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「マルタとマリヤ」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章38~42節 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女の人が喜んで家にお迎えし」ました(38節)。彼女は、いろいろともてなしのために次のような心の状態になってしまいました。 ◇「心いりみだれ」(40節、文語訳)――いらいらしたり、あせったりすることです。 ◇「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせている」(40節)――自己憐憫です。 ◇「思い煩いて心労す」(41節、文語訳)――思い煩いと心労です。 このような心の状態は、内側だけにとどまらず、必ず外側にも表れてきます。 ◇「何ともお思いにならないのでしょうか」(40節)――八つあたりです。 ◇「妹におっしゃってください」(40節)――傲岸不遜な越権行為です。 マルタは、イエスを喜んで家にお迎えしたのに、なぜこのような心の姿になり、あのような醜態を演じてしまったのでしょうか。 一、マルタとマリヤの役割の違い イエスは、マルタとマリヤの家に大切な来客として来られました。来客をもてなすには、台所において食事を用意するというもてなし方と、応接間において来客と応対するというもてなし方とがあります。役割は違っても、どちらも大切で必要なものです。 マルタのもてなしは前者であり、マリヤのもてなしは後者です。神は、彼女たちに役割は違っても、それぞれ心から主に仕えることを求めておられます。 ところがマルタは、「妹が私だけにおもてなしをさせている」と言って(40節)、それぞれに与えられた役割の違いを認めないで、あたかも自分だけがイエスをもてなしているかのように錯覚してしまったのです。 二、マルタとマリヤの賜物の違い マルタが台所において食事を用意し、マリヤが応接間において来客と応対するという役割の違いは、そのまま彼女たちの性格や賜物の違いを表しています。なぜならマルタは行動的で活発な人であり、マリヤは物静かで慎み深い人だからです(38、39節、ヨハネ11章20節)。 ペテロは、「それぞれが賜物を受けているのですから……その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と勧めています(第一ペテロ4章10節)。神は、彼女たちに賜物は違ってもそれを用いて、それぞれ心から主に仕えることを求めておられます。 ところがマルタは「私の手伝いをするように」と言って(40節)、それぞれに与えられた賜物の違いを認めないで、あたかも自分だけが賜物を用いてイエスに仕えているかのように錯覚してしまったのです。 三、マルタとマリヤの信仰の違い マルタが取り乱してしまった根本的な原因は、何でしょうか。彼女には、どうしても必要な一つのことが欠けていました。それは、「神の国とその義とをまず第一に求め」ることです(マタイ6章33節)。 マルタの心は、「どうしても必要な……一つ」(42節)のことに欠けていたので、物事に専念することができず、仕事が手につかなくなってしまったのです。J・ウェスレーは、「あなたは、もっと多くのことをすることができるように、一時にはわずかなことをしなさい」と興味深い言葉を述べています。 心から神を仰ぎ、どうしても必要な一つのことに心を傾けることこそ、信仰の表れであり、心から神を仰ぐことができず、心が分裂して思い煩い、仕事が手につかないことは、不信仰の表れです。前者はマリヤの姿であり、後者はマルタの姿です。拙著「キリストの生涯の学び」113「マルタとマリヤ」より転載
2008.10.28
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「主の復活による救い」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章 キリスト教は「霊魂不滅」だけでなく、からだの復活による「肉体の不滅」をも教えています(ヨハネ5章29節)。そこで聖書が教えている復活に関する大切な真理を学んでみましょう。 一、過去におけるキリストの復活の事実について(1~11節) パウロは、キリストの復活は、誤って伝えられた根も葉もない架空の話ではなく、まことしやかに捏造された作り話でもなく、実際に起きた出来事に基づいた確かな実話であることを述べています。 G・C・モルガンはキリストの復活を証明する三つの事実を述べています。1.キリスト者の福音体験(1、2節)。2.聖書の復活に関する預言(3、4)。3.主の復活を目撃した証人(5~8節)。 もしキリストが復活されなかったなら、信じて罪から救われるキリスト者もキリスト教会も存在しなかったでしょう。実にキリストの復活は、キリスト教会の存在という確かな証拠があり、聖書の預言という確かな証言があり、主の復活を目撃した確かな証人のいる事実なのです。 二、現在におけるキリストの復活の意味について(12~49節) ところがコリントの教会の中のある人たちは、次のような三つの疑問のゆえに、死者の復活を信じていませんでした。 1.死者は、どうして復活するのか――復活の原因や理由に関する疑問 2.死者は、どのようにして復活するのか――復活の方法や手段に関する疑問 3.死者は、どのようなからだで復活するのか――復活の結果や様態に関する疑問 これに関してパウロは、簡潔に、しかもきわめて適切に答えています。 第一の疑問には「キリストが復活されたのだから、死者の復活があるのは当然である」(13節)と答えています。 第二の疑問には「からだの復活といっても、死んだ種粒から新しいからだが生じるという秘義以上に大きい秘義ではないのだ」(36~38節、G・C・モルガン)と答えています。 第三の疑問には「血肉のからだがあるのだから、御霊のからだもあるのである」(14節)と答えています。 このようにパウロは、疑問に答えながら、過去におけるキリストの復活は、現在の私たちにどのような意味を持っているかについて述べています。 1.主の復活は私たちの救いの基礎であり、根拠です(14~22節)。キリストの復活によって罪からの救いが成就するからです。 2.主の復活は神の支配の基礎であり、根拠です(23~28節)。キリストの復活によって神のご計画は完成するからです。 3.主の復活は私たちの希望の基礎であり、根拠です(42~49)。キリストの復活によって私たちも復活することができるからです。 三、将来におけるキリスト者の復活の奥義について(50~57節) 最後にパウロは、世の終わりにおけるキリスト者の復活について、次のような三重の表現によって述べています。 1.私たちの完全な変貌です(51、52節)。 私たちは、永遠に眠ってしまうのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられるのです。 2.神の与えてくださる完全な住まいを着ることです(53、54節)。 私たちは、天から与えられる住まいを着るのであり(第二コリント5章1~4節)、それは永遠に朽ちず、不死です。 3.死に対する完全な勝利です(54~57節)。 死ぬべきものがいのちにのまれ、もはや死はなくなるのです。ですから私たちの労苦は、主にあって決してむだになることはないのです(58節)。
2008.10.26
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「身代わりの十字架」 甲斐慎一郎 イザヤ書、53章 イザヤ書の53章は、キリストの受難の時から数えて約700年以上も前に預言されたものです。しかし私たちがこの章を読む時、イザヤはキリストの十字架の下で、これを書いたのではないかと思うほど、実に鮮やかに贖いの意義を私たちに教えています。 このキリストの贖い、すなわちキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死なれ、私たちの罪を赦してくださるというのは、私たちに何を教えているのでしょうか。 身代わりの十字架という観点から、次のような三つのことを学ぶことができます。 一、神の義の必要性 この章には2回、キリストが私たちの罪のために打たれたことが、はっきりと記されています。 1.「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(5節)。 2.「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」(8節)。 これは何と恐れ多いことでしょうか。しかしそれ以上に何と厳粛なことでしょうか。神は罪人を救うために、罪のない神のひとり子イエス・キリストを私たちの身代わりに罰せられたのです。これは「ご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ3章26節)。罪は、ただ見のがしにして赦すことは決してできないからです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の義の必要性を教えています。罪人である私たちが神の前に義と認められるためには、キリストの身代わりの刑罰が必要だったのであり、これなしには神の義を現すことができなかったのです。 二、神の愛の重要性 さらにこの章には3回、キリストが私たちの罪を背負ったことが記されています。1.「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(6節)。2.「彼らの咎を彼がになう」(11節)。3.「彼は多くの人の罪を負い」(12節)。 人間にとって最も苦しく辛いことは何でしょうか。無実の罪を負わされたり、濡れ衣を着せられたりすることではないでしょうか。対人関係の問題の根本は、このことであり、これは通常、誤解とか不当な非難とか中傷という形をとって表れます。キリストは、私たちに対する愛のゆえに無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷をも(3、4節)、喜んで受けてくださったのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の愛の重要性を教えています。神が罪人である私たちを愛されたことは、キリストが私たちのために無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷をも喜んで受けてくださったということであり、これなしには神の愛を現すことはできなかったのです。 三、結実の必然性 最後にこの章には3回、罪人の救いという結実があったことを教えています。1.「彼は末長く、子孫を見る」(10節)。2.「多くの人を義とし」(11節)。3.「多くの人々を彼に分け与え」(12節)。 このためにキリストは、「自分のいのちを罪過のためのいけにえ」(10節)とされたのであり、しかも「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足」(11節)されたのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに結実の必然性を教えています。神は、キリストをいけにえとされたので、罪人である私たちは、罪を赦されて救われることができるのです。そのように私たちも神と人のために自分をささげて、犠牲にする時、豊かな実を結ぶことができるのです。
2008.10.23
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「扱われた神のしもべ(4) 神に諭されるヨナ」 甲斐慎一郎 ヨナ書、4章 最後に4章の「神に諭されるヨナ」について学んでみましょう。 ヨナは、この4章においてニネベの人々の悔い改めと、神が備えられた「とうごま」と「虫」と「東風」によって、彼の心の奥底に潜んでいた罪があばかれ、懇々と神に諭されています。 一、身勝手な怒りの心 ヨナは、神の命令に従って熱心に伝道しましたが、その結果が自分の思い通りにならなかったので、激しく怒っています。 1.第一の理由は、ヨナの預言の通りにならなかったので、彼の面目がまるつぶれになったからです。 2.第二の理由は、ヨナは、熱心な愛国者でしたので、敵国が滅ぼされないことは自分の国の安全が脅かされると思ったからです。 私たちも、神のために熱心に奉仕しても、その結果は、必ずしも自分の思い通りにならないことが多いでしょう。しかしその時、神のみこころが行われることなど全く考えず、自分の思い通りにならなかったことを激しく怒るなら、ヨナと同じです。 まず神は、出来事の結果によって私たちを取り扱われます。すなわち神のみこころが行われることを求めず、自分の名誉や平穏な生活が失われることを激しく怒る身勝手な怒りの心こそ、神のお取り扱いを受けなければならないのです。 二、浅ましい喜びの心 神は、ヨナの不機嫌を直そうとされ、一本の「とうごま」を備えられましたが、ヨナがこの「とうごま」を非常に喜んだのは、暑さを避けることができたからです。ニネベの人人の救いを喜ばずに激しく怒ったヨナが、このようなことを非常に喜ぶとは、何と浅ましく、さもしい心でしょうか。 しかし私たちも、人々の救いよりも「とうごま」のように一時的に私たちの身と生活の安全を守ってくれる金銭や物が与えられることのほうを喜ぶなら、ヨナと同じです。 次に神は、私たちに何かを与えることによって私たちを取り扱われます。すなわち人々の救いを喜ばず、それよりも一時的に私たちの身と生活の安全を守ってくれる金銭や物が与えられることのほう喜ぶ浅ましい喜びの心こそ、神のお取り扱いを受けなければならないのです。 三、人よりも物を惜しむ心 神は、虫を備えることによってヨナが非常に喜んでいる「とうごま」を枯らされました。そのためにヨナは、死ぬほど怒りました。それは「とうごま」が失われたことを非常に惜しんだからです。ヨナは、「とうごま」が失われることをこれほど惜しみながら、ニネベの人々が失われることを惜しまなかったことに気づき、愛の無さを痛感したことでしょう。 私たちも、苦難という虫によって一時的に私たちの身と生活の安全を守ってくれる金銭や物という「とうごま」が失われることがあります。その時、人々が失われることよりも、「とうごま」が失われることのほうを惜しむなら、ヨナと同じです。 最後に神は、私たちから何かを取ることによって私たちを取り扱われます。すなわち人々が失われることを惜しまず、それよりも一時的に私たちの身と生活の安全を守ってくれる金銭や物が失われることのほうを惜しむ心こそ、神のお取り扱いを受けなければならないのです。 この身勝手な怒りの心と浅ましい喜びの心と人よりも物を惜しむ心はみな、罪深い自我の表れであり、きよめられなければならない心であるとともに伝道を妨げる心です。 ヨナは、神のお取り扱いを受けることによって一枚一枚皮をはがされるように隠れていた罪深い自我がむき出しにされていきましたが、神は、一枚一枚ベールを取るように隠れていた広くて深い無限の愛を私たちに示し、その愛を受け入れるように私たちを諭されるのです。あなたは、この神のお取り扱いを受けたでしょうか。
2008.10.19
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「扱われた神のしもべ(3)神に奉仕するヨナ」 甲斐慎一郎 ヨナ書、3章 第三番目に3章の「神に奉仕するヨナ」について学んでみましょう。 この3章には、先に行くことを拒んだニネベに遣わされたヨナが、そのニネベにおいて伝道し、しかもその伝道が大成功したことが記されています。 一、神のお取り扱いを受ける場所(1~3節) 神は、魚の腹の中から吐き出されたヨナに再び「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」と命じられました(2節)。なぜヨナはニネベに行かなければならなかったのでしょうか。 1.ニネベは、ヨナが悔い改めの実を結ぶ場所であったからです。ヨナは、ニネベに行くことによってのみ、その悔い改めが本物であることを証しすることができたのです。 2.ニネベは、ヨナがもう一度やり直す場所であったからです。神は、大きな失敗をしたヨナを見捨てず、ニネベにおいてもう一度やり直す機会を与えてくださったのです。 3.ニネベは、ヨナが最期まで最初の使命を果たす場所であったからです。ニネベにおいて伝道するというヨナの使命は、どんなことがあっても避けることができないものでした。 そしてヨナは、このニネベにおける伝道を通して、たましいの奥底まで神のお取り扱いを受けたのです。私たちも、ヨナのように悔い改めの実を結ぶことにおいて、またやり直す機会を与えられることにおいて、神のお取り扱いを受ける特別な場所があるのです。 二、神のお取り扱いを受ける奉仕(4~9節) ヨナは、4章に記されているようにニネベの人々が救われることを望まず、罪人への愛など全くなかったにもかかわらず、その伝道が成功していますが、これはなぜでしょうか。 1.ヨナは、罪人への愛はありませんでしたが、神の命令に従って熱心に伝道したからです。 2.ヨナは、ニネベに人々にとって魚の腹の中から吐き出された奇蹟の人でした。 3.ニネベの人々にとって神を信じて悔い改めることは、政治的な救いでもありました。 このようなことから、伝道や奉仕の結果というものは、必ずしも伝道する人や奉仕する人の信仰の状態を正しく評価するものではないことが分かるでしょう。かえって伝道や奉仕の結果は、私たちの信仰を試し、またあばくのです。 もし良い結果が出た場合、私たちは、自分のせいにして高ぶるでしょうか。それとも神に栄光を帰してへりくだるでしょうか。反対に悪い結果が出た場合、へりくだって反省するでしょうか。それとも失望落胆して卑屈になるでしょうか。ですから奉仕というのは、その結果が良くても悪くても、私たちを取り扱う神の道具であることが分かるでしょう。 三、神のお取り扱いを受ける心(10節) ニネベの人々の悔い改めは、結果的には長続きしない浅薄なものであったかも知れません。しかし神は、あり最悪の王アハブが少しでも神の前にへりくだったのを見られた時、わざわいを下されなかったように(第一列王記21章27~29節)、ニネベの人々の悔い改めをご覧になった時、わざわいを下すのを思い直されたのです。これは、人を疑わない何という優しい御思いでしょうか。 もし私たちがヨナのように、不愉快と不機嫌、また怒りとつぶやきと不平不満の心に満ちているとするならば、それは、神を酷で、意地悪な、ひどい方であると思い、決して善意に満ちた優しい方だと信じないからです。しかし、この自らの悪いところを棚上げし、暗に神を非難する身勝手で、疑い深く、頑なな心こそ、神のお取り扱いを受けなければならないのです。
2008.10.17
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「扱われた神のしもべ(2)神に悔い改めるヨナ」 甲斐慎一郎 ヨナ書、2章 次に2章の「神に悔い改めるヨナ」について学んでみましょう。 この2章に記されているヨナの祈祷は、ほとんどが詩篇のことばの引用です。神の声にそむいて神からのがれ、そのたましいが罪の中に深く眠り込んでいたヨナも、激しい暴風と人々の質問によって、そのたましいが眠りから呼び起こされて、目が覚めた時、彼は、日頃たくわえていた神のことばを思い出し、魚の腹の中から神に悔い改めの祈りをささげたのです。 一、罪の報いの大きさ 魚の腹の中で悔い改めたヨナは、その後、どうしたでしょうか。彼は、再び神より「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」と命じられています(3章2節)。この3章2節のみことばは、小さな語句の違いはありますが、その内容は、1章2節のみことばと全く同じです。 ですから1章3節より2章10節までの出来事は、ヨナの不従順による遠回りであることがわかります。しかしこの遠回りの道は、単に時間的な損失だけでなく、次に記すような三重の苦しみが伴ったのです。 1.まず精神的には、人々に詰問されて、良心の呵責に苦しみました。 2.次に霊的には、神の目の前から追われる苦しみを味わいました。 3.さらに肉体的には、嵐の海中に投げ込まれて死ぬほどの苦しみをしたのです(3、5、6節)。 ヨナは、神にそむきさえしなければ、このような苦しい目に会う必要はなかったはずです。これらのことから、神に従う苦しみよりも、神にそむいて様々な罰を受ける苦しみのほうが、はるかに大きいことがわかるでしょう。罪の報いは、これほど大きなものなのです。 二、神の愛の深さ ヨナは、ヨッパに下り、次に船に下り、そして船底まで下っただけでなく、さらに「山々の根元」(6節)、すなわち海の底まで下っています。彼が、「よみの腹の中から叫ぶと」(2節)と言ったのも、もっともなことです。ヨナにとって、まさにそこは「滅び」でした(6節、欄外注)。 ヨナは、神の「目の前から追われ」て(4節)、その「たましいが……衰え果て」(7節)ているような中から、神に祈り、また叫び求めています。そして神は、その声を聞かれ、その祈りに答えておられるのです。これは何とすばらしいことでしょうか。 たとえ、私たちが絶望と罪のどん底に落ちたとしても、神に叫ぶことができないところはなく、神に祈りが届かない場所はありません。神は、私たちが叫びさえすれば、必ずその声を聞かれる方であり、それほど神の愛は深いのです。 三、人間の罪の深さ この2章において罪を悔い改めたヨナは、3章において神に従ってニネベに行き、伝道しています。しかし4章において再び彼の罪深い心が現れています。 これは、どのように考えたならばよいのでしょうか。ヨナは、罪を悔い改めたのではなかったのでしょうか。彼の悔い改めは、不完全だったのでしょうか。決してそうではありません。ヨナの悔い改めは完全でした。しかし、それはニネベに行かなかった行為に対する悔い改めであり、その原因である彼の心の中に住む罪そのものに対する解決ではなかったのです。 人間の罪は、単に行為としての罪だけでなく、その原因である状態または性質としての罪があり、それほど深いものです。しかしてこの状態または性質としての罪を解決するものこそ「きよめ」なのです。
2008.10.13
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「扱われた神のしもべ(1)神から逃げるヨナ」 甲斐慎一郎 ヨナ書、1章 ヨナ書は、章の数で言えば四章、節の数で言えば48節しかない短い書ですが、その内容は、実に深くて広大です。この書は、ヨナというひとりの預言者と、そのヨナをお取り扱いになった神の姿を通して、異邦人をも愛する神の広くて深い愛と、それとは全く正反対のヨナの偏狭で罪深い心が鮮やかに描かれています。 このことからヨナ書の主題はキリスト者にとって最も大切な「聖潔」と「宣教」であることが分かります。 この書を神とヨナとの関係から章毎に述べるなら、次のようになります。(1)神から逃げるヨナ(1章)(2)神に悔い改めるヨナ(2章)(3)神に奉仕するヨナ(3章)(4)神に諭されるヨナ(4章) まず1章の「神から逃げるヨナ」について学んでみましょう。 一、寝込んでいたヨナ(1~5節) 神は、ヨナに「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ」と命じられました(2節)。「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立ってヨッパに下」りました(3節)。その結果は、どうなったでしょうか。よく言われるように、ヨナは、まずヨッパに下り(3節)、次に船に下り(3節)、さらに船底に下った(5節)だけでなく、激しい暴風の中で人々の騒ぎをよそに、その船底でぐっすり寝込んでいたのです(5節)。 私たちも神の声に背いて、神から逃げるならば、必ず堕落という下り坂を降りるだけでなく、周囲の人々の苦しみや悩み、そして助けと叫び求める声に全く無関心になり、ただ自分と自分の生活を守ることに汲々とし、そのたましいは、罪の中に深く眠り込んでしまうのです。 二、呼び起こされたヨナ(6~11節) 寝込んでいたヨナを呼び起こしたのは船長でしたが(6節)、この箇所には、船長および周囲の人々の興味深い6つの質問が記されています。 1.いったいどうしたことか。寝込んだりして(6節)。 2.だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ(8節)。 3.あなたの仕事は何か(8節)。 4.あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か(8節)。 5.何でそんなことをしたのか(10節)。 6.海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか(11節)。 これに対してヨナは、自分は真の神、主を礼拝するヘブル人であること、しかしその主の御顔を避けてのがれようとしたために、このようなわざわいが降りかかったことを人々に告白したのです(12節)。 しかしこれらの質問は、単なる人間の声ではなく、人々を通して語りかける神の声であることを忘れてはなりません。神は眠り込んでいる私たちを呼び起こすために、様々な人の声を通して私たちに語りかけるのです。 三、目が覚めたヨナ(12~17節) ヨナは、「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです」と言いました(12節)。これは、この激しい暴風は、自分を引き戻すために神が起こされたものであり、神からのがれようとした自分だけが悪く、他の人は関係がないことを認めている目が覚めた人のことばです。 私たちも神からのがれようとすることなど全くむだなことであり、他の人ではなく自分が悪いことを認める時、はっきりと目が覚めて、神に立ち返ることができるのです。
2008.10.11
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「古い人と新しい人(3) 新しい人の歩み」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、6章12~23節 このローマ人への手紙の6章は、前半の1節から11節には古い人の死と新しい人の誕生について、後半の12節から23節には新しい人の歩みについて記されています。 そこで古い人と新しい人について、今回は、その締め括りとして新しい人の歩みについて学んでみましょう。 一、古い人と新しい人の二重の意味 聖書は、古い人と新しい人について教えており、キリスト者は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着た人のことです。 それでは、古い人は罪人を指し、新しい人はキリスト者を指すのでしょうか。一般的にはそうですが、様々な言葉の用法を調べると、古い人と新しい人という言葉は、それぞれ二重の意味を持っていることがわかります。 例をあげるならば、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」(エペソ4章22節)という場合は、救われる以前の罪人の姿を指していますが、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(ローマ6章6節)という場合は、「私のうちに住む(住みついている)罪」(同7章17、20節)を指しています。 また「だれでもキリストにうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)という場合は、救われたキリスト者を指していますが、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」(エペソ4章24節)とか「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ3章10節)という場合は、全く聖なる者とされたキリスト者を指しています。 ◇古い人――広義と狭義とがあります広義――生まれながらの罪人の姿狭義――生まれながら持っている罪 ◇新しい人――広義と狭義とがあります広義――義と認められ、新しく生まれた人狭義――生来の罪をきよめられた人 二、古い人と新しい人の二重の姿 古い人と新しい人の二重の意味を二重の姿について述べるなら、次のようになります。 古い人(広義、生まれながらの罪人)は、罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じるなら、新しい人(広義、義と認められ、新しく生まれた人)になります。 古い人(狭義、生まれながらの罪)は、キリストとともに十字架につけられるなら、新しい人(狭義、生来の罪をきよめられた人)になります。 キリスト者は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着た人です。しかしこれには二つの転機があります。古い人(広義、生まれながらの罪人)が死んで、新しい人(広義、義と認められ、新しく生まれた人)が誕生するのが新生の転機です。しかしこの新しい人(広義、義と認められ、新しく生まれた人)には、古い人(狭義、生まれながらの罪)が住んでいるので、この古い人(狭義、生まれながらの罪)さえも死んで、全く新しい人(狭義、生まれながらの罪をきよめられた人)になるのが聖化の転機です。 三、新しい人の歩み パウロは、「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(13節)と勧めています。 私たちは、キリストの十字架による贖いを信じるなら、神のいのちが与えられ、死者の中から生き返りますが、新しく生まれたキリスト者は、次の二つのうちのどちらかを選ばなければなりません。 ◇もし私たちが、その手足を不義の器として罪にささげるなら、すなわち罪のために用いていくなら、不潔の実を結び、その行き着く所は、永遠の死です(21節)。 ◇しかし私たちが、その手足を義の器として神にささげるなら、すなわち神のために用いていくなら、聖潔の実を結び、その行き着く所は、永遠のいのちです(22節)。 私たちは、どちらを選ぶでしょうか。
2008.10.07
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「古い人と新しい人(2) 新しい人の誕生」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、6章12~16節 パウロは、「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」と述べ(コロサイ3章9、10節)、エペソ人への手紙の4章とともに、コロサイ人への手紙の3章においても、古い人と新しい人について教えています。 そこで古い人と新しい人について、先回は古い人の死について学びましたが、今回は、新しい人の誕生について学んでみましょう。 一、新しい人の姿 新しい人とは「神の中に生きている自分」のことです。パウロは、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」と述べています(エペソ4章24節)。コリント人への手紙、第二の5章には、新しい人の姿について、次のような三つのことが記されています。 1.新しい原動力が与えられる(14節)。 古い人は、自分の力で生きていくしかありませんが、新しい人は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになったキリストの愛という新しい力によって生きていくのです。 2.新しい目的が与えられる(15節)。 古い人は、自分のために生きていますが、新しい人は、自分のために死んでよみがえった方のために生きるのです。 3.新しい知識が与えられる(16節)。 古い人は、人間的な標準で、自分を取り囲む環境が矛盾と不可解に満ちた狂った世界、すなわち古い世界しか目に映りませんが、新しい人は、古い世界をも支配して、すべてのことが神の遠大なご計画のままに行われる新しい世界を見ることができるのです。 二、新しい人の誕生 しかし、どうすれば、このような新しい人になることができるのでしょうか。それは、模倣したり、努力したりすることによっては不可能であり、ただ古い人が死に、新しい人が誕生することによってのみ可能なのです。このことに関して聖書は、次のような三つのことを教えています。 ◇神によって生まれること 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた……人々は……神によって生まれたのです」(ヨハネ1章12、13節)。 ◇キリストとともに生きること 「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」(8節)。 ◇神に対して生きた者であると思うこと 「あなたがたも……神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だ、と思いなさい」(11節)。 三、キリストの復活 それでは、この新しい人が誕生するということが、単なる観念でもなれりば幻想でもないという根拠(または証拠)は何でしょうか。それこそ私たちを生かすために、キリストが復活してくださったという事実です。 ◇私たちを新しく生まれさせるために、よみがえられたキリスト 「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせてくださ」います(第一ペテロ1章3節)。 ◇永遠に生きておられるキリスト 「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知ってい」るのです(9節)。 ◇神に対して生きておられるキリスト 「キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです」(10節)。 キリストは、「私たちを新しく生まれさせる」ために、私たちも「キリストとともに生きる」ために、そして私たちも「神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思」うために、「死者の中からよみがえって……死はもはやキリストを支配」せず、「神に対して生きておられる」のです。
2008.10.05
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「古い人と新しい人(1) 古い人の死」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、6章1~11節 パウロは、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」と勧めています(エペソ4章23、24節)。 このパウロの言葉から、キリスト者とは、古いを人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着た人であることがわかります。それでこの箇所から「古い人と新しい人」について次のような3つの観点から考えてみましょう。◇古い人と新しい人(1)――古い人の死◇古い人と新しい人(2)――新しい人の誕生◇古い人と新しい人(3)――新しい人の歩み まず古い人の死について学んでみましょう。 一、古い人の姿 「古い人」とは、「罪の中に生きている自分」のことです(2節)。罪のある者として、この世に生を受けた生まれながらの人間の姿は、まさにこれです。 この古い人の姿や生き方は、罪を悔い改め、キリストの贖いを信じて、新しく生まれ変わるか、またはその救いを真実に求めていくかしない限り、次のような姿になります。 ◇偽善(良く見せかけること) 心の中の罪を解決せずに、ただ外側の姿や行いだけを正しくしようとすることです。 ◇偽悪(悪くみせかけること) これは、ほとんどの場合、偽善に対する反動として、わざと悪く振る舞うことです。 ◇ありのまま(そのまま現すこと) これも、偽善や偽悪に対する反動ですが、古い人が罪深い心のままに振る舞ったなら、どんなに恐ろしい社会になることでしょうか。 二、古い人の死 このように古い人の生き方は、良く見せかけるなら、偽善であり、悪く見せかけたり、そのまま現したりするなら、事態を悪化させるだけです。どちらにしても、古い人が生きている限り、何の救いも解決もないことがわかるでしょう。 パウロは、古い人は死ななければならないと述べています(2~8節)。しかし古い人が死ぬとは、どのようなことでしょうか。聖書は、次のような3つのことを教えています。 ◇自分で自分を救わないこと 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタイ一六章25節)。 ◇キリストとともに死ぬこと 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」(6節)。 ◇罪に対して死んだ者であると思うこと 「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者……だと、思いなさい」(11節)。 私たちは、このような3つのことをする時、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」(エペソ4章22節)が死ぬのです。 三、キリストの死 それでは、この古い人が死ぬということが、単なる観念でもなければ、幻想でもないという根拠(または証拠)は何でしょうか。それこそキリストがほんとうに私たちの罪のために死んでくださったという事実です。 ◇ご自分を救わなかったキリスト 「彼は他人を救ったが、自分は救えない」(マタイ27章42節)という祭司長、律法学者たちの嘲笑の言葉は、ほんとうでした。 ◇十字架の上で死なれたキリスト 「イエスは、大声をあげて息を引き取られた」(マルコ15章37節)。 ◇罪に対して死なれたキリスト 「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたので」す(10節)。 キリストは、私たちが「自分で自分を救わない」ために、私たちも「キリストとともに十字架につけられる」ために、そして私たちも「自分は罪に対して死んだ者だと思う」ために、ご自分を救われず、十字架の上で死なれ、罪に対して死なれたのです。
2008.10.02
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