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クロニクル 立川基地返還1977(昭和52)年11月30日この日、米軍の立川基地が接収から32年3ヶ月振りに全面的に日本側に返還されました。基地内に多くの土地を持つ立飛企業や昭和飛行機といった東証2部に上場する企業の株は、基地返還が噂されるたびに、思惑的に買われ、この時期も高値にありましたが、現実に返還の日を迎えると、見事に材料出尽しで売られました。立川基地に続き、横田や朝霞の基地も縮小、返還されて行くのですが、神奈川県の厚木基地では、市街地に隣接していながら、夜間の離着陸訓練が繰り返されるなど、住民感情を刺激する事態が続いています。この現実を見るにつけ、72年に核抜き本土並みの歌い文句で祖国復帰を果したにもかかわらず、相変わらず基地の大波の中に、住民の居住地が存在するが如き状況に置かれている、沖縄の皆さんの思いはいかばかりかと、思わずにはいられません。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, November 30, 2006 9:43 AMSubject: 30日の日記
2006.11.30
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クロニクル 大韓航空機爆破事件 1987(昭和62)年11月29日 この日、バクダッド発ソウル行きの大韓航空機が バンコク空港と交信中に連絡を絶ち、ミャンマー沖に 墜落したのでした。爆発物によって 爆破されたとしか考えられない状況でした。 2日後の12月1日、同機に搭乗しながらアブダビで 降りてしまった不信な男女二人が、バーレーン空港で 偽造旅券保持の疑いで緊急逮捕されます。二人は 蜂谷真一・真由美という日本人名義の偽造旅券を保持 していたのですが、拘束中に服毒自殺を図り、男性は 死亡、女性は一命を取りとめ、韓国に護送されました。 韓国での取り調べで、女性は金賢姫(キム・ヒョンヒ) 25才と判明。二人は北朝鮮の秘密工作員で、当局の 司令で、大韓航空機を爆破したことが、女性の自供に よって明かにされたのですが、何故、爆破を決行した のかは、謎のまま残りました。
2006.11.29
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クロニクル ドル減らしは名画で… 1978(昭和53)年11月28日 ティファニーで朝食を…ではありません。 名画の購入でドル減らしを実現しようという苦肉の策 です。何か笑ってしまいそうですが、当時の政府は 大真面目だったのですから、果して笑っていいものかどうか。 この日、総額15億円をかけて、文化庁がピカソ・マチスらの名画 を購入するための予算措置が、閣議で決定されました。 急増する貿易収支の黒字対策として、ドル減らす一環でした。 当時、第1次オイルショックの打撃から、なかなか立ち直れない 世界経済の中で、唯一いち早く立ち直りを見せたのが、 低燃費で故障も少ない自動車産業を核とした日本経済でした。 戦後の焼け跡から立ち直った日本が、経済を中心に世界の一流国 にまで駆け上がったのです。しかし悲しいかな、成り上がりの 日本人は、手にした外貨をどう使うかのノウハウを持たなかった ために、名画だビルだを値段構わずに買い漁り、世界の 顰蹙を買うことになった事は、ご存知の方も多いと思います。 やがて10数年、バブルの崩壊と共に、日本が高値で買い上げた名画や ビルの多くを、安値で手放すことになったことを、記憶されてい る方もまた多いと思います。 これもまた、必要な授業料だったのでしょうか。 ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, November 28, 2006 9:49 AMSubject: 28日の日記
2006.11.28
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クロニクル 中小企業の1つや2つ…発言1952(昭和27)年11月27日表記は、この日の衆院本会議での質疑に際し、池田勇人通産相の答弁の中で飛び出した発言です。「中小企業の1つや2つ、倒産するのも、社長が自殺するのもヤムをえない」というものでした。池田氏には、かつて「貧乏人は麦を食え…」という発言もあり、歯に衣着せぬ発言で知られていましたが、この発言で議場は混乱、2日後の29日には辞任することとなりました。1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、当時ドッジデフレによる経済再建の途上にあって(現在でいえば、IMF管理による、途上国の縮小均衡政策のようなものだと考えれば良いでしょう)、枯淡の苦しみにあった日本経済にとって、まさに恵みの雨となりました。参戦した「米軍」による特需が発生し、日本経済はデフレ脱出に成功、戦後初の好景気に沸いたのでした。しかし、52年11月の米大統領戦で、朝鮮戦争の早期終結を掲げた共和党のアイゼンハワーが当選すると、戦争の終りを予測して、需給バランスは急速に悪化、経済は不況色を強めていたのでした。資本主義の下では、経済見通しを誤り、大量の在庫を抱えて耐えきれなくなった企業が倒産するのは当然のことです。まして、財務基盤の弱い中小企業なら、経営者は常に倒産のリスクを計算に入れ、慎重に経営計画を立てるのが当然の責任です。それを忘れて特需に浮かれて強気になりすぎたのが破綻の原因なのですから、池田通産相の発言は、至極もっともなもののように、私は考えます。当然のことが発言できず、口先だけの建て前しか口に出来ない、政治家の発言が、何ともうわべだけのつまらないものに終始するようになったのは、この出来事からのように思えてなりません。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, November 27, 2006 9:59 AMSubject: 27日の日記
2006.11.27
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クロニクル 公労協スト権(奪還)ストに突入1975(昭和50)年11月26日公共企業体等労働協議会(略称 公労協)を組織する三公社、五現業(国鉄・電電公社・専売公社、郵便・林野・印刷・造幣・アルコール専売)の総評系の9組合(当時の組織人員は総計86万人といわれました)は、この日、ストライキ権の奪還を目指して、統一ストライキに入ったのでした。三公社・五現業に属する労働者たちには、企業の公共性に鑑み、労働三権のうち団結権と団体交渉権のみが認められ、争議権(その最高の形態がストライキです)は認められていなかったのです。そのため、公労協の諸組合にとって、彼等が奪われていると考えていたスト権の回復は、長年の悲願だったのです。当然スト権回復にかける組合員の意気込みも半端でなく強かったのですが、当時の三木首相は「スト権ストは政治ストであり、一切の妥協はしない」と言明、12月3日まで、8日間192時間に及んだストライキは、結局何の成果もなく終息したのでした。スト権ストの敗北を1つの大きな曲がり角として、戦後の労働運動は退潮に向いました。若者の労組放れも著しく、現在では8日間の連続ストなど、今や昔といったところです。しかし、後日談として三公社はその後民営化され(国鉄は分割の上での民営化でした)、現在は夫々、JR各社、NTT,JTとして、各組合にはスト権も認められています。しかしストを打つような気配は今のところ見られません。五現業に関しては、昨年の郵政解散と郵政の民営化が記憶に新しいところですが、林野や造幣等については、なお今後に議論が残されているのが現状です。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, November 26, 2006 9:52 AMSubject: 26日の日記
2006.11.26
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クロニクル 第1回共同募金1947(昭和22)年11月25日この日、初めての共同募金が募金活動をスタートさせました。当時で総額6億円近くが集ったと記録されています戦後の混乱期、いまだ食糧不足が続く中でしたが、親、兄弟を亡くした浮浪児も多く、貧しいながらも気持の温かい人々が多かった時代の面影が偲べますね。共同募金のスタートは翌年からは、10月1日となり同時に赤い羽根も使われるようになりました。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, November 25, 2006 10:03 AMSubject: 25日の日記
2006.11.25
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クロニクル 東京初空襲 1944(昭和19)年11月24日 この日、マリアナ基地より飛来した80機の米軍機(B29爆撃機) によって、中島飛行機武蔵野工場が重点爆撃を受けました。 米軍機による、初めての東京空襲でした。 米軍機による本土爆撃は、同年6月16日の北九州爆撃を皮切りに、 11月までに中国四川省の省都成都基地から発したB29爆撃機によって、 8回行われていましたが、マリアナ基地からのそして首都東京への 爆撃は,この日が初めてでした。 B29爆撃機は、高度1万メートルの高高度からの爆撃が可能で、この日 以降、名古屋や川崎の航空機工場が次々と爆撃を受けました。 しかし、高高度からの爆撃は正確さを欠き、米軍にとっても成果は不満足 なものだったらしく、翌45年3月以降は、低空での焼夷弾による無差別 爆撃に転換したのでした。 これは広島・長崎への原爆投下を待つまでもなく、既にして明確に 当時の国際法に違反する行為でした。今でしたら、戦争犯罪を裁くための 国際法廷で裁かれるべき行為だったと、私は考えています。
2006.11.24
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クロニクル 心斎橋の誕生 1909(明治42)年11月23日 97年前のこの日、大阪南に 心斎橋が完成しました。 大阪で初めての石造りの 眼鏡橋として、浪速っ子の 話題を呼んだそうです。 何だか、当時の大阪に タイムスリップしてみたい ですね。
2006.11.23
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クロニクル ケネディ大統領暗殺 1963(昭和38)年11月22日 この日、アメリカ合衆国大統領J.F.ケネディは 遊説先のテキサス州ダラスで、オープン・カーで パレード中を狙撃されて死亡した。狙撃時刻は午後0時35分、 搬送先の病院での死亡時刻は午後1時とされている。 後任には副大統領のリンド・B・ジョンソンが就任、 彼の下で、公民権法案などが推進され、黒人差別の改善など が図られたが、一方で彼はヴェトナムにおける民族解放闘争に 積極介入を開始し、ヴェトナム戦争の泥沼に嵌っていった ことでも知られている。
2006.11.22
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クロニクル 沖縄返還に関する佐藤・ニクソン共同声明発表 1969(昭和44)年11月21日 この日、訪米中の佐藤首相とニクソン米大統領は、 沖縄返還に関する共同声明を発表、沖縄は「核抜き、 本土並み」で、1972年に日本に返還される旨を、確認 しました。 サンフランシスコ講和後も沖縄は米軍の占領下におかれ、 この間に沖縄の米軍基地は拡大を続けておりました。 そのため、沖縄の通貨はドル、日本本土との往来には パスポートの所持と、米軍の沖縄高等弁務官の許可が 必要とされておりました。60年代前半の学生時代、沖縄から やってきていた学友に、所持を義務付けられていたパスポートと 高等弁務官事務所の許可証を見せられた時の、一種新鮮な ショックは今でも良く覚えています。 共同声明の前年、復帰を求める沖縄の人々におされて、 初めての主席(正確には琉球政府主席)公選が行われ、 「即時・無条件・全面復帰」と「反戦平和」(当時,アメリカは ヴェトナム戦争に介入して、泥沼の苦戦に陥り、沖縄基地を 足場に,いわゆる北爆や枯葉剤の撒布を繰り返していたのでし た) を掲げた革新統一候補の屋良朝苗氏が、「米軍基地と一体での 漸進的復帰」を掲げた,沖縄自民党の西銘順治氏を大差で破り 当選しておりました。 ここには、戦後23年間、日米戦争で 最大の犠牲を払った沖縄に対する日本政府の対応への不満と、 この間、基地の拡大政策を続け、住民感情を無視し続けてきた 米軍への不満、そして祖国復帰への住民の熱意の強さが はっきりと示されていたのでした。この熱意が日米両政府に、 沖縄の返還が急務であることを悟らせ、この日の共同声明、 そして72年5月の返還に繋がってゆくのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, November 21, 2006 9:46 AMSubject: 21日の日記
2006.11.21
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士官学校事件起きる 20日の日記クロニクル 士官学校事件1934(昭和9)年11月20日この日、陸軍の士官候補生を中心としたクーデタ計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計らが逮捕されました。2/26事件のおよそ1年3ヶ月前のことです。村中大尉らは、翌年3月の軍法会議で、証拠不十分として不起訴となりましたが、軍内部での皇道派と統制派の対立は、士官学校事件と呼ばれたこの出来事を契機に、抜き差しならないものとなっていったのでした。2/26事件に至る昭和史の一齣です。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, November 20, 2006 9:52 AMSubject: 20日の日記
2006.11.20
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クロニクル 東京開市場1868(明治元)年11月19日この日、東京の開市が正式に宣言されました。これより先、9月20日に,天皇は京都を離れて東京に向かうなど、東京遷都の準備を進めていたのです。因みに江戸を東京(当時はトウケイと発音)と改めたのは、7月17日のことでした。しかし、遷都論には反発もあり、この日11月19日に東京開市を宣した後、天皇はいったん京都に帰り、翌年、正式に東京遷都を発表、3月に東京に移られ、江戸城改め東京城が、皇居と定められたのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, November 19, 2006 9:52 AMSubject: 19日の日記
2006.11.19
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クロニクル 世界初の公式女子フルマラソン実施 1979(昭和54)年11月18日 この日、第1回の東京国際女子マラソンが 世界最初の公式な女子フルマラソンとして 行われました。世界10カ国から50名の女性 ランナーが参加し、イギリスのジョイス・スミス 選手が映えある第1回の優勝者として、その名を 刻みました。 こうした積み重ねの上に、今日の女子マラソンの 隆盛が築かれているのですね。
2006.11.18
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クロニクル ドラフト会議の始まり 1965(昭和40)年11月17日 この日、プロ野球機構と各球団は、 第1回の新人選択会議(通称ドラフト会議)を 開きました。 金持ち球団が資金力に物を言わせて、高校・ 大学・社会人の有力選手を次々とさらっていったのでは、 チーム間の実力差が開き過ぎて試合がつまらなくなり、 お客さんにも厭きられてしまうという危機感からのことでした。 しかし、当時はスカウト網を整備した球団も少なく、 指名が競合するような有力選手を除くと、スカウトの眼力の 差が、当時は歴然としておりました。 最近のように、各球団のスカウト網が整備されてくるのは、 施行後、5年、10年と経った後のことでした。 因みにこの年、巨人の1位指名は監督も務めた200勝投手の 堀内、近鉄の1位指名は300勝投手の鈴木だったと 記憶しています…… (あってると良いのですが…) ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Friday, November 17, 2006 9:51 AM Subject: 17日の日記
2006.11.17
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クロニクル 消費税法案衆院を通過 1988(昭和63)年11月16日 この日、3%の消費税の導入を柱とする 税制改革6法案が、自民・公明・民社3党の 採決で衆議院を通過、即日参議院に送付 されました。 ここに、大平内閣での附加価値税、中曽根内閣 での売上税と2度挫折していた大型間接税の導入が 3度目の兆戦で、ようやく実現を見る見込みが立った のでした。 この法案は12月24日、参議院も通過、翌89年(平成元年) 4月1日からの導入が、正式に決定したのです。 時あたかも、昭和天皇の病状は重く、全国的に秋祭りの 自粛など、お祝い事自粛ムードが続く中、株式市場のみは 自粛ムードなど何のその、日経平均は年末に3万円を超えるなど、 バブルの絶頂へ向けて全力疾走を開始した ユーフォーリアの全盛期を迎えていたのです。 それにしても、随分消費税を払い続けている気がしますが、 まだ、17年に過ぎないのでせねぇ。何だかキツネに つままれたような気も……
2006.11.16
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クロニクル 第一回先進国首脳会議 ランブイエサミット始まる 1975(昭和50)年11月15日 この日、フランスのパリ近郊の古城、ランブイエにおいて、 米・西独・日・英・仏・伊6ヶ国の首脳による、先進国首脳会議 (サミット)が始まりました。首脳同士が泊り込んで胸襟を開いて 語り合うことで、現下の関心事に共通の理解・認識を持とうとする この試みの背景には、73年のオイルショックに端を発した戦後初めての 資本主義世界の同時不況がありました。スタグフレーション(不況下の物価高) に苦しむ先進経済諸国が、相互に勝手な行動に走るのではなく、互いに 協調しながら不況克服という統一目標に邁進することを申し合わせることに、 大目標があったのです。3日間にわたって、6ヶ国の首脳を缶詰にした この会議は、15項目に及ぶ合意事項をランブイエ宣言として発表、成果を アピールしたのでした。 ところで、この会議は当初イタリアを除く5ヶ国の会議として計画されたの ですが、途中で計画を察知した同国の猛烈なアピールでイタリアの 参加が実現したのです。それならGNPの規模からいってカナダも有資格 ではないかと、翌76年からは、アメリカの後押しでカナダの参加も 認められて、参加国は7ヶ国になったのです。 さらに77年からは、EUも参加することになったのです。 サミットは当初は、経済問題を首脳だけで討議する場だったのですが、 経済の立ち直りと共に、次第に政治問題のウェートが高まり、官僚たちに よる事前会議も周到に行われるようになって、次第に現在のような 大掛りな政治ショーに堕していったのです。
2006.11.15
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ソウルで感じたこと(2)ソウル市内を移動しながら先ず目についたのは、市内の各所で戦闘服姿の兵士が警備の任についている姿でした。空港でも警官と共に兵士が警備にあたっており、ここで先ず日本との違いを感じさせられました。太陽政策を取っているとはいえ、警戒は怠れないというところでしょうか。官庁街近くには、大きな基地もあり、その周囲は特にものものしく、警備の兵士も何かピリピリした雰囲気を漂わせているように感じられたのは、マシンガンを携行しているためだけではないようでした。この国は朝鮮戦争以来の戦争状態をなお残している。日本人がつい見落としがちな点を、しっかり認識できました。この点だけでも、今回のソウル行きは、意味があったと思っています。もう1つ、我々日本からの客人の案内と通訳に当たってくれた院生クラスの学生たちや、韓国の友人たちと話していて、「北との統一は将来の必然ではあるが、そこに至るまでには、なお20~30年は必要だろう」と、決して統一を急ごうとしない点で、若者も年配者も共通の見方をしていることが、印象に残りました。この話しは、我々が水を向けたわけではなく、問わず語りに彼等が話してくれたことなのです。おそらく、いかにも拙速だった東西ドツの統一の経緯を学習し、急ぎ過ぎる統一は韓国にとって経済上の負担が大き過ぎる、北の経済の再建、不良債権の大幅な整理なしに、抱え込むわけにはいかないとする、韓国政界や財界の判断が、様々なプロパガンダを通じて韓国国民の大部分に浸透しているのでしょう。そんな印象を受けました。ところで、ベルリンの壁が崩れた当時、私は歴史的な経緯からいって分断国家の統一では、朝鮮、中国(台湾統一)、ドイツの順、ドイツの統一が最後だろうと考えておりました。それ故に、あれよあれよのドイツ統一の進展に、唖然・呆然としていたことを思い出します。統一は必然なだけに、どこかで突然歯車が回り出すと、止めることはできません。意外と早く統一の日がやってくる可能性も否定できないと受けとめております。「生きてるうちに、隣国の統一を見たい。」そう思いながら帰って参りました。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, November 14, 2006 10:04 AMSubject: 14日の日記
2006.11.14
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クロニクル 「新しき村」のスタート 1918(大正7)年11月14日 白樺派文学の旗頭、武者小路実篤は、この日 宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村に 生活共同体の建設を目指して「新しき村」を 開所しました。 会員=村民は平等互恵の原則の下に、皆が平等に 働き、平等に余暇を楽しみ、農業等の生産物は 平等に分配するという、一種のユートピア社会主義 の試みでした。会員は武者小路夫妻を含む15名 でした。 武者小路はトルストイに私淑し、彼の人道主義的な 世界観を実践しようと試みたのですが、トルストイが 範としたロバート・オーウェン流のユートピア社会主義の 試みは、既にアメリカにおいて失敗、挫折しており、 武者小路の試みもまた、成功に至る社会的基盤を欠いた 空想的な試みに留まったのでした。 しかし、彼の試みは、後に農本主義の思想と結びついて、 農本主義思想を広める役割を果すのです。
2006.11.14
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ソウルで感じたこと所用で7日~9日、ソウルに2泊してきました。韓国の人口4,800万人の23.5%1,030万人が暮らす過密都市ですが、四方を山に囲まれた大盆地でした。韓国の仕事仲間の話では交通渋滞がひどいと言う事でしたが、片側8車線のメインストリートを始め、広い道路も多く、東京にくらべるとずっとスムーズのように感じられました。最新モデルというバスに、9日の午後乗る機会があったのですが、乗り心地はお世辞にも良いとは言えないものでした。サムスン電子に続いて現代自動車も伸びていると聞きますが、一時期の日本のように、質よりも安さを武器にしているのでしょうか、質の点では日本車はおろか、欧米製の自動車にも、まだまだ距離がある印象を受けました。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, November 13, 2006 10:02 AMSubject: 13日の日記
2006.11.13
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クロニクル ヤンバルクイナの登場 1981(昭和56)年11月13日 この日、山階鳥類研究所は、沖縄県本島北部の 与那覇岳で発見された新種の鳥を、ヤンバルクイナ と命名したことを発表しました。
2006.11.13
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クロニクル 南アルプススーパー林道完工 1979(昭和54)年11月12日 正直なところ、今日の日記に何を記すべきか迷っていました。 昨日の日記に第1次世界大戦の終結を取り上げ、戦争犠牲者数 など重い話題を取り上げましたので、1948年11月12日の A級戦犯の判決という話題は来年の今日に回したいという 思いがあったからです。日記を書き込む前に、DAIGAKUさんの ブログを覗き、北信5岳の写真を見たことで、この記事にする ことが浮かびました。DAIGAKUさんに感謝します。 ということで、 この日、起工から13年目にして、ようやく南アルプススーパー 林道が完工に漕ぎつけたのでした。この林道建設は「自然保護か 開発か」という今日まで続く論議の出発点を形成したことで、 忘れられないものとなっています
2006.11.12
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クロニクル 第1次世界大戦の終結1918(大正7)年11月11日この日、ドイツ革命によって成立した社会民主党のエーベルトを首班とするドイツ臨時政府は、連合諸国との休戦条約に調印、ここに、1914年7月28日に始まった第1次世界大戦は、4年3ヶ月余の長期戦の果てに、ようやく終結をみたのでした。戦争末期の1917年11月(ロシア暦10月)には、戦時体制を構築する政治的・経済的耐久力を持ち得なかったロシアでは、国内の反戦・平和の世論の盛り上がりによって、社会主義政権が誕生する一幕があり、同じく18年には戦場を中心にスペイン風邪が大流行して、敵対する双方の陣営で、多数の兵士が病死するなど、戦場以外でも多くの死者を出した戦争がようやく終了をみたのでした。戦死者・戦病死者の合計は相方合わせて850万人、負傷者は同じく2,100万人強と推計されています。敗れたドイツでは、1100万人の動員兵力に対し、死傷者は600万人に近いと推計されており、総人口6000万人とされる人口から、国民の1割が傷つくか戦死したのでした。第2次世界大戦の被害は、ここに記した第1次のそれを大きく上回るのですから、推して知るべしですね。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, November 11, 2006 9:52 AMSubject: 11日の日記
2006.11.11
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クロニクル 大日本医師会創立1916(大正5)年11月10日この日、大日本医師会が創立され、初代会長には、細菌学の権威北柴三郎博士が就任しました。北里博士はドイツ留学から帰国後、1892年に東京芝に伝染病研究所を設立、同研究所はコレラ、チフス、赤痢などの研究に大きな成果をあげましたが、1914年、研究所が文部省に移管された(2年後東大の付置研究所となり、現在に至ります)のを不満として辞職、彼を慕う研究員等と翌15年に北里研究所を立ち上げた反骨の人でもありました。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, November 10, 2006 9:59 AMSubject: 10日の日記
2006.11.10
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ベルリンの壁崩壊 これは夢なのか幻なのか1989(平成元)年11月9日この日、東西ベルリンを分かつ「ベルリンの壁」が事実上崩壊、東ドイツ市民が、西ベルリン(西ドイツ)を訪問する情景が、現在進行形で衛星中継でテレビ放映されました。東ドイツ市民の手で。ブランデンブルグ門が壊され、移動の自由が久々に実現したのでした。翌日10日には、壁の一部が本格的に撤去され、東西ベルリン間、東西ドイツ間の移動の自由が保障されたのでした。ところで、ベルリンは、ドイツ帝国及びナチス時代のドイツの首都であったため、地理的には東ドイツに位置しながら、その特殊な地位のために、東西ベルリンに分けられ、その西半分が西ドイツの1部とされていました。そのため、その地位は不安定で、東ドイツは国民の西ドイツ、具体的には西ベルリンへの逃亡を警戒して、1961年8月にベルリンの壁を築き、東西ベルリンの交通を遮断する措置を取ったのでした。 この日38年振りに、その壁が崩壊したのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, November 09, 2006 9:52 AMSubject: 9日の日記
2006.11.09
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クロニクル 日本テレビ11PMの放映を開始 1965(昭和40)年11月8日 東京オリンピックの翌年のこの日、 日本テレビが11PMの放映を開始しました。 日本で初めてのナイトショーの幕開けでした。 深夜放送のみでなく、24時間放送も行われる昨今 からすれば、信じられないでしょうが、 当時は放送終了の時間も早く、午後11時過ぎに 始まる番組は少なく、しかも水着姿の女性を 登場させるなど、しばらくはお茶の間に物議を かもした番組となったのでした。 キャスターを務めた大橋巨泉氏は、この番組を 足場にテレビ界での地歩を固めたのでした。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Wednesday, November 08, 2006 10:00 AM Subject: 8日の日記
2006.11.08
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クロニクル 新議事堂落成なる1936(昭和11)年11月7日この日大日本帝国議会の新議事堂が落成しました。現在の国会議事堂です。1936(昭和11)年といえば、2.26事件の年、事件に関与した将校達が、新議事堂前を行進する写真が良く知られていますが、2月時点では落成にいたっておらず、この日をもって、めでたく落成なったのでした。追記、7日朝より、2泊でソウルに出かけます。8日の ブログは、帰国後9日深夜に、更新させていただきます。 あしからず、ご了承ください。 ザビ
2006.11.07
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クロニクル カシオ計算機低価格電卓発売1975(昭和50)年11月6日カシオ計算機(現カシオ)は、この日4,500円という,当時としては破格の低価格電卓を発売、先行するキャノンとシャープに対して、真っ向からシェア争いを仕掛け、電卓の価格破壊とシェア争いという電卓戦争の幕を開けたのでした。カシオの仕掛けた電卓の低価格化、小型化はこの後も続き、「こたえイッパツ、カシオミニ」のコマーシャルが一世を風靡したのは、これから間もなくのことでした。
2006.11.06
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クロニクル 電光ニュースの誕生1928(昭和3)年11月5日 この日、東京と大阪の朝日新聞社屋の側面に、日本で初めての電光ニュースが登場、道行く人々の関心を集めました。かなりの人だかりもでき、わざわざ見に来る人も多かったとされています。1881年にエジソンが発電機を発明、19世紀末までに電気・電力の利用が実用化された当初においては、水力発電所の近くの工場に電力を供給するのが精一杯だったのですが、実用化から四半世紀経過した20年代なかばから、急速に供給と利用が伸び、20年代後半には、米国中心に急速なラジオの普及をも生んだのですが、その影響は太平洋を超えて日本にも及び、早くも1928年には、表記の電光ニュースの登場となったのでした。
2006.11.05
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クロニクル イランの大学生米国大使館を占拠1979(昭和54)年11月4日 この日テヘランの駐イラン米国大使館が、イランの最高指導者ホメイニ師を支持する学生たちによって占拠され、外交官等 70人近くの米国人が人質とされました。イランでは、同年1月16日に高まる一方の革命運動におされ、パフレヴィー国王が国外に退去、2月1日亡命先のパリから革命運動の精神的支柱ホメイニ師が帰国、革命の勝利はここに決定したのでした。パフレヴィーの王位は剥奪され、新政府を組織した革命派は、パフレヴィー前国王を裁判にかけることを決定、流浪の前国王の逮捕協力を関係各国に依頼したのです。やがて前国王は病気治療を理由に、アメリカへ入国、滞在するようになったのですが、イラン政府の引渡し要請は無視され続けたのでした。学生による米大使館占拠は、このような状況の中で起こったのでした。学生等は人質解放の条件として、前国王の引渡しを要求、即時解放を求めるアメリカと対立し、ホメイニ師は学生たちを庇う姿勢を貫いたのでした。このため米大使館の占拠は1年以上も続き、ここに米・イの対立は決定的となってゆくのです。この情勢が翌年9月のイラクのイラン攻撃(イラン・イラク戦争)に繋がり、さらにイ・イ戦争が第2次オイルショックの因となっていくのです。
2006.11.04
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クロニクル 湯川秀樹京大教授にノーベル物理学賞1949(昭和24)年11月3日この日、スウェーデン科学アカデミーは、湯川秀樹博士(43才)(京大教授)にノーベル物理学賞を授与する旨発表しました。博士が大阪帝国大学助教授時代の1934年(27才当時)に、原子核の内部に中間子の存在を予測した「中間子理論」を提唱したことが、理論物理学界に画期的な新理論を提供したと評価されての受賞でした。当時、日本国内はドッジデフレに悩まされていた時期であり、なお敗戦の痛手からの復興途上にあって、日本人の多くは自信を失ったままの状況にありました。そんな中での湯川博士のノーベル賞受賞は、久々の明るい話題として大歓迎されたのでした。博士の受賞を受けて、日本政府は急ぎ所得税法を改正、ノーベル賞の賞金をはじめ、学術奨励金は免税扱いとすることを決め、国会もまた超党派の満場一致で、政府提案を可決成立させたのでした。博士はその後、世界平和アピール七人委員会のメンバーとして、積極的に平和の重要性をアピール、アインシュタインらと共に、核時代における科学者のあり方を真剣に問い続けたことでも知られています。
2006.11.03
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クロニクル 買い溜め騒動遂に怪我人出る1973(昭和48)年11月2日、ところは、兵庫県尼崎市のスーパーでした。この日記にも登場している、第4次中東戦争におけるアラブ諸国の石油戦略に端を発した第1次オイルショックは、戦争終了後も、原油価格の高止まりという形で継続、OPECが価格維持を狙って減産体制を継続したため、翌、74年からは戦後初の世界同時不況に突入し、日本でも盛り場のネオンの夜10時以降の自粛。デパート等でも、夏の冷房の温度設定は28℃にするなどの自主規制が行われることになります。さて、73年の今日に戻ると、当時原油のみでなく、石油化学製品や石油関連商品は品不足から、いずれ高騰する。値上り前に買い溜めしておこうという消費者心理から、洗剤、トイレットペーパー等の生活必需品がスーパーの店頭から姿を消したのでした。この日尼崎市のスーパー(名前は忘れましたが、多分元気な頃のダイエーでしょうか?)が、朝からトイレットペーパーを売り出すと報じたところ、開店前から行列が出来、買いに殺到した主婦らが、売り場で将棋倒しになるという、事故が起こり、老女が大怪我を負う惨事になりました。4ロール入りのトイレットペーパー、600パックが僅か10分足らずで売り切れたと報じられています。口コミ情報が消費者心理を煽り、そこに商機を見出した企業が巧みに付け入り、巧妙に物価高騰を仕掛けたというのが真相だったのでしょう。政府は増産も指示しているし、品不足はないと火消しに懸命でした。事実品不足はなかったようなのですが、火のついてしまった消費者心理を冷やすことは出来ず、トイレットペーパーも洗剤も、大幅に値上りした価格が定着していくことになりました。どこかの油脂会社(洗剤メーカー)の社長が、社員や販売店に向かって「石油ショックは千載一遇の儲けのチャンス」とゲキを飛ばした事実が、動かぬ証拠と共にマスコミに漏れて、大騒ぎとなったことは、年配の方ならご記憶かと思います。同年12月のことだったでしょうか。世界的にスタグフレーション(不況下の物価高)状況に陥るのは、翌74年からのことです。
2006.11.02
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クロニクル 山手環状線の完成1925(大正14)年11月1日この日、東北本線の上野~神田間に高架線が開通。その結果、山手線電車の環状運転も合わせて可能になったのでした。顧れば、2年2ヶ月前、大正12年の9月1日の関東大震災で、首都は大打撃を受けたのですが、その直後から粛々と工事を進めて、建設を遂行し、開業に漕ぎつけた努力は大変なものだったことが、推測できますね。
2006.11.01
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