全17件 (17件中 1-17件目)
1

先発の望月が1回裏につかまってしまいました。 ボールが先行し、ストライクを取りに行ってはヒットを浴びる最悪パターンです。 5安打を集中されて4点を取られました。 見ていてわかるのは、セットポジションの時にクイック投球ができないこと。盗塁も許しましたが、走られて当然と思えます。 球速は148くらい出ていますから、細かい部分が課題になりそうです。
2017.08.31
コメント(0)

今日はファームの中日vs阪神です。 夜に中日vsDENAの公式戦があるため10:20試合開始の変則日程です。 先発は望月。 1回表、緒方のタイムリーでタイガースが1点先行しています。
2017.08.31
コメント(0)

おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。西軍への参加を決意 大谷吉継は、長浜時代に豊臣秀吉に召し抱えられその側小姓から身を起こしています。秀吉をして「百万の軍勢を預けて采配を振らせてみたい男」と言わしめたほどの武将です。 徳川家康にも可愛がられており、吉継も家康を「天下人の器」と評価して、秀吉の死後は良好な関係にありました。家康が上杉討伐の軍を起こすと、これに合流すべく吉継も兵3000を率いて自領である若狭を発っています。 7月2日、通り道にある石田三成の佐和山城に寄り、蟄居していた三成と面談します。そこで「家康との関係改善のため、お主の嫡男の重家を自分の軍に加えて連れていってやるがどうか」と持ち掛けました。 ところが、三成は応じず、逆に反家康の軍を挙げたいと打ち明けたといいます。吉継は再三にわたって「内府とやっても勝てない」「お主に人はついてこない」などと、思いとどまるよう説得しましたが、どうしても三成は聞き入れません。数日間、美濃の垂井の宿で思案した結果、吉継は三成につくことを決意します。 吉継は上杉討伐軍への合流をやめ、7月14日に若狭城に戻ると、諸大名への工作を開始。7月26日に前田利長が2万5千の大軍で南下を開始すると、抱き込みに成功した丹羽長重にこれを攻撃させて加賀へ追い返しました。このため、関ケ原の合戦には前田は出てきていません。 吉継は戦う前から、水面下で多大な功績をあげていたのですね。指揮官というより、大局を見た戦略や外交交渉に長けた非常に頭の良い武将だったことが想像されます。人気ナンバーワン 大谷吉継は今日でいうハンセン氏病に感染していたといわれています。天正年間の後半には、かなり進行していたようで、次のような逸話が伝えられています。 天正15(1587)年に大阪で開かれたある茶会の席、武将たちが濃茶を回し飲んでいました。そのうち吉継の順番になり、飲んだときに茶碗の中へ顔から膿(うみ)が落ちます。そのあとの順番にいた武将たちは気持ち悪がって飲むふりをして茶碗をまわしました。吉継としてはいたたまれない気持ちだったでしょう。 三成のところに茶碗がまわってきました。三成は膿もろともお茶をすべて飲み干します。そして、「あまり美味いので全部飲んでしまった。あとの人たちのためにもう一杯所望したい」と言って、吉継だけでなくあとの順番の武将たちの両方を救ったというものです。 実話か創作か、はっきり裏付けはないのですが、この振る舞いに感激したことが、吉継が関ケ原で勝ち目の薄い三成についた大きな理由であるという説もあるほどです。 さて、関ケ原合戦のころには吉継の病は深刻になって、視力はほとんど失われ、立ち上がることも困難になっていました。しかし、戦の勝ち負けより友情を重んじ、病に侵された身体で最後まで奮戦します。こうした特異な状況から、合戦に参加した武将の中でも人気度ではナンバーワンとされていますよね。 大谷吉継陣跡「山中村宮上」まずは駐車場へ 関ヶ原合戦で、大谷吉継は三成の本陣の笹尾山周辺ではなく、松尾山を下ったあたりの藤川台に布陣しました。ここへは南からと北から登ることができますが、南側の若宮神社から登ってみます。まず無料駐車場へ。6台程度しか置けないので注意が必要です。 解説のプレートは、この駐車場に設置されています。 登り口は若宮神社の参道です。途中を東海道線が横切っていて、人が通れるだけの小さな踏切があります。 神社の右手の山道を200メートルくらい登っていきます。写真のように、登山道はきちんと整備されていますから、迷うことはありません。 T字になったところがありますから、ここで右に折れて50メートルほど進むと「松尾山眺望地」という場所につきます。松尾山眺望地 吉継は最後まで小早川秀秋に寝返りの危険を感じており、三成本陣の笹尾山周辺ではなく、あえて直線にして1.5キロ南西、笹尾山と松尾山の中間地点に当たる藤川台に陣を敷きました。ここからは松尾山の秀秋の陣地を監視できるからです。実際の眺望です。 黄色い丸の中の頂上で乳首みたいに見えるあたりが小早川秀秋の陣地です。その部分を次のズームした写真で見てみます。乳首状に見えた樹木の左下に、秀秋陣地ののぼりが見えますよね。 吉継本人はほとんど視力を失っていましたが、ここから配下の者に見張らせたのでしょうね。秀秋が東軍につく動きを見せれば対応しようという布陣です。 ここには、最近では珍しくなった記念写真用の顔出しパネルがあります。関ヶ原の中でも、こうしたパネルがあるのは吉継だけです。人気の高さでしょうか。 今度は先ほどのT字を左に進んでみます。 大谷吉継陣跡 しばらく行くと、吉継の陣地跡につきました。解説の立て札もあります。 小早川秀秋が寝返って松尾山を下ってくると、吉継は陣地から輿(こし)に乗って前線へと進出し陣頭指揮を執り、3度にわたって小早川軍を松尾山まで押し返すなど見事な奮闘を見せました。 しかし、吉継とともに小早川に備えていたはずの脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直保が突如裏切って、大谷隊の横から攻撃してきました。 さらにここへ藤堂高虎、京極高知の軍勢まで加わったので、さしもの大谷隊も壊滅します。もはやこれまで。吉継は藤川台の奥へとって返して自刃しました。お墓に行ってみましょう。大谷吉継墓所 陣地から北の方へ300メートルくらい入ったところに墓所があります。 2つお墓がありますが、向かって右の五輪塔が吉継、左の墓石は吉継自刃の介錯をした湯浅五助の墓です。五助については次回書きます。 墓所には「大谷吉隆」と刻まれていますが吉継のことです。一恵斎芳幾の武者絵にもこの名が使われていますが、実際にこの名前が書かれた古文書類は発見されていないらしく、なぜこの「隆」が使われているのかはわかりません。 最後に地図で大谷吉継陣地の位置を確認しておきましょう。 左端下の方の赤字で現在地となっているのが駐車場です。 なお、今回登ったのとは反対に当たる北側の登り口には藤川台の説明書きが立っていますよ。
2017.08.30
コメント(0)

東宝映画「関ケ原」を観てきました 司馬遼太郎原作の長編歴史小説を映画化したもので、2017年8月26日から上映されています。 ポスターにもあるように、はじめて関ケ原合戦そのものを映画化した作品ですが、やっぱり観てみて思うのは、2時間半程度で表現するにはあまりにも短すぎるなあということですね。 まず、裏で行われた情報戦や裏切り工作などはほとんど描けていないです。 本来は戦う以前に、裏での工作によって勝敗がある程度決したとも言われるだけに、そのあたりが描き切れないのは、上映時間の問題で仕方ないのでしょうね。 主役となった石田三成の岡田准一さんは好演していると思いました。ただ三成がかなり勇猛な武将のように見える熱演でしたので、神経質さやある意味「チキン」の部分は表現しきれていませんでした。でも好かったですよ。 一方、役所広司さんは全く問題なく家康を演じられていました。さすがです。平岳大さんの島左近も迫力ある熱演でした。有村架純さんは可愛らしすぎて忍びの役はちょっと無理がありましたね。 有名どころを使っているだけに、その役者の見せ場も作らなければいけないので、主題に取るべき時間が削られ、全体として合戦に至る背景や現地での陣取りなどは説明不足の感じがしました。 東出君の小早川秀秋も、脚本の関係か、迷いに迷った感じではなくちょっと不自然に思えました。実際に映画を観ていただくと、この違和感はわかってもらえると思います。 でも合戦のシーンも工夫したアングルを使うなど非常に楽しめます。 ロケ地はどこだったのかわかりませんが、大谷吉継自刃のシーンでは、実際に彼の最期の地とされる藤川台とよく似た感じの場所で撮られているので臨場感がありました。 終わってみれば2時間半とは思えないくらいスクリーンに集中できた気がします。ぜひともご鑑賞をお薦めしますよ。
2017.08.29
コメント(4)

ヒーローインタビューは青柳や!今日は長いイニング頑張ったからね!
2017.08.19
コメント(8)

2017.08.19
コメント(0)

喫煙所のモニターです。
2017.08.19
コメント(0)

2017.08.19
コメント(0)

盛り上がってまっせ!!!!
2017.08.19
コメント(0)

タイガースファン大興奮!!!
2017.08.19
コメント(0)

大山のタイムリー、梅ちゃんの犠牲フライで逆転やあ!!!
2017.08.19
コメント(0)

やっぱり糸井がいると、らしい打線ですね。
2017.08.19
コメント(0)

しばらく歴史のサイトみたいになっていますが、今日はナゴヤドームに来ています。ただいまタイガース選手が試合前の練習中です。タイガースファンの出足がいいですね。
2017.08.19
コメント(0)

おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。苦悩する三成 石田三成は、秀吉死去ののち、徳川家康が豊臣政権にとって代わろうとする野望を隠さなくなってきていることに焦っていました。慶長5(1600)年6月、徳川家康が会津征伐のため大阪を離れると、石田三成は翌7月、反徳川の兵を挙げます。 しかしながら秀吉にかわいがられていた武将らは、秀吉亡き後、三成が権力をわたくししていると考えるものも多く、さらには島津や毛利の西国大名は本気で戦ってくれるかどうかも疑わしい状況であり、西軍諸大名の足並みは揃いませんでした。 信用できるのは大谷吉継くらいしかいないだけに、「本当に思い描いた戦略通りに進めることができるか?」、と挙兵に当たっては非常に苦悩したと思います。肖像画は年寄りみたいですが、まだ40歳より前です 軍を進めた三成は美濃の要衝・大垣城に入り、尾張と三河の国境線あたりで東軍を迎え撃つつもりでしたが、東軍の先発隊の清州到着が思いのほか早く、伊勢長島城の攻略も失敗。その後は犬山城、岐阜城も落とされたため、防御線は関ケ原まで下がることになりました。 家康の項でも書きましたが、三成は9月14日に赤坂岡山に入った家康を即夜襲せよとの進言にもためらい、家康の陽動にはまって籠城作戦を放棄し、関ケ原に展開してしまいました。こうなっては野戦により決着をつけるほかなくなったわけです。 西軍は、大雑把に見ると、宇喜多軍、小早川軍をかなめに、左翼に三成、右翼には南宮山の毛利という「鶴翼の陣」を敷きます。いずれも関ケ原盆地において有利となる高所を占めていて、圧勝でも不思議ではない非常に優れた布陣でした。 笹尾山遠景 上の旗が三成の本陣、下の旗は島左近の陣地 三成なりに努力もし、根回しもしたのですが、大谷吉継が「お主は人に好かれていない」とズバリと言ったように、人望の無さが敗戦の大きな要因であったのは間違いないのでしょう。三成の能力の高さは今日、見直されています。石田三成陣地「笹尾山」 関ケ原盆地の西北に位置する笹尾山は戦場を一望できる絶好の場所と言っていいでしょう。そんなに高い場所ではありませんがやはり登らなくてはなりません。 次の写真は三成の陣地から南方向の戦場を見た情景です。 現地では、本陣から南方向を眺めたパノラマ写真がパネルになっていますので載せておきます。真ん中を横切るラインは北陸へ向かう北国街道(ほっこくかいどう)ですね。 陣地では足軽姿の案内ボランティアの方が、丁寧な解説をしてくださいます。戦場の地図を広げて、ちょっと軍師になった気分ですね。 笹尾山のふもとには、本陣を守るように、三成の家老・島左近が陣を構えていました。 左近の陣地のそばに、三成本陣のプレートがありました。笹尾山の位置図です。上部赤色で「現在地」となっているところです。 笹尾山を下りたすぐ東に笹尾山文化交流館という施設があります。イベント会場にもなりますし、石田三成関係の資料などもあって、立ち寄ってみたい場所です。 決戦地 笹尾山西軍本陣から南東300メートルのところが「決戦地」です。ここで追い詰められた島津義弘隊が敵中突破で戦線離脱を図り、三成の部隊も壊滅的状態になりました。 三成は北国街道を伊吹山のほうへ逃亡しますが、9月21日にとらえられ、10月1日、京都三条河原で斬首されました。 上から見ると農地の真ん中にあります。決戦地とは思えないのどかさです。 決戦地のプレートもちゃんと設置されていますよ。
2017.08.18
コメント(0)

おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。焦る徳川家康 関ケ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日午前8時ごろ、井伊直政・松平忠吉の部隊が口火を切って戦闘状態に入りました。 徳川家康は、いくら寝返りの根回しがしてあっても、実際には不確定要素ですから、戦いを短期、というより短時間で決着したいと思っていたでしょう。それには、寝返り組に考える暇を与えないうちに、優勢な状況を作り出さなければなりません。 ところが、家康の心中とは裏腹に、戦闘が始まって2時間近く経過した午前10時ころになっても一進一退が続きました。このままでは膠着状態になりかねないうえに、小早川秀秋ら寝返り組は一向に動き出すそぶりがありません。家康は焦ったでしょうね。 本陣のある桃配山は、激戦中の最前線から3キロも離れていて、実際の戦況が好く見えないでこともあり、苛立った家康はもっと前線近くに前進し督戦する決断をします。 ということで桃配山から約2.3キロの陣場野(じんばの)へ本陣を前進させました。激戦地からわずか700メートルほどのところですから焦りのほどが見えます。ここに布陣すると、11時過ぎ、小早川隊の居る松尾山に向け、裏切りを促す威嚇射撃をさせたと伝えられます。 現実的には、陣場野から松尾山まで1.5キロほどありますから、本陣から撃ってもまったく射程外です。近くまで鉄砲隊を差し向けたのか、撃ったという話そのものが脚色なのか、本当のところはわかりませんね。 家康最終陣地「陣場野」 陣場野の最終陣地は、現在は関ケ原町役場のすぐ西側の広場になっています。JR関ケ原駅からも500メートルほどですから、電車を降りて歩いてもすぐに行けますよ。 写真を撮った日は、大谷吉継関連のイベントが行われていました。上の写真ではアトラクションの出演者が舞台でリハーサルを行っています。 最終陣地にも解説プレートがありますよ。 流石にこの近辺には、関ケ原の戦いに関連する場所が多くあります。次の写真は家康の床几場跡です。参考までに、開設の立て札がありますので、どんな場所かは読んでみてください。 打ち取った敵の武将の首を並べて、だれかを確認することを首実検と言いますが、この本陣の周辺で行われました。その名残が次の写真です。 ここは東首塚と言って、首実検後に遺体を埋葬したところと伝えられます。未曽有の合戦で夥しい死者が出たため、家康が埋葬を命じ、竹中重門が東西2か所に首塚を造営したと伝えられています。ここにも解説のプレートが設置されていますよ。 周辺では関ケ原町が観光客や歴史愛好家のために面白い企画をしてくれています。まず、街中の電柱に施された武将紹介プレート。参加した武将の紹介が町中の随所にありますから、周辺を歩きながら知識を得られて、なかなか参考になります。 次に、関ケ原豆知識というプレート。これも電柱に設置されています。これには正史とは別の裏話的なものも書かれていて、非常に面白いので、何枚か写真を載せます。 こういうプレートが全部でいくつあるのかわかりませんが、ざっと見ただけでも相当な数があります。これらもこの2年くらいに設置されたもののようです。真新しさがあります。 近くには関ケ原町歴史民俗資料館があり、合戦の資料などが詳しく紹介されています。また、売店も併設されているので、お土産などにも困りません。 資料館の隣には関ケ原ふれあいセンターがあり、ここの広場もイベント会場などでにぎわいます。写真を撮り行った日に行われていた大谷吉継イベントの様子です。 ということで、3回続けて徳川家康の陣地をご紹介しました。次回は石田三成の陣地関係につて紹介したいと思います。
2017.08.17
コメント(0)

三成の逡巡~決戦地は関ケ原へ 慶長5(1600)年9月14日に徳川家康が岡山に入り、杭瀬川を挟んで前哨戦があったのち、大垣城の石田三成陣営では、島津義弘が「陣営整わぬ東軍に対し、今宵のうちに夜襲を仕掛けるべし」と進言します。 三成が防備堅固な大垣城に居ることが大きく、家康が時間のかかる城攻めを避けたいと思っているのは想像がつきます。大垣での激突は望んでいないだろうと考え、逆にここで決戦に持ち込んで長期戦に引きずり込んでしまおうというのが、義弘の進言だったのではないでしょうか。岡山本陣周辺の東軍配置図 しかしながら、家康側は岡山を引き払って西進する様子を見せます。おそらく大垣城下にもそのような情報を流したのかもしれません。三成としては、このまま秀頼の居る大阪へ攻め上られてはたまったものではないし、国境を超えた近江には三成の居城・佐和山城があり、これを落とされてもいけません。 家康が西に進軍するそぶりを見せたのは、長期戦となる城攻めを避け、得意の野戦に持ち込みたいという誘導だったのではないかと推量できます。 三成は義弘が進言した岡山攻撃を避け、関ケ原に先回りをして迎え撃つ戦略を選択しました。家康側の思う壺だったような気がしてなりません。一方、義弘は三成に対し不信感を抱き、急速に戦意をなくしていきますが、これは別に島津の関係で書きます。家康現地最初陣地「桃配山」 西軍は暗いうちに大垣城を出て関ケ原に移動し布陣します。 この動きを見て家康も軍を動かし、本陣を岡山から桃配山(ももくばりやま)へと移しました。 両軍が移動したとき、関ケ原盆地は深い霧に包まれていたと伝えられます。9月15日午前8時ごろに霧が晴れ、東軍井伊直政、松平忠吉の軍勢が、西軍の宇喜多秀家隊に襲い掛かって戦いの火ぶたが切られました。 ということで桃配山の家康本陣跡です。JR関ケ原駅から東へ2キロほどで、国道21号線沿いにあります。激戦地からは直線で3キロ近く離れています。 少し上に登っていくと、見晴らしのいい平らな場所に出ます。そこが家康の本陣です。 ここには「最初陣地」と刻された碑があります。前のブログで書いたように、非公式サイトは赤坂の岡山を最初陣地と考えていますが、桃配山は「関ケ原での決戦」という切り口で見た場合の最初陣地と言っても間違いではないでしょう。 家康が腰かけたとされる腰掛石やテーブル状の石があります。でも、落ち着いて腰かけていられたのかどうか? 確かに椅子とテーブルだと言われると、そのようにも見えます。 ここにも、関ケ原町が設置した立派な説明プレートがありますよ。 桃配山の本陣から決戦地の方角を眺めてみましたが、大きな木が邪魔をして視界を妨げていました。 当時は見えたのでしょうけど、やはり遠いですね。 実は、桃配山は安全とは言えない場所です。東後方2.5キロの南宮山(なんぐうさん)には、西軍の毛利秀元が1万3千の兵を率いて陣取っています。毛利軍は西軍の「鶴翼の陣」の右翼であり、家康の本陣は敵の陣形の中に突っ込んでおり、前方約3キロには小早川の松尾山、後方に毛利の南宮山という位置関係にあるわけです。 しかし、家康は毛利が動かないことに関して、確信に近いものがあったらしいのですね。 これについては毛利秀元関連で書きたいと思っています。
2017.08.15
コメント(0)

おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していきますのでご注意ください。 今回は関ケ原の戦いまでの簡単な経緯についてから見ていきましょう。少し長くなりますが、お付き合い願えれば幸いです。増長する家康 慶長3(1598)年豊臣秀吉が、翌慶弔4(1599)年、五大老の前田利家が没すると、過酷な朝鮮出兵などで文治派に積年の不満を持つ福島正則らが石田三成を襲う事件がおきます。 窮地に陥った三成は、不本意ながら伏見城にいた徳川家康に仲裁を求め、事なきを得ますが、その代わり佐和山城に蟄居させられてしまいました。 その後、五大老の上杉景勝、前田利長、毛利輝元らが相次いで大阪を去り、集団指導体制が崩壊すると、大阪城は家康の独り舞台になります。慶長5(1600)年4月、国許へ帰ってから黙々と軍備を整えている上杉景勝に対し、家康は、上洛して弁明するよう要求しました。しかし、上杉側は翌月、有名な「直江状」によって上洛を拒否します。こうなっては「豊臣政権に対する謀反の疑いあり」として征伐軍が編成され、家康は6月16日、軍を率いて大阪城を出立していきました。 石田三成の挙兵 家康が東国に向かうと、佐和山城に蟄居していた三成は、「このままでは政敵を次々と制した家康が豊臣の天下を覆すに違いない」として、活発に動き出します。三成は7月17日に毛利輝元を大阪城に入場させると、諸大名に反徳川の挙兵を呼びかけます。翌7月18日には鳥居元忠が護っていた伏見城を攻撃して戦いを開始し、近江を経て美濃へ軍を進め、8月10日には要衝・大垣城を接収し入城しました。 大垣城 会津征伐の中止 大阪を留守にし、わざと隙を作って三成の挙兵を誘った家康は、7月25日、遠征中の小山(栃木県小山市)で評定を開きます。すでに様々な根回しがなされていたため、この評定では福島正則が「儂は内府殿とともに三成を討つ!」と口火を切ったと言われています。秀吉子飼いの譜代大名であるにもかかわらず、三成憎しで凝り固まった正則は、関ケ原でも重要な働きをします。それはまた別の機会に。 福島正則 これに真田、田丸を除く諸将が同調し、会津討伐軍は三成討伐軍すなわち「東軍」へと変わったわけです。東軍は正則の領地である尾張清州を目指して転進を開始しました。 徳川家康、岡山へ着陣 東軍が戻る前に尾張を抑えたかった西軍でしたが、諸将の戦意にバラつきがあってもたついていました。その間に福島正則、池田輝政は清洲に帰着し、8月22日には岐阜城、犬山城などを落としています。そのため三成は防御線を関ケ原まで下げる戦略変更を余儀なくされました。 勢いに乗った東軍は、西美濃に軍を進め、東山道(後の中山道)の赤坂宿を中心に集結して家康の到着を待ちました。9月1日に江戸を出立した家康の本隊は、9月14日正午ごろに美濃赤坂宿へ到着。家康は岡山に設営された陣地に入りました。 家康最初陣地「岡山」 というわけで前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。 岡山は、中山道赤坂宿のすぐ南にあり、標高は53メートル。「山」と言うよりは「丘」です。次の写真の真ん中のこんもりとしたドーム状の山ですが、これを見ても「丘」って感じですよね。現在の大垣市赤坂町にあります。 ちょうど昼食時に到着した家康は、この陣地から眼下で繰り広げられる「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」を、握り飯を食べながら見ていたと言います。次の写真は岡山の山上の平坦部。ここに家康がいたんですねえ。当時、ここから大垣城も見えたはずです。 「杭瀬川の戦い」は、家康の着陣に動揺した西軍将兵の戦意を立て直すため、三成の家老である島左近や宇喜多秀家配下の武将・明石全登が仕掛けた前哨戦でした。西軍の攻撃で、東軍の中村一栄の部隊に多くの犠牲者が出ると、家康がすばやく撤退を命じたので、結局は杭瀬川を挟んだ小競り合いに終わった感があります。 現在、岡山の地名は「勝山」となっています。地元では一般的に「おかちやま」と呼ぶことが多いですね。家康が、関ケ原合戦の後、最初に着陣した縁起のよいこの丘の名を、戦勝にちなんで「勝ち山」と改めたのだと伝えられています。第二次大戦末期には、米軍の空襲に対する高射砲陣地となった時期もあり、その碑も残っています。やはり戦争に縁のある場所なんでしょうか。 この岡山本陣跡東斜面には、西暦593年創建の紫雲山安楽寺があります。 境内に入ってみると次の写真のように、本堂の扉や屋根瓦など、あちこちに「三つ葉葵の紋」が施されていて家康ゆかりであることがよくわかります。戦勝後に家康から定紋としての使用を許されたようです。 次回は、関ケ原合戦現地における最初陣地とされる「桃配山(ももくばりやま)」を紹介しますが、戦後に「勝山」と名づけたように、家康は、この岡山を合戦の最初陣地ととらえていたと思われます。 また、家康は慶長10(1605)年ころ、赤坂宿に「お茶屋屋敷」という将軍家専用の宿泊所を完成させます。家康や秀忠も上洛の際の行き返りに宿泊したようで、万一に備えて城郭としての造りになっています。関ケ原合戦の戦勝によって、家康はこの地方に一方ならぬ愛着を持ったのでしょうね。 風情があるお茶屋屋敷の門 お茶屋屋敷跡は現在では県指定の史跡になり、庭は「ぼたん園」として一般に無料で開放されています。4月~5月が見ごろで、約150種類のぼたんの花が次々と咲き誇り、訪れる人の目を楽しませています。
2017.08.14
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1