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「私のささえである主(1)」 甲斐慎一郎 詩篇18篇16~19節 「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私よりも強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった」(17、18節)。 冒頭の聖句から「ささえ」ということについて考えてみましょう。 一、三種類の「ささえ」 この「ささえ」という言葉は、文語訳では、「支柱」となっていますが、これは、「つっかい棒」ということです。日本語の「人」という文字は、長い棒を短い棒で支えていますが、このように人間というものは、何かを支えとして生きている者です。 私たちは、自分のからだを支えるためには、しっかりした地面や床が必要であり、また肉体の生命を支えるためには、新鮮な空気や水や食べ物が必要です。しかし、それ以上にもっと大切なものは、心の支えです。人は、心の支えを失うなら、最悪の場合は、自らの生命を絶ってしまうのです。心の支えとは、言い換えれば、生きがいのことです。 人は各自、様々なものを心の支えとして生きていますが、分類するならば、次のような3つになるのではないでしょうか。 1.自分および自分が生み出すものを心の支えとする。 これは、自分の体力や実力や手腕、また名誉や地位を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、自分により頼むことです。 2.他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとする。 これは、自分では何もせず、他の人を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、他の人により頼むことです。 3.神および神が与えてくださるものを心の支えとする。 これは、自分が生み出すものや他の人が与えてくれるものを心の支えとせず、ただ神のみを心の支えとし、生きがいとすることであり、神により頼むことです。 二、間違った「ささえ」 もし、私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。自分の思いどおりになれば、高慢や誇りのとりこになるでしょうし、反対に自分の思いどおりにならなければ、自己卑下やひねくれのとりこになるでしょう。 また私たちが他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。他の人が自分の思いどおりにしてくれれば、怠慢や貪欲になるでしょうし、反対に自分の思いどおりにしてくれなければ、憎しみや恨みや妬みに満ちてしまうでしょう。 このように自分であれ、他の人であれ、私たちは、人間を心の支えとするなら、うまくいってもいかなくても、心は様々な罪に満ちてしまうのです。聖書は、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」と教えています(エレミヤ17章5節)。 三、正しい「ささえ」 このようなことから、私たちの心をほんとうに支える正しい心の支えというのは、次の二つの条件を満たさなければなりません。 1.私たちを裏切ったり、失望させたりしない不変で不動なものであることです。 2.私たちをいい気にさせて誇らせたり、怠けさせたりしないものであることです。 この二つの条件を満たす正しい心の支えは、神および神が与えてくださるものを心の支えとすることです。なぜなら、神こそ「わが巌、わがとりで、わが盾、わがやぐら」(2節)であるとともに、「神、その道は完全」(30節)とあるように、神は人間が誇ったり怠けたりしないように、人間が考える最善のことではなく、神の計画された最善のことをいつも私たちにしてくださるからです。 そして私たちは、神のみを心の支えとするなら、神は、私たちを神のみこころにかなった者に形造られるだけでなく、他の人の助けをも与えてくださるのです。
2008.07.30
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「信仰の本質」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章1~12節 パウロは、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」と述べ(第二コリント4章18節)、ヘブル人への手紙の著者は、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と記しています(1節)。 一、世界の本質 聖書は、「信仰によって、私たちは……見えるものが目に見えるものからできたものではないことを悟るのです」と記し(3節)、この目に見える世界は、目に見えない神によって造られたと教えています。言わば、この世界は現象(本質の外面的な現れ)であり、その本質や本体は神です。そしてこのことは、私たちに、この世界は、目に見える物質の世界だけでなく、目に見えない霊の世界があることを教えています。 しかし多くの人々は、目に見える物質の世界である現象だけしか認めず、目に見えない本質(本体)である神や霊の世界を否定しています。これは、「この世の神(サタン)が不信者の思いをくらませ」、おおいを掛けているからです(第二コリント4章4、3節)。「私たちの格闘は血肉(目に見える人間)に対するものではなく……天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6章12節)。 二、信仰の本質 この手紙の著者は、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と記しています(1節)。信仰は、目に見える現象に惑わされずに、目に見えない本質や本体に目を留めることです。言い換えれば、目に見えない本質や本体を見る目が信仰であるということができます。 「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき……箱舟を造り」(7節)、「信仰によって、アブラハムは……召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(8節)。このように信仰は、何も目に見えなくても、神の約束と保証を頼って行動するのです。 ですから、ただ目に見えることだけを信じたり、良い結果を見たならば信じるというのは、真の信仰ではありません。良い結果が出てから喜んだり、安心したりするのは、だれにでもできることであり、信仰など全く必要ありません。 信仰は、良い結果が見えないうちに、それを信じて喜び、安心することであり、その信仰の報いとして良い結果が出るのです。この信仰のみ、失望、落胆し、気力を失っている人間に希望と勇気を与えて、立ち上がらせるものです。 三、救いの本質 聖書は、「信仰によって、彼(モーセ)は……目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」と記しています(27節)。世の中には、その道の専門家とそうではない素人がいますが、その違いは、素人は、目に見える結果や現象しか見えず、何か起こると恐れ惑うだけですが、専門家は、素人が気がつかない目に見えない原因や本質を見ているので、恐れ惑わずに、それに対処し、問題を解決することができます。 キリストは、私たちが過去に犯したすべての罪を赦し、現在と将来のすべての罪から私たちを救うために十字架につけられ、罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちが罪から救われるためには、周囲の環境や誘惑や試練に負けず、罪に打ち勝つ力が必要です。私たちは、目には見えませんが、キリストの贖いを信じる時、私たちが過去に犯したすべての罪が赦され、現在と将来のすべての罪から私たちを救う力が与えられるのです。 しかし目に見えないものは信ぜず、目に見える現象しか認めないなら、絶えず周囲の環境や誘惑や試練に惑わされ、敗北してしまうでしょう。 この目に見えないものに目を留めることこそ、世界の本質と信仰の本質と救いの本質をとらえる秘訣なのです。
2008.07.28
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「信仰の意味」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章1~6節 人格を持つ者にとって最も大切なことは、信頼できる人や信用できる人、または真実な人になることではないでしょうか。 聖書は、人間は神への信頼や信用である信仰を失ってしまったために、人が見ていなければ、何をするかわからないような信用できない人になってしまったと教えています。 ですから信頼できる、また信用できる真実な人になるためには、神への信仰というものが不可欠であることがわかるでしょう。 新約聖書の原語であるギリシャ語は、「信仰」と「真実」は同じ「ピスティス」という言葉であり、英語の「真実な(faithful)」という言葉は、「信仰に満ちている」という意味であることは誠に興味深いことです。聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と教えています(6節)。 そこで人間にとって最も大切な信仰について学んでみましょう。 一、信仰の知性的な面――信仰の根拠について 私たちに知性や理性がある以上、何だかわからないものをいきなり信じることは不可能であり、信じる対象を前もって知らなければなりません。これが信仰の知性的な面です。神は、私たちに神の言葉が信仰の土台であり根拠であると教えています。 ですから信仰とは、実際には無いものをあたかも有るもののように思い込むことではありません。知性と理性を持った人間には、そのようなことは不可能です。信仰は、神の言葉の教えている真理と事実を受け入れることです。 しかしある人々は、ほんとうに聖書は神の言葉なのか、と言うでしょう。そのような人は、ベレヤのユダヤ人のように「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」ることをお勧めします(使徒17章11節)。そうすれば、聖書は知性と理性を持った人間が十分に納得できる数々の証拠に満ちた信頼できる歴史的な書物であることがわかるでしょう。この神の言葉の教えている真理と事実を知性的に承認することが信仰の第一歩です。 二、信仰の意志的な面――信仰の働きについて 次に真の信仰には意志が伴います。ここにいわゆる「科学的な真理」と「宗教的な真理」の違いがあります。 科学的な真理というのは、それを受け入れる人の道徳性には関係がありませんので、悪い心や生活を改める意志がなくても、その科学的な真理を知性的に承認しさえすれば、その人のものになります。 しかし宗教的な真理は、当然その性質上、道徳性が含まれているので、悪い心や生活を改めて信じたいという意志がなければ、その宗教的な真理(救い)は、決してその人のものにはなりません。多くの人々は、信じるなら、自分の悪い心と生活を改めなければならないという恐れから、信仰を拒否しているのです。聖書は、「彼らが神を知ろうとしたがらないので」(ローマ1章28節)と、神を意志的に拒絶していることを教えています。 このように悪い心と生活を改めて信じたいという意志を働かせて、神に信頼し依存することが信仰の第二歩です。 三、信仰の行動的な面――信仰の結果について 最後に真の信仰には、行動が伴います。それは、ヤコブが「行いのない信仰はむなし」く、「死んだものである」と述べている通りです(ヤコブ2章20、26節)。 人間というものは、その成り立ち上、だれでも、「知性的に承認し、意志的に承諾し、信頼し依存する」(H・オートン・ワイレー)なら、その信じた通りに行動するように造られているのです。ここに至ってその信仰は、実を結んで完成します。 信仰は、知性的な面と意志的な面と行動的な面が一体となり、切り離すことができないもので、神は、この信仰に応えて、私たちのうちに奇しいわざを行ってくださるのです。
2008.07.25
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「神の計画と人の計画(2)」 甲斐慎一郎 箴言19章21節 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごと(協会訳、新共同訳は御旨)だけが成る」(21節)。 日本語には「都合」という便利な言葉があります。この言葉には副詞として「全体で」とか「しめて」という意味がありますが、名詞としては、次のような4つの意味を持っています。 用 例 意 味1.都合が悪い――成り行き、具合、事情2.都合をつける――やり繰り、融通、便宜3.仕事の都合――手筈、手続き、手順4.都合をみて――機会、おり、場合 これらの都合がどうであるかということを決めるものは、その人の計画です。すなわち、その人の計画が、そこにあるかないかによって、これらの四つの都合がどうであるかが決まります。これらのことを分かりやすくまとめるなら、次のようになるでしょう。 1.都合が悪い――その人が周囲の「状況」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 2.都合をつける――その人が「工夫」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 3.仕事の都合――その人が「順序」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 4.都合をみて――その人が「時期」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 この計画と都合という観点から、私たち人間の姿について考えてみましょう。 一、自分の計画しか持たない人 心の中に自分の計画しか持たない人がいます。このような人は、他の人の都合など念頭になく、ただ自分の都合しか考えない人です。すなわち、自分のためならば、どんなことをしても都合をつけますが、それ以外のことは何もせず、ただ自分に都合の良いことだけをするのです。 しかしこのような人は、だれが考えても最も未熟であるだけでなく、身勝手な人間であることがわかるでしょう。これは、神の前には自己中心の罪深い姿です。 二、他の人の計画をも考える人 これに対して他の人の計画をも考える人がいます。このような人は、自分の都合だけでなく、他の人の都合をも考える人です。すなわち、相手の人の事情をよく考え、必要ならば、その人のために何とか都合をつけて、自らの都合を後回しにするのです。 このような人は、世の中においては、角がとれた如才ない人であり、先の身勝手な人に比べれば、良い人であることは言うまでもありません。しかしどんなに他の人の都合のことを考えても、所詮、それは人間の都合に過ぎず、それこそ都合次第によっては、同じことが善にでも悪にでも変わってしまういい加減なものです。 三、神の計画を受け入れる人 それでは、人間にとって最も大切なことは、何でしょうか。それは、私たちひとりびとりに対する神の計画を知り、それを受け入れることです。 1.神は、私たちを「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」(エペソ1章4節)、そのために十字架の贖いによる救いを備えられました。 2.神は、私たちの賜物や能力が罪のために悪用されず、神と人のために十分に活用されることを願っておられます(ローマ12章6~8節)。 3.神は、私たちが地上において神よりの使命と任務を果たし、神の栄光を現すことを願っておられます(使徒20章24節)。 これが私たちに対する神の計画です。私たちは、自分の計画や都合のために、この神の計画を退けて自己中心の罪に陥り、永遠の滅びに至る者でしょうか。それとも、この神の計画を受け入れて自己中心の罪から救われ、永遠の救いにあずかる者でしょうか。
2008.07.21
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「神の計画と人の計画」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、7章 「主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか」(5節)。 「万軍の主よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる』と言われました」(27節)。 この前半の5節にはダビデの計画、すなわち人の計画について、後半の27節には神の計画について記されています。そこで神の計画と人の計画について、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて考えてみましょう。 一、様々な計画 計画には様々なものが考えられますが、その形態と目的と長さに関して述べるなら、次のように分類することができるのではないでしょうか。 1.どのような計画か(計画の形態)(1)無計画――いきあたりばったりです。(2)杜撰(ずさん)な計画――いい加減なものです。(3)綿密な計画――用意周到なものです。 2.何のための計画か(計画の目的)(1)生活のための計画――肉体に関するもの。(2)人生のための計画――心に関するもの。(3)救いのための計画――霊に関するもの。 3.どれくらいの計画か(計画の長さ)(1)目先の計画――差し当たりのものです。(2)一生の計画――生涯に関するものです。(3)永遠の計画――来世まで及ぶものです。 二、人の計画 ダビデが主の宮を建てようとしたことは、「私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた」(第一歴代誌22章7節)とあるように、無計画な思いつきやいい加減なものではなかったに違いありません。しかしこれは、次のような三つの理由で神のみこころではありませんでした。 1.ダビデは軍人として多くの人の血を流してきたので、神聖な神殿を建てるにはふさわしくありませんでした(第一歴代誌22章8節)――性質。 2.ダビデは戦いの王として周囲の国々を平定してきたので、回りのすべての敵に煩わされる危険性がありました(同22章9節)――立場。 3.ダビデには神殿を建てるために必要な金銀や材料等を準備するという大切な別の仕事がありました(同22章14節)――使命。 このように人の計画というものは、綿密に計画しても、欠けたところがあるものであり、まして無計画や杜撰(ずさん)な計画は決して神のみこころではありません。また人の計画には、生活のための計画や目先の計画が多く、人生のための計画や一生の計画はまれです。しかしこのような計画でさえも、神のみこころではないことを忘れてはなりません。 三、神の計画 これに対して神の計画は、どのようなものでしょうか。 1.その人の性質や賜物、立場や位置、そして使命や任務を熟慮した綿密な計画です。 2.神の前に生きる救いのための計画です。 3.天の御国にまで至る永遠の計画です。 「わたしが、あなたのために家を建てる」(27節)というすばらしい神の計画を知らされたダビデは、主の前に座して語っていますが、その言葉にあふれているものは、次のような3つのことです。◇第一は、謙虚な感謝です(18~21節)。◇第二は、一途な献身です(22~24節)。◇第三は、大胆な祈祷です(25~29節)。 神の計画を知らされた私たちは、へりくだって感謝し、すべてをささげて神に従い、マリヤのように「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と祈るでしょうか。それとも神の計画に背を向けて、自分の計画を押し通すでしょうか。 もし私たちが神の計画に背を向けて自分の計画を押し通すなら、神の計画はむなしくなりますが、もし私たちがへりくだって感謝し、すべてをささげて神に従うなら、神の計画にあずかることができるのです。
2008.07.18
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「理解を越えた大いなる事をなさる神を呼べ」 甲斐慎一郎 エレミヤ書、33章3節 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33章3節)。 この箇所における「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」というのは、第一義的には、4節以下に記されているユダとエルサレムの復興と繁栄のことを指しています。しかしここでは、すべての人に当てはまる神の啓示としてとらえてみます。 一、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事が起きるのが人生です フランスの文学者が「ある赤ん坊が母親のおなかから出てくると、まわりをキョロキョロ見回し、『なんだ、人生とは、こんなものか』とひとこと言って、おなかの中に引っ込んでしまう」という即興劇をつくりました。 しかし実際は「事実は小説よりも奇なり」というエマソンの言葉のように、現実の人生は、作家の空想も及ばないような意外なことが多いもので、人が一生かかっても極め尽くすことができないほど不思議な巡り合わせや複雑な変化に富んでいるものです。 聖書は「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである」と教えています(伝道者7章14節)。 二、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事をなさるのが神です 私たちは、新年を迎えて新しい計画や目標を立てたり、新年の希望や抱負を語ったりすると、何か新しくなったような気がします。しかし正月も終わり、通常の生活に戻ると、去年と少しも変わっていない自分を発見して、愕然とすることがあります。「日の下には新しいものは一つもな」く(伝道者1章9節)、人は、神による以外に新しくなることはできません(第二コリント5章17節)。 神は「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」と語っておられます(イザヤ書43章19節)。 イスラエルの民は、何度も神にそむいて罪を犯し、神が遣わされた預言者たちの警告にも耳を傾けず、ついに敵国バビロンに滅ぼされ、生き残った者は捕虜となり、バビロンに連れて行かれてしまいました。彼らは、神に対して犯した罪の報いを受けたのです。 ところが神は、ペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられたので、王のおふれによってイスラエル人は捕囚の身から解かれ、祖国に帰ることができました(エズラ1章)。 彼らは、「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」と歌っています(詩篇126篇1、2節)。このバビロン捕囚からの帰還こそ、神がなされる「新しい事」です。 パウロが述べているように、神は「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」です(エペソ3章20節)。ダビデは、「私の時は、御手の中にあります」と記しています(詩篇31篇15節)。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています。 三、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げられる神を呼び求めることこそ私たちの義務であるとともに特権です このように神は、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて」、あふれるばかりの恵みを注いで「新しい事」をなさる方です。神は、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事をなさる方ですから、神のなさることはみな「新しい事」です。 私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げられる神を呼び求めることこそ私たちの義務であるとともに特権です。新しい年、私たちの知らない、理解を越えた大いなる事を告げられる神を呼び求め、その神に新しい事を期待して歩もうではありませんか。
2008.07.15
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「やもめの献金」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、12章38~44節 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられ」ました(41節)。 マルコとルカは、「やもめの献金」の出来事を記す前に、「やもめの家を食いつぶ」す律法学者たちの姿を描いています(40節)。 一、律法学者たちとやもめの比較――社会的な地位の対比(38~40節) 律法学者たちは「長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで……見えを飾るために長い祈りを」する偽善者の代表です(38、40節)。しかし彼らは「外側は人に正しいと見え」(マタイ23章28節)、律法の専門家として社会的な地位もあり、人々から尊敬されていました。 これに対してやもめは、夫に先立たれた女性であり、社会的な地位もなく、弱い者の代表です。律法学者たちは、律法の専門家としての社会的および宗教的な地位を利用して、何も知らないやもめから、金銭をだまし取っていました。これが、「やもめの家を食いつぶ」すという言葉の意味です(40節)。 二、金持ちと貧しいやもめの比較――経済的な力の対比(41、42節) 数多くのやもめの中には、裕福なやもめもいたことでしょうし、この裕福なやもめがおもに律法学者たちにだまされたのでしょう。このように裕福なやもめでさえも、律法学者たちにだまされるような弱い者です。ところが「そこへひとりの貧しいやもめが来て」、わずかな献金をしたのです(42節)。 聖書には、多くの金持ちとともに、貧しい人たちのことが記されています。当時のイスラエルの国も、貧富の差が激しかったことがわかります。いつの時代も、多くの金持ちは、何不自由なく暮らし、その陰で、貧しい人たちは、虐げられたり、踏みにじられたりしているのです(ヤコブ2章2~7節)。 三、多額の献金と少額の献金の比較――宗教的な営みの対比(43、44節) 「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」のに対して、「貧しいやもめ」は、「レプタ銅貨を二つ投げ入れ」ました(41、42節)。現在の日本円に換算するならば、大金は何万円という額であるのに対して、レプタ銅貨二つは、一デナリ(当時の労働者の標準的な日給)の六十四分の一ですから、百円か二百円になるでしょう。 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女の人は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」と言われました(43、44節)。 四、神の目と人の目の違い(43、44節) 聖書は、第一段階において律法学者たちとやもめの社会的な地位を対比し、第二段階において金持ちと貧しいやもめの経済的な力を対比し、第三段階において多額の献金と少額の献金という宗教的な営みを対比することによって、やもめが一段一段と最低のところまで降りていく有様を鋭く描いています。 人の目には、社会的な地位は高く、経済的な力は強く、宗教的な営みは盛大な律法学者や金持ちは、りっぱに見え、社会的な地位は低く、経済的な力は弱く、宗教的な営みは見すぼらしいやもめは、みじめに見えます。 しかし、弟子たちに語られたイエスの言葉は、このやもめを最低のところから最高のところまで引き上げ、彼女の姿は、人の目には最もみじめに見えたとしても、神の目には最も尊く映っていることを教えているのです。
2008.07.12
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「高慢の根絶」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、12章1~10節 「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18章12節)。 「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」(第一ペテロ5章5節)。 J・ウェスレーは、きよめられた人々に与える第一の忠告は何かと問われた時、「誇りに対して絶えず目を覚まして祈れ。誇りは欲望と同じくらい危険に満ちている。そして特にあなたが誇りの危険はないと思っている時、知らないうちに誇りに落ち込みやすい」と述べています。それで高慢を根絶する秘訣について聖書から学んでみましょう。 一、高慢の根絶の第一の秘訣――全き愛 「愛は自慢せず、高慢になりません」(第一コリント13章4節)。 私たちは、聖霊によって罪がきよめられる時、神の愛が与えられますが、この愛を持たなければ、自分には何も要求せず、相手にばかり要求するようになります。真の愛は、強制や義務ではなく、自発的に、しかも相手に要求するのではなく、自分に要求し、相手には与えようとするものです。 人間は、元来、器ですから、神から良いものを受けない限り、他の人にばかり要求するようになります。相手に要求ばかりしている自分を発見したなら、神の愛を失っていると思ってまちがいありません。 しかし神から聖霊の愛を与えられた者は、相手に要求せず、かえって与え続けます。神の愛を与えられた人は、神の前にしもべとして正しい立場にあるので、高ぶることはありません。しかし神を主とあがめず、その神に従順なしもべとならなければ、自分が主となり、神をしもべとしてしまうので、神の前に傲慢不遜になり、それはまた人に対しても高慢になるのです。 二、高慢の根絶の第二の秘訣――苦役 「主は苦役(文語訳は勤労)をもって彼らの心を低くされた」(詩篇107篇12節)。 罪がきよめられて神の愛を与えられることは、より多くの恵みと光(霊的な知識)が与えられることです。しかし、これは神に奉仕をするために与えられたもので、奉仕するために用いなければ、より多くの恵みと光のゆえに高慢と批判の原因になります。 人は、金銭の報酬のない奉仕をすることによってのみ、謙遜を学ぶことができます。なぜなら人間は打算的ですから、金銭の報酬があれば、卑しい仕事もすることができるからです。すぐに報いを受ける直接的な奉仕の舞台裏とも言うべき、隠れていて、下積みの、労が多く、人のいやがる、すぐに報われるとは限らない間接的な奉仕をすることによって、人は謙虚になることができます。尊い直接的な奉仕はするが、卑しい間接的な奉仕はしないというその高慢な心が砕かれるからです。受けた恵みでもって浮ついた高ぶりやすい歩みを、しっかりと地についた謙虚な歩みにさせるものが奉仕(苦役)です。 私たちは、恵みだけ受けて奉仕をしなければ、理論的に言うことは正しくても、同情も思いやりもない、高慢な人間になってしまうのです。 三、高慢の根絶の第三の秘訣――肉体の刺 「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」(第二コリント12章7節)。 この肉体のとげは、自分で作ってはならず、また普遍的に誰にでも与えられるものでもありません。さらにこれは、純粋に肉体的な欠陥であり、その人が霊的に問題のないことが前提です。しかも治らないところにその意味がありました。高慢を防ぐために奉仕がありますが、この奉仕は成功すれば、また一つの恵みであり、奉仕のゆえに高ぶる危険性があります。肉体のとげは、特殊な場合ですが、肉体の弱さは、だれにでもあります。それは、肉体のとげとは言えないかも知れませんが、私たちの高慢を防ぐことは確かです。しかし、これを私たちの奉仕の怠慢の口実にしてはなりません。なぜなら奉仕の怠慢は、また高慢の原因になるからです。 このように私たちの高慢を根絶するものは、全き愛と苦役と肉体の刺(または弱さ)です。
2008.07.09
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「教会のためにいのちを捨てられた神」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、5章22~33節 聖書は、教会について驚くべきことを教えています。 一、神のみこころとご計画の要となるキリストのからだである教会の建て上げ エペソ人への手紙の主題は、「キリストのからだである教会」です。パウロは、その手紙の1章において「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」と記し、「それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって」と、私たちを罪から救い、キリストのからだである教会を建て上げようとされる父なる神の遠大なご計画を述べています(4、9節)。実に聖書は、神のみこころとご計画の要は、キリストのからだである教会の建て上げであると教えているのです。 二、創世記からヨハネの黙示録まで神の宮(教会)の8つの段階を教えている聖書 しかし「教会」には、全時代の全世界における罪から救われたキリスト者の集まりである「目に見えない教会」と、各時代において、それぞれの地域にある有形のキリスト教会である「目に見える教会」があり、エペソ人への手紙の中に記されている教会はみな、後者の「目に見えない教会」です。そして「目に見える教会」には、建物である教会堂がありますが、これは、神がお住みになる神の宮であり、私たちが真の神への礼拝と賛美と祈祷をささげる神聖な場所です。しかし神の宮は、教会堂が最初ではなく、そこに至るまでに長い歴史があったことを聖書は教えています。 1.祭壇――これは、神に香をたいたり、いけにえをささげたりするために、土や石や金属で造られた壇のことです。ですから祭壇は、正確に言えば神の宮ではなく、その前身であり、神の宮の中心的な部分です。 2.幕屋――これは、契約の箱や祭壇などを納めるために亜麻布で造られた天幕のことで、荒野を旅行するイスラエル人が持ち運んで移動することができる神の宮です。 3.神殿――これは、仮の住まいである幕屋を恒久的な建築物に建て替えたもので、広さは幕屋の四倍ほどありますが、その構造や機能は同じであり、幕屋の再現です。 4.会堂――神殿が破壊され、イスラエル人が捕囚となった時、彼らは、ユダヤ人の宗教的な集会場である会堂を造りました。これは、神殿に取って代わるものではありませんが、神殿と同じく、聖書を教え、祈りをささげて、神を礼拝するところです。 5.キリスト――幕屋は、キリストのひな型で、イエスはご自分のからだのことを神殿であると言われました(ヨハネ2章21節)。 6.キリスト者――キリスト者は、神がお住みになる「生ける神の宮」であり、そのからだは「幕屋」であるとパウロは述べています(第二コリント6章16節、5章1~4節)。 7.教会堂――教会堂は、神への礼拝と賛美と祈りがささげられる神の宮です。 8.天の御国――地上の幕屋は、「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」であり、本物は「まことの聖所」である「天の御国」です(ヘブル9章24、12節)。 三、聖く傷のないものとなった栄光の教会を立てるためにいのちを捨てられた神 パウロは、ことばを続けてエペソ人への手紙の1章において父なる神の遠大なご計画は「時がついに満ちて」(10節)、言い換えれば「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし」(ガラテヤ4章4節)、「この時のためのみこころが実行に移され」たと記しています(10節)。そのことをパウロは、同じ手紙の5章において「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」のは、「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」と、1章において啓示された父なる神の遠大なご計画は、御子イエス・キリストが教会のためにいのちを捨てられたことによって実現したと述べているのです(25、27節)。
2008.07.06
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「境遇と信仰」 甲斐慎一郎 ルツ記、1章1~22節 このルツ記の1章は、6人の人物が登場しますが、その置かれた境遇によって3つのグループに分けることができます。この箇所から境遇と信仰について学んでみましょう。 一、エリメレクの境遇と信仰 エリメレクは、「ユダのベツレヘムの人」とあるので(1節)、神の選びの地イスラエルに生を受け、小さい時から真の神と正しい信仰を教えられ、信仰的には恵まれた境遇に置かれた人です。 しかしエリメレクは、この神の恵みによって与えられた境遇のすばらしさを悟ることなく、ききんがあった時、ユダの地を去り、異邦の地モアブへ行ってしまいました。 エリメレクは、物が乏しくても信仰的に恵まれた境遇よりも、異教と偶像の地であっても物質的に豊かな地のほうを選んだのです。彼は、ベツレヘム(パンの家という意味)に帰ることなく、モアブの地で死にました。 第一のグループは、このエリメレクのように、生まれながらにして恵まれた境遇に置かれた人々です。このような人たちは、「ききん」によって代表される物質的な欠乏や苦難があっても、なお神にとどまり続けるかどうかを試されるのです。 二、ルツのオルパの境遇と信仰 ルツとオルパは、「モアブの女」とあるので(4節)、先祖は、アブラハムのおいのロトであったとしても、今は全く異教と偶像の民となってしまったモアブ人として生まれ、育てられた人たちです(創世記19章37節)。彼女たちは、エリメレクとは反対に、信仰的には最も不幸な境遇に置かれた人々です。 しかし、このようなモアブの女にも、神の恵みと愛の手が差し伸べられました。神は、ききんのためにユダの地を去り、敗北の信仰生活を送っていたエリメレクの家族をも用いて、真の神と正しい信仰を彼女たちに示されたのです。 幸いに二人ともイスラエルの神を信じました。しかしオルパの信仰は、ルツと違って形だけの御利益信仰でした。彼女は、夫のキルヨンが死に、ナオミに子どもが生まれる希望がないことを知ると、イスラエルの神を捨て、偶像の神に返ってしまったのです。 第二のグループは、このルツとオルパのように最初は不幸な境遇にありながらも、一方的な神の恵みにより、恵まれた境遇に置かれた人々です。このような人たちは、苦難によって物質的な祝福や御利益がなくなったとしても、なお神に従い続けるかどうかを試されるのです。 三、ナオミとマフロンやキルヨンの境遇と信仰 ナオミとマフロンやキルヨンは、エリメレクと同じく、初めは信仰的に恵まれた境遇にありましたが、エリメレクが自分の意志によってユダの地を去ったのとは異なり、彼らは、不本意ながらも、父エリメレクに従ってモアブの地に行ったのです。 しかし、この初めは恵まれた境遇にあっても、後に不本意ながらも不幸な境遇に置かれる人々の中にも、二種類の人たちがいます。 第一は、マフロンやキルヨンのように不幸な境遇に負けてしまう人です。彼らがモアブの地で死んだのは、彼らに神とイスラエルの地に返る心がないために神の刑罰を受けたのではないでしょうか。 第二は、ナオミのように、どんなに苦しくても、不幸な境遇に負けず、神に立ち返り続けて、ついに神の祝福を受ける人です。 このように初めの境遇の善し悪しは、私たちの自由にはなりませんが、ひとたび神の恵みを受けるなら、私たちは、自分の不幸を悪い境遇のせいにすることはできません。 神は、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と仰せられ(申命記30章19節)、私たちに信仰による選択を求めておられます。私たちが神への信仰を選ぶなら、いのちと祝福がもたらされますが、不信仰を選ぶなら、死とのろいを招くことになるのです。
2008.07.03
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