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「訣別の説教(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章22~31節 イエスは、心が騒ぐ弟子たちに、再会することについて話された後、平安を与えることについて語られました。 一、イエスを愛する者に、ご自分を現されるイエス(22~26節) イスカリオテでないユダは、イエスを愛する人にだけ、イエスが現れてくださるという言葉を聞いて(21節)、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」と質問しました(22節)。 この質問は、言い換えるならば、「主よ。もしあなたが本当にメシヤであられるなら、そのことを少数の弟子だけでなく、世のすべての人に現すべきではありませんか」ということです。 イエスは、彼に答えて、「父は」わたしを愛する「人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と前と同じことを言われました(23節)。ユダにとっては、答えになっていない答えでした。 イエスが言われたように、「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たもの」であることがわかりますが、そうしなければ、わからないのが信仰の世界です(7章17節)。 聖書は、「生まれながらの人間(世の人)は、神の御霊に属することを受け入れません。……御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と教えています(第一コリント2章14節)。ですから、世の人はもちろんのこと、弟子たちでさえも、後から来られる聖霊が、イエスの言われたことを思い起こさせてくださるまで、イエスの言葉を理解することができませんでした(25、26節)。 二、弟子たちに、ご自分の平安をお与えになるイエス(27節) イエスは言葉を続けて、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」と言われました(27節)。イエスが去って行かれることを知って心が騒いでいる弟子たちにとって、イエスの平安が与えられることは、本当にすばらしいことです。 世が与える平安は、環境や境遇に左右される一時的な平安にすぎません。順境の時は平安ですが、逆境の時は不安になり、決して長続きしません。 これに対して、イエスがお与えになる平安は、神がともにおられる平安であり、ゆるがされることはありません。逆境の時にも、ともにおられる神がすべてのことを働かせて、益としてくださることを知っているので、心を安んじることができるのです。 三、万物の支配者である偉大な父のもとに行かれるイエス(28~31節) イエスは、弟子たちに「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」と言われました(28節)。なぜならイエスが去って行かれたとしても、イエスは、ご自分よりも偉大な父のもとに行かれるからです(28節)。 万物の支配者である偉大な父は、イエスを愛しておられ、万物をイエスの手にお渡しになりました(3章35節、13章3節)。ですから、この世を支配するサタンが来ても、彼は、イエスに対して何もすることはできません(30節)。 弟子たちは、これらのことがわかりませんでした。しかし、それが起こった時、彼らが信じ、また世が知るために、イエスは前もって彼らに話されたのです(29、31節)。そしてイエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」と言われました(31節)。拙著「キリストの生涯の学び」182「訣別の説教(3)」より転載
2008.02.28
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「訣別の説教(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章12~21節 イエスは、心が騒ぐ弟子たちに、天に住まいを備えることについて話された後、再会することについて語られました。 一、信じる者を通してわざを行われるイエス(12~15節) 弟子たちは、師として仰ぐイエスが去って行かれたら、残された自分たちは、どうなってしまうのかという不安とともに、いままでなされて来たイエスのわざも中断して、水泡に帰してしまうのではないかという心配もあったにちがいありません。 イエスは、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」と言われました(12節)。 これは、イエスが父のもとに行かれるなら、イエスを信じる者に聖霊が注がれ(使徒2章33節)、彼らを通して福音が全世界に、しかも世の終わりまで宣べ伝えられるので、空間的にも時間的にもイエスおひとりの時よりも、さらに大きなわざが行われるということを教えています。 またイエスは、「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。……もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と言われました(13、15節)。 これは、このようなイエスのわざは、イエスの御名によって求める祈りによってなされるものであり、またイエスを愛する者は、イエスの戒めを守るので、イエスのわざは、このような人たちによって受け継がれていくことを教えているのです。 二、弟子たちに助け主をお与えになる父なる神(16、17節) イエスは、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。……その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」と言われました(16、17節)。 イエスを信じる者がイエスのわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行うことができるのは、助け主である聖霊が弟子たちのうちにおられて、イエスのわざを行わせてくださるからです。 世は聖霊を受け入れることができず、その方を見もせず、知りもしません。しかし弟子たちは、聖霊を知っています。なぜならイエスは、父なる神にお願いし、父なる神がその願いに答えて、弟子たちに聖霊をお与えになり、聖霊は彼らとともに住み、彼らのうちにおられるからです。 三、弟子たちのところに再び戻って来られるイエス(18~21節) しかし弟子たちに聖霊が与えられるのは、まだ少し先のことです。それで、イエスは、「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」と言われました(18節)。これは、イエスは十字架の上で死なれますが、三日目によみがえって彼らの前に姿を現されることを教えています。イエスが去って行かれることを肌で感じて心が騒いでいる弟子たちにとって、再びイエスと会うことができるというのは、すばらしい希望の言葉です。 しかし復活されたイエスが、弟子たちに現れたのは、四十日の間だけであり、その後は天にお帰りになっています(使徒1章3~9節)。このように目に見える姿で現れたイエスを肉眼で見て会うことができるのは、一時的なことでした。これに対してイエスを愛し、イエスの戒めを保って、それを守る人にイエスご自身が現れてくださるのは、恒久的なことなのです(21節)。拙著「キリストの生涯の学び」181「訣別の説教(2)」より転載
2008.02.25
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「訣別の説教(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章1~11節 十字架の死を目前に控えたイエスは、弟子たちに話さなければならないことをすべて披瀝し、彼らを懇々と教えさとす説教をされました。これが、ヨハネの福音書の14章から16章に記されている「訣別の説教」です。 使徒ヨハネは、14章では「心が騒ぐ弟子たちへのイエスの希望の言葉」を、15章では「恐れる弟子たちへのイエスの励ましの言葉」を、16章では「悲しむ弟子たちへのイエスの慰めの言葉」を述べています。 14章は、最後の晩餐の席上において語られたもので、三つのことを記しています。◇訣別の説教(1)――天に住まいを備えること。◇訣別の説教(2)――再会すること。◇訣別の説教(3)――平安を与えること。 イエスは、心が騒ぐ弟子たちに、天に住まいを備えることについて語られました。 一、父の家の住まいに場所を備えに行かれるイエス(1~4節) 弟子たちは、イエスがまもなく自分たちを残して去って行かれることを肌で感じていました。そのために彼らの心は騒ぎ、恐れを抱き、不安になっていました(1、27節)。 イエスは、このような弟子たちに「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。……あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。……わたしの行く道はあなたがたも知っています」と言われました(2~4節)。 「家」や「住まい」は、人間の「身の落ち着く所」です(ルツ3章1節)。それでは、「その鼻にいのちの息(すなわち霊)を吹き込まれた」人間の「霊の落ち着く所」は、いったいどこでしょうか(創世記2章7節)。それは父の家の住まい、すなわち天の御国です。なぜなら、「霊はこれを下さった神に帰る」のが、人間本来のあるべき姿だからです(伝道者12章7節)。 二、道と真理といのちであるイエス(5、6節) イエスが去って行かれることを肌で感じて、心が騒いでいる弟子たちにとって、これほどすばらしい希望の言葉はありません。しかしトマスは、イエスに「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」と言いました(5節)。このトマスの言葉に表れているように、弟子たちは、イエスの言われたことを全く理解していませんでした。 イエスはトマスに、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました(6節)。これは、イエスこそ父に至る唯一の「道」であり、また「真理」そのもの、「いのち」そのものであることを教えています。 三、父と一つであるイエス(7~11節) そしてイエスは「今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです」と言われました(7節)。もし、弟子たちが本当にイエスを知っていたならば、父をも知っていたはずです。しかし彼らは、長い間イエスといっしょにいながら、イエスを知りませんでした。それでピリポは、イエスに「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言いました(8節)。 ピリポは、「父とは一つで」、「神を説き明か」すために世に来られた「父のふところにおられるひとり子の神」であるイエスを知りませんでした(10章30節、1章18節)。それでイエスは、もし言葉が信じられなければ、わざ(具体的には証拠としての奇蹟)によって、父と自分が一つであることを信じなさいと言われたのです(11節)。拙著「キリストの生涯の学び」180「訣別の説教(1)」より転載
2008.02.22
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「教会に仕える道(3)賜物による奉仕」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、12章 最後に賜物による奉仕について学んでみましょう。 賜物とは、価なしに与えられる贈り物のことです。この賜物には、およそ次のような三種類のものがあります。 1.自然の賜物――生来の才能や能力による人間的な賜物です。 2.恵みの賜物――信仰によってすべての人に与えられる神からの賜物です(ローマ6章23節、エペソ2章8節)。これは、罪からの救いであり、永遠のいのちです。 3.御霊の賜物――聖霊によって各自に分け与えられる霊的な賜物です(8~10節、ローマ12章6~8節)。これには、慈善や奉仕、教えや勧め、知恵や知識の言葉、預言や異言、また奇蹟やいやし等があります。 私たちは、なぜ違った賜物が与えられ、それを用いて教会で奉仕するのでしょうか。 一、神のみこころであるから(神に対して) 聖書は、教会をキリストのからだにたとえ、ひとりびとりのキリスト者は各器官であると教えています(12、27節)。人間のからだは、違った構造をもった各器官が、それぞれ違った場所にあり、それぞれ違った働きをするものです。このことをパウロは、次のように述べています。 1.「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる」(11節)――構造の違い。 2.「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えて(文語訳は、置いて)くださったのです」(18節)――場所の違い。 3.「そして、神は教会の中で人々を次のように任命され」(28節)――機能の違い。 ですから、からだの各器官であるキリスト者が、おのおの違った賜物が与えられ、それぞれ違った立場に置かれ、めいめい違った働きをするのは、神のみこころなのです。 二、自らの確信のため(自分に対して) 神から各自に与えられている自然の賜物は何でしょうか。恵みの賜物は、いつも明確でしょうか。御霊の賜物は、いったい何でしょうか。私たちが、これらの賜物を明確に見いだすなら、次のような三つのことを確信することができます。 1.自らのなすべきことがわかる。 私たちは、自らの賜物を発見するなら、教会の中において私たちのなすべきことがわかり、自らの行動を確信することができます。 2.自らのおるべきところがわかる。 そして私たちが自らのなすべき分を果たすなら、教会の中において私たちのおるべきところがわかり、自らの立場を確信することができます。 3.自らのあるべき姿がわかる。 さらに私たちが自らのおるべきところが分かるなら、教会の中において私たちのあるべき姿がわかり、自らの状態を確信することができるのです。 三、人々との調和のため(人に対して) 私たちが神から各自に与えられた賜物を見いだすことは、次のような三つの目的があるからです。 1.互いに認め合うためです。 私たちは、神から各自に与えられた賜物を見いだす時にのみ、互いの必要性を知り、相互になくてはならない存在であることを認め合うことができます。 2.互いに助け合うためです。 そして私たちが相互になくてはならない存在であるのみならず、その賜物は、単に自分のためではなく、他の人のためであるということを認め合う時、互いに助け合うことができます。 3.互いに育て合うためです。 さらに私たちは、自らのなすべきことと、おるべきところと、あるべき姿を明確にする時、ほんとうの意味において互いに育て合うことができます。 このようにする時にのみ、他の人々との真の調和があるのです。
2008.02.19
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「教会に仕える道(2)献金による奉仕」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、9章6~15節 次に献金による奉仕について学んでみましょう。教会では、なぜ献金をするのでしょうか。 一、自らの証しのため(自分に対して) 1.献金は、私たちの喜び、または愛の証しです(8章2、8、24節)。 パウロは、「苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです」と述べ(8章2節)、献金によって「あなたがた自身の愛の真実を確かめ」(8章8節)、「あなたがたの愛……を、諸教会の前で、彼らに示してほしい」と語っています(8章24節)。 私たちのために、そのひとり子をお与えになったほどの神の愛を知ったキリスト者は、罪から救われた喜びと神への愛のゆえに、理屈ぬきに神に何かをお返ししようとするのであり、それが献金となって表れるのです。 2.献金は、私たちの献身の証しです(8章5節)。 続けてパウロは、「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」と述べています(8章5節)。献身とは、具体的には、私たちの時間や金銭や能力など、すべてのことを神のために用いることです。ですから私たちの献金は、私たちの献身の程度に比例します。なぜなら金銭をどれだけ、何に用いているかということほど、その人の心を正直に表すものはないからです。主が「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言われた通りです(マタイ6章21節)。 3.献金は、私たちの信仰の証しです(9章13節)。 そしてパウロは「このわざ(献金)を証拠として……あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり」と述べています(9章13節)。私たちは、献金をすることによって、自分の宝を地上にたくわえずに天にたくわえ、富に仕えず神に仕えるという信仰の告白をするのです(マタイ6章19、20、24節)。 二、聖徒に仕えるため(人に対して) パウロは、献金のことを「聖徒たちに仕える交わりの恵み」(8章4節、欄外の訳)、また「聖徒たちのためのこの奉仕」と述べています(9章1節)。これは、次のようにまとめることができます。 1.献金は、恵みのわざです(8章6、7、19節)。 なぜなら献金をすることができるということ自体が、無一文ではなく、神より祝福と恵みを受けている証拠だからです。 2.献金は、奉仕のわざです(9章12節)。 なぜならそれは、「聖徒たちの必要を十分に満た」し(9章12節)、福音の働きが広まるからです。 3.献金は、良いわざです(9章8節)。 なぜなら神は、献金を用いて、私たちの義の実を増し加えてくださるからです(9章10節)。 三、神のみこころである(神に対して) 1.神の恵みが現れる(8章1、9、9章8、14節)。 キリスト者が献金をすることによって「あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる」、「絶大な神の恵み」が現れるようになるからです(9章8、14節)。 2.神の知恵が現れる(8章13~15節)。 パウロは、「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです」と述べています(8章14節)。これは、神と信仰を否定して強制的に平等を図る共産主義に対して、愛と自発的な献金によって平等を図る神の知恵です。 3.神の栄光が現れる(8章19節、9章13節)。 このように献金は、多くの人たちが神への多くの感謝に満ちあふれて(9章11、12、15節)、心から神をあがめ、神の栄光が現れるようになるのです。
2008.02.16
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「教会に仕える道(1)集会による奉仕」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、10章19~25節 パウロは、「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」と述べています(コロサイ1章25節)。 このパウロのことばから、神のことばを余すところなく伝えるためには、教会に仕えることが不可欠であることがわかります。 しかし教会に仕えるためには、どうすればよいのでしょうか。様々なことが考えられますが、代表的にものは、次のような三つではないでしょうか。1.教会に仕える道(1)――集会による奉仕2.教会に仕える道(2)――献金による奉仕3.教会に仕える道(3)――賜物による奉仕 ヘブル人への手紙の著者は、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と勧めています(25節)。 まず集会による奉仕から学んでみましょう。教会は、なぜ集会をするのでしょうか。 一、神のみころであるから(神に対して) 1.集会をすることは、神の命令です 「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から。花嫁を自分の部屋から呼び出せ」とある通りです(ヨエル2章15、16節)。 2.集会は、神の臨在の現れる所です 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とある通りです(マタイ18章20節)。 3.集会は、神のわざが行われる所です 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。……すると、みなが聖霊に満たされ」とある通りです(使徒2章1、4節)。 個人においても神の臨在があり、神のわざが行われますが、集会においては、それが顕著であり、何よりも神の命令なのです。 二、自らの成長のため(自分に対して) 1.集会出席は、神より最も祝福を受ける道です 集会に出席することは、世より分離して神の命令に従い、神の臨在と神のわざが顕著に現れる所に身を置くことですから、神より最も祝福を受けるのです。 2.集会は、人間関係において私たちが造られていく場です。 すべての人々は、私たちの模範または警戒として、私たちを形造る道具であり、私たちは、人間関係において訓練を受けない限り、人間としても、またキリスト者としても、真に成長していくことはできないのです。 3.地上の集会は、天上の神の国に召集されるための予行演習です。 神は、地上の集会において、私たちが神の国に召集される(マルコ13章27節)にふさわしいかどうかを試験されているのであり、集会を拒むことは、自ら神の国を拒むようなものです。 三、人々への伝道のため(人に対して) 1.集会出席により家を不在にすることは、世の人々への無言の伝道です。 人間は、同じ時間に二か所以上の異なる場所にいることは不可能ですから、集会に出席することは、世のすべてのことを犠牲にして、神を求めていることを世の人々に証しをしている伝道です。 2.集会出席によって教会において様々な人々と接することは、証しや伝道をする良い機会です。 私たちは、単に自分のためだけでなく、ほかの人々への証しと伝道のために集会に出席していることを忘れてはなりません。 3.集会の御用や教会から世の人々の中へ遣わされることは、さらに積極的な伝道です。 私たちは、恐ろしい世の餌食にならないために、教会の祈りと支援を受けて世に出て行くべきであり、教会に集まった人のみ、また力強く世に出て行くことができるのです(使徒13章1~3節)。
2008.02.13
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「神の道と人の道」 甲斐慎一郎 イザヤ書、55章1~9節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)。 「道」という言葉は、辞書を引くと十種類ほどの意味があります。(1)道路、(2)途中、(3)専門、(4)方法、(5)道徳、(6)教え、(7)道程、(8)歩み、(9)筋道、(10)分別 ここでは、単なる道ではなく、「人が生きる」ということに関連づけて、「人が生きる方法」、「人が生きる道徳」、「人が生きる教え」、「人が生きる歩み」、「人が生きる筋道」、「人が生きる分別」という意味を加えるので、「神の道」と「人の道」というのは、ともに記されている「思い」という言葉から、神の道は「人が生きるために必要な、神が思い、また考える道」、人の道は「人が生きるために必要な、人が思い、また考える道」ということで学んでみましょう。 一、三種類の道 私たちの生涯には、様々な方面において大切な道というものが数多くありますが、人間の三つの要素である「からだ」と「たましい(心)」と「霊」に関して述べるなら、代表的なものは、次のような三つの道です。 1.生活の道(からだに関して) これは、衣食住を支える生計の道、また健康を保ち、生命を維持する生きていくための道のことです。 2.人生の道(心に関して) これは、ただ生活のために生きるのではなく、一生をどのように生きるのが私たち人間の責務であるのかという人として歩むべき道のことです。 3.救いの道(霊に関して) これは、この世の人生だけでなく、次に来る世(来世)を含めた永遠の世界において、「御前で聖く、傷のない者」(エペソ1章4節)となり、聖なる神の前に立つことができるという天の御国に至る道のことです。 二、人の道 この三つの道に関して、人が思い、また考えることは、どのようなことでしょうか。 それは、まず生活の道が第一であり、それが人間の一生のほとんどを占めています。人生の道は二の次であり、これは、苦しみに会った時や、生涯の晩年に少し考える程度ではないでしょうか。最も後回しにするのは、救いの道であり、これは、死に直面した時や、何か特別なことがあって自分の罪深さを意識した時に求めることがありますが、自分で自分を救おうとする、むなしい努力をするだけで終わってしまうのではないでしょうか。 バビロンに捕囚になっていたイスラエル人は、神の宮が廃墟となっているのに、「自分の家のために走り回ってい」ましたが(ハガイ1章9節)、これこそ、大切な人生のことも、尊い「たましい」や「霊」の救いのことも考えず、ただ生活を支えることを第一として生きている罪深い生き方です。 三、神の道 これに対して、神が思い、また考える道は、どのようなことでしょうか。 それは、救いの道を第一とすることです。その救いは、神の招きに応じて(1節)、主を求め(6節)、その無代価の恵みにあずかり(1節)、罪を悔い改め、主に立ち返って、豊かに赦される(7節)という人の思いもよらない驚くべき救いです。 そしてこの救いを受けた人のみ、「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになる」(第一ペテロ4章2節)という人生の道が分かってくるのです。 生活の道は、神のみこころにかなった人生を送るために必要な手段として、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)という神の約束を信じて歩むことができるのです。
2008.02.10
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「アベルの道とカインの道」 甲斐慎一郎 創世記、4章1~8節 「ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました」(ユダ11節)。 カインとアベルの姿から私たちの前に置かれた「二つの道」すなわち「アベルの道」と「カインの道」について学んでみましょう。 一、他の人への態度に表れた違い(8節) 1.その行為の違い カインは最初の迫害者であり、アベルは最初の殉教者です。このことを私たちに当てはめるなら、実際に人を殺さなくても、罪を犯して人に迷惑をかけ、良いことを破壊する人はカインであり、実際に人に殺されなくても、正義と人の徳を建てることのために自らを犠牲にする人はアベルです。 2.その言葉の違い カインがアベルを殺したのは、弟の正しい言葉を封じるためではないでしょうか。正義の言葉を嫌い、それを封じようとする人はカインであり、たとえ殺されても、正義の言葉を語り続ける人はアベルです(ヘブル11章4節)。 3.その思い(心)の違い カインは、弟に対して憎しみの心を抱き、アベルは、兄に対して愛の心を持っていたのです。 二、神への礼拝に表れた違い(3~7節) 1.その信仰の違い 神へのささげ物としてカインは「地の作物」を、アベルは「羊」を持ってきました。地の作物は、自己の手のわざを表し、パリサイ人の祈りと同じです(ルカ18章11、12節)。これに対してアベルは、取税人のように自分の罪を知って(同18章13節)、身代わりの羊を持ってきました。すなわちカインは、罪を犯した両親(アダムとエバ)のように「いちじくの葉」を身に着けたことと同じことをし、アベルは、神が備えられた「皮の衣」を着たことと同じことをしたのです(創世記3章7、21節)。ここに彼らの信仰の違いがありました。 2.その献身の違い カインは、ただ地の作物を持って来ただけですが、アベルは、すべてのものが神のものであることを表すために「初子」を、そして神を第一とすることを表すために「最良のもの」を、さらに自分をささげることを表すために「自分自身で、持って来た」のです(4節)。ここに彼らの献身の違いがありました。 3.その服従の違い カインは、神に受け入れられなかった時、そのことを反省し、心から悔い改めて、受け入れられるように、神に祈り求めることもできたはずです。しかし彼は、ひどく怒って顔を伏せるだけでした。またカインは、この時、「正しく行っていないから受け入れられない」という神の譴責も、「罪が近づいてあなたを慕っているから危険である」という神の愛の警告も、「罪に打ち勝つべきである」という神の救いの勧告も退けてしまいました(7節)。彼の不服従は二重です。 三、自らの人格に表れた違い(2節) しかし「カインが土を耕す者となり、アベルが羊を飼う者となったのは、決して偶然ではなく、彼らの性質や意志がそうさせたのです」(A・イーダーシャイム)。 1.その思いの違い カインの「思いは地上のことだけ」でした(ピリピ3章19節)。しかしアベルは、「天の故郷にあこがれていたのです」(ヘブル11章16節)。 2.その言葉の違い カインは、「地から出る者」として「地のことばを話す」者でしたが(ヨハネ3章31節)、アベルは、「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11章13節)。 3.その行為の違い その結果、カインは、「地に属し」(ヨハネ3章31節)、地のものを楽しむために土を耕す仕事を選びましたが、アベルは、天の御国に向かう「旅人であり寄留者」(第一ぺテロ2章11節)として、寄留者のわざである羊を飼う仕事を選んだのです(農業を否定しているのではなく、思いが地上のことだけで、次に来る世のことなど考えず、この世をすべてとする生き方から選ぶ仕事を否定しているのです)。
2008.02.07
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「信仰と摂理」 甲斐慎一郎 創世記、45章1~9節 真の信仰は、人間的な固定観念にとらわれないことであることを学びましたが、これは信仰の消極的な面であり、積極的な面は、神の摂理を信じることです。 摂理という言葉の語源は、「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」(創世記22章14節)からきており、一言で言えば、「神の予知による人間への神の配慮」です。ヨセフの生涯から、信仰の積極的な面である「神の摂理」について学んでみましょう。 一、過去と神の摂理について 「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです」(8節)。 ヨセフは、春秋に富む身でした。しかし兄たちの嫉妬によって、17歳の時、エジプトに奴隷として売られてから、30歳の時、エジプトの支配者になるまでのヨセフは、青春を踏みにじられ、全く狂わされた生涯を送りました。こうなったのも、もとはと言えば、兄たちのせいでした。 私たちの場合、事情は違っても、私たちの生涯を狂わせたような様々なハンディキャップ(不利な条件)があります。それは先天的な性質や体質の弱さかもしれません。また後天的な不幸な環境、また悪い人によって狂わせられた不運な人生かもしれません。ともあれ過去において起きたことですが、今に至るまで私たちを悩ませ、私たちの生涯を狂わせているようなハンディキャップや忌まわしい過去というものを、だれでも持っています。 この過去の忌まわしい出来事の中で、自分の罪は十字架によって赦されたことを信じるなら救われますが、自分のせいではない様々なハンディキャップや不運な人生は、神の摂理として信じていく時、その解決と救いがあるのです。 二、現在と神の摂理について ヨセフは、エジプトに奴隷に売られても、また牢獄に入れられても、自らの不運な生涯をいたずらに嘆くことなく、喜々として働いているだけでなく、他の人を慰めることができるほど恵みに満ちあふれていました。これは、神の摂理を信じなければ、到底不可能なことです。 このように神の摂理を信じていく時、私たちは、神よりそれぞれに与えられている奉仕や義務に専念することができ、また他の人をも建て上げていくことができます。しかし、それだけでなく、この神に仕え、義務の道からそれずに歩んでいくことが、また神の摂理の道を歩むことになるのです。 しかし私たちが神の摂理を信じなければ、自分の不運な生涯が、ただ残念で、口惜しく、情けないと嘆くだけでなく、いつまでも神と人への恨みや憎しみを持ち続け、それが事ある度に爆発して、罪を犯してしまうことでしょう。その結果、神と人への奉仕や義務をないがしろにし、ついには神の摂理の道からはずれて、滅びの道に行ってしまうのです。 三、将来と神の摂理について 「神は必ず、あなたがたを顧みてくださるから……私の遺体をここから携え上ってください」(創世記50章25節)。 過去におけるすばらしい神の摂理を体験したヨセフは、たとい現在は、暗黒と苦難の中にあっても、神の摂理を信じて、ひたすら神に仕え、義務の道を歩んでいくなら、神が必ず顧みて、イスラエルに輝かしい将来があることを知っていました。このように神の摂理を信じる人は、将来に対して明るい希望を抱くことができるのです。 私たちは、自分のせいではない様々なハンディキャップや忌まわしい過去の出来事を、神の摂理として信じていく時、現在は、神に対する愛が与えられて、喜々として神に仕え、義務の道を歩むことができ、将来は明るい希望に満ちあふれるのです。
2008.02.04
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「信仰と固定観念(3)」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、6章1~6節 先回まで2回に分けて、ナアマンが固定観念にとらわれていたことを学びましたが、イエスの郷里であるナザレの人たちは、イエスに対して先入観を抱いていました。先入観も一種の固定観念です。それで、「信仰と固定観念」の3回目は、「信仰と先入観」について考えてみましょう。 イエスは、ガリラヤ伝道の初期に郷里であるナザレに行かれました。イエスの説教を聞いた郷里の人たちは、初めはイエスをほめましたが、すぐにイエスを軽蔑しました。そして、「イエスを町の外に追い出し……丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」のです(ルカ4章29節)。 しかしイエスは、このようなひどい目に会われながらも、約一年後にもう一度、郷里であるナザレに行かれました。 一、郷里の人たちの驚き(1、2節) イエスは、安息日になったとき、会堂で教え始められました。それを聞いた多くの人々は驚いて言いました(2節)。 「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう」(2節)。 人は、どのような時に驚くでしょうか。様々な場合がありますが、おもに次の三つです。 1.人は、恐ろしい目に会う時に驚く。 2.人は、期待していなかった人が予想外のすばらしいことをして感嘆する時に驚く。 3.人は、期待していた人がその期待に反することをして裏切られたと思う時に驚く。 郷里の人たちが驚いた理由は、第二番目です。すなわち彼らは、期待もしていなかった同郷の人であるイエスの知恵のある言葉を聞き、力あるわざを見た時、それが余りにもすばらしかったので感嘆したのです。 二、郷里の人たちのつまずき(3、4節) ところが郷里の人たちは、イエスに感嘆した直後、「この人は大工ではありませんか。マリヤの子……ではありませんか」と言って「イエスにつまず」きました(3節)。なぜ彼らは、つまずいたのでしょうか。 1.なれ 人間関係は、初対面の時は、新鮮なものを感じても、次第になれて何も感じなくなり、親しくなりすぎると礼儀を欠くようになり、最後は侮るようにさえなります。 2.先入的な心(考え、感じ、願い) (1)先入的な考え――前もって抱いている思考で、いわゆる先入観です。 (2)先入的な感じ――前もって抱いている感情で、先入感(?)です。 (3)先入的な願い――前もって抱いている願望で、先入願(?)です。 郷里の人たちは、イエスをよく知っていたので、慣れっこになっていただけでなく、侮るようにさえなっていました。それに加えて、イエスに対して同郷のよしみから、先入的な考えと感じと願いにとらわれていたので、それとは違ったイエスの姿を見た時、裏切られたと思って、つまずいたのです。 三、郷里の人たちの不信仰(5、6節) 「イエスは彼らの不信仰に驚かれ」ましたが(6節)、ここに郷里の人たちの根本的な問題がありました。彼らがイエスに驚嘆している間は、イエスと自分たちとの違いを認めていたのですが、彼らの「なれ」と「先入的な心」は、イエスと自分たちとの違いを認めることを決して許しませんでした。 自分たちとは違う偉大な神であられるイエスを信じるのが信仰です。これに対して自分たちとは違う偉大な神であられるイエスを認めず、自分たちと同じ程度(レベル)までイエスを引き降ろすのが不信仰です。 「なれ」や「先入的な心」のない人はいないでしょう。信仰は、それを乗り越えるものですが、不信仰は、かえってそれを助長してしまうのです。
2008.02.01
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