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12月9日に新刊が発売される予定です。タイトルは『秋山眞人のスペース・ピープル交信全記録』。出版社は前作『Lシフト』に続き、ナチュラル・スピリットです。私が聞き手となって、秋山氏のUFO交信ノートの内容やその解説、そして彼の幼少期から現在に至るスペース・ピープルとの交流の全貌を明らかにして行きます。人類が遭遇した稀有の「宇宙人との交流記録」を楽しんでいただければと思います。詳しくはこちらをご覧ください。
2018.11.29
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いわゆる神武東征の際の勢力図が次のようであったことがわかります。丹波・若狭・近江・河内・大和:オオドシことニギハヤヒ。河内・大和:ニギハヤヒの補佐としてナガスネヒコ。山代・近江・摂津:オオヤマクイ。熊野・海上交通路:高倉下こと天香山(クマノクスビ?)。木(紀)国:オオヤビコ。大和(葛城周辺):八咫烏ことタケツノミ。日向・九州北東部・出雲の一部:イツセと神武。で、神武ら一行は瀬戸内海を東進するわけですが、そのときに天香山の一族が航路を確保したことがうかがえます。一行は河内から上陸したのですが、新参者の大和国参入に反対するナガスネヒコに撃退され、神武の兄イツセが命を落とします。おそらくこのとき、ニギハヤヒはかなり年老いているか、あるいは亡くなっていたのではないでしょうか。徹底抗戦派のナガスネヒコ(日ノ本将軍)の暴走を抑えることができなかったわけです。そこで神武らは天香山とタケツノミの援軍を得て、東の熊野から大和のナガスネヒコを攻める作戦に転じます。その作戦は成功しますね。こうして事実上の日向族の養子となった神武天皇が日向族の代表として王統に入ることができたわけです。神武天皇が果たして本当に天香山の子であるのかはわかりません。地政学的に見て、クマノクスビは高倉下の可能性が高いですから、竹内氏の『帝皇日嗣』が正しいとすると、サノノミコトこと神武天皇が天香山の子であったとしても不思議はありません。いずれにしても、神話上は日向族の皇子が大和国の王に就任する必要があったのです。神武の兄のイツセがナガスネヒコに殺されたことにより、サノノミコトが天香山(高倉下)とタケツノミ(八咫烏)によって統一王に担ぎ上げられたという筋書きがあったように思われます。(続く)
2018.11.27
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三部族和合のあとの歴史も考察していきましょう。この三部族和合において日向族の存在感が希薄になっていることは前回指摘した通りです。ということは、日向族は何とかして巻き返さなければいけませんね。おそらくそのころまでに日向族は、九州全域をほぼ手中に収めていたのでしょう。しかし、中央の大和地方からは遠いですね。そこでスサノオの死後、出雲国の王となったオオナムジを懐柔すべく、知恵を絞ります。出雲攻略のため最初に派遣されたのは、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、アマテラスとオシホミミとの間に生まれたアメノホヒでした。しかしアメノホヒは逆に丸め込まれてオオナムジの言いなりになってしまいます。次に出自不明のアメノワカヒコが派遣されます。出自は一応、アマツクニタマの子となっていますが、アマツクニタマも突然登場するので、「アマ(天)」という名から、日向族(天孫族、海族)出身だろうということしかわからないんですね。で、このアメノワカヒコは完全に日向族を裏切ります。そこで日向族の高木神は、ワカヒコを裏切り者として殺してしまいます。このワカヒコの葬儀のときに出自のヒントが出てきます。何とアジスキタカヒコネと瓜二つだったというんですね。瓜二つであるなら近親に違いありません。アジスキタカヒコネはオオナムジと宗像三女神のタギリヒメの間に生まれた子ですから、おそらくアマテラスの直系ではないかと思われます。もしかしたら実際に二卵性双生児で、一人は出雲族にもう一人は日向族に分けられた可能性もあります。もう一つの可能性としては、当初出雲族に属していたアジスキタカヒコネが日向族に養子に行ってアメノワカヒコになったというシナリオも考えられます。既に説明したように、アジスキタカヒコネが主祭神になっている高鴨神社の別名が神捨篠社(かみすてしぬのやしろ)となっているのは、神(出雲)族を捨てたという意味ではないかと推察されます。実際、アジスキタカヒコネはアメノワカヒコの葬儀の席で、死んだアメノワカヒコと勘違いされて怒り、喪屋を切り捨てた、と『古事記』に書かれています。やはり神族との決別があったことを強烈に示唆していますね。結局これが伏線になるわけです。アジスキタカヒコネはタケツノミに名前を変えて、神武東征の際には八咫烏として神武軍の先陣を切っています。(続く)
2018.11.26
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こうして出雲と大和の和睦がなされたわけですが、オオナムジとナガスネヒコの争いを仲裁したオオドシはそのとき、どこを支配していたのでしょうか。それにはオオドシをご祭神とする神社を見ていく必要があります。そのオオドシこと天火明を主祭神としている有名な神社が、京都府宮津市の籠神社(このじんじゃ)です。京都の北、天橋立のある風光明媚な観光地にあります。丹後国です。ですから、スサノオの出雲国を受け継いだ大国主ことオオナムジが因幡国までを支配していましたが、オオドシの丹後国を迂回、あるいは経由して近畿地方へと兵を進めたというシナリオが浮かんできますね。オオドシはスサノオの子で、四男とされています。竹内氏によると、親子喧嘩して出雲国とは袂を分かったそうですから、どうやら丹後国の王になったのではないでしょうか。その身内でもある丹後国と戦争する理由はオオナムジにはありませんでした。ところが丹後国を迂回、あるいは素通りしたものの、いざ河内地方でナガスネヒコと戦ってみたら、軍事力に圧倒的な差があり、オオナムジは退却を余儀なくされました。で、琵琶湖まで退却したところで、丹後国の天火明の水軍に助けられたというわけです。天火明の水軍に助けられたオオナムジ軍は河内国まで盛り返し、そこで和議となったのではないでしょうか。地政学的にはありうるシナリオですね。ここで、なぜオオドシが天火明と呼ばれるようになったかも説明しておきましょう。アマテラスの天孫族(日向族)の娘を政略結婚でもらっているからです。一人はアメチカルミヅヒメで、もう一人はアメノミチヒメことタカテルヒメです。どちらも「天」がついているから天孫族であることがわかります。オオドシが天孫族の系図に組み込まれたから天火明となったわけです。オオドシの子・大香山(おおかぐやま)が天孫族の系図に組み込まれて「天香山(あめのかぐやま)」になったのと同じです。それはともかく、三部族の和合によって、出雲地方から大和地方までが政略結婚などを通じて一つにまとまったわけです。出雲と因幡はオオナムジ、丹波・河内はオオドシが統治王となり、ナガスネヒコが軍事王になったのかもしれません。オオドシの子・オオヤマクイは山城国、同じくオオドシの子の天香山は紀伊国を支配していたことが『古事記』の記述や神社の主祭神の名前から推察できます。アヂスキタカヒコネ改めタケツノミは、葛城地方や河内の三嶋地方を最初は統治、その後、オオヤマクイとの政略的な結婚を進めることにより山城国を統治するようになったのではないでしょうか。しかしながら、これではまだバランスを欠いていますね。これでは日向族が希薄になってしまいます。そこで「神武東征」というシナリオが必要になるわけです。(続く)
2018.11.25
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オオナムジの因幡国が出雲国の傘下に入ったことで、大和国のナガスネヒコとその一族である八十神たちとの対決は不可避になりました。オオナムジはスサノオからもらった「生大刀」と「生弓矢」を使って八十神たちを撃退したと書かれていますから、まさにスサノオの出雲軍の加勢を得てオオナムジが八十神たちの軍を撃破したという意味になります。さらに「国作り」において、出雲族の助人がオオナムジを助けてくれます。それが「天の羅摩舟(かがみのふね)」に乗ってやってきた少名毘古那(スクナビコナ)です。出自は不明ですが、カミムスビの子ですから神族(スサノオ系)の神です。おそらくスサノオの弟辺りではないかと睨んでいます。スクナビコナがオオナムジを補佐する副将となったことは名前からわかります。オオナムジの「大」に対して「少」の名を冠しているからです。大は大将で、少は副将ですね。たとえば開化天皇にはオオビコとタケオゴコロという二人の兄がいますが、二男のタケオゴコロは頭に「少名日子」という名前が付いています。オオビコが大将で、タケオゴコロは副将という意味です。こうして出雲国の援軍と戦略に長けた副将を得たオオナムジは、近畿地方へと進軍します。しかしながら大和地方を支配するナガスネヒコの「徐福軍」は、想像以上に強かったようです。頼みの副将スクナビコナも戦死し、オオナムジの軍は敗走して琵琶湖に追い詰められます。絶体絶命のピンチです。そこへ琵琶湖の湖面を煌々と照らしながら援軍が現れたんですね。それが後に大物主神として三輪山に祀られるオオドシことニギハヤヒです。竹内氏によると、オオドシの軍はかなり大きかったようです。その軍勢に圧倒されたナガスネヒコも、これ以上の戦いは避けたいと考え、和睦しました。具体的にはニギハヤヒがナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメと政略結婚することで手打ち式にしたわけです。これが三輪山の三つの和の一つ目の意味です。ニギハヤヒとナガスネヒコとオオナムジの三部族(三軍)が和したわけですね。(続く)
2018.11.22
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オオナムジが、徐福のグループと一緒に、あるいはやや遅れて徐福を追うようにして渡来した一行の中に混じっていた、スメル(シュメール)人を祖先に持つ古代イスラエル人の末裔であったとすると、古事記神話のオオナムジと八十神の関係がはっきりしてきます。オオナムジも八十神も徐福につき従った、大きな意味の同族であったわけです。渡来後、徐福たちの軍事力は圧倒的だったでしょうから、日本各地に勢力を広げていったことは容易に想像できます。徐福の直系は近畿地方を支配し、オオナムジの時代にはナガスネヒコが王として統治していたのでしょう。オオナムジはそのグループの中でも異彩を放っていたことがわかります。八十神たちと別行動をしていたと古事記神話に書かれているからです。具体的に言うと、オオナムジは八十神たちの荷物持ちをさせられていたというんですね。しかしそのように除け者扱いされていたオオナムジは、八十神たちを出し抜いて因幡のヤガミヒメと政略結婚することに成功、事実上の因幡国の王になります。では、どのようにして八十神たちを“出し抜いた”のかというと、ウサギが象徴する因幡国に対して、本当に必要な医術や技術をもたらしたからですね。一方的な技術力で押さえつけるのではなく、正直に共存共栄の道を指し示したからこそ、因幡国の王になれたことが、因幡の白ウサギの物語から読み取れます。これに怒ったのが、八十神たちです。八十神たちは、“徐福族”を出し抜いた裏切り者としてオオナムジを亡き者にしようとします。この辺りのオオナムジに対する八十神の迫害神話は、ほとんどスメル(シュメール)のドゥムジ神話と同じですから、説明は省略します。で、オオナムジが、助けを求めたのが、出雲王スサノオの息子・五十猛(イソタケル)でした。ですが、イソタケルだけではとても八十神たちに対抗できません。そこでイソタケルの紹介で、スサノオに直訴したことが神話からわかりますね。おそらくオオナムジは異国情緒を備えた美男子であったのでしょう。スサノオの娘であるスセリビメの心を射止めます。なにしろスサノオがオオナムジを一目見るなり「こいつは、葦原色許男だ」とわかったほどですからね。よほど変わった顔や身なりをしていたに違いありません。これが因幡国と出雲国の政略結婚になるわけです。国の大きさから言えば、因幡国が出雲国の傘下に入ったとも言えます。しかし同時に、これが「国作り」、すなわち出雲族と徐福族の大決戦へとつながることになります。(続く)
2018.11.21
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11月17日から19日までは、近畿地方の秦氏ゆかりの寺社をめぐっておりました。最初に訪れたのは、法隆寺。法隆寺と言えば、聖徳太子ですが、聖徳太子の別名は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)ですね。しかも、住職さんに伺うと「大工の神様」でもあるそうです。厩は馬屋のことですから、馬屋と大工と聞いて、何か思い出しませんか。そう、大工ヨセフを父に持つ、馬屋で生まれたキリストです。もちろん時代的に聖徳太子がキリストであることはありません。しかしながら、聖徳太子がキリストの話を知っていた可能性はあります。聖徳太子は仏教に帰依した身でありながら、実は「隠れキリスト教徒」であったかもしれないんですね。そして皇族ですから、神道の神事にも参加していました。つまり神道、仏教、キリスト教に通じた人物であったのかもしれません。では、そのキリスト教はどこからもたらされたかーー。もうご存知ですよね。キリスト本人(猿田彦)です。仮にそうでなければ、弓月の君を祖とする秦氏であったのではないでしょうか。このことはまた別の機会にお話ししましょう。今日の写真は601年に聖徳太子が造営した斑鳩宮の跡地に建設された夢殿です。法隆寺の東院にあります。
2018.11.20
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オオナムジが、徐福のグループと一緒に、あるいはやや遅れて徐福を追うようにして渡来した一行の中に混じっていた、スメル(シュメール)人を祖先に持つ古代イスラエル人の末裔であったとすると、古事記神話のオオナムジと八十神の関係がはっきりしてきます。オオナムジも八十神も徐福につき従った、大きな意味の同族であったわけです。渡来後、徐福たちの軍事力は圧倒的だったでしょうから、日本各地に勢力を広げていったことは容易に想像できます。徐福の直系は近畿地方を支配し、オオナムジの時代にはナガスネヒコが王として統治していたのでしょう。問題は他の地方です。おそらく近畿に近い因幡地方(鳥取県東部)をどう攻略するかが、ナガスネヒコたちの喫緊の要事であったはずです。そこで派遣されたのは、八十神たちであったのでしょう。八十神たちの誰かが因幡のヤガミヒメと政略結婚すれば、因幡はナガスネヒコの国となります。その八十神を出し抜いてヤガミヒメの心を射止めたのが、オオナムジでしたね。八十神とオオナムジは徐福一行の子孫と思われますから、兄弟みたいなものだったのでしょう。『古事記』の出雲神話には「兄神」と「弟神」のように書かれています。近畿王ナガスネヒコによる山陰地方政略をめぐる裏切りと出し抜き――これが因幡の白ウサギの物語の背景にあった国内情勢であったのではないでしょうか。次はこの出雲神話に隠された真実の歴史に迫って行きましょう。(続く)
2018.11.17
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秦氏には二系統あり、一つは紀元前3世紀の渡来人徐福の系列で、もう一つは4世紀後半から5世紀前半ごろ渡来した弓月の君の系列であること、そして徐福の系列には、徐福の直系と徐福一行の系列があり、その一行の系列に古代イスラエル人の末裔とみられるオオナムジがいた可能性があることを指摘してきました。今日は、その古代イスラエルと徐福の関係についても触れておきましょう。徐福がイスラエル12支族の祖の末裔ではないかとの俗説は既にありました。徐福(じょふく)は「ジョセフ」、つまり12支族の祖とされる「ヨセフ」(ヤコブの子で、マナセとエフライムの二支族の祖とされる)から来ているかもしれないというんですね。ジョフクとジョセフ――かなりの駄洒落に聞こえます。ただし、それ以外に根拠はありません。徐福は方士(仙術師)で、斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身であるということぐらいしかわからないんですね。口先だけで疑り深い始皇帝を騙して、3000人の若い男女を連れて、とんずらしてしまうくらいですから、かなりの人物であったには違いありません。いずれにしても、徐福らが紀元前3世紀に渡来したのであれば、当時の縄文系の人たちでは秦の技術を持った徐福一行に太刀打ちできなかったことが容易に想像できます。瞬く間に、日本を席巻したのではないかと思われます。そこにスサノオの「神族」とアマテラスの「天族」が参入して、シッチャカメッチャカになった可能性があります。紀元前1世紀ごろでしょうか。天族が九州を支配し、神族が出雲から越にかけての日本海側を抑え、近畿地方はナガスネヒコの「徐福族」が統治していたのかもしれません。その知識を持った徐福のグループの子孫にオオナムジや八十神がいたとすると、大国主の国作り神話が俄然、現実味を持って来ます。大国主ことオオナムジが、八十神たちを出し抜いて、神族こと出雲族と手を組んだ可能性が浮上してくるからです。次はその可能性について考察してみましょう。(続く)
2018.11.15
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オオナムジ、ナガスネヒコ、徐福、秦氏、それぞれの関係について論じましょう。オオナムジも徐福一行の子孫であった可能性あることは既に説明しましたから、オオナムジも当然、「秦氏」であるかもしれませんね。そのことを弓月の君の一族が知っていたら、オオナムジもナガスネヒコも秦の時代の同族出身であると判断した可能性があります。もちろん現在知られている歴史では、徐福たちは秦の始皇帝を裏切って日本に行ったまま復命しなかったと考えられていますから、始皇帝の子孫を名乗る弓月の君たちから見れば彼らは裏切り者の子孫であり、決して同族ではありません。同族ではありませんが、同じ「秦」という時代を生きた同郷の人たちの子孫ではあるわけです。そこで弓月の君たちは、彼らを同郷人という意味で「秦氏」と見なした可能性は大きいのではないかと思います。そう考えると、なぜ『秦氏本系帳』でオオナムジの子であるタケツノミを「秦氏」と呼んだかが理解できます。オオナムジが徐福一行の子孫であることを知っていた、あるいはそう思っていたからですね。実は中国では徐福=神武天皇説という見方があります。紀元前3世紀と紀元1世紀では300年ほど時代が合いませんが、徐福一行の子孫であるとしたら、一応辻褄は合います。既に説明したように、神武天皇はオオナムジの直系である可能性が強いからです。神武はタケツノミの直系であるイスズヒメと結婚しましたが、それよりも神武は父が天香山だとすると、オオナムジの娘とみられるタカテルヒメの直系であることになります。神武=徐福説は明白な間違いですが、神武=徐福一行の子孫説は十分にありうるわけです。徐福の熊野来航伝説もこの説を支持する根拠になりえます。神武の父の可能性がある高倉下こと天香山は熊野の神「クマノクスビ」でもあります。熊野が徐福一行の拠点であったとすると、その子孫の天香山が熊野の地を支配して、武器や食料の倉庫(高倉)を管理していたとしても不思議はありませんからね。その天香山は、徐福の直系とされるミカシキヤヒメの娘ウマシホヤヒメと結婚しています。徐福一行の子孫であるオオナムジの直系と徐福の直系がここで再び合流したとも解釈することができます。このように、弓月の君らが来日する以前に、既に別系統の「秦氏」である徐福およびその一行が日本に渡来して、熊野や大和を支配していたのだと考えると、彼らの子孫の可能性がある、強力な弓を持つナガスネヒコや薬学や国作りに長じたオオナムジが日本建国史の舞台で活躍していたとしても不思議は全くありません。(続く)
2018.11.14
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再びスサノオとアマテラスの「誓約(政略結婚)」を中心とした系図をご覧ください。神武天皇による大和王朝誕生により、スサノオの出雲族、アマテラスの日向族、ニギハヤヒの大和族、あるいは古代ユダヤ人と思われるオオナムジの一族の血統の統合がなされました。そのときに王統に入れなかったナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの血統(竹内氏によると、徐福の血統)も、開化天皇と崇神天皇を介して入ることに成功して、名実ともに大きな和の連合である大和王朝が完成したわけです。ですから、神武天皇と崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト(初めて国を統一した初代天皇)」という称号が与えられたと考えると、より記紀がわかりやすくなります。さて、ここで元のテーマである「賀茂氏と秦氏」の話に戻ります。この系図のどこを見てもツクヨミ系とみられる秦氏は出てきません。でも、可能性があるのは、オオナムジだと既に指摘しました。『秦氏本系帳』ではオオナムジの息子であるタケツノミを秦氏であるかのように書いていますからね。これは一つの可能性としてありだと思います。でも、もう一つ可能性があることが系図からわかります。それが秦の始皇帝の命令で日本にやってきたとされる徐福です。徐福がどうして秦氏なのかというと、日本各地に残る伝承が根拠となっています。特に有名なのは、徐福が熊野の地(現在の三重県熊野市波田須町)に辿り着いたという伝承です。地名が「波田(はだ)」となっています。「秦」を上陸地の名前に付け、かつその地名を自分たちの名にしたと考えることができます。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としているそうです。 また、ここからは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説を裏付ける証拠になるのではないかとされているんですね。江戸時代(1814年)に成立した「甲斐国誌」によると、山梨県の河口湖や富士吉田周辺では、現在でも秦又は波多、羽田を名乗る家が数軒あり、徐福の子孫だとされています。つまり、秦の時代に日本にやってきたとされる徐福たちは、いつしか「秦」と呼ばれるようになった可能性があるわけです。そうなると、日本の秦氏には少なくとも二系統あることになりますね。秦の始皇帝を祖とする弓月の君の子孫である秦氏と、秦の始皇帝の命を受けて日本にやってきたと考えられている徐福たち一行の子孫である秦氏です。竹内氏によると、ナガスネヒコは徐福の子孫ですから、口伝や伝承が正しければ彼らも秦氏です。では、オオナムジも秦氏と言っていいのでしょうか。次回はこの辺りの考えを整理していきましょう。(続く)
2018.11.13
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再び欝色謎(ウツシコメ)と伊香色謎(イカガシコメ)の系図の説明です。この系図さえ知っていれば、これまで諸説あった崇神天皇の言葉の意味もわかってきます。たとえば、『古事記』で崇神天皇の時代に「武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の反逆」があったときに崇神天皇が大彦に対してタケハニヤスのことを「我が庶兄(まませ:つまり義理の兄)」と呼びます。ところが、私がよく使う三浦佑之氏が訳・注釈した『口語訳 古事記(完全版)』(文芸春秋)や、次田真幸氏の全注訳『古事記』(講談社学術文庫)を読むと、どちらも「原文は『我が庶兄』だが、オオビコの異腹の兄弟(異母兄弟)であるから、『我が』を『なが(あなたの)』と改めて」訳しているんですね。でも、この系図を見てください。オオビコ(大彦)は第九代開化天皇の実兄ですが、彦太忍信の異母兄でもあります。彦太忍信は崇神天皇の異父兄ですから、崇神天皇から見て父親の開化天皇も大彦も義理の兄(庶兄)です。で、反逆を企てたタケハニヤスは大彦の異母弟ですから、当然のことながら崇神天皇の義理の兄(庶兄)に相当するわけです。ですから、原文の「我が庶兄」は正しくて、三浦氏や次田氏が解釈したような「伝え間違い」でもなければ原作者の勘違いでもないわけです。それに「我が」を「なが」にするなら、「なが庶兄」ではなく「なが庶弟」とすべきですね。義母(イカガシコメ)を正妃にした開化天皇のおかげで、系図がかなり複雑になりましたから、専門家でさえ間違えるのも無理はありません。ましてや日本のことをよく知らない『魏志倭人伝』の著者であったならなおさらです。同じ名を持つ日巫女の「トトヒメ」を同一人物だと勘違いしたかもしれませんよね。そこで、『魏志倭人伝』の筆者が孝元天皇の妹であるヤマトトトヒモモソヒメと開化天皇の妹であるヤマトトトヒメを同一人物の「卑弥呼」であると勘違いしたとすると、どうなるでしょうか。実はすべてが説明できることも、この系図からわかります。彦太忍信も崇神天皇も卑弥呼の「男弟」となり、「台与(トヨ)」こと豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)はまさに「宗女(一族の娘)」に相当することがわかるわけです。このことは新装版『誰も知らない世界の御親国』(出版は早くて今月中)にも追加しておりますので、ご興味のある方は是非お読みください。(続く)
2018.11.12
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前回のブログに掲載した系図は、卑弥呼の時代を理解するのに非常に役立ちます。再掲してご説明しましょう。注目すべきは、ウツシコメとイカガシコメ。この二人の王妃(皇后)は、どちらもミカシキヤヒメ、すなわちナガスネヒコ系(ミカシキヤヒメ、別名・登美姫)の直系です。記紀の記述からは、このナガスネヒコ系の直系から祭祀王を出すことを極力隠そうとした節がうかがえます。前にも説明したように、ナガスネヒコは神武の兄イツセを殺した「賤しい奴」ですから、その血統から祭祀王を出すことは何としても防ぎたかったのでしょう。ヤマトトトヒモモソヒメは鴨王系ですが、ナガスネヒコ系ではありません。ところが、彦太忍信やヤマトトトヒメは完全にナガスネヒコ系ですね。ここにジレンマがあるわけです。「倭国大乱」を収めるためには、ある程度かつて大和国を治めた「日本(ひのもと)将軍」ことナガスネヒコの血統を大和王朝の王統、特に祭祀王の王統に入れなければならなかった一方で、大和朝廷内部には「賤しい奴」の血統が祭祀王の血統に入ることに拒絶反応を起こす勢力がいたことが推察されます。そんなことを言ったって、すでに開化天皇と崇神天皇に「賤しい奴」の血統が入っているではないかと思われる人もいるかもしれませんが、竹内氏に言わせると、どうやら統治王と祭祀王では祭祀王のほうが上位であったようです。それに統治王は男系ですから、母親にナガスネヒコ系の血が入るのは構わないけれど、祭祀王となると話は別だったのかもしれません。すると、あくまでも推測の範囲ですが、ヤマトトトヒモモソヒメが亡くなった後、ナガスネヒコ系の彦太忍信が第九代祭祀王に就任して、大混乱になったとも解釈できます。そこで崇神天皇はヤマトトトヒメを鴨王系(天日方奇日方の直系)の「オオタタネコ」として出自を消して、顕祭を執行する伊勢神宮の祭主に抜擢、彦太忍信は幽祭を執行する影の祭祀王にして隠したというシナリオが考えられるわけです。そう考えると、なぜ伊勢神宮の事実上の初代祭主となったヤマトトトヒメが『古事記』からその存在自身を消されたかの理由が納得できますね。そしてそのまま、同じくナガスネヒコ系の直系である崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメが顕祭の祭祀王を受け継いだわけです。一方、幽祭をする祭祀王はその後、彦太忍信の子・屋主忍雄、その子・武内宿禰へと受け継がれます。「忍」とは「秘密を守ること」だと竹内氏は言います。つまり、「影の祭祀王」にほかなりません。あくまでもご本人の主張ですが、その武内宿禰を第一世として、現在は第73世武内宿禰を襲名したのが竹内睦泰氏であったということだそうです。私が2011年に書いた『竹内文書の謎を解く2――古代日本の王たちの秘密』の245ページに祭祀王と統治王の系譜をまとめた系図を掲載しておりますので、それを参考までにご紹介しましょう。(続く)
2018.11.11
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ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメは叔母と姪の関係です。しかも同じ「トト」という名前をもらっています。そこでここからは推測ですが、二人は同じ名前でしかもほぼ同時代の巫女(祭祀王と伊勢神宮祭主)であったため、『魏志倭人伝』を書いた人が同一人物であると勘違いしたのではないでしょうか。彦太忍信(ひこふつおしのまこと)はヤマトトトヒメの異母弟であり、その彦太忍信の異父弟が崇神天皇です。ということは、崇神天皇もヤマトトトヒメの義理の弟ということになります。だからこそ、彦太忍信と崇神天皇のことを男弟とした可能性があります。卑弥呼が亡くなったのは、『魏志倭人伝』の書き方から考えて247~248年ごろではないかとされています。竹内氏の『帝皇日嗣』によると開化天皇は220年ごろ亡くなり、220~254年の間は崇神天皇の時代になっています。竹内氏によると、その崇神天皇の時代において第八代祭祀王であるヤマトトトヒモモソヒメが亡くなり、次の第九代祭祀王には崇神天皇の叔父であり異父兄でもある彦太忍信が就任したといいます。これが『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の死後に立った「男王」のことです。しかしながら、国中の人々はこの男王を認めず、殺し合いを始めたと書かれています。女の祭祀王だからうまく国がまとまったのに、男の祭司王になったら国はまた乱れる恐れがありました。そこで崇神天皇は一計を案じたのではないでしょうか。陰の祭祀王と陽の祭祀王にわけるという極秘の宗教改革を実施したのです。具体的には、第九代祭祀王である彦太忍信を、幽祭を執行させる影の祭祀王として隠しました。同時に崇神天皇の叔母であり義理の姉でもあるヤマトトトヒメを、表の祭司王として顕祭を執行する伊勢神宮の祭主に就任させたのです。彦太忍信は歴史の裏舞台へと姿を消し、ヤマトトトヒメは表の祭事をする伊勢神宮の祭主に祭り上げられたわけです。ただしその辺の事情は『魏志倭人伝』の筆者は知りませんから、ヤマトトトヒメの後に伊勢神宮の祭主となった「宗女・トヨ」ことトヨスキイリヒメ(崇神天皇の娘)が卑弥呼の後を継いだ女王であると記したわけです。すべて辻褄が合うでしょ。本当はこの部分は『誰も知らない世界の御親国日本』(ヒカルランド)の新装改訂版用の前書きに書いた話なのですが、9月の出版予定が遅れ、ブログのほうが先になってしまいました。出版社の都合によるもので、今月中には出るのではないかと担当者は話しています。ここでは一足早く、その系図も掲載しておきましょう。(続く)
2018.11.09
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吉備を平定して大和王朝がようやく大和地方に戻ってきたのは、第八代孝元天皇の時代でした。しかしながら、国は約70年にわたる内乱で荒廃しています。そこで、女性の王「卑弥呼」を立てたのだと『魏志倭人伝』に書かれています。時代考証をすると、卑弥呼は孝元天皇の異母妹である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)であることがわかります。それを竹内氏が継承したという『帝皇日嗣』の系図で説明しましょう。竹内氏によると、古代日本においては、現在「天皇」と呼ばれている統治王のほかに祭祀王がおりました。初代神武天皇から歴代の天皇は皆、統治王です。では、祭祀王が誰かというと、大和王朝の初代祭祀王はヒメタタライスズヒメ。神武天皇の后ですね。ところが、二代目の祭祀王からは、天皇の兄弟である男性が就任するようになります。それを列挙すると、第二代は綏靖天皇の兄・神八井耳、第三代だけは例外でアビラツヒメ系のキスミミ、第四代は懿徳天皇の弟・師木津日子、第五代は孝昭天皇の弟・多芸志日子、第六代は考案天皇の兄・天足彦国押人、第七代は孝霊天皇の兄・大吉備諸進です。2代から6代までは男性が祭祀王を務めました。これが上手くいかなかった原因であると、おそらく当時の人は思ったんですね。少なくとも『魏志倭人伝』の記述を読むと、そのように解釈できます。そこで白羽の矢が立ったのが、ヤマトトトヒモモソヒメであったというわけです。大和王朝の第八代祭祀王ですが、「百襲姫(ももそひめ)」という名前からわかるように、スメル時代の日巫女(太陽信仰の祭祀王)から数えると何と百代目を襲名した日巫女となるのだと竹内氏は言います。それが本当だとすると、大和王朝誕生の背景には2500~3000年の歴史があるということになります。この人事が功を奏して、反乱は収まったと『魏志倭人伝』にあります。では、『魏志倭人伝』に書かれている「卑弥呼を助けた男弟」とは誰でしょうか。二人候補がいます。彦太忍信と崇神天皇です。二人は同母異父兄弟。母親はイカガシコメですが、兄の彦太忍信の父親は孝元天皇で、崇神天皇の父親が開化天皇なのです。どちらもヤマトトトヒモモソヒメの弟ではありませんが、ヤマトトトヒメの義理の弟です。(続く)
2018.11.08
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このようにナガスネヒコ系の血統を大和朝廷の王統に取り入れることによって、ようやく倭国大乱が治まったことは歴代天皇の名前を見ることでわかります。『帝王日嗣』を口伝継承したという竹内氏によると、実は第五代孝昭天皇、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇、第八代孝元天皇という頭に「孝」の字の付く天皇の時代は、『魏志倭人伝』に書かれた倭国大乱の時代(西暦150~200年ごろ)に対応するのだそうです。その時代は、おそらくナガスネヒコ系の残党や吉備地方の豪族に攻められ、大和王朝は大混乱になったのでしょう。竹内氏は、既に孝昭天皇の前の第四代懿徳天皇の時代には九州に逃れ、孝昭天皇の時代には「大和王朝」はボロ負けしていた、と言います。その証拠として竹内氏は、孝昭天皇の二人の息子の名前を挙げます。二人の名称は、天足彦国押人命と日本足彦国押人尊で、どちらにも「国を押す」という意味の名前をつけていますが、それは負けているから付けたのだ、というんですね。スサノオと戦いに敗れて亡くなった天忍穂耳の正式名称が正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と「勝」が三つも入っているのも、負けたことを隠したからだとも言います。それはともかく、「孝」という字には、親によく仕えることとか、親や先祖の供養をするという意味がありますから、四代にわたる「孝」の名前が付く天皇たちは、大和地方から追い出された先祖の無念を晴らすために戦ったのだとも解釈できますね。再び竹内氏によると、ようやく最大の敵であった吉備国に反撃できるようになったのは、孝霊天皇の時代であったそうです。確かに、孝霊天皇の兄の名前が大吉備諸進命となっています。吉備国に皆で進軍したと読めます。その孝霊天皇の子の名前が大吉備津日子と若日子建吉備津日子。二人は孝元天皇の異母兄弟ですが、やはり共に吉備国を攻めたのでしょう。この二人と伯父の大吉備諸進が、吉備国の温羅一族を滅ぼした「桃太郎」であると竹内氏は言います。三人の「桃太郎」たちは、犬養氏(犬)、猿女氏(猿)、鳥取一族(雉)に領地(吉備団子)を与える約束をして、温羅(鬼)と戦いました。そして猿女氏が騙して温羅を切った(裏切った)ことにより、吉備が平定されたそうです。そのことは孝元天皇の正式名称である大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)にも込められていると竹内氏は言います。「国玖琉(くにくる)」とは、国を括(くく)ること、つまり国を一つにまとめたことを意味するわけです。(続く)
2018.11.07
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それは『日本書紀』の崇神天皇紀に、半ば唐突に記されています。まず、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)が大物主神の妻となったとあります。ところが、大物主神は、昼間は現れず、夜だけやってきたというんですね。そこでモモソヒメは夫に「あなたはいつも昼においでにならないので、お顔をみることができません。どうかしばらくとどまってください。朝になったら麗しい御姿を見られるでしょうから」と頼みます。これに対して大物主神は答えます。「もっともなことである。明日の朝はあなたの櫛箱に入っていよう。ただし、私の形をみても驚かないように」形を見ても驚いてはいけない?――モモソヒメは変に思いましたが、夜が明けるのを待って、櫛箱を見ると、とても麗しい「小蛇(こおろち)」が入っていました。その長さと大きさは、ちょうど下紐くらいの大きさでした。その余りにも意外な姿にモモソヒメは、驚いて叫んでしまいます。するとその小蛇はたちまち人の形になって、顔を真っ赤にしてモモソヒメに言い放ちます。「お前は我慢できなくて、(約束を破り)私に恥をかかせた。今度はお前が恥ずかしい目を受けるだろう」そういうと大物主神は、大空を飛んで御諸山(三輪山)に帰ってしまいました。それを仰ぎ見たモモソヒメは悔やみ、ショックでドスンと座り込んでしまいます。その際、モモソヒメは箸で陰部をついて死んでしまったそうです。亡骸は大市(おおち)に葬られました。当時の人たちは、その墓を箸墓と呼んだそうです。以上がヤマトトトヒモモソヒメと大物主神との結婚の物語です。ひどい話ですが、当時の人事・宗教改革の衝撃が見事に描かれているように思われます。キーとなるのは、大物主神の正体ですね。これにはいくつもの解釈が可能です。まず、大物主の正体が大年ことニギハヤヒであることを知って驚いた、と読めますね。あるいはもっとひねって、オオナムジが蛇の紋章をもつダン族の出身であると知って驚いた、とも読めます。そのダン族(蛇族)のオオナムジの娘と大物主神が結婚して生まれたのが天香山でした。あるいは大物主神とミカシキヤヒメの間に生まれたウマシマジの直系(ウツシコメとイカガシコメ)が皇室に入り込んで祭主や皇后になったことを驚いたのかもしれません。小蛇が入っていた櫛箱も象徴的です。「櫛」はスサノオが結婚した櫛名田姫から来ていますから、出雲族の王統のことを意味しています。いずれにしても、大物主神の血統にまつわる秘密が明かされたことを暗示しているのは間違いありません。その秘密を知ったモモソヒメは亡くなります。そこでモモソヒメの姪で、ナガスネヒコ系の血統を持つヤマトトトヒメが大物主神を祀る祭主となったとすると、辻褄が合うでしょ。ナガスネヒコ系の血筋を持たないモモソヒメでは、大物主神の「妻(祭主)」は務まらなかったのです。でなければ、箸で陰部を衝いたので死んでしまったなどというふざけた話にはならなかったはずです。祭主はモモソヒメからヤマトトトヒメに変わりました。この二人が「魏志倭人伝」に伝わるところの「卑弥呼」です。その際、「トト」を「タタ」に変えて、ナガスネヒコ系の血統を隠したというシナリオも十分に考えられるわけです。(続く)
2018.11.06
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オオタタネコがヤマトトトヒメであったかどうかは別にして、ナガスネヒコ系の血統を重視するという開化天皇と崇神天皇が断行した人事に関しては、『先代旧事本紀』にある程度書かれています。既に指摘したように、開化天皇は父の側室であった継母のイカガシコメを正妃にしてミマキイリヒコ(崇神天皇)を儲けましたね。イカガシコメはミカシキヤヒメ(ナガスネヒコの妹)の直系であるオオヘソキの娘です。政治面では、そのオオヘソキを大臣に任命しました。こうして生まれた崇神天皇は、父開化天皇のナガスネヒコ系の血統重視政策を踏襲します。そのころにはオオヘソキに続いて崇神の母イカガシコメの弟のイカガシコオが大臣に就任。さらに崇神天皇は娘のトヨスキイリヒメを、天照大御神を祀る祭主に任命、同じく娘のトオチニイリヒメを、大国魂神を祀る祭主にしたとあります。それとは別の人事・宗教改革は『日本書紀』に非常に詳しく記されています。大物主神を祀る祭主にオオタタネコを抜擢したほか、倭大国魂神を祀る祭主にイチシノナガオチを任命しました。イチシノナガオチは出自不明ですが、倭直(倭氏)の遠祖とされていることから、海部氏系図を信じるならば、天香山とウマシホヤヒメの間に生まれた天叢雲ことイタテの息子の倭宿禰(別名・ウズヒコ、シイネツヒコ)の直系であるとみられます。さらに崇神天皇は、各種祭りの実行委員長とも言える「神班物者(かみのものあかつひと)」にイカガシコオを担当させ、それまで祀って来なかった八十万の群神を祀ることにしました。以上が開化天皇と崇神天皇が断行した人事・宗教改革の概要です。祭主や祭の実行委員長にナガスネヒコの血統を積極的に入れていることがよくわかります。海部氏系図が正しければ、イチシノナガオチもミカシキヤヒメ(ナガスネヒコの妹)の直系です。こうした宗教改革がどんなに仰天な出来事であったかは、『日本書紀』にシンボリックに書かれています。そう、それが卑弥呼に比定されるヤマトトトヒモモソヒメと大物主神との結婚の物語です。(続く)
2018.11.05
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あくまでもオオタタネコの「タタ」とヤマトトトヒメの「トト」から連想して、系図がすり替えられたと仮定した場合の話ですが、ではなぜ「トト」を隠さなければならなかったのか、と言う問題の答えを説明しましょう。それは「ヒヒ」である開化天皇をはじめとして、みなナガスネヒコの妹であるミカシキヤヒメの直系だからです。特に直系の女性が祭主をやることに対して、ナガスネヒコ系の女性を起用することは忌み嫌っていた節があります。ナガスネヒコが神武の兄のイツセを殺した「賤しい奴」だからですね。以前、紹介した系図で言うと、天叢雲ことイタテと、ウマシマジの子ヒコユキの直系から女性の祭主を出したことは、それまではありませんでした。ニギハヤヒとともに大和国を支配していた日ノ本将軍・ナガスネヒコ系の血統が除外されていたんですね。非常にバランスが悪かったわけです。そこでそのバランスを整えるために、崇神天皇はミカシキヤヒメの直系であるヤマトトトヒメを大物主神(ニギハヤヒ)を祀る祭主に抜擢したのではないでしょうか。ただし、ヤマトトトヒメという名前を出すと、ミカシキヤヒメの直系であることがわかってしまうので、ニギハヤヒの直系でオオヤマクイとタマヨリヒメの間に生まれた鴨王こと賀茂別雷神の系図にオオタタネコとして組み入れて、ミカシキヤヒメの直系であることを隠したわけです。そう考えると、なぜ『古事記』からヤマトトトヒメの名前が消えて、『日本書紀』から事実上の伊勢神宮の祭主であったヤマトトトヒメの事績が消えたのかの説明がつきますね。実際のところ、開化天皇と崇神天皇も、ウツシコメとイカガシコメを母親としていますから、ミカシキヤヒメの直系でもあります。開化・崇神両天皇の時代になってようやく、ナガスネヒコ系の血統が大和朝廷の血統に入ることになったとも言えます。それと同時に倭国大乱も鎮まっていったとみることができるのです。(続く)
2018.11.04
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トトとタタ――。音は非常に似ています。そのトトをタタという名前にして系図のすり替えがあったのではないかと私が疑っているのは、実は倭迹迹姫(ヤマトトトヒメ)です。孝元天皇の皇女で、開化天皇の実妹です。母親はウツシコメ。ちなみにトトヒメの実兄・開化天皇の本名はヒヒ、「偉大なるヒヒ(大日日)」です。同じ音の繰り返しを名前にするのは、おそらくこの時代の流行だったのだと思われます。では、なぜオオタタネコのすり替え候補なるのかというと、簡単です。ヤマトトトヒメは『日本書紀』に登場するにもかかわらず、『古事記』からは意図的に削除されているからです。怪しいですよね。というのも、ヤマトトトヒメは『先代旧事本紀』を読んでも、非常に重要な祭主であることがわかるからです。どこの祭主かというと、「伊勢の斎調(いわいのつき)」と書かれています。おそらく元祖伊勢神宮の祭主であったと思われます。そのような重要な祭主の名を『古事記』から消去するのはおかしいですよね。『日本書紀』にもヤマトトトヒメの事績は一切かいてありません。唯一、『先代旧事本紀』と竹内氏が継承したという『帝皇日嗣』に言及されているのみです。なぜ隠さなければならなかったのでしょうか。それはまた次回お話しします。(続く)
2018.11.03
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実は以前、『帝王日嗣』の口伝継承者であるとする竹内睦泰氏に「オオタタネコとは本当は誰なのか」と聞いたことがあります。そのとき竹内氏は「極秘伝なので話せません。ただ、オオは偉大なという意味、ネコは豪族という意味で、本名はタタです。タタという名前から察してください」と答えています。面白いですよね。本名はタタ、「偉大なる豪族のタタ」という意味なわけです。私はその話を聞くまで、『先代旧事本紀』の系図がおおよそ正しいのだと思っていましたが、考えを変えました。もしかしたら、別の血統を隠したのではないか、と。系図のすり替えは、記紀神話では日常茶飯事的に行われています。代表的なのは、天火明。大物主こと大年を日向族の系図に組み込んで、日向族の王統にしてしまいました。まあ、婿養子に行ったと思えば、それほど間違ってはいません。天香山も同様ですね。オオトシの子である大香山が、天香山になって天火明の子になっています。仮に、オオタタネコでもそうした系図のすり替えがあったとすると、誰が疑わしいでしょうか。竹内氏がヒントを言っていますね。「本名のタタ」から察してください、と。「タタ」に似た皇族がちゃんといるんですね。それが「トト」です。どこかで聞いたことがあるでしょ?トトなんて変な名前ですから。(続く)
2018.11.02
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『先代旧事本紀』によると、オオタタネコは鴨王ことクシミカタの直系です。ですから、大筋で崇神の前で語ったオオタタネコの血統は合っているように思われます。ただ違うのは、『先代旧事本紀』では、オオタタネコはタケミカヅチの子ではなく、タケミカヅチのひ孫であるタケイカタスと鴨部のミラヒメとの間に生まれた子になっていることです。三世代分、おおよそ100年分飛ばしているんですね。100年分の系図飛ばしはさておき、ここで重要な問題となるのは、オオタタネコが鴨王こと賀茂別雷神の直系の子孫であるとしていることです。これは、上賀茂神社のご祭神となっている鴨王の血統を復権させることを崇神が重要視したことを意味するのです。ただし、鴨王の血統はそれ以前に、既に大和王朝の王統にも入っています。鴨王と日向の美良姫(ヒムカカムトミラヒメ)との間に生まれたヌナソコヒメが安寧天皇の正妃となり、後の懿徳天皇を産んでいます。しかし系図を見ると、その後、ヌナソコヒメの兄であるタケイイカチ(イイカタスミ)の血統からは王統に入っているものはいません。つまり鴨王の男系の血統は、ちょっと主流を外れてしまった感があります。おそらく、それゆえにオオタタネコを三輪山の祭主に抜擢したのではないかと思われます。この解釈は、比較的素直に系図を読み解いて得たものですが、実はまったく違う解釈も可能だと思っています。それを次にご紹介しましょう。(続く)
2018.11.01
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