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翌日の早暁、ラッパの音が温泉町に響きわたった。凌霜隊士が屋外に整列している。 「駆け足」 朝比奈隊長が並足で馬を駆けさせる。隊士たちがえいえいと懸け声をあげて追走して行く。深酒をした二、三人の隊士が慌てながら駆け出していった。その後を坂田副長が騎馬で追いたてるように煽りたて街道に消え、ラッパの音に驚いた村人が見送っていた。「さすがに凌霜隊ですな」 「立派だわ、朝比奈隊長さん」 村の娘たちが茂吉の噂をしている。(わたしだけよ、隊長さんの匂いを知っているのは) お園がそれを聞き胸をときめかせていた。 朝の調練を終えた凌霜隊は塩原村の、臨済禅宗(りんさいぜんしゅう)の妙雲寺の境内に集結を終え休息していた。 寺からは住職の塩渓(えんけい)和尚の読経の声が朗々聞こえてくる。茂吉をはじめ隊士たちは心を無にして読経に聞き入っている。血腥い戦闘の思いが失せ、故郷の風景や家族への思いが胸のなかを走りぬける。しかし、なぜ会津救援隊として鶴ヶ城に向かうのか、誰も疑う者はいなかった。 江戸から各地の戦線を幕軍の諸隊と一緒に戦い、彼等の思いと信念を知った。藩命、忠義、信義、義侠、そんな言葉では云い表わせない何かに惹かれて来たのだ。藩の生き残りの策として会津藩や幕軍に加わったのに、今は彼等の勝利を信じ、ともに戦う意義を見いだしていたのだ。 読経が途絶え、塩渓和尚が飄々とした姿を現した。 「ほうー」という感心の面持ちで一同を見廻し、おもむろに口を開いた。「拙僧が住職の塩渓じゃ、凌霜隊の皆さんかの」 温かみのある声であった。「境内をお騒がせして申し訳ありません、隊長の朝比奈茂吉です」「わびる謂れはござらん、それにしてもお若い」「和尚の読経で心が洗われる思いにございます」「生死の境に身を置くと悟りの道が啓かれ(ひらかれ)ますかな。拙僧の読経で心が洗われるなら、拙僧にとり果報と申すべきことにござる」「悟りの境地に至るなんぞ大それたことにござる」 隊士の岡本文造が苦笑で否定した。隊きっての漢学と詩文の大家である。「和尚、拙者は参謀の速水小三郎と申す、いささか国学を学ぶ者として感銘をうけました」 「感銘とは?」「俗事にござる。こうして長旅をしてまいると故郷が偲ばれます」「なんの、故郷や家族を思う心があれば憐憫(れんびん)の情があるのじゃ。裏庭に井戸がござる、遠慮のうお使いなされ」 こうして調練の後に身を清めるために毎朝、隊は妙雲寺を訪れる事になった。これを契機として茂吉は、暇をみつけては和尚を訪れ、法話を聞き座禅をくみ心の鍛錬に精進するようになった。 一方、幕軍の大鳥圭介は日光籠城を中止し、大笹峠から三依(みより)、五十里(いかり)へと出て横川から、山王峠に向かっていた。 従うは伝習隊、草風隊、貫義隊、御料隊などの諸隊であった。彼等は会津藩若年寄の山川大蔵と合流し、隊の編成を行い藤原を本陣に定め政府軍と激戦を繰り返していた。ここ塩原にも砲撃の音が微かに聞こえていた。「頑張っておられますな」 茂吉と坂田副長が和泉屋で語らっている。 凌霜隊が駐屯してはや半月あまり経った。塩原の町は活気に満ちている。盆祭りが近づき妙雲寺境内では、祭りの用意で村人たちが汗を流し櫓を組んでいる。今宵が盆踊りの日であった。「隊長、隊士の見学の許可をお願いいたす」 坂田副長が早速やって来た。「余り張り切りますと持病の神経痛が痛みますよ」「わしは見物だけです、隊士たちが騒いでおりますのじゃ」「今夜は爽やかな晩です、羽目を外さないようお願いします」 陽が落ちると村人や娘たちが浴衣姿で三々五々と境内に集まりだした。笛や太鼓の音が町中まで聞こえてくる。 坂田副長と交代に速水参謀長が姿を見せた。顔つきが剽悍となっている。「何か異変でも?」 「藤原口に政府軍が迫っているそうです」「いよいよ敵が藤原まで来ますか」 藤原の次ぎはこの塩原が攻撃目標となる。 「それで敵の様子はどうですか?」 茂吉の顔つきも鋭くなっている。「宇都宮藩兵と佐賀藩兵の二藩をまじえた総勢一千名。やっかいなことに佐賀藩は、最新式のアームストロング砲一門を装備している模様ですな」「それで我が軍は」「伝習第二、第三と諸隊の兵で六百名と会津藩朱雀(すざく)士中隊に寄合隊を加え総勢九百名程らしゅうござる」 「苦戦しますね」「これも、今市攻略の失敗が尾をひきましたな、草風隊はいち早く鶴ヶ城に向かったそうです」 こうした間にも盆踊りの太鼓が賑やかさをましている。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 31, 2007
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太兵衛の足音が消えるのを待ち、茂吉が幹部の二人を見つめ口を開いた。「ご両人に申しますが、このような温泉町の守りでは士気に乱れが生じましょう。歩哨は昼夜をわかず三名ずつ交替で行い、日中は猛訓練をいたします。町の人に迷惑のかからない配慮をお願いします」「隊長、ここは温泉町です。いやでも温泉女郎が目につきます、隊士の夜間の行動には目を瞑って頂きます」 「目を瞑れと」「左様、血気の隊士たちです、女子の肌も恋しくなりましょう」 坂田副長が語り、速水参謀長が無言で茂吉を見つめている。茂吉も男の 生理は判る。 「判りました、しかし常に敵の来襲を忘れる訳にはいきません。そこのところを確りし、隊規の緩みのないよう願います」「了解です」 速水小三郎が簡潔に肯いた。「ところで菅沼さんの容態はいかがですか?」「小野軍医の報告では益々悪化しているとの事です。一足先に会津に護送いたそうかと思案しています」 坂田副長が、どうしたものかと茂吉を見つめた。「これ以上隊士を減らすことは出来ません、幸い温泉町です。暫く様子を見たいと思います」 茂吉が辛そうに云った。「判りました。だが容態がこれ以上悪化したら相談にのって頂きます」 速水参謀長が、茂吉の眸を覗きこむように念を押した。「判っております。ところで今晩、隊士の慰労会を行いたいと思いますが、歩哨だけはつづけます」 茂吉が味のある配慮をみせた。「結構ですな隊士も喜びましょう。和泉屋さんと相談し、一風呂浴びてきます」 坂田副長が踊るような足取りで部屋を辞していった。「今晩の歩哨は小隊長以上の年嵩の者でやりましょう」 速水参謀長が粋な計らいを披露し、肩で風をきるような勢いで廊下に消えた。(隊を纏めるとは苦しいものだ)茂吉は胸の中で思った。 軍服姿で庭先に出て茂吉は眼をみはった。隊士たちが宿の浴衣に着替え、洗濯の終った軍服を紐でつるしている。髭をあたり、風呂あがりのすっきりとした顔つきをしている。 「隊長殿はまだですか、湯加減の良い温泉です」 巨漢の山田惣太郎が声をかけた。「おは入りになられるなら、ご案内いたします」 お園が傍らに佇んでいた。「隊長殿、この日照りです干せば直ぐに乾きます」 山田熊之助が浴衣に胴田貫をぶちこんだ珍妙な姿で声をかけた。「わたしの軍服も汚れがひどい、一風呂浴びてきます」 茂吉が浴場に向かうと、お園がいそいそと背後からついて来る、これには閉口した。 「お園さん、わたしは一人でやれます」「お脱ぎになった軍服は洗ってさしあげます」 「構わないで下さいよ」 それを見物した隊士から一斉に笑いがわいた。いかにも初々しい隊長の姿と困惑した様子が可笑しいのだ。 「隊長殿、お任せしたらいかがです」「今回だけはお願いします」 茂吉は急いで浴場にむかった。 風呂場から坂田副長と速水参謀長の声がする。茂吉は軍服を脱ぎ捨て下帯姿となった。まずい、下帯の汚れはひどいものである。 お園は茂吉の下帯姿となった裸体を目の当たりにして驚いた。細い体躯に見えた茂吉の背中は、見事な筋肉が盛り上がっている。「お園さん、軍服を頼みます」 「はい」 彼女ははじめて恥じらいを覚えた。汚れた軍服と革帯から汗と革の臭いが鼻をつく、これが隊長さんの汗の臭いと感じたとたんに、胸がせっなくなった。お園が初恋を知った瞬間であった。 夏の遅い闇が温泉町を覆った。旅籠の灯が一斉に点った。和泉屋の大広間で慰労会が始まっている、見事な塩原の夏の幸がそれぞれの膳部に乗せてある。 「鮎の塩焼きじゃ」 「懐かしいなあ、郡上を思いだすよ」 全員が頭からかぶりついた。「うまい」 ぐびっと酒を流し込み山熊が喚いた。二十代前半の隊士が三分の一も居る凌霜隊の隊士は、宴たけなわの中で既に酩酊している者もいる。中年の隊士が数名姿を消した、彼等は女郎を買いに行ったようだ。茂吉は一人渋い顔をしてぐいぐい飲んでいる。十七才ながら酒豪で鳴らしていた。 速水参謀長と武井安三が姿を消し、すぐに歩兵士官の岸本伊兵衛の姿も消えた。彼等三名は歩哨に行ったのだ。 酒豪の山熊、山惣と斉藤巳喜之助の三人が、茂吉を取り巻いている。 こうして塩原の第一日目が終った。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 30, 2007
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速水参謀長一行は二百四十キロの行程を走破し、五月七日に藤原の本隊にもどった。茂吉がねぎらいの言葉をかけ、早速、首尾を訊ねた。「会津藩付属は認められました。日向内記殿の指揮下に入るよう指示を受けました」 速水小三郎が会津藩の伝言を伝えた。 茂吉と坂田副長が指揮官が、日向内記と聞くと喜びをあらわした。「あの隊長ならば安心です」 五月十一日、凌霜隊は塩原守備を命ぜられ北上した。彼等はこの温泉町で三ヶ月過ごすことになる。 この戦略は会津藩西側の防備にあった、政府軍の太田原から塩原への侵入を防ぎ、いざという時は尾頭峠から上三依(かみみより)に進出し、日光、宇都宮から北進する政府軍の横腹を衝くという役目があった。 凌霜隊は藤原から整然と隊伍ととのえ塩原温泉(栃木)へとめざした。宿は和泉屋という温泉旅籠である、遥か遠くの郡上から会津藩の困窮をみかね、何の義理もない凌霜隊が、義侠心のみで救援に来てくれたことに感激した主人の、田代太兵衛が、進んで宿舎として提供を申し出てくれたのだ。 凌霜隊士等は面映い(おもはゆい)思いを胸に秘め行軍していた。 この塩原温泉は江戸と会津をむすぶ街道に位置し、昔から温泉町として栄えてきた。軽やかな馬蹄と歩兵の足音が轟き、凌霜隊一行が温泉町に粛々と行軍してきた。 「全隊止まれ」 騎馬の朝比奈隊長が凛とした気迫のこもった命令を下し颯爽と下馬した。隊士たちが顔中汗を滴らせ整列した、全員のスペンサー銃が異彩を放っている。町中の者が集まり、年頃の村娘が好奇な視線で眺めている。温泉町に集まる男どもと違う一団である。「全員につげる。前列は和泉屋さん、後列は丸屋さんに宿泊します。くれぐれも軍規の乱れのないようお願いします」 若年の茂吉が訓示を述べ解散した。汗と埃にまみれた軍服姿の隊士たちが用意された盥の水で汗を拭い身繕いを整えている。季節は旧暦の五月で盛夏のさなかにある。「山惣小隊長、山脇金太郎、鈴木三蔵」 坂田副長がしわがれ声をあげた。「三名は定めの箇所で歩哨じゃ、交代は二刻とする。急げ」 三名が騎馬で駆け去った。 「今日は特別に今から入浴を許す」 速水参謀長が精悍な風貌をくずし命令を下した。 「やったー」 全隊士が喜びの声をあげ和泉屋と丸屋に粛然として入って行く。「輜重隊は和泉屋さんの、裏手に荷物を運び解散じゃ」 坂田副長が小者たちに声をかけ、茂吉の傍らに寄り添った。 小太りで柔和な眸に強い意志を秘めた中年の男が近づいてきた。「わたくしが和泉屋の太兵衛にございます」 名字帯刀を許された人物である。「わたしが隊長の朝比奈です。お世話になります」「副長の坂田林左衛門じゃ」 「参謀長の速水小三郎です」 四人が路上で挨拶を交わしている、真夏の太陽が容赦なく降り注いでいる。「お父さん、お部屋でお話なさいませ」 年の頃、十五、六才の美貌な乙女が太兵衛をたしなめた。「これはうっかりといたしました」 太兵衛が顔を染め三人を旅籠に招きいれた。「娘子にござるか」 「左様で」 乙女が頬を染め茂吉を見つめている。茂吉が顔を赤らめ、太兵衛のあとに従って旅籠の奥に消えた。それを見て坂田副長と速水参謀長がにやりとした。 「なかなか美しい娘子ですな」「一人っ子の所為か気が強くて困っております」 太兵衛が部屋に案内した。「ここが隊長さまと副長さまの部屋にございます。気兼ねなくお寛ぎ下さい」 窓の簀の子から気持ちの良い風が吹きぬけている。眼下には塩原の町並みが一望できる。 「これは絶好の部屋じゃ」 坂田副長の声が弾んでいる。街道の彼方まで見通しがきき、戦術上最高の眺めである。 部屋に先刻の乙女が茶をもって現れた。 「どうぞ粗茶ですが」 若々しい声で気持ちが和らぐ。 「頂く」 速水小三郎が咽喉を鳴らした。「隊長さまもどうぞ」 「頂戴いたす」 茂吉の態度が何となく硬く思われる。「お園(その)、これから内密な話がある」 「はい」 彼女は静かに去った。「隊長さま、会津藩は勝てますか?」 太兵衛が真剣な顔つきで訊ねた。「正直、わたしにも判りません。ただ続々と幕府諸隊が会津をめざしております」 茂吉の答えに太兵衛が暗い顔を見せた。「勝てますよ、藤原では会津藩と幕軍が合流し守りを固めております」「勝たねばなりませんな。わたしどもは何でもいたします、用がございましたら遠慮のうお申しつけ下さい」 太兵衛が小太りの躯をゆすって部屋から去った。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 29, 2007
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「有りがたし、咽喉がなりますな」 坂田副長が嬉しそうに破顔した。「その前に会津藩の砲兵隊長に会いに行きます、ご一緒願いますよ」 朝比奈茂吉に坂田林左衛門、速水小三郎は新しい軍服に着替え、会津藩の砲兵隊を訪れた。応接は会津藩七百石取りの中堅藩士の日向内記であった。まだ二十五才の日新館出身の英才で名高い青年将校である。彼は百名の部下と共に、この今市宿(栃木県今市市)に駐屯していたのだ。 簡単な挨拶を交わし、茂吉が大鳥圭介からの紹介状を渡した。「郡上藩の方々ですか、我が藩のためにご足労いただき感謝いたします。しかしお若い隊長さんですな」 日向内記が茂吉の若さに驚いている。「なんの歴戦の隊長にござる」 速水小三郎が今までの経緯を説明している。 お互いに名のりあい日向内記が、「藩の軍制と戦略をお話申す」と口火をきった。会津藩の正規軍は年齢により四隊に分け、さらに身分によって士中(しちゅう)、寄合、足軽の三隊としていた。隊名は東西南北の神の名前からとった。「東」 『青龍隊』 三十六才~四十九才 (士中、寄合、足軽)「西」 『白虎隊』 十六才 ~十七才 (士中、寄合、足軽)「南」 『朱雀隊』 十八才 ~三十五才 (士中、寄合、足軽)「北」 『玄武隊』 五十才以上 (士中、寄合、足軽) この四隊の約三千名が正規軍で、これ以外の七千名が別働部隊で会津藩の全兵力である。会津藩の戦略は藩内に政府軍を入れず、国境で戦う戦略であった。 南は日光口、北は米沢口、東は白河口と太平口、西は越後口とし国境守備隊を配し、会津藩の精鋭部隊で守りを固めていた。 語り終えた日向内記が茂吉に笑顔をむけた。「貴方と同年齢の白虎隊士三百五十名が、君側の護衛をしております。国に戻りましたら、貴方のことを彼等に話しましょう。さぞ驚くと思います」「ご配慮痛みいります。早速、我が隊が貴藩の付属となるよう、参謀長の速水小三郎を鶴ケ城に伺わせます。手配を宜しくお願いいたします」「凌霜隊の心意気には感じ入りました、道中の手配は責任をもってやりましょう」 こうして速水小三郎は護衛の岡本文造、武井安三、米沢小源治の三名を率い、会津若松に向かった。目的は他にもあった、途中の地形や街道の偵察である。これから会津藩に付属した場合、藩内の戦闘も視野に入れておく必要がある。途中の山王峠(さんのうとうげ)の麓の横川で会津藩家老の萱野権兵衛に会った。速水は江戸から出張を命じられた時に、一度、萱野とは会っていた。「遠路ご苦労にござる。貴藩の付属については承知いたしてござる、殿にお会い下され」 萱野権兵衛は簡潔に礼を述べ案内役をつけてくれた。 四月二十八日に一行は会津若松に入り、翌日、会津藩主の松平容保は一行を本丸の茶室に招いた。速水小三郎は用件を述べ会津藩付属の届出を願いでた。「遠い郡上からわざわざとかたじけない。美濃はわたしの故郷じゃ、故郷からの救援と聞くと心が和む、朝比奈隊長をはじめ隊士には松平がご武運を祈っておると伝えて欲しい」まだ三十三才の貴公子であるが、酷くやつれて見える。 速水は世が世であるならば、お顔もお言葉もかけることの出来ない名門のお血筋を思うと、感泣し涙が止まらなかった。「我等、凌霜隊を旧来からのご家臣と思し召し、ご遠慮なくお使い下さい。決して恥じ入るような振る舞いはいたしませぬ」 速水小三郎は平伏し声を震わせた。 「お頼みいたす」 こうして無事に謁見は済んだ。松平容保は美濃高須藩主の松平義建の第六子として産まれ、会津藩主第八代の容敬(かたたか)の養子となり会津藩主第九代を継いだ。 このような背景があり、美濃にはことのほかに執着があったのだ。謁見後に軍事係りの小野田権之助と、凌霜隊の客員隊士であった服部半蔵と今後の打ち合わせをして、北追手門から退出した。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 28, 2007
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政府軍の強引な作戦が頓挫(とんざ)したのは正午ちかくで、政府軍は一時撤退した。しかし、この戦闘で幕軍は有能な士官が多数負傷した。 なかに大鳥軍参謀の土方歳三、伝習第一大隊長の秋月登之助も負傷し、日光に近い今市に搬送された。一方の政府軍も薩摩六番隊が甚大な損害を被り、浸入地点の滝尾神社前の畑に退却していた。「薩摩ぽめ、今度も来襲したら鉄砲弾のご馳走を喰らわしてやるぞ」 山田熊之助や斉藤巳喜之助が気炎をあげていた。凌霜隊の損害はなく全員が闘志満々としていた。この日の政府軍は攻撃を諦めなかった、薩摩五番隊と長州の後続部隊、さらに河田佐久馬の因幡兵が続々と六番隊に合流していた。再び攻撃がはじまり、薩摩六番隊が大手門から城内に侵入してきた。 烈しい戦闘で両軍とも砲弾を夕刻までに撃ち尽くした。 大鳥圭介は今市への撤退を命じた。大林寺で決定した日光籠城に備えた後退である。幕軍は明神山から八幡山をぬけ日光街道を経て今市へと向かった。凌霜隊も全員無事に撤兵を終えていた。この今市には会津藩兵の数隊が駐屯していた。彼等は大鳥軍の負傷者の手当てに追われている、幕軍の兵士は政府軍との戦闘で負傷したのだ、そう思うと会津藩兵の胸は痛んだ。 総督の大鳥圭介は無念の思いで撤退してくる、隊士の群れを見つめていた。四百名ちかくの戦死者をだし、有能な中堅士官を多数失った。はたして日光籠城が出来るのか自問自答していたのだ。 茂吉と坂田副長、速水参謀長の三人が大鳥軍の本営を訪れた。「郡上藩凌霜隊の奮闘は見事の一言だ、心から礼を述べるよ」 大鳥圭介は本営の前の鮮やかなツツジに目をあて礼を云った。「総督、お別れに参上いたしました」 茂吉が直立不動の姿勢で報告した。「そうか、ここには会津藩が駐留しておる、彼等と合流するのかね?」「はい、我等の目的は会津鶴ケ城の援軍です」 「我々は残念だが、君等の銃隊が合流すれば会津はずいぶんと助かるだろう」「総督にお願いがございます」 「朝比奈隊長、君の頼みなら何でも聞くよ」「会津の士官の方をご紹介下さい」 大鳥圭介の端正な顔に笑みが湧いた。「そんな事ならたやすい、ここに砲兵隊が駐屯している。隊長は日向内記(ひなたないき)殿じゃ。紹介状を書こう」 大鳥は気軽に紹介状を書いてくれた。「有難うございました。総督、ご無事で」 三人が敬礼した。「貴隊は立派な洋式軍だ、いつか会津で会おう。敢闘を祈る」 大鳥圭介も立ちあがり応礼を返した。 「お世話になりました」 茂吉の胸に恩師と別れるような悲しみが走りぬけた。「朝比奈隊長、別れにのぞみ頼みがある」 「なんでありますか?」「君の弾薬盒を一個くれないか」 大鳥圭介の顔に明るさがもどっていた。「心残りがいたしますな」 本営をあとにし三人が語り合っている。速水参謀長の顔に惜別の色が浮かんでいる。 「なんと批判されようと軍人ですな」 坂田副長も複雑な顔色をしている。大鳥圭介に内部批判があることは知っている。それは大鳥圭介の作戦を消極的と批判する、歴戦の武闘派との確執のことであった。その急先鋒が新選組副長土方歳三や、桑名雷神隊の立見鑑三郎 等であった。彼等からみる大鳥圭介は俊才ではあるが、実戦の指揮官としては不適格者で机上の戦術家と見ていたのだ。 茂吉が撤退した宇都宮城のある南方を遠い目つきで眺めていた。 (塩原守備) この日、凌霜隊は喜びに沸きたった消息を絶っていた牧野平蔵が、忽然と姿を現したのだ。敗戦を味わい退却の陣営にいると隊士たちは自分の将来に思いを馳せる。どうしても心が萎えてくる、そうした矢先に行方不明の牧野平蔵の帰還は、何よりも全隊士を勇気づけた。早速、苦労噺に花が咲いた。「牧野さん、聞いてくださいよ。我々は歴戦の猛者に成長しました」 山田熊之助が年上の牧野に自慢話をする。「山熊、何を言うか、敵中を突破し本隊を探すことは戦闘よりも辛いことじゃ。のう、矢野原さん」 「左様、武器もなく素手のみで頼りは度胸だけじゃ」 隊士たちが久しぶりに盛り上がっている。 茂吉が坂田副長に夕食に酒をふるまうよう命じていた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 26, 2007
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「油断するな、追っ手は銃で片付けよ」 速水参謀長の命令で追いすがる敵兵を銃で威嚇(いかく)し、豪雨をついで両隊は引きあげた。 「やったぞ」「わたしは三名倒しました」 山脇金太郎のはしゃいだ声がする。「雨の戦闘は疲れますな」 茂吉の横で坂田副長が息を弾ませ駆けている。「怪我はありませんか?」 「わしは不死身ですぞ」 そい云った途端に足を滑らした。 「大丈夫ですか」 「何のこれしき」 「武器を忘れないで下さい」 茂吉が隊士に注意を与える。全身濡れ鼠となり両隊は宇都宮城に帰還した。「驚いた方々じゃ」 大鳥圭介が大手門で出迎えて隊士を慰労している。「朝比奈隊長、新選組も真っ青な働き見事です」 土方歳三まで姿をみせた。「これで借りが返せました」 宿舎で全員が真っ裸となって新しい軍服に着替えた。 「風邪を引くなよ」 速水参謀長が注意を与えている。「さあ、皆さん、熱燗でございます」 小者の孫太郎や小三郎たちが湯呑みに熱燗をいれ差し入れしている。「これは助かる」 坂田副長が真っ先に湯呑みに手をのばした。「皆さんご苦労でした。隊長として礼をのべます」「恐れいります。敵さんはさぞ驚いたでしょうな」 坂田副長が顔を真っ赤にしている、まるで蛸入道である。その格好が可笑しく全隊士から笑い声が湧いた。 東山道総督府は、宇都宮城の大鳥軍の存在に危機感を募らせ、因幡藩の河田佐久馬隊に続き、陸続と宇都宮方面に兵力を増強していた。 伊地知正治(いちじまさはる)指揮下の薩摩五番隊、六番隊も壬生に到着した。壬生城下は伝習隊と凌霜隊の攻撃で民家が焼かれ、異臭が漂っている。こうした情況を打開すべく政府軍は、宇都宮城攻略を急いでいた。ただちに長州軍に使者を送り、宇都宮城攻撃を四月二十三日と決定した。 大鳥軍は、この政府軍の素早い攻勢を知る由もなかった。その意味でも安塚戦につづき、後手を踏むことになる。 大鳥圭介は諸隊の隊長を召集し、政府軍の来襲に備えるよう指示を与えていたが、政府軍の動き出したことは知らない。 翌朝、薩摩兵を主力とした政府軍が壬生から、宇都宮街道を北上し夜明け前に宇都宮近郊に布陣した。総勢二百名の精鋭であった。 幕軍の監視も厳しく百メートルに迫った時に哨戒兵に発見された。「敵兵じゃ」 幕軍は用意の大砲の仰角を調整し、銃隊を散開させ砲撃と銃撃を浴びせた。猛烈な攻撃に晒されながらも、薩摩兵はひるまず前進し哨戒線を突破し宇都宮城に迫った。その頃、凌霜隊は朝の兵糧をつかっている最中であった。「城外が騒がしいですな」 速水参謀長が不審そうに城外の砲声に聞き耳をたてている。 「敵襲かも知れません、用意だけは命じて下さい」 茂吉の指示に、坂田副長と速水参謀長が全隊士に戦闘準備を命じた。「散々懲らしめた後ですよ、こんな早朝から攻め寄せるなんてありませんよ」 山田惣太郎が不審顔をしている。 「馬鹿者、常在戦場じゃ」岡田文造が叱りとばし、脚絆(きゃはん)を巻き直し新しい草鞋に履き替えている。隊士たちも食事をかき込み、一斉に用意を始めた。「四斤山砲じゃ」 砲術士官の武井安三が厳しい顔でつぶやいた。「伝令ー」 草風隊の士官が凌霜隊本営に現れた。「どうかなされましたか」 陣羽織姿の茂吉の顔つきも険しい。「敵襲です」 「なにっー」 坂田副長が信じられない様子で立ち上がった。「事態は切迫しております、城の西側の壁まで進出しております。我等は防御線の内側で銃隊を散開させて防いでおります」 「出動します」 茂吉を先頭に凌霜隊は小者も含め全員が城の西側に向かった。近づくにつれ銃声が耳をろうする。 「敵は薩長が主力でございます」「とうとう薩長が現われましたか」 茂吉の全身に猛然と闘志があふれてくる。「朝比奈隊長、救援ご苦労にござる」 村上求馬が出迎えた。「我等の部署を指示ねがいます」 凌霜隊が指示された壁ぎわに散開した。 政府軍の兵がじりじりと接近する様子が見える。弾丸の空気を切り裂く音が不気味である。 「一斉掃射」 茂吉の命令で凄まじい銃声が吹きあがった。七連発のスペンサー銃の威力はさすかである、敵兵が絶叫をあげ空濠に転がり落ちる。凌霜隊の銃が間断なく敵兵を薙ぎ倒している。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 25, 2007
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大鳥圭介は翌日、幕軍を二方面に分け壬生にむけ出撃させた。あいにくの小雨の中、伝習第二大隊は雀宮まで南進し途中から南西へと進路を変える。伝習第一大隊と七連隊、新選組は宇都宮街道を南進し幕田村の坂本藤三郎の屋敷を本営と定め、総勢九百名が布陣を終えた。 凌霜隊と貫義隊は主力軍と別行動で進撃を命じられた。目標は安塚である。大鳥は陽動作戦として大川正次郎率いる、伝習小隊を間道から壬生に派遣した。この日は稀に見る悪天候となり、壬生に進攻した大川小隊は薩摩兵と戦闘をまじえ民家に放火したが、猛烈な豪雨にあい火の回りりが悪く攻略半ばで撤退した。大川小隊の撤退を知らず、幕軍は雨中行軍で第一目標の壬生と第二目標の安塚に向かっていたが、安塚で政府軍の主力部隊と遭遇し戦端をひらいた。 ますます風雨がつのるなか幕軍有利で戦闘がはじまったが、政府軍は壬生から続々と新手の兵力を投入し、予備軍をもたぬ幕軍は敗退し宇都宮城に後退した、この会戦で両軍とも甚大な損害をだした。一方の壬生攻略軍も悪天候に勝てずに兵を宇都宮城に引いていた。 この頃、凌霜隊と貫義隊は風雨の中、安塚に向かっていた。猛烈な横殴りの豪雨のなかでも砲声の音は聞こえる。「隊長、神経痛が痛みますな」 禿頭の坂田副長が悲鳴をあげ傍らに付き添っている。 「すぐに安塚ですが、大丈夫ですか」 茂吉が心配し声をかけた。「敵勢を見たら痛みなんぞ吹っ飛びます」 両隊は泥まみれとなって安塚に到着したが、戦場には一兵も見当たらない。死体が転がり容赦ない雨が降り注ぎ、敵情も味方の情勢も皆目判らない。 茂吉と坂田副長が貫義隊を訪れ、隊長の松平兵庫頭と会談した。「すでに戦闘は終ったようですね」 「左様」 松平兵庫頭が短絡に答え、全身ずぶ濡れであたりを見渡している。時々、散発的な銃声が轟く。「朝比奈隊長、味方が敗れたようじゃ」 「判りますか?」 「見なされ」松平が指をさした。累々と死体が横たわり旗印が散乱しているが、いずれも味方のものである。 「ここで敵と遭遇したようですな」 坂田副長が硝煙の臭いを嗅ぎながらつぶやいた。「味方の精鋭が敗けたのでしょうか」 「その死体は土佐兵じゃ」「なんと」 見ると間違いなく土佐兵である。とうとう勇猛で鳴る土佐兵が政府軍に加わったのだ、茂吉の胸に闘志がふっふっと湧き上がってきた。「敵は壬生に引きあげ激戦の疲れを癒しておろう、奴等が油断している隙をつき我が隊は殴りこみをかける」 流石は抜刀隊の隊長である。「我等も同道いたします」 「これは心強い、目にもの見せてやりましょう」 両隊、百五十名が黙々としのつく雨のなかを突き進み壬生城下に近づいた。案の定、敵勢は民家の軒下に避難し声高な噺声が聞こえる。幸運にも哨戒兵の姿はみえない。「遠巻きに兵を散開させましょう、貴隊は我が隊の援護を願いたい。我等は敵に忍び寄り肉弾突撃をいたす」 貫義隊の松平兵庫頭が不敵な笑みをみせた。「判りました」 凌霜隊はぬかるんだ畑に身を伏せ匍匐前進(ほくふぜんしん)をはじめた。 「銃口に気をつけて下さい、泥が詰まったら機関部が破裂します」 茂吉が慎重な注意を与える。 「ちくしょう、身体中が泥だらけだ」 山田惣太郎と矢野原与七が泥亀のような姿で茂吉の前を這っている。「合図で一斉射撃です。その隙に貫義隊が突入します、我等はその援護です」 小隊長が持ち場に散った。敵兵は全く油断した焚火で濡れた身体を温め、眠っている者もいる。茂吉の視線に敵兵の動きがはっきりと見える。「撃てー」 茂吉が大声で下知し、スペンサー銃の引き金をしぼった。 悲鳴をあげ敵兵が焚火に倒れ伏した。軽快な銃声が轟き、すぐに一斉掃射に変わった。 「かかれー」 松平兵庫頭の鋭い声がする。 猛然と貫義隊が突撃にうつり、白刃が煌き血飛沫があがっている。「副長、半隊を率い民家に火を放って下さい。我等が援護します」 禿頭から雨の雫を滴らせ坂田副長が隊士を引き連れ突撃してゆく。「援護を怠るな」 隊長の茂吉が仁王立ちとなり連続射撃をした。山田熊之助と斉藤巳喜之助も真似て立ち撃ちで連続射撃を行っている。 城下の所々から紅蓮の炎が吹き上がり、続々と隊士が駆けもどってくる。「引きあげのラッパじゃ」 速水参謀長が檄をとばしている。 ラッパの音が響き、貫義隊士も畑に飛び込んでくる。「貴隊から、お引き下さい」 「かたじけない」 貫義隊を先頭に全員が泥水を跳ね上げ、引きあげにかかった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 24, 2007
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幕軍の本隊の大鳥軍は小山宿から飯塚、壬生を通過し日光に向かうべく鹿沼(かぬま)方面に進撃していた。この時に宇都宮方面の兵火を確認した。「先鋒隊が宇都宮城を陥したぞ」と、全軍から歓声が沸いた。 この状況下で凌霜隊のみが勝手な行動は許されぬと判断した茂吉は、坂田副長と速水参謀長と協議し、宇都宮まで幕軍と行動を共にすることにした。「勝ち戦に水をさす訳にはいきませんな」 坂田副長がしわがれ声で同意した。 二十日、大鳥圭介は半隊を率い宇都宮城下をめざし東進し、正午に入城を果たし先鋒隊と合流し祝杯をあげた。 「よくぞ成し遂げて頂いた」「なんの、総督の小山の勝利で敵に動揺がみられたお蔭にござる」 土方歳三が端正な風貌で簡潔に答えた。大鳥圭介の本心は宇都宮攻略ではなく日光籠城にあったが、土方や秋月等の主戦派の将は政府軍との戦闘に関心があったのだ。午後二時頃に大鳥軍本軍が入城し再び幕軍は結集した。 凌霜隊も同行し関東七城と云われた名城に入った。城内には幕軍の兵士がいたる所に屯して休息をとっている。凌霜隊は隊長の朝比奈茂吉と坂田副長が騎馬で先頭を行く。小隊長が整然と隊士をまとめ郭内(かくない)をめざし行軍した。 「あれが郡上の凌霜隊か」 「全員が新式のスペンサー銃じゃ」 見物の兵士から好感の声があがっている。「凌霜隊、止まれ。全員整列」 坂田副長がしわがれ声で命令を下した。「ご老体が張り切っておるな」 「よせ、幕軍の兵士が見ておる」 山田熊之助が斉藤巳喜之助に注意を与えていた。「ここが堅城で名高い宇都宮城じゃ、心いたし見物するのじゃ」 速水参謀長が背をしゃきっと伸ばし精悍な相貌で隊士を見回した。「全員なおれ。解散じゃ」 坂田副長が解散を命じた。 諸所に隊士と幕軍との交歓がはじまっている、草風隊士も貫義隊士の姿も混じっている。小者たちが炊飯の用意を始めると、数名の隊士が手助けに加わった。死線を共にした男たちが身分を越え胸襟(きょうきん)をひらいているのだ。 「凌霜隊長殿に申しあげます。ただちに軍議においで頂きたい」 伝習隊の若い士官である。大広間では今後の軍議が始まっていた。「壬生(みぶ)藩が政府軍に寝返り、安塚方面に兵を進めているとの斥候の報告がござる。方々の意見を拝聴したい」 大鳥圭介が宇都宮南方の壬生藩の情報と西南の安塚方面の情勢を語った。 「この城に籠もり徹底抗戦をいたす、これはわたしの戦略です。日光口より会津の救援軍を待って反撃いたせば、勝機はいくらでもござる」 役者のような端正な顔で土方歳三が自説を述べた。京洛を震いおののかせた新選組副長の土方歳三の眼光が鋭い。「参謀殿と同意見、されど城の確保は籠城のみでは不可能。直ちに壬生、安塚の敵勢を一掃する必要がこざる」 伝習第一大隊長の秋月登之助が出兵論を述べた。 「日光に籠もり戦い抜く、これが大林寺での規定方針であった筈。だが今は積極戦術も大事にござる、秋月大隊長の意見に従いたい」 大鳥圭介が珍しく積極策を論じた。「拙者は反対にござる。我が会津はまだ戦備がと整ってはおりません、この城の死守が急務、いたずらに戦闘区域の拡大は兵力の損耗(そんもう)を意味いたす」 会津の柿沢勇記が反論を唱えた。延々と議論が沸騰し出戦の結論に到達したのは夕刻であった。この時の浪費が幕軍に致命傷を与えることになる。 壬生藩の装備は刀槍、火縄銃の旧態依然としたものであったが、ようやく援軍として河田佐久馬率いる因幡(いなば)藩と、その付属部隊の松本藩の兵が集結を終え増強が図られていた。政府軍は新手の増援部隊を壬生に派遣した。その中に因幡山国隊のような歴戦の部隊も合流していた、山国隊は近藤勇の率いた甲陽鎮撫隊を破り、分捕った最新式の銃を装備していた。 政府軍は精鋭の二百五十名を安塚に先鋒隊として進出させるまでに回復し、さらに土佐の正規軍のなかから、数小隊を壬生に急派した。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 23, 2007
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「伝令ー」 騎馬兵の緊迫した声が本営に響きわたった。「君も一緒したまえ」 大鳥圭介が素早く表に飛び出して行った。「申しあげます。敵勢が小山宿北部に接近中であります。大監察の香川敬三が総大将の模様です、その数ざっと千五百名ほどにございます」「ご苦労」 伝令が駆けさった。本営のまえに大砲二門と弾薬を積んだ荷車が凌霜隊士に守られている。「朝比奈隊長、これで一泡ふかせてやろう、君に礼を言うよ」「わたしは隊にもどります」 「貴隊の奮戦を期待する」 大鳥圭介の声を背に茂吉は騎乗し隊士を引きつれ帰隊した。本営から鋭いラッパの音が響きわたり、各隊が整然と移動をはじめている。 洋式戦術の大家である大鳥圭介は、政府軍の殲滅を企図し、巧妙な作戦で政府軍を包囲し猛烈な砲戦をしかけた。えんえんと砲声が轟き銃声も混じっている。政府軍の損害は深刻で敗退をよぎなくされた。この頃の政府軍はすべてが新鋭銃を携行している訳ではない、恭順した諸藩の混成軍で火縄銃まで混じっていた。大鳥圭介は三度にわたり政府軍を敗退し、四次にわたる小山戦争は旧幕軍の完全な勝利となった。この日の戦闘で政府軍は戦死者百二十名、負傷者二百名余の損害をだし完敗した。幕軍の鹵獲(ろかく)した兵器は大砲二十門、小銃三百挺にあがった。この戦闘で凌霜隊も大いに奮戦した。 これを契機とし大鳥軍は三千余の大軍にふくれ、日光籠城をめざし進撃を開始した。戦勝で沸き立つなか、再び、凌霜隊に事件が起こった。 山片俊三隊士が逃亡したのだ。彼はこの日、太平山への斥候を命じられ陣を離れ、そのまま夜が迫っても帰還せず全隊士が心配していた。翌朝、隊が粟野に着陣すると、ひよっこり戻ってきた。 「心配したぞ」 全隊士が安堵の笑みで迎えた。「済まぬ、なんせ敵の真ん中に残され身動きがとれなかった」 その後、山片は平常どおり任務につき、夜を迎えるとランドセルから何か取り出し、そのまま隊を離れ、再び姿を見せることがなかった。「可笑しい」 全隊士が山片俊三の行動に疑惑をもった。「脱走じゃ」 またもや山田熊之助が吠えた。「全員集合いたせ」 速水参謀長が、焚火のまわりに隊士を集めた。「皆に申し渡す、このような事態が頻発しては士気が乱れる。脱退したい者は申し出よ、凌霜隊発足の精紳を理解した者だけで会津に向かう」 焚火の炎をうけた速水参謀長が、眼光鋭く一同に申し渡した。茂吉は沈黙し戦闘の苛烈さと非情に思いを馳せていた。去るも残るも非情と感じていた。「去る者は去れですか?」 武井砲術士官が訊ねた。「そうじゃ、止めだてはせぬ」 この一言で隊士の動揺が治まり脱走者もなくなった。 「思いきったことを申されたの」 坂田副長が後日尋ねた。「隊が瓦解する心配もござったが、命が助かりほっといたした」 速水小三郎が腹を斬る真似をして述べたという。速水は命を賭けていたのだ。そんな重苦しい空気の澱むなか、行方不明の矢野原与七が百姓姿で戻ってきた。 「悪い悪い、心配をかけ申した」 陽気な一言が可笑しく全員が心から笑い声をあげた。 「無事でなによりじゃ」 坂田副長と速水参謀長が肩をたたきあって喜びを表している。信念を貫き隊を去る者がおり、矢野原与七のように復帰する者もいる、凌霜隊に本来の士気が漲った。そうしたなかで茂吉は思案していた、大鳥隊と別れ一隊となり会津に向かおうと結論を下した。これ以上行動を共にすると更に犠牲者がでるだろう。それを恐れたのだ。なんとしても早い時期に会津若松に着きたかった。 一方の幕軍の先鋒隊一千名は秋月登之助、土方歳三の両将に率いられ、四月十九日の早朝、大鳥圭介の本軍を待たず単独で宇都宮城攻撃を敢行した。 宇都宮は関東有数の交通の要衝である。北は奥州、会津。西は日光、鹿沼。南は栃木、例弊使(れいへいし)。東は水戸へと縦横に街道が広がっていた。先鋒軍の土方軍は水戸、真岡(もおか)の二街道から宇都宮に襲いかかった。土方歳三は苛烈極まる指揮で戦闘に耐え切れない、自軍の兵卒を斬り捨ててまで凄まじい攻撃を繰りかえし、わずか半日で宇都宮城を攻略した。 政府軍の幹部の香川敬三、平川和太郎等は宇都宮城を脱出し、小山方面で軍の建て直しをはじめた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 22, 2007
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その頃、二人は戦場で迷子となっていた。戦闘が始まると敵弾が激しく降り注ぎ、矢野原与七と牧野平蔵は遮蔽物の翳で身を縮めていた。 銃声と喚声が遠退き辺りが静かになってきた。「矢野原さん、隊の姿がありませんよ」 「なにっ、本当か?」 矢野原与七が戦場を見渡した、敵兵の死骸が転がり味方の兵は一兵も見えない。 「不味いことに為った隊は前進したようだ」 「そんなー」 七才年下の牧野平蔵が顔色をなくした。「あそこに百姓屋がある、そこに隠れよう」 二人が敵兵の眼を逃れ納屋に逃げこんだ。 「誰じゃ」 突然、納屋の奥から声がした。「凌霜隊士じゃ」 叫び声をあげ二人が銃を腰だめに構えた。「撃つなー、拙者は草風隊士じゃ、肝をつぶしたぞ」 貧相な顔つきの男が現れた、三人は相談し一晩納屋で一泊することにした。三人は藁に身を隠し一睡もせずに夜明けを待った。翌朝、草風隊士と別れた二人は、白々と煙る畑に身を隠し本隊を追った。太陽の位置で方向を見極め懸命に本隊を追ったが、今度は牧野平蔵の姿を見失った。 これには矢野原与七も閉口した。心細さと飢えが忍びよってくる。 矢野原は百姓屋にとって返し、訳を話し雑炊をご馳走になり街道に出て友軍を見つけた。この隊は奇しくも勝願寺で一緒となった第七連隊の一部であった。彼は見失った牧野隊士に心を残し、この部隊と行動を共にすることにした。 凌霜隊は十六日の日暮れのなかで宿営し、夕食を終え休息していた。「わたしの大刀がない」 突然、白石源助が悲痛な声をあげた。「武士が腰の物を忘れる馬鹿がおるか」 一同から失笑がわいた。「白石隊士、場所は判っておるのか?」 速水参謀長が尋ねた。「戦闘が終り途中で休息した場所と思います。もどり取ってまいります」 白石隊士が暗闇に姿を消した、これが彼をみる最後となった。いくら待っても白石は戻らない。 「途中で敵と遭遇したか」 一同が心配で気をもんでいる。「田中隊士が戦死し菅沼さんも重傷の身です。さらに矢野原、牧野隊士も消息不明です、そこに白石隊士も戻らぬとは」 茂吉の顔色が冴えない。「隊長、白石は脱走したのです」 山田熊之助が声を荒げた。 「脱走?」「今日の戦闘が終わった時、白石が嘆いておりました」 「何を言われました」「朝敵に身をおとし同じ日本人同士が殺しあうとは酷い、いずれ幕軍は敗れ会津も敗けるだろう。幕府に対する薩長の仕置きが憎く志願したが、わたしにはどちらが正しいのか判らぬと申しておりました」 「卑怯じゃ、この場になって」「そうじゃ、臆病風にかかったのだ」 若い隊士が激高する。「止めましょう、脱走とは限りません。敵と遭遇したのかも知れません」 茂吉には脱走したとの確信がある、しかし責めるのは酷と思っていた。「隊長の申されたとおりじゃ、万一、敵に討たれたなら死者を鞭打つことになる」 岡本文造が、これ以上の詮議は無用と断じた。「流石は岡本士官じゃ、隊士を疑うことは止めよう」 速水参謀長が同調し、焚火の傍らに身を横たえ仮眠にはいった。 (宇都宮攻防戦) 翌朝の六時頃、大鳥圭介率いる本隊が小山宿近郊に到着した。大鳥のもとに政府軍の情報がひんぴんと入ってくる。この小山宿を制圧する目的で宇都宮から大監察の香川敬三が、諸藩の兵士と城を出た。一方、昨日の戦闘で敗退した平川和太郎は、小山宿の北方に陣取り、軍勢の建て直しを図り、香川隊との合流を待ち望んでいた。 宇都宮城の攻防をかけた、一大会戦が始まろうとしていた。 大鳥圭介は小山宿に着陣し、草風隊、回天隊、貫義隊、伝習七連隊を指揮下に入れた。凌霜隊もそれに合流したことは言をまたない。 茂吉は幕軍の本営を訪れた。大鳥圭介は本営で政府軍の来襲を予測し、伝習二番小隊、八番小隊に間道への進撃を命じ、総勢百四十名が出撃を開始していた。 「大鳥総督、わたしは郡上藩凌霜隊の朝比奈茂吉であります」「君が朝比奈隊長か、村上求馬君から聞いておるよ。掛けたまえ」 本営の椅子を勧めた。 「ご免」 茂吉は臆することもなく腰を据えた。「若い隊長だが見事に初陣を飾ったそうだね」 大鳥圭介が誉めた。「それは草風隊の村上さまのお蔭です」 「そうかね」 大鳥圭介が真向かいに座り、端正な顔に興味の色が浮かんでいた。「君の隊はスペンサー銃を携行していると聞いたよ」「全隊士が携行いたしております。実は総督にお願いがございます」「・・・」 「我が隊に大砲二門あります、それを進呈いたしたいと思います」「なんと大砲二門かね」 「我々の任務は会津藩の援軍として鶴ヶ城に参ることですが、二門の大砲を牽いて行くのは困難です」 「それで我等に進呈かね」「我が隊は客員隊士殿を加え四十七名で編成しましたが、客員隊士殿には現隊にもどっていただき、昨日の戦闘で二名を失いました。小勢で大砲の搬送は困難と判断いたし、お願いにあがりました」 「まるで赤穂浪士だね」 茂吉が覚えず赤面した。 「わたしは赤穂の生まれだ、喜んで好意を受けるよ」「有難う存じます」 「して砲はなにかね」 「四斤山砲です」「それは有り難い」 「砲は弾丸と一緒に本営の前に運んであります」秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 21, 2007
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「凌霜隊、右翼から攻めこめ」 茂吉の命令が戦場に響きわたった。「おうー」 全隊士が一団となって彦根藩兵に向かってゆく。山田熊之助と田中亀太郎が先頭で駆けだした。二人が銃を乱射し後続の隊士も突撃をはじめた。朝比奈茂吉も陣羽織をひるがえし抜刀して駆けだした。「隊長の援護にまわれ」 坂田副長と速水参謀長が声をからし督励する。「あっー」 茂吉が声をあげた。前方を駆ける菅沼銑十郎(せんじゅうろう)の転倒する姿が見えた。 「菅沼さん、大丈夫ですか?」 傍らの山脇金太郎が蒼白な顔で抱き起こした。「大丈夫じゃ」 菅沼が立ち上がり再び転倒した。膝が完全に砕け淋漓(りんり)たる血潮である。 「行くぞ」 遮蔽物から山田熊之助が飛びだし田中亀太郎が援護射撃をする。弾丸の風きり音が変わり身近に弾が集まりだした。「うっー」 田中亀太郎が頭部に直撃を受け、棒立ちとなり倒れこんだ。「田中っ」 山田熊之助が抱き起こしたが、田中は即死であった。「亀太郎ー」 山熊が絶叫した。付近の隊士が銃を構え、周囲を警戒しつつ集まってくる。凌霜隊は初陣で二人の犠牲者をだしてしまった。 それは隊結束から、わずか六日後の出来事であった。 この戦闘はすぐに終った、旧幕軍の圧倒的な火力のまえで平川隊は甚大な損害をだして敗退した。これが第一次の小山戦争であった。 軍医の小野三秋が菅沼の手当てを終え沈痛な顔をしている。「どうですか? 菅沼さんの傷の具合は」 茂吉が心配そうに聞いた。「命に別状はありませんが重傷です、歩行は無理でしょう」「膝が砕けておる」 坂田副長が暗澹(あんたん)たる顔をしている。 茂吉は隊結成時の陽気な亀太郎の顔を思いだしていた。(戦闘とは酷いものだ、わたしは隊士を会津に率いて行けるのか)前途を思うと躯から力が失せる感じがする。「隊長、菅沼さんは連れて行きましょう」 山脇金太郎に茂吉は無言で肯いた。「確りなされ、田中亀太郎の遺骸はここに埋めて行きます」 速水小三郎が参謀長の顔にもどり、茂吉を励ました。微かに砲声の音が、この場所の東南方向から聞こえてくる。「朝比奈隊長、善戦しましたな」 声の主は草風隊の村上求馬であった。「犠牲者がでまして前途に不安を感じます」「一名戦死で重傷の方が一名おられると聞いたが」 「残念です」「まだ先が長い、気を落とされるな。軍医を送りましょうか」「いや、隊には軍医が居ります。お心遣いに感謝いたします」「そうですか」 村上求馬が傍らの麦の茎(くき)をちじり口にくわえた。「村上隊長、後方に砲声が聞こえますな」「武井村方面です、たぶん大鳥圭介殿の本隊が攻め込んでいるのでしょう。我々は小山宿を制圧し大鳥殿を待ちます、貴隊はいかがなされる」「我々は会津藩に向かいますが、日光まではご一緒したいと考えております」「左様か、大鳥軍と合流すれば、東山道総督府の政府軍との戦闘が烈しくなるでしょう。しかし合流せねば会津に行けませんな」 村上求馬は笑顔を残し、軽快な足取りでもどって行った。 隊士等は無言で屯して銃の手入れをしているが、一同の様子がなんとなく硬い。無理もない、緒戦で仲間の戦死を経験し、戦闘の苛烈さを身をもって知ったのだ。四月の風か吹きぬけ、硝煙と血潮の臭いが鼻をつく。「皆さん、田中さんの遺骸は葬りました。菅沼さんも重傷ですが、会津までお連れします。菅沼さん覚悟してください」「皆さんの足でまといにはなりません。ご迷惑でしょうが宜しく」 菅沼銑十郎が血の気の失せた顔で気丈に振舞っている。「隊長ー、隊士の矢野原与七と牧野平蔵の姿が見当たりません」 小隊長の斉藤巳喜之助が血相をかえて本営にあらわれた。本営には坂田副長と速水参謀長、氏井工兵士官、武井砲術士官の面々が、今の戦闘経過を語り合っていた。「なにっ」 坂田副長が怒声を発し隊長の茂吉を見つめた。戦闘終了時には小隊長が隊士を確認するように、厳命していたのに何事かと怒りが湧いたのだ。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 19, 2007
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(初陣) こうしたなか政府軍東山道総督府の大監察、香川敬三は本営を宇都宮城に置き、小山宿方面の情報を探っていた。 古川藩から藩境の南方方面に軍団の集結があるとの一報に接し、旧幕軍の狙いが小山宿であると予測した。その頃、大鳥隊の先鋒軍はようやく小山の東南の地、下妻に着陣したばかりであった。 主力部隊も、小山からやや下がった諸川(もろがわ)でようやく中軍と合流し態勢をととのえはじめた時期であった。 古川藩境で蠢動(しゅんどう)する旧幕軍は、大鳥圭介も土方歳三も知らない部隊であった。東山道総督府の香川敬三は大鳥部隊の進出と考え、南関東各地に小勢の兵力を出撃させていたが、急遽、小監察の土佐藩士平川和太郎に偵察を命じた。平川隊は奥州街道を南下し古川に向かった。この隊は笠間藩(かざまはん)を主力とし壬生藩(みぶはん)、彦根藩で編成された部隊であった。 政府軍が大鳥部隊と考え、一方の大鳥圭介がその存在を全く知らない一軍は、伝習七連隊、草風隊、貫義隊、回天隊、凌霜隊の八百名の混成部隊であり大鳥隊とは別ルートで北上していたのだ。まさに偶然の賜物であった。 この部隊は小山宿を目指して進撃していた、香川敬三は幕府脱走隊の実力をあまく見ていた。彼は戦場予定地から遠く離れた宇都宮城から、小勢の兵力を出撃させていた。所謂、兵力の小出し作戦である、これはもっとも稚拙な戦術で、古来から忌み嫌われる戦術であった。 各個撃破の危険もあるし、軍団どうしの会戦ともなれば、兵力の集結が遅れ敗戦につながる恐れを秘めていた。 この情報の錯綜する時期に政府軍は諸川北東の結城に、長州藩の祖式金八郎が指揮する五百名の隊を派遣していた。祖式金八郎は結城から諸川の途中に位置する武井村付近に、旧幕軍の動きがあると知らされ、半数の部隊を移動させていた。まさに絵に書いたような兵力の小出し作戦である。 この方面を目指している旧幕軍は大鳥圭介率いる主力部隊であった。彼は伝習隊を二分し、一隊を結城道から武井に向け、残りの一隊には小山宿攻略を命じ、二隊は猛然と北上を開始した。 四月十六日、平川隊は宇都宮から小山宿を経て、古川から南の粟宮の地に達した。そこに祖式金八郎からの救援要請が届いたのだ、平川隊は要請に応じ再び北上し、小山宿から奥州街道をぬけ結城道にむかって進撃をはじめた。 その時刻、武井村付近で大鳥軍と祖式隊が本格的な戦闘に突入していた。戦闘は祖式隊からの攻撃で始まったが、伝習隊の奮戦で大鳥軍が初の勝利をえた。一方、伝習七連隊と草風隊を主力とする別働隊は、古川藩には目もくれず北上し、小山宿東側に広がる畑に兵士を展開させ、平川隊への攻撃態勢をととのえていた。平川隊は笠間藩兵を先頭として犬塚方面に向かっている。 風が麦畑を吹きぬけ、畑に身を潜めた凌霜隊士は初陣の恐怖と戦っていた。彼等の後方に貫義隊が命令を待って潜んでいる。「隊長、いよいよですな」 茂吉の傍らに坂田副長が顔を引き締め待機している。隊士の面々はスペンサー銃を構え、緊張で顔を蒼白として街道を見つめている。 「参謀長、命令があるまで勝手な発砲は禁じます」「了解です」 速水参謀長が各士官に命令を伝達している。「初陣じゃが逸るな。心を鎮めて一発必中で敵を射倒せ」 速水参謀長の注意に勇んで各士官が持ち場にもどって行った。「来ましたぞ、副長、相手は笠間藩兵です」 茂吉の視線に敵兵の姿が見えた。「装備が古い」 彼等は洋式軍ではなく旧装備で鎖帷子(くさりかたびら)や陣羽織姿で刀槍を所持している。 満を持していた草風隊の村上求馬が攻撃を命じた。大小砲がうなり平川隊が算を乱している、笠間藩兵が手槍をかかえ突撃してきた。「射撃開始」 茂吉の声が凛と響いた。スペンサー銃が軽快な銃声を吹きあげた。面白いように命中し、敵兵が逃げ惑っている。「凄い銃じゃ」 隊士が平静にもどり、貫義隊の突撃を援助する一斉掃射を開始した。銃声と白煙の漂う中、貫義隊が抜刀し麦畑から突撃に移った。直ぐに笠間藩兵と白兵戦となり、激闘がそこかしこに始まった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 18, 2007
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凌霜隊は品川沖の南を横切り、対岸の行徳に上陸し秘匿しておいた大砲二門と物資を積み込み、再び乗船して江戸川を遡上し関宿を経て前林に上陸する予定であった。 船中には幕臣の優秀な子弟等による、洋式軍の草風隊(そうふうたい)百名や、剣術に秀でた幕臣が組織した、貫義隊(かんぎたい)百五十名が乗船していた。特に草風隊はフランス式伝習をうけた精鋭で、隊長は天野花蔭(はなかげ)と村上求馬の二人が引率していた。 彼等は前林から一里ほどの磯辺村の勝願寺で大鳥隊と落ち合うという。 全員が意気軒昂で声高に語り合っている。茂吉は坂田副長と速水参謀長と一緒に草風隊を訪れた。「ご挨拶にまいりました」 茂吉は陣羽織姿である。「これは痛みいる、拙者が草風隊隊長の村上求馬にごさる。いま一人の隊長の天野加賀守花蔭は所用であとからまいる」「郡上藩脱走隊の凌霜隊長の朝比奈茂吉にございます」「郡上藩の方々か、装備が行き届いておりますな」 村上求馬が精悍な顔をゆるめ褒めあげた。「実戦経験はありませんが、装備だけは心がけました。我が隊の副長と参謀を紹介いたします」 「副長の坂田林左衛門でござる」 坂田がしわがれ声で名のった。 「参謀の速水小三郎にござる、以後、宜しくお願いいたす」「スペンサー銃とは羨ましい」 村上求馬が物珍しく隊士の銃をみつめた。「痛みいります、我等は隊長が申したとおり実戦経験がござらん。戦闘の暁には、フランス式戦術を存分に拝見させていただく」 速水小三郎が厳しい口調で村上に語りかけた。「我等も実戦経験はござらん、ご一緒に戦う仲間です。宜しくお願いいたす」 三人は一礼し貫義隊へと足を運んだ。「丁重なるご挨拶痛みいる。拙者が幕臣の松平兵庫頭にござる」 貫禄充分な壮年の武士である。茂吉は小勢の隊にも足を運び凌霜隊の宣伝をしていた。茂吉の見る各隊の装備は草風隊をのぞき劣悪である。 貫義隊は大刀でもって敵を撃破する戦術で剣の猛者を揃いている。 早い時期に、伝習隊主力の大鳥圭介率いる部隊と合流せねばと茂吉は思った。各隊の兵、約四百名は一団となって勝願寺に到着したが、旧幕軍の兵は一兵も居ない。仕方なくここで二泊した。それぞれ寺の各所に散らばり駐屯した。 その間、一切の情報が途絶え全員の苛立ちがつのる。政府軍の情報はもとより、頼るべき大鳥隊の消息も入らないのだ。「弱りましたな」 速水参謀長までが愚痴をこぼす始末である。「参謀長、ここは我慢です、我等が苛立っては隊士が不安に思います」 二人が語らっていると、坂田副長が息をきらし本営にもどってきた。「何か異変でもありましたか?」 茂吉が顔を引き締めた。「いや、こういう場合は気合を入れねばなりません。見張りを倍に増やしました」「念のいった配慮ですね」 「歳の功じゃ」 坂田副長が当然といった態度である。焚火が燃え盛り、火花が夜空に舞っている。「伝令ー」 草風隊から伝令が駆けつけ伝言が茂吉にもたらされた。「明朝の夜に乗船いたし、この地を離れます。境に上陸し徒歩行軍となりますが、目標地は法師岬です。草風隊の村上隊長からの伝言では、そこに旧幕軍の回天隊の二百名と伝習七連隊の一部が、そこに集まるそうです」「ご苦労でした」 伝令が去ると速水参謀長が「旧幕軍は宇都宮城が目標ですぞ」と、つぶやき薪を焚火に放り込んだ。「それは当然でしょう。日光籠城が大鳥軍の狙いですから、目前の宇都宮城が目障りです。我等は会津に向かいますが、途中まで行動をともにします」 茂吉が平然とした態度で二人の幹部に語りかけた。「日光で別れ会津若松に向かいますか、途中の小山宿(おやまじゅく)がもっとも危険ですな」 「速水参謀長、政府軍は居るかの?」「副長、まず間違いはござるまい」 速水小三郎が精悍な面をみせ断言した。「そこで一戦し、戦闘の経験をつみたいと考えおります」「そうですな、隊長の申されるように会津に着く前に経験をつまねば援軍の価値がなくなりますの」 坂田副長も賛同した。 こうして各隊は四月十四日に、再び乗船し境に上陸した。ここから古川は近い、古川藩は旧幕軍の進出に危惧を抱いていた。すでに新政府に恭順していたのだ。慎重な夜間行軍で翌朝には法師岬に到達した。 情報どおり、伝習七連隊と回天隊の兵士約四百余名が駐屯していた。 この二隊を加え、八百名をこえる大部隊となった。草風隊を中核とした戦闘指揮所が新設され、各隊との伝達方法や役割がここで決められた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 17, 2007
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「幕府の恩義にむくえんと新政府に一藩で抗議する、会津の援軍として会津若松に向かいます。会津の念願が叶うまで我等もご一緒いたします、それがまことの武士道と思います」「万一、敗戦の憂き目にあうようなら、帰国いたしますのか?」「敗ける謂れはござらん。こうしておる間にも諸藩の藩士たちが、続々と江戸から会津に向かっております」 茂吉が決然とした口調で言葉を継いだ。「武士とは命を的に正邪を正すものと心得ます。今から戦いの帰結を考え、事を為すのは武士として卑怯。ご納得のいかない方は、即刻、お引取り願って結構」 「我々は、これより朝敵の汚名をきる訳です。拙者も尊王の志は誰にもひけはとりませぬ、幕府は将軍職を返上し、新しいご政体に政事を委任なされた。これが恭順謹慎なされた慶喜公のご意思ではありませぬのか?」 白石源助が問うた。「白石源助、その方の申すことも一理ある。されど謝った方策は正さねばならぬ薩長の意のままで動くご政体は本物ではない。そのために我等は会津に向かう」 参謀長の速水小三郎が白石源助を見据え断じた。「申し訳ございませぬ、晴れの門出に愚痴を述べました」 山片と白石の両人が一座を騒がせた詫びとして茂吉に頭を下げた。「判って頂ければ結構。今宵は江戸との惜別です、心行くまで飲んで下さい」「さあ、飲むぞ」 さっそく山熊が徳利に手にしている、一座に笑顔がもどり、宴が盛り上がった。 「坂田副長、隊長もなかなかやりますな」 速水小三郎が杯を口にし、坂田林左衛門にささやいた。「わしも、見直しておる」 坂田副長が嬉しそうに一気飲みをしていた。 翌日の未明、菊屋の裏門から足音を忍ばせた凌霜隊士が薄闇の中に消えて行く。全員がスペンサー銃を携行し、小者たちは雇いいれた人夫を指図して、荷車で物資の搬送に余念がない。 乗船の予定地では数艘の川舟が待機しており、一斉に乗船した。 その頃、幕府歩兵奉行の大鳥圭介は駿河台の自邸から、墨田区の報恩寺に向かっていた。そこには旧幕軍の精鋭部隊、伝習第二大隊の六百名が集結し、大鳥圭介を待っていた。大鳥圭介は彼等を率い、小岩から渡船で江戸川を越え下総市川の大林院に着いた。旧幕軍は江戸城明け渡しの日に、市川の国府台に集結すると決めており、約束どおり二千数百名の兵士が待ち受けていた。大林院には新政府に反抗する主だった者たちが集まっていた。幕臣では土方歳三、天野電四郎、会津藩では秋月登之助、垣沢勇記、桑名藩では立見鑑三郎、杉浦秀人等が顔を揃えていた。 早速、軍議がひらかれ大鳥圭介が総督におされた。彼は実戦経験がないことで固辞したが、輝かしい経歴から押されたのだ。 参謀は数々の戦歴を誇る、新選組副長の土方歳三が任命された。 ここに大鳥圭介の閲歴と行動を書き述べておく。彼は天保四年に播州赤穂郡赤松の村医、大鳥直輔(なおすけ)の長男として生まれた。幼年から非凡な才能で頭角をあらわし、蘭学の緒方洪庵(こうあん)の塾でオランダ語を習い、伊豆韮山代官の江川英敏(ひでとし)のもとで兵学を習得し、幕府直轄の仏国学校の生徒となり幕臣となった。彼は勘定奉行の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)が作りあげた、幕府伝習隊で近代戦術を学び、三十五才の若さで歩兵奉行となった俊才であった。 その頃の伝習隊は第一大隊と第二大隊と有事に即応した実戦部隊に改められ、第一大隊は会津の秋月登之助が大隊長で、第二大隊は直参の本多幸七郎が大隊長であった。この二大隊を統括する者が大鳥圭介であった。 伝習大隊の中隊長、小隊長には大川正次郎、小笠原新十郎等を筆頭とした優秀な指揮官が揃っていた。 四月十二日、市川大林院でひらかれた軍議により、大鳥圭介は総勢二千数百名を三隊に分けた。先鋒隊は伝習隊第一大隊を中核として桑名藩兵二百名、新選組六十名の混成部隊で隊長を秋月登之助とし、全軍参謀の土方歳三が、先鋒軍参謀を兼務し参加した。 中軍は伝習隊第二大隊を主力として、純義隊、誠忠隊等の諸隊を交え編成し、全軍総督の大鳥圭介が率いた。 一方、後軍は幕府歩兵第二連隊が中心となり、幕臣の米田桂次郎が指揮を執った。目的地は家康の廟所(びょうしょ)である下野の日光山籠城と定め、先鋒軍一千名は宇都宮をめざし水海道(みつかいどう)を、中軍と後軍は一日の時間差をおいて日光街道を進撃した。 先鋒軍は、その日の夕刻に小金に宿陣し、その後、下総、常陸方面に進出し、本隊の側面援助として下妻(しもづめ)藩、結城(ゆうき)藩を威嚇制圧し、宇都宮に向かった。 一方の主力軍は、夕刻に大林院を出陣し野州道(やしゅうどう)の要衝である小山宿に向かった。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 16, 2007
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小者の六名も輜重隊(しちょうたい)として参加するが、彼等も貴重な戦力であり、銃も軍服も与えられ戦闘に加わることになる。 大量な物資の搬送に頭を痛め坂田副長と速水参謀長と協議した結果、隊員と同数の人夫を雇うことに決めた。 潤沢な軍資金を父の藤兵衛が用意してくれ、小者も含め全員が肌付金として十両の金子が与えられた。また隊のまさかのため千両が別に支給された。 いよいよ出立の日が迫り、茂吉の脳裡にまだみぬ会津の地が想像される。「茂吉殿、おられるか?」 坂田林左衛門が小太りの姿をみせた。「どうか成されましたか?」 「用という訳ではござらんが、気が昂ぶりましてな」坂田副長の背後に速水参謀長の姿もある。 「貴方まで落ち着きませぬか?」「お笑いあるな、前途を思うと坂田副長と同じ気持ちじゃ」 速水小三郎が茂吉の横に腰を据え、庭先を眺めた。「もう、桜がほころび始めましたか」 庭先の桜の枝に可憐な蕾が、ふくらみをまして春を告げている。三人は茶を喫して、しばし桜の蕾を愛でた。 「わしとあなたは八幡さまの、恋の算額とけやせぬ。郡上恋しや、あの子と二人、ともに踊った夢ばかり」 速水小三郎が郡上踊りの一節を低く唄っている。彼は剛直な気象ながら、案外と脆い一面があった。「もどれますかの?」 坂田林左衛門が眼を細め、ぽっりとつぶやいた。 坂田は温厚篤実な性格と人柄のよさで藩に重きをなしてきた。肝もすわり副長としては、もっとも的をえた人選であったが。彼も人知れず前途に不安を抱いているようだ。 「凌霜隊は使命を果たし、必ず郡上にもどります」 若年の朝比奈茂吉が、きっぱりと断言した。 (出撃) 慶応四年四月十日の夕刻、郡上藩江戸藩邸から藩士たちが、一人、二人と江戸の町に出て行く。明日の江戸城の開城に備え、各所に政府軍の兵士が屯し不穏な空気が漂っている。そんな中、藩士は人々の群れに交じり、本所中ノ橋へと向かっていた。 「山熊、薩摩ぽが大威張りで見張っているぜ」 斉藤巳喜之助が険しい顔つきをしている。 「じろじろ見るな」 山田熊之助が自慢の大刀をぶちこんで長身の体躯をみせ、雑踏に流されて行く。 「けっ、面白くもない。今に吠え面をかかせてやる」 まだ斉藤喜之助が悪態をついている。本所中ノ橋の菊屋に三々五々と藩士が集まってきた。春の宵闇が落ち、艶かしい灯が菊屋の門前に点りはじめた。 奥の大広間では藩士たちが、ざんぎり頭となり鉢巻をしめ軍服姿ではしゃいでいる。全員が郡上と印された弾薬盒をふたつ革帯に通し腰にしめる。身内が引き締り、藩士たちから凌霜隊士の顔つきに変貌している。「なかなかと強面(こわおもて)の隊士に見えるの」 坂田副長がご満悦の声をあげ一瞥を与えている、彼だけが髷をつけた鉢巻姿である。 「副長殿は髷のままですか?」「わしが髷をおとせば、つる禿(はげ)じゃ」 隊士から笑いが起こった。「静かにいたせ、隊長殿がまいられる」 参謀長の速水小三郎が凛とした声をあげ、一同が粛然と静まる。 軍服姿で細身の体躯の朝比奈茂吉が、陣羽織をまとい現れた。腰には先祖代々つたわる丹後守兼道を佩び、一刀流の達人らしく腰がすわっている。「皆さん、お座りください」 若年の茂吉はあくまでも丁重な態度である。 一座からざわめきが途絶え、厳粛な雰囲気に変わった。 茂吉の秀麗な顔が緊張で赤く染まってみえる。「明朝をもって会津藩救援に出陣いたします。行く先は下総(千葉)の行徳。我等は渡船を利用いたす、そこで大砲と物資をととのえます」 江戸脱走に荷物となる大砲、その他の物資は江戸家老の朝比奈藤兵衛が事前に行徳(ぎょうとく)に秘匿していたのだ。「そこから江戸川を遡り前林(茨城)に上陸。そこで関東の形勢を展望いたし、さらなる策を講じます」「山片修三です、いつまで会津藩の救援を続けるお積りですか?」 国許からの応援隊士で、なかなか時勢眼をもった三十五才の壮年隊士である。一堂の隊士たちも興味を浮かべ、茂吉の返答を待っている。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 15, 2007
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「お二人にお願いがあります」 「隊長、なにごとにござる」 茂吉へ坂田林左衛門が揶揄うように声をかけた。「江戸脱走と同時に我々は戦闘態勢に入ります、常に敵との遭遇の危険があります。わたしは士官のなかに軍医を含んだ人選をお願いしたい」 二人は茂吉の提案に声を失った。二人には軍医の構想がまるでなかったのだ。目から鱗の落ちる思いがし、若造と侮ったことを恥じた。坂田林左衛門は、なで肩の細い体躯の茂吉を新鮮な思いで見つめなおした。「隊長、今晩はこれで終りにしましょう、人選が固まりしだいご相談いたします」 速水小三郎の答えに、あっさりと茂吉は同意した。「お二人にお任せいたします。軍医の件は宜しくお願いします」 速水小三郎は翌日、会津出張を命じられた。会津藩に凌霜隊を付属させる旨の、申し入れの使者として会津若松に旅たった。 この一時から速水小三郎は参謀を命じられるのであった。 国許から早飛脚が江戸藩邸に着いた、待ちに待った朗報が届いたのだ。工兵士官の氏井儀左衛門を筆頭として、山田熊之助等の精鋭十五名の隊士が三月二十日に、国許を出立するとの知らせであった。 隊士筆頭の氏井儀左衛門は、御城使添役の重臣で四十一才である。従うは山田熊之助や彼の友人の斉藤巳喜之助(みきのすけ)等で、二人は同年の二十四才であった。特に山田熊之助は北辰一刀流の免許皆伝の猛者であり、山熊と渾名される若者であった。疱瘡で顔じゅうあばたで武骨ながら愛嬌があり、信頼に値する男として歩兵士官を仰せつかっていた。 江戸藩士等は客員隊士の河野綱翁の紹介で、小川町にある伝習隊第二大隊に出かけ、銃の操作を教わっていた。凌霜隊士は全員が銃の操作に無知であった。歩兵奉行の大鳥圭介は河野から凌霜隊の任務を聞いており、危急存亡の時期であったが、士官たちに命じ便宜を図ってくれた。 大鳥圭介は隊士たちを郡上藩の脱藩浪士とみて好意を示したのだが、後日、関東平野から会津まで一緒に戦うことになろうとは、知る由もなかった。 四月と月が変わり国許から藩士が到着した。あと十日ほどで凌霜隊は江戸から脱出し会津に向かうことになるのだ。 茂吉は自室で一人黙々と書き物をしている。「凌霜隊士名簿」と表書きをしたため一気に筆をはしらせた。 隊長 朝比奈茂吉 副隊長 坂田林左衛門 参謀 速水小三郎 軍医 小野三秋 砲兵士官 武井安三 工兵士官 氏井儀左衛門 歩兵士官 山田熊之助 歩兵士官 山田惣太郎 同 岡本文造 同 岸本伊兵衛 同 金子勇次郎 同 斉藤巳喜之助 同 斉藤弥門 隊士 中村国之助以下二十五名 客員隊士 河野綱翁 小者 孫太郎以下 五名 服部半蔵 慶応四年四月 茂吉き書き終わり、感慨をこめて記した名簿に視線をはしらせた。 二十代が十六名も含まれ、自分と山脇金太郎が同年の十七才であった。これらの隊士を率い、会津まで二百五十里の長征に旅立つのである。茂吉は名簿を前にして胸を躍らせていた。 はたしてわたしに出来るのか? 四十七名の命を守り会津まで辿り着き、救援という途方もない大役が務まるのか、若い茂吉の胸中に不安が駆けめぐっていた。すでに武器弾薬、食料、医薬品、軍服、さらに砲撃戦を想定しての陣地構築の道具である、つるはし、唐鍬(とうくわ)、鋸(のこ)、斧、円匙(えんぴ)までが菊屋の離れに隠してある。特筆ものは牛革で作った弾薬盒(だんやくごう)で、なかに小銃弾数十発を入れることの出来る、珍品までが混ざっていた。 隊士等は連日、菊屋を訪れスペンサー銃の操作の訓練に明け暮れていた。 実弾射撃は不可能だが実際に手にして弾込めをする、そうすることで隊士等は、はじめて自分の武器と実感できるのだ。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 14, 2007
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「うむー」 藤兵衛が腕組みをして考え込んだ。茂吉の言い分も判らぬでもない、しかし救援部隊としての体裁もある。「やはり持参いたせ、馬を用意いたす。それで砲を牽いて行け」 速水小三郎が肩をおとし太い吐息を吐いた、不満なのである。どう考えても無理がある。途中で捨てるまでじゃ、瞬時に決意した。「判りました、牽いて行きましょう」 「そうか、了解してくれたか」 朝比奈藤兵衛が満足の笑みをみせた。「わしは所用がある。三人で充分に議論を尽くせ」と、そそくさと部屋を辞した。 廊下を歩みつつ藤兵衛は己の考えに満足していた。江戸城開城ともなれば、幕府の武器類はすべて政府軍に引き渡される。この没収される武器を会津に送ろうと、旗本の河野綱翁が秘かに画策した。これに会津藩の数名が賛同した。藤兵衛は人を介し彼等に近づき、客員隊士となってくれるよう懇願し、条件として最新式の武器購入を依頼した。これが効をそうしたのだ。わしの務めは国許から藩士の補充を募ることじゃ、と独り言を呟き、菊屋をあとにしていた。「驚いた方じゃ」 坂田林左衛門と速水小三郎が顔をみつめあっている。「速水さん、大砲を牽いて行きますのか」 茂吉が尋ねた。「なんの、途中で捨てるまでじゃ」 「捨てる?」 「これは面白い」 座敷から三人の笑い声が沸きあがった。「会津までは長旅となります、どの街道を利用するか問題ですな」 速水小三郎が、うって変わり難しい顔つきとなった。「わたしに考えがあります」 茂吉がいとも簡単に答えた。「ほう、若になにか考えがありますか?」 坂田林左衛門が酒焼けした顔をつきだし、速水小三郎も膝を乗り出した。「歩兵奉行の大鳥圭介さまは、かならず江戸を脱走されます。行き先は我等と同じ会津、我々も大鳥さまと同道いたしましょう」「妙案じゃが、決行日が判りませんぞ」「大鳥さまが動かれる時期は、政府軍が江戸に進駐する時と考えます」 茂吉の答えに速水小三郎が小首を傾けた。 「何故、そう思われます」「幕臣として江戸で戦火を交えるとは考えられません、その前に伝習隊を率い脱走されると思います」 朝比奈茂吉が断言した。「流石じゃ、目の付けどころが違いますな」 速水小三郎が感心の唸り声を発した。 「速水殿、感心ばかりでは困る、隊名も考えずばな」 副長の坂田林左衛門が隊名の件を口にした。「坂田さん、拙者は国学者で無理じゃが、岡本文造殿に相談し案はござる。我が藩の紋章は葉菊の紋じゃ、これは霜も凌ぐと言う意味が含まれておる。また郡上は夏になると凌霄花(のうぜんかずら)の花が咲き乱れ、花が散るとすぐに霜の季節が訪れる。我等は会津に向かうが藩を忘れてはならぬ。その意味をこめ隊名を凌霜隊と命名いたしたい」「凌霜隊にござるか、良き名にござるの」 坂田林左衛門が感嘆の声をあげた。「若は、いかがじゃ」 速水小三郎の問いに茂吉も満足の肯きを返した。「隊名を祝い乾杯といたそう」 坂田林左衛門がしわがれ声で音頭をとった。こうして朝敵覚悟の会津藩救援の凌霜隊が結成をみたのだ。「しかし辛い、国学者の拙者が朝敵となるとは」「速水さん、あなたが真っ先に賛成されたのです」と、茂吉が揶揄った。「あの時は騎虎の勢いじゃ」「我等を含め四十七名が、藩を捨て朝敵の汚名を覚悟したのじゃ。今更、泣き言はとおらん」 日頃、温厚な坂田林左衛門が吐きすてた。「お二人が喧嘩ごしでは任務は勤まりません、わたしは銃に興味があります」 茂吉の眼が鋭くなった。 「スペンサー銃ですか?」「そうです、我等は四十七名の小勢ですが、七連発銃なれば隊員として三百名余に相当します。士官は十名欲しいものですね」「なるほど、一挺で敵の七人分にあたりますな」 「流石は若じゃ」「坂田さん、わたしは隊長を命じられました、若はやめて下さい」 まだ若過ぎる。我等が補佐せねば、会津までは行けぬなと速水小三郎は思った。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 12, 2007
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「そのような事は心配いたすな、まずは人選じゃ。隊名も考えておくのじゃ、それに今夜から会合には菊屋をつかえ」「あの本所中ノ橋の料亭ですか?」 菊屋は藩の高官がつかう高級料亭である。 「そうじゃ、藩のために命を賭ける者に出し惜しみはできぬ」 驚く速水小三郎に朝比奈藤兵衛が肯いて答えたものだ。「流石はご家老じゃ、早速、今夜からつかわせて頂きますぞ」「なにっー」 「岡本殿と山田の歓迎会にござるよ」 こうして江戸郡上藩の藩邸では、主戦派の面々が秘かに藩兵を募りだした。 既に藩主の幸宣は国許に帰国し、江戸家老の朝比奈藤兵衛は武器弾薬の調達をはじめていた。 季節は三月半ばとなり、風も安らぎを感じさせる時期に藤兵衛は、倅の茂吉と副長の坂田林左衛門、速水小三郎の三名を菊屋に呼び出した。 計画も最終段階に差しかかり、詰の話が必要と感じたのだ。離れの一室で四人は膳部を前にしている。これが最後の会合かもしれない。「人選は進んでおるか?」 杯を置いた藤兵衛が訊ねた。「極秘裏の徴募の所為か、未だに半数にございます」 「何人揃った?」「二十五名のみです」 茂吉が焼き魚をむしりながら答え、坂田と速水が顔を伏せた。二人は人数の調わぬ責任を感じ恥じ入っている。「坂田、藩邸の小者にも声をかけたのか?」 「いや、藩士のみにござる」「活きの良い若者が居るではないか、茂吉、客員隊士として旧旗本の河野綱翁(つなおう)殿と、会津藩士が一名加わる」 「客員隊士も加わりますのか」「そうじゃ、まず小者をあたり輜重隊に編入いたせ。残りの者は国許から探す」「成算はござるのか?」 坂田林左衛門がしわがれ声で応じた。「山田熊之助、中村国之助等じゃ」「山田は北辰一刀流免許皆伝の若者にござるな」 「そうじゃ、藩命として募る」「それでは発覚しますぞ」 「なに、鈴木殿に頼むのよ」「なるほど、考えたものですな」 速水小三郎が感心の面持ちをした。「決行日は四月十日といたす」 朝比奈藤兵衛が断を下した。「あと半月です。・・・父上、国許の藩士は本当に大丈夫でしょうな」 茂吉が特徴のなで肩をみせ父親を眺めやった。「一刀流の遣い手で小天狗と称された、そちでも心配いたすか?」 朝比奈藤兵衛が杯を干し、「任せよ」と、にやりと破顔した。「ご家老、武器弾薬やその他の物資は大丈夫でしょうな?」「速水、国許から軍資金が届いた。わしは最新式の洋式銃を頼んである」 藤兵衛が簡潔に答え頬をくずし、「スペンサー銃じゃ」と鼻たかだかの様子である。 「これは驚きじゃ、最新式の七連発銃にございますか」「そちたちも存じておったか」 この頃の政府軍の中核部隊の薩摩、長州軍はミニエール銃が主力であった。この銃はフランス製のライフル銃で全長、一二八〇ミリで、口径一四ミリの戊辰戦役の花形銃であった。最近は稀にスペンサー銃や、後送式のスナイドル銃なども装備しだしたが、普及には至っていない。旧幕軍の伝習隊の装備も同じミニエール銃であったが、会津藩にいたってはオランダ製の、ゲーベル銃や、ヤーゲル銃などの旧式銃が主力であった。スペンサー銃は騎兵用で銃身も短く軽量で長旅に適していたのだ。「ついでに大砲二門も注文してある、会津では存分な働きが出来よう」 三人は言葉を失った。何時の間に用意したのだ、余りの手際のよさに驚嘆した。 「大砲は必要ござるまい」 速水小三郎が断った。四十七名の小勢では行軍の負担になる。「馬鹿者、我が藩兵は会津救援に向かうのじゃ。大砲はその為に用意した」 藤兵衛が一喝し、倅の茂吉を盗みみている。 茂吉が父を真正面から見つめ、断固とした口調で考えを述べた。「わたしも必要は感じません、食料弾薬医薬品さらに工具の搬送にも意を注がねばなりませぬ。なるべく身軽な隊にしたいと考えます」秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 11, 2007
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「速水、言葉がすぎる」 朝比奈藤兵衛がすかさず叱責したが、速水は平然と反論した。 「鈴木家老の考えそうなことですな、拙者はあの人には信がおけませぬ。老獪、陰湿、権力欲の権現にみえます。旧幕軍が敗けるような事態ともなれば、加担した我等とご家老、・・・貴方さまにも責任を押しつける積もりにござろう」「藩の存亡時じゃ、我慢してくれえ。お主の参加がなければこの策は成立たぬ」 朝比奈藤兵衛が速水に頭を下げた。「ご家老、お頭(つむ)をあげてくだされ、拙者にもことの道理は判ります。この江戸の大手前と小川町には、千二百名もの旧幕軍の洋式部隊が駐屯いたしておりますな。さらに会津公も和田倉御門の藩邸におられる」「速水、わしの胸中が判ったかの、そちの申したとおり江戸は旧幕軍の巣窟じゃ。それも精鋭の洋式軍じゃ」 岡本文造と山田惣太郎の両名は黙し、江戸家老と速水小三郎の会話を耳を傾けている。彼等二人にも国許の鈴木兵左衛門と、江戸家老の朝比奈藤兵衛との軋轢は承知するところであった。「今月にも会津公はご帰国なさるそうですな。国許で政府軍と一戦するとの噂でもちきりです」 こうした噂の火の元は、陸軍総裁に昇進した勝海舟の思惑が大きく影響していた。江戸城を無血開城しょうと目論む勝は、二月九日に主戦派の永井尚志と平山敬忠を罷免し、十日には会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬の登城を禁じ、江戸からの退去を命じていた。「わしも聞いておる。東北諸藩はいまだに幕府を慕っておる、会津さまがご帰国なされば、東北諸藩は連合するかもしれぬ」 朝比奈藤兵衛が倅の茂吉と速水の様子を眺め言葉をついだ。「小川町の知人からの話じゃが、歩兵奉行の大鳥圭介(けいすけ)殿が伝習隊(でんじゅたい)の精鋭を率い、江戸から脱走するとの噂もあるそうじゃ」「伝習隊とは旧幕軍の洋式部隊にございますな」 はじめて茂吉が口をひらいた、若年の彼の顔が赤みをおびている。「そうじゃ、最新式装備の精鋭部隊が会津に向かうことになる」 この頃の江戸は慶喜公が、江戸城を政府軍に開城するとの噂で陸続と幕軍の脱走が始まっていた。諸大名の藩士までが政府軍、とりわけ薩長の専横を憎み、幕府再興を夢みて脱藩し、北関東の各地に散っていたのだ。 今日も幕府正規軍の一部が江戸から脱走していた。「速水、戦国時代の到来かも知れぬな、だから、わしと鈴木殿は藩士を会津に差し向けたいと考えておるのじゃ」「会津に?」 速水小三郎が声を飲み込んでいる。「父上は我等に朝敵となれと仰せにございますか?」 茂吉が特徴のなで肩を見せ、父親の藤兵衛を見つめた。「こんな世じゃ、誰かが犠牲にならねば藩は救えぬ」 藤兵衛が冷徹に言い放った。 「判りました、徳川が敗けたら我等が腹を斬れば済むことじゃ」 速水小三郎がこともなげに言い切った。「遣ってくれるか、わしは江戸詰の藩士を主力としてことを成そうと思っておる。人選は速水、そちと茂吉に任せる」 「岡本殿と山田はどうじゃ?」「勿論、そのために江戸に参りました」 山田惣太郎が不敵に顔つきで答えた。 岡本文造は無言で速水小三郎に肯いた。「速水、倅を隊長にいたすが異存はないか?」「御座らん。ただし藩存続のためなれば人数は絞りますぞ」 「何名じゃ?」「四十七名といたす。赤穂浪士と同じく大義に殉ずる」「流石は速水小三郎殿」 岡本文造が褒め上げた。「よいか、これは殿には内密じゃ。ご帰国後に無断脱藩でやり遂げてくれ」「ご家老、心配めされるな分ってござる」 「そちの浮かれようが心配じゃ」「浮かれてなんぞおりませんぞ、これでも国学者の端くれにござる」「済まぬ。ところでの坂田林左衛門じゃが、奴め、うるさくほざく」「坂田さまがなにか?」 速水小三郎が不審顔をした。「副長にいたせと迫りおる」 「父上、わたしは賛成です。あの方は肝が据わておられます、副長なれば安心にございます」 それまで無言でいた茂吉が真っ先に賛意を示した。「速水、そちはどうじゃ」 「拙者も同感にござる、それよりも準備が大変ですな」 速水小三郎と岡田文造の二人が、顔を見合わせにやりとした。秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 10, 2007
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鈴木兵左衛門は国許の抗戦派でしられた、岡本文造と山田惣太郎の両名を江戸藩邸の、朝比奈藤兵衛のもとに差し向けた。 この人事の裏には、国許を恭順派に固める意図が秘められていた。 岡本文造は漢学、詩文に優れ冷静沈着を絵に書いたような男であり、一方の山田惣太郎は文武に秀でた若者であった。 江戸藩邸は早馬の到着で興奮状態となっていた。直ちに殿の幸宣を交え、御上に対する、藩の方針にたいする評定がひらかれた。 江戸家老の朝比奈藤兵衛に用人の坂田林左衛門、国学者の速水小三郎の三名の幹部が同席していた。「これは薩長の陰謀ですぞ」 速水小三郎が怒気をはらんだ口調で断じた。 国学者の彼は、山鹿素行(やまがそこう)の軍学に造詣が深く大石内蔵助を信奉していた。武士たる者は恩義を忘れ信義を失ってはならぬ、これが彼の信念であった。四十七才の年齢を感じさせない、精悍な風貌の男である。「速水、余も徳川家にたいする忠節は人後におちぬが、尊王の志も誰にもまけぬ。我が国の国体を維持するには、恭順しかなかろうが」 幸宣が若やいだ顔で意見を述べた。若年ながら聡明な若殿である。 その遣りとりを用人の坂田林左衛門が面白そうに眺めている。「殿、我が藩は徳川譜代の大名ですぞ、武家が手の平を返すような振る舞いは卑怯というものです」 速水小三郎が顔を染め詰め寄っている。「速水、慶喜公は大政を奉還なされ、将軍職も返上なされた」「それはー」 速水が言葉に詰まっている、若い藩主に国学者の己が言い負かされるとは、悔しさの中に爽快感がないまざっていた。「藤兵衛、国許に使者をつかわせ、我が藩は恭順いたす。その旨を朝廷に言上いたすよう、鈴木兵左衛門に伝えよ」 殿のご聖断が下った。 「畏まりました」 江戸家老の朝比奈藤兵衛が威儀をただした。幸宣の命はただちに国許に伝えられ、鈴木兵左衛門は上洛し君命を奏上し、飛騨警護を命じられ二月に出兵することになる。 二月三日、朝廷は「賊徒(ぞくと)討伐」の親征書を公布し、政府軍の部署割りを発表した。この公布をうけ政府軍に約六十藩の大名が加わった。 徳川治世の諸大名の数は、三百藩ともいわれており鳥羽伏見の戦いから、一ヶ月で五分の一の諸大名が政府軍に加担したことになる。 時勢が急回転をはじめたのだ、朝廷は政府軍を六分割とした。 親征大総督府大総督。 東海道先鋒兼鎮撫使総督府総督。 東山道先鋒鎮撫使総督。 北陸道先鋒兼鎮撫使総督府総督。 奥羽領鎮撫使総督府総督。 海軍総督府総督。 こうして新政府の全国鎮撫(ちんぶ)の体制がととのったのだ。 江戸郡上藩の一室に五名の者が集まっていた。江戸家老の朝比奈藤兵衛と倅の茂吉(もちき)に速水小三郎の江戸組と、国許から馳せ参じた岡本文造と山田惣太郎である。一家言もつ用人の坂田林左衛門は、殿の命でこの場にいない。 「この両名は国家老の鈴木殿より、遣わされた者たちじゃ。両人を見知っておるの」 朝比奈藤兵衛が静かに訊ねた。 「岡本文造殿に山田惣太郎でござろう」 速水小三郎が二人を鋭く眺め答えた。十七才の朝比奈茂吉は、細面の顔をふせ無表情のままでいる。「国許は殿の君命で朝廷に恭順いたした。これは承知じゃの」「腰のぬけた有様じゃ」 速水が苦い顔で岡本と山田をねめつけ吐き捨てた。「殿のご命令じゃ。国許は京に近い、藩士らが恭順派になることは仕方があるまい」 岡本文造が、平静な口調で速水に反論を述べている。「速水、静かにいたせ。国家老の鈴木殿は密命をわしに伝えるために、両人を江戸に遣わしたのじゃ」 藤兵衛が声を低め速水小三郎を諌めた。「密命とはなんでござる?」 「申し上げる」 岡本文造が膝を乗りだした。「国家老さまが申されるには、江戸詰藩士より有志を募り旧幕軍に加担せよとの仰せにござる」 岡本文造が国家老鈴木兵左衛門の意向を報告した。「今なんと申した」 速水小三郎が念を押して聞き返した。「速水、天下の形勢をみると、必ずしも政府軍が勝つとは限らぬ」「ご家老、あなたまで何を申されたいのじゃ」「まず聞け、わしも鈴木殿も藩の存続を一番に願う。もし政府軍が敗れるような事態ともなれば、藩は滅亡いたす」「それを防ぐために政府軍と旧幕軍に加わる、ようは二股をかけるのですな」「これも、小藩としてはやむを得ぬことじゃ」「小汚くぞっとしますな」 「速水、言葉が過ぎる」秘録 凌霜隊始末記(1)へ
May 9, 2007
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「郡上藩凌霜隊(りょうそうたい)始末記」 (隊結成) 慶応三年十月十四日、徳川幕府は大政奉還の上表を朝廷に提出した。同月二十四日、徳川慶喜は将軍職を辞職。こうして三百年来つづいた徳川幕府は終焉をむかえ、十二月九日には王政復古の命がくだり、徳川家にかわる新政府が産声をあげた。これを不満とした徳川家直臣と恩顧の大名が、鳥羽伏見で戦端をひらいたが、錦旗(きんき)のまえに敗れ慶応四年(明治元年)一月三日に大阪城に兵をひいた。こうした沸騰した時代のなか、雪深い美濃郡上藩は騒然とした空気につつまれていた。 突然、朝廷より勅使下向(ちょくしげこう)の知らせがもたらされたのだ。 藩兵の一部は旧幕軍の要請で大阪城で足止めをくい、帰国する気配もない。さらに四万八千石の郡上藩を差配する、青山家の当主である青山幸宣(ゆきのぶ)は、十四才の若年で折悪しく江戸上府の身であった。 郡上八幡城では国許の重臣らが鶴首(かくしゅ)対策を練っていた。「いかがいたす」 国家老の鈴木兵左衛門が一座をみわたした。「この城は八幡山の南山麓を吉田川が、西には小駄川が流れ飛騨、美濃、越前を扼(やく)す要衝の地にございます。京にも近く朝廷が狙うわけにございます」 中老が、賢(さか)しげな意見を述べた。「言われなくとも分かっておる。上方の藩兵がもどらぬ今、朝廷のご使者が参ったら、申しひらきが出来ぬ」 こうした評定が行われている一月末、雪を掻きわけ京より勅使の、九条道孝と参謀として長州軍監の杉山荘一が訪れてきた。「朝廷のご意向により貴藩に、軍用金と兵の供出を命ずるものなり」 勅使の九条道孝は衣冠束帯(いかんそくたい)に身をあらため、寒そうに上座に座り、傍らの長州軍監の杉山荘一が否と言わせぬ口調で命じた。「国家老を勤めおります、鈴木兵左衛門にございます。我が殿は江戸上府中にございますれば、暫しのご猶予を賜りとうございます」 鈴木兵左衛門が、慇懃な態度で返答した。「なんと貴藩は御上のご用向きに応じられぬと申されるのか」 朝廷の威をかり杉山荘一が怒声をあげ恫喝した。「けっして左様なことは申しておりませぬ、早速にも早馬を江戸に差し向け、ご内意にそうべくご返答つかまつります」 鈴木兵左衛門が、真冬の寒気の中で冷汗を滴らせていた。「郡上藩の内情はあい判った。目出度い年明けに無粋なこととは存じておる。まろから岩倉卿にその旨、申し添えておこう」 九条道孝が、甲高い声で了解した。「勅使のお言葉にござる、かまえて怠りのないよう頼みますぞ」「我等田舎侍にも、尊王の志は誰にも劣る者ではございませぬ。良きご返答をいたす所存にございまする」 鈴木兵左衛門が杉山荘一に平伏した。 勅使一行は数日、手厚い饗応をうけ満足して京にもどって行った。「ご家老、殿は了解なされますか?」「我が藩は京に近い、御上の申し出を断るわけにはゆくまい」 鈴木兵左衛門が苦々しい顔つきで答えた。あの長州の軍監なんぞ長州藩の下級藩士じゃ、そう感ずると薩長の横暴な振る舞いに、憤りが湧いてくる。「ご家老は不服にござるか、我が藩は徳川の譜代の家とは存じておりますが、時勢が変わったのです。御上に恭順することには賛成にございます」 末席家老の天方刑部左衛門が賛意を示している。(馬鹿者め、それではあまりにも能がなさすぎる。御上を担ぎ出した薩長等が、徳川家に勝てるものか。江戸では徳川の洋式軍が満を持し、日本一の海軍も健在じゃ。さらに会津藩は一藩をあげ抗戦の気運に充ち、東北諸藩は徳川よりと聞いておる、ここは慎重にせねば藩が潰れる。だが御上の申し出には従わずばなるまい) 老獪な鈴木兵左衛門は藩存続の秘策を胸に秘めていた。江戸づめの藩士は徳川びいきじゃ、わしの言い分は判ってくれよう。 彼は新政府軍と旧幕軍の双方に兵を出し、どちらが勝っても藩の存続を図る腹づもりであった。 国許からは新政府軍に、江戸藩邸からは旧幕軍に兵を出す、これが小藩の生き残りの策と考えていたのだ。 彼の考えの根底には藩政を牛耳る布石があった。江戸家老の朝比奈藤兵衛との確執もあり、旧幕軍が敗れた場合は江戸家老の独断として口を拭う積もりであった。
May 9, 2007
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