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仏祖・古仏の現成をわが身で公案することあるいは仏祖・古仏の公案をわが身で現成することこれが仏道修行であろうかと思う。この時の〈わが〉身は天上天下唯我独尊のわが身、いわゆる永井哲学の〈私〉である。この修行は衣・食・住を調えながら行われる。それらの詳細は清規という仏道修行のマニュアルに詳しく書かれている。衣はお袈裟。袈裟を纏って坐禅をしてそれで成仏。食は応量器。行鉢は悟りの行法である。諸法が仏法となる時節である。住は僧堂。個室のないノンプライベート空間に身心を脱落させる。乳水の如く和合する。永平初祖 学道用心集に曰く、「此の身心を以て直に仏を証する、これ承当なり」現成・現ナマ・統覚・純粋経験・〈私〉をそのまま仏に空けわたしていく、これが直下承当ということであるらしい。
2019.02.20
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ある時、人生はバラ色で楽しくて仕方がない。見えるもの、聞こえるもの全てが祝祭的で、この現成に感謝をする。ある時、人生は絶望的で苦しくて仕方がない。見えるもの、聞こえるもの全てが忌まわしく、この現成を嫌悪したりする。同じ世界内で起こる、この現実感の圧倒的な差異にどう対応すればいいのか。〈私〉自身に起こるこの差異に右往左往しているのに、他者のそれをどう救えばよいのか。
2019.02.19
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この岸政彦さんの文章を読んで超インスピレーションを頂きました。思いついたことをつらつら書いてみました。岸政彦「断片的なものの社会学」より抜粋さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。 そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」 が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、 意味のなさ。これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。岸政彦「断片的なものの社会学」抜粋の文章にはライプニッツ的な神の意志(※)を〈私〉がモノに対して働せることが可能なのではないか?ということを惹起させる。〈私〉がとりたてて特徴のない小石に神の意志を働かせて〈世界にたったひとつの「この小石」〉としているのではないか。ナンでもない小石を唯一のコレにする神の意志のような能力が〈私〉にはあるのではないか。というか、〈私〉であるということがこの世界内で自覚され得るためにはその神の能力が必要不可欠なのではないか?これは一般的なものを具体的なものに解釈し、具体的なものを一般的なものに解釈するということだけには尽くされないことが起きていると思う。可能的世界(神の知性)から現実的世界(神の意志)が実現してきている。永井哲学でいうところの〈私〉と「私」の表記にまさに対応する。現実的〈私〉と可能的「私」との対応である。コレ性→ナニ性への変換は子どもが言葉を習得する際に機能する。〈コレ〉は「ナニ」だったんだと理解し、「ナニ」は〈コレ〉だったんだと驚く。言語習得の形式はこれに当てはまるのであろう。現実的な〈コレ〉を可能的なもの一例「ナニ」として理解し、可能的な「ナニ」が現実的な〈コレ〉であるということに驚く。世界を開く唯一の〈私〉は、世界に無数に存在する「私」の一例として自覚されることを一般には、「物心がつく」という。ここでは神の意志が否定されて神の知性が働いている。西田哲学の場所論的に言えば、超越的主語面が超越的述語面に包摂されて、絶対無に於ける原初的判断が成立する。コレ性→ナニ性・ナニ性→コレ性の哲学として世の中を眺めると面白いかもしれない。世の中には二種類の仕事が存在する。コレ性をナニ性へと変換する仕事と、ナニ性をコレ性に変換する仕事である。「コレ→ナニ性質」と「ナニ→コレ性質」と仮に名づけるとすると◆「コレ→ナニ性質」の一例・精神科医の仕事(医療的診断と薬の処方)・占い師の仕事・科学的探究の方向・現成→公案・凡夫◆「ナニ→コレ性質」の一例・永井均の仕事・まどみちおや詩人の仕事・マインドフルネス・「天上天下唯我独尊」・公案→現成・成仏小石のナニ性をコレ性に変換させることを仏道修行においては「成仏」と言われているのではないか。生活すべてを成仏させるということはこの方向性で人生を生きるということでもある。澤木興道師の「自分が自分を自分する」は「坐禅が坐禅を坐禅する」などともよく読み替えられるが、これを一般定式化すれば「〈コレ性〉が「ナニ性」を〈コレ化〉する」とも言えるだろう。この時に自分が成仏したり坐禅が成仏したり、食事が成仏したりする。現在における救いの形式は「ナニ→コレ」である。逆に過去や未来での救いということを期待する場合には「コレ→ナニ」と働くであろう。例えば「あの時の失恋は辛かったけど、今となってはいい思い出だ」とか「この失敗の痛手は、将来笑い話になるだろう」とか。でも今ここの直下の現実においては「コレ→ナニ」的な慰めは誤魔化しでしかない。(※永井均 『私・今・そして神』を参照のこと)
2019.02.19
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24日に藤田一照さんの茅山荘にて永井均の勉強会第一回目がある。現在東京で研修中であるが、時間を見つけて発表の準備を進めている。テキストとは関係ないが、永井哲学はナニコレを巡る哲学である以下坐禅中の妄想で浮かんだことのメモ経済学的な「需要と供給」というのも、ナニとコレである。消費者は「コレ」を欲望し、コレの所有を探し求めている。生産・供給側は消費者に欲望される「コレ」が何かをよく研究・観察し、コレを生産する。生産ということはコレを複製するということで、複製されたコレとは即ちナニのことで、すべての商品とはナニである。消費者は市場・店頭であたかも「コレ」として陳列され販売されるナニを購入する。お店で何を買おうか迷うということは、ナニをコレ化しようか迷っていることだ。所有して自分のものにするということにはナニからコレの変換が必要である。また、持っているものに飽きるということは逆に「コレがナニ化」することである。貨幣とはナニからコレへの物理的な変換装置そのものである。消費者はお金でコレを買い、販売者はナニでお金を得る。仏教者が持ち物を少なくするのは、所有の「ナニ→コレ」には迷いが生まれることを見抜いているからである。ナニということには所有ということがない。所有されたものはすべてコレとなる。だから宗教者が「宇宙と一つになる」とか「絶対無限の愛」とか「尽十方界」とか「大自然の働き」とかいうことは極大のナニへの志向である。解脱というのもコレへの執着からナニへと解脱することである。布施行ということは、布施するナニ(お金・品物・行為)が受け取り手にとってコレにならないように十分に注意しながら布施する修行である。究極の真理とは究極のナニ性のことである。宗教はコレ→ナニへの巨大な変換装置でもある。逆に究極のコレ性は伝統的には禅であり、独在性である。だから究極のコレ性とは〈私〉である。しかしそれは世界内に登場したとたんナニとなる。世界とは究極のコレ(〈私〉の生)が→究極のナニへの巨大な変換装置でもある。
2019.02.19
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小学校3年生にしてデビューしました。 良い胴造りでびっくり。
2019.02.05
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現成公案とナニコレ二元論 最近永井哲学の影響でもっぱらはまっているナニコレ二元論。(もとはライプニッツ原理とカント原理 by『私・今・そして神』) 仏教も、哲学も、生活も、修行もあらゆることが「ナニ性」と「コレ性」で見えてくる。 でもこうゆう「あらゆることが」って見方がすでにして「ナニ性」へと頽落し始めの第一歩でもある。 まあ、そこんところを自重しながら現成公案の話。 現成=コレ性=物事の事実的側面 公案=ナニ性=物事の意味的側面 だから「現成公案の巻」=「コレナニの巻」となる。 現成とは何だ? この目の前に展開されている世界とはなんだ? 最初の2行をこんなふうに訳せないか。 1行目 「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。」 →「世界が現実的(アクチュアル・事実)である時節」 アリアリアリ リアリティがある。自分事となる。 2行目 「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。」 →「世界のすべてが現実的(アクチュアル)でない時節」 ナシナシナシ リアリティがない。他人事になる。 「諸法」については学者さんやお師家さんによって色んな解釈がある。神羅万象とか、大自然の摂理とか、五蘊だとか。 諸法はナニ性で見える抽象的な意味的世界としてみたい。仏法はコレ性で見えるアクチュアルな事実的世界としてみたい。 食事をガツガツとむさぼり食う→ナニ性での抽象的な食べ方。食べ物そのものの事実ではなく、コトバや意味をむさぼり食べている。 赴粥飯法での食べ方(丁寧に食材、料理人、命に向き合う)→コレ性での食べ方。コトバや意味ではなく、事実を食べている。 悟りとは現実的に見ることであり、可能的に見ることを辞める。 3行目 「佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。」アリアリアリ とアリに戻ってくる。 これは世界はナニ性だけでもない、コレ性だけでもないよということであろう。人生は事実だけではない。人生は意味だけではない。 二即一でアリアリアリ。だから二つの概念がくっついて生滅、迷悟、生佛と出てきている。 西田幾多郎が『善の研究』を発表後、左右田喜一郎の批判に答えて「左右田博士に答う」という論文を出している。純粋経験は意味なのか事実なのかという問いに対して、純粋経験は意味即事実、事実即意味であると答える。西田が純粋経験から場所論へと思想を変遷させる重要な批判であったのだと思う。 で、仏道はもとより二即一、一即二の立場であるということであろう。 ここで、まどみちおの誌を引用 『リンゴ』 りんごを ひとつ ここに おくと リンゴの この 大きさは この リンゴだけで いっぱいだ りんごが ひとつ ここに ある ほかには なんにも ない ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ 『ふと』 ふと おわった いっしんふらんに 注ぎつづけていた ぼくの おしっこは 見つめていた ぼくの 「見つめていたこと」も また そして 見つめながら 考えていた 「考えていたこと」も また その「ふと」が なぜか ふと めずらしい はじめて 目にすることができた 時間の まばたきのようで。 事実が意味に見え、意味は事実に見える。コレはナニに包まれ、ナニはコレに包まれる。有は無に見え、無は有に見える。 4行目以降はまた後日。
2019.02.03
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今日から東京の武蔵境のお寺さんで修行に入ります。 研修仲間とも顔を合わせる。 明日からは早速接心が始まる。 朝庄内は吹雪だったが、こちらは晴天。 都会に適応してしっかりと叢林を作り上げ運営している堂頭老師は凄い方である。 参禅者も多い。
2019.02.01
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