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恐らく、地上で誰よりも多くの職業を経験した人物は、BOSSのCMの宇宙人ジョーンズかもしれないが、巷ではよく、「今度生まれ変わっても、同じ仕事をしたいか?」という質問がされるが、先日、録画した番組で、復活したプロジェクトXをみたつもりだったが、実はプロフェッショナルという別番組であったのに、あとで気づいたが、NHKの番組はどれも似たような金太郎飴モノなんで、どうでもいい違いなのだが、職業とは一体なんのためにあるのか、を感じさせる話で、面白かったので、紹介する。宇宙人ジョーンズ (うちゅうじんじょーんず)とは【ピクシブ百科事典】それは、世界一を6度受賞し、幻のコメをつくるコメ農家の話だった。24時間四六時中コメばかり考えているという、まさに天職というコメ農家の話なのだが、もともとはプロスノーボーダーで、当初、父親がやっていたコメ農家になるのがダサく感じ、大嫌いで、農家を継ぐのが嫌で、プロスノーボーダーになったという。新プロジェクトX〜挑戦者たち〜 - NHKプロフェッショナル 仕事の流儀 - NHKというのも、父親は、当時斬新的な有機農法をはじめたばかりで、苦労の連続のわりには、収穫がよくなかったのもあり、ドンくさくみえたせいもあったらしい。それが結婚して、家族を養うために、プロスノーボーダーの仕事以外に、副業として、父親の有機コメ農業を手伝ううちに、コメ作りの大変さに刺激を受けて、自然と格闘するコメ作りの魅力にとりつかれ、コメ農家がカッコいいと思うようになったらしい。親子二代の、幻のコメつくりの秘訣は、より多くの生命が生きるような自然循環の水田をつくることにあるらしい。有機農法は手間暇がかかるし、コストもかかる。手間暇やコストがかかる、ということは、それだけ農業への愛情が必要というわけで、ローマは一日にして成らずで、幻のコメをつくるまでの自然との格闘は熾烈を極めたようである。何事もやはり愛情がなければ、愛情はかえってこない。だから、キリストは、愛されたければ、愛しなさい、と言ったわけなんである。何事も愛がなければ生まれない。愛こそ苦難苦悩の糧ともいえるかもしれない。宇宙の意識は愛である。自然と格闘する職業といえば、コメ農家などの農業がすぐに挙がるが、以前紹介した「前世からのメッセージ」で著者の知人のカウンセラーが、成績不振なプロゴルファーに、ゴルフコースを楽しむことをアドバイスしたら、飛躍的に成績が向上したエピソードから、プロゴルファーも広い意味で、自然と格闘する職業といえるかもしれない。ゴルフコースは人工的につくられた自然のコースだが、天候は人工ではない。そして、そういう意味でいえば、スノーボーダーも冬の自然のゲレンデと格闘するスポーツといえるわけで、プロスノーボーダ―からコメ農家への転向は、冬だけでなく、オールシーズンでの大自然との格闘といえる。このように広い意味で考えると、自然と格闘する職業と、都市化した人間社会をつくる職業にわけられるかもしれない。それは植物に例えると、前者が大きな樹木をもつ植物で、後者はその上に根を張る寄生植物といえるかもしれない。自然と格闘し学ぶ職業と、その恩恵から、人工の自然環境をつくる職業にわけられる、といえるかもしれない。このような職業の分け方は、一次産業、二次産業、三次産業で有名だが、改めて考えてみると、職業は、産業革命とともに、分業してきたといえるかもしれない。すると、四次産業革命と共に到来する分業が、AIに関わる知的社会つくりで、それはヴァーチャルな人工社会として到来している。いずれにしろ、地上人の地球への愛情表現の違いでしかなく、その愛情が巡り巡って地上人の知性を育んでいるわけなんである。しかし、愛情が深くなっているかといえば、時代と共に利己的になっている分、ますます浅くなっているといえるかもしれない。だから、だんだん土台というよりも、寄生的で、詐欺的な知性になっている。第5次産業革命(インダストリー5.0)とは?日本の製造業・Society 5.0との関係を考察 | 製造業関連のお役立ちメディアならNikken→Tsunaguこのような寄生的な知性から、根本の土台的な知性に回帰するために、そこでもし、なぜ地上に人間は生まれるのか?と問うのなら、古代叡智の答えは、多様な愛を学ぶため、であるのがわかる。だから、巷でよくみられる、「もし生まれ変わったら、同じ職業につくか?」という質問の答えは、また別の愛を学ぶために、同じ職業にはつかない、となるだろうし、シュタイナーは前世とは同じ職業につかないように、アストラル体が、14歳から21歳の思春期に活動する、と述べている。エーテル体は、前世の職業から得た経験、愛の表現を、7歳から14歳までに肉体に引き継ぐように活動するという。例えば、前世でよく運動した職業の人は、その経験で、脳を構築するので、知的職業に就きやすくするという。だから、数学者の前世は、地球を動きまわった旅の職業経験をもつという。エーテル体は、前世から、職業の才能を受け継ぎ、アストラル体は、それをアレンジして、前世とは異なる職業に就かせる働きをするという。でないと、また同じ愛を経験する千日手になり、愛の進歩がないからだ。だから、ただ一回の人生と思って生きるだけでなく、その一回は二度と同じ人生では生きない、という意味の、また別の人生を転生していくための、貴重な一回きりの人生で、いま就いている職業は、一回きりの人生を生きるための愛の学びの貴重な職業となる、というわけなんである。だからして、二度と同じ職業にはつかないわけなんである。だから、例えば、大谷選手はベーブルースの生まれ変わりといわれても、実際は、同じ職業には就かないので、大谷選手はベーブ―ルースの生まれ変わりではなく、大谷選手も来世で野球選手になることはないはずなんである。だから、大谷選手は野球で成功したが、次の転生の職業では必ず成功するとも限らない。野球とは違う、他のその時代に沿った職業をやるだろう。野球を究めて、成仏すれば、もう生まれ変わらない可能性もあるが。さて職業といえば、先日、映画監督スピルバーグの自伝「映画と人生」をBS番組でみたが、スピルバーグは幼少期の家庭環境、転勤の連続や父母の正反対の性格の不一致、後に離婚したが、その孤独感から、常に不安や恐怖感に満ち溢れていたという。スピルバーグにとっては、映画とは、幼少期の、その不安や恐怖感を記録する手段なのだという。面白いのは、映画監督になる切欠が、13歳のときの家族旅行で、8ミリカメラを渡され撮影係を頼まれたからだという。人智学によれば、14歳から、アストラル体が、前世の職業とは異なる職業につくために活動をはじめるから、スピルバーグのアストラル体は13歳から活動をはじめ、映画監督という職業がなかば天職だったのがわかる。特に映画「激突」や「ジョーズ」は、この自伝の話から、幼少期の不安や恐怖感を映像化した作品なのがわかる。スティーヴン・スピルバーグ - Wikipediaつまり、エーテル体は、7歳から、前世の職業の経験を才能として肉体に割り当てるが、スピルバーグの場合は、不安や恐怖感を、孤独のなかで、感じ取る能力だったのかもしれない。晩年のスピルバーグは、ユダヤ人差別についての作品をつくるようになり、幼少期の孤独による、自然に対する漠然とした不安や恐怖感から、大人に成長するにつれて、人間の支配による不安や、恐怖感、そして、自然を超える宇宙人による不安や、恐怖感というように、自然、人間、宇宙人のジャンルの違いがあるが、スピルバーグの作品全般には、人間が、不安や恐怖感をどう扱うかがテーマとして流れているのがわかる。ある意味で、スピルバーグのエーテル体が、不安や恐怖感を感じる感性をつくりあげて、アストラル体が、それを克服するための、映像化の作品をつくりだすのがわかる。スピルバーグは、自分は映画監督になることで、不安や恐怖感の現実の深刻さを逃れてきた、と述べている。不安や恐怖感という悪魔と格闘せずに、その姿を映像として焼き付けることで、不安や恐怖感を克服するやり方といえるかもしれない。不安や恐怖感に冷静に向き合うことで、例えば、お化け屋敷に入っても、全く怖がらない人には、お化けもやりがいを感じないように、不安や恐怖感が問題なのではなく、それを恐れて向き合わないのが問題なのかもしれない。不安や恐怖感は、それを感じる側にも問題があり、快川和尚の説く、「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのかもしれない。例えば、地上波の番組「酒のツマミになる話」で、ある女優が、不安や恐怖感を感じなくするには、エロいイメージを想いうかべればよいと提案していたが、スピルバーグは、映画をとることで、映画監督として、不安や恐怖感を、ホラー映画の見せ場の、エロいイメージに変換していたのかもしれない。不安や恐怖感とは、何かを失うと思うから、ネガティヴなイメージになるわけで、失うものがなければ、そもそも肉体がなければ、何も失うものがなく、肉体の死が、死ではなく、キリストのような、再生のための死で、新しい転生のための死であるのなら、不安や恐怖感も無くなるわけなんである。勿論、スピルバーグのように、成功しなかった映画監督もいるだろうが、それは、たまたま時代にあわなかっただけで、次の転生には、映画監督の経験がまた違う職業のために生かされるから、人生に無駄な経験はないのである。というわけで、このブログも自分勝手に好きな事を書いているが、次の転生には、この無駄と思われるような書き込みも、次の転生の職業に生かされるはずなのである。だから、成功も失敗も人生にはなく、ただ貴重な愛の経験を積むための、一回切りの人生の経験のための職業があるにすぎない。晴天のときには、無駄でお荷物な傘が、雨が降ると、濡れずに済む、雨よけになる。いまの人生ではお荷物な経験が、次の転生での能力となる。だから人生には無駄はない。ただ無駄にみえる無知さがあるだけである。失敗は成功の元なのである。
2024年12月03日
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スウェデンボルグとは、話せば長くなり、その著書を読めばわかることなので、かいつまんで話すと、元々は、中世の有名なスウェーデンの科学者だったが、あるとき霊界からの訪問を受けて霊能者となった人物である。ボルグの父は、有名なキリスト教の神父で、自分の子(つまりボルグ)が、その当時流行の科学に染まるのを如何わしく思っていたという。この状況は、現代では、まるで正反対である(この正反対性には訳がある-後述)。 だが、ボルグは、父のキリスト教の影響には染まらずに、一旦、科学者として身を興し、鉱山省かの技術監督官になり、スウェーデンの学術雑誌を創設するに至るが、あるときから、霊能者になり、それまでの科学的研究や発表が馬鹿らしくなり、霊界探求記を書くようになる。 ボルグが、霊界への訪問が可能になったのは、彼が「死の技術」と呼んだ、いわゆる秘教学でいう「秘儀参入法」を獲得したからである。 さて、この死の技術、つまり秘儀参入法を簡略して以下に述べる。 秘教(神秘)学では、人間の存在を4つに大別している。肉体、エーテル体、アストラル体、自我である。ここで、特にその呼び名に拘らないが、ただ注意すべき点は、この4体の基本的性質の相違にある。肉体は、物質(鉱物)からなり、エーテル体がなければ、自然に崩壊するものである。つまり、肉体は、エーテル体のお陰で、その形態を保つことができる。 肉体の形態を保持するエーテル体は、アストラル体により制御される。アストラル体は、自我により制御されるという構図が重要なのである。 この4つの体は、人間の意識の持ち方で、変化する。簡単にいえば、自我が、他の3つの体を統合制御しているのである。つまり、意識の本体は自我にあるという。 しかし、この4つが1つ、つまり四位一体(実際は三位一体の構造;(肉体、エーテル体、アストラル体)=自我)となっているのは、人間が覚醒時のときであり、睡眠時は、自我とアストラル体は、エーテル体と肉体を残して、外に出てしまうのである。 この睡眠時の人間の状態、つまり肉体とエーテル体を、後(物質世界)に残してアストラル体と自我が、精神世界に旅をしている状態を、ボルグは死の技術と呼んでいるのである。ただし、これは外見的な構図の意味において、同等であって、つまり、従来の科学で同一視できるという意味で、本来、精神的な意味においては、大いに異なるのである。 注意して欲しいのは、精神世界と物質世界は隣接というか、そっくりそのまま同じで、ただチャンネル(波動の周波数)が異なるのである。波動を粗く(エネルギーが有限の正の状態)すれば、物質世界が映り、波動を細かく(エネルギーがゼロ以下の負の状態)すれば、精神世界が映るという関係にある。 従来の科学では、エネルギーが有限の正の状態しか扱えないので、この精神世界をなんらかの観測機械によって確認し、証明することはできない。だからして、科学が探求できるのは、その最先端の縁まで、せいぜいエネルギーがゼロの領域までであり、そこから先は、科学でない手法を開発するしかないのである。 エネルギーが有限の正の領域を、なんらかの観測機械により、観測し、論理体系づけるのが科学の手法である。つまり、科学の手法とは、エネルギーを感知する能力に負っているといえるだろう。 端的にいえば、科学とは、人間のエネルギー感知能力を示すといえるだろう。 そこで、エネルギー感知能力が、ゼロや負の領域に及ばない限りは、科学では証明できないが、代わりに、数学的な探求により、代替的に仮説として証明できるのである。ただし、それを科学的実証とはいわないだろうが、これは、例えば、超弦理論を、科学とするかどうかの問題にも帰されるだろう。 さて、このエネルギーがゼロや負の領域への探求を、物質をあらかじめ仮定し、定義した従来の構造体を問題とする科学体系からは、非常に困難といわざるをえないだろう。なぜならば、科学体系は、物質のみを扱うことを想定しているからである。物質でないものを物質で扱うことはできないだろう。 これは、波動でいえば、物質波を構成する波長(プランク長)を基に、量子化が成立している条件から、量子化ができない波長は、ここでは問題とされず、存在しないことになる。しかし、この波長には、負のエネルギーや、摂動による繰り込み現象も加味されているのである。 つまり、実証できないが、その裏ではその存在が想定されているというカラクリなのである。一体、量子化の条件を生じさせているのは何者なのかは問わず、ただ量子化の空間にその性質を負わせているといえる。 とりあえず、科学的立証は限界で、それを度外視して、改めて、古来からの秘教(神秘)学的手法を考えてみると、興味深いことが明らかになる。 太古では、人間の感知能力は、現代とはまるで逆で、つまり、上述でいうならば、ゼロや負のエネルギーレベルの感知力であったことがわかるのである。太古人は、現代人のようにはっきりと物質をみたのではなく、オーラといわれる、物質を取り巻いてそれを構成する素をみて、物質を想定したというのである。 これは、いわば現代人が、量子力学で数式上に想定した確率波からなる電子雲のことを、太古人は、みていたように思われるのである。太古人は、電子雲から、物質を想定する感知力をもっていたようである。しかし、現代人は、物質から、数式により、電子雲を想定するのである。つまり、全く逆の視点にあるといえるだろう。 太古人は、電子雲をみて、幾何学から、物質を想定し、現代人は物質から、代数学により、電子雲を想定するといえる。 太古人の感覚は、いまでいうゼロや負のエネルギー感知能力にあったといえるのである。 秘教学によると、この感覚は、月の認識と呼ばれる。秘教学によると、かつて地球と月とは一体であったという、そのとき、その地球と月は、月と呼ばれていたという。勿論、そのときの月は、いまの地球のように物質性のものでなく、この物質状態を神秘学では、土(固体)状態と呼んでいるが、月はそのとき、神秘学でいう水(液体)の状態だったという。地球の潮汐力は、そのときの名残であるという(科学では、この潮汐力を月の引力に言及しているが間違いで、見かけ上連動しているようにみえるだけだという)。 神秘学では、月といっても、今ある衛星の月だけを意味しているのではなく、地球の外周を含んで月の軌道までを、全て、月の領域とする。衛星の月は、その境界を巡っている、いわば細胞の核のような存在だとしているのである。このことは、受精卵の外縁部のある一点で、細胞(受精)膜の厚みが増し、次に包接(核の融合)が起こって一種の核が形成されることと無縁ではなく、この核は、衛星の月と似た存在だという。 このような水の状態の月が、地球と(衛星の)月に分かれ、同時にそのとき、古代人も、月に住むものと、地球に住むものに分かれたという。ただし、大きな違いは、地球に住むには肉体を必要とした点であったという。 地球に住む人間は、肉体が必要なので、この土状態を認識すべく、魂(自我とアストラル体)は、これを感知するように、訓練してきたといえる。つまり、エーテル体を変容させてきたのだろう。月に住む存在は、かつてのエーテル体をそのまま保持しているので、物質(土状態)を認識することはできないが、我々地球に住む人間は、勿論、肉体に受肉するに際し、適合し、土の状態を認識可能にする変容を遂げたのである。この状態を、聖書では、アダム(土状態)と呼んでいるのだろう。 話を元に戻すと、死の技術とは、自我とアストラル体、つまり魂を、肉体とエーテル体から離し、かつ、かつての月の認識である、ゼロと負のエネルギーを感知する能力をもつことを指すものと思われる。 このような技術をもった人間は、同時に、月認識を所有するので、月に住む存在とすぐにしかも間近に出会うわけである。なので、あまりに地球存在(土状態)に馴れた人は、このとき、驚嘆、驚愕せざるをえないだろう。しかも、危険なのは、この月状態に馴れすぎると、今度は、地球の肉体に帰れなくなるのである。 また、他の地球に帰りたい欲望をもつ魂(自我やアストラル体)等に、肉体を奪われる恐れもある。特に、自縛霊のような、自分が、死んだことも意識できない存在は、この月意識ももたないので、ある意味、地球存在に近く、エーテル体が類似したものであれば、容易に肉体に憑依できる恐れもあるだろう。 秘教学でいう霊媒とは、このエーテル体の憑依体質、つまり月存在に近いエーテル体を指すようである。だから、このようなエーテル体をもつ人に、催眠術や魔術(狐狗狸さん)をかけるのは非常に危険で、厳禁といえる。 月に住む月存在たちは、地球に住む人類よりも高度に知性的で、いまでも、特に人類のエーテル体に関心を寄せ、機会があれば、影響を及ぼそうとしているという。なぜならば、月に住む環境、つまり地球を自らの都合のよいように変化させたいからであるという。 地球人が、物質的に地球を快適にしたいのと同等に、月に住む存在も、精神的に地球を変えたいのである。それは地球人のなかにも、従来の地球の環境を守ろうとする人々もいるように、月に住む人も、自分たちのために、地球を変えようとはしない、人類思いの存在もいるという。つまり、宇宙には善人もいれば、悪人もいるというわけである。 次に問題は、このような悪の存在がどうして存在するのかというところにいくだろう。善人つまり、全能なる神々の存在になるには、その能力に応じてあらかじめ果たすべき役割が既に決まっているという。進化度合いに合わせて、果たすべき課題が、王道として決定されているようである。これは地球上の学校のカリュキラムが編成されているのと同様である。例えば、技術者になるためには、学科1年次に、どの教科を履修しなければならない等といったことであるという。 このような王道、つまり神々の正統な進化基準とは別に、この進化基準から逸れた、これとは別の他の進化を担う、いわば自由な存在が必要であるという。 このような自由な存在のお陰で、人類は、神々とは別の進化を目指すことも可能なのであるという。これらの存在は、地球上での、技術を、時間を超えて伝授する存在だという。正統な進化基準に従わないからこそ、人類が自らの忍耐と努力で、自主的に、未来に獲得する予定になっている技術(能力)を、現代に先見的にもたらすことができるという。科学技術の多くは、このような存在から、いわば早熟のものとして受け継がれてきたという。 悪とは、時と場所を間違えた善なのである。 月の存在の善であるものは、蔭で、援助することはあれ、人類の自主的な忍耐力とその努力を信じて任せる立場をとり、自ら月の立場を進化させることに専念するが、悪であるものは、他に介入し、自らの野望を遂げようとする傾向にあり、かえってそのことが要因となり、自滅することになるという。 月の存在が、地球に介入することになり、その介入が仇となって、もはや今度は月にその進化形態を担うことができずに、月でのその悪となった存在は脱落するのである。そして、その未来にもたらすべき善が、早産という形となることにより悪となり、もはや善の存在でいられなくなり、自滅してしまうのである。 しかし、このような悪の淘汰により、善の正統な存在が与えられる慈悲を重んじなければならない。 実は、善人になるには、自らが、自主的に決断する必要があり、自らの能力に応じ、独立して、その立場を獲得しなければならないという。これには多大なる忍耐と努力を必要とする。善人になるには、道は1つで、ただ宇宙から与えられた役割を自己犠牲の下に、果敢な自由意志をもってやり遂げていくしかないのである。それには非常に長い困難で険しい道のりを有するという。
2007年02月20日
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さて、とても容易に表現できる原現象もある。そのような非常に単純な原現象を紹介する。 「両足を水に入れるがよい、すると汝は血液調製の促進力を下腹部に呼び起こすだろう」というものである。 また、非常に指針となる原現象をも獲得する。 「頭を洗うがよい、すると汝は排泄の調整力を下腹部に呼び起こすだろう」。 実際、これらは、非常に教唆の多い原現象である。原現象そのもののなかに法則性、真実が存在しているからである。このような原現象を述べるとき、人間が、原現象の内部に存在する。というのも、人間を考えなければ、無論、このような事実は何の意味も持たないからである。このような事実全てにおいて、人間を考えることに、非常に大きな意味がある。 さて、これらはまた、人間の生体組織における諸力の空間的な相互作用を示す。しかし、時間的な相互作用も存在し、例えば、子供の頃か、青少年期の初めに、間違った扱いを受けた結果、青少年期や子供時代に育成されるべき作用が一生を通じて育成されず、本来は年配になってから育成されるべき作用が既に育成されてしまっているような人を観察する場合にしばしば現われてくる。 実際、人間は、幼少期において既に、自分の生体組織を形成していく、ある力を発達させている。しかし、青少年期に、形成される生体組織全てが、青少年期のうちに正しく使用されるわけではない。 青少年期に、形成される生体組織のある作用は、年配になってから、ようやく活動を始める(器官)組織をとっておく為でもある。つまり、子供の頃すでに、ある器官とでも呼べるものが構成されるが、これは子供時代に使用されるべきものではない。年をとってからでは、もうこの器官を作り出すことができないので、年をとってからの使用の為に、この器官が備蓄される。 例えば、歯が生え変わるまで人間は模倣を通じて、教育される必要があり、更に歯が生え変わってからは、権威という存在が大きな役割を果たすように教育され、育成される必要があるということが、全く考慮されないなら、年を経てからの使用の為に、とっておかれるべき(備蓄されるべき)器官が早い時期に用いられてしまう可能性がある。 今日の唯物論的な思考法は当然、次のように非難するだろう、「模倣を用いるか、権威を用いるかがそんなに大きな意味を持つわけはない」、と。 しかしながら、この事は、非常に重大な意味をもつ。なぜなら、この作用は生体組織のなかで持続していくからである。 子供は、その魂生活全体をもって模倣のなかにいなければならない、ということを考慮しなければならない。例えば、教育する人が好む食物と同じ食物への共感を模倣するように子供を育てることで、子供に食物に対する、ある種の共感を植え付けてしまうことを、考えてみるとよい。 すると、この模倣原理を、この食物への食欲に根づかせ、結びつけることになり、ここに生体組織における模倣衝動の継続が見られることになる。 後の権威(に基づく)生活の場合も同様である。要するに、本来は、年をとるまでとっておかれるべき器官(これらは勿論、精妙な霊的な生体機構だが)が、子供時代に用いられてしまうと、恐ろしいデメンティア・プラエコクス(精神分裂病)が起こる。 (恐らく、極端にいえば、成人後の飲酒や喫煙等の趣向を指すのだろう。成人前の大人と同じ趣向は後に精神分裂病をもたらすという。) デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)の根本の原因は、本来、成人後に用いられる器官が、子供時代に用いられることにある。だから、次のように言える、 「適切な教育はそれだけで既に良い薬である」、と。 従って将来、「人智学の観点からの子供の教育」(1)という小冊子で提示したような意味で、教育全体が、人智学から得られる認識に貢献するようになれば、デメンティア・プラエコクス(精神分裂病)も消滅するだろう。(1)「精神科学の観点からの子どもの教育」(1907)は「ルシフェル-グノーシス、論文集1903~1908」(GA34) に収められているが、個別小冊子としても何度も出版されている。最新版は1985年。 「精神科学の観点からの子どもの教育」は、1906年の年末から1907年初頭にかけて、ドイツの諸都市で行った講演内容をもとに、シュタイナーが論文形式に改めたもので、まず雑誌「ルシフェル・グノーシス」に発表された後、単行本としても何度か出版されている。邦訳は「霊学の観点からの子どもの教育」(高橋巌訳 イザラ書房)。 なぜなら、教育を、そのような意味において形成すれば、人間が年をとってからの器官を早期に用いてしまうということ自体が阻止されるからである。この事実は正に、適切な教育に関連して言うべきことである。
2009年05月18日
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また、以前からよく述べてきた事実と関連するが、死の門を通って、人間が地球から去った後、結局のところ、人間の頭は分解(分散)され、それから、頭以外の生体組織を、その素材(物質的実質)に従うのではなく、その物質力に従って、分解され、次の地上生(転生)のための頭へと作りかえられる。 つまり人間は本質的に、地球への転生のために、下降を求めることで、その頭を求める。そして、頭は、既にその後の人間の形態に似た形姿を含有しながら、人間の胎児において、最初に形成される。 人間の進化が、頭から形成されるのは(2)、頭部に向かう形成力が、人間を超感覚的な存在から感覚的な生存へと引き寄せ、飛翔(鳥類)世界で活動している作用と密接な親和性を有する事実に関連する。 (2)1921年7月16日のシュタイナーの講義も参照のこと、『人間の生成、宇宙魂、宇宙霊』(GA205)所収。 胎児期に、最初に頭部の組織を獲得するとき、消化器官他の素となる萌芽が、母体のなかに配置され、後の地上生から形成され、完成される。 人間の上方にある頭部の形成力が、熱や空気(大気)と関係するのと同様に、土-水的要素(元素、エレメント)と関係するのは、宇宙進化の後半に人間に加えられた存在で、そのコピーは、頭部形成後の胎児期に、人間に組み込まれる器官となる。 しかし、この土-水分要素(元素、宇宙言語)は、人間には特殊な形で、いわゆる母体のなかで、準備されなければならない。 もし、それが、母体のなかでなく、外界の地球、もしくは地上のなかに分散(分離)され、土-水分要素自身だけで形成するなら、それらは、下等動物の形姿、つまり、両性類や爬虫類、或いは、魚という下等生物を形成する。 蝶が、自らを光存在とみなし、鳥が自らを熱に浸透された空気存在とみなすのは正当だとしても、下等な動物、いわゆる両生類、爬虫類、魚類は、正当な水、あるいは土存在であるとみなすことはできない。 まず、魚を考察する。今日見られるような魚は、外界に出現するとき、外界の形成力に、いわば委ねられ、この形成において、人間では内部から作用する力が、魚には、外から作用する。 魚は主として水の要素のなかで生きる。しかし、水といっても、化学者にとっての単なる水素と酸素が結合した元素だけの存在ではなく、宇宙の可能な限りの、様々な力に浸透される存在のことである。 (水といっても、流体や液体という意味で、宇宙の様々な力の影響を受けるという意味。) 星々の力さえも、水の中には浸透している。もし水が、単なる水素と酸素の均衡を保った均質な結合だけの元素存在なら、水のなかでは、どんな魚も生きられない。 (魚は、実際、水のなかの微生物を必要とすることは、魚を飼育すればわかる。) けれども、蝶が自らを光存在と、鳥が自らを熱に浸透された空気存在だと感じるのと全く同様に、魚も、自らを本質的には土-水存在であると感じる。しかし、魚は体内に吸い込む水を、自らの本性であるとは感じない。 鳥は自らが吸い込む空気を自らの本性と感じる。つまり鳥を、本質的に幾何学的に表現すると、鳥の中に入り込み、至る処に拡がっていく空気を、自分の本性と感じ、この拡がる空気、鳥によって暖められる空気(下図の上参照)は、鳥の本性である。 魚は体内に水を保有するが、魚は自らを水とは感じず、魚は自らを、水を閉じ込める存在、つまり、水を取り巻く存在と感じる。魚は自らを、キラキラ光る水の覆い、もしくは外皮と感じる。 しかし、同時に、魚は、水を、自分の中で出たり入ったりする馴染みのない要素(元素)と感じる。水は魚の中で出たり入ったりすることで、魚が必要とする空気をも同時にもたらすが、魚は空気と水を馴染みのない存在と感じる。 魚は、特に、物質的な魚としては、水と空気を馴染みのない存在と感じる。 とはいっても、魚もエーテル体とアストラル体を持っている。魚の奇妙な性質だが、魚は、自らを(水や空気の)覆いと感じ、魚の中で、水が他の液体的要素と結びついた状態でいることで、魚は、エーテルを感じ、自らが、本質的に、その状態のエーテルのなかで生きていると感じる。 魚は、アストラル的な存在を、自らの一部とは感じない。従って、魚は、エーテル動物と呼ぶべき奇妙な動物である。魚は自身を、水を囲う外皮と感じている。体内にある水を、魚は世界全ての水と連携している存在と感じる。 魚にとっては、いわば体内の至る場所に水分が連動していく。体内の至る場所に水があり、同時に、水のなかに魚はエーテル体を感じとる(上図の下参照)。魚は勿論、この地球上での生においては、言葉を話せないが、もし話せたら、魚は自らを次のように語るだろう。 「私は(水の)覆いである。でも、この覆いとなることで、至る場所に拡がる水やエーテルの要素(元素)の担い手として、水を運んでいる。私は、(水を運びながらも)本当はエーテルの中を泳いでいる。」 続けて、魚は語る。 「水はマーヤ(幻)にすぎない、実在はエーテルで、私は、本当はエーテルの中を泳いでいる。」 つまり、魚は自らの生命を、地球の生命と感じている。この本性が魚の奇妙な所以で、魚は自分の生命を地球の生命と感じ、従って、四季の循環のなかで地球が成す全事象に密接に関わり、夏のエーテル力の放出や、冬のエーテル力の回帰に関わる。 従って、魚は、地球全体の呼吸を感じる。魚はエーテルを地球の呼吸として、感じ取っている。
2010年03月31日
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ところで、前回述べた、睡眠中の夢への参入と同様の方法で、人間は起きているときの昼の生活にも参入できる。昼の生活において、人間は全く無骨な形で、物質(肉)体を用いている。このことに関しては「ゲーテアヌム」誌の論文のなかで述べた。 昼の生活において、人間は、全くといってよいほど、次のような事実の洞察までには到達していない。 その洞察とは、昼の生活のなかにも、常に火の精霊を霊視でき、火の精霊たちは、人間の思考と、頭部の組織から発する全てと、内的な親和関係にある、ということである。 従って、人間が、完全に覚醒した昼の意識をもち、しかも、ある意味、自身の(肉体の)外にいる状態になれば、つまり、いわゆる完全な理性的存在で、両脚でしっかりと大地に立ち、しかも同時に、自らの(肉体の)外にいる(自分であると同時に自分と相対する自分ではない存在、すなわち自己の思考を、外から眺める対象として観察できる)という状態になれば、そのとき、もし、火の精霊たちを知覚できれば、火の精霊たちが宇宙のなかで、別の側から、思考を知覚可能にするように、構成していることを認識できる。 このように、火の精霊を知覚することは、自身を思考の存在として見ることへと導き、思考の存在として、思考を煮詰めるだけでなく、思考の経過の観照へと導く。ただ、このとき、思考は、人間に結びつくことをやめ、思考は、自らを、宇宙の思考として呈示し、思考は宇宙における衝動として、生命体として活動する。 このとき人間は次のことに気づく。 「人間の頭は、あたかも、この頭蓋の内部に、思考が閉じ込められているかのように思う幻影を、呼び起こしているにすぎない。」 思考は、ただ頭蓋内部に反映しているだけで、そこにあるのは思考の鏡像である。思考の根底にあるものは、火の精霊の領域に属する。この火の精霊の領域に参入すると、人間は思考のなかに自分自身を見るだけでなく、宇宙の思考内容を、つまり、本質的に、同時にイマジネーション(霊視)的な内容である思考内容を見る。 つまり、この思考内容は、自身から出ていく力であり、宇宙思考を、思考として呈示してくれる力である。従って、次のような結論に達する。 「人間の身体ではなく、火の精霊領域から、つまり、いわば地球に入り込んでいる土星の本質から、地上に呈示される事象を眺めると、著書『神秘学概論』において、地球進化(2)に関して記述した通りのイメージが得られる。」(2)『神秘学概論』の地球進化:第一講の編註2参照のこと。 この『神秘学概論』は、火の精霊の視点から見て、宇宙思考が、思考として現れてくるように描かれている。 このような事柄の深遠に現実的な意味があることがわかる。しかし、人間にとって、現実的な意味は他にもあり、ノームとウンディーネのことを考えれば、シルフと火の精霊はいわば、人間の意識の世界と境を接する世界に生きる存在で、既に(この世の)境域の向こう側の存在である。 通常の意識では、これら4大精霊を見ることから守られている。なぜなら、これらの存在全てが、本質的に、良い性質(種類)ではないからである。良い性質(種類)のものは、例えば、以前述べたような、植物の成長に様々な形で働きかける精霊たちである。 しかし、それでも、その全てが良い性質(種類)ではない。これらの精霊たちが活動する世界に参入するやいなや、良いものだけでなく、悪いものに遭遇する。これらのうち、どれが良い種類で、どれが悪い種類か、を見分ける方法を修得する必要があるが、そう容易いことではない。 悪い種類の精霊を描写することから、見分けるしかない。悪い種類の精霊を、良い種類の精霊から区別するには、特に、良い種類は植物界と鉱物界を拠り所とすることが多く、悪い種類は、動物界と人間界に接近する性質をもち、また、更に悪い種類は、植物界と鉱物界にも近づく、という点にある。 これら鉱物界、植物界、動物界の領域の精霊たちが持ち得る悪に関する概念を得るのは、高次のヒエラルキア(神々)により、本来は、植物-動物界のために良い精霊たちに(役目として)指定されていた営みを、人間や動物に近づき、人間のなかで実行する(悪い)精霊たちに関わり合うときである。 ノームやウンディーネの領域に由来する悪い精霊たちがいて、悪い精霊は人間や動物に近づき、人間や動物に働きかけ、本来なら下等生物に付加すべきものを、物質的な形で人間や動物のなかで実現させ、将来、どのみち進化を辿れば、自ら獲得し、人間や動物のなかに存在するものを、早期に、物質的な形で実現させようとする。 (悪とは、間違ったTPOの善である。つまり、早熟をもたらす精霊が悪である。聖書にある人間の楽園からの追放は、悪い精霊ルシファー「聖書では蛇」に、人間は知恵「知性」を授けられたために、神々「高次のヒエラルキア」の進化計画「楽園」から追放されたことを暗示している。 シュタイナーによると、神々は、もっと後に成熟してから、人間に知性を授ける予定であったが、悪魔が人間を誑かして、早熟のうちに知性を授けたために、知性を駆使するだけの道徳性を身につけないうちに、人間は知性を乱用している、という。 その端的な例が、利己主義のために、知性を用いることである。他者を愚弄したり、罵倒したり、傷つけることなどが、それである。また科学技術を使って自分だけが利益を得たり、闘争したり、戦争したりすることもあてはまる。) 悪い種類のノームやウンディーネたちがいることで、人間や動物のなかで、より下等な生物-植物が生きるようになり、寄生生物が生まれた。このように悪い種類の精霊たちは寄生生物をもたらす存在である。
2010年05月07日
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シュタイナーを学んでいると、あらゆる宗教の源流に辿り着く。特にキリスト教と仏教の融合には、驚く。 そこで、キリスト教ばかりでは消化不良を起こすので、仏教についても、人智学的観点から書くことにする。 例えば、ウィキペディアで、「八正道」を調べると、なんだかいかにも学術的専門用語(特に哲学用語がよくない)が並んで、全く意味不明なことに気づかされる。哲学用語は、あまりに形式ばっているので、無味乾燥で、イメージが沸かない。恐らく、書いている本人も分かってないのではないか?と思う。 ウィキペディアは、さしずめ、優等生的見解といえるもので、確かに即席に知識を得るには有用だが、いわゆる東大生的回答、つまり、現代教育に実験管理されたモルモット的実験結果といえるものにみえる。 要するに、知識の羅列に過ぎず、死んだ感じがするのである。 では、実はあるホームページから失敬拝借しているのだが、良いことなので、人智学的観点の八正道を書きたい。 ■週をめぐる毎日の訓練 弟子は、通常の場合注意も関心もなく継続している魂の生の、ある種の活動に注意深い関心を払わねばならない。こうした活動が8つある(魂の意識的な向上に目覚めよ)。 (釈迦の説いた八正道にあたる) 当然のことだが、1度に1つの訓練だけに取り組むのが最善である。例えば、1週間か2週間それを継続し、次に第2の訓練に移るというようにして、また最初からやりなおすのである。 また一方で、第8の訓練は毎日実行されるのが最良である。そうすれば、真の自己認識が徐々に実現し、いささかであれ進歩がすぐに知覚出来る。 その後、土曜に始めて、約5分続く1つの訓練を毎日、8番目の訓練に加えて行っても良かろう。その結果、適切な訓練が時に触れ同じ曜日に来ることになる。 こうすると、土曜-思考、日曜-決心、月曜-言葉、火曜-行動、水曜-振舞、木曜-習慣、金曜-記憶、翌週或いは毎日-吟味といったようになる。(八正道では、土曜-正見、日曜-正思惟、月曜-正語、火曜-正業、水曜-正命、木曜-正精進、金曜-正念、翌週或いは毎日-正定) ■土曜(正見) 自分の思考に注意を払う。 重要な考えだけを考える。自分の思考の中で、本質的なものを、非本質的なものから分離することを少しずつ学ぶ。永遠なるものを無常のものから分離することを学ぶ。真理を単なる意見から分離することを学ぶ。 同胞の話に耳を傾ける際、内的に十分静か(平静)になるように努める。あらゆる同意を無くし、あらゆる好ましくない判断(批判、否定)は更に静める。思考と感情の中でもそう努める。 この訓練は次のように言える。 正しい意見 ■日曜(正思惟) 最も些細な事柄すら十分に理詰めの思慮を巡らせた後で初めて決定する。何も考えていない振舞いの総て、無意味な行動の総ては、魂から遠く離しておかねばならない。あらゆることに、十分な手応えのある理由を必ず持つべきである。重要な理由のないことは何も決してしないよう抑制すべきである。 一度ある決定の正しさを確信したなら、内(精神)的沈着で、それを固持しなければならない。 この訓練は次のように言える。 正しい判断 この判断は、共感からも反感からも独立して形成されたものである。 ■月曜(正語) 話す感覚と意味のある言葉だけが、高次の発達を目指す者の唇から出るべきである。おしゃべりのためのおしゃべり(暇潰しのおしゃべり)はこの意味で有害である。 通常の種類の会話、つまり脈絡のない言葉のやりとりは避けるべきである。これは、自分を同胞との交流から閉ざせという意味ではない。正にそうした時にこそ、話が徐々に意味深いものに導かれるべきなのである。 あらゆる側面を考慮に入れて、話と言葉の一つ一つに思慮深い態度を取る。理由もなく決してしゃべるな。喜んで沈黙を守れ。しゃべり過ぎてもいけないし、しゃべらなすぎてもいけない。まず静かに耳を傾けよ。それから言われたことをよく考えよ。 この訓練は次のように言える。 正しい言葉 ■火曜(正業) 自らの(外的)行動が、同胞の混乱を招くものであってはいけない。自らの内的存在(判断)から行動することを、機会が求める場合、その機会にどうすれば最もよく見合うことが出来るか、注意深く思慮を巡らせ。全体の善のために、人間の永続する幸福のために、永遠なるもののために、細心の思慮を巡らせ。 自身から物事をなす場合、自身の自発性から物事をなす場合、自分の行動の影響を前以て徹底的に考察せよ。 この訓練は次のように呼ばれる。 正しい行為 ■水曜(正命) 秩序ある人生。大自然と霊性に調和して生きよ。人生の外(表面)的な些事に拘泥するな。不安と急ぐ思いを人生に持ち込む、あらゆるものを避けよ。何者にも慌てるな。かといって怠惰にもなるな。人生を、高次の発達(進化)を目指して働く手段と見なし、それに相応しい振舞いをせよ。 この関連は次の事を語っている。 正しい立脚点 ■木曜(正精進) 人間の営為。自分の力の及ばないことをしないように注意を払うべきである。と同時に、自分の力の内にあるものは、必ずやるように注意を払うべきである。 日常の存在と瞬間的な存在の彼方を見よ。そして人間存在の最高の義務と関連する目的と理想に自らを向かわせよ。例えば、これまでに述べた訓練の意味で、同胞の助けとなったり助言者となることが、後に、より一層出来るように、自分自身を育成するように努めよ。もしかすると、その目的はすぐには叶わないかもしれないが。 この訓練は次のようにまとめられる。 これまでの訓練が習慣になるようにせよ。 ■金曜(正念) 人生から出来るだけ多くを学ぶように努める。 人生に役立つ経験を得る機会を与えずに、何者も私たちを通り過ぎはしない。間違ったことや不完全なことをしたなら、それこそ、後でそれを正しく、或いはもっと完璧にする動機になる。 他の人が何かしているのを見たら、それと類似の目的を展望に収めて、そのような人を観察する(冷たく、もしくは無慈悲に眺めることはない)。人間は、自分の決定と成就に役立ち得る過去の経験を振り返らずに、何も行えないものである。 人は誰からも学ぶことが出来る。もし注意深ければ、子供からも学ぶことすら出来る。 この訓練はこう呼ばれる。 正しい記憶 (経験から学んできたことを覚えておくこと) ■翌週-総括(正定) これらの訓練と同時に毎日たとえ5分間だけでも、時に触れ自分の眼差しを内に向ける。そうする際に、自身の中に深く沈み、注意深く自らと話し合い、自らの人生の原理を試し、形成し、思考のうちに自分の知識を(あるいは知識の欠如を)経験し、自らの責任をはかり、人生の内実と真の目的について思いを巡らし、自分の誤謬と不完全さを苦痛を持って純粋に感じる。 一言で言うと、本質なる存在、永続する存在を発見するように労苦せよ。そして、それに調和する目標を真剣に目指せ。例えば、美徳を獲得せよ。(何かをうまくやったと思う間違いに陥るな。更に高い目標に向かって、もっと努力するようにせよ。) この訓練はこう呼ばれる。 正しい吟味 とにかく実践あるのみ。
2008年05月14日
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昨年クリスチアーナを訪問した際、キリスト神秘に関する、色々な言葉で述べられた幾多の講義で表出された思考が、「夢伝説」として知られる美しい「サガ」に体現しているのを見い出し、私(シュタイナー)は興味深く思った。奇妙だが、この「サガ」は、この10年から15年の間(1911年当時)に、ノルウェーで脚光を浴びて、人々に知られるようになったが、言うまでもなく、その起源は遥か昔である。 この伝説は、オラーフ・アステソンが、いわば自然の諸力によって、秘儀に参入する様を素晴らしく美しく物語っている。彼はクリスマスイブに眠りにつき、1月6日まで、ずっと13の昼夜を眠り続けて、地球の始まりからゴルゴタの秘跡までの受肉に人間が経験しなければならなかった全ての恐怖を体験した。 そして1月6日が来ると、ミカエル霊を先触れとして、どのようにキリストが人間性に介入するか、そのヴィジョンが、オラーフ・アステソンを訪れる様子が語られる。いつか、この詩を全編にわたって提示できるだろう。そのときに、13聖日夜の間のヴィジョン意識が今日でも生き残っている、いや、実際息を吹き返しつつあることがわかるだろう。特徴的な数行だけを今は引用する。詩は次のように始まる。 集い来て耳を傾けよ、我が歌を聞け 素晴らしき若者を歌う歌を 我はオラーフ・アステソンのことを歌わん 幾多の日々を眠りし若者のことを -まことに起こりしことを クリスマスイブに身を横たえし彼は 長き眠りにつきたり、何も知らぬままに 13日目にようやく身を起こした彼は 教会へと足をはこぶ人々を目にした しかり、オラーフ・アステソンこそ かくも長き眠りにつきし者なり 詩は更に進み、夢の中で13聖日夜の間に、オラーフ・アステソンが、ルシファーの影響のために人間が経験しなければならない全てを通過するように、どのように導かれるかが語られる。カマロカ(欲界)との関連でしばしば描かれる、人間が持つ経験の領域を、通っていくオラーフ・アステソンの旅と、ミカエルに先導されて、キリスト霊が、このヴィジョンにどのように流れ込むかの生き生きとした映像が与えられる。 このように、霊性においてキリストが到来すると共に、人々は霊力がどのように織り成し支配しているかを知るのが益々可能になるだろう。そして祭日が恣意的な意見で設けられたのではなく、しばしば人々の意識には届かないが、それでも歴史を通じて作用し、統治している宇宙的叡智によって設けられているということを益々知ることができるようになる。 この宇宙的叡智が、イエスの誕生の祭日を13聖日の始めに置いたのである。 宇宙世界を観想するとき、我々が自らの内に全ての低次の自我(欲求)を征服する強さを見い出す助けとなるのを常に思い出させ続ける存在が、イースター祭であるのに対して、クリスマス思考(もし、我々が、人間の神的起源や、御子イエスの姿で、クリスマスの日に我々の前に置かれた象徴を祝う祭を理解するなら)は、繰り返し、次のことを我々に告げる。 「魂に平和をもたらす力は、我々自身の内側に見い出し得る」、と。 真実の魂の平和は、その平和が確かな基盤を持つときにだけ、言い換えれば、人間が、次のことを知り得る力をもつときにだけ、存在する。 「汝の内には、もし、本当に誕生するなら、汝を神的高みに、神的勢力たちに、導き得る、いや導くに違いない存在が生きている。このクリスマスツリーの灯りは、無垢の姿の御子イエスによって、クリスマスの夜に象徴的に、我々に告知される事柄の実在を把握するとき、我々自身の魂の中で輝く光の象徴なのである。 人間の魂の、内奥の存在自体、つまり、強く、無垢で、静かな内奥の存在自体が、我々の、人生の道を、存在の最高の目標へと導いていく。クリスマスツリーの灯が、我々に、次のように告げるように。」 「もし、汝の魂が弱ければ、もし汝の地球存在の目標が、汝の届かない処にあると信じるなら、人間の神的起源について思いを寄せ、至上の愛の力でもある、あの諸力が汝自身の内にあることを自覚せよ。汝のあらゆる仕事において、汝の生の全てにおいて、今も来るべき、あらゆる時において、汝に信頼と確信を与える諸力を、内的に自覚せよ。」
2008年05月20日
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なんだか夢の覚えがよろしくないので、はっきしいって企画倒れに終わりそうです。毎日はやめて、そのうち思い出しものだけのを書きたく思いまする。 昨日は、かなり前の「知ってるつもり」という関口宏が司会をやっていた、番組の最終回スペシャルの、仏陀とキリストのビデオを、再度みた。何回もみると、改めて気がつかなかったところが気がついたりして、発見があるから面白い。 勿論、番組自体は、確かにお釈迦さまもキリストも、人間としてこの世に暮らしたことは、神秘学では確かなところなので、異論はないが、あまりに人間化しすぎていて、あまり構成自体は好きではないが、だからこそ、突っ込みどころ満載で、何度もみてしまうのでもある。 現代的視点というのは、現代的は見方が常に正しいとしているところが、どうにも鼻につくところなのである。とくに科学的といわれると、これは私の悪癖でもあるのだが、はっきりいって、「お前やったことあんのか?」と言いたくもなってしまう。 というのも、科学を真面目にやればやるほど、精神分裂病の如く神経衰弱に罹ざるをえないと思うからでもある。常に自分が正しいという前提において行っているのである。 まずは、科学が正しいことを証明してみなければならないだろうと思うのである。正しいと仮定して、結果がその仮定の上で、論理的に導き出せて、その現象を、実験によって証明するのが、科学的実証の推移であるが、これは、それを行っている科学者の立場が忘れられているのである。 例えば、実験で証明するとして、実験を行ったその張本人は、一体、自然現象のどの部分を構成するのかが問われる。量子力学が、実験により、普遍的に実証できないのは、観測を行う行為そのものが、観測対象に影響を及ぼしてしまうからである。これは、何も量子力学に限らず、観測対象から特定部分を抽出する作業は、実験者の立場、とくに思考によるのである。 一般的に、統計を用いて平均値を抽出するが、平均値が意味を持つのは、観測系とは全く独立した外部から、時間によらない全く純粋に客観的な立場から行うことが大前提にあるが、このようなことは、少なくとも宇宙空間を、その観測対象と共有している時点で、限りない近似でしかないのである。 第一、時間を止めることはできないし、エネルギーの流れを、なんらかの静止系の基準から算出することはできない。だから、ある意味、光速度不変の法則を成り立たせているともいえるのである。しかし、この光速度というのが非常に抽象的である。人間は光速度で生活しているわけではないからである。光速度でみれば、人間は全く静止している存在である。だから、代わりに時間が立場により、異なる存在となるのである。これはアインシュタインの特殊相対論をいっているのだが、誰も光速度を、直接的に観測したわけではないのである。光を媒介するものを間接的に測定しただけにすぎない。 何がいいたいのかというと、魚をみたことがないからといって、魚が存在しないとはいえないということなのである。実際、光速度をじかにみたことがないが、光速度を前提として、間接的に、時間のずれをみているわけだからである。 つまり、普遍性とは、常に変わり得るものである。日常は無常なのである。そういう意味で、科学的というよりは、仏教的といった方が、私は真実に近いと思う。わからないことは、はっきりとわからないというべきだと思う。知ったかぶりしたって、その知識はいずれ変わりゆくものなのだからね。
2006年02月20日
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「祈り」は、何らかの形のエゴイズムに浸透されているときほど、酷く誤解される。なので今回の話では、いかなる宗派からも、或いは、その他の影響からも自由な人智学という光の下に、「祈り」について探求してみる。 そこで最初のアプローチとして、次のように言うことができる。 「神秘家は、自身の神秘的献身によって、どこまでも明るく輝くようになる、ある種の閃光が、自らの魂の中に見い出される、と考え、「祈り」とは、その閃光を生じさせるために意図されるものである」、と。 そして、「祈り」とは、それがいかなる前提から出てきたものであれ、正に、魂をかきたて、徐々に、小さな閃光、つまり、もし、魂の中に小さな閃光があればだが、その煌きながらも隠された閃光を見い出すことで、或いは、閃光を点火させることで、唯一その有効性を証明するものである。 もし、「祈り」の必要性と、その本性を探求するなら、以前の要約でも引用した古いギリシャの聖人、ヘラクリトスの 「汝がいかなる道を探求しても、魂の境を見い出すことは決してできない、魂の存在とは、それほど包括的なものなのである。」 という、普遍的な妥当性をもつ言葉を心に留めながら、魂に関する深い記述へと入っていく必要がある。 最初は、「祈り」の中に、魂の内なる秘密を探し求めるが、「祈り」により、かき立てられる親密な感情は、最も素朴な人でさえ、魂生活の無限の広がりに関して、何らかの示唆を与えることができる。魂が、生なる進化の過程(プロセス)に携わっていることに気づく必要がある。 魂は、過去から来るだけでなく、絶えず未来に向けて旅している。過去からの影響が、現在の瞬間、瞬間へと展開するように、それはある意味、未来からの影響も同じである。 魂の生活を深く洞察する人は誰でも、これら2つの流れ、過去からの流れと未来からの流れが、絶えず魂のなかで出会うことを理解するだろう。我々が過去からの影響を受けているのは明らかな事実である。昨日の活力、或いは怠惰が今日の自分に何らかの影響力を持つことを誰が否定できるだろうか? しかし、過去と同様に、未来の現実性もまた否定すべきではない。というのも、未来の出来事が、まだ生起していないにも関わらず、魂の中に侵入するのを観察できるからである。結局、明日起こりそうな何かに対する恐れや心配とは、一種の未来に関する感情や知覚ではないだろうか? 魂が恐れや心配を経験するとき、その感情という現実が示すのは、それが、過去だけではなく、未来から、現在に向けて急いで来るものを、非常に生き生きとした形で、計算に入れていることである。勿論、これは単純な例だが、魂を探求する人は、未来がまだ存在しないために、現在にその影響があるはずがないという抽象的な論理に矛盾する無数の例を見い出すのに、この恐れや心配は十分だろう。 このように、2つの流れ、1つは未来からの、もう1つは過去からの流れが、魂の中で出会い(自分を観察する人なら、誰がこの事を否定するだろうか?)、2つの川の合流点に比べられるような一種の渦巻きを形成する。更に詳しい観察では、過去の経験から、我々に残された印象が、その印象の中で、その経験を処理するが、そのことが現在あるような魂を形作ってきたことを示す。 我々は、過去に行い、感じ、考えたことの名残りを、我々の内に担う。これらの過去の経験を、とりわけ、その中で活動的な役割を演じた経験を振り返るとき、非常にしばしば、自身の評価を強いることになる。我々は、過去に生起した、ある行為に対し、現在の立場からは同意できないような、過去の行為の幾つかについて、恥じらいをもって、振り返ることさえできるような段階に到達する。 もし、このように、過去を、現在と比べてみるなら、自身の力により、自身から創り出した、いかなるものよりも、遥かに豊かで、遥かに重要なものが、我々の内にある、ということを感じるようになる。もし、意識的自我を超えて、広がる、そのようなものがなかったなら、我々は、自身を非難し、或いは、自身を知ることさえできないだろう。 だから、過去において、自身を形成するために用いてきた、いかなるものよりも偉大なものを、我々の内に有している。もし、我々が、この意識を感情にまで変化させるなら、過去の行為における、あらゆること、つまり、記憶が我々の前に、はっきりともたらす経験を振り返ることができるようになり、そして、これらの経験を何かより偉大なもの、つまり、魂の中にある、我々をして、我々自身に直面させ、そして、現在の立場から、自身を評価させるように導くものと比較できるようになる。 要するに、過去から、我々の中に流れ込むものを観察するとき、我々は、自身を超えて広がるものを、我々の内に有することを感じる。これに親しむことが、我々の内の神についての感情、つまり、我々の全ての意志の力よりも、偉大な何かが我々の中に潜んでいるという感情への最初の目覚めなのである。 このように、我々は、限定された自我を超え、神的、精神的な自我に向かうように導かれる。この事が過去を凝視することから生じ、そして、それは知覚的な感情へと変化する。
2008年07月10日
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さて、続いて、古代ヘブライ語の例のサイトをみていると、日本への預言めいた文があるのに遭遇したので、引用して紹介したい。 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/general/general.html+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 6.アメリカ占領と日本 ファシストといえば、同様の全体主義が日本にも存在していた。「天皇崇拝」である。それは、アメリカからは、民族を統一するための「危険思想」に見えただろう。 苦労して日本をうち負かしたアメリカは、この国が二度と立ち上がれないように釘を刺した。それが「平和憲法」だ。しかし彼らは、別の手も打っていた。「イタリアと同様の手法」である。 (イタリアについては、また引用したいと思う。アメリカのマフィアの出自がコルシカ島にあるのを、米軍が利用して、イタリアを経済的植民地に置いた話である。サムジアンカーナがモデルとされる映画ゴッドファーザーにも、マフィアがムッソリーニ政権を嫌悪し、打倒しようとしていたことが、多少だが描かれていた。イタリアと日本の政局が非常によく似ているのは、アメリカの介入の証拠ともいえる。) 「東京裁判」では、かなりの偏見が支配していた。「日本の戦争責任」、「戦争犯罪」が追求された。しかし、戦犯を弁護する弁護士からの、「『原爆投下』はどうか?『戦争犯罪』ではないのか?」という指摘は無視された。また、日本が大陸に進出した際の「植民地主義」を徹底討論されることもなかった。なぜならそれは「諸刃の剣」であり、欧米列強にも身に覚えがあったからである。 結局、「南京大虐殺」など個々の事件が問題視され、「戦争責任」によって、東條以下当時の首脳達が処刑された。しかしこの裁判においては、様々な裏工作が渦巻いていた。それは日本にとって、どう評価すべきものだろうか? 天皇除外工作 占領軍総司令官であるマッカーサーの意向は、当初の本国多数意見とは逆であり、「天皇を罰しない」というものだった。これは、天皇と直接会見して「その真摯な気概に打たれた」彼の一存だったようである。直感で、「彼に責任は無い」と思わしめる「何か」が、マッカーサーの心に働いたかに見える。その見えない力は、アメリカの公式方針に影響した。しかしそれからが大変だった。 「天皇の責任」を回避させるために、「我々は決して天皇には逆えない」と主張する東條以下幕僚達の陳述を覆さねばならない。そうでなければ、全ての責任が自動的に天皇に帰属するからだ。 マッカーサーの意向を伝えられていたキーナン主席検事は、休廷期間を利用して説得工作に奔走した。そして最後に、「天皇は不承不承、首を縦に振った」という「御前会議の内幕」を東條の口から引き出したのである。 このように、戦犯法廷での裁判に際して、アメリカは数多くの裏操作を行っている。天皇を救うための画策があったかと思えば、逆に大物の罪を立証するために、小物の罪を数多く見逃してもいる。しかしその中には、大陸での非人道的な罪も数多いはずである。そして、見逃された勢力の中には、現在の政界を牛耳る「日本版マフィア」が含まれているのも公然の事実である。 (有名な巣鴨収容所から釈放された連中である。) 政界を腐らせるために イタリアのように、政界にギャング組織を絡ませるのは、実に頭の良い占領政策である「褒めているのではない」。それは、表には決して出て来ないが、裏で政治を引きずり回している。目先の利権や、金に絡んだ欲望が充満するままになり、「理想主義」に目を向ける指導者も出なくなるだろう。これはいわば、占領国の政府を精神錯乱に導く定石なのかもしれない。 こうした国では、清さを求める政治家は命が短い。特にアメリカにもの申す輩には、すぐに「始末」の手が忍び寄る。日本にとって望ましい人は、早い時期に政界から失脚する。そして、アメリカの闇の政府に好かれた人物だけが、「伏魔殿」で生き延びるのである。 右翼の地位 占領軍は一貫して、右翼に類する勢力を見逃してきた。それは日本に、「共産主義に対抗する勢力」を残すためだった。それで、「右翼」を名乗れば、暴力を常とするやくざ組織も生き残ることができた。 (このようなことがバレつつあるので、いまは火消しに躍起になっている。) 占領軍の政策は、警察組織にも徹底され、「右翼には手を出すな」という暗黙の意志が行き渡った。きれいな手であろうと、汚い手であろうと、日本内部の共産主義駆逐勢力は保護され大目に見られた。 当初はこの政策はうまくいった。国粋主義者達はアメリカの意図に沿い、共産主義者弾圧のためによく働いた。それは警察との連係プレーである。現在でも、警察は右翼には甘い。いや、むしろ頭が上がらない。交通違反も、名刺一枚で見逃してもらえる。警視総監でさえ、右翼の大物には土下座する。 日本警察の首に、今でもGHQの鎖がつながれているからだ。警察のあらゆる政策、あらゆる方針は全て、アメリカから与えられる。もちろん暗黙のうちに。 7.自衛隊とアメリカ そのアメリカが、長年悩んできたことがある。それは、「日本軍の存在を利用できない」という状況である。アメリカ国内の鳩派が、「平和憲法」を日本に押し付けてしまったために、日本の軍は使えなくなった。 同盟国であるアメリカが、朝鮮戦争で苦労しているのに、日本は腰も上げない。むしろ、軍需景気で儲けている始末である。さらに、ベトナムの泥沼にも入ってこなかった。何度も、「再軍備」の打診をしたが、吉田茂の意向を汲む政治家達は承諾しなかった。吉田は、日本の本当の益が、「不動」にある事を知っていたからである。 「しまった!失敗だ」 アメリカは、自分達が行ったミスに気付いた。経済で叩いても、日本はしぶとく起きあがってくる。アメリカが利用すればするほど、逆に力を付ける。便利な「下請け工場」となっていたはずが、アメリカを差し置いて、世界有数の技術を身に付け、立派な債権国となった。 「教えてやったのは我々だぞ」 と、怒ってみても仕方がない。確かに日本の技術は、ほとんど欧米列強の借り物だが、民族の持つ勤勉さが貢献して、黒字は大きくなるばかりである。利用するなら、「日本の軍」しかない。アメリカは本気になった。 しかし、彼らが地下で、どれほどの謀略を巡らせても、「平和憲法」が自衛隊を縛っている限り、これを活用できない。 また、その憲法の効力により、日本周辺では「安定」が定着し始めている。なぜなら、中国もソ連も、北朝鮮も、日本を 「自ら攻めることのない国」 と知っているからである。 戦後50年もの間、日本はその憲法を守った。それは一種の「信頼」となって、周辺諸国だけでなく世界中に認められている。 現在のアジアはむしろ、経済で日本を利用して自国を活性化したいと考えている。だから、アジアには戦争が起こらない。 しかし、アメリカはこれでは困るのである。日本の国民は、アメリカ軍に守ってもらいながら、「身勝手な憲法」によって動こうとしない。しかしそれは、アメリカ自身が日本を打ちのめして押し付けたものではないか。では、今更アメリカから「憲法改定」を迫れるだろうか? アメリカは、国際社会の見ている中で、日本に政治介入することはできないのだ。彼らは結果的に、自分で自分の手を縛ってしまったのである。 表向き、 「憲法を変えろ」 という言葉は、口が裂けても出せるものではない。しかし日本はそれに、自ら触れようともしない。ソ連が倒れた後、アジアはますます平和に向かっている。では、このジレンマを突き崩すために、アメリカという国は今何を謀っているのだろうか? (ナカソネのアホや安倍の坊ちゃんなどは、統一教会を利用して、洗脳されている。)
2012年04月11日
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中村仁一著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んでみて、納得することが非常に多かった。 この本から、私が受け取った感想は、「世間の連中は、肉体の死ばかり考えているが、精神の死を問題としない」ということに尽きる。 事実、現代の哲学がもはや死に絶えてしまったことに関係があると思っている。 現代の腐ってしまった哲学に、その答えを望むのは不可能である。 現代で、哲学者といえば、一部のホームレスを除いて、金銭や名誉欲を満たすことしか頭にない腐敗の徒ばかりである。命を捨てずに、他全てを捨てることができたホームレスは、哲学者といえるだろう。 哲学者のなかにも、自分でできることを、自分でできないアホが多く、そのようなアホに付き合わされる位迷惑なことはない。だから、哲学を学ぶのは、無意味なことだと若者は考え、その考えをもつこと自体が、若者を堕落させてしまう要因になっている。 「我思う、故に我あり」が、「我、無意味に思う、故に我、腐敗す」となっている。 自分のこともできない哲学者が多い。他人に迷惑がかかることが理解できていない。自分のことを自分でやらずに、本当の自分が探求できるのだろうか、不思議である。 古代の賢者が述べた名言や思想をかりても、それは他人のものにすぎない。つまり、現代の哲学者は、単なる収集家でしかない。 ソクラテスの「無知の知」さえも理解できていない。知識を収集しても、無意味であるといったのに、金銭や名誉欲が与えられるのなら、進んで収集する虫の存在である。昆虫は、自然を整理しているので、昆虫以下の存在といえよう。 このような虫たちに、ソクラテスの「魂の配慮」など理解不能だろう。 そのようなわけで、知識をいくら収集しても、病気を解明するどころか、病気理論家になるだけで、病気を増やす病気収集家や知識収集病という、本人に自覚なしの「精神疾患」に罹るだけである。 PhDは、単なる収集家の称号である。所詮、足の先についた米粒と同じということだ! 現代の哲学を、本筋に戻す、つまり軌道修正するのが、人智学の立場である。 人智学に出会ってみて、改めて考えることは、病気とは何なのか?にある。 人智学は明確に、その答えを出している。 その答えを、自然のなかから導きだしている。 その回答は、自然の流れに、病気はあるのか?という疑問からはじまる。 自然のなかに、病気と思われる現象は、個別的にみれば、幾つか挙げられるだろうが、時間が経てば、全体として、自然に治癒してしまう。 つまり、自然の流れは、個別的で、一時的な病気のようにみえる現象も、全体としては、自然治癒に向かわせている。 だから、自然全体が、いわば助け合いの精神で築かれていることに気づく。 自然のなかには、全体として、自然治癒力が働いていることがわかる。 パラケルススは、医師は、自然の流れから、自然治癒力を学ぶ必要があると言った。 老子(タオ)の教えも、同じである。人智学からいえば、老子は、古代アトランティス時代の教訓をまとめたものなので、当然ともいえる。 逆にいえば、自然のほんの一部の働きでも欠けてしまえば、自然治癒力は万全とはいえない。 さて、次に人間と自然の関係が問題となる。 人智学では、人間と自然は相反した関係と説いている。相反といっても1種の鏡と考えるべきである。 そこで、数学者の書いた本「不思議の国のアリス」を思い浮かべた人は連想力をもっている。アリスは、鏡のようなアベコベの世界に行くのだが、実は、人間の中を描いた世界だと思えばよい。 例えば、自然のものを、そのまま食べたら、ほとんどが毒になる。自然を構築しているものが、人体のなかでは、毒となるのだから、アベコベである。 自然に対抗する免疫力のお陰で、自然のものを消化できる。自然のものを取り入れても、自然治癒力が免疫力となり、消化できるわけである。人間は、自分の免疫力がどれほどなのかわからないので、伝承された文化から、食物を選択する。 過去の人たちが何度も死に目にあって、免疫を獲得してきたお陰で、食物がある。 少なくとも、文化のない動物は、経験しなくても、自然治癒力を利用して、食物を選択できている。 では、人間は、いつから暮らせるようになったのだろうか? その答えは聖書にある。 「ヤハウエ神は、アダムに、生命の樹からとって食べてはよいが、智恵の樹からとって食べてはいけない、と命じた。」 聖書は隠喩を含んでいる。生命の樹とは、体内にあるもので、智恵の樹とは、体外の自然である。簡単にいえば、精神を潤すものはいくらでも食べていいが、外の物質は、食べてはいけない、ということである。 つまり、「精神を向上させるものはいくらでもとりなさい。しかし、物質や五感を満足させるものをとると、死ぬよ!」と言った! アダムは、外の物質を食べてしまったので、自然の存在となった。正確にいうなら、アダムの霊魂は、自然の一部である肉体に転生してしまったので、この物質界を知り、五感から覚醒意識を産み出し、物質的な神経が生まれた。 人間の神経組織を図にすれば、蛇の形になることでわかる。 蛇の形の神経から生まれる覚醒意識により、自分の体内とは全く異なる自然界を人間は認識し、その認識を「生きること」とし、この覚醒意識が消失すると、「死」を意識することになった! 反面、神の創造世界とは一時離れ、自分だけの仮想世界に遊ぶ自由を手にいれた。人間は、宇宙の腫瘍となった。 人間が宇宙の腫瘍なのは、自然のものをそのまま食べられないことや、ほとんどの人が腫瘍が悪化したガンで死ぬことでわかる。 しかしながら、腫瘍は腫瘍同士で助け合わないと生きていけないことが課された。 腫瘍といっても、宇宙を超えて存在することは不可能だからである。寄生は寄生する本体がいて、はじめて成立する。 宇宙や地球がなければ、人間は存在できないばかりか、腫瘍として一時も生きられない。 だから、人間という宇宙の腫瘍の存在が、病気になったなどとは不思議である。 この矛盾のなかに、神の深慮が浮かびあがる! 腫瘍が、病気になることで、腫瘍を克服する自浄作用が働くからである。 腫瘍が病気に罹るのは、自分を知るよい機会である。宇宙や自然にどれだけ迷惑をかけ、依存しているかがわかる機会である。与えられた自分の本分を尽くさずに、宇宙に適応できていないということである。 長々と書きすぎた感があるので、結論をいう。 病気とは、助け合いの精神を忘れた自己愛から生じる。人間同士がお互い助けあうように、身体を含め全てがつくられている。他者を助けることで、自分の能力が開発される。なぜなら、自然は、人間と正反対だからである。いつでも自然は、人類を滅ぼすことができるが、あえて、人類にその意志を委ねている。 人類を滅ぼすかどうかは人類同士で助け合えるかどうかにかかっているし、私利私欲をなくすことにある。 人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉により生かされる。愛の精神を忘れた者は、精神の死を迎えるであろう。 安楽死とは、他や宇宙の融合のなかに自主的に生きることである。外見など無関係である。 死を考えるよりも、よく生きるには他者に何をすべきか、を考えるべきだろう。
2012年05月10日
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ハルマゲドン選挙がはじまったようです。政治家は、自身が掲げた公約を守り、弱きものを助け、強きものを戒め、宇宙の進化に遅れることなく、自然環境を養っていくべく、きちんとした政治を行ってほしいものです。 選挙は、政治家への審判と思ってもよいと思います。我々一人一人が審判員で、嘘つきや公約破りの政治家は、退場してもらわなければいけません。 一利を興すは一害を除くにしかず、です。 今度の選挙は正念場だと思います。B層であっては駄目です。一人一人が、この国をどうするのか、真剣に考えていく切欠の選挙となるべきで、他人まかせ、専門家任せでは駄目なのです。それこそB層なのです。 とりあえず、マスゴミに洗脳されB層にならないための自己判断を行うための情報を、続けて転載していきたいと思います。以前紹介した以下のサイトなどが参考になると思うので、抜粋して紹介します。 飯山一郎のLittleHP http://grnba.com/iiyama/ ☆ ☆ ☆ 下の巨大ポスターにカーソルをおくと、文章が出てくるんだけど…、 知ってましたか? その文章は、日本の命運を決める重大な選挙がはじまりました。 原発派・増税派・TPP派が勝ったら、日本は米国の属国のまま、中国と戦争状態をつくる戦時内閣ができます。放射能禍も止まりません。 ですから何としても選挙で原発派・増税派・TPP推進派の候補を落としましょう! 以上、飯山一郎たってのお願いです。m(__)m (中略) あと、落選運動(これは合法!)の資料として…、 きのこがつくった(エライ!)『消費税増税 賛成議員 血祭りマップ』は素晴らしいです。 ↓コレです。(下のマップをクリックすると拡大します。) http://kinokokumi.blog13.fc2.com/blog-entry-3659.html ☆ ☆ ☆ 『消費税増税 賛成議員 血祭りマップ』は画像データ容量が、楽天ブログだと制限されてしまいみにくいので、リンクを貼っておきました。 脱原発、反増税、反TPPの、植民地でない独立国家を目指して! 次に、脱原発、反増税、反TPPの政策を、世論に反映させるべく、ネット庶民運動を広げるためによいサイトは、以前、紹介した、以下の「ニュースの真相」であるので、追加して抜粋し、紹介する。 ニュースの真相 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/ ☆ ☆ ☆ 日本未来の党と社民党の選挙協力 日本未来の党と社民党が選挙協力する事で合意したそうです。 未来と社民 選挙協力で合意日本未来の党と社民党は、脱原発や消費税率引き上げ法の廃止などを実現するため、衆議院選挙で可能なかぎり双方の候補者を互いに支援するなど、選挙協力を行うことで合意しました。これは、日本未来の党の森副代表と社民党の又市副党首が、そろって記者会見して明らかにしたものです。 それによりますと、両党は、脱原発を目指し、原発の運転再開を認めないことや、消費税率引き上げ法の廃止、それにTPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉参加阻止などを実現するため、衆議院選挙で可能なかぎり双方の候補者を互いに支援するなど、選挙協力を行うことで合意しました。 又市氏は「選挙後の政治の展開を考えたときに、信頼関係がある日本未来の党と連携することにした」と述べました。 また、森氏は「ほかの政党とも、こうした3つの政策で連携できるなら、可能なかぎり連携していきたい」と述べました。 12月3日 17時5分 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121203/k10013920331000.html いやー、日本未来の党がますます追い風に乗っています! まさに、神風といった感じでしょうか? 両党が掲げる、脱原発・反消費税・反TPPという3つの政策の実現のため、お互いに選挙協力をするという形で合意に至ったようです。 このブログをお読みの方で、「社民党って大丈夫なの?」 なんて方も居るかと思いますが、この際多少のクエスチョンは、まあ、良しとしましょう!(笑) とりあえず、日本未来の党はさらに、これら3つの政策に共通点を見出せれば、他の政党とも積極的に連携をして行くとの事。 選挙資金のカンパも順調に集まっているようですし、さあ、対米独立戦争、ますます面白くなって来ました! ☆ ☆ ☆ 米国は、1%の偽ユダヤ蛇人たちに支配奴隷化され、国連は、連中の、悪魔崇拝の、その実験場ですから、日本が、これに意を唱えるのは、神への信仰に目覚めろという警告にもなる。連中のシオンの議定書を利用した地球人奴隷化計画を阻止しなければならない。 ハルマゲドンの闘い、何が正しくて、何が間違いなのかの判断は、個人個人に委ねられている。どちらを選ぶかは、あなた次第!
2012年12月05日
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唯物論で考えると、人間は肉体のみからなるものとされるので、「人間は、食べたものからできている」と考えることができる。そうすると、健康は、食物から、いかに人体の構築への配分を、効率よくするかというメカニズムの機械的なお話になる。 神秘学では、人間は4つの体の、肉体、エーテル体、アストラル体、自我からなるとされるので、上述した考え方をとらない。上述のような唯物論的な考え方だと、物質的な生を味わい尽くすような戦闘的で、攻撃的な人間だけが存在するようになるだろう。 神秘学では、人体は、肉体とエーテル体の構築と、アストラル体と自我の解体からなるとされる。エーテル体は、植物も有しており、エーテル体は、植物の生育からわかるように、水の作用をうけ、いわば光から育成される。植物と人間は、植物が炭酸を吸って酸素を吐き、人間が酸素を吸って、炭酸を吐き出すように、その相反する呼吸からわかるように、逆の生命的な立場にあるとされる。 神秘学では、光は単なる物質ではなく、光のなかに霊的な光があるという。物質的な光を、外的な光とし、霊的な光を、内的な光としているのである。そして、内的な光は不可視のものである。アストラル体は、そのような内的な光を含んだものだとされる。 外的な(物質的な)光は、エーテル体に作用し、有機体を構築するが、内的な(非物質的;霊的)光は、アストラル体に作用し、有機体を解体するといえるという。 アストラル体は、動物も有しているが、動物は、集団(種)で、自我を有していて、人間は個人で自我を有しているところが異なり、自我とアストラル体のその関係から、人間一個人のアストラル体は、動物種全般のアストラル体をあわせ、調和し、ほどよく節度をもった形で表れたものといえるという。 逆説的にいえば、特定の動物種は、人間一個人の特定部分のみが、表出したものであるといえる。 つまり、「動物界は人間の諸特性が拡散した絵図である」という。 人体は、構築と解体からなるが、神秘学では、エーテル体が構築したものを、アストラル体が、解体するときに、人間内部で、意識が生じるとしている。これは、人間が体験を、消化し、分解(解体)し、統合し、知識として象徴(意識)させることで、わかるだろう。 アストラル体の解体により、意識活動が生じるが、その背景には、内的な熱が生じ、内的な光が生じるという。血液等に浸透する内的な熱は、蛋白質の分解により生じ、神経のなかに生起する内的な光は、人体内の経過、脂肪、炭水化物、澱粉、ブドウ糖などにより引き起こされるという。 つまり、このアストラル体の、正しい解体、エーテル体への正しい作用が、健康をつくり、正しい栄養がとれることを意味するものだという。このアストラル体の、エーテル体の正しい解体は、逆の方向で、植物の生育プロセスを継続するものであるという。 植物の最後のプロセスである花が、人間のはじまり(生殖器)にあたり、植物の根が、人間の頭部の脳にあたるという。だから、神秘学では、人間は、植物が逆さまになったものだとされるのである。 ここから菜食の意味が見出せるという。人間は菜食にすると、内的に活動しなければならず、その活動は、アストラル体によるものなので、アストラル体が正しい解体をするように、自我を努力する方向に導くようにするという。 肉食にすると、植物の生育プロセスの逆である、その解体作業が、省かれ、動物性脂肪と、動物のアストラル体を、同時に摂取するので、それを利用するような方向に進み、人体は、自らで作り出す労力を節約し、怠惰で依存的な自我を生み出す要因となってしまうという。 つまり、肉食は、自ら内的に活動する機会を失い、動物のアストラル体を招き入れるので、自我がアストラル体よりも、優位に立つことができなくなるという。つまり、軟弱な堕落した自我、エゴの強いものになるといえる。 ここから、性格が内面的で、瞑想を重んじる民族が、菜食中心であることがわかるだろう。逆に、物質的に生を謳歌しようとする戦闘的な民族が、肉食であることもわかるだろう。 菜食か肉食かによって相対する性格がつくられることがわかる。 仏教が、菜食中心なのは、アストラル体をより発展させて、瞑想し、マナス(霊我)を手に入れんとするためであるだろう。人間の中の内的な光が輝けば輝くほど、いわゆる霊光が増すので、神秘学でいう、アストラル体の正しい解体を促進するように、調整した食事をとることが肝要であることがわかるだろう。 その他、神秘学では、アルコールは、自我の分身を体内に、生じさせ、自我を怠惰にさせてしまうので、よくないとされる。それは、自我が、直接引き起こす行為を、アルコールが代わりに行ってしまうので、そのアルコール代替プロセスが続くと、アルコール依存症になってしまい、自我がその行為から切り離され、怠惰になるのである(肉食のアストラル体への作用と類似)。 コーヒー(のカフェイン)は、人間から、本来の内的活動を奪い、代わりにコーヒーが、代替するようになり、論理的関連、一つの思考への集中力を、コーヒーに委ねることになるという。コーヒーを飲みながら、世間話をすると、何かを完全にこき下ろすまで、一つの対象に思考がとどまるという。それは機知ではなくコーヒーの作用だという。 コーヒー愛好家に、批評家や、唯物論者が多いのは、このせいであろうか?(個人的感想では、コーヒー愛好家は、頭がカタく自説を決して譲らない人が多かったような気がする。調査してみるといいだろう)。コーヒーは、文学を書く小説家には、よいものをもたらすといわれる。 紅茶は、コーヒーとは逆の作用をするという。紅茶の強い作用は、機知ある思考、まばゆい思考を輝かせるが、思考の個々の部分は軽々しいという。紅茶は、思考をバラバラにするので、外交的な飲み物として好まれるという(個人的感想では、女性が外交上手なのは、紅茶のような作用に近いものが、女性のなかにあるのかもしれない)。 ミルクは、アストラル体にはあまり関与しないので、非常に優れた食料だという。肉食をやめ、虚弱なアストラル体に力を与えるのに、ミルクは、有用だという。ときに、ミルクは、人体にとって治癒力をもたらすという。 自分が食べたものの奴隷にならないように、正しい食べ方、つまり、自らの内的意識活動を高める、アストラル体の解体の正しい力を得るべきであり、それが得られないと、人間は、容易に、食べたものからできている存在になるといえる。 人間は、正しく食べないと、食べ物の奴隷となるといえる。 人間は正しく食べないと、地球を破壊する寄生虫となるのだろう。 人間は太陽の子であり、地球の子ではない。 地球の子であるなら、環境破壊など起こらないであろう。 だから、環境破壊を守るためには、人間は正しく食べなければならない。 環境問題は、食糧問題であり、食糧というより食質、つまり、食質問題となり、その解決は、人間が正しく食べることにあるのである。
2006年01月21日
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人智学では、現代は、暗黒の悪徳、つまりカリ・ユガの時代とされている。叡智が失われて、暗くなっているからである。学問や哲学は、もはや、人間や、人生の意味を照らし出さなくなってしまったからである。 ただ家畜のように生き、死ぬからである。 三種の神器のなかに、マナの壺というものがある。マネー、つまり、お金の語源となったものだが、この壺から、取り出して使ってもなくならず、かえって益々増えるものという言い伝えがある。 お金は、使えばなくなるが、お金の本来の意味は、社会的な信用である。交換社会では、交換するものの基準、つまり信用が重要なのだから、お金に、本来の信用があれば、使えば使うほど、益々、増えていくものとなるわけである。 この信用を、つまり貨幣換算が、自由に変化するのが、変動相場である。20世紀の人類の罪の1つは、信用を変動相場にしてしまったことだろう! それは、いまや、米国政府が信用を回復するには、デフォルトするしかなくなった事情からもわかる。 しかし、信用だけでは、本来のマナの壺の意味ではない。 使ってもなくならず、かえって増えるものとは、よくナゾナゾに出される問いだが、その答えは、人間の「能力」なのである。 人間は、能力を開発するために、生まれてきたといってもよいだろう。 どんな能力を開発するかは、自由で、個人の意志に委ねられている。 そこがややこしいところでもあり、また素晴らしいところでもある。 かのソクラテスが、魂の配慮ということを述べている。 それは、「人は身体や金銭のことよりは、魂が出来るだけ優れたものになるように配慮するべきである」というものである。 私は、この意味を、人間の能力と捉えている。能力を高めるには、トラブルが一番である。しかも、なるべく独力で解決するのがよいだろう。 しかし、現代人の多くは、独力を回避し、他人さえも利用しようとする。 それでは、何のために生まれてきたのか、わからない。他人を利用するのも能力のうちだが、他人がいなければ、はじまらないので、もはや、自分を失ってしまう。 第一、人間は皆平等であるという原則に反し、利用すれば、利用されるので、忽ち闘争へと発展してしまうわけである。 この状態が、家畜なのである。何のために、脳があるのか、何のために思考能力があるのか、宝の持ち腐れであろう。 さて、このような現代人の特徴を、遙か昔の古代では既に、カリ・ユガの時代として予言されていたことは、非常に驚きである。 以下のウィキペディアから抜粋する。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%AC 支配者に関して 1)支配者は理性を欠くようになり、不公平に税金を徴収するようになる。 2)支配者はもはや崇高であることや、被統治者を保護することを義務だと思わなくなる。彼らは世界にとって危険な存在となる。 3)人々はコムギやオオムギが主食であるような地域を探し、そこに移住を始める。しかしその一方で、彼らは自分たちのものを好んでいるので、そのために自分たちの生活を犠牲にする。 人間との関係 A)七つの大罪や復讐が普通に行われる。人々はお互いに強い憎しみをあからさまに示すようになる。 B)法は忘れ去られていく。 C)人々は正当化できない殺人について考え始め、そしてそれが悪いことだと考えなくなる。 D)性欲は社会的に容認されるものと見なされ、セイ(性)行為こそが人生において最も必要なことであると考える。 E)善意が衰えていき、犯罪が飛躍的に増加する。 F)人々は直後に破るためだけに誓いを立てる。 G)人々は酒と薬物に溺れる。 H)男は自分たちの仕事のストレスが大きいことを自覚し、仕事から逃亡するためひきこもる。 I)グル(導師)はもはや尊敬されなくなり、彼らの弟子たちは師を痛めつけようと試みる。彼らの教えは侮辱され、カマ(官能的な欲望)の信奉者は全ての人間から心の制御を奪い取る。 J)バラモンは学ばれることも尊敬されることもなく、クシャトリヤは勇敢ではなく、ヴァイシャは公平でなくなり、シュードラは正直でなく、彼らの義務や他のカーストに対して謙虚でなくなる。 以上だが、驚くほど、現代人の特徴を言い表している。 1)などは、いまの菅政権である。 2)などは、北朝鮮、中東、アフリカの独裁国、アメリカ、中国、ロシアが当てはまりつつある。 3)は漠然としているが、「コムギ、オオムギ」を「快楽」に置き換えれば、意味が通る。つまり、快楽を求めて移住するが、日常の生活を離れることはできないので、それを犠牲にする、という意味になる。 A)の7つの大罪とは、「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」である。「復讐」とあわせて、現代人の特徴がよくわかる。 B)の法とは、一般的に、道徳である。道徳よりも金儲けを現代人は優先している。 C)の正当化できない殺人の端的な例は、自殺だろう。自殺は列記とした殺人だが、自分の命を自分が所有しているという錯覚が、現代人の特徴なので、悪いことだと考えなくなる。つまり殺人を、あれこれと理屈づけして、正当化するようになる。 D)性欲を刺激する媒体が、社会に氾濫している。道徳よりも金儲けが優先されるせいである。つまり、現代人は、中身よりも外見を美化すること、つまり嘘、偽りで、他者を騙すことに力を注いでいるわけである。 E)は、もはや現代人の特徴で、代名詞となっている。犯罪が増発しているので、あれこれ理屈付けして、犯罪とみなされない現象までおきている。例えば、東電の事故など。 F)は、契約だが、もはや破るためのものになっている。例えば、原発の安全神話や、原発事故のストレステストなど。「想定外」としている事故をどうしてテストできるのか、不思議でもある。事故の元となる原発をつくらなければよいだけである。事故にならないものをつくるのが技術の基本である。 G)は、もはや現代人の代名詞。薬物に溺れるのは、魂を磨かずに、依存心がいかに大きいかを現している。 H)については、古代書に、既にニート、引き篭もりが記述されているとは驚きである。 I)は、新興宗教や教育崩壊のことだろう。 J)は、社会規律や社会風紀の乱れのことだろう。 これらは、ギーターと関係の深いマハーバーラタに書かれていることなので、人智学でいうポストアトランティス時代の第3文化期後期、もしくは第4文化期初頭の話なのだろう。 だとすると、古代アトランティス時代が、約1万年前に終焉したので、大体、1つの文化期が2千年続くとすると、約3千年前の話となる。つまり、3千年後の予言をしたことになる。 そこで、カリ・ユガの時代はいつまで続くのか、が問題だが、シュタイナーは、年月は、次第にはやく経過するようになるようなことをいっているので、マハーバーラタのときの換算では、43万2000年であっても、それは当時の人間の意識を土台とした換算なので、現代人の、覚醒意識による換算とは異なるわけである。 ちなみに、シュタイナーは、20世紀以後に、カリ・ユガの終焉がみられるようになるともいっている。 つまり、次の水瓶座のアクエリアスの時代の始まりが、カリ・ユガの終焉に思われる。大体2030年頃に思われている。 その救世主であるカルキは、クリシュナの化身だが、人智学でいうなら、キリストであり、既に、エーテル体で、地球上に現れ、活動しているというわけで、霊的器官を開発し、霊視能力を手に入れた現代人、つまり覚醒意識を断念し、捨てた現代人には、白馬に乗って現れるのがみえるのだろう。 恐らく、生命の樹が、実は、人間の神経組織だったように、この救世主は、将来、人体のなかにできる新しい神経組織なのではないか?と思われる。 今のところ、私は、心臓のなかに、新しい神経組織ができるのではないか?と予想している。 心臓を制御できると、人間は感情を制御できるようになるらしい。逆にいえば、感情の制御が不得手の人間は、心筋梗塞に罹り易いわけである。 また心臓は、人体のなかの、生命の樹でいう上方の枝や葉の、つまり手足を動かす源に思えるからである。脳は、生命の樹でいえば、下方の根にあたるからである。心臓でなければ、生命の樹の位置からすれば、生殖器かもしれない。
2011年07月13日
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癒し-瞑想生活において、進化(前進)し、いわゆる益々熟達し、瞑想生活と調和し、自らを瞑想人として感じとることが可能になるほど、実際、具体的に、真の自己認識を、益々一層獲得するようになる。この「具体的な、真の自己認識」は、積極的な課題、例えば人生における治癒が問題になる場合、実際、軽視できない。 瞑想において進歩すれば、以前には全く意識できなかった事柄が、自身の生体組織のなかで意識できるようになることに気づくだろう。ただ、意識のなかに上昇する存在に関しては、外見、外面的な公開講演や一般講演では、全く独特な傾向が生じるので、いまのところ、公開の場で話すには非常に困難であることが意識できる。 今、注目した、この基本的事項に関して語るなら、現代のような道徳的状況下で、比較的大きな集団に伝えたなら、すぐに、「どうして、この瞑想による知識を活用しないのか?」、というような質問が出るだろう。 つまり、瞑想者に瞑想させ、ある物(金属)が足りないことが分かれば、ある物(金属)さえ供給すればいい、簡単な話ではないか、というわけである(現在のサプリメントと同じ考え)。 更に、瞑想の代わりに、足りない物を服用するほうが遥かに容易である。その人は、このこと(瞑想を省略すること)で、ある意味、道徳的に自滅することになる。それでもやはり、現在の道徳的状況では、人々は、この安易な考えに抵抗せずに(どういうことを言っているかは、すぐわかるだろう)、瞑想の代わりにむしろ、外界の薬物を服用するだろう。 そのような外界の薬物は、当初、その進路の最初期では、瞑想に類似した効果を与える。実際、そのような事実はあり得ることで、というのも、つまり、一定期間、瞑想を継続し、このような事実を洞察する傾向を持つようになれば、通常の、モノをつかむ手の感覚や、歩行する足の感覚を意識するのと全く同様に、放射する鉄の作用を意識できるようになるからである。 (正しい瞑想を行うと、自分に何が足りないのか、例えば、鉄の作用、プロセスが足りないと感じるようになり、外界から、薬剤として鉄を供給すればよいことがわかるという。古代人は、この自然治癒力を知っていたので、病気に罹らなかったという。必要なものを食物として、食べたことから医食同源が生まれた。) 鉄の作用意識が出現するのは、事実である。この意識は、自分に腕や脚があり、或いは身体を回転させる等で、眩暈がして、頭がある、と通常はっきりわかるのと全く同様に明確な存在である。自らを鉄のファントム(2)と感じる意識が生じてくる。(2)ファントム;神秘学的に言えば、物質としての肉体に先立って、本来、不可視な、純粋な形態があり、この眼に見えない肉体形式が、ファントムと呼ばれる。この形式-ファントムに物質素材が入り込んで、肉体が成立する。パウロが「コリント書」で言っている「霊の体」も、このファントムのことである。このファントムを理解することで「キリストの復活」を理解する鍵が得られる。 いま述べていることに対して、当然、次のようにいう人がいるだろう、 「そうですか、つまり何かを外から服用することで、自分のなかにある固有の鉄に対する鉄感度、敏感さを高めることができるわけですね、服用で同じ作用が得られるのですね」、と。 つまり、この事実は、初期段階では、全く正しい。しかし、人々が、いわゆる手軽な「霊視」の方法を得るために、このような方法から実験を始めるなら、非常に危険である。このような実験は、実際様々に行なわれている。このような実験が、人類のための供犠と呼べるものとして行なわれるなら、また話は別である。 しかし、好奇心から行なわれるなら、人間の魂の道徳的構造を根底から破壊する。このような誤った方向で、自らを用い、色々と実験し、今日でも、その著作のなかに見られる事実を数多く発見した人物は、ファン・ヘルモント(Van Helmondt)だった。 パラケルスス(Paracelsus)においては、むしろ、次のような感情を抱かせる態度だった、 「彼の認識は、霊能力の形をとって、内部(精神)から立ち昇り、その認識を地上を超えた世界(あの世)から、この世に携えてきた」、と。 他方、ヘルモントの場合は、常に、自身に薬剤を供給し、(自らの身体を使って実験し、)独特の見解を得ていた。彼の叙述方法から、その事実を見て取れ、彼自身、個々の箇所で、この事実を暗示しているので、非常に明白である。 もっとも手近に獲得できる能力は、鉄の作用の放射に対する敏感さ、つまり上部人間から、放射作用が発せられ、四肢全てに分岐していく事実を証とする、この奇妙な鉄作用に対する内(精神)的な敏感さである。 この鉄の作用から、すなわち、鉄の機能、鉄の力を用いて、自らの内(精神)部制御を直観できる。 しかし、この鉄作用の放射を、図に示すなら、同時に、鉄作用としては、人間の生体組織を超えて作用を及ぼす能力はない、ということに言及しなければならない。この鉄放射は、人間の生体組織のなかに局所化され、生体組織の内部に留まっている感じを受ける。この鉄の放射力が堰き止められる切欠を与えるような、対抗作用が至る処に見られる(下図参照)。 次のように言える、 「この対抗作用は、鉄が陽に人体の周辺部に向かって放射するのに対し、球面波を描くように、陰に反射され、返ってくるようにみえる」、と。 この事実は、放射と、抑制、つまり鉄の放射が壁に突き当たり、通り抜けられず、特に体の表面を超えて、出ていけない事実の、両方の知覚に相当する。この抑制の反射が、他ならぬ蛋白質の力である。 従って、鉄を通じて、生体組織のなかに、ある機能関連が導入されると、この鉄作用に対して、以前述べた、四つの器官組織から発する全て(蛋白質)が、反作用を行うことに、徐々に気づくだろう。 鉄と蛋白質の力である4つの器官組織は、互いに抑制し合う。生体組織では、このような闘いが絶えず存在している。これが、内的な直観によって、いわば真っ先に知覚されることである。 人間の精神史の研究へと進むと、ヒポクラテスの医学、そしてガレヌスの医学でさえも、このような内(精神)的観察の残滓によって成立していることがはっきりとわかるだろう。 鉄の作用:蛋白質の作用(4つの器官組織作用)
2009年03月09日
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今年年頭からこの国はどうも呪われているような予感がしていたのだが、昨今の地震といい、いまだに悪魔の手下のアホ政権が続いていることに、この国の善意は踏みにじられ、無抵抗な奴隷と化したこの国の住人の悲劇を目の当たりにして、ただただ無力感しか感じない。 巷で今話題のオリンピックのエンブレムは不吉な葬式のようなシンボルだし、そこらへんに悪魔のシンボルが蔓延りだしてきたからでもある。恐らく癒着やインチキで何度選ぼうが、結果は同じで日本の死を表明しているのだろう。 そして、ついに、オカルトでは、悪魔の数といわれる不吉な数が巷に現われた。 ★ ★ ★ <株式>東証=終値 1万6666円05銭 http://news.yahoo.co.jp/pickup/6199370 28日の東京株式市場の日経平均株価は、前日の終値と比べ624円44銭安の1万6666円05銭で取引を終えた。(毎日新聞) ★ ★ ★ 666はいわずもがな、オカルトでお馴染みの獣=悪魔の数である。続いて、不吉な予感の話を紹介する。 ★ ★ ★ これはもうだめかもしれんね http://my.shadowcity.jp/2016/04/post-9302.html 大した理由もないのに日経平均大暴落で、ただいま617円のマイナス。円高も進行中で、108円台。連休狙っていつもヘッジファンドが仕掛けてくるので、投資家が過敏になってます。まぁ、政府がムリクリ上げてる相場なので、ちょっとしたきっかけでドカンと下がる。 アベノミクス大崩壊 http://my.shadowcity.jp/2016/04/post-9301.html さっきも書いたんだが、前年が前前年比マイナス10.6パーセントで、今年の3月が更にそこからマイナス5.3パーセントって、コレが「25年ぶりの好景気」なんですか? もうね、アベシンゾーはわざと日本を破滅に導いているとしか思えない。やはりチョーセンジンを首相にしちゃ駄目だ。日本人を首相にしろ。山本太郎とかw 3月の実質消費支出、前年比5.3%減 市場予想は4.2%減 家計調査 総務省が28日発表した3月の家計調査によると、2人以上の世帯の消費支出は1世帯当たり30万889円で、物価変動の影響を除いた実質で前年同月比5.3%減少した。2カ月ぶりに前年同月を下回った。QUICKが発表前にまとめた市場予想の中央値は4.2%減だった。季節調整して前月と比べると0.5%増加した。 ところで何故、選挙不正システムの名前が「ムサシ」なのか? 宮本武蔵というのは、汚い戦い方をするので知られていて、平気で卑怯な手を使うわけです。わざと遅刻してイライラさせたのは有名だが、それ以外にも、いつも汚い手段で勝っている。きっとチョーセンジンだったんだろう。 (八切史観では、ムサシ=宮本武蔵のほとんどが戦争昂揚のための創作だというから、要するにインチキなんである。勝海舟などは、ムサシは沢庵和尚の変名とも言っている。要するに、「ヤラセ」というわけである。)、 公開処刑は5月10日 http://my.shadowcity.jp/2016/04/10-27.html いよいよです。連休明けの5月10日に、パナマ文書の詳細データ公表だそうで。どうも、ヤクザとか詐欺師の名前が多いらしい。あとはせいぜい、相続税逃れの成金か? みんなが期待してるような、大企業、政治家の名前は出て来ないだろう。なぜなら連中は、もっと利口な手口を使っているからだ。 パナマ文書 来月10日公表へ 国際調査報道ジャーナリスト連合は26日、「パナマ文書」に記載されていたいわゆるタックスヘイブン=租税回避地にある法人名と、法人に関連する個人名を、日本時間・来月10日に公表すると決めました。 また、「パナマ文書」を明らかにした南ドイツ新聞などによりますと、日本に在住する人や日本企業が株主や役員として記載された回避地法人は270以上あるとみられています。 創価とかアムウェイのメンバーあたりは出るかも知れない。都市近郊の大地主あたりも出て来るだろう。ただ、「カネを隠した」というだけでは脱税ではない。カネを隠して、相続で申告逃れをしたら、脱税。一度出てしまったら、もう、隠せないねw 公表する事によって、相続税逃れを事前に防止するという効果はありそうだw ★ ★ ★ 悪が悪いのではない、悪から抜け出せないのが悪いのである。気づいていながら、気づかないふりや誤魔化しが、人間を地獄に落とすというシュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ 古代アトランティス時代の前期では、秘儀参入者だけでなく、ほとんどの人がレムリア時代の遺産である潜在意識での霊視を通じて、善の光の神々と悪のルシファー達を見る能力をもっていたのです。 ルシファー達が見えていれば、恐らくその姿から、自由の送り主ではあっても、人類が目指すべき存在ではないことが、漠然と感じとれたことでしょう。 ★新たな誘惑者アーリマン さて、ルシファー達は、人間(の欲望)にとって魅力的な世界―物質=感覚界を目の前に展開させたのですが、この段階ではまだ、人間には神霊界も同時に見えていました。 従って、物質=感覚界は魅力的だが、現実では無く、その背後の神霊界こそが、現実であることがわかっていました。 しかし、古代アトランティス時代の中期以後、新たな誘惑者アーリマンが現れ、その影響で、人間は『目の前に広がる物質・感覚界の他に、世界は存在しない』と洗脳されます。 「古代アトランティス時代中期以来、ルシファーとは別の敵が現れました。 その敵は、人間の知覚力と認識力を朦朧とし、暗いものにし、感覚界の背後に赴く労苦・意識を人間が発展させないようにする敵です。 ルシファーの影響下に、感覚界は真実を覆い隠すベールのようになり、その背後に霊界がありました。 (この国のいまのダマスゴミにそっくりである。) 第2の敵対する存在の影響によって、物質界は厚い皮になって、霊界を閉ざしました。 古代アトランティスの秘儀参入者だけが、準備を通して、物質=感覚による洗脳の覆いを突き抜けることができました。 人間に近づいて来て、神霊界への見通しを暗くする力は、ゾロアスターが説いた偉大な教えの中で、悪魔アンラマンユ=アーリマンとして初めて明らかにされました。 古代インド民族は、 『遺伝された霊視を通して、霊界に戻りたい』 という憧れをもっていました。そのようなインドの文化では無く、民族の目を感覚界に向け、 『民族霊の目を感覚界に向け、外的な感覚=物質への人間の努力を通して築ける文化』を提供する使命をゾロアスターはもっていました。 ですから、古代ペルシア文化に対するルシファーの影響は、アトランティス時代中期以後に人間を洗脳するためにやって来たアーリマンの影響よりも少ないものでした。 この悪魔の存在によって、当時、秘儀参入者の大部分が黒魔術=唯物論に陥りました。 彼等はこの誘惑者に唆されて、霊界から手に入れたものを、物質・感覚界のために乱用するようになりました。 黒魔術力の影響によって、アトランティス大陸はついに没落に導かれました。 アトランティス没落の原因を作ったのは、ゾロアスターが民族に教えた、光の神に対抗するアーリマン(アレフマン)、アンラ・マンユです。 ゾロアスターが偉大なオーラ『アフラ・マズダ』と名付けた光の神に、アーリマンは対立します。」 シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp24-26 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載 簡単に言ってしまえば、人間という魚に対し、ルシファーが奴隷養殖場へ続くエサをばら蒔き、アーリマンはそのエサしか見えなくした、といったところです。 ルシファーの養殖の意図については、後に説明することになると思いますが、少なくとも人間には、最初はそのエサが奴隷養殖場へ続いていることを知っていたということです。 そしてアーリマンは、エサが奴隷養殖場に続くことを人間にわからないようにしてしまったということになります。 しかも、後にお話しするように、アーリマンの意図は奴隷養殖では無いのです。 (後に明らかになるが、アーリマンの意図は、奴隷を利己的にし奴隷同志を戦わせ競わせて全てを奪い支配すること) さて、この話について初めて読まれる方には少々解説が必要ですので、蛇足ながら解説を入れてみます。 古代アトランティスの繁栄と没落については、エドガー・ケイシーを始め多くの霊能者が霊視しています。 詳細にはそれぞれ違いがあるものの、大筋は第八十夜及び八十五夜でお話しした『アトランティスからのスピリチュアル・ヒーリング』の内容に近いのではないかと思います。 最終的には、秘儀参入者の黒魔術への傾倒によって滅ぶのですが、シュタイナーはその原因を、神霊界への見通しを暗くさせたアーリマンの計略によるものとしています。 ところで、ゾロアスターについても突然の登場ですが、少なくとも、第149夜でお話ししたように、厳密にいえば、ゾロアスター教の創始者(ゾロアスターという名は何世代も受け継がれたが、その最後の存在)とは違う存在であることを説明しないと、異端宗教者と誤解される危険性があります。 (ゾロアスターはアヴェスタ語で、光り輝く「ゾロ」-星「アスター」という意味。アフラマズダは、巨大な「マズダ」-アフラ「オーラ」=巨大なオーラという意味。) また、古代インド民族の憧れについても、何を示しているのかわからないと思います。 ここは以前お話しした古代エジプト人の秘儀参入方法を指していると思われます。 詳しくは第150夜辺りをご覧ください。 つまり、古代インド民族の神霊界に憧れる方法では、人間は個人として覚醒したままの意識を持って神霊界を見ることは出来なくなってしまうということです。 (仏陀の時代はこの方法でも可能だったが、現代は個人意識を獲得したので、仏教のように無我を目指すと廃人になってしまいかねない。多くの日本人が、組織に服従し、奴隷と化している現実を見れば明らか。 かつてはエコノミックアニマルと呼ばれた。意識の面で、日本人は遅れている。ルシファーが強い。多くの仏教徒が霊界を見れないことでも明らか。ほとんどが嘘つきで商売をやっている。 御釈迦様は日本の仏教徒の低たらくを予想できたこととはいえ、嘆き悲しんでいる。日本の仏教をそのうち滅ぼしてしまわれるだろう。熊本城の崩落などはその予兆と思える。) そして、ゾロアスターの究極の使命こそ、自らがもつ4つの構成要素を、幾世代も継承・進化させて、アフラ・マズダ(=キリスト)を受肉させ、ゴルゴダの秘儀を行うことなのでした。 詳しくは第151夜以降をじっくりお読みください。 小生が第169夜の冒頭部分でお話ししたように、この辺りの説明無しで、シュタイナーの話が直感的にわかる方なら、第168夜までの説明は全くの蛇足なのです。 しかし、小生を含め多くのシュタイナー入門者は、スピリチュアリズムの知識を総動員して読み込まないと、とてもついてゆけない、と言うのが正直な所です。 ましてや、ちょっと聞きかじった程度で、シュタイナーの言葉を引用してしまうと、シュタイナーを単なるオカルティストの1人として捉えてしまうでしょう。 (残念ながら、ほとんどの人がシュタイナーをオカルティストとしている。シュタイナーの話に身の危険を感じるからである。実は恐怖心を感じることこそがルシファーの証なのである。 シュタイナーの話は悪魔のリトマス紙ともいえる。関心がなければスルーすれば済むことである。なぜ敵対しアンチに走るかは、恐怖心を感じるからであろう。逆に盲信するのも、その裏返しである。) 小生とて、まだまだその域を出ていません。少なくとも安易な断定はしないように心掛けているつもりではありますが…。 それでは、その辺りの戒めを新たにして、次回第178夜へと続けてゆきます。 トンデモ話は奥で繋がる 「第178夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1083.html ≪ルシファーとアーリマン(3)(改変)≫ ★霊界のアーリマンを封じた秘儀 さて、アーリマンについて、更に言及していきましょう。 意外にもシュタイナーは、アーリマンの力が最大限に強まるのは、死後の世界で、ゴルゴダの丘でのキリストの磔刑は、我々人類をその影響から救うためだった、と言うのです。 「アーリマンは様々な方法で人間に働きかけます。ゴルゴダの出来事は、世界の進化にとって大きな意味がありました。 その時以来、人間が死後に歩みいる世界の中にキリストが現れました。 その世界では、誕生と死の間に体験する地上の世界よりも、アーリマンの影響は遥かに強いのです。 死から転生までの霊界において、アーリマンが恐ろしい力をもって人間に影響します。 ゴルゴダの出来事が起こらなければ…死から転生までの世界は、人間には次第に暗い闇になっていたでしょう。 無限の孤独と人間の利己性が、死から転生までの霊界での人生の中に入って…人間は再受肉に際して、ひどく恐ろしいほどの利己主義者になっていたでしょう。 ゴルゴダで傷から血が流れ出た瞬間、キリストが彼岸、影の国に現れてアーリマンを拘束したというのは、創作では無く、事実を表現しています。 アーリマンの影響は確かに残っており、唯物論的な思考はアーリマンに由来するのですが、その影響は、人間がゴルゴダの出来事を自分の内面に受け入れる事で無力化でき…再び霊界・神界の中に入ってゆけるのです。」 (ゴルゴダの出来事とは、自分を超えたエゴを他者を生かすために犠牲にすること。端的にいうと「足るを知る」こと。分をわきまえること。欲望に終止符をうつこと。) シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp28-29 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載 死から転生までの経緯については、第134夜以降で詳しく述べましたが、死後の霊界で、人間は霊的な照明力(霊光)を発現し、浄化の諸段階を経ていきます。 もし、ゴルゴダの秘儀により、キリストが死後の霊界へ赴かなかったら、アーリマンが、死後での人生の過程全てを、ことごとく闇に閉ざし、転生を危うくしたということです。 (死後、人間を孤立させ、独房に入れる。アーリマンは人間を孤立させ、組織の歯車にする。漫画の銀河鉄道999の機械人間にする。バブル期の日本人の多くが、過労死でアーリマンの手下におかれた。過労死を生んだ経営者は死者の苦しみを死後味わうことで更に孤立する。) さて、その最後の段階では、第144夜で述べたように霊界での人生の真夜中が訪れ、ルシファーが『再受肉』を思いとどまらせる誘惑をすることになります。 小生は初め、このルシファーの行為にアーリマンも関わっているのかと思っていましたが、アーリマンの主目的は、我々を利己主義者として再受肉させようとすることのようです。 しかし、キリストの秘儀により、本来の主戦場である霊界では大きな成果をあげられなくなったアーリマンは、その誘惑の場を、転生後の我々人類の心の中に移しているのです。 (アーリマンは、個人を孤立させ、人類同士で戦わせ、人類を支配するのが目的である。だから戦争屋に憑依する。 悪の宇宙人はSF映画のように人類を攻めはしない。NASAは壮大なコメディーを演じている。悪の宇宙人は、権威者、支配者に憑依し、人間同士で戦わせ支配する。ヒトラーをみればわかる。 ウイルスと同じである。ウイルスは宿主を失うことを恐れる。だから、人間を殺すのではなく、選別する。その手口は、宗教の勧誘と似ている。宗教と軍隊を好むものを選ぶ。) ★霊能力は両刃の剣 「確固とした土台に立たずに、オカルトを志向する人は、アーリマンの影響を通して非常に恐ろしい幻想・錯誤がやってきます。 アーリマンは感覚界の真相を隠す霊だからです。感覚(物質)界は霊界の表現である、と思わせないように洗脳する霊です。 夢遊病的な異常な状態への素質があったり、誤った修行によってオカルト的な霊力(超能力)を自分の中に目覚めさせ、 利己主義の傾向を自分の中にもつと、アーリマンがオカルト的な霊力(超能力)に影響を及ぼし、その影響力がどんどん増していきます。 …アーリマンの影響に端を発する造形力は、肉体に悪い影響を与え、エーテル体の中を通って、幻像を事実と偽って見せるようになります。 …アーリマンの影響によって、人間はオカルト的な錯誤の認識に達するために、肉体的な修練に取りかかるようになります。 …アーリマンは虚偽の霊であり、人間に幻想を呼び出します。アーリマンは仲間とともに霊界で活動します。 アーリマン自体は幻影ではありません。人間の願望や情熱が、邪悪な道に進むと同時にオカルト的な霊力に没頭すると、発生したオカルト的な霊力がエーテル体の中に入り、しばしば人間に尊ばれている姿に成り代わり、その幻影を通して、有害で邪悪な力を作用させます。 アーリマンから人間への影響は、恐ろしいものです。 …キリストの秘儀から流れ出る霊力の他には、アーリマンの影響に対する防御が少なくなってきました。 (キリストの秘儀とは、十字架=正負のエネルギーの出入り口=自我に均衡をもたらすこと。) ある意味で、現代はアーリマンの影響と向き合っています。そのことを多くの現象が告げています。 (自分だけは特別と考えるあらゆる誘惑。人類は皆同じで、人類=各個人であるが、そこから逸脱しようとすること。自分だけ救われたいと思うのも誘惑。) ある密教の教えは、アーリマンの群れを阿修羅と名付けています。 もちろん、人間に自我を付与した阿修羅の進化の道から、ある時期に堕ちた悪しき阿修羅のことです。太陽の分離以前に地球の進化から逸脱した存在のことです。」 シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp31-35 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載 さて最初のオカルトを盲信する話は、現代のスピリチュアリズムの信奉者も、しっかりと胸に刻むべき言葉ではないかと思います。特定の霊や宇宙人との交信のみを目的化してしまっては危険です。 見かけは非常に尊い姿をしていても、その霊性が必ずしも善であるとは言い切れません。姿はキリストのようでも、別の霊が入れ替わっている場合も有り得ます。 (悪魔もキリストのように語る。悪魔は虚偽の存在なので嘘をつく。) 自分達だけが霊や宇宙人と交信が出来る、という優越感は、次第に利己主義的な交霊術に変わってゆく危険性を持ちます。シュタイナーが『神智学』と決別したのもそのためでした。 (宗教者が教えを独り占めにし、カネ儲けにつかうことなど。) ★レプティリアンの1つの解釈 もう一つ、シュタイナーは、アーリマンは肉体に悪影響を及ぼすだけでなく、エーテル体を通して、その幻像を目に見えるようにする、とも言っています。 (悪性腫瘍はアーリマンの憑依によるもの。アーリマン的な考えを持つ人ほど癌になりやすい。アーリマン的な考えとは、生命を数値化したり、統計を駆使したり、他者を安易に物質に置き換えて評価したりすることで、唯物主義者。最近はなんでも脳やDNAの還元論にしてしまう。) こう語られると、小生はどうしても、あるトンデモ話との関連性を考えずにはいられません。デービッド・アイクが『恐怖の世界大陰謀』の中でその存在を主張している『レプティリアン(爬虫類人間)』です。 またまたトンデモ話の深みへとはまってしまうような話ですが、簡単に要点を紹介してみます。 アイクは、レプティリアンこそ、かつて『神々』と崇められていたアヌンナキの子孫であり、今も我々の裏世界で、我々の文明の上に君臨し続けている種族であると主張しています。 彼等は、そのままでは受肉できない異次元の体を持つアヌンナキが、人類との間に創り上げた混血種で、通常は人間の姿で、各国の政官財の要人として振舞っています。 (ドリールは、第10番惑星人の末裔ともいっている。) そして、彼等がそのおぞましい欲望の興奮状態に陥ると、爬虫類のような真の姿を現すのを、多数の目撃者が証言している、というものです。 (爬虫類というよりも、かつての人類の姿で、恐竜の姿である。中華思想が龍を崇めるのは、人類の姿がかつて恐竜だったからである。 爬虫類は、卵を地中に埋めるが、パナマ文書からもわかるが、金塊を埋めて貯蔵したり、死に金をつくろうとするのは、この龍の習性の1つである。 つまり現代の多くが資産を福祉に使おうとしないのは、人類が退化し、爬虫類化している証拠である。このような人間落第の輩たちは、せっせと地獄に行こうとしているから滑稽である。) 確かに彼等一握りの要人が、表向きは平和・平等・健康の使者の顔を装って、裏では紛争・貧困・疫病の種を世界中に撒き散らすアーリマンの手下たちであるのは確かでしょう。 (スイスなどタックスヘイブンに資産を隠す連中は龍の子孫で、皆、地獄行きである。アンチキリストである。連中は合法的というが、その法をつくったのも連中である。 その死に金のために何億人の人類の同胞が犠牲になっているのに知らんぷりである。個人の愛の意識をもたず、集団の奴隷意識しかないから、爬虫類としかいえない。) ただ正直なところ、彼等が爬虫類の姿に変身する、については、小生も、シュタイナーのこの話を知るまでは『いくらなんでも…』と思っていました。 しかし彼の言うように、アーリマン的な欲望に取り付かれた魂は、自らのエーテル体にまで、その醜悪な姿が浸透してくるとすれば、一時的に変身したように見えるかも知れません。 (人体に悪性腫瘍が現にできることでわかる。また、人間の頭部の脳から脊柱までの神経全体図をみれば、蛇そっくりであることから、肉体を取り除いた、エーテル体の爬虫類の人体の姿が思い浮かぶだろう。 肉眼では爬虫類にはみえないが、心の眼があれば、エーテル体が所々でこわばり角質化し、爬虫類の鱗のようにみえるはずである。現に悪性度の高い腫瘍ほど角質化する。聖書の記述にある「角」とは、エーテル体の角のことで、角質化のことである。) つまり『レプティリアン』とは、特定の種族というより、アーリマンの欲望がエーテル体のレベルまで染み付いた一群の人種ではないかと、小生は思っています。 (ガンになりやすい体質、主に血液系の病気だが、家系でもつことからもわかる。これは日常生活で、愛の意識を自発的にもてればかわる。ガンなどほとんどは心の病気である。古い家系が血友病を恐れて男子継承なのは、その証といえる。) そして、そのような秘密を持った一族であれば、ロスチャイルド一族のように、姻戚間での婚姻を重ねざるを得ないのも、十分に考えられるのではないか、と思います。 さて、このように書くと、決まって指摘されるのは、陰謀論者は何でも次々と関連づけて、自らの空想を事実であるかのようにすり替えていく、というものです。 しかし、小生が知るところ、アイクは自らの説を強力にバックアップしてくれると思われる、このシュタイナーの解釈を持ち出してはいません。 通常、このようなトンデモ説を打ち出すには、少しでもその裏付けとなるような他の説や証拠があれば、手当たり次第に結び付け、自説の補強に利用するものです。 実際、先ほどの陰謀論者の批判にもなるのですが、シュタイナーの説くアーリマンの特徴については難解であり、結びつけることすら思いつかないと思います。 故に、彼は自身の見聞と直感で『レプティリアン』説に辿り着き、これを主張している訳です。一方当然ながら、シュタイナーは彼とは時間・空間を異にして述べています。 こうして全く別の見方から生まれた2つの説が、同じ―しかも相当特異な―現象についてシンクロしているとすれば、単なる空想以上のものと受け止めるべきでは無いでしょうか。 さて、最後のところで、太陽の分離以前に地球の進化から逸脱した阿修羅が出てきますが、次回第179夜はその辺りの話へと入ってゆきます。 トンデモ話は奥で繋がる 「第179夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 ≪ルシファーとアーリマン(4)(改変)≫ ★我々人類の先をいく者 実は、現在(地球)の進化過程で、人類がアーリマンの影響を受けているのと同じように、地球紀の前に、同じような試練を受けていた者達がいる、とシュタイナーは続けます。 「人類が《地球》進化の経過の中で、人間という進化段階を通過している、のと同じように、《月》紀において、人間という進化段階を通過した存在達がいることを、人智学者は知っています。 …それらの存在達は天使と呼ばれています。 私達人類の内面でルシファーが戦っているように、同じような戦いが、月紀の人類の内面で当時行われていました。 それらの存在達の内面は《月》紀において《太陽》紀の進化から逸脱した霊達による戦いの舞台となっていました。 この《月》紀での戦いは、現在の人類の内面にある自我とは関係ないものでした。《月》紀では、現在の人類はアストラル体までのいわば動物の存在で、まだ自我をもたなかったからです。 その戦いは、いまの人類の自我が関与できない、《月》紀の天使達の中で行われたのです。 《太陽》の正規の進化から逸脱した存在達が、今日ルシファーが現在の人類に対して行っているのと同じ役割を、当時、天使達に対して演じていました。 …ルシファー達が《月》の進化において逸脱したように、《太陽》の進化で逸脱したのがアーリマン達です。 …アーリマンは天使達の胸の中で誘惑する存在であり、天使達の中で活動します。 アーリマン達の影響を一方で受けて、天使達は今のような姿になりました。そして天使達は、アーリマンの影響を一方で受け、善に転化させました。 現在の人類は、ルシファーの贈り物を善に転化し、善悪の区別、自由な決断力、自由な意志を得てきました。それらは、ルシファーを通して得られたものです。 天使達は高次の存在から何かを獲得し、地球の中に持ち込みます。 …天使達は、《月》紀にアーリマンの影響を通じて受け取ったものを《地球》にもたらしました。 …《月》紀にアーリマンの戦いが生じていなかったら、《月》紀のものを《地球》にもたらすこともなかったでしょう。 《月》紀が崩壊した後、《月》のものも消え去っていたでしょう。 天使達はアーリマンの影響を受けたことで、《月》に巻き込まれたのです。 (ここでいう「月」とは、硬化=物質化のことである。逆に「太陽」は、柔軟化=霊化のことである。) 現在の人類がルシファーの影響によって《地球》に巻き込まれたのと同じです。 (ここでいう地球とは、神々に背く「自由」という意味。ルシファーの影響なくしては、人類は神々に背けなかった。つまり自由を得られなかった。) ルシファーは《月》を内面の自我に受け入れたことで、…地球全体がルシファーの影響に囚われないようにするのに必要なものを《地球》にもたらすことができました。 (ルシファーが月=「硬化」を請け負ったので、ルシファーはエゴ=我儘の象徴となったが、地球はその分、「硬化」を免れ、エゴだけでは生きられなくなり、エゴを阻む協調性が必要となる。つまり、ルシファーとは、頭の固さ=独裁者の象徴でもある。) 《月》での天使とアーリマンの戦いに相応する事実が《地球》にもたらされていなかったら、現在の地球全体が、ルシファーの影響に捕らえられていたに違いありません。」 (ルシファーが天から地に硬化を及ぼし、アーリマンが地からその硬化に応戦して破壊を起こす。これが地震である。) シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp58-61 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載。 さて、シュタイナーのこの解説を読んでいると、第126夜以降で紹介した、東條氏の『東方ミトラ伝説』との関係を考えられずにはいられません。 そして、小生には、そこには書かれていなかった一つの解釈が頭に浮かびます。以下、誤解の危険性を承知の上で、小生なりの推測を書いてみます。 当該神話では、アフラ=マズダーとアーリマンの戦いがメインとなっています。それが我々人間の魂の起源となっていくのですが、それがいつの時代の話なのかは明確にされていません。 一方、シュタイナーは、人類がまだ自我をもっていない《月》の時代に、当時人間だった天使達が、自己の内面でアーリマンの影響がもたらす誘惑と戦った、といいます。 シュタイナーの言う「内面」とは、第126夜でお話しした通り、我々と同じく、アーリマンによって創り出された幻想の世界ではない、天使達が実際に存在する世界(霊界)でしょう。 つまり、両者を繋げて考えてみると、『東方ミトラ伝説』のこの戦いは、天使達の内面―つまり実世界である霊界―での出来事ではないかと、思う次第です。 無論、著者の東條氏はそのように述べていませんし、シュタイナーの文献についても、小生は(まだ?)そのような記述に出会ったことはありません。 しかし、このように考えれば、やや荒唐無稽のようにも思えた『東方ミトラ伝説』の記述が、《月》の時代にあった、天使が人間だった時代の霊界の話として位置づけることができます。 また、この争いに先立ち、『光の国』から闇の中へ逃走したアーリマンの指揮下の3分の2以外の、アフラ=マズダー側の3分の1の天使たちの1人に『ルシファー』がいたのです。 (このことから、アーリマンは、ルシファーという裏切り者を敵対する相手陣営に潜り込ませる、あくどいやり方を好むのがわかる。アフラ=マズダーはそのことを知りながら、裏切りを赦すのは、キリストと裏切り者ユダとの関係の伏線になっている。 アーリマンのやり口は、まるでジコウのやり口である。つまり相手側に裏切り者を潜ませるやり方をするのはアーリマンの手下であることがわかる。 しかし、アーリマンが愚かなのは、カルマの法則から裏切られた者が今度は裏切るので、いずれアーリマンは裏切り者に裏切られるのである。 しかもそれを赦すことができないので、裏切りの苦しみに埋没する。つまり、最終的にルシファーとアーリマンが敵対する。) ★終焉を繰り返すコスモス 戦いの途中で、アフラ=マズダーは破れ、散り散りの『光のかけら』と化し、その輝きは闇の煙幕に包まれます。この意味は、天使の魂がアーリマンに囚われたのを示しています。 しかし、ミトラの登場によりアーリマンの軍団は破れ、『光の国』には近づけない場所に幽閉されます。そして決戦を終えたコスモスは廃墟となり、燃え盛る業火の中へ沈んでいきます。 そして、その最後の記述をもう一度繰り返してみましょう。伝説の終わりには、次のように結ばれていました。 『解消させられるべき世界の代わりに、新しいコスモスが建てられるだろう。そこでは光の諸権力が支配するだろう。 何故なら彼等は父の全ての意志を遂行し成就せしめ、憎むべきものを制圧したからである。』 さて、この終末の記述については、一般には(?)予言的な意味合いで捉えられているように思いますが、シュタイナーの言うように、《月紀》の出来事と考えると事情が異なって来ます。 第172夜でお話したとおり、《月紀》の全ては《地球紀》の前に、宇宙もろともプララヤの中に消え去っています。つまり、この描写は、過去に起こった出来事を伝えているとも考えられます。 その際、《月紀》では人間であった《天使達》は、全ての『光のかけら』を浄化し終えて月から脱出し、別の世界に移ったと考えることができます。 (ここでいうアフラ=マズダーは人類の集合意識で、「光のかけら」は、個人の自我=意識のこと。つまり人類の集合意識は、アーリマンが送り込んだルシファーの裏切りにより、エゴとなって、断片化し、破壊され、光の欠片となるが、ミトラ=キリストがやってきて、光の欠片からエゴを除去し、エゴを他への救いに浄化することで、ルシファーの裏切りのエゴを頼りにするアーリマンたちを逆に幽閉する。 本当の個性とは、他を救い、人類全体の精神の進化を向上させる行為である。) そして《天使達》が成し遂げた成果は、《月》とともに消滅せずに保存され、次の《地球》へと引き継がれたわけです。 ただし、注意すべきなのは、プララヤに消え去った《月》と、現在の《地球》の周囲をまわる《月》とを混同してはいないか、ということです。 しかし、第172夜でお話ししたことを思い出してみましょう。 《太陽紀》《月紀》《地球紀》とも、その進化の初期過程で、同じことを繰り返すのです。 つまり、《月》は、《月紀》の終末を迎え、全てがプララヤに消え去ったのですが、《地球紀》の初期に、月紀が繰り返されたのです。 そして《地球紀》の初期に《月紀》に《天使達》の成し遂げた事が、地球へと引き継がれたと小生は考えています。 (神々に背く個人の自由が、他の人類や生命のために生きる自由にかわること。) 恐らく《地球紀》の終末にも、人類がルシファーの誘惑に打ち克った暁には、同じようにプララヤの中に消え去ってゆくと考えれば、過去の出来事が、未来の出来事でもあるわけです。 そして、《地球紀》をクリアして、次なる《木星紀》のステージへと登っていく過程こそ、巷で騒がれているアセンションの真の意味ではないかと、小生は思っています。 それは、大災害が起こるとか、宇宙人が救済しに来るとか、フォトンベルトが発見されるとかの、およそ三次元で理解できるような現象ではないと、小生は思う次第です。 (天変地異のときこそ、お互いで助け合って、各々の助ける個性を生かすことが、次の木星の主題となる。 裏切り者ルシファー=ユダを赦し救うキリストの遺伝子を人類1人1人がもっている。 神々に背いた人類をキリストが赦したように、人類がルシファーを赦すときがきた。) ★阿修羅の正義 さて前夜でシュタイナーは、ある密教の教えでは、アーリマンの群れを、太陽の分離以前に地球の進化から逸脱し、進化の道から堕ちた悪しき阿修羅と呼んでいる、と述べています。 ウィキペディアにあるように、古代ペルシアの聖典『アヴェスター』では、なんと善の阿修羅は最高神アフラ=マズダーに相応するとされ、古代インドでは生命生気(太陽)の善神となっています。 つまり、阿修羅という名の本来の意味は、少なくとも「神」またはそれに次ぐ存在であり、アーリマンを代表とする悪の阿修羅もまた初めから「悪しき存在」ではなかったということです。この辺りはシュタイナーの語るアーリマンの境遇と一致します。 また、仏教伝承によれば、正義を司る神である阿修羅の一族は、力を司る神である帝釈天が主である忉利天に住み、その娘をいずれ帝釈天に嫁がせるつもりでした。 しかし、その帝釈天が婚姻前に娘を力ずくで奪ったのを怒り、娘が正式な妻となった後にも帝釈天を許さず、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける存在となったとされています。 阿修羅は正義に固執し善心を見失ったことで、妄執の悪とされ、このために天界から追われ、人間界と餓鬼界の間の阿修羅道に隔離された、ということです。 (この仏教話の人智学的解釈は、阿修羅=集合自我で、その娘=個人自我、帝釈天=覚醒意識と考えると、現在の人間の状態を表していることがわかる。 覚醒意識が、集合自我から、個人自我を奪ったので、集合自我が、覚醒意識のなかに何度も輪廻転生してきては、個人と闘いを挑む。 しかし、時代は、覚醒意識×個人自我=個人意識となったので、集合自我は、獣=動物の潜在意識に埋没してしまった。) もっとも、こうした仏教の説話自体は方便であって、実際にはミトラ伝説の描くように、『神』の位置に立って、彼とは別の世界を創ろうとした、と思います。 アーリマンは、かつてはアフラ=マズダ―と同じ素質と徳を持った存在であり、その正義さゆえに、永遠に自分の上に立つ存在がいることに、不平等を感じた、ということでしょう。 (というより、アーリマンは自分を上位に置きたい存在である。不平等を好む存在故に、手下を求める。) そして仏教説話の言うとおり、新たな《○○紀》が開闢する度に復活を遂げ、彼の固執する不平等に賛同する魂を集めるため、我々の心の闇に忍び寄って来るのです。 さて、次回第180夜は私達人間が、どのようにアーリマンの影響をうけているのかについての話へと入ってゆきます。 ★ ★ ★ 悪に染まるのはやむをえないが、自浄能力の損失が問題となる。失敗はやむをえないが、失敗を克服できないのは失格である。失敗を認め、失敗を乗り越えることが人間一人一人に問われている。だから失敗を喜びに変えるべきである。失敗は喜びの素である。
2016年04月26日
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犬HKは嫌いなんでほとんどみないが、『モーガンフリーマンの「時空を超えて」』はオカルトを唯物科学から捉えようとする努力が垣間見られ、興味深いのでみている。 しかし人智学から考えると、唯物論の限界がみられ、非常に滑稽なんで一種のコメディとしてみている。 この間は、「第6感について」だった。第6感を唯物科学で考えるというテーマだったのだが、仏教で既に6根が説かれているのに、まるで御釈迦さんの手の上で右往左往する孫悟空のようにみえる。 仏教の第6根は、「意根(意識)」と説かれている。 御釈迦さんの時代は、王家に遺伝された霊能力により神々とつながり、預言をおろす霊意識が残っていたので、意識が現代のように個人的なエゴに染まっていなかったようである。 だから、この第6感というのは、人類が普遍的にもつ意識のことで、誰かが苦しめば、その苦しみが全体に伝播する集合意識のことなんである。 この集合意識を、人智学では集合魂=集合自我と呼んでいる。 この集合自我がルシファーの誘惑による個人的なエゴに染まり、現代人が普通にもつ日常の起きているときの個人意識=覚醒意識となったわけだが、仏教では、3千年前の御釈迦さんの時代を想定しているので、この個人意識を不浄と説くわけである。 覚醒した個人意識のエゴが欲望に染まり強いために、集合意識がその背後に隠れてしまっているので、他者の気持ちや苦悩などがみえなくなり、無視するようになってしまっている。端的にいえば、共感力が失われている。 ルシファーにより人類は自由なエゴの個人意識を手に入れたのだが、このエゴが自己の振る舞いを越えて、他者に危害を及ぼすようになったから、仏教でいう第6根が不浄の末法の世となっている。 だから仏教では相変わらずエゴをなくす意味で、個人意識の除去=無我を説くのだが、折角手に入れた自由の覚醒意識を失えば、いわばゾンビのようになるしかなくなる。現に日本人の多く、アジア人の大半が競争社会の申し子のゾンビと化し、資本家の奴隷のような生活を強いられていることでわかる。 キリストは、この不浄の個人意識を、再び人類全体の統合意識へと戻すために、愛の精神を説いたのである。シュタイナーは、パウロが、「私のなかのキリスト意識」を説き、輪廻転生により、不浄の個人意識を、清浄な個人意識へと高めるために、キリスト教を布教しはじめたと述べている。 統合=集合意識への個人意識の浄化、昇華が第6感を再び獲得する道であると人智学は説いている。仏教でいうところの六根清浄である。 ★ ★ ★ 六根清浄 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%A0%B9%E6%B8%85%E6%B5%84 概要 六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往くことはかなわない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。「六根浄」ともいう。 (「俗世との接触を絶つこと」は古代インドの感覚で、現代の個人主義の社会ではネガティヴになりやすいから注意すべき。現代では、俗世との接触のなかから、俗世に染まらず、俗世を浄化させることが進化の道で、ポジティヴである。) かつては登山の際に掛け声としても用いられ、落語の「大山詣り」などにもその様子が描写されている。戦前までは富士山への登山の際にも掛け声として用いられたことが知られている。 (登山を、俗世を渡り、浄化しながら、意識を高めるもの、と考えると、秘儀参入の修行であることがわかる。) 俗説 登山の際に用いられた結果、音便化し「どっこいしょ」になったという説がある。 (「六根清浄」が「どっこいしょ」は、確かに聞こえなくもないが、以下のヘブライ語説の方が有望に思われる。 ★ ★ ★ 言葉の杜 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html 「ドッコイ(DKA・HWI)」というのは、「DKA」=「粉砕」と「HWI」=「ヒビ(ヘビ)人を」という語が連なったものだ。 当時の天孫族(太陽霊の子孫)の敵は、「ヒビ(ヘビ)人」、「エブス人」、「クシュ人」などだが、総称して「コシ」、「蝦夷」などと呼ばれた。 (第10番惑星人=蛇、龍のこと) さらに、「ショ」=「(敵、SWRの)『残り』」という語が加わっている。 このヘブライ語を意訳すると、「どっこいしょ」は「第10番惑星人=蛇、龍人の末裔を打ち砕け、改心させよ」となる。唯物論=物質界に染まるな、という意味で、六根清浄とも意味が重なる。 結局、物質界に染まらずに、何者も受け入れる鉱物意識を獲得せよ、という意味になる。) ★ ★ ★ 第6感をもてば、資本家連中がいかに欲にまみれていて、その中身が悪魔のシモベであるのかがわかる。唯物論に染まっているから、地上を這い回る蛇の思考や、月の領域を越えないせいぜい物質界の大気圏を堂々巡りする龍の思考しかもてないのである。だから、連中は月(地球の過去の状態)や火星(闘争の星)を好むのである。 第6感から爬虫類の歪な思考形態をもつことがわかるからである。世界統一政府などその最たる思考形態である。 資本家の多くはニムロデと呼ばれる第10番惑星人、通称、蛇人や龍人の悪魔の末裔であることが、オカルトから明らかになってきている。 この連中はキリストを裏切ったユダのように人類を裏切ることがわかっている。前にも紹介したように、人の肉体をもつが、蛇や龍のような爬虫類の精神をもつので、表に出ない隠し財産をつくり、他の同胞を欺いている。 その1つがパナマ文書であきらかになった、という話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 荘園は国を滅ぼす http://my.shadowcity.jp/2016/05/post-9360.html 軍需産業から裏金貰って、それで票を買って、首相とか大統領とかになって、なったら今度はせっせとその会社に兵器を発注して、裏金分を返すという、まぁ、そういう行為に、租税回避地は使われるわけです。アベシンゾーの兄弟はどこでナニをやってるんでしょうかね(爆 相続税逃れ、所得税逃れに資産を海外に移して脱税しまくっているユニクロ柳井の会社の株をせっせと買っている政府日銀。国民のカネを泥棒に貢いでます。誰がどこで得をしてるんだ? 「租税回避地いらない」=ピケティ氏らが公開書簡 フランスの著名経済学者トマ・ピケティ氏ら350人を超す世界の経済学者が9日、脱税などに使われるタックスヘイブン(租税回避地)の根絶を求める公開書簡を発表した。「パナマ文書」の発覚で租税回避地に関心が集まる中、書簡は「(回避地は)一部の富裕層や多国籍企業を利するだけで、不平等を拡大させている」と批判。その存在は「世界全体の富や福祉の拡大に寄与せず、経済的な有益性はない」と断じている。 アベシンゾーがパナマ文書をマトモに解析するはずがない。やったら自分の脳天にブーメランが突き刺さる。タックス・ヘイブン問題は、単に「脱税」というだけじゃない、政治家をカネで買うにも、タックス・ヘイブン経由の裏金が使われるから問題なのだ。オバマはカシコイ。ユダ金に買われた政治家を潰すために、この問題に火を着けたw 結果、ブッシュは早々に大統領選から撤退したw そういう事だw ★ ★ ★ 連中は人間としての信頼を失い、もはや人間とはいえないモンスター、ゾンビである。国は助けあいの和からなる。この共生の精神を失い、自分だけは別で、特別なものと勘違いする連中は、次の進化段階には進めずに、地獄に堕ちて落第するという話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第181夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1105.html ≪ルシファーとアーリマン(6)(改変)≫ ★地球の構造 第6~9層 それでは、第6層以下について続けて見てゆきましょう。 「第六の層は『火地球』です。この層は、火のような感情と意志からなっています。 この層は痛みを感じます。もし踏みつけられでもしたら、叫ぶでしょう。この層は全くの激情から出来ているのです。 ………………………………………………………………… 第七の層は『地球(反射)鏡』です。この層に意識を集中すると、地上の特性全てが反対のものに変わるので、この名が付けられています。 第6層までに意識を集中せずに、直接この第7の層を霊視すると、例えば地上では緑のものが、この層では、赤として表れます。 (アストラル界のよう) …反射されて、反対のものに変わります。悲しみは喜びに変わります。 ………………………………………………………………… 第八の層は『粉砕』です。精神力=霊力によってこの層に意識を集中すると、注目すべきものが示されます。例えば、あらゆるものが無数に複製されていきます。 しかし、この層の本質は、道徳性も破壊することです。地球の表面への放射力を通して、地上に戦いと不調和を引き起こすのは、この層です。 この層の破壊力を克服するために、人間は調和的に活動しなければなりません。 人間が調和を発展出来るよう、この破壊力は地球の中に秘められたのです。全ての悪は、実質この層で準備されます。 好戦的な人間は、特に強くこの層の影響を受けているのです。…この層が実質、地上に悪をもたらしたのです。 ………………………………………………………………… 最後の層は『地核』です。地核の影響によって、地上に黒魔術が発生します。この層から悪の霊力が発しているのです。 シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp54-55 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載 さて、この辺りまで来ると、説明を聞いただけでも、人類にとって好ましからざる層もあります。それでは各層について、小生なりのコメントを加えてみようと思います。 ★地球の厄介者 第6層は、実はアーリマンの棲む層であり、地震や火山活動に関わってくるようです。この層については後ほど詳しくお話しすることになると思います。 第7層については、第162夜でお話しした『自我の鏡としての肉体』の役割が思いだされます。ただし、第5層と同じく反対像となって現れます。 さて、第8層は、人間関係の不和を創り出す層とされ、この層への人類の対処法を通じて、人類と地球との関係が示唆されてきます。 そして第9層は、レムリア、アトランティスが滅びの道を辿ることになった黒魔術の源流となる層です。この層が地球の奥底から、幾度も人類を貶めてゆくのです。 ……………………………………………………………………… さて、以上のように全体の層を眺めてみると、1つのイメージが浮かんで来ます。古来から様々な言い伝えでイメージ化されている『地獄』の本質です。 各層に囚われた魂は、生命の喜びや、善良な活動を悉く奪われ、ひたすら苦痛や邪悪の想念の増大だけを快感とするような世界に生きることになります。 そしてそれは死後の世界に限った話ではなく、その層に意識を集中し、捕われてしまうことで、生きながらにして地獄と化すのです。 幾多の昔話に、地底に存在するとされて来た『地獄』は、 実は、地球のこの層の意志であると、シュタイナーは述べていることになります。 我々人類は、地球に寄生し、大量に増殖し、地表の隅々にまでその爪跡を残し、大気の組成を変え、地上に無かった有害物質を次々に発生させています。 地球にしてみれば、地表が痒くて仕方ないという感じなのでは無いでしょうか。挙句の果てに、勝手に掘り出した核物質を濃縮した上、また埋め戻そうとしているのです。 地球にとって、人類は何を仕出かすかわからない寄生虫同然です。共生の精神を失えば、逆に、人類を支配しようとするアーリマンこそ、救世主のように考えるのでは無いでしょうか。 ★地球との共生 それでは、本当に、地球にとって人類は、全くの邪魔な寄生虫なのでしょうか。シュタイナーは次のように述べています。 「人間は地球の層全てと関係している、と推測できます。地球のこれらの層は絶えず力を放射しています。人間はこれらの層の影響下にあります。 だから、人間はこれらの層の影響を絶えず克服しなければなりません。 いつの日にか、人間が地上に生命力を放射し、生命力に溢れた空気を吐き出すようになると、人間は『火地球』の層を克服します。 人間が苦痛を癒しによって精神的に克服すると、『空気地球』の層を克服できます。 人間が一致協力できると、『粉砕』の層を克服できます。 白魔術が勝った時、世界に悪が無くなります。 人間の進化には、地球内部を改善するという目的があるのです。最初、地球は進化全てを阻みます。 最後には、地球は人類の力によって克服され、改善され、霊化されます。こうして、人間は太陽=天国から持ち込んだ自らの霊的本質を地球に分け与えるのです。」 シュタイナー『天地の未来 地震・火山・戦争』pp55-56 《閏月社(西川隆範訳)》より抜粋転載 人類は、こうした地球の反発をなだめつつ、各層の影響を全て克服し、逆にその層の性質を変えることで、地球を進化させるべき使命を負っている、とシュタイナーは言います。 そしてこれが、西平氏をして、一般への入門書での説明をためらわせた『人類が地球と一緒に進化する』という話だと、小生は推測します。 それにしても、シュタイナーの説に従えば、我々人間は随分重たい課題を背負わされたものです。しかもその上、アーリマンの影響にも打ち克つ必要があるのです。 さて、次回第182夜からは私達人間が、どのようにアーリマンの影響をうけているのか、の話へと入ってゆきます。 ★ ★ ★ 人間は地球の悪と闘っている。悪に染まっては駄目である。
2016年05月10日
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どうも、昨今、巷の討論番組をみていて、日本人は熱情馬鹿なんじゃないか?と思ってきた。以前、このブログにも、アトランティス時代の人種について書いたが、まるでアトランティス時代を深層意識下に懐かしんでいるような、懐古主義が、日本人の奥底にあるのではないか、だから、昔を否定できずに、常に肯定しないと生きていけず、昔を否定することに、異様な恐怖感を覚える人が多いのではないか、と思うのである。 一般的にアメリカ人が、金融崩壊で失敗しても、明るいのは、失敗を何度も人生において体験しているせいで、当たり前になっているせいなのだろうし、アメリカ人の忍耐強さを示すものでもある。だからといって、たまに、ブッシュのような馬鹿で塗り固めたいい加減で、単純な人間が出てしまうのは、やはり問題だろうが、ブッシュのような人間は全体数が少ない例外で、例外が指導者になってしまったところに、そもそものアメリカの間違いがある。 対して、日本人は、極度に間違いを恐れ、失敗すると、途端に一種の思考停止というパニックに陥る。そして、常に過去へのプロセスへの見直しに走り、かえってそれを正当化づけようと考える。原因の特定はよいのだが、方法論に走ってしまい、事前の見通しがなぜ巧くいかなかったかの方法を議論する間に、分けのわからない方向に進んで、何を失敗したかも有耶無耶にしてしまうのである。そして、似たような方法を少しアレンジして、リベンジを考える傾向にある。 見通しが外れるのが当たり前と考えるアメリカ人と、見通しが外れるのが困る日本人の大きな違いともいえる。だから、アメリカ人は挑戦するほど尊ばれ、日本人は、他となるべく同じであるほど尊ばれる傾向をもつ。 日本人に対して、最近、特に思うのは、思考力の欠如である。田母神論文の一件は、その最たる例で、自分の好きな日本にならないと、生きていけないような稚拙さ、軟弱さを感じるのである。自衛隊の上層部でさえ、このような甘えの構造のなかにあるのだから、巷に理性、つまり自制心、忍耐力に欠ける人々が増えてしまうのは、ある意味、現代の日本の特徴といえるかもしれない。 思考力が欠如しているので、自分の行為が、社会にどのような影響を与えるかという意識が乏しいともいえる。もし、このような人物を、例えば、競馬予想家にすると、自分の予想を盲信するようなダメ予想家になること請け合いだろう。予想というのは、なるべく主観的データを排除することで、当たりに近づくからである。だから、思考力や、理性が必要とされ、思い込みは排除しなければならない。 思考力、特に論理的思考は、利己的願望を抑えることができるので、官僚の硬直化した悪しき先例主義を改善させることができ、実際、記憶力依存の人種の流れから、原セム人を生み出したということは、以前のアトランティス人の話で、このブログに書いた。 思考力は、人類が記憶力による悪しき使用からの破壊力を抑制するために、発達させた力である。この思考力が、原セム人のなかで、論理的なものとなり、恐らく、論理的な言語も、セム人からはじまったのだろうが、過去への思い出を脱して、様々な体験内容を比較するようになり、判断力が培われるようになったというから、思考力の欠如は、判断力の欠如を誘発することになる。 端的にいえば、過去の思い出に拘る余り、現在の判断力を失っている人間が増えているといえるわけだ。過去に生きている人間が多いような気さえする。 原セム人から、我々の時代の祖であるアーリア人が生まれたことは、既に書いたが、今度は、この思考力が行き過ぎ、アッカード人のようになると、自分勝手な着想を、一般規則にしようとする要求から、秩序をつくりだそうとし、法や規則が生まれたわけである。 要するに、記憶力に過多に依存してもバランスを欠き、思考力を過多に用いてもバランスを欠くわけで、例えば、記憶力を「陰」とし、思考力を「陽」として、陰陽のバランスを取り、中庸を図るのが、懸命な理性というものだろう。 これからは、「記憶力」と「思考力」のこの陰陽のバランスを考えた教育プログラムをつくるべきだろう。例えば、問題にしても、従来の多くの記憶力を問うものだけでなく、思考力を問うような、例えば、条件を与えて、この条件から、どのような展開に発展するのかを問うようなものが必要だろう。 巷に多いのが、記憶力を問う問題ばかりで、小論文のようなものは、採点者の手間がかかるので、敬遠しがちな傾向だが、これは、数学や、特に幾何学、本来の哲学、あるいは、倫理や道徳という形で問えばよいように思われる。 例えば、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、記憶力からでは、「倫理に反するからいけない」としかいえないわけで、では、思考力から、倫理とは何かといえば、「もし、人を殺してしまえば、どういう裁きを受けざるを得ないかということを、論理的に立証して、説いていかなければならない。 もし、一人を殺せば、その人が、結婚して、子供を産んでいたかもしれないわけで、同時に家族や周囲の人の悲しみを生じさせるわけで、少なくとも、その人の将来、社会に尽くしたり、喜びや、悲しみの体験の機会を奪うことになり、更には、その人が考えられるべき、多くの人を助ける行為をも奪ってしまうことに、論理的思考により、気づかせることが大事になるといえるだろう。 このような自分の行為に対する将来の代償に対しての教育が不充分なので、後から、自分の行為の責任の重さに耐えられなくなってしまい、愚痴のような言い訳しかいえない人間となってしまうのであろう。その地位に就く前に、予め、その責任の所在を理解すべきである。世襲人事が進むと、その地位に対する責任感が麻痺してしまうのだろう。 要するに、昔からいうような「お役目大事」という意識に乏しいといわざるを得ない。
2008年12月01日
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腐敗政権は、下らないUFO議論で、消えた年金と薬害問題を煙に巻き、延命を図っているようだが、そのようなやり方こそが、不真剣さの表れであり、本性であろう。 大体、年金も確認できない連中が、高度に未確認の存在を、確認し、特定できるわけがないだろう。つまり、確認するに足る知性が欠けているのだから、何を議論しようが、信じる信じないの新興宗教になってしまいがちである。 UFO論議は、小学生に大学卒業レベルの知識を求めるものである。その発言をみれば、まるで幼稚園児並である。 未確認飛行物体をUFOと定義しているのだから、科学的に特定できない飛行現象を全て含んでいるわけである。 例えば、この事を、未確認の疾患に当てはめ、考察するなら、疾患を特定する知性が、要求されるわけである。一般的には、専門の医者等の医療チームが、健康の為に、社会に要請されるわけである。 だから、飛行物体を含む現象を特定する為の知性を組織化する必要があるわけである。航空自衛隊や民間パイロットを集めて、報告書を基に、対処マニュアルを作成すべきである。政治家一人の意見を悠長に披露している暇などない。そんなことは少なくとも公式の場でやることではない。 米国の場合、バンネバーブッシュという人物を下に、ブルーブックというあるプロジェクトが実行されたというが、これも架空の話の可能性もある。この事に関しては、日米同盟の枠組み内で、米国にプロジェクト調査の情報公開を依頼すればよいだろう。 UFO現象が、社会に深刻な影響をもたらすものであるなら、国民の了承の下に、日本独自の、未確認飛行物体調査機関を立ち上げる必要があるが、いまのところは、日米同盟や、思いやり予算等の大規模な米国への資金援助を、場所を提供した見返りの情報取得料として、換算請求し、米国の情報から分析すべきだろう。 UFO現象が社会的脅威となるのは、高度に知性的な宇宙人の侵略船である場合だが、人間より遥かに知性的ならば、人間は戦っても無駄なので、攻撃的姿勢を示すのは、かえって全滅を免れないだろう。 問題は、人間と五分五分の知性をもち、人間と同じ戦闘力を持つ場合だが、その場合、人類同士の地上の戦争と同じものになる。 しかし、人類にとって未確認な飛行物体をつくれる段階の知性を既に、未確認飛行物体という宇宙船で示し、もっているのだから、人間と五分五分の知性体であることはほぼ有り得ない話である。 また、人間より劣った知性ならば、未確認飛行物体など、つくれるわけがないだろう。 だから、UFOが脅威となるような宇宙人の侵略船という、高度な知性と支配欲が統合された存在ならば、何も、あからさまに侵略船とわかるような、馬鹿な真似はせずに、高度な知性で、密かに、既に、人類は、支配されていると考えた方が妥当である。 UFOが現れている段階で、宇宙人が侵略者ならば、気がついた段階で、既に手遅れといわざるをえないだろう。ただし、宇宙人側に、人類に対して接触できない特定の理由がある場合を除く。 宇宙人側から考えれば、人類を支配したいのなら、支配したい国家の支配者に潜り込むのが効率的である。例えば、米国大統領や、大量の資金をもつアラブの王様等であろう。もっとも適任なのは、現代の巨大投資家、ロックフェラーだろう。少なくとも、日本の総理などでは大失敗である。 人類にとっては、わざわざ、敵対的な宇宙人などという遠回りの描像よりは、身近に潜伏した連中の方が脅威といえるだろう。とどのつまりは、UFOとは、消えた年金や薬害そのものである。人類のなかに潜り込み、支配者になりかわった悪人に他ならない。 つまり、人類のなかの高度な知性と支配欲が合わさった官僚こそが、このような脅威のUFOの宇宙人の正体といえるだろう。国民の税金を盗みとって、好きなように使い、更にツケを国民にまわすわけなのだから。そのツケがまわりまわって国家を滅ぼし、民族を滅ぼし、人類を滅ぼすことは確実である。 連中は、悪人を仮想に仕立て上げて、注意を他に向け、気を逸らしておいて、自らの本望を遂げるのである。悪人連中の手口は、昔から変わらないというより、代わりようがないのである。 宇宙人を侵略者とするなら、悪徳政治家や悪徳官僚こそが、その正体なのであり、国民主権の民主主義を奪う悪人、つまり悪魔の正体といわねばならないだろう。 自分たちは侵略宇宙人の行為をしながら、さも地球人、日本人の面をしている連中こそ、真の宇宙の破壊者といえるだろう。 逆に、たとえ、宇宙人に潜伏されていたとしても、人類の為になる政策や政治を行うのならば、もはや宇宙人ではなく、地球人類といえるだろう。そして、地球の平和と環境を守り後世に伝える存在こそ、真の地球人なのである。 だから、自らの欲望を糧に、地球や自然を破壊する人間こそ、侵略的宇宙人といえるだろう。 なにより、地球という星全体が、地球人という宇宙人のUFOなのである。自分たちの乗り物を自ら破壊している知性体など、果たして、宇宙の存在に相応しいといえるのだろうか?
2007年12月20日
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