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「神の知恵と人の知恵」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、3章13~18節 「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」(15~17節)。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言九章10節)。ヤコブは、ねたみや敵対心があり、その結果、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いに至らせる「地に属する知恵」と、純真で、平和、温順で、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがない「上からの知恵」について述べています。 一、三種類の知恵 新約聖書の中で「知恵」とか「悟り(新改訳では理解力や思慮深さ)」と訳されている原語は色々ありますが、代表的なものは次の三つです。 1.ソフィア――これは根本的な知恵または賜物としての知恵のことです。 2.スュネスィス――これは洞察的な知恵または批判力としての知恵のことです。 3.フロネースィス――これは実際的な知恵または実行力としての知恵のことです。 知恵については、次のような三つのことを考えるのがよいのではないでしょうか。 ◇その知恵は、一体どこから得たものか、その出所はどこなのか(知恵の源泉)。 ◇その与えられた知恵を、どのように用いようとしているのか(知恵の用途)。 ◇その知恵は、一体どこを目指し、何を得ようとしているのか(知恵の目的)。 二、人の知恵(地に属する知恵) 人の知恵、すなわち地に属する知恵とは、どのようなものでしょうか。 ◇その源泉――これは失敗したり、転んだりした多くの人々の体験の中から身につけた人の教えであり、それは人間の努力の賜物であるということができます。 ◇その用途――これは、どのようにすれば世間で暮らしていくことができるかという世渡りのためです。 ◇その目的――これは競争に勝って人よりも優り、自分が得をすることです。 このように世の中において賢くて知恵があるというのは、世渡りが上手で、人に優り、得をすることであり、愚かで知恵がないとは、世渡りが下手で、人に劣り、損をすることです。この世の知恵は、「地に属する知恵」で、それは競争心をあおり、「ねたみと敵対心」を生じさせ、その結果、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い」に満ちた社会になることを避けることはできないのです。 三、神の知恵(上からの知恵) これに対して神の知恵、すなわち上からの知恵とは、どのようなものでしょうか。 ◇その源泉――これは、律法を定め、すべてのものを支配し、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために、あらかじめ備えてくださった神の教えであり、それは神からの賜物であるということができます。 ◇その用途――これは、どのようにすれば神の前に正しい姿になることができるかという罪からの救いのためです。 ◇その目的――これは、悔い改めの実をはじめ、御霊の実や奉仕の実など、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つことです。 このように神の前に、賢くて知恵があるというのは、キリストに対する信仰によって罪から救われて、良い実を結ぶことであり、愚かで知恵がないというのは、神を離れて罪を犯すことです。 しかし旧約聖書(箴言8章22~31節、30章4節)も、新約聖書(第一コリント1章30節、コロサイ2章3節、参照、黙示録5章12節、7章12節)も、「神の知恵」は、イエス・キリストであると教えているのです。
2008.11.30
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「神の与える幸いと人の求める幸い」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章1~10節 人がどんなに幸福を求めている者であるかということは「幸福」という「青い鳥」を探し求めるチルチルとミチルを描いたメーテルリンクの児童劇をはじめ、カール・ブッセの有名な詩である「山の彼方の空遠く」、そして数多くの「幸福論」と名のつく書物が出版されているのを見てもわかるでしょう。 数多い「幸福論」の中で、次のようなカール・ヒルティーの言葉は、幸福を求めてやまない人の心を最もよく表しています。 「人間が意識に目覚める最初の瞬間から、意識の消滅に至るまで、最も熱心に求めるものは、やはり何と言っても幸福感である。そして彼が体験する最も苦痛に満ちた瞬間は、この地上では幸福は見いだすことができないのだと完全に確信した時である」。 一、三種類の幸い しかし幸福と言っても、様々な幸福があります。人間を構成している三つの要素である「からだ」と「たましい(心)」と「霊」に関して述べるなら、代表的なものは、次のような三種類の幸福ではないでしょうか。 1.物質的(環境的または肉体的)な幸福 これは、衣食住において何一つ不自由がなく、平和で安全な環境に恵まれ、健康で長生きすることです。 2.精神的な幸福 これは、「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされること」がなければ(伝道者6章3節)、ほんとうの幸せではないというものです。 3.霊的な幸福 先の二つが、人間が考えたり、感じたりする、人の求める幸いであるのに対して、これは、神が私たちに与えようとしておられる神の前における幸いです。 二、人の求める幸い 生まれながらの人間の本性というものは、次のような時に幸福であると感じるのではないでしょうか。1.自分の思い通りに何でも物事が運ぶ時2.自分の欲しいものが何でも手に入る時3.自分がどんなに偉大な者であるかを知る時 これがほんとうであるかどうかは、逆の場合を考えれば、すぐに分かるでしょう。すなわち私たちは、物事が何もかもうまくいかない時、自分の欲しいものが何一つ手に入らない時、そして自分がどんなにだめな人間であるかを知る時、最も惨めで不幸に感じるのではないでしょうか。 人の求める幸いは、他の人の目には幸福に見えても、本人が不幸と感じれば、不幸であり、反対に他の人の目には不幸に見えても、本人が幸福であると感じれば、幸福であるというような極めて主観的また感情的なものです。しかし、このようなものは、決して真の幸福ではありません。 三、神の与える幸い それでは神の前におけるほんとうの幸福とは、どのようなものでしょうか。「至福の教え」と呼ばれているこの箇所と聖書全体から、次のような三つにまとめるのが最も分かりやすいのではないでしょうか。1.神の前に聖くなる――実質的な性質2.神の前に成長する――実質的な姿3.天の御国にはいる――究極的な姿 私たちは、物事が何もかもうまくいかず、自分の欲しいものは何一つ手に入らず、自分がどんなにだめな人間であるかを知る時こそ、神の前に砕かれて、罪を悔い改め、神に近づいて聖くなるとともに、不屈の精神が養われて、訓練され、神の前に成長していくことができます。 英語の諺に「ノークロス、ノークラウン(十字架なくして栄光なし、苦難なくして栄冠なし」という言葉があります。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」と言われましたが(ルカ24章26節)、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければなら」ず(使徒14章22節)、これこそ実質的また究極的な真の幸福なのです。
2008.11.27
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「神の力と人の力」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章16~32節 人というものは、自然や社会の中にあって様々な力に囲まれ、多くの力に支配され、無数の力の影響を受けているとともに、色々な力を利用しています。これらの力を大別するなら、次のような三つになるでしょう。 1.物理的、機械的、自然的な力――おもに自然の法則にみることができる力です。 2.政治的、経済的、社会的な力――おもに人間の集団にみることができる力です。 3.精神的、道徳的、宗教的な力――おもに個々の人間にみることができる力です。 第三番目の力は、人間にとって最も大切な基本的なものです。このような人間の心や霊における力に関して、「神の力と人の力」は、それぞれどのようなものであるかということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類の力 新約聖書の中で「力」と訳されている原語は色々ありますが、代表的なものは、次のような三つ(四つ)です。1.デュナミス――潜在的な力、または潜在力としての力です。2.エネルゲイア――活動的な力、または活動力としての力です。3.エクスースィア(クラトス)――支配的な力、または支配力としての力です。 私たちが自然界において目にしているのは、活動力です。しかしそれは自然の中に潜在力があるからであり、この二つの力を支配しているのが自然の法則です。ですからこの潜在力と活動力と支配力は、互いに切り離すことができない一つの力であり、力の三位一体であるということができます。この三つの力は、自然的な力だけでなく、政治的、経済的、社会的な力、また精神的、道徳的、宗教的な力においても同様に存在しています。 二、人の力 人間の最大の問題である罪は、私たちを堕落させる一種の力であり、聖書が教えている三種類の罪を、三つの力に当てはめるなら、次のようになります。 1.内住の罪の力――これは潜在力としての罪の力です(ローマ7章20節)。 2.行動の罪の力――これは活動力としての罪の力です(ローマ3章23節)。 3.不信仰の罪の力――これは支配力としての罪の力です(ヨハネ16章9節)。 潜在力としての罪を持っているということが人間が生まれながらの罪人であるという意味であり、行動の罪は、それが活動力として表れたものです。それは、神を信じない罪人が、その不信仰のために「この世の神」(第二コリント4章4節)である「サタンの支配」(使徒26章18節)の下に置かれるだけでなく、人の力では、その支配力に抵抗することができずに罪を犯してしまうのです。 三、神の力 これに対して神の力は、どのようなものでしょうか。聖書は、三種類の力を教え、その三種類の力を、三つの力に当てはめるなら、次のようになります。 1.福音の力――これは潜在力としての神の力です(ローマ1章16節)。 2.結実の力――これは行動力としての神の力です(ローマ6章22節)。 3.信仰の力――これは支配力としての神の力です(マルコ9章23節)。 「福音は……信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1章16節)、私たちは、この福音によって「罪から解放されて……聖潔に至る実を得」ることができます(同6章22節)。それは、私たちが「サタンの支配から神に立ち返」り、キリストを救い主として「信じる」時、神の支配の下に置かれ、私たちは「罪の赦しを得」て、「聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継」ぐことができるのです(使徒26章18節)。
2008.11.24
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「神の犠牲と人の犠牲」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、3章13~24節 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(16節)。 この御言葉の前半にはキリストがいのちを捨てられたこと、すなわち神の犠牲について、後半には私たちがいのちを捨てること、すなわち人の犠牲について記されています。 しかし私たちが「犠牲」という言葉を口にする時は「犠牲を払う」とか「犠牲にする」また「犠牲的精神」というような用い方がほとんどです。 それでこのような「人の犠牲」と聖書が教えているキリストによって現された「神の犠牲」とは、どのような違いがあるのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、真の犠牲について 次に述べるようないくつかのことは、真の犠牲と言えるでしょうか。 1.それ相当の報酬が与えられることを約束され、それを条件に一生懸命に働くこと。 2.さらに多くの良いものを得るために、現在持っているものを有効に用いること。 3.将来に報いと見返りを期待し、そのために自分を忘れて人のために尽くすこと。 それ相当の報酬が与えられ、報いられるものは決して犠牲ではありません。また必ずしも利益や報いがあるとは限らないものでも、利益を得ようとしたり、報いを期待したりするものはすべて犠牲ではありません。 このようなことから真の犠牲は、次のように言うことができるのではないでしょうか。1.報いを期待せずに無償で与えることです。2.いけにえ(犠牲)になることです。3.それはまた身代わりに死ぬことです。 私たちの犠牲は、どうでしょうか。 二、神の犠牲について 神の犠牲は、どのようなものでしょうか。これに関して聖書は、次のような驚くべきことを私たちに教えています。 1.無償で与えることに関しては、「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」(ローマ8章32節)と教えています。 2.いけにえになることに関しては、「キリストは……ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル9章26節)と教えています。 3.身代わりに死ぬことに関しては、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」(ローマ4章25節)、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(第一ペテロ2章24節)と教えています。 三、人の犠牲について これに対して人の犠牲は、どのようなものでしょうか。 「裸で母の胎から出て来……裸で……かしこに帰」る(ヨブ記1章21節)人間に無償で与えるものなどあるでしょうか。それぞれの罪のために死ななければならない人間に、自らがいけにえとなって他の人の身代わりに死ぬことなどできるでしょうか。このように人は、ほんとうの意味において犠牲などあり得ないのです。 それでは私たちが犠牲と呼んでいる様々な苦難や損害また義務や苦役は何でしょうか。 1.自らの蒔いた悪を刈り取っているなら、それは罪に対する刑罰です。 2.もし自らの利益のためにしているなら、それは打算であり、投資です。 3.ただ神のためにしているなら、それは天に宝をたくわえることであり、また神の計り知れない恵みに対する恩返しです。 私たちが犠牲と呼んでいるものは、この三つの中で、どれでしょうか。
2008.11.21
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「キリストにとどまりなさい」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、15章1~10節 世の人々が罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じて、信仰の道を歩もうとする時、様々なことを心配しますが、その代表的なものは、次のような三つのことではないでしょうか。 1.果たして私は、自分の力で信仰の道を歩んでいくことができるであろうか。 2.信仰の道にはいると束縛されて、自由がなくなるのではないだろうか。 3.信じたならば、いったい何をし、またどのようになればよいのであろうか。 このようなことに対して、聖書は、どのように教えているでしょうか。 このような心配と不安に十分な答えと解決を与えてくれるのが、イエス・キリストが語られた「ぶどうの木と枝」のたとえ話です。 一、キリスト者の生涯は、「自信」ではなく、「確信」の生涯です 世の中において偉大であると言われる人は、ほとんどが自信に満ちた人です。「自信」とは、自分の能力や賜物を信じて、それに拠り頼むことです。ですから自信が高じれば自負心や高慢になり、反対に自信を失えば、失望したり、落胆したり、果ては自暴自棄に陥らないでしょうか。どちらにしても自信は、くせ者です。 人間の体力や能力というものは、遅かれ早かれ、衰えていくものです。ですから私たちは、自分の何かに拠り頼んでいるなら、年を取るにつれて失望していくことは避けられないでしょう。 それだけでなく、聖書は「私たちの義はみな、不潔な着物のようで」あり(イザヤ64章6節)、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれ」る(エレミヤ17章5節)、「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ2章22節)と教えています。 私たちは、神を「離れては……何もすることができない」(5節)者であることを決して忘れてはならないのです。 キリスト者は、私たちを愛するあまり、ひとり子をお与えになったほどの神の「愛の中にとどまり」(9節)、「すべてのことを働かせて益としてくださる」神を確信する生涯なのです(ローマ8章28節)。 二、キリスト者の生涯は、「古い人」ではなく、「新しい人」の生涯です 私たちは、キリストから離れては何もすることができません。それは具体的には「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(ローマ7章19節)しまう罪の奴隷の生涯です。これほど不自由なことがあるでしょうか。 キリスト者の生涯は、「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」るという罪の奴隷となっていた古い人が葬られ、キリストと「結ばれて、神のために実を結ぶ」(同7章4節)新しい人が誕生して、歩む生涯です(同6章4節)。私たちは、イエス・キリストにとどまる時、「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た」のです(コロサイ3章9、10節)。 三、キリスト者の生涯は、「肉の行い」ではなく、「実を結ぶ」生涯です 私たちは、キリストから離れるなら、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類」(ガラテヤ5章19~21節)の肉の行いしかできない者であることを知っているでしょうか。 しかし私たちがキリストにとどまり(4、5、6節)、またキリストの言葉と愛にとどまるなら(7、9、10節)、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5章22、23節)という御霊の実をはじめ、様々な良い実が「人手によらず」結ぶようになるのです(マルコ4章28節)。これこそキリスト者の生涯です。
2008.11.19
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「いのちのパン(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、6章60~71節 「いのちのパン」の説教は、32節から40節は、カペナウムの戸外において群衆に対して語られています。また41節から59節は、カペナウムの会堂においてユダヤ人に対して語られています。そして60節から71節の説教の結果は、12弟子をも含めた多くの弟子たちの反応を記しています(M・C・テニイ)。 これはおそらく、イエスが「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された」からなのでしょう(マルコ4章33節)。 一、イエスの説教は、弟子たちをイエスから離れ去る者と、イエスにつき従う者とに分けます イエスは、いのちのパンの説教を語り終えられました。弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と言いました(60節)。その結果、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩」きませんでした(66節)。 これを見て、イエスは、十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました(67節)。するとペテロが「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」と答えました(68節)。 このように弟子たちは、同じイエスの説教を聞きながら、ある弟子たちはイエスから離れ去る者になり、ほかの弟子たちはイエスにつき従う者になりました。 二、イエスを信じない者は、神に引き寄せられない者で、イエスから離れ去る者になります なぜ弟子たちのうちの多くの者は、イエスから離れ去って行ったのでしょうか。聖書は神の側と人の側との二つの理由を教えています。神の側は、「父が引き寄せられない」からであり(44、65節)、人の側は、彼らがイエスの言葉を「霊」ではなく「肉」として受け止めたからです(63節)。 「いのちのパン」の第一回目のところで述べたように、群衆は、世的(物質的)な救いと、行いによる救いと、目に見えるしるしというまちがった三つのものを求めました。それでイエスは、そのようなものを求めないように彼らに教えられました。 ところが彼らは、このように教えられても相変わらず、それらのまちがった三つのものを求める心を持ちながらイエスの説教を聞いていました。これがイエスの言葉を「肉」として受け止めるということです。それで、イエスの言われたことを信じることができませんでした(45節)。 このように(人の側から見て)イエスを信じない者は、(神の側から見るならば)父が引き寄せられない人であり、そのような人はイエスから離れ去る者になります。 三、イエスを信じる者は、神に引き寄せられた者で、イエスにつき従う者になります 聖書は、イエスにつき従う者に対しても、神の側と人の側との二つの理由を教えています。神の側は、「父が引き寄せられ」たからであり(44、65節)、人の側は、彼らがイエスの言葉を「肉」ではなく「霊」として受け止めたからです(63節)。 彼らは、イエスに教えられたように、まちがった三つのものを求める心を捨ててイエスの説教を聞きました。これが、イエスの言葉を「霊」として受け止めるということです。それで、イエスの言われたことを信じることができました(45節)。 このように(人の側から見て)イエスを信じる者は、(神の側から見るならば)父が引き寄せられた人であり、そのような人は、イエスにつき従う者になります。拙著「キリストの生涯の学び」80「いのちのパン(3)」より転載
2008.11.15
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「いのちのパン(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、6章32~59節 イエスは、「いのちのパン」の説教をされました。このイエスの説教を学ぶ前に、「パン」について考えてみましょう。 人は、「霊と心とからだ」という三つの要素から成り立っていますが、それぞれに「食物」すなわち「パン」を必要としています。 1.「からだ」のためには、肉体の食物、すなわち物質のパンが必要です。 2.「心」のためには、心の食物、すなわち精神的なパン(心の糧)が必要です。 これには、広くて豊かな知識や教養を身につけること(知性的なもの)と、喜びを求めて情緒や情操を豊かにすること(感情的なもの)と、意欲的に行動し、様々な欲望を満たすこと(意志的なもの)の三つがあります。 3.「霊」のためには、霊の食物、すなわち霊的なパン(いのちのパン)が必要です。 人が罪を犯すのは、心が悪いからですが、それは心の奥にある霊が死んでいるからだと聖書は教えています(エペソ2章1節)。ですから人が罪から救われるためには、心の糧を食べているだけでは不十分であり、霊的な食物である「いのちのパン」を食べて、死んでいた霊が生き返らなければなりません。 一、イエスは、天から下って来られたいのちのパンです――受肉のイエス 群衆は、イエスを信じるために、モーセが彼らの先祖に天からのパンであるマナを降らせたように、イエスに天からのしるしを求めました(30、31節)。これに対してイエスは、「わたしは、天から下って来た生けるパンです」と言われました(51節)。 「天から下って来た」とは(33、38、41、42、50、51、58節)、「父のみもとから来られたひとり子」の神が、「人となって、私たちの間に住まわれた」ということを教えています(1章14節)。しかしユダヤ人たちは「あれはヨセフの子……ではないか」とつぶやき(42節)、父のみもとから来られたイエスを信じませんでした。 二、イエスは、私たちが食べるためのいのちのパンです――十字架のイエス イエスは、いのちのパンである「わたしを食べる」ということについて8回も語られました(50、51、52、53、54、56、57、58節)。イエスを食べるとは、イエスを信じるということです(47、54節)。 ところがユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合いました(52節)。 「食べること、飲むことの比喩は、一つの身体が他の身体によって同化されること、食べられるものから食べる者へ、生命が移される方法を表現し得る最上の象徴です」(M・C・テニイ)。これは、私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流された十字架のイエスを教えています(マタイ26章26~28節)。 三、いのちのパンを食べる者は、永遠の生命を持つのです――救われたキリスト者 イエスは、「わたしは……生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」と言われました(51節)。いのちのパンを食べて永遠の生命を持つとは、次のようなすばらしい四つのことを意味しています。 1.信じた時に与えられる生命(53節)――聖霊によって新生する霊的な復活です。 2.死ぬまでの間、イエスによって生きる生命(57節)――いのちに満ち溢れた歩みです。 3.終わりの日に、よみがえる生命(39、40、44、54節)――死後の肉体の復活です。 4.復活の後、永遠に生きる生命(51、58節)――神とともに永遠に生きるのです。 これが救われたキリスト者の姿です。拙著「キリストの生涯の学び」79「いのちのパン(2)」より転載
2008.11.12
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「いのちのパン(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、6章21~31節 弟子たちは、湖の上を歩いておられるのがイエスだとわかると、「イエスを喜んで舟に迎え」ました。そして「舟はほどなく目的の地に着」きました(21節)。 この地において、イエスは、「いのちのパン」の説教をされました。これは、先に行われた「五千人の給食」の奇蹟の霊的な意味を人々に教えるために語られたものです。 私たちは、このような説教を通してイエスの奇蹟は、単に人々の当面の必要にこたえるためではなく、人間の根本的な必要である罪からの救いを与えるために行われたことがわかります。この「いのちのパン」についての出来事には、三つのことが記されています。◇いのちのパン(1)――説教のきっかけ◇いのちのパン(2)――説教の内容◇いのちのパン(3)――説教の結果 一、世的(物質的)な救いを求めた群衆 「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は」「小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来」ました(22、24節)。「そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに」、「先生。いつここにおいでになりましたか」と言いました(25節)。 ところがイエスは、ご自分を熱心に捜した人々に、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われました(26節)。 群衆は、イエスを熱心に捜しました。しかし彼らは、しるし(証拠としての奇蹟)を見て、イエスとその霊的な救いを求めたのではなく、パンを食べて満腹し、イエスを王とする世的(物質的)な救いを求めたにすぎませんでした。それでイエスは、そのことを鋭く指摘されたのです。 そしてイエスは言葉を続けて、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われました(27節)。「永遠のいのちに至る食物」とは、神とその救いのことです。 二、行いによる救いを求めた群衆 イエスの言葉を聞いた人々は、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」と質問しました(28節)。これはイエスが「……働きなさい」と言われたので(27節)、神の救いは何かを行うことによって得られると思ったのでしょう。 イエスは、彼らに、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と答えて(29節)、神の救いは、信仰によって与えられるものであることをはっきりと語られたのです。 三、目に見えるしるしを求めた群衆 ところがこれを聞いた人々は、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか」と言って(30節)、イエスを信じるために、「天からのしるし」を求めました(31節)。 「しるし」は、「五千人の給食」の奇蹟で十分に与えられています。ですから、それ以上の目に見えるしるしを求めるのは、イエスを「見ながら信じようとしない」不信仰な心になっているのです(36節)。 このように群衆がまちがった三つのものを求めたことが、イエスがいのちのパンの説教をされたきっかけになっています。しかし、この三つのことを裏から述べるなら、◇世的(物質的)な救いを求めないように、◇行いによる救いを求めないように、◇目に見えるしるしを求めないように、 ということになり、これは、いのちのパンの説教を聞く心構えを教えています。拙著「キリストの生涯の学び」78「いのちのパン(1)」より転載
2008.11.09
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「サマリヤの女性(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、4章1~42節 主は、ひとりのサマリヤの女性を救いに導くだけでなく、弟子たちに伝道の心構えを教えるためにサマリヤの町に来られました。しかし主が、サマリヤの町に来られたのは、さらに別な目的がありました。 一、ユダヤ人とサマリヤ人の反目 ホセアの第九年(紀元前七二一年)に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移しました(第二列王記17章6節)。しかし多くのイスラエル人は残留しました。アッシリヤの王は、バビロンとそのほかの人々を連れて来て、サマリヤの町々に住ませました(同17章24節)。 この残留したイスラエル人と新しく移って来た異邦人との混血民族がサマリヤ人です。新しく移って来た異邦人は、サマリヤに偶像の神を持ち込みました。その後、サマリヤ人は、エルサレムに対抗してゲリジム山に神殿を建てました(20節)。 このようにサマリヤ人は、混血民族であり、偶像を礼拝し、またゲリジム山に神殿を建てました。このためにユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、サマリヤ人はユダヤ人を敵視していました。それで「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをし」ませんでした(9節)。 それでユダヤ人がユダヤからガリラヤへ行く時は、中間のサマリヤを避けて、別の道を通ったのです。 二、サマリヤ人を救う神のご計画 イエスは、これらのことをすべて知っておられたにもかかわらず、わざわざ「サマリヤを通って行か」れました(4節)。それは、一回目のところで述べたように、一人のサマリヤの女性を救いに導くためであり、また二回目のところで述べたように、弟子たちに伝道の心構えを教えるためでした。しかしイエスがサマリヤを通って行かれたのは、もっと大きな目的がありました。それは多くのサマリヤ人を救いに導くためでした。 イエスは、サマリヤ人を救いに導くために初めは直接、多くのサマリヤ人に御言葉を語らず、同じサマリヤ人から白い目で見られ、後ろ指をさされるような、孤立して、孤独なひとりのサマリヤの女性を用いられました。 これは、ユダヤ人に反感を抱いているサマリヤ人を救いに導く最も賢い方法でした。サマリヤ人のうち多くの者は、この女性を通してイエスを信じたのです。 人々を救おうとされる神のご計画は、地の果ての異邦人にまで及んでいましたが(使徒1章8節)、ユダヤ人にとって異邦人との間の隔たりは、あまりにも大きすぎました。それで神は、ユダヤ人と異邦人の中間に位置を占めているサマリヤ人への伝道を通して、異邦人伝道の布石を置かれたのです(同8章5節、11章19、20節)。 三、救いを受けたサマリヤ人 サマリヤの女性は、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」と言って、謙虚にキリストのことを人々にあかししました(29節)。 その町のサマリヤ人のうち多くの者が「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女性の言葉によってイエスを信じました(39節)。 「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じ」ました(41節)。「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」ユダヤ人と比べて、何という大きな違いでしょうか(48節)。 サマリヤ人は、初めは女性のあかしによって信じ、次にイエスの言葉を直接聞いて、その信仰が確立したのです(42節)。拙著「キリストの生涯の学び」29「サマリヤの女性(3)」より転載
2008.11.07
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「サマリヤの女性(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、4章1~42節 主は、ひとりのサマリヤの女性を救いに導くためにガリラヤへ行かれる途中、サマリヤの町に来られました(5節)。しかし主がサマリヤの町に来られたのは、別な目的がありました。 一、不思議に思った弟子たち(27節) イエスがサマリヤの女性と話をされたのは、弟子たちが「食物を買いに、町へ出かけていた」間のことでした(8節)。その間、イエスはサマリヤの女性を救いに導くだけでなく、これから先、「人間をとる漁師」(マタイ四章19節)になる弟子たちに伝道の心構えを話すことをも考えておられました。 食物を買いに町へ出かけていた弟子たちが帰って来た時、彼らは「イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思」いました(27節)。弟子たちは、サマリヤの女性のように、非常に驚いて、イエスに注目しました。イエスは、このような弟子たちに、大切なことを教えようとされたのです。 二、弟子たちの知らない食物(31~34節) 食物を買って来た弟子たちは、イエスに、「先生。召し上がってください」とお願いしました(31節)。しかし、イエスは、彼らに、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と言われました(32節)。 B・F・バックストンは、「弟子たちは、サマリヤの町へ行って、わずかな食物を携えて来ましたが、この女性は町へ行って、多くのサマリヤ人をキリストのもとに連れて来たのです」と味わい深い言葉を述べています。 イエスは、弟子たちが携えて来た食物をたくみに用いて、人々を救いに導くことによって神の「みこころを行ない、そのみわざを成し遂げる」という霊的な食物のことを教えられました(34節)。そして、このイエスの食物は、また弟子たちの食物でもあるのです。 三、蒔く者と刈る者との喜び(35~38節) イエスは、サマリヤの女性の証言によって、多くのサマリヤ人たちがご自分のもとに来るのをご覧になって(30節)、刈り入れるばかりになっている(すなわち救いが近い)と言われました(35節)。 このように刈る者(人を救いに導く者)は、報いを受けて、救われた人々を集めていますが、それは蒔く者(人に神の言葉を語る者)とともに喜ぶためです(36節)。 こういうわけで、ひとりが種を蒔き(神の言葉を語り)、ほかの者が刈り取る(救いに導く)という諺が本当であることがわかります(37節)。 弟子たち以前の人たちが種を蒔いて(神の言葉を語って)労苦したものを弟子たちが刈り取る(救いに導く)ために、イエスは弟子たちを遣わされたのです(38節)。 このようにイエスは、弟子たちに伝道の心構えを教えられました。以上述べたことが35~38節の意味ですが、この個所から伝道(種蒔きと刈り入れ)について、次のような四つのことを学ぶことができます。 1.先に多くの人たちが、種を蒔いて(神の言葉を語って)くれたので、今は刈り入れる(救いに導く)ばかりになっていることがあります。 2.実を刈り入れる(人々を救いに導く)ことは、刈る者だけの喜びではなく、種を蒔いた人の喜びでもあります。 3.先の人が種を蒔き、後の人が刈り取るのですが、両者は同じ人の場合もありますが、違う人の場合もあります。 4.先の人が蒔いた種を後の人が刈り取る時(すなわち両者が違う人の場合)は、自分ひとりだけの働きではないことを謙虚に認めなければなりません。拙著「キリストの生涯の学び」28「サマリヤの女性(2)」より転載
2008.11.04
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「サマリヤの女性(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、4章1~42節 「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれ」る途中、「スカルというサマリヤの町に来られ」ました(3、5節)。 そこへ、ひとりのサマリヤの女性が水をくみに来ました。この女の人は、人目を避けて井戸に来たのです。それは、彼女が過去において夫を五人も変え、現在は男の人と同棲している不道徳な女性であり、人から白い目で見られ、後ろ指をさされるからです。 彼女は、この世をすべてとして永遠のことなど考えず、毎日の生活の苦労を身近な楽しみで、憂さ晴らししている刹那的、現世的な人生を送っていた人で、神への渇きもなく、信仰には無関心でした。 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられ」ましたが(6節)、このサマリヤの女性に話しかけられたのです。 一、求める心を起こさせるイエス イエスがユダヤ人とつきあいをしなかったサマリヤ人に、しかも女の人に「水を飲ませてください」と言われた時(7節)、女の人は非常に驚いて、イエスに注目しました。 またイエスが、「水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」と言われた時(10節)、彼女は、この見知らぬ旅人は偉い人ではないかと思い始めました。 そしてイエスが、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われた時、彼女は「その水を私に下さい」と言って求めたのです(14、15節)。 救いの第一段階は求めです。救いを受けるためには求めなければなりません。イエスは彼女の心を開いて、求める心を起こさせましたが、それは彼女の口を開けて、罪の悔い改めという苦い薬を飲ませるためでした。 二、悔い改めを命じられるイエス イエスが彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われた時、彼女は自分の乱れた生活が知れることを恐れ、「私には夫はありません」と言って、真実を隠しました(16、17節)。 イエスは、彼女に「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と真実を告げられました(18節)。すると彼女は、イエスを預言者だと言い、礼拝すべき場所は、この山とエルサレムのどちらが本当かと話題を変えて、イエスの追求をかわそうとしました(19、20節)。 ところがイエスは、その話題をとらえて、礼拝にとって最も大切なのは場所ではなく、神との正しい関係であると言われた時(21~24節)、彼女は砕かれたのです。 救いの第二段階は悔い改めです。救われるためには、だれにも知られたくない罪を告白して悔い改めなければなりません。 三、信じることを求められるイエス イエスは、サマリヤの女性に「わたしの言うことを信じなさい」と言って、彼女に信仰を求められました(21節)。 また彼女が「その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と言った時、イエスは、「あなたと話しているこのわたしがそれです」と言って彼女にご自身を示されました(25、26節)。 その女の人は「自分の水がめを置いて町へ行き」、人々に「来て、見てください」と言ってキリストをあかししました(28、29節)。以前の人目をはばかって水をくみに来ていた時と比べて何という大きな違いでしょうか。 救いの第三段階は信仰です。罪から救われるためには、キリストを信じなければなりません。私たちは、キリストを信じる時、永遠のいのちが与えられて、新しく生まれ変わった歩みをすることができるのです。拙著「キリストの生涯の学び」27「サマリヤの女性(1)」より転載
2008.11.01
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