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「良いサマリヤ人(2)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章25~37節 この律法の専門家は、永遠のいのちと律法に関するイエスとの問答において、学者として、正しく答えました(27節)。イエスは、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました(28節)。「しかし彼は、自分の正しさを示そうとして」質問したのです(29節)。 これはおそらく、金持ちの役人のように、「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と自慢したかったからでしょう(ルカ18章21節)。しかしイエスは、彼の中に真の隣人愛のないことを見抜いておられました。そこで、彼との問答において、真の隣人愛について教えられたのです。 一、動機としての隣人愛――無意識の愛 この律法の専門家は、「私の隣人とは、だれのことですか」とイエスに尋ねました(29節)。これはあたかも、「私は、どのような人を私の隣人として愛すればよいのですか」と聞いているかのようです。しかしこれでは、ある人を隣人、ほかの人をそうではない人として、差別しているのではないでしょうか。 イエスは、山上の説教において、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と教えられました(マタイ5章45節)。これこそ、人を差別しない真の愛ではないでしょうか。 「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものである。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素など少しもない。……意識しないということが愛の特質である。……私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことがある」(オズワルド・チェンバーズ著『いと高き方のもとに』いのちのことば社、1999年、127頁)。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当然のこととして、ごく自然に隣人を愛するようになります。それは意識しないものです。 もし私たちが、隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょうか。 二、方法としての隣人愛――愛による知恵 このサマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、その愛のゆえに彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすればよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施しています(34、35節)。 「意識しないということが愛の特質で」すが(前掲書、127頁)、その逆、すなわち、人は愛のゆえに様々なことを考えるようになるだけでなく、最も良い方法と知恵を生み出します。 この愛が生み出す知恵は、心の中で考えるものですから、無意識ではありませんが、当然のこととして、ごく自然に、何が最も良い方法なのかということを考え続けるものなのです。 三、結果としての隣人愛――愛の行為 イエスは、律法の専門家に、「それを実行しなさい」(28節)、「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と、二度も愛を実行に移すように勧められました。 このサマリヤ人は、その愛のゆえに強盗に襲われた者を助けるには、どうすればよいのかということを考えただけでなく、その考えたことを当然のこととして、ごく自然に実践に移しています。このように愛は、それぞれ人によって、その表れは一様ではありませんが、必ず実行が伴うものなのです。拙著「キリストの生涯の学び」112「良いサマリヤ人(2)」より転載
2008.09.28
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「良いサマリヤ人(1)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章25~37節 ここは、「良いサマリヤ人」のたとえ話として、よく知られています。このたとえ話は、イエスと律法の専門家(律法学者)との問答の中で語られたものです。 この「良いサマリヤ人」のたとえ話は、次のような三つに分けることができます。◇イエスと律法学者との問答(25~29節)。◇良いサマリヤ人のたとえ話(30~35節)。◇イエスと律法学者との問答(36、37節)。 ここでは、イエスと律法学者との問答を理解するために、先に良いサマリヤ人のたとえ話を学んでみたいと思います。 一、強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、なぐられて、半殺しにされた人の姿(30節) 「ある人」とはユダヤ人です。「エルサレム」は神の都であり、「エリコ」は呪われた町でしたが、多くの祭司が住んでいました。「エルサレムからエリコへ下る道」は、多くの強盗がいて、殺人が行われたので、「血まみれの道」と呼ばれていました(J・ウェスレー)。この道で一人のユダヤ人が強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、なぐられて、半殺しにされたのです。 私たちは、このような出来事の中に、神を離れて、罪のために堕落し、悪魔によって義と聖の衣をはぎ取られ、罪の刑罰を受けて、霊的に死んでいる悲惨な人間の姿を見ることができるのです(エペソ2章1~3節)。 二、強盗に襲われた者を見ても、隣人になれなかった祭司やレビ人の姿(31、32節) そこへ、祭司とレビ人が来ましたが、二人とも強盗に襲われた者を見ても、見ぬふりをして、通り過ぎて行きました。「祭司」は、神殿においていけにえをささげる人で、律法学者とともに、ユダヤの宗教的な指導者であり、「レビ人」は、その祭司に仕えて助ける人です。 神の律法を学んで、それを実行すべき祭司やレビ人が、知らぬ顔をして通り過ぎて行ったことは、当時のユダヤ教の姿をよく教えています。彼らは、イエスに、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と言われるような人たちでした(マタイ9章13節)。彼らは、強盗に襲われた者を見ても、隣人になれなかったのです。 私たちは、このような出来事の中に、律法やいけにえは、罪のために堕落し、霊的に死んでいる人間を救うことができないことを教えられるのです(ヘブル10章1~4節)。 三、強盗に襲われた者を見てあわれみ、隣人になったサマリヤ人の姿(33~35節) ところが、「あるサマリヤ人」が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷の手当てをしただけでなく、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。しかし、これで十分とは考えず、次の日、宿屋の主人に金を渡して、介抱を依頼し、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」とまで言ったのです。 その当時、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをし」ませんでした(ヨハネ4章9節)。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、サマリヤ人はユダヤ人を敵視していたからです。そのサマリヤ人が、強盗に襲われたユダヤ人の隣人になり、かゆい所に手が届く、至れり尽くせりの世話をしたのです。 私たちは、このような出来事の中に、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」者をもあわれみ(コロサイ1章21節)、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」、その罪から私たちを救ってくださるキリストの姿を見ることができるのです(第一ペテロ2章24節)。拙著「キリストの生涯の学び」111「良いサマリヤ人(1)」より転載
2008.09.25
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「七十人の派遣(2)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章17~20節 さて七十人が喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と言いました(17節)。これを聞いてイエスは、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました(20節)。 一、なぜ悪霊どもが私たちに服従するからといって、喜んではならないのでしょうか 「悪霊どもが私たちに服従する」とは「伝道や奉仕が成功する」ということです。「イエスは弟子たちに、奉仕が成功したことを喜んではならないと言われた」(オズワルド・チェンバーズ著『いと高き方のもとに』いのちのことば社、1999年、121頁)が、なぜでしょうか。 1.救いは神の超自然的なわざだからです。 イエスは、弟子たちに「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け」られました(19節)。そのように「魂の救いは神の超自然的なわざで」す(前掲書、310頁)。ですから私たちは、これを自分のわざにして喜んではなりません。なぜなら、それは神に栄光を帰さない不遜の罪であるだけでなく、越権行為だからです。 2.救いは人のわざではないからです。 私たちは、「魂の救い」を自分のわざにするなら、どうなるでしょうか。成功すれば、うぬぼれて自分自身の働きを礼賛し、失敗すれば、失望して働きに押しつぶされてしまうか、働きを放棄してしまうでしょう。どちらにしても、「魂の救い」を人のわざにするなら、神の超自然的なわざを妨げてしまうことになるのです。 3.私たちのなすべきことは、人々に福音を語り、救われた人々に御言葉を教えることです。 私たちは、福音を語る時、聖霊の働きによって救われる人が起こされ、また救われた人に御言葉を教える時、彼らは、弟子(師から教えを受けた者)となります(マタイ28章19、20節)。これが私たちのできることであるとともに、なすべきことです。 二、なぜ、ただ私たちの名が天に書きしるされていることを喜ぶべきなのでしょうか 「私たちの名が天に書きしるされている」とは、「神と正しい関係にある」ことです。イエスは、「彼ご自身と正しい関係にあることを喜ぶべきである」(前掲書、250頁)と言われたが、なぜでしょうか。 1.神との正しい関係こそ聖書が教えている真の救いだからです。 私たちは、奉仕や働きをすることによって神と正しい関係を持つことはできません。ただ「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」ます(ローマ3章24節)。言い換えれば、私たちは「行ないによるのでは」なく、「恵みのゆえに、信仰によって救われ」るのです(エペソ2章9、8節)。 2.神との正しい関係は、私たちが信仰に成長していくための唯一の秘訣だからです。 私たちは、神と正しい関係にある時にのみ、奉仕や働き、また周囲の環境や状況に左右されることなく、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝して、信仰に成長していくことができるのです。 3.神との正しい関係は、伝道と奉仕の原動力だからです。 私たちは、「救いおよび聖化によって、神との正しい関係に入れられ」(前掲書、250頁)、私たちの名が天に書きしるされていることを喜んでいる時、人を救いに導くことに情熱を燃やすとともに、伝道と奉仕の力が与えられるのです。拙著「キリストの生涯の学び」110「七十人の派遣(2)」より転載
2008.09.22
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「七十人の派遣(1)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章1~16節 その後、主は、十二使徒とは別に、七十人の弟子たちを選んで、「ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしにな」りました(1節)。 一、七十人の弟子たちの伝道に対する心構え(2~7節) イエスは、七十人の弟子たちをお遣わしになる時、次のような伝道に対する三つの心構えを彼らに話されました。 1.人を救いに導く働き手を送ってくださるように神に祈ることです(2節)。 イエスは、弟子たちに、人を救うことがおできになるのは神のみであり、また、人を救いに導くために用いられるのも、神から遣わされた働き手のみであることを教えられました。ですから彼らは、神が人を救いに導く働き手を送ってくださるとともに、自分たちがその働き手として神に用いられるように、まず神に祈ることが必要でした。 2.神から遣わされた働き手として、必要なものはすべて神が備えてくださることを信じて伝道することです(4、7節)。 イエスは、弟子たちに「働く者が報酬を受けるのは、当然だからです」と教えられました(7節)。ですから彼らは、衣食住、すなわち着る物も、食べる物も、泊まる所も、必要なものはすべて神から与えられることを信じて、ひたすら伝道すればよいのです。 3.ひとりでも滅びることを望まず、すべての人を愛して祝福することです(5節)。 イエスは、弟子たちに、どんな家にはいっても、まず「この家に平安があるように」と言いなさいと教えられました(5節)。彼らは、天の父が、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」ように(マタイ5章45節)、すべての人を祝福することです。 二、七十人の弟子たちを受け入れる人々に対する祝福(8、9節) 弟子たちは、どの町にはいっても、自分たちを受け入れてくれたら、その町の病人を直し、彼らに「神の国が、あなたがたに近づいた」と言うように命じられました(9節)。 弟子たちを受け入れる人々には、すばらしい救いと祝福が与えられます。なぜなら弟子たちに耳を傾ける者は、彼らを遣わされたイエスに耳を傾ける者だからです(16節)。 弟子たちには、このような権威が与えられています。主の弟子たちが神から遣わされて、神の言葉を語っているならば、その人に耳を傾けることは、その人を遣わされたイエスに耳を傾けることになるのです。 三、七十人の弟子たちを受け入れない人々に対する刑罰(10~16節) しかし弟子たちは、町にはいっても、人々が自分たちを受け入れないならば、足についたちりもぬぐい捨てるように命じられました(11節)。足についたちりをぬぐい捨てるとは、「着物を振り払う」ことと同様に、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない」ということを意味しています(使徒18章6節)。 弟子たちを受け入れない人々には、ソドムよりも重い刑罰が加えられます。なぜなら、弟子たちが行ったような力あるわざは、ソドムでは行われなかったからです。また弟子たちを拒む者は、イエスを拒む者であり、イエスを拒む者は、イエスを遣わされた父なる神を拒む者だからです(16節)。 弟子たちには、このような権威が与えられています。主の弟子たちが神から遣わされて、神の言葉を語っているなら、その人の言うことを拒むことは、その人を遣わされたイエスと父なる神を拒むことになるのです。拙著「キリストの生涯の学び」109「七十人の派遣(1)」より転載
2008.09.20
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「生まれつきの盲人(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、9章1~41節 この「生まれつきの盲人」の目が開かれた出来事について、第三回目は、イエスの姿に焦点を合わせてみましょう。 一、真理のあかしをするために来られたイエス 弟子たちは、生まれつきの盲人についてイエスに質問して、「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と言いました(2節)。これに対してイエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と答えられました(3節)。 イエスは「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」と言われました(18章37節)。これは言い換えれば、イエスは、世間でよく口にされる誤りを正し、何が真理であるかを教えるために来られたということです。 多くの人々は、この弟子たちの質問に代表されるように、人間の悲惨な状態の原因は、だれのせいであるのかということを問題にしています。これに対してイエスは、人間の悲惨な状態は、原罪という「誰も触れることのできない罪」(オズワルド・チェンバーズ)にその究極的な原因があるので、人のわざではどうすることもできず、神のわざでなければ解決することができないことを教えられました。 このようにイエスは、真理のあかしをするために世に来られたのです。 二、人を救うために来られたイエス しかし人は、その誤りを正され、何が真理であるかを教えられても、それだけでは救われることはできません。イエスは、このように答えてから、この盲人の目に泥を塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました(7節)。 この人は、行って洗い、見えるようになって帰って行きました。しかし次にイエスがこの人に声をかけられたのは、彼がパリサイ人に追放された後でした(35節)。 その間、イエスは何のために彼の前に姿をお見せにならなかったのでしょうか。それは、見えるようになったことを信じないパリサイ人にためされることによって、彼の心の眼が開かれ、彼がイエスに出会って霊の眼が開かれる備えをするためであり、また彼が人に拠り頼まず、神を信じて、確かな歩みをすることができるようになるためです。 このようにイエスは、人を救うために世に来られたのです。 三、人をさばくために来られたイエス この盲人であった人とは対照的にパリサイ人は、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任して」おり(ローマ2章19、20節)、肉体の眼はもちろんのこと、心の眼も霊の眼も開いていると思っていました。 しかし彼らは、この生まれつきの盲人に出会うことによって、肉体の眼も心の眼も霊の眼も閉じていることが明らかになりました。生まれつきの盲人が、イエスとパリサイ人に出会うことによって、肉体の眼と心の眼と霊の眼が開かれたのとは正反対です。 イエスは、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなるためです」と言われました(39節)。 このようにイエスは、人をさばくために世に来られたのです。なぜなら神の救いは、目が見えると言って自分を高くする者には隠され、目が見えないと言って自分を低くする者に現されるものだからです(41節)。拙著「キリストの生涯の学び」106「生まれつきの盲人(3)」より転載
2008.09.17
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「生まれつきの盲人(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、9章1~41節 この「生まれつきの盲人」の目が開かれた出来事について、第二回目は、パリサイ人の姿に焦点を合わせてみましょう。 一、第一段階――事実を確認しました 近所の人たちやほかの人たちは、前に盲人であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行きました(13節)。パリサイ人は、この人に「どのようにして見えるようになったかを尋ね」ました(15節)。彼は、肉体の眼が開かれたという事実をはっきりと証言しました(15節)。 しかし彼らは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲人であったが見えるようになったということを信ぜず、両親を呼び出して尋ねました(18、19節)。その結果、両親も彼の肉体の眼が開かれたという事実を証言しました(20、21節)。 このようにして本人はもちろんのこと、近所の人たちやほかの人たち、そして両親という「証人の口によって、すべての事実が確認され」たのです(マタイ18章16節)。 二、第二段階――肉体の眼を閉じました このように、すべての事実が確認されたにもかかわらず、パリサイ人は、盲人であった人をもう一度呼び出して、「真実を言いなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と言いました(24節、欄外注別訳)。 この言葉は、盲人であった人に偽りの証言をさせようとする狡猾な誘導尋問でした。彼らは、事実が確認された以上、もう尋ねる必要はありません。しかしそれにもかかわらず彼らが尋ねたのは、事実を事実として認めず、その事実に対して目をつぶったことを教えています。すなわち彼らは、外側の事実に対して肉体の眼を閉じたのです。 三、第三段階――心の眼を閉じました この盲人であった人は、このような誘導尋問にひっかかることなく、肉体の眼が開かれたという事実を証言しました(25、30節)。 またこの人は、「盲人に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」と言って、外側の事実の奥にある内側の真理をパリサイ人たちに語りました(32、33節)。 これを聞いたパリサイ人たちは、「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と言って、彼を外に追い出しました(34節)。このようにして彼らは、この盲人であった人から、外側の事実の奥にある内側の真理を教えられたにもかかわらず、その内側の真理に目をつぶったことにより、心の眼を閉じたのです。 四、第四段階――霊の眼を閉じました なぜパリサイ人は、この盲人であった人の言うことに耳を傾けず、彼を外に追い出したのでしょうか。それは、「自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、……盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任してい」たからです(ローマ2章17~20節)。 パリサイ人は、このように自任していたことで、「私たちは目が見える」と言っていました(41節)。しかし彼らは、神を誇り、みこころを知っていると言い張ることによって神を見失ってしまい、外側の事実に対して肉体の眼を閉じ、また内側の真理に対して心の眼を閉じただけでなく、神ご自身を見るという霊の眼も閉じたのです。拙著「キリストの生涯の学び」105「生まれつきの盲人(2)」より転載
2008.09.13
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「生まれつきの盲人(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、9章1~41節 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られ」ました(1節)。 「生まれつきの盲人」の話には、三種類の人たちの姿が記されています。◇生まれつきの盲人(1)――盲人の姿。◇生まれつきの盲人(2)――パリサイ人の姿。◇生まれつきの盲人(3)――イエスの姿。 一、第一段階――肉体の眼も心の眼も霊の眼も閉じていました この人は「生まれつきの盲人」でした(1節)。彼は、このことをどんなに嘆いたことでしょう。しかし、どうすることもできず、おそらく家族にも見放されて、「物ごいをしてい」ました(8節)。お先真っ暗で、絶望のどん底にあったにちがいありません。 このようなあわれな盲人にイエスは近づいて行かれました。この人は、イエスが初めに話された言葉は(3~5節)、理解できなかったかもしれません。しかしイエスが自分の目に泥を塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われた言葉は(7節)、はっきりとわかり、その言葉の通りに、「彼は行って、洗った」のです(7節)。 二、第二段階――肉体の眼が開かれました その結果、この人は、見えるようになりました(7節)。しかしユダヤ人たちやほかの人たちの何人か、そしてパリサイ人は、彼が盲人であったが見えるようになったということを信ぜず(18節)、4回も、どのようにして見えるようになったかをしつこく尋ねました(10、15、24、26節)。彼は、そのたびに肉体の眼が開かれたという事実を証言したのです(11、15、25、27、30節)。 三、第三段階――心の眼が開かれました この人は、自分の目が見えるようになったことを信じない人たちの質問に対して、5回も肉体の眼が開かれたという事実を証言しているうちに、徐々に神と神に関する真理が見えるようになってきした(31~33節)。すなわち、心の眼が開かれてきました。 この盲人であった人の肉体の眼が開かれたという外側の事実の奥に、それは、神がおられ、その神がそのことをなされたのであるという内側の真理があります。この人は、外側の事実を何回も証言しているうちに、次第に心の眼が開かれて、この内側の真理が見えるようになってきたのです。 彼の心の眼が開かれて、外側の事実の奥にある内側の真理が見えるようになったのは、自分を信じない者によってためされたからであることは誠に興味深いものです。真理も偽りも、何事もない時は、その真相は隠されていてわかりませんが、反対する者や敵にためされる時、その本当の姿が現れてきます。 四、第四段階――霊の眼が開かれました この人は、肉体の眼が開かれたという事実を証言しているうちに、心の眼も開かれて、いつのまにかパリサイ人に神と神に関する真理を語っていました(31~33節)。そのためにパリサイ人の怒りを買い、会堂から追放されてしまいました(34節)。 真理が見えるようになった人が、その真理を語ると、真理の見えない人から迫害を受けるのは、いつの時代も同じです。 この人は、またもや一人になってしまいました。イエスは、彼を見つけ出し、「あなたは人の子(イエス)を信じますか」と言われました(35節)。彼は、その方がイエスであるとわかると、「主よ。私は信じます」と言って、イエスを礼拝しました(38節)。 このようにして彼は、神と神に関する真理が見えるという心の眼だけでなく、神ご自身を見るという霊の眼も開かれたのです。拙著「キリストの生涯の学び」104「生まれつきの盲人(1)」より転載
2008.09.11
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「人の心の深さ」 甲斐慎一郎 詩篇64篇6節 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊です 聖書は、人間を霊、たましい(心)、からだという三つの部分から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 1.からだは、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 2.たましい(ソウル)は、「知性の面での心(マインド)」と「感情の面での心(ハート)」と「意志の面での心(ウィル)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 3.霊は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、それは神の像に似せて造られた不滅のいのちです。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 イエスが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。パウロは、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」と告白し(ローマ七章15節)、ダビデは、「人の内側のものと心は、深いものです」と記しています(詩篇64篇6節)。 人の心が自分で見えないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が意識している心の表面に大きな影響を与えている、いやそれを支配しています。言い換えれば無意識の霊と無意識の心は、意識している心の意志の力が及ばず、無意識のうちに良いことも悪いこともしているのです。 ですからこの無意識の霊と無意識の心から罪が取り除かれなければ、罪を犯すことを止めることもできなければ、神の御心にかなった良いことを行うこともできないのです。 二、「霊」は、「心(たましい)」を支配し、「心」は「からだ」を支配しています 「霊」は「心」の中枢機能として「心」を支配し、「心」は「からだ」の中枢機能として「からだ」を支配しています。 「心」は「からだ」を支配していますが、この場合、意志の力によってからだを動かす「知覚と運動の神経系」と、意志の力の及ばない「自律神経系(交感神経と副交感神経の両者の機能を持つ)」があり、「からだ」は、この両者によって動いています。 「霊」は「心」を支配していますが、「霊」は、もともと無意識ですから、自律神経系のように意識している心の意志の力の及ばないものです。すなわち無意識の霊が無意識の心に働きかけ、無意識のうちに良いことも悪いこともしているのです。これが主イエスとパウロの語っている言葉の意味です。 三、心が救われるためには、心の奥にある霊が救われなければなりません エペソ人への手紙の四章23節は、新改訳聖書では「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。ここから「霊」というのは、「心の深み」であり、「心の底」であることがわかります。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまいました。しかし、心に罪が住む古い人がキリストとともに十字架につけられるなら(ローマ6章6節)、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志を取り戻し、「心の深みまで新たにされる」ことなのです。
2008.09.07
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「御霊による歩み」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、1~6章 この手紙は、「割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われない」という誤った教えを説くユダヤ主義の教師たちに惑わされたガラテヤの教会の人々を、正しい福音に立ち返らせるために書かれたものです。 ですから、この手紙には、信仰によってのみ救われ、御霊によって始まったキリスト者は、その後の歩みも御霊によって完成される(3章3節)という正しい福音が明白に記されています。キリスト者の歩みは、初めから終わりまで御霊によるものなのです。 一、御霊と肉との関係 この手紙には、鋭く対立している二つの言葉、すなわち「御霊」という言葉が十七回、「肉」という言葉が十六回も記されています。 御霊によって歩むためには、「肉」について正しく理解することが必要です。 1.物質的な意味 これは動物の肉や人間の肉体のことです(4章13、14節)。 2.人間的な意味(1)自然的な生命のこと(ローマ1章3節)。(2)有限な人間性のこと(ローマ6章19節)。(3)人間的な要素のこと(ピリピ3章3節)。 3.倫理的な意味 これは、神に逆らう罪の原理のことです(ローマ8章4~8節)。 人間を三つの部分に分け、三重丸にたとえてみましょう。一番中心の円が三番目の肉とするなら、中間の円である人間性は罪のために汚染され、一番外側の円であるからだは罪を犯す「不義の器」(ローマ6章13、16節)となります。しかし一番中心の円が御霊であるなら、中間の人間性は健全になり、一番外側の円であるからだは正しいことを行う「義の器」(同6章3、16節)となるのです。 二、御霊とキリスト者との関係 この手紙には、「私のうちに」働かれるキリストの姿が実に鮮やかに描かれています。 1.「私のうちに啓示」されるキリスト(1章12、16節)。 キリストが私たちのうちに啓示されるのは、「人間によるものでは」なく(1章11節)、ただ私たちのうちに働かれる聖霊によるのです(第一コリント12章3節)。 2.「私のうちに生きておられる」キリスト(2章20節)。 キリストが私たちのうちに生きておられるのは、信じた時に与えられる御霊が(3章2節)、その後、自我に死んだ私たちのうちに働かれることによってなされるのです。 3.私の「うちに……形造られる」キリスト(4章19節)。 これは、私のうちに生きておられるキリストの品性が私たちの品性となることで、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(五章22、23節)という御霊の実を結ぶことです。 三、御霊とキリスト者との関係 御霊が私たちのうちに生きておられ、私たちのうちにキリストが形造られためには、次のようなことを守らなければなりません。 1.「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「聖霊を悲しませ」たり(エペソ4章30節)してはなりません。 聖霊は、私たちが罪を犯さないように、私たちのうちにあって執り成しをしてくださる方ですから、私たちが聖霊に逆らって罪を犯すと、聖霊は悲しまれるのです。 2.「御霊を侮っ」たり(ヘブル10章29節)、「御霊を試み」たり(使徒5章9節)してはなりません。 私たちは、罪の誘惑を受けやすい所や危険な所にわざわざ出掛け、そのような中でも神は私たちを守られるかどうかを知ろうとすることは、御霊を侮り、御霊を試みることです。 3.「御霊を消してはなりません」(第一テサロニケ5章19節)。 私たちは、継続的に御霊を悲しませたり、試みたりするとともに、私たちを悔い改めさせようと働かれる「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「御霊を侮」ったり(ヘブル10章29節)するなら、御霊を消すことになるのです。 このようなことを守るなら、御霊は私たちのうちに生きておられ、私たちのうちにキリストが形造られるのです。
2008.09.05
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「救いの回顧」 甲斐慎一郎 イザヤ書、51章1~3節 「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」(1節)。 聖書は、イスラエルの民が、神によって奴隷の家であるエジプトから救い出されて、約束の国であるカナンの地にはいったことは、私たちがキリストによって「世にある欲のもたらす滅び」(第二ペテロ1章4節)と罪から救われてキリスト者となり、きよめの生涯と天の御国にはいることのひな型である教えています(ヘブル3章7節~4章11節)。 一、思い起こさなければならない私たちのかつての姿 神は、イスラエルの民に何回も何回も彼らがエジプトで奴隷であったことと、主がそこから彼らを贖い出されたことを思い起こすように勧めています(申命記5章15節、6章12節、15章15節、16章12節、24章18、22節ほか)。 このことは、新約のキリスト者にも同様に当てはまることであり、私たちは、自らがどのようなところから救い出されたのか、またかつては、どのような姿であったか、すなわち私たちの切り出された岩と掘り出された穴とをよく見なければならないのです。 1.その罪深さ パウロは「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。……私はその罪人のかしらです」と述べています(第一テモテ1章13、15節)。彼は、品行方正で、「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と言うことができた人です(ピリピ3章6節)。しかし、このようなパウロも、神の光に照らされて、罪人のかしらであると告白せざるを得なかったとするなら、神の律法すら知らず、品行も正しくなかった私たちの罪は、どれほど深いことでしょうか。 2.その弱さ 主は、大祭司ヨシュアを訴えたサタンに、「これ(大祭司ヨシュア)は、火から取り出した燃えさしではないか」と弁護されました(ゼカリヤ3章2節)。この大祭司ヨシュアの姿は、私たちの姿です。私たちは、キリストの贖いのゆえに永遠の滅びの火から取り出された燃えさしに過ぎず、神が弁護してくださらなければ、すぐサタンにもみ消されてしまうような弱いなのです。 3.その小ささ パウロは「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。……この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました」と述べています(第一コリント1章26、28節)。私たちは、自分が救われたのは、私たちに何か取り柄があったからではく、かえって神は、私たちが取るに足りない者、見下されている者、無に等しいものであるゆえに、私たちを召し、罪から救い出してくださったのです。 二、私たちがかつての姿を思い起こさなければならない理由 1.謙虚になるためです 神は、イスラエルの民に「エシュルン(イスラエルに対する愛称)は肥え太ったとき、足でけった」と仰せられました(申命記32章15節)。私たちは、自らがどのようなところから救い出されたかをわきまえていなければ、信仰と恵みに成長することによって、かえって高慢になり、神を侮ってしまうのです。 2.希望を持つためです パウロは「せん方つくれども希望を失わず」と言いましたが(第二コリント4章8節、文語訳)、私たちは、自らがどのようなところから救い出されたかをわきまえているなら、苦難の中でも救いの希望を持つことができるのです。 3.愛を持つためです 神は、一万タラントの借りのあるしもべの借金を免除されましたが、彼から百デナリの借りのある仲間を赦さなかったしもべに「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と仰せられました(マタイ18章33節)。私たちは、自らがどのようなところから救い出されたかをわきまえている時にのみ、真に隣人を赦し、愛していくことができるのです。
2008.09.01
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