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坐禅の指導の際によく「あらゆる人間的な構えを解除すると坐禅の姿勢できあがります」と言います。人間が何か目標を持ったり、大勝負に赴こうとすれば、必ずや何らかの「構え」ができてしまう。この構えは、的を見た瞬間、敵を見た瞬間、目標を見た瞬間に即座に起こってくる。ケータイを見たり、人に相対したり、日常の些細な事も構えでやっている。構えはその人の衝動に合わせて型がきまってくる。武道の達人ほど構えがない。構えは相手の構えと闘志を誘う表現である。世界を構えさせ、己を構えさせる。自己をならうというのは、この構えに自覚的になることだ。自己をわするるというはこの構えを解くということだ。坐禅の姿勢は構えを解いたところで出来上がる。姿勢を調え正すとは、まずあらゆる人間的構えを外すことから始まる。それは一瞬でできることだ。坐禅はファイティングポーズではない。構えを解いた赤ちゃんの姿だ。だから赤ちゃんは無敵の人だ。無敵の人になるには構えを解いて坐禅をしなければならない。緊張し、目標を立て、ガチガチに構えた修羅禅をしてはいけない。戦時下には流行るかもしれない。しかしそんな生き方は疲れる。
2019.10.07
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「我と大地と有情と同時成道す」我=私大地=場所的世界有情=時間的世界「今ここ私」とは限定的な主体である。他でもなく〈今〉であるということは、今以外の今から突出して端的に今でである。他でもなく〈ここ〉であれば、ここ以外のここから突出して端的に〈ここ〉である。他でもなく〈私〉であれば、私以外の私から突出して端的に〈私〉である。この常に限定的に突出して現れる現成にどのように取り組むのか。ということが公案である。この突出は唯一な突出である。釈迦降誕の偈「天上天下唯我独尊」や親鸞の「弥陀の五劫思惟の誓願も親鸞一人がためなりけり」もその突出の唯一性と奇跡性を表現しているものであろう。その突出をコレ性で表現し、その突出を平坦化させるのがナニ性である。無事禅や、無我の安易な理解にはナニ性が働いている。
2019.10.06
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臨済は達人の禅 曹洞は初心の禅と言われる。臨済は大人の禅。曹洞は赤ちゃんの禅だ。赤ちゃんは生まれながらに母親や大人に頼り切って任せきっている。大人の愛情や慈悲の心を前提として産まれ生きている。それはとてもリスクの大きな生き方だ。絶対他力の生き方である。任せるということは南無ということだ。南無の姿で生きている。人類はこれまでとても厳しい生存競争を生き抜いてきた。その生存の歴史の中で沢山の赤ちゃんが死んだり、殺されたり、捨てられたりしてきたことだろう。しかし幸いなことに沢山の人間の大人達は赤ちゃんへの慈悲や愛情を忘れなかったし、人間の赤ちゃんは生まれてすぐに自ら立ち上がって歩いたり、自分で食べたりをするようにはならなかった。他の生き物たちはほとんどがこの世界に生まれ出て立ち上がることができるというのに。じつは本当は赤ちゃんも生まれてすぐに立ち上がれるだけの骨格と筋力は備えている(写真の赤ちゃんは生後7カ月)。不思議なことに赤ちゃんは意図的に立とうとしないようプログラムされているのだ。大人達から目に付き愛されやすいように丸い顔かたちうまれ、大人たちがすぐに助けてくれるように、小さな体でとても大きな声で泣く。この赤ちゃんの存在は大人たちにとってお大きなリスクであり、手間であり、面倒である。(ちなみに釈迦は自分の赤ちゃんにラーフラ(邪魔者)となずけたが。)現代で引きこもりの数は多い。私も産まれてから18歳までずっと引きこもりであった。これは赤ちゃんの生き方である。釈迦も出家をして托鉢をして布施を受けて生きる道を選んだということは、この赤ちゃんの生き方を選んだということだ。いわゆる布施とは、母が赤ちゃんにおっぱいをあげることと同義である。与える側と与えられる側の存在価値を満たす原初的な行為だ。世間から引きこもったが、仏教は世間から認められ、引きこもりは世間からは認められてない。この違いは何であろうか。仏教徒と引きこもりの違いは、世間に対して布施をしていないからだろうか。いや、そんな社会貢献や損得やギブアンドテイクの問題でもないだろう。有為の布施と無為の布施とをよくよく参究したい。
2019.10.05
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坐禅における「調身・調息・調心」の「調」は調(ととの)うという意味と、調(しら)べるという意味がある。仏陀が菩提樹の下での、悪魔との対自にはこの「調」があったであろう。悪魔の正体を知るということは、自己をよくよく観察し調べ上げた結果である。調という態度の反対は「衝動的」ということである。自己を離れる、自己をわするると言っても、そこに衝動的なものがあってはいけない。「放逸」になるなとたびたび仏陀は弟子達に箴言する。放逸とは衝動的に生きるということだ。車の扉をバンッと閉めてしまう。おもわずキレる、ムカつく、無視するなどもそうだろう。月曜の朝に会社に行きたくないと鬱々とする。ケータイをいじりながらガツガツと食事をすることもそう。生活のあらゆる場面で「放逸」という悪魔と出逢う。アドラー心理学においては、例えば他者に対しての怒りの動機というのはすべて自己にあることを教えてくれる。子供が皿を割ったという事実がある。それに対して親は怒鳴り散らしたとする。子供が不注意だから親は怒鳴るのではない。子供の為を思って怒鳴っているのではない。子供でもちゃんと話せば次から気を付けるのだ。これは親が怒りたいから怒鳴るのだ。条件にあえばいつだってその怒りを表出させる。いつだって暗にその怒鳴り散らしの機会を伺っているのだ。スイッチが入ると反射的に怒るように自分でプログラムを仕組んでいるのだ。そのプログラムを解除することは簡単だ。ただ観察すればよい。明らめればよい。仏教の戒律とは、それを守ることが主眼にはおかれて作られてはいないだろう。殺すな、盗むな、浮気するな、嘘をつくな、深酒するななど。これら戒律とは、あなたはいとも簡単にそれをやってしまう人間であるよと教えてくれているのだ。それを戒として保つ。これは単にルールを守るということではない。常に自己の内にいる悪魔のプログラムに自覚的であれということだ。釈迦の悪魔との対峙の方法をよくよく参究しよう。
2019.10.04
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「人生一大事」というのは人生の中での一大事ではない。一大事が人生をやっているのだ。あなたの存在の一大事性とは、あなたを生きることができるのはあなたしかいない、ということだ。あなたが何者であっても、どんな重大な過ちを犯していたとしても、だ。実は私はその気づきに救われて18歳の時に引きこもりから家を出ることができた。クローン技術が進んであなたのコピーができて、あなたの代わりにあなたの人生を生きてくれるかもしれない。でもそれはあなたとは全く無関係な人生だ。学校教育や社会勉強や道徳教育を正しく受けることを大事にするよりも、自己の存在の奇跡を正しく驚愕することを学ぼう。それが宗教の根本であり、倫理の根本、教育の根本、福祉の根本、慈悲の根本、社会の根本であろう。世の中のことを重視するよりも、世の枠組みが一体なんであるかを重視しよう。この存在への驚愕は、世の中には全く関係しない驚きだ。しかしそれがあなたの存在において最も重要なことであるのだ。世の枠組みとは、実はあなたのことだ。あなたが開くあなただけしか見えない世界のことだ。悠久の時間、無遍の空間、無数の私達、そのマクロでよそよそしいものだらけの世界になぜか一点の特異なミクロの点として存在してしまっているあなたのことだ。世界は外からは始まらない。あなたという一点からしか始まっていない。過去も未来も他者も、あなたの〈今・ここ・私〉があるからこそ逆説的に存在するのだ。そこが理解できないと他者は理解できない。他者の「理解できなさ」を理解しないと、命の尊さや慈悲も理解できない。他者の理解できなさがあなたの存在をより理解させてくれている。「自己の底を通して汝を見る」という西田幾多郎の言葉の通りである。
2019.10.04
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