いに敗れた、萱野(かやの)権兵衛隊と旧幕軍の衝鋒隊。さらに湯本口(東山温泉)から進撃してくる一隊がいた。内藤介右衛門(すけえもん)率いる、一千の正規軍であった。内藤は陽動部隊をだし政府軍の動きを監視していた。 囮部隊と政府軍が本格的な戦闘となり、砲声と銃声が烈しくなってきた。「餌に喰らいついたな」 内藤介右衛門は部隊を巧に進退させ、政府軍を駆逐し三ノ丸から全軍の入城を果たした。囮部隊も激戦を潜りぬけ入城してきた、この内藤軍団の入城で一気に士気が高揚した。 翌日、日光口の守備に当たっていた山川大蔵が藤原口を撤退し、大川を渡河し飯寺(いいでら)村を経て川原町に全軍を集結させた。彼は米代一ノ丁から西追手門より入城する考えであった。併し手薄な西側といえども政府軍が城を包囲している。まともに当たれば損害も大きい、大蔵は詭計(きけい)でもって入城を果たさんと考えた。城から一里の小松村の獅子組に頼み、笛や太鼓で彼岸獅子の囃子(はやし)を吹奏し隊伍を組んで行進をはじめた。 「どこの隊じゃ」 政府軍は戦闘を忘れ見守っている。城内の者は息を飲んで待っている、 政府軍が気づいた時はすでに遅く、山川軍団は堂々と入城を果たしたのだ。 ここに三千余の精兵が集結をみたのだ。容保はこの機会を利して会津藩首脳の人事と、指揮命令系統を一新した。家老は梶原平馬、軍事総督には山川大蔵、こうして若手が軍事局を占めたのだ。 この中に筆頭家老の西郷頼母(たのも)の名がない、剛直さゆえに容保から疎んじられた結果である。新旧交代から起こった悲劇であった。 城兵は日毎に数を増し兵糧問題が深刻化した。これ以上の守備兵力を城内にとどめる余裕がなくなり、人員調節の必要が生じた。 北越方面から引きあげた会津藩兵は、入城せずに城外で敵を防ぐべし。この最高方針を高久(たかく)に駐屯する、家老の萱野権兵衛に伝えねばならない、その使い番が西郷頼母に決定された。 頼母は本丸黒金門で容保と若殿の喜徳(よしのり)に別れを告げ、帯郭の太鼓門から退出し、一人生き残った長男の吉十郎を伴い、氷雨のなかを悄然として去った。筆頭家老が伝令に向かうことじたい前例がないことであった。 開戦を拒否し、白河口の軍事総督の職務に失敗した報いであった。頼母は翌日、高久の萱野権兵衛に会い使命を果たし、仙台に向かい榎本艦隊に身を投じ、蝦夷で最後まで闘いを続行するのであった。悲劇の男の末路である。 秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 21, 2007
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結局、山脇金太郎、牧野平蔵、浅井晴次郎、野田弥助、小三郎の五名が戻らなかった。茂吉は隊長として五名を犠牲としたことに悔いを残し、心のなかで詫びていた。全隊士をここまで率いてきたという、重苦しい意識が、日々、彼を悩ましている想念であった。「隊長、あなたの責任ではござらん」 坂田副長が慰めの言葉をかけてくれる。「原因がどうあろうと隊のことは隊長である、わたしの責任です」 茂吉が慙愧の思いで大内峠を眺めている。また氷雨が降り出し、陰鬱とした濃霧が立ち込めている。「隊長、まだ戦死と決め付けるのは早い、しかし、ここを敵に襲われたら不味い、ひとまず関山まで撤退しましょう」 速水参謀長の進言で一行は心を残し関山に退いた。 関山は大内峠から半里北に位置している。本営に着くと大内峠の敗戦について諸隊をあげて指揮官の、小山田伝四郎の失策を非難していた。「朝比奈隊長、貴隊の損害はいかがです?」 遊撃隊長の唐木助之進が訊ねた。 「五名、戻ってまいらぬ」 坂田副長が不機嫌な口調で答えた。「我等のために済まないことです」 この戦闘で小山田伝四郎は、指揮官として失格の烙印を押された。 九月一日、大内峠から逃げ戻った諸隊は、態勢を整え配置についた。この関山は矢張り左右が高地で、左の山ぎわに川が流れていた。この川は横川から流れているのだ。村落の入口には格好の小山がある。軍議の結果、川向こうの山に二隊、村落の入口の小山に一隊が配置され、本営の裏山に凌霜隊が守備についた。早朝から氷雨をついて敵が来襲し、砲撃と銃撃を浴びせてきた。 味方も盛んに応戦し、終日射撃戦が続き日暮れとともに、戦闘を停止し対陣した。夜になると敵味方とも、赤々と焚火を炊いて探りの砲撃を繰り返す。 この夜に行方不明の牧野平蔵と浅井晴次郎の両名が帰還してきた。数日後に野田弥助も戻ってきた。彼は会津藩兵と二人で山に隠れ、二日間何も食べずにいたが、峠の北西にあたる市野村の人足の衣装で敵に捕まるが、人夫と偽り、すきを見つけ逃走してきたという。 山脇金太郎の消息は依然として不明で情勢判断から、戦死したものと推定された。小者の小三郎は峠で血塗れの死体で発見された。 兎に角二名の損害で済んだが、茂吉の心は晴れない。特に山脇は同年の十七才である、それを思うと生き残った自分が恥ずかしい。 茂吉は金太郎の戦死を伯父の郡上藩士、山脇正順に報せた。軍学者として江戸で講武堂をひらき、各藩の逸材を集め教授する山脇正順は、甥の金太郎の死を悼み。「にしきなす大内山の もみじ葉を散らしてなれも散りにけるかな」と追悼の歌を詠んだと云う。 (若松へ撤退) 九月二日、この日の戦闘は昼頃から始まるが、砲戦で終始した。唐木隊の陣地に榴散弾が撃ち込まれ、爆風と土砂が藩兵を襲うが、胸壁から離れず反撃する。村落の入口の小山の陣は、会津藩の横川隊の受け持ちであったが、三方面から猛射を浴びるが、ここも頑強に持ちこたえている。政府軍も攻めあぐんだのか、午後二時頃に砲声が止んだ。「敵さんも疲れ休憩ですな」 副長が前方の様子を窺がっている。「いや、ここを破れば一気に鶴ヶ城に攻め込めます。戦術転換をしているのかも知れませんよ」 茂吉はあくまでも慎重であった。 薄暮が訪れ戦場に静寂がおおい、援兵が陸続と集結してくる。最後の砦ともいう、この関山の陣を重視した隊が応援に来たのだ。 真っ先に清龍足軽二番隊が、諏訪武之助隊長に率いられ参陣してきた。なかにフランス別伝習隊の歩兵が特に張り切っている。 全軍の士気があがり、何時ものように焚火が焚かれ、探りの砲声が轟いている。情報によれば、政府軍は千余名ほどだそうだ。「明日は敵さん、総攻撃をかけてきますな」 速水参謀長が剽悍な眼差しで語りかける、こうした勘は流石に鋭い。隊士たちは胸壁に身を隠し兵糧をつかっている。炊事方の小者が握り飯に味噌をつけ焼きあげてくれた物だ。 塩原を発つ時に和泉屋が差し入れてくれた味噌であった。「これは美味い」 全隊士が焼きたての握り飯をほうばっている。 茂吉も口にして、お園の面影を思いだしていた。きっと生還します、それまで待っていて下さい。祈るような心地であった。 南方方面から、遠雷のような砲声がえんえんと聞こえていた。「畜生め、また降りだした」 隊士たちが合羽をかむってうずくまった。 会津領内に入ると連日の雨である、日毎に寒気が増し露営の身に堪える。「隊長、明日に備えて少し休んで下さい」 速水参謀長が茂吉をいたわり、傍らで合羽姿でうずくまった。 この頃、鶴ヶ城は籠城のなかで必死の抵抗を示していた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 20, 2007
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味方も反撃を始めたようだ、弾けるような銃声と砲撃の音が響きはじめた。「準備は整っていますか?」 「既に配置についとります」 凌霜隊の胸壁からも、軽快な射撃音が響きわたった。山々に囲まれた大内峠の山野は、豆を煎るように騒がしくなった。小山田隊長が峠を駆け降り川岸に出て攻勢をかけている、敵が崩れをみせたようだ。ひときわ喚声が高まっている。「敵は崩れた。進め」 伝令が騎馬で街道を疾走し大声で叫んで走りぬける。「凌霜隊、進撃ー」 茂吉が真っ先に小山を駆け降った。敵も川むこうと街道に陣取り、猛烈に反撃してきた。「隊長」 矢野原与七が駆け戻ってきた。「敵の一隊が左手の山を迂回してます」 「なにっ」 小山田隊長は緒戦に勝ち攻撃続行を命じ、裏を防ぐ様子もない。峠の頂上には左に細い間道がある、昨夜から、念のために十名ほどの歩哨兵が守っている筈である。「矢野原隊士、敵の兵力は?」 「はっきりとしません」「坂田副長、敵が迂回したようです、直ぐに予備隊を廻して下さい」「それは大変じゃ。矢野原っ、隊士を引き連れ間道に向かえ」坂田副長がすかさず命令した。 「判りました」矢野原与七を先頭に武井安三、売間直次、牧野平蔵、浅井晴次郎、山脇金太郎、中村国之助、小者の小三郎の八名が間道に走りこんだ。近くの会津藩兵も二、三名が跡を追った。 半里ほど進むと前方から歩哨兵が、蒼白な顔で退却してくる。「敵の兵力は?」 「四、五十名ほどじゃ、とても防ぎきれない」「加勢が来る、ここであんた達も頑張ってくれ」 矢野原与七が引き止めるが、そのまま逃げ去った。「腰抜けめ、我々だけで防ぎましょう」 中村国之助が銃を構え巧に木立をぬって行く。「敵じゃ」 武井安三が瞬時に発砲した。敵兵に悲鳴があがる。 敵も木立に隠れさかんに反撃してくる、暫く防戦するが兵力の差と地形の悪さで苦戦に陥った。 「一軒茶屋まで引こう」 全員が巧に引き下がり一軒茶屋の翳に避難したが、そこには一兵も友軍の姿がなかった。全員が出撃したようだ。「あの隊長さん、どうかしているぜ」 怒りながら防戦するが、敵は益々兵力を増強してくる。 「このままでは殺(や)られる。退却しょう」 一行は応戦しながら巧に後退を続けた。敵が一軒茶屋に放火した、折からの強風であっという間に燃え上がった。 この炎上をみた坂田副長は隊士を先導し、峠を越え麓の百姓屋に逃れた。退路を絶たれるのを恐れたのだ。有利に戦闘を続けていた味方の諸隊が、本営の火の手で動揺した。その機会を逃さず敵勢が一斉に反撃に転じ、味方は総崩れとなってばらばらで峠を越え逃げ散った。進退きわまって白兵戦に持ち込む隊もあった。それが凌霜隊と元新選組の探索隊の二隊で、協力して抜刀斬り込みを敢行した。さすがに探索隊は強い、至る所に血煙と悲鳴があがっている。 凌霜隊も奮戦した。桑原鑑次郎は勇戦し引きあげる途中、二人の敵兵が前を遮った。 「凌霜隊士、桑原鑑次郎(かんじろう)じゃ」いきなり一人を袈裟斬りとし、残った一人の胴を薙ぎ斬った。山田熊之助も自慢の胴田貫を血塗らせ、全身返り血を浴びながら逃げ切った。 この乱戦で隊長の茂吉は敵中で孤立した。隊士たちの安否を気遣いながら、峠を越えようとすると前方から、十五、六名の兵士が近づいてくる。 茂吉は立ち止まり死を決して身構えた。 「隊長、斬らないで下さいよ」よくよく見ると味方の隊士たちである。 「皆さん、無事でしたか」 お互いに無事を祝い肩をたたき喜びに浸った。「他の隊士たちの消息はどうです?」 「さっぱり判りません」 茂吉の顔が曇った。助かってくれれば良いが、そう思いつつ隊長の茂吉を真ん中にして一行は峠を降った。午後四時過ぎに麓の百姓屋に辿り着くと、坂田副長が飛び出して出迎えた。 「隊長、ご無事でしたか、皆もよく助かった」 全員が兵糧をつかい、他の隊士たちを待つことにする。次々と血塗れの隊士が姿をみせ喜びの声が湧きあがった。速水参謀長も単身で帰還してきた。「ひどい戦闘になりましたな」 「あの隊長では勝てる戦も勝てませんよ」 全隊士に小山田伝四郎に対する不満が続出している。会津藩の各隊の藩兵が血塗れで通りすぎて行く、彼等も犠牲者なのだ。猪突猛進の隊長では部下が可哀想である。 「完敗ですな」 速水参謀長が大の字になって高鼾をかきだした。全員が疲労と寒さでくたくたになっていた。 凌霜隊の生き残りの面々は政府軍の来襲を警戒しながら、この百姓屋で全隊士の帰還を待つことにした。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 19, 2007
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「参謀長、もう止しましょう。わたしは凌霜隊長の朝比奈です、今後もご一緒に戦うことになります」 茂吉が気をつかせ自己紹介をした。そうでもしないと速水小三郎の毒舌は止みそうになかったのだ。「拙者は副長の坂田林左衛門にござる。会津藩の用兵の妙は充分に拝見いたした」 これも皮肉たっぷりである。 各隊の隊長が無言で挨拶をかえす、それぞれが好意ある顔を見せている。 小山田伝四郎が、気まずい顔をして口をひらいた。「今後の作戦が決まりました、我々は山々の要衝に兵を配し敵を迎え討ちます。朝比奈さん、貴隊には右手の小山をお願いしたい」 小山田が指を差した、茂吉は闇を透かし見て了解した。射撃戦にはもってこいの小山である。他の隊も険しい山々の中腹で陣を構築することとなり、それぞれが氷雨をついて茶屋から去った。「効率の悪い作戦じゃ、兵糧は半里も離れた場所から炊き出しで運びこむとは」 速水参謀長が毒づきながら先頭を進んでいる。「冷えますな」 老齢の坂田副長が悲鳴をあげている。 大内村からは雨天続きで晴れ間が覗いたことがないのだ。「持ち場で胸壁を築いたら焚火をしましょう。酒はありますか?」 茂吉が背後の小者の久七をふり向いた。「確りと運んでおります」 「これは有り難い」 一同から嬉しい笑いが湧いた。「ここはどうですか?足場がしっかりしている」 速水参謀長が周囲を見回した。「ちょうど松林で雨も防げますな」 全員で闇のなかで準備を整え、早速、焚火が焚かれ、それを囲んで熱燗で暖をとった。見渡すと左右の山々にも点々と焚火がみえる。 「敵さんも我等も根比べですな」 副長が塩辛声を発した。「この大内峠の先の関山が、鶴ヶ城に入城の難関となります。敵の日光口軍団も必死です、我等は臨機応変にことにあたります。もし、迷子になったら各人の考えで入城を果たして下さい」 茂吉が全隊士に訓示を与えた。「そうですな、将器のない指揮官では無駄死にとなりますな」 速水参謀長が小山田隊長をけなすと一同から、一斉に笑い声が沸き起こった。「戦闘が始まったら輜重隊は関山に先行いたせ、久七、孫太郎、源蔵の三名が引率するのじゃ」 坂田副長が厳しい声で命じている。「判りました。物資は命懸けで守ります」 「籠城の命綱じゃ」「参謀長、哨戒兵を選んで下さい、残りの者は仮眠願います」 こうして凌霜隊の陣営は静まりかえった。氷雨が容赦なく降りかかるなかで眠りに入った。茂吉は眼が冴えている、江戸を出て五ヶ月を経過しているが未だに鶴ヶ城に入れない。こうしていることに苛立ちがつのっていた。 城の周囲は政府軍の支配下にあると云うが、城の北を流れる湯川の北西の材木町付近は、敵の活動が不活発と聞いている。我々はそこから入城する、それまで鶴ヶ城が健在であることを祈っていた。 茂吉は夢のなかにいる。塩原のお盆祭りの囃子太鼓や笛の音が妙雲寺の境内を賑わし、人々が手拍子をとり踊り狂っている。 茂吉は人込みを避け、寺の庫裏に腰をおろし孤独を楽しんでいた。微かな足音にふり向くと、お園が涼しげな浴衣姿をあらわした。 「隊長さん」「なんですか」 「なぜ、お一人でこんな所にいらっしゃるの」 お園が茂吉の横に座った、彼女の髪の匂いが心地よく漂った。「わたしは隊長さんが好きです」 「・・・・」 「わたしが嫌いですか」「お園さん、わたしは会津に戦いに行きます。そこで戦死するかも知れません」 風にのって坂田副長の郡上踊りの歌声が流れてくる。「嫌です、死んではいけません。わたしが嫌いですか」 燃えるような眸である。 柔らかく熱い手が茂吉の手を握りしめた。「わたしは待っています」 「本当に待ってくれますか?」「待ちます、だから好きだと仰って下さい」 「好きだ。お園さんが」「嬉しい」 お園が目を閉じて熱い身体をあずけ、頬を寄せてきた。「隊長、起きて下さい」 突然、甘い夢を破られた。お園の悲しそうな顔が遠退き、茂吉は現実に引き戻された。銃声が散発的に聞こえてくる。「昨夜のうちに雨を冒して峠付近に布陣したらしく、一斉攻撃をかけてきました」 速水参謀長が戦況を簡潔に説明し、厳しい風貌で茂吉をみつめた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 18, 2007
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小山田隊長を先頭に、本隊の四百名が一本道の街道で突撃戦を敢行したのだ。 「何という攻撃をなさる」 茂吉が顔色を変えた。無謀極まりない作戦である。小山田隊長が槍を抱えてぐいぐいと進み、本隊が追走している。 敵の大砲が路上に引き出されるのが望見される。「あれでは全滅します、全隊援護に向かいます」 茂吉が陣羽織をひるがえし、山腹の小道を駆けてゆく。大砲が一斉に唸りを発し、本隊の真ん中に火柱が噴きあがった。隊形が乱れ数名の兵士が血塗れで転がっている。 砲撃を合図に政府軍が銃を乱射し突撃を開始した、間断のない銃撃で会津藩兵が、標的のように射抜かれている。真っ先に隊長の小山田伝四郎が敗走し、それをみた全軍が浮き足たって潰走に転じた。 「敵の前衛を食い止めねば我々もやられます」 凌霜隊が山腹より、必死の威嚇射撃を浴びせた。「隊長、会津藩兵は止まらずに逃げ散っておりますぞ」 速水参謀長が驚愕の声をあげた。小山田隊は応戦もせずに敗走を続けている。「これが会津の用兵か」 坂田副長が激怒している。「副長、彼等は大内峠まで退却する積もりでしょう、我等は本営にもどり撤退の用意をします」 「判り申した」 坂田副長がしわがれ声で応じた。 敵の進撃が止んだ、これ以上の深入りを恐れているようだ。間隙をぬって凌霜隊は本営に引き上げた。会津藩兵は一人として居ない。「半隊は前方の監視、半隊は物資の整理と積み込みじゃ。出来しだい輜重隊は撤退いたせ」 速水参謀長がてきぱきと指示を与えている。 山熊隊士や山惣隊士が前方に駆けつけ警戒態勢をとっている。こうしている間にも、逃げ遅れた敗残の会津藩兵が合流してくる。「本隊は大内峠に向かったと思われます、我等も用意の出来しだい撤退します。我々と同行を望まれる方はどうぞ」 茂吉が説明している。「隊長」 速水参謀長が手招きしている。 「なにか?」「安村敬三郎の姿が見えません、まさかとは思いますが逃亡ではありますまいか」 「安村隊士はそんな男ではありません、この激戦で怪我でも負ったのかも」「待ちますか?」 「いや、生きておるなら我々を追って姿を見せましょう。今は急場です、輜重隊の用意が出来たら坂田副長とあなたは先行して下さい。わたしは半隊を率いあとから行きます」 凌霜隊の半隊と茂吉が大内峠に着いた頃は、すでに夕暮れを迎えていた。峠の各所に焚火の明りが点滅している。「ご無事でしたか」 坂田副長と速水参謀長が安堵の顔を見せた。「敵は大内村で宿営した模様です」 茂吉が周囲を眺め説明した。この峠は、大内村から一里の行程であるが、峠の登りが急坂の一里で、下りは一里半ほどの高地にある。前に川が横たわり左右は山に覆われ守るには格好の場所である、頂上はまだ先にある。「会津藩の本営は頂上ですか?」 「はい、一軒茶屋があるそうです」 警備の会津藩兵も凌霜隊には応接が丁寧である。「そうですか、我等も行きましょう」 峠を越えた五里の先に鶴ヶ城がある筈である。とうとう着いたか、茂吉の胸に感動が走りぬけた。江戸から客員隊士を除き四十五名で出立したが、今は三十九名である。大内で行方不明となった安村敬三郎の安否が気になるが、誰も彼のことは口にしない。 「副長、これから一軒茶屋の本営に向かいます」 隊士と輜重隊を率い峠の頂上を目差した。北方の黒く染まった山並みの稜線が、仄かに明るい。会津若松城下の炎だなと茂吉は感じた。 本営に着くと、小山田伝四郎が愛想笑いを浮かべ出迎えた。「随分と勝手な戦をされますな」 速水参謀長が毒舌を吐いた。「我々は援護のために山腹より見ておりました、退却で精一杯でしたな」「・・・・」 小山田伝四郎が口ごもっている。 本営には会津藩の日光口守備の各隊の隊長がすべて揃っており、彼等は面白そうに、二人の会話に耳をそばだてている。彼等も小山田の指揮官としての資質に疑問を抱いているようだ。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 16, 2007
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「速水さん、相変わらずの毒舌ですな」 小山田伝四郎が苦い顔をした。「ところで黒河内さんが居られませんね」 茂吉が険悪な雰囲気を察し、割って入った。 「藤原口で戦死しました」 「惜しい方を亡くされましたね」「中堅指揮官が戦死いたす。だが補充も、ままならない我等の任務は敵の前進を喰い止めるにある」 小山田伝四郎が断固とした口調で述べた。「それは間違った考えかと思います。鶴ヶ城は敵の包囲下にあります、我等は損害を最小として、一日も早く会津に駆けつけることです」 茂吉が会津藩軍事奉行の小山田伝四郎の言葉に反論した。「伝令ー」 騎馬で本営に着いた斥候兵の緊迫した声が聞こえる。「何事じゃ」 「敵先鋒隊約八百名、一里ほどに迫っております」「すでに来襲せしか」 小山田伝四郎が大刀を手に立ち上がった。「小山田隊長、直ぐに撤退を命じて下さい」 茂吉の進言に珍しく素早く反応した。 「全軍撤退する。非常呼集じゃ、大内に引き徹底抗戦いたす」本営が騒然とし各隊に伝令が駆けてゆく。唐木隊長が騎馬で近寄ってきた。「朝比奈隊長、あなたのお蔭で存分な戦いが出来ました。礼を申しあげる、だが」「いかが成されました?」 茂吉が不審そうに唐木隊長を見あげた。「負傷されていた隊士の方が亡くなられた、我等で弔いを済ませました」「菅沼隊士が亡くなりましたか、・・・・お世話をお掛けいたしました」「我等は急ぎます。大内でお会いしましょう」 一礼した唐木隊長が駆け去った。 茂吉が茫然と虚ろな眼差しで立ち止まっている。「隊長、悲しんでおる時ではござらん、直ちに命令を、隊士が待っておりますぞ」 坂田副長が心を鬼にして叱咤した。「全員整列」 悲しみを飲み込み命令を下した。四十名に減った凌霜隊士が整然と並んでいる、全員が菅沼隊士の死を知っているようだ。「我等も大内に撤退いたす、会津の地に足を踏み入れたのじゃ。鶴ヶ城への入城も近いじゃろう、一人も死んではならぬ。これは命令じゃ」 速水参謀長が厳しい風貌をみせ厳命した。 八月二十九日、会津藩兵と凌霜隊は大内村で合流し一泊した。この大内は街道ぞいに左右から、山襞が迫り出し守備には絶好の地形をもっていた。 小山田隊の兵士が未明から、左右の山腹で胸壁を構築している。ここで政府軍を釘付けにする作戦であった。相変わらず小雨が降り続くなかで兵士たちは懸命に工事を急いだ。冷気が身体の体温を奪ってゆく。 突然、砲声が轟き爆風と土砂が、村の中央に吹き上がった。にわかに政府軍が攻め寄せてきたのだ。 「左右に散り防戦」 茂吉の命令で凌霜隊士が坂田副長と速水参謀長に率いられ、胸壁から街道を見下ろし果敢に応戦を始めた。本隊の戦闘準備が整うまでの時間かせぎと頑強に抵抗する。 なんせ一本道の街道を見下ろす高地である、敵勢が攻めあぐんでいる。 この攻撃で本営の兵士が飛び起き、決められた持ち場へと駆けつけて行く。「それにしても早い攻撃じゃ」 本営で小山田隊長が士官に命令を伝達している。 敵勢は芸州藩、宇都宮藩、肥前藩で昨日、さんざん叩かれた復讐戦とし夜間に横川陣地を襲ったが、あんに相違して陣地は空っぽと知り、そのまま田島を経て寝ずに進撃してきたのだ。「我等は川を渡河し前方の山に陣を敷きます」 その伝令が坂田副長の許に駆けつけて行った。凌霜隊士は全員濡れ鼠で対岸の山腹に取り付いた。 眼下に敵兵の散開する様子が手に取るように見下ろせる。「弾薬が心細くなりましたな」 「会津に行けばなんとかなるでしょう」 茂吉と坂田副長が打ち合わせを終え、命令が伝達された。「わたしが撃ったら、それが合図です」 茂吉が愛用のスペンサー銃を構えた。松の大木の翳から、さかんに指示を送っている士官が見える。あれが隊長だなと感じ、無造作に引き金を絞った。銃声と敵兵の倒れるのが同時であった。 隊士たちの射撃がはじまった、面白いように良く当たる。街道に散開した兵が中腰で銃を構えている、坂田副長の銃が火を噴き絶叫があがった。「南無っ」 副長が念仏を唱え、隊士たちが猛然と反撃に移った。 敵勢に動揺が見られる、突然、本営より喚声が沸きあがった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 15, 2007
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「菅沼隊士は駄目でしょうな」 速水参謀長が暗い眼差しを見せた。初陣で負傷した膝の傷が悪化して菅沼は、高熱で喘いでいた。軍医の小野は膝下から切断せねば助からぬと云う。「敵に身柄をあずけますか」 坂田副長が茂吉に聞いた。「置き捨てにせよと言われますか?」 「敵に慈悲があれば助かりましょう」「坂田さん、一人にして下さい」 十七才の茂吉には荷の重い判断であった。 茂吉は苦悶していた、隊長として弱気は見せられない。鬼となっても任務は遂行する、これが課せられた務めなのだ。「敵の攻撃はないでしょう、しばらく休まれたらいかがです。指揮は拙者と副長とでやります」 速水参謀長が労わりの言葉をかけてくれる。 「お願いします」 素直に茂吉は本陣にもどって行った。全身が綿のょうに疲れていた。 陣中で坂田副長と速水参謀長が密談している。隊士たちは胸壁に身を隠し街道を監視している。 「隊長はだいぶ疲れているょうだ」「中岡の戦死が堪えたようですな」 二人が煙草を吸いながら語り合っている。「副長、菅沼は何としても連れて行きましょう」「参謀長、わしも同感じゃ、これ以上の心労はかけれまいな」 この夜はなにも心配せず凌霜隊士は熟睡し、久しぶりの実戦の疲れを癒した。唐木隊長の計らいで遊撃隊が警戒をしてくれたお蔭である。 翌朝の六時頃、芸州藩は雪辱を期し宇都宮藩の応援をえて攻勢に転じてきた。 「来ましたな」 一晩熟睡した茂吉が精悍な顔を取り戻している。 宇都宮藩兵が正面を担当し、芸州藩は左右の高地に兵を配している。 芸州藩の砲撃から戦端がきられた。山頂から砲弾が降り注ぎ土砂が吹きあがる。会津遊撃隊の砲も応射をはじめ、凌霜隊も胸壁から猛射を開始した。 戦闘は三時間ほど続いたが、敵の兵力が勝り徐々に後退を余儀なくされていた。茂吉が遊撃隊に駆けつけた。 「朝比奈隊長、今朝の敵は手強いですな」 唐木隊長が顔色も変えずに平然とした態度で兵を指揮している。「この小勢では守りきることは困難です。田島まで撤退しましょう、そこには小山田さまが居られる筈」 日光口軍事奉行となった小山田伝四郎は、田島に本営を構えている筈である。 「そうしますか」 「殿軍は凌霜隊で引き受けます」「さらば撤退の命を下します。応援として歩兵を十名残しましょう」「それは助かります。・・・唐木隊長、お願いがありますが聞いて頂けますか」「何なりと」 「我が隊の重傷の隊士をお連れ願いませんか」「お引きうけいたす」 慌しい遣り取りの後、会津遊撃隊が砲撃をぬって撤退を開始した。 「援護射撃ー」 凌霜隊の胸壁からスペンサー銃の猛射が始まり、敵の攻撃がゆるんだ。 「撤退じゃ」 坂田副長の下知で全員が銃を腰だめとて後退をはじめた。それを見た敵兵が喚声をあげ攻め寄せてくる。「撃てー」 七連発の猛射で敵兵が悲鳴をあげ薙ぎ倒された。「今じゃ」 速水参謀長が潮時とみて撤退の命令を下した。 隊士たちが雄叫びをあげ猛烈な勢いで山頂から駆け下る、応援の遊撃隊士もそれに続き、全員一丸となって要衝の山王峠を越え、会津領内の田島に引き上げた。田島は横川から三里半で会津領内五万石の城下町である。 野州との国境、山王峠を南にのぞむ最前線基地であった。「朝比奈隊長、ご苦労でした」 本営前で小山田伝四郎が出迎えていた。「小山田隊長、敵兵力は驚異です。ここの兵力はいかほどです?」「全てあわせ四百名ほどです。清龍寄合組二番隊と清龍足軽組四番中隊が主力です」 「我等を含め五百名ですか」 「どうか成されたか?」 小山田が不審そうに訊ねた。 「この田島では守りきれません」「馬鹿な、この田島は日光口方面での会津藩の入口ですぞ。ここを破られたら会津の士気に影響いたす」 小山田伝四郎が顔色を変えて息巻いた。「地形が平坦で何の遮蔽物もありません、小勢で大軍にあたる場所とは考えられません」 茂吉の答えに小山田伝四郎が唐木隊長に問うた。 「敵の兵力は」「先鋒隊が約七百、主力は一千五百名から二千名ほどかと思います」「何と」 小山田が絶句した。そのような大軍とは夢にも思っていなかった。「鶴ヶ城は敵の包囲下にあり、日光口からは大軍が迫り来るか」 豪放磊落な会津武士の小山田伝四郎が、思わず天を仰ぎ見た。「小山田隊長、凌霜隊は一日も早く鶴ヶ城に入城したいと思っております。もし田島に固執されるなら、我等はここで失礼いたす」 速水参謀長が剽悍な風貌をみせ断言した。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 14, 2007
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(攻防の山々) 凌霜隊は途中、藤原に向かうよう命令変更をうけ、藤原口に着陣した。既に山川大蔵は昨日の夜半に若松に引き上げていた。残った隊は会津遊撃隊で、唐木助之進を隊長とした、八十名の隊士と三門の大砲のみであった。「わたしが郡上凌霜隊長の朝比奈です」「会津遊撃隊の唐木です」 それぞれ名乗りあった。茂吉が宿営地を眺めた、守るに不利な場所である。「唐木隊長、我々は四十二名の小勢です、負傷者も一名おります。ここでの戦闘は無理と思います、どうでしょう横川に後退し胸壁を築き敵を待ち受けたら」 横川の背後には山王峠が控え、そこからは会津領内となる。「我々は実戦経験がありません、貴隊の申し出に従いますよ」 唐木隊長が屈託ない態度で賛意をしめした。 一方の政府軍は二十一日に日光口の諸藩に藤原口への進撃を命じていた。佐賀藩、宇都宮藩、安芸藩、今治藩の五藩で総兵力、千五百名の大兵力であった。総督府は塩原が焼き払われたことを知り藤原口へと進攻を早めたのだ。 先鋒隊は七百名の芸州藩で午前四時頃中三依を出陣、午前九時頃に上三依に到着し、余勢をかって横川に進撃してきたのだ。「来ましたな」 胸壁に隠れた二隊が一斉に銃を構えた。「敵は芸州藩ですな、完膚なく叩きましょう」 速水参謀長が精悍な顔をしている、なんせ三ヶ月も実戦から遠ざかり腕がなっているのだ。 「まずは会津藩の腕前を見ましょう」 茂吉も血潮の高まりを感じている、だがはじめて合流した見方の力量が知りたかった。敵兵が遮蔽物を伝って接近している。 会津遊撃隊が砲門をひらいた。凌霜隊士は藤沢茂助という砲手の腕に驚いた。榴弾(りゅうだん)が面白いように敵兵を粉砕している。「これは心強い」 胸壁の翳で坂田副長が感心している。「凌霜隊、構えよ。一斉掃射を行う」 茂吉の命令で全員がスペンサー銃を構えた。 「撃ち方はじめ」 軽快な銃声が唸り敵兵が悲鳴をあげて薙ぎ倒される。味方は地の利をえて有利に戦闘を進めていた。胸壁に身をひそめた中岡弾之丞が、銃口につばをつけ斉藤弥門(やもん)を振り返った。「斉藤さん、あの大砲の翳におる奴を仕留めてみせます」「中岡隊士、調子にのるなよ」 「判っております」 中岡が胸壁から身を乗りだし銃を構えた瞬間、空気を裂く音が響き被弾した。右の耳から左の耳まで銃弾が貫通し即死であった。 斉藤の叫びで尾島左太夫と松尾才治が駆けつけるが手の施しようがない。茂吉も駆け寄る。中岡は二十五才の若者であった。「横川本陣に移送して遺骸を埋めて下さい」 敵は一門の大砲を置き去りとして退却をはじめた。見ると車輪が破損している。 「遣りましたな」 速水参謀長が破顔した瞬間、榴弾が命中し大砲が四散した。藤沢茂助の放った一弾であった。 唐木隊長が木陰をぬって駆けよってくる、満面の笑顔をみせている。「損害はどうです」 茂吉の問いに、「軽傷者が五名ですが戦死はありません」「我々は一名の戦死者がでました」 「それはお気の毒です」「敵が態勢を建て直す前に、負傷者を本陣に移されたらいかがです」「そういたしましょう」 唐木隊長が自軍に駆けもどっていった。「副長、中岡隊士が戦死いたした」 「なんと中岡弾之丞が」「戦闘に慣れると恐さを忘れます、全隊士に注意を与えて下さい」 坂田副長が足を引きずり後方に去った。四ヶ月余りで二名の戦死者と一名の負傷者か、若年の茂吉には堪える出来事であった。敵の来襲はいっこうにない。午後二時頃に後方から酒が送られてきた、今日の炊事当番は軍医の小野三秋と漢学者の岡本文造に小者の孫太郎である。 さすがに気をつかった手配りをされると茂吉に感心した。隊士等は物陰に潜み、中岡隊士の死の悲しみを酒で紛らせている。 二隊はこの横川で三日間、守備を固めることになった。こうした最中に会津若松の情報が届いた。やはり予測どおり政府軍は、母成峠を突破し余勢をかって十六橋を確保したのだ。その際、日向内記率いる白虎士中二番隊が、戸ノ口原に出陣したが、三十七名のうち生き残った隊士は十数名であるという。 悲惨だ、わたしと同年齢の隊士が二十名も犠牲となるとは、茂吉の胸に云いようのない怒りが渦巻いていた。「矢張り会津の戦略が間違っておりましたな、城内守備兵が三百名ほどであったそうです」 「幸いにも滝沢村本陣の敗兵が戻り、事なきを得たようじゃ」 坂田副長と速水参謀長が、茂吉の傍らで語り合っている。「隊長、このような場所で悪戯に日時を空費するのは愚の骨頂です、すぐにも会津若松に向かいましょう」 坂田副長が会津への直行を具申した。「副長、わたしも同意見ですが、勝手な行動は軍規違反となります」 また冷たい氷雨が降り注いできた。隊士たちが合羽を被り木陰に避難している。鈍色の空が急速に真っ黒く染まってきた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 13, 2007
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翌日、凌霜隊士は数巻、甘湯、荒湯の順で火を放った。瞬く間に火の手が広がり、塩原の温泉町が紅蓮の炎をあげ燃え狂う。黒煙が空をおおい、人々は恐怖の叫びをあげ逃げ惑っている。隊士が各所を巡り焼け残った家を見つけては火を放つ、轟々と炎と物の爆(は)ぜる音がし、まるで地獄絵図を見る光景が現出している。 その夜は妙雲寺で宿営した、夜空が真っ赤に燃えている。隊士に酒が配られが、一同はまったく元気がない。「明朝、この寺を焼き払い上三依に向かう。何時、戦闘となっても可笑しくない、会津藩は政府軍に押され、藤原口から一斉に鶴ヶ城に後退しておる」 速水参謀長が現状を述べているが、隊士は無言のまま意気消沈させている。 「たかだか焼き払いで士気が落ちるとは情けない」 坂田副長が、しわがれ声ではっぱをかける。「どうしても、この寺を焼きますか?」 山田熊之助が茂吉に訊ねている。 炎をうけた茂吉が立ち上がった。「皆さん、隊長としての一存で寺を焼くことは中止します」 「隊長、今のお言葉は本当ですか?」「嘘は言いません、明朝一番に寺の境内に畳や燃える物を集めて下さい。多いほど良い、寺を焼き払ったと思わせるのです」「やった、さすがは隊長殿だ」 全隊士が一気に元気を取り戻している。「隊長、本当に中止しますのか?」 速水参謀長が声を低め確認している。「あなたは反対でしたよね、それとも放火しますか」「滅相な、隊長命令には逆らえません」 一斉に隊士から歓声が沸きあがった。「誰か?」 突然、哨戒兵の誰何の声がした、全隊士が銃を引き寄せた。「太兵衛にございます」 焚火の炎に照らされ、和泉屋の主人の太兵衛の小太りの姿があらわれた。 「太兵衛殿か、我等は一献酌み交わしておる。別れの杯じゃ、一献参られよ」 「頂戴いたします」 彼の背後から数人の足音がする。「どなたかご一緒かの」 「村人と娘たちにございます」「さあ皆さん、焚火のそばに参られよ」 坂田副長が手招きをしている。 村人の主だった者たちと娘たちが隊士の傍らに座りこんだ。 小者たちが茶碗酒を手渡している。娘たちのなかにお園の姿もあった。炎をうけた眸が、挑むように茂吉に注がれている。茂吉が赤面し視線を外した。「隊長さんに、お礼を申します」 「太兵衛さん、町を焼き払ったわたしに?」「こんな時勢にございます、我々町人は諦めておりました。しかし色々とお心配りを頂き感謝いたしております」 茂吉をはじめ隊士たちは目頭が熱くなった。塩原の人々の暖かい心根に感激した。「隊長さんや皆さん、お身体を大切に頑張って下さいね」 娘たちである。「戦いが終ったら、塩原に戻ってきて下さい」 お園が燃える目で茂吉を見つめた。 「命があったら、きっと戻ってきます」 「また、郡上の歌を一緒にね」 束の間の一時を過ごし、村人は戻って行った。 翌朝、朝比奈茂吉は妙雲寺境内から、見慣れた山並みを見つめていた。野州(栃木)の塩原温泉町との決別である。眼下に広がる町並は一変し全て燃え落ち、白煙がたなびいている。明治元年八月二十三日(旧暦)の夜明けは、身の凍るほどの冷気が充ちている。悔悟の念が胸を過ぎった。起床ラッパが境内に鳴り響き、隊士等が一斉に朝餉をかき込んでいる。 荷車の音が聞こえ緊張が走りぬけた。笑顔の太兵衛が付き添い、大八車に荷物が満載されている。「これは米や味噌にございます、少のうございますが酒も積んでございます。ぜひ受けとって頂きます」 塩原もこれから厳しい冬を迎えるのに、そう思ったが、「有りがたく頂戴いたす。寺はこのままにして撤退します。会津藩に訊ねられたら燃えたと申して下さい」 茂吉が背後をふり向いた。「山熊隊士、用意の畳に火を放って下さい」 「はっー」 山熊や他の隊士も畳みに火を放った、境内に煙が充満し本堂や庫裏に白煙が広がってゆく。 「有り難いことで」 太兵衛が目蓋をしばたたいている。これで先祖代々の菩提寺が助かる。 小者の源蔵が茂吉の愛馬を引いたきた。「お世話になりました。お園さんにはきっと戻るとお伝え下さい」 茂吉が素早く鞍上に身を移した。 「凌霜隊、出発」 凛とした声である。 火の手のあがる境内から、凌霜隊が駆け足で上三依に向かって去った。 山門の翳から、お園がそっと見守るように見つめていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 12, 2007
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「隊長、皆さんが集まったようです」 速水参謀長が告げにきた。「大広間にご案内を、わたしと坂田副長は先に行ってます」 茂吉と坂田副長が大広間に向かった。和泉屋に集まるよう命じられた上塩原、中塩原、下塩原の名差の人々が集まり、速水参謀長の案内で大広間に向かいながら、不安そうな顔をしている。「隊長殿がお待ちかねにござる」 速水参謀長が襖を開けた。 朝比奈隊長と坂田副長が平伏して一同を迎えていた。「これはいかが成されました」 太兵衛が、いぶかしげな声をあげた。「夜分にお集まりいただき恐縮至極にござる。遊撃隊本部の命令をお伝え申す」坂田副長が威儀を正した。 「何事にございますか?」「皆さんには申し訳ないが、この塩原町の焼き払いを命じられました。日頃からのご協力にたいし非道な・・・命令を遂行いたす」 坂田副長が感極まって言葉につまった。 「そのお話は本当にございますか?」 太兵衛が聞きなおした。「我等は二十三日に当地を引き上げます、この塩原は政府軍にとり咽喉から手がでるほど欲しい戦略上の要地にござる。政府軍に渡さぬよう、その前に焼き払いを命じられました」 坂田副長が説明し、茂吉が平伏したまま口をひらいた。「副長の申す通りにございます。恩義の判らぬ我等を恨んで下さい、明日から家財道具を持って避難されるよう、お願いいたす」 「お手をあげて下され」太兵衛が苦しげに茂吉に声をかけた、彼等にも判るのだ。この戦がいかに会津藩にとり重大な事か。 「町は焼けましょうが、いずれ我々の手で復興させます」 名差の全員が肯いた。茂吉が顔をあげた、無念の涙が頬を伝っている。「明日中に引越しを終えて下さい。我が隊士も出来るかぎりのお手伝いはいたします。二十二日には風上より火を放ちます」「判りました。我等に内緒で焼き払うことも出来たでしょうに、前もってのお達しに感謝申します」 田代太兵衛が茂吉に礼を述べた。 翌日から塩原一帯は、家財道具を持ち出す人々の群れでごったがえし、隊士たちも懸命に手助けをしている。氏井工兵士官と岡本文造が隊士を引き連れ、和泉屋と丸屋の取り壊しに没頭していた。 「丁寧に扱え、天井板から床板まで番号を記すのだ」 彼等は、たるきや抜きまで番号をうっている。 塩原は四百軒もの町屋がある。「ひどい」 隊士たちは三ヶ月も世話になった町中を駆け廻り、仏壇や箪笥を運びだしている。 妙雲寺にも隊士が出向き庫裏や本堂から、大切な品を裏山に運びでしていた。 この古刹の妙雲寺は由緒ある寺で聞こえていた。平家滅亡のおり、平重盛の菩提を弔うために建てられた寺であった。「隊長、この寺だけは残しましょう」 「参謀、命令は絶対です」 言い切る茂吉も、その思いで一杯であった。「会津の戦略は判ります、この町を焼き払い補給基地に出来ないようにして冬の到来を待つ。しかし四百軒もの町屋を焼き払えば、寺のひとつやふたつはどうでもない」 国学者の速水小三郎が執拗に食い下がっている。「隊長、本堂の天井に菊のご紋章が八十八も描かれてあります。いずれも金色です、これを焼いては朝敵の汚名をきることになります」 山田熊之助が泣きそうな顔で報告に現れた。菊のご紋は御上の紋章、さらに郡上藩も菊葉の紋章である。 茂吉がはたっと困惑している。「速水さん、どうしたものでしょう」 「どうしても焼かれると申されるなら、筆でバッテンをつけましょう。墨で消せば無かったことになります」 本堂は仏壇も祭壇も運びだされ、無人の荒れ寺の風情を見せている。 隊士たちは懸命に竹棹(たけざお)で菊のご紋章にバッテン印しをつけている。「政府軍の馬鹿野郎」 山熊隊士が罵り声をあげた、戦いの非情さに憤りを示しているのだ。振り返ると塩渓和尚がひっそりと佇み、念仏を唱えていた。「和尚、申し訳ございませぬ」 「全ては御仏の思し召しじゃ」 怒るでもなく和尚は飄々として奥に消えた。 (この寺だけは残そう)茂吉が命令に逆らう覚悟をかためた。どうせ政府軍が進駐してくる、会津藩に知れる筈はない。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 11, 2007
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(塩原焼き払い) 塩原の凌霜隊本営、和泉屋に伝令が駆けつけてきたのは、夕刻の空が灰色から鉛色にかわる刻限であった。「伝令ー」 騎馬兵の声がうわずって聞こえる。 「変事が起こりましたな」 速水参謀長が隣りの丸屋から駈け足で現れた。「朝比奈隊長殿に出頭命令であります」 「何かございましたか?」「拙者には判りません」 「直ぐに出頭いたす」 坂田副長が代って答えた。 茂吉と坂田副長に速水参謀長が、騎馬で塩原の上流の古町にある小山田遊撃隊本部に向かった。日向内記が鶴ヶ城に呼び出され、塩原方面の指揮官は会津遊撃隊長の小山田伝四郎に代っていた。 本部に着くと小山田遊撃隊長と組頭の黒河内左刀が緊張した顔で出迎えた。 「何事ですか?」 「会津若松が危ない」 「危ないとは?」「二本松から薩摩、土佐の政府軍が鶴ヶ城を包囲したとの知らせが入った」「二本松からは要衝の母成峠と十六橋がある。そこが破れたと申されるか」 速水参謀長が剽悍な目つきで聞き返した。「詳細は判らぬが、甲賀町口より城に迫っておるとの報せじゃ。考えられぬが、速水さんの言われる通りかもしれぬ」「して我等の任務は?」 茂吉の顔が引き締まった。「藤原口の山川総督は急遽、軍団を率い会津若松に戻られた。そこでじゃ」 小山田伝四郎が口篭っている。「二十三日までに塩原の町を焼き払い、上三依(かみみより)に進出下され」 組頭の黒河内左刀が乾いた声で告げた。 「塩原の町を焼けとー」 凌霜隊の三名が問い返した、考えもしない命令であった。「左様、午前中までに焼き払い上三依に出陣をお願いいたす」「山川軍団が藤原口を撤退されれば、敵はすぐに進撃いたしますぞ。我等が横川で政府軍を防ぐことになりますな」 坂田副長がしわがれ声で黒河内左刀に念を押した。「敵に対する命令はござらん、だが塩原の町を焼けとの命令は受理いたした」 小山田伝四郎が厳しい声を発した。 「何故、塩原を焼き払います」 茂吉が憤りを示している。 「塩原は要衝の地です。兵士の休息や物資の集積場としては、もってこいの地形じゃ。そこを焼き払えば、これから冬にむかう政府軍は塩原を使えぬことになる」 「成程、考えましたな」 速水参謀長が皮肉な笑みを浮かべた。「朝比奈隊長、あなた方の胸中は察しますが曲げてお願いいたす」 小山田伝四郎が頭を下げた。「会津の方針なれば仕方がありません、これから帰り村人を説得いたします」 三名は怒りと悲しみを胸に秘め、本部をあとにして馬を急がせた。「隊長、村人になんと云って説得いたします」 「わたしが詫びるまでてす」坂田副長が弱りきった顔つきで馬を急がせ、速水参謀長は無言で馬の背にゆられている。茂吉の脳裡に太兵衛とお園の顔がよぎった。「速水さん、あなたに願いがあります。塩原の名差の方々を和泉屋に集めておいて下さい」 「和泉屋さんと丸屋さんも集まってもらいましょう」 速水参謀長が馬腹を蹴って駆け去った。 「説得に応じてくれますかな?」「これは命令です。万一、承知せねば力ずくで遣るまでです、説明は副長にお願いします」 月光に照らされた茂吉の横顔が凛として見えた。(我々は会津救援として来たのだ、恨まれようと謗られようと軍事のことは遣るまでだ)茂吉の覚悟が固まっていた。 二人は和泉屋にもどり隊士を召集し、ことの成行きを説明した。「隊長、これは非道です」 真っ先に岡本文造が反対を唱えた。「これは軍事行動です。我等には時間がありません、和泉屋さんと丸屋さんの取り壊しは、氏井士官と相談して下さい」 「それを拙者に遣れと仰せか?」「あとあと直ぐに建てれるよう丁寧に取り壊し、資材とともに家財道具も撤去して下さい」 「そうでなくては成らぬ、了解いたした」 岡本が頬を崩した。 「全隊士も出来る限り町の人たちの世話を頼みます」 全隊士が茂吉の考えを理解した。「妙雲寺も焼き払いますか?」 「仕方がありません」 一同が沈痛な顔つきをしている、調練の終りに寺の境内で休息し和尚の読経を聞き、心の高まりを鎮めてきたのに、その寺まで焼き払うとは。全隊士の胸に戦いの無慈悲さがよぎっていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 9, 2007
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戸ノ口原、滝沢峠で敗れた藩兵が城の各所から、ぞくぞくと帰城してくる。彼等の持ち場は北の郭門である。政府軍の精鋭二千五百名は、甲賀町口、六日町口の郭門を突破し、雲霞(うんか)のごとく鶴ヶ城の北の正面の北出丸に攻勢をしかける。会津藩の抵抗も頑強であった。ここを破られたら最後と狂気のように防戦をする。政府軍は北出丸の右手の桜ケ馬場まで進出し銃火を浴びせる。会津藩兵は土塀の銃眼から撃ちかえし、降り注ぐ雨の中で必死の攻防が繰り返されていた。ここに一人の女性が活躍していた、会津藩砲術師範の山本覚馬(かくま)の妹の八重子である。彼女は土塀に穴をあけ、そこから砲門を突きだし、甲賀町口より押し寄せる政府軍に砲撃を加え、彼等の鋭鋒(えいほう)をくじく目覚しい指揮を執った。この戦いで土佐藩は有能な指揮官を失った。 大総督軍監の牧野群馬と三番隊長の小笠原謙吉が戦死したのだ。 一方、会津の悲劇は飯盛山につづき、郭内の武家屋敷でも起こっていた。甲賀町口の西側一帯は、会津藩士の武家屋敷となっていた。早鐘を合図に藩士の家族は、城に籠もるよう指示されていた。いわゆる諸籠(もろごもり)と云われる籠城である、籠城する意味は生命の保障ではなく戦闘員として命を捨てるという行為である。藩士の婦女子は籠城することで、夫や息子たちの足でまといとなる事を恐れた。いつ果てるとも知れない篭城戦には、兵糧が重要である。彼女等は自分たちが入城することで戦闘物資の消費を恐れたのだ。こうした考えから、集団自決が藩士の屋敷でつぎつぎと起こったのだ。 政府軍は城方の攻撃を避け進撃に有利な方法として、藩士の屋敷を利用した。それは当然の考えである。しのつく雨を避け食料などを調達しつつ城に迫る、唯一の選択肢である。土佐藩士、中島信行(のぶゆき)の率いる一隊が、城の前の屋敷に踏み込んでいた。そこは会津藩家老の西郷頼母(たのも)の屋敷であった。広壮な屋敷には人の気配が感じられない、一行は銃を腰だめとして奥に進んでいた。中島信行が何気なく襖を開き声を飲み込んだ。部屋には死に装束の女性が十名ほど血潮の中に倒れ伏していた。 「ほかの部屋も調べよ」 中島の命令で隊士たちが屋敷内に散った。中島は女性たちを検死したが、 見事に自刃を遂げていた。血飛沫が襖に飛び散り凄惨な光景である、ふっと見ると十六、七の娘が微かに手をさし伸ばしている、急所を外し死にきれずにいたのだ。 「味方ですか、敵ですか」 咽喉から血が滴り微かな声である。「味方の者です」 中島信行が答えると乙女の顔に安堵の色が浮かんだ。 彼女は指先を這わせ懐剣を探している、中島が代って乙女の咽喉を突いた。「隊長、次ぎの部屋にも女性と幼児の死骸があります」「何名か数えよ」 命令した中島が懐剣の柄に九曜(くよう)の紋を見つけた、 彼はここが会津藩家老西郷頼母の屋敷とはじめて知った。西郷邸の自害者は西郷家の全女性と一門の家族、総勢二十一名と判明した。中島が手にかけた乙女が頼母の長女の細布子(たえこ)であると後日に判った。土佐藩士は、こうした光景を見せられ戦慄を禁じえない、闘争心が萎えるのだ。「会津は恐ろしい藩じゃ」 兵士等は屋敷に入ることに躊躇しだした。香の臭いと女性たちの血の臭いがすると、背筋に恐怖に似た感情が奔りぬける。 土佐の参謀板垣退助は追手門ひとつに的を絞った攻撃で、城を一気呵成に葬る戦術を諦めた。戦局は徐々に変化し、南門の戦いから天神橋の戦いと移りついに成功をみなかった。板垣は薩摩の伊地知正治に兵の交代を申し入れ、薩摩に激戦区を明け渡した。これは自ら作戦遂行の意欲を放棄した証拠で、これにより会津藩に一ヶ月の籠城を許す結果となったのだ。 この日の戦闘で藩校日新館が焼け落ちた、今までは国境方面で傷ついた藩士の病院となっていたが、政府軍が立て篭もり城内攻撃の拠点となることを恐れ、会津藩が自ら火矢でもって焼き払った。収容されていた藩兵は歩行可能な者は城内に入り、歩行不能者は自刃して果てた。まさに峻烈な会津士魂というべき一事であった。鶴ヶ城は土佐藩兵に放火された南町口付近と、容保が放火を命じた東照宮と藩祖を祀る豊岡社が燃えている。容保はこれを焼き払うことで己自身の覚悟のほどを示したものと思われる。会津盆地は濃霧におおわれ、城下の火炎と南町口の炎が霧と溶けあい、奇妙な色彩をおびて見えた。政府軍から撃ち放つ大砲の音がこだまし、城下でも終日砲声が轟いていた。鶴ヶ城の各門には篝火が焚かれ、警護の藩兵が厳重に警備し彼等は一様に、会津主力軍団の到着を待ちわびていた。 こうして戦線は不思議な均衡を保ち膠着状態となった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 7, 2007
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「土佐、無念じゃ。将兵がすぐに引きあげて参ろう。胸壁を築き敵を一歩も入れまいぞ」 「はっ」 田中土佐は藩士の屋敷から畳みを持ち出し、急ごしらえの胸壁を築き、傷つきもどる将兵の収容を命じた。 この甲賀町口の郭内には藩士たちの屋敷があった。婦女子等が北追手門に避難し、最後のご奉公と老人たちが槍を携え胸壁に集まってきた。 政府軍は郭内の目前まで進出していた。この事態は会津藩にとり意外そのものであった、こうも早く城下で戦闘が始まるとは思いもせぬことであった。 急ごしらえの畳の胸壁はまったく用をなさず、敵の銃弾は苦もなく畳みを突き抜け老人たちが朱に染まって倒れる。政府軍と敗走の藩士、さらに避難する町人たちが郭外で揉みあい、目もあてられない情況となっている。 北追手門守備を命じられた白虎士中一番隊が、隊長の春日和泉に率いられ駆けつけてきた。彼等は郭内の三宅半吾邸を楯として射撃を開始した。寡兵の藩兵は必死で郭内への敵兵の侵入を阻止している。 滝沢村から撤収してきた黒河内式部が甲賀町口に戻ると、城門が閉じられ、戻った敗兵等が集まり郭外まであふれている。 「門を開けよ」「公命にござる」と、頑として門を開ける気配がない。「軍事奉行の黒河内式部じゃ。すぐに門を開けよ」 ようやく門が開かれ藩兵等が雪崩をうって城内に駆け込んだ。こうして会津鶴ヶ城の最も長い攻防の一日が始まった。城内の守備兵は三百名ほどで銃を持っている兵は数十名とお粗末な情況であった。それも火縄銃で雨中では全く用をなさない代物であった。この貧弱な装備で鶴ヶ城を守備していたのだ。城が辛うじて守れたのは、まさに怪我の功名であった。滝沢村からの撤収兵のお蔭であった。 もし、彼等が間に合わなかったら、鶴ヶ城は政府軍に占拠されていただろう。主力軍団を四境に配備した作戦の誤りであった。 急行した政府軍は郭内に入れず、城下の民家に火を放った。町屋が轟々と燃え盛る。そんななかで女たちに悲劇が起こっていた、逃げ遅れた女たちが捕らわれ、無残にも犯され殺戮されていた。戦場の狂気が兵士たちを獣に変え、ある者は屋敷の金目の物を戦利品として略奪し、いたる所で乱暴狼藉の限りを尽くしていた。 容保は路上で兵士を督励していたが、本五ノ丁が破られたと聞き、ようやく入城を承知して騎馬で城に向かった。 護衛の藩士が周りを囲み、一斉に引き上げはじめた。それを見た政府軍の銃火が集中し、騎馬に被弾し地上に投げ出された容保は徒歩で走った。 刀番の野村甚兵衛が両手を広げ、容保の躯を覆いながら駆けていたが、背に数発の銃弾を浴びたが屈せず、そのまま屋敷の死角に容保を導き、力尽きて倒れた。容保は顧みる暇もなく北出丸から城内に入った。間一髪の出来事であった。会津藩兵の頑強な抵抗をうけ、政府軍の攻勢が一時頓挫した。彼等は甲賀町口と六日町口の郭門に集中して銃火を浴びせていた。 逃げ戻った藩兵等も踏みとどまり防戦するが、会津藩の銃は性能、数量とも格段に劣っていた。田中土佐は城内の寡兵を知っている。「お城に下がるのじゃ」 藩兵に命じ陣頭指揮を執り続けている。「ご家老も、お引き下さい」 藩兵等が懸命に叫んでいる。 銃弾が一行を容赦なく襲うなかを、田中土佐を先頭としてお城に退き始めた。退却の途中で六日町口担当の、神保内蔵助家老と会った。「神保殿か、残念ながらお城に退く」「北出丸は兵力が少ない、城内に一兵の敵も入れてはならぬ」 神保内蔵助の下知で藩兵が武者声をあげてお城に向かって駆けてゆく。 両家老が銃を握り周囲を見渡した。 「これまでじゃ」 田中土佐が呟いた。武家屋敷の角から敵兵が近づいてくる、二人は敵中で孤立したのだ。「周りは敵ばかりじゃ」 神保内蔵助が無念の形相を見せている。 二人は目前の屋敷に入り、銃で敵兵と渡り合ったが、屋敷に放火され隣りの屋敷に逃れた。 「責任をとって自害しますか?」 神保内蔵助が田中土佐を見つめ訊ねた。「何としても戻りたいが、無理のようですな」 田中土佐が、どかっと座り落ち着いた態度で脇差を腹にあてがった。 二人の会津藩首脳が緒戦の戦闘で命を絶ったのだ。これは会津藩にとり痛手であった。将来を託す少年たち、さらに脈々と会津士魂を継承してきた老人たちが倒れてゆく。痛恨な悲劇であった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 6, 2007
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「畜生ー」 重傷の石田和助が叫び声をあげた。 「石田、静かにしてくれ」 声をめがけ銃火が光り銃弾が撃ちこまれる。 突然にラッパの音が戸ノ口原の闇に轟きわたり、喚声と銃声が響いた。会津藩兵が最後の突撃を開始したのだ。 「篠田っ、我々も突撃しよう」「待て、日向隊長の命令で動けぬ」 「このままでは全滅する、せめて武士らしく死のう」 篠田儀三郎の友人の安達藤三郎である。「よし、判った。どうせ死ぬなら石田も連れていこう」 重傷の石田和助を林八十治と永瀬雄二の二人が抱え起こした。暗闇に馬蹄の音がおこり、 「会津藩兵は撤退いたせ」 大声で叫びまわっている。「防御線が破られたな、このままでは犬死じゃ。我等も撤退する」 篠田儀三郎が命令を下した。 「何処に逃げる」 「滝沢山中に逃げ込む」 残りの二十名が胸壁を離れ、闇夜を彷徨し滝沢山中に逃げ延びた。 飢えと疲労の二重苦を抱え、彼等は手探りで彷徨い続け戸ノ口堰(せき)の洞門をくぐり抜け飯盛山の中腹に出た。時に八月二十三日の早暁を迎えていた。「あれを見ろ、お城が燃えている」 白虎隊の少年から悲鳴に似た声があがった。篠田儀三郎が茫然と立ち尽くしている。城下一帯は火の海である。黒煙が空を覆い鶴ヶ城の天守閣が燃えて見える。 「会津が敗れた」 隊士等が枯れ草にへたりこんだ。全員が号泣する。 「篠田、どうする」 全隊士が篠田を見つめた、黒煙が天を覆い、砲声がえんえんと轟いている。「篠田さん、お先に」 重傷の石田和助が短刀で咽喉を突いて倒れた。 それを見た少年たちが、つぎつぎと短刀で腹を突き刺し、死出の旅に発って行く。 「篠田、おまえと俺は友人だった。一緒に死のう」 安達藤三郎が篠田儀三郎の手を握りしめた、二人の双眸から涙が滴り落ちている。殿に信頼された出撃であったのに、敵を仕留めることも出来ずに無念であった。「行くぞ」 短刀がお互いの胸を突き抜けた。純粋無垢な少年たちの早すぎる死であった。血腥い臭いが風に流され凄惨な光景が映しだされている、白虎隊士中二番隊の生き残った全員が自刃したのだ。 飯盛山を偶然にも通りかかった、百姓女のハッが壮絶な光景を見つめ息を飲みこんだ。彼女は気丈にも一人一人の顔を覗きこみ、飯沼貞吉が息をしていることを見つけた。ハッは貞吉を背負い塩川の病院に送り看病した。こうして飯沼貞吉の証言で白虎隊士中二番隊の自刃の模様が、顕かになったのだ。 併し、会津首脳は現時点、これを知らない。彼等が全員戦死したものと考えていたが、戸ノ口原の激戦地からは、篠田儀三郎等の遺骸が見つからず困惑していたのだ。彼等の遺骸は雪に埋もれ、翌年の雪解けを待って発見された。 滝沢村の横山邸の本陣で、藩主の容保は眠れぬ一夜を過ごしていた。会津盆地特有の霧がたちこめ村を覆っていた。 突然、けたたましい銃声が響き、薩長土の精鋭部隊が滝沢峠を越えて浸入してきた。本陣の前を戸ノ口原で敗れた藩兵が雪崩をうって潰走しくる。 本陣にも銃弾が降り注いできた、少しでも敗兵を収容するために、容保は本陣を前線に近づけるよう命じた。側近の竹村助兵衛と黒河内式部が兵を率い先駆けした。容保は弟の桑名藩主の松平定敬を招き、直ちに米沢に撤退するように説得した。 「卿は米沢で同盟諸藩と今後の謀を成せ」「兄上はいかがなされる」 「わたしは城を枕に討死いたす」 定敬は兄、容保の決意のかたさを悟り、藩兵を伴って米沢に去った。 こうしたうちでも、政府軍の先鋒隊が村の入り口近くに進出し銃撃戦となっている。 「殿、お城にお下がりくだされ」 黒河内式部が容保の馬の轡を城に向けた。鶴ヶ城方面から早鐘が響いている、藩の軍事局が藩士の家族や町人に警鐘を鳴らしているのだ。合図の鐘の音で町人たちは市街地から非難し、藩士の家族等は城内に入るよう命ぜられていた。 これほどまでに素早く政府軍が、城下に進攻するとは誰も予測しきれない出来事であった。容保は藩兵に守られ、馬首をまわし甲賀口に向かった。 郭内まで引きあげると、家老の田中土佐が出迎えていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 5, 2007
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羅紗(らしゃ)の軍服姿の少年もいる、上着だけ洋服で義経袴(よしつねはかま)の少年もいるが、いずれも紅顔を輝かせ大刀を背にしヤーゲル銃を担いでいる。「猛訓練の成果をみせてやる」 二番隊の篠田儀三郎が昂然と胸をはる。「白虎隊士中二番隊出陣いたす。殿に敬礼」 日向内記の凛とした声が響き、少年たちは目を輝かせ容保に敬礼した。容保もフランス式の答礼を返し、白虎隊士を見廻した。(酷い、この戦闘で彼等の何人が生還できる。藩内の俊才であると同時に日本の逸材でもある、許せ)容保は一人一人の顔を確りと見つめた。 「なおれ」 日向隊長の声で少年たちは姿勢をただした。「これより戸ノ口原に向かう」 日向内記が騎乗、敬礼し本陣を踏み出した。白虎隊士も二列縦隊で泥濘(ぬかるみ)の道を整然と出撃して行く。 再び雨足が強まった。松平容保は微動だにせず、少年たちの姿が見えなくなるまで冷たい雨に打たれ見送っていた。彼の頬に涙が滴っていた。「殿、お風邪を召しますぞ」 側近一同が心配している。「風邪なんぞ恐れぬ、見よ。白隊隊士の勇姿を」 側近の者が目尻を拭っている。彼等にも容保の心境が痛いほどに判るのだ。 一方の政府軍は十六橋確保のために母成峠を越えて急行していた。この隊は川村純義(すみよし)の率いる薩摩四番隊の精鋭であった。母成峠の戦闘に遅れた川村は、会津の防衛線の要が十六橋とみて兵を叱咤激励し急行していた。 あの石橋を破壊されたら、戦局は膠着する。強風と氷雨をついて薩摩隊が十六橋の東岸に辿り着いた。約五十間(九十メートル)の石橋には、予想にたがわず、会津藩兵が橋梁を破壊する様子が見られた。「斥候を出せ、敵情を探るのじゃ」 川村純義は慎重であった。 目前には会津藩兵が黙々と破壊活動をしている。彼等は、この悪天候のなか政府軍が来襲するとは予想だにしていない、油断であった。 斥候がもどり、東岸に一兵も警戒兵の姿がないと知るや、川村は直ちに兵を進め、橋の手前に兵を散開させ攻撃を命じた。雨音のなかに一斉射撃の銃声が轟いた、ばたばたと会津兵が射抜かれ橋から転がり落ちる。「敵じゃ」 会津兵も防御に廻るが、なんせ寡兵の上に銃の性能が格段に違う。この氷雨の中でも会津兵の所持するヤーゲル銃は、十発も撃ち続けると銃身が加熱して射撃が不可能となる。 「後方の胸壁まで後退いたせ」 会津藩兵は戸ノ口原の胸壁まで引き下がり、反撃をはじめた。何としても、ここで政府軍を阻止する。そんな会津藩兵を嘲笑うように、薩摩四番隊はつぎつぎと十六橋を渡り銃弾の雨を浴びせる。会津兵も頑強で両軍の睨みあいが続くなか、続々と政府軍は増強されている。 そんな最中に、白虎隊士中二番隊の少年が胸壁に辿り着き戦闘に加わった。いきなり初陣の少年兵は、戦闘の第一戦に立たされた訳である。 急速に闇が広がり土砂降りの雨の夜を迎えた。白虎隊士のなかに数名の犠牲者が出ていた。「畜生め」 「油断するな」隊長の日向内記の檄がとぶが、冷えと空腹で隊士たちの気力は萎える。急な出撃で兵糧の用意をしてこなかったのだ。隊長の日向内記の誤算であった。「腹が減ってな」 誰ともなく愚痴がでる。途中で敢死隊(かんしたい)から、握り飯を分けてもらい口にしただけであった。「我慢してくれ」 隊長の日向内記が隊士に詫びている。 漆黒の戸ノ口原の各所に篝火の明りが点在している。会津藩兵は銃弾を撃ちつくし、抜刀斬り込みしか攻撃方法のない情況に陥っていた。闇をぬって果敢な斬り込みを敢行し、政府軍を悩ましているが、徐々に兵力が先細っていた。 敢死隊頭の小原信之助、奇勝隊長の上田新八郎も壮烈な戦死を遂げていた。白虎隊も数度の斬り込みを行い、隊士の数も二十名に減らしていた。「篠田はおるかね」 「隊長、ここに控えております」「わたしは食料を調達してくる、それまでは君が隊長代理だ」「判りました」 篠田儀三郎が力強い返事をした。それを聞き日向内記が闇に消えた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 4, 2007
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この日が八月二十日であった。石筵に政府軍の進攻を知るや、伝習隊と各隊は母成峠の勝軍山を降り、石筵で防戦をはじめた。 特に伝習隊の奮戦は凄まじく政府軍は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、伝習隊は追撃に移った。これは板垣参謀の戦術でまんまと策にはまった。 大鳥圭介を先頭に伝習隊は深追いをしすぎたのだ。背後に土佐一番隊の精鋭が現われ、背後から猛烈な銃撃を浴びせられた。「しまった」 大鳥圭介が歯噛みをした。敗走する政府軍が一斉に攻勢に転じたのだ。腹背から攻撃をうけ、伝習隊は敵中で孤立した。 両軍乱戦となり伝習隊は苦戦に陥ったが、大鳥圭介の巧妙な指揮で隊の引きあげに成功した。全員血塗れで甚大な損害を出した。「味方の奴等は何をしているのだ」 隊士の憤りが味方に向けられた。「全軍を統帥する将がおらんのだ」 大鳥は部下を説得し石筵に引きあげた。相変わらず雨が容赦なく降り注ぎ、疲労困憊した隊士たちが空腹を抱えている。補給が途絶え、手持ちの米を雑炊として餓えを凌いだ。 翌日の母成峠は霧に覆われている、大鳥圭介は大隊をまとめ勝岩に登り、塹壕(ざんごう)を掘り、隊士を部署した。 敵の主力軍は霧の中を進み、勝岩近辺で砲撃戦となったが、伝習隊の勇戦を受け、政府軍は南に迂回していった。こうして同盟軍は辛うじて踏み止まっている、この日は陽暦の十月六日にあたり、会津一帯は秋季に充ち心身ともに寒気が忍びこむ。北方から砲声がえんえんと轟いている。 政府軍は間道を伝い勝岩の横合いから砲撃を加えてきた。今日は長州、土佐の正規軍である。大鳥圭介は胸壁(きょうへき)と塹壕に籠もり防戦を命じた。真っ先に仙台藩兵が退却をはじめた。「伝令、防戦するよう仙台藩に申しいれよ」 大鳥圭介も必死である。 二本松藩兵までが陣地を捨て逃げ散るありさまである。「総督、もはや防ぎきれません」 大川正次郎や本多幸七郎の伝習隊幹部が駆け寄って無念の形相で撤退を進言する。「ここが敗れたら鶴ヶ城が危ない、諸君はそれを承知か?」「承知にござる。味方があのざまでは我等は全滅します、戦いは会津ばかりではありません」 氷雨のなかを仙台藩、二本松藩の兵士が藩境に向かって後退している。 「米沢に向かいましょう」 「馬鹿なー」 大鳥圭介が絶句した。銃声と喚声がまじかに迫ってきた。会津藩の田中隊も撤退を進言してくる。 「判った、死ぬのは何時でも出来る退いて後図を謀ろう」 各隊は敵の眼を恐れ、散り散りに勝岩陣地を逃れた。ここで大鳥圭介率いる伝習隊の残兵と、土方歳三率いる新選組は仙台に落ちのびて行った。 彼等の本土での戦闘は会津の地で終りをみたのだ。彼等は松島湾に遊弋する榎本武揚(たけあき)の旧幕府艦隊と合流し、蝦夷に向かうのであった。 鶴ヶ城に母成峠の敗報が届いたのは、二十二日の午前五時頃であった。ただちに西郷頼母(たのも)、田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛、梶原兵馬等の家老が召集され、鶴ヶ城防衛策が協議された。 主力軍団を四境に配備しているために城内の兵力は、数百名を数えるのみである。幸い回天隊、誠忠隊、水戸脱藩隊、桑名藩兵の応援部隊がおり、そのなかで急遽部署わりが決められた。 藩主、松平容保は全軍の士気を鼓舞するために、滝沢村に向かった。先駆けは猛将、佐川官兵衛。大目付、竹村助兵衛。軍事奉行の黒河内式部の側近が従っていた。藩主の護衛として日向内記の率いる、白虎隊士中二番隊の三十七名の少年兵も出陣した。 しのつく雨のなか日輪の馬標を先頭として滝沢村に急行した。追々と城内の諸隊や桑名藩主、松平定敬(さだあき)も兵を率い到着した。 ようやく滝沢村本陣が活気づいた時に、戸ノ口原から援軍要請の伝令が駆けつけてきた。猪苗代亀ケ城が敵の手に堕ちたとの報せを受けたのは、ほんの先刻であった。今また戸ノ口原で戦闘が始まったとの報せが入るとは、政府軍の進攻の速さを物語る出来事である。会津藩には予備の兵力がない、急遽、白虎隊士中二番隊に出撃命令が下されたのだ。 一方、佐川官兵衛は滝沢峠を越え、十六橋破壊のために急行していた。「急ぐのじゃ、あの橋が敵の手に堕ちたらお城が危うい」この時が午後二時頃である。白虎隊士は初陣を命じられ、それぞれが完全武装し本陣に待機していた。全員の胸に闘志が湧きだしている。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 2, 2007
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茂吉が速水参謀長の報告に沈黙した。幕軍と会津藩はつぎつぎと戦線を後退させている、これが本格的な政府軍の攻勢を予感させるのだ。「速水さん、隊士たちに今晩の盆踊りの見物を許可しました。ご苦労ですが、輜重隊に命じ寺の庫裏(くり)に銃などの装備品を移動させて下さい」「敵の奇襲に備える処置ですな」 「気づかれずにお願いします」「了解しました。すぐに取り掛かります」 速水参謀長は茂吉の意図を察し装備を移動させ、寺の周囲を哨戒兵で固めた。祭りは最高潮に盛り上がっているようだ、太鼓や笛の音が満天の星空に響きわたり、村娘たちの喜びの声が聞こえてくる。 茂吉も境内に足を運んだ。 「あらっ、隊長さんよ」 娘たちが群ってくる。「隊長さん、踊りませんか」 お園が艶やかな浴衣姿をみせ誘った。「わたしは見物だけです」 「つまんないの」 お園を先頭に娘たちが踊りの輪にはいり、手拍子も鮮やかに踊りだした。何時の間にか速水小三郎も踊りの輪のなかで、しなやかな踊りを披露している。坂田副長も山熊の姿も交じり、全員が満面の笑みを浮かべ祭りを楽しんでいる。 茂吉は繁みから藤原方面を見つめたが、何の異常も見られない。戦闘は小休止したなと感じられた。一座にどよめきが起こった。 坂田副長が櫓に登っている、茂吉が暗闇のなかで苦笑いを浮かべた。「さあー、はじめますぞ」 拍手喝采で気を良くした坂田副長が、さびた声をあげた。 「郡上のなあー。 殿さま青山さまは 江戸の青山馬でとおる」 郡上踊りの歌であった。「郡上恋しゃ、あの子とふたり、ともに踊った夢ばかり」「ご老体、神経痛が出ますぞ」 声の主は山田熊之助である。「馬鹿者、踊らぬか」 坂田副長が汗を拭い声を張り上げた。「草をもんでは、浴衣を染めて、たれを待つやらいそいそと、あなた許して、お盆じゃわいな、踊り疲れて千鳥足」 わーっと歓声がわいた。「皆さん、これが郡上踊りの歌ですぞ」 こうして村人と夜を徹して交歓が続いた。 (鶴ヶ城の危機) 北越の蒼龍(そうりゅう)と云われた、長岡藩軍事総督の河井継之助の負傷で長岡藩は陥落し、政府軍は念願の新潟港を手にした。 こうした時期、鶴ヶ城は存亡の危機に直面していた。国境に主力軍団を配した会津の弱点は、鶴ヶ城に数百名ほどの守備兵力しか残して居なかった。それも若年兵と老年兵のみであった。 政府軍参謀の土佐の板垣退助と薩摩の伊地知正治は、会津の現状を知らずに戦略転換を謀った。今の時期なら会津若松の戦局は一変する。 これまでの作戦は、全て大総督府軍事局判事の大村益次郎の立案であった。大村は根幹の会津若松を立ち枯れさせる戦略で臨んでいた。しかし旧暦の八月を迎え、朝晩の寒さは確実に実感される。このまま冬の到来を迎えれば、間違いなく政府軍は壊滅する。今こそ会津盆地に兵力を集中し、一気に勝負を決する。これが、二人の参謀の一致した意見であった。 八月十九日に母成口(ぼなりぐち)から攻め込むと軍議が決定した。この作戦は二本松から石筵(いしむしろ)、母成峠を経て会津若松に入る、行程十五里を走破することであった。それには猪苗代湖(いなわしろこ)の北岸から十六橋(きょう)を攻略し、戸の口原から会津若松をめざす。その鍵は疾風怒涛の進撃が前提であった。会津藩が十六橋を破壊すればこの作戦は泡沫に帰す。 政府軍の二千五百名は二本松を出撃し、石筵を攻略し母成峠に迫った。 ここの守りは、藤原から急遽転進した大鳥圭介率いる伝習隊四百名と、会津藩猪苗代城代の田中源之進隊と二本松藩兵、仙台藩兵、あわせて八百名余であった。会津藩首脳も十六橋の重要性を認識していたが故に、洋式軍の大鳥隊をここに配置したが、彼我の兵力差と火力の点では大いに劣っていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
Jun 1, 2007
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