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「神の苦難と人の苦難」 甲斐慎一郎 ペテロの手紙、第一、2章18~25節 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら。それは神に喜ばれることです」(20節)。 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(21節)。 この前半の20節には「人の苦難」について、後半の21節には「神の苦難」について記されています。そこで神の苦難と人の苦難の違いについて学んでみましょう。 一、五種類の苦難 聖書は、苦難について次のような五つの説を述べています。 1.刑罰説――「だれが罪がないのに滅びた者があるか。……不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(ヨブ4章7、8節)。 苦難についての最も初歩の説明は、罪に対する刑罰として来る苦難です。 2.教育説(訓練説)――「悩みのなわに捕らえられると、その時、神は、彼らのしたことを彼らに告げ、……神は彼らの耳を開いて戒め」(ヨブ36章9、10節)。 これは、前者より少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難てす。 3.試験説――「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」(創世記22章1、12節)。 これは、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。 4.代償説――「しかし、彼は、私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 これは、さらに高尚で、自らに全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を身代わりに負い、代償として来る苦難です。 5.栄光説――「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 これは、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。 二、人の苦難 この五つの苦難は、私たちが信仰に成長していくための五つの段階であるということができます。まず罪に対する刑罰として苦難を受け、次に未熟なところを教育されるために苦難を受け、第三に私たちの実質や実力を試されるために苦難を受け、第四に自らには罪がなくても、ほかの人の罪を身代わりに負う苦難を受け、最終的には、神の栄光が現れるために苦難を受けるのです。 ヨブの苦難は、個人的には彼の醜い自我と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人人に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」です。ヨブ記の主題は、「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でした(1章1節)。しかし彼は、この苦難を乗り越えることによって、きよめられ、完成したのです(42章1~6節)。 三、神の苦難 これに対して神が受ける苦難は、代償としての苦しみです。この神の苦難には、次のような三段階があります。 ◇第一段階は「主は……心を痛められた」とあるように(創世記6章6節)、人の罪を痛む苦しみです。 ◇第二段階は「わたしのはらわたは、彼のためにわななき」とあるように(エレミヤ31章20節)、罪を罰せずにはおかない神の正義の怒りと、罪人を愛してやまない神の愛の炎とが激しく戦う苦しみです。 ◇第三段階は「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とあるように(24節)、人の罪を負う苦しみです。 神は、私たちの罪をその身に負うことによって、「私たちが罪を離れ、義のために生きる」者にしてくださるのです(24節)。
2008.05.31
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「十字架の救い」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章17~21節 パウロの書いた「ピリピ人への手紙は」は「喜びと勝利の書簡」と呼ばれ、パウロは、この手紙の中で何度も何度も彼自身が喜んでいることを述べているだけでなく、ほかの人にも喜ぶように勧めています。 しかしこの箇所には、それとは対照的に十字架の敵として歩んでいる多くの人々のために涙を流して語っているパウロの姿が描かれています。 一、模範的なパウロの姿(17、18節) この箇所には、パウロの模範的な姿が記されています。 ◇「私を見ならう者になってください。……私たちを手本(模範)として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17節)。 他の箇所においても(使徒26章29節、第一コリント11章1節)、彼は、同じようなことを述べていますが、これはどのように考えたならば、よいのでしょうか。 パウロは、うぬぼれが強く、傲慢不遜な人なのでしょうか。決してそうではありません。彼は、キリストの福音を「私の福音」(ローマ2章16節)ということができたほど福音が受肉化し、全く新しく生まれ変わっていたので、御名をあがめながら「私のようになってください」と語ったのです。 ◇「私は、しばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのです」(18節)。 このように福音によって全く変えられたパウロは、十字架の敵として歩んでいる多くの人々の姿を見る時、彼らを卑下したり、冷たくさばいたりするどころではなく、彼らの最後を思うにつけ、涙を流さずに語ることができないほど愛に満たされていたのです。 二、的はずれな罪人の姿(19節) この箇所には、罪人の姿が記されています。 ◇「彼らの神は彼らの欲望であり」。 欲望を神とするとは、物欲と肉欲を満たすことをすべてとすることであり、その結果は、善悪の区別を無視して、欲望を満たそうとするため、必ず堕落していくのです。 ◇「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」。 これは、善悪や正邪の区別を無視して堕落した結果、美醜や栄辱を識別する感覚まで失い、醜いことや恥ずべきことを行っても、何とも思わないばかりか、得意になることです。 ◇「彼らの思いは地上のことだけです」。 ギリシャ語で人間のことを「アンスローポス(上を仰ぐ者)」と言うように、人は上を仰いで向上し、さらに神を仰いで聖くならなければならない者です。しかし地上のことだけしか思わなければ、堕落するのです。 三、栄光あるキリスト者の姿(20、21節) これに対してキリスト者の姿は、どのようなものでしょうか。 ◇「けれども、私たちの国籍は天にあります」(20節)。 これは、神の子どもとされたキリスト者が「神の相続人……キリストとの共同相続人」(ローマ8章17節)として天にある「いのちの書」に名が記されていることです(ルカ10章20節、黙示録20章12、15節)。 ◇「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(20節)。 これは、キリストの再臨を待ち望むことで、「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清く」するのです(第一ヨハネ3章3節)。 ◇「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(21節)。 私たちの信仰生活は、地上を歩み、様々な苦難に囲まれていても、キリストの再臨と栄化を待ち望み、天の御国に向かって、喜びと輝きに満ちているでしょうか。
2008.05.29
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「成長する愛」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~21節 ヨハネの手紙の著者ヨハネは、「イエスが愛された弟子」であり(ヨハネ21章20節)、「愛の使徒」と呼ばれ、折りあるごとに、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」と語ったと言われています(7節)。 そこで、「愛の成長段階」または「成長する愛」について学んでみましょう。 一、愛されること――受動的な愛 私たちがこの世に生を受けてから最初に体験する愛は、母の愛です。この愛は、一方的に受ける愛、また愛される愛ですが、人が育ち、また成長していくためには、まずこの愛されるという「受動的な愛」が必要です。 「愛されること」は、肉体の生育のみならず、人格の形成および心の成長にとっても大切な基礎です。なぜなら人は、愛されることによってのみ、肉体的にも精神的にも健全に成長していくことができるからです。このことは、幼少の時だけでなく、人の一生においても全く同じであるということができます。 けれども、私たちを取り囲んでいる周囲の人たちの愛は、決して正しくて聖い愛ではなく、過保護や溺愛をはじめ、利己的な愛や押し付けの愛、またその反対の放任や冷酷、果ては汚れた愛など、間違った愛に満ちているのではないでしょうか。 しかし、ここに正しくて聖い真の愛があります。それは、私たちを愛するあまり、そのひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして死に渡された神の愛です。もし私たちがこの神の愛を知らなければ、この罪に汚れた世にあって、どうして正しく聖く生きていくことができるでしょうか。 二、愛すること――能動的な愛 次に私たちが経験する愛は、私たちのほうから相手を愛する「能動的な愛」です。これには、両親への愛、友人への愛、異性への愛などがあります。 この「愛すること」は、本能として、また「愛されること」に対する応答として、人間が成長していくために不可欠なものです。もし私たちが「愛されること」ばかりを考えて、「愛すること」を知らなければ、人間として最も大切なものを失っていることになります。 けれども人間が抱く愛は、何と利己的で、不純なものでしょうか。相手のことよりも、結局は、自分のことしか考えない間違った愛を持つことが多いものです。 しかし、ここに真の愛があります。それは、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)という神の愛に応答した愛です。この神の愛に応答して、神から与えられる愛こそ、私たちから利己心と不純な心を取り除き、純粋で、汚れのない、聖い心をもって人を愛するようにさせるものです。 三、互いに愛し合うこと――相互的な愛 最後に私たちが求めなければならない愛があります。それは、互いに愛し合う「相互的な愛」です。愛とは、本来、互いに愛し合うものであり、いわゆる「片思い」では成り立たないだけでなく、決して満足することはできないでしょう。「互いに愛し合うこと」は、愛の本質です。 しかし人間同志の愛は、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(第二コリント12章15節)というように、裏切られたり、または反対に人を傷つけたりしているうちに、互いの愛を見失ってしまいやすいものです。 互いに愛し合うためには、どうすればよいのでしょうか。それは、私たちの「愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな」ることです(ピリピ1章9節)。私たちの愛は、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」る(エペソ3章18節)ことによって、いよいよ豊かになり、こうして神と私たちとの間の「相互的な愛」が深くなる時、私たちは、愛を見失うことなく、互いに愛することができるようになるのです。
2008.05.25
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「良い人間関係を保つ秘訣」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、7章1~6節 この世において人間関係ほどむずかしいものはないでしょう。それで良い人間関係を保つ秘訣について学んでみましょう。 一、良い人間関係を保つ秘訣――以下のような三つの不当なさばきをしない 1.動機をさばくこと(A・B・シンプソン)。 私たちは、人の言葉や行動となって外側に表れていない動機や、「心の中のはかりごと」などの「隠れた事」について、勝手な詮索や臆測また想像をしてさばいてはなりません(第一コリント4章5節)。 2.証拠がないのにさばくこと(ジョン・ウェスレー)。 私たちは、人の言葉や行動となって外側に表れたものについても、直接相手の言い分や弁明を聞いて、確かな証拠がなければさばいてはなりません(ヨハネ7章51節、使徒25章16節)。 3.資格がないのにさばくこと。 証拠のある罪の事実でも私たちがそれよりも大きな罪を犯していて、その人を責める資格がなければさばいてはなりません(3~5節)。 二、良い人間関係を保つ秘訣――あら捜しをせず、良いところを見つけて交際する パリサイ人たちは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていました。イエスを訴えるためでした(マルコ3章2節)。 人間の目というものは、ものを見る時、その人の意志によって、だれか(何か)に焦点を合わせて見るようにできており、その時は、ほかのものはよく見えないものです。同じように人間の耳というものは、ものを聞く時、その人の意志によって、だれか(何か)に焦点を合わせて聞くようにできており、その時はほかのことはよく聞こえないものです。 安息日に会堂に来る人は、本来ならば、神の言葉を語る人を通して、神の御姿を見、神の御声を聞くということに自分の目と耳の焦点を合わせるべきです。ところがパリサイ人の心は、イエスへの悪意に満ちていました。 そのために彼らの目は、イエスの過失を捜し出すことに焦点を合わせて、ほかのものは見えなくなっており、また彼らの耳は、イエスの言葉尻をとらえることに焦点を合わせて、ほかのことは聞こえなくなっていたのです。 これでは良い人間関係を保つことはできません。人間はだれでも悪いところや短所がありますが、良いところや長所を見つけて、交際していかなければ、決して良い人間関係を保つこことはできないでしょう。 三、良い人間関係を保つ秘訣――自分とは違った人と接して、そこから学ぶ 神は、すべてのものを無条件に違ったものとして創造されました。人間は、それぞれ能力や賜物、性格や気質、そして環境や境遇が異なっています。私たちは、互いに違っているからこそ、愛と忍耐と寛容さなどの徳を養い、相互の欠点や短所を知って、助け合うことができます。自分と異なっている人間と多く接すれば接するほど、豊かで、円熟した品性や人格が形造られます。もし自分と同じタイプの人だけと交わるならば、偏狭で、わがままな人間になってしまうことでしょう。 四、良い人間関係を保つ秘訣――人は神が私のために備えられた器であることを知る 神を知る前は、ただ偶然にしか存在していなかった周囲の隣人が、神を知ることによって、まず私たちの姿を教えるために神が備えられた「鏡」であるということ、次に私たちを懲らしめ、私たちを造るために神が用いられる「砥石」であるということ(箴言27章17節)、そして私たちが神に仕えるための「対象」であるということが次第にわかってくるのです。 特に神に仕えるための対象について、キリストは、「これらの……ひとりにしたのは、わたしにしたので」あり、「しなかったのは、わたしにしなかったのです」と言われました(マタイ25章40、45節)。またジョン・ウェスレーは、「私たちは、隣人の中におられる神に仕えなければならない」と述べています。このようにしてアブラハムは、「御使いたちを、それとは知らずにもてなし」たのです(ヘブル13章2節)。
2008.05.22
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「道と真理といのちであるキリスト」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章1~12節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6節)。 冒頭の聖句は、トマスの疑問に対して主イエス・キリストが答えられたことばです。このことばから神の教えを学んでみましょう。 一、キリストの場合 まずこのみことばの第一義的な意味を考えてみましょう。 1.道であるキリスト キリストが道であるとは、どのようなことでしょうか。。それは、このことばのすぐ後に、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(6節)とあるように、キリストこそ神に至る唯一の道であることを教えています。 ヤコブは、その頂が天に届くはしごの夢を見ましたが(創世記28章12節)、このはしごはキリストご自身です(ヨハネ一章51節)。神と人との間には、罪という大きな溝があって、だれも渡ることはできませんでしたが、キリストは、人類の罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださり、私たちのために、「新しい生ける道を設けてくださった」のです(ヘブル10章20節)。 2.真理であるキリスト キリストが真理であるとは、どのようなことでしょうか。それは、キリストが真理そのものであることを教えています。 それとともに、「わたしを見た者は、父を見たのです」(9節)とあるように、私たちは、キリストを知るなら、それは、そのまま神を知ったことになるということを教えているのです。なぜなら、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿ってい」るからです(コロサイ2章9節)。 3.いのちであるキリスト キリストがいのちであるとは、どのようなことでしょうか。それは、キリストがいのちそのものであることを教えています。 それとともに、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」(12節)とあるように、私たちは、キリストを信じ受け入れるなら、神のいのちが与えられ、神のわざを行うことができることを教えているのです。 二、一般の法則の場合 私たちがどこかへ出かけて用事を足そうとする場合、自ずから次の三つのことをしているのではないでしょうか。1.目的地に至るまでの正しい道を通る。2.正しい目的地に着くことができる。3.必要な用事を足すことができる。 これらのことから道と真理といのちというものを一般の法則に当てはめなら、次の三つのことを表しているのではないでしょうか。◇道――正しい手段や方法である。◇真理――正しい目的や目標である。◇いのち――正しい結果や成果である。 目的を得るためには手段を選ばずでは、決して良い結果を得ることはできないのです。 三、キリスト者の場合 パウロは、「テモテへの手紙、第二」の4章において、次のようなすばらしい告白をしています。 1.私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました(6節)。 2.私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました(7節)。 3.今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです(8節)。 これらのことから道と真理といのちというものをキリスト者に当てはめるなら、次の三つのことを表しているのではないでしょうか。◇道――キリスト者が通るべき道◇真理――キリスト者が到達すべき真理◇いのち――キリスト者が受けるべきいのち 私たちは、神がそれぞれに備えられた細い摂理の道を、神が示される正しい目的地や真理という「目標を目ざして、一心に走っている」なら、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」ことができるのです(ピリピ3章14節)。
2008.05.19
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「聖霊降臨の説教(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章22~36節 ペテロは、ことばを続けて、初代教会の使徒たちが繰り返し説教した「宣教のことば」を述べています。これは、「ケリュグマ」と呼ばれています。「この形式には四つのおもな特徴がある。第一は、イエスの公生涯と受難の物語。第二は、その復活により、メシヤの資格が神によって確証されたこと。このことについては、語り手自身が目撃者であると主張する。第三に、イエスがメシヤであることを証明する旧約聖書からの『証言』。最後に、悔い改めと信仰への勧めである」(F・F・ブルース著、デヴィッドソン等編『聖書註解』920頁)。 一 力あるわざによって神から遣わされたことをあかしされたイエス(22、23節) その当時のイスラエル人は、神が「ナザレ人イエスによって」、人々の間で「力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われ」たことをよく知っていました(22節)。このことはイエスについて二つのことをあかししています。一つは、イエスは神のわざを成し遂げるために神から遣わされた真の神であるということ、もう一つは、これまでの生涯が完全で、神に喜ばれ、受け入れられている真の人であるということです。 ところがイスラエルの人たちは、真の神であり真の人であるイエスを「不法な者」、すなわち「律法のない者、外国人(異教徒)」(23節の欄外の訳)の手によって十字架につけて殺してしまいました。イエスを死に追いやった人は、だれであってもその罪を免れることはできません。しかしペテロは、そのようにして殺されたイエスの死でさえも、「神の定めた計画と神の予知」(23節)によるものであると明白に述べているのです。 二 死からよみがえられたことによって公にメシヤとして示されたイエス(24~32節) 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」(24節)。しかもペテロは、このことはダビデの書いた詩篇16篇8~11節の預言の成就であるだけでなく、自分たちはみな、そのことの証人であると大胆に宣言しました(25~32節)。 「人間の裁判官がイエスに下した判決、人間の執行官がなした処刑、それが、さらに高い法廷によって逆にされた、とペテロは主張する。彼らは、イエスを殺したが、神はこれをよみがえらせ、その死のきずなを解き放たれた。……メシヤの受難が神の定めた計画によって決定されていたとするなら、メシヤの復活と栄光も、同じように決定されていたのである」(F・F・ブルース『使徒行伝』79頁)。これは聖霊によらなければわからない奥義でした。こうしてイエスは、死者の中からの復活により、公にメシヤとして示されたのです(ローマ1章4節)。 三 すべての人に聖霊をお注ぎになるために天に上げられたイエス(33~35節) しかしイエスは、死からよみがえられただけでなく、天に上げられました。このこともダビデの書いた詩篇110篇1節の預言の成就だけでなく(34、35節)、使徒たちはみな、そのことの証人でした(1章9~11節)。そしてペテロは、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と(33節)、再び聖霊によらなければわからない奥義を語りました。 イエスが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって「罪のきよめを成し遂げて……大能者の右の座に着かれ」るためでしたが(ヘブル1章3節)、それは、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためでした。私たちは、キリスト降誕節(クリスマス)とキリスト復活節(イースター)と聖霊降臨節(ペンテコステ)が教えている深い意味と目的を知り、このような驚くべき救いを成し遂げてくださった主を心からあがめ、賛美するとともに、この福音をひとりでも多くの人々に伝えたいものです。 四 神が主ともキリストともされたイエスを十字架につけた罪を譴責したペテロ(36節) 最後にペテロは、イスラエル人に向かって、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と言って(36節)、その罪をきびしく譴責しました。「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」ことができるのです(21節)。拙著「使徒ペテロの生涯」20「聖霊降臨の説教(2)」より転載
2008.05.17
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「聖霊降臨の説教(1)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章14~21節 五旬節の日に聖霊がしるしを伴って弟子たちの上に臨まれたので、「大ぜいの人々が集まって来」ました(6節)。彼らの中には弟子たちの語ることに真剣に耳を傾ける人たちがいましたが、反対に、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいました(13節)。どちらにしても彼らに福音を語る絶好の機会が与えられたのです。 一、酒に酔っているのではなくヨエルの預言の成就であると弁明したペテロ(14~16節) このような時、弟子たちを代表して説教したのは、やはりペテロでした。彼は、「十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりと」言いました(14節)。 ペテロは、説教を始めるにあたって、まずあざける者たちに対して機知に富んだ反論をしています(15節)。「知恵のある者は人の心をとらえる」(箴言11章30節)とあるように、御霊に満たされたペテロは、知恵にも満たされて、批判する者たちの心をとらえ、その後、このことが教えている驚くべき事実について臆する色もなく堂々たる態度で語りました。 ペテロは、自分たちの身に起こった不思議な出来事を説明して、「これは、預言者ヨエルによって語られた事です」とはっきりと言いました(16節)。また説教の後半(22~36節)においても詩篇を引用してイエスはメシヤであると大胆に宣言しています。 ペテロは、どうしてこのようなことを言うことができたのでしょうか。イエスは、「訣別の説教」(ヨハネ14~16章)の中で、御霊の五つの働きについて教えられました。 (1)「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(14章17節)。 (2)「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14章26節)。 (3)「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)。 (4)「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16章8節)。 (5)「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16章13節)。 ペテロは、このような御霊の働きによって聖書の真理を大胆に語ることができたのです。 二、預言者ヨエルの預言のことばを引用して聖霊降臨の説教をしたペテロ(17~21節) このヨエルの預言は、前半(17、18節)と後半(19~21節)の二つに分けることができます。 前半の預言は、聖霊が息子、娘、青年、老人、しもべ、はしため――老若男女、親子、主従の区別なく――すべての人に注がれて、預言する(神のことばを語る)ということであり、ペテロは、それがこの五旬節の日に成就したと述べています。「たしかに、百二十名のユダヤ人に御霊がそそがれたこと自体が、『すべての人に』霊がそそがれるという預言の成就ではありえなかったが、その成就のはじまりであった」(F・F・ブルース『使徒行伝』77頁)。 後半の預言は、「主の大いなる輝かしい日が来る前に」(20節)天変地異が起こるということであり、ペテロは、それがこの五旬節の日に成就したと述べています。これを聞いた人々は、イエスが十字架につけられた日の不思議な暗黒を思い出したことでしょう(マタイ27章45節)。 しかしヨエル書をはじめ聖書全体を調べるなら、19、20節に記されている天変地異は、イエスが世の終わりに再び来られる「再臨」の時のしるしである(マタイ24章29節、マルコ13章24、25節、ルカ21章25、26節)ということができます。この預言は五旬節の日に部分的に成就したにすぎず、世の終わりに完全に成就するのです。ある聖書注解者たちは、主の大いなる輝かしい日が来る前に、さらに全世界におよぶ聖霊の注ぎがあると語っています。 この天変地異と聖霊の注ぎについてさまざまな解釈の違いがあったとしても、「主の名を呼ぶ者(すなわち主を心から信じて口で告白する者)は、みな救われる」のです(21節)。拙著「使徒ペテロの生涯」19「聖霊降臨の説教(1)」より転載
2008.05.13
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「聖霊の降臨」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章1~13節 百二十名ほどの兄弟たちは、エルサレムを離れないで、イエスから聞いた父の約束を待ち、「みな心を合わせ、祈りに専念してい」ました(1章14節)。それから十日目の五旬節の日に、その後の世界の歴史を変えてしまう驚くべきことが起こったのです。 一、五旬節の日に聖霊に満たされ、他国のことばで話しだした弟子たち(1~4節) 五旬節の日は、過越の祭りの後の「安息日の翌日から……七回目の安息日の翌日まで五十日を数え……新しい穀物のささげ物を主にささげ」る日で(レビ23章15、16節)、「初穂の日、すなわち七週の祭り」とも呼ばれていました(民数記28章26節)。この日はイエスが復活された日から数えて五十日目になります。 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた時、聖霊が弟子たちの上に臨まれました(1、4節)。この時、ペテロがエルサレム会議において述べているように、神は「私たち(ユダヤ人)と彼ら(異邦人)とに何の差別もつけず」、その「心を信仰によってきよめてくださったのです」(15章8、9節)。 聖霊は「霊」ですから、人間の耳で聞くことも目で見ることもできません。しかしこの時は、弟子たちの上に聖霊が臨まれたことが宮に集まっていたすべての人々にはっきりわかるように、耳で聞こえる「激しい風が吹いて来るような響き」と、目で見える「炎のような分かれた舌」というしるしが伴いました(2、3、6節)。 またこの時、「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでい」ました(5節)。それで彼らが「いろいろな国ことばで神の大きなみわざを語る」弟子たちの話しを聞く(11節)ことができるように、弟子たちは、「聖霊に満たされ」た時、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のです(4節)。 二、あらゆる国から来てエルサレムに住んでいた敬虔なユダヤ人たち(5、9~11節) その当時、パレスチナ以外に散って住んでいたユダヤ人は、「ディアスポラ(散在ユダヤ人)」と呼ばれていました。9~11節に彼らの住んでいた諸地方が記されています。 彼らは、パレスチナから見て東方(パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、アラビヤ人)、北方(カパドキヤ、ポント)、西方(アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、クレテ人、ローマ人)、そして南方(エジプト、リビヤ地方)に住んでいました。 これらの人々がエルサレムに来て住んでいましたが、五旬節の日に、「それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞」きました(6節)。神は、福音が「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24章47節)ために、この五旬節の日にエルサレムに集まっていた「ディアスポラ」を用いようとされたのです。 三、自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いたユダヤ人たち(6~8、12、13節) ペテロと使徒たちは、イエスが地上におられた間は、イエスが語られた十字架と復活のことも、イエスにおいて成就した預言のことばも全くわかりませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節)。いやイエスが復活された後でさえ、イスラエルの国の再興のことしか念頭にありませんでした(1章6節)。ところがイエスが昇天されてからペテロは、ダビデが書いた詩篇のことばを引用し(1章16~20節)、旧約聖書とイエスに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時には、旧約聖書が教えようとしていることとイエスのことがはっきりとわかったのです。 「現代の教会は、過去の不思議な出来事の再現を試みるべきではありません。現代では、教会の責任は、教会員が聖霊に満たされることにあります。そうすれば聖霊は、教会員によって現代の人々を驚かすに足る不思議な事をなされるでしょう。それは教会にとって宣教と証しをするための好機会となるでしょう。町中が、聖霊に満たされた教会の生きた証しによって驚かされ、当惑し、批判さえもするに違いありません」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』19頁)。拙著「使徒ペテロの生涯」18「聖霊の降臨」より転載
2008.05.10
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「マッテヤの選出」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章15~26節 ペテロは、イエスが地上におられた間、十二使徒の筆頭にあげられていましたが、イエスが昇天された後も、使徒たちと兄弟たちの中で指導的な立場にいました(15)。 一、ユダの悲惨な末路と彼の後任の任命について聖書のことばは成就しなければならなかったことを述べたペテロ(15~17、20節) 「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まってい」ました(15節)。イエスは、よみがえられた後、使徒たちを除いて「五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」(第一コリント15章6節)。この人数に比べると、百二十名というのは、四分の一以下であり、いかにも少数です。しかしこれが現実であり、彼らこそイエスの命令に従ってエルサレムを離れず、父の約束してくださった聖霊を待ち望んでいた真の弟子たちです。 ペテロは、この兄弟たちを前にして最も心にかかっていたユダのことを話しました。というのもユダは、仲間として数えられ、使徒の務めを受けていましたが、イエスを裏切って死んだので、使徒の欠員を埋める必要があったからです。しかしペテロは、ユダの悲惨な末路と彼の後任の任命について、これは、「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」と大胆に宣言しました(16節)。 ルカは、ユダの罪と彼の悲惨な末路についての記事を記した後(18、19節)、ペテロの話の続きを述べています。ペテロは詩篇から二つの聖句を引用しています。一つは69篇25節で、彼らの陣営が荒れ果てるように求めた祈りです。もう一つは109篇8節で、彼の日がわずかとなり、彼の仕事を他人が取るようにという祈りです。 「ここでは、ユダの後任が任命されることの根拠がのべられているのである。……ユダの背信も、彼の代りにもっと適当な者を補充する必要も、いずれも、旧約の預言にのべられている事柄と見られている」のです(F・F・ブルース『使徒行伝』56、54頁)。 二、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れ、悲惨な最期を遂げたユダ(18、19節) ユダの死とその後の出来事について、マタイの記事(27章3~8節)とルカの記事(18、19節)には食い違いがありますが、真相は次のようなことではないでしょうか。 イエスを売ったユダは後悔し、「銀貨を神殿に投げ込んで立ち去」りました(マタイ27章5節)。祭司長たちは、これを神殿の金庫に入れるのはよくないと考えて、ユダの銀貨三十枚で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にしました(同27章6、7節)。その後、ユダはその地所の中の高い所で首をつり、死のうとしましたが、その時、「まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった」のです(18節)。 三、ユダの代わりに主に選ばれて、十一人の使徒たちに加えられたマッテヤ(21~26節) ペテロは、使徒の欠員を埋める人は、イエスが宣教を開始してから昇天された日までの間、いつも使徒たちと行動をともにし、イエスの復活を目撃した証人でなければならないと言いました(22節)。彼らは、「ヨセフと、マッテヤとのふたりを立て」ました(23節)。 彼らは、「ふたりのためにくじを引」きました(26節)。「くじだけでなく、慎重な選択と祈りがこの任命にあたって行われた。くじは古代イスラエルでは神に聖定された方法であり、神のみ旨を確認する既成の手段であって(箴言16章33節)、実際、ウリムとトンミムによる決定の原則でもあった。使徒たちがくじを用いたのは、これが最初で最後である。それが昇天とペンテコステの日の間のできごとだったことも重要である」(F・F・ブルース著、デヴィッドソン等編『聖書註解』920頁)。 ユダの後任の任命に関して人の側と神の側の両面の要素があります。前者は使徒の資格を持つということであり、後者は神のみこころによって選ばれるということです。 「くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた」のです(26節)。拙著「使徒ペテロの生涯」17「マッテヤの選出」より転載
2008.05.07
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「イエスの昇天」 甲斐慎一郎 使徒の働き1章9~14節 イエスは、よみがえられた後、四十日の間、使徒たちにご自分を現されましたが(3節)、新約聖書は、このイエスの顕現の目的について四つのことを教えています。 ◇使徒たちにご自分が生きていることを示すためです(3節)。 ◇使徒たちにイエスの羊を牧する任務を与えるためです(ヨハネ21章15~17節)。 ◇使徒たちに全世界への宣教を命じるためです(マタイ28章19節、マルコ16章15節)。 ◇使徒たちに聖霊を待ち望むように教えるためです(4節、ルカ24章49節)。 一 オリーブ山から天に上げられ、同じ有様で、またおいでになるイエス(9~11節) よみがえられたイエスは、四十日後に、これらの四つの目的が果たされたので、使徒たちが「見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ました(9節)。 「初期の使徒のメッセージは、復活と昇天を二つとも含んでキリストの高揚とみなし、一つの継続的なことと考えている。四十日目は、彼が復活の顕現後、弟子たちから姿を隠された最後の時を画するにすぎない」のです(F・F・ブルース著、デヴィッドソン等編『聖書註解』919頁)。 新約聖書は、イエスが天にお帰りになった目的について三つのことを教えています。 1.罪のきよめを成し遂げて、神の右の座に着かれるためです。 ヘブル人への手紙の記者は、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」ですが、天から下って、人となり、十字架につけられて、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」と教えています(1章3節)。「主が神の右にいますということは、彼が一層強力に『世の終わりまで、いつも』(マタイ28章20節)、地上の御民と共にいたもうことを意味する。彼は『すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた』(エペソ4章10節)のである」(F・F・ブルース『使徒行伝』47頁)。 2.御父から約束された聖霊を受けて、人々に聖霊をお注ぎになるためです。 イエスは、罪のきよめを成し遂げられましたが、聖霊が私たちのうちに働いてわざをなしてくださらなければ、十字架の贖いも私たちの救いにはなりません。ペテロは、五旬節の日の説教において、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて……聖霊をお注ぎになったのです」と述べています(使徒2章33節)。 3.天の御国に場所を備えに行き、神の子どもたちを天に迎えるためです。 イエスの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開きました(ヘブル9章12節)。イエスは、その天の御国に多くの神の子どもたちが永遠に住む「場所を備えに行く」(ヨハネ14章2節)ために天にお帰りになりました。そして「またおいでにな」る(11節)再臨の時に神の子どもたちを迎えに来られるのです。 二 エルサレムの屋上の間で、心を合わせ、祈りに専念していた人たち(12~14節) イエスが天にお帰りになった後、使徒たちがしなければならないことは、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまってい」ることです(ルカ24章49節)。そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰り、町にはいると、泊まっている屋上の間に上がりました(12、13節)。この人々は、イスカリオテ・ユダを除いた十一使徒をはじめ、イエスについて来た婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟であるヤコブとユダでした(13、14節)。 彼らは、だれが一番偉いかということで論争したり、地位争いをしたりしたことなどを思い起こし、「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5章24節)と言われたイエスのことばに従って、互いに罪を言い表し、互いに赦し合って、心を一つにしたのではないでしょうか。こうして「みな心を合わせ、祈りに専念していた」のです(14節)。拙著「使徒ペテロの生涯」16「イエスの昇天」より転載
2008.05.04
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「聖霊降臨の約束」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~8節 ルカは、前の書(ルカの福音書)においてイエスの誕生から受洗と誘惑、良いわざと教え、弟子の育成と派遣、変貌、十字架と死、そして復活と昇天に至るまでの出来事を記しました(1、2節)。彼は前の書の続編としてこの書(使徒の働き)を書いたのです。 「この新しい書には大きな相違点が見られます。使徒の働きでは、イエスはもはや地理的な制約を受けておられません。キリストがあらゆるところにおられるのがわかります。彼は人間としての同情と、神としての力によって、パレスチナだけでなく、地の果てに向かって働きはじめられたのです。キリストは聖霊によって働きはじめられたのです。キリストが始められたことを、聖霊は教会を通して遂行なさいます。……それゆえ、この使徒の働きは『聖霊によって、キリストの御体なる教会を通して、生けるキリストの御業と御教えとが続けてなされた記録』ということができます」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』8頁)。 一、イエスから聖霊のバプテスマを受けるという約束を与えられた使徒たち(3~5節) イエスは、テベリヤの湖畔でご自分を弟子たちに現された後(ヨハネ21章1節)、「ガリラヤに行くように」言われました(マタイ28章10節)。ガリラヤの山において十一人の弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました(同28章19節)。これが大宣教命令です。 弟子たちは、このイエスの命令を聞いて驚いたことでしょう。たった十一人の弟子たちが「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え」(マルコ一六15)ることなど、到底不可能であると思ったのではないでしょうか。 確かに十一人の弟子たちだけで全世界の人たちに福音を宣べ伝えることはできません。それでイエスは、この大宣教命令の最後に、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と約束されたのです。 そのためにイエスは、彼らに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました(4)。それは弟子たちが、もう間もなく「聖霊のバプテスマを受けるからです」(5節)。すなわち弟子たちの上に聖霊が臨まれることによって、彼らは力を受け、地の果てにまでイエスの証人となることができるのです(8節)。 二 イエスがイスラエルのために国を再興してくださることを期待した使徒たち(6節) しかし使徒たちは、聖霊のバプテスマを受けるという約束を与えられても、それが何を意味するのか全くわかりませんでした。それどころか、イエスが「神の国のことを語」っておられる(3節)のを聞いているうちに、このイエスこそ「イスラエルのために国を再興してくださる」(6節)メシヤであるという期待に胸ふくらますようになりました。 弟子たちは、もともとイエスをローマ帝国の圧政からイスラエルの国を救い出してくださるメシヤとして期待していました。ところイエスの死によってその夢が破れ、絶望に襲われていた時、イエスが死からよみがえられたのですから、今こそ国を再興してくださるにちがいないと希望を持つようになったとしても少しも不思議なことではありません。 三 聖霊が臨んで力を受け、地の果てにまでイエスの証人となる使徒たち(7、8節) イエスは彼らの質問には答えられず、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、……地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました(8節)。 「かつて、弟子たちの野望の的であった政治力のかわりに、それよりもはるかに偉大な、はるかに高貴な力が彼らのものとなるであろう。イエスは、聖霊が彼らにくだるとき、彼らは上なる力に満たされるであろう、と確約された。その時、この力によって、彼らの宣教は大きな力を生むのである」(F・F・ブルース『使徒行伝』44頁)。拙著「使徒ペテロの生涯」15「聖霊降臨の約束」より転載
2008.05.01
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