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「聖書が教える国家の建設(1)宗教と国家の建設」 2014年6月26日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月25日放映「聖書に親しむ」 「聖書が教える国家の建設(1)宗教と国家の建設」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章15節 「この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)。 一、健全な国家が建設されなければ、国民は安心して暮らすことができません 私たち人間は様々な生活をしています。すなわち衣食住の生活をはじめ、学生が送る学校生活、社会人が送る社会生活、そして仕事をしなくてもよい時間に行うすべてのこと、たとえば休息や保養、旅行や娯楽(レクリエーション)、趣味や運動、音楽や芸術等々の余暇の生活です。 私たちは、このような日常生活を送ることができるのは当たり前と思っているかもしれません。しかしこれは、社会の治安が維持され、戦争のない平和な日本に住んでいるからこそ可能なのです。もし社会の治安が乱れたり、外国との戦争や国内での内乱が起こったりするなら、日常生活を送ることはおろか、生きていくことさえできなくなります。私たちは、改めて健全な国家が建設されることがどんなに大切であるかを知らなければなりません。 キリストは、郷里のナザレにおいて説教をされました(ルカ4章16~30節)。その説教は、「捕われ人には赦免を」「盲人には目の開かれること」「しいたげられている人々を自由にし」「主の恵みの年を告げ知らせる」というものでした(イザヤ61章1、2節)。「捕われ人には赦免を」は政治的な救いを、「盲人には目の開かれること」は肉体的な救いを、「しいたげられている人々を自由にし」は社会的な救いを、「主の恵みの年を告げ知らせる」は霊的な救いを教えています(18、19節)。キリストの福音は、個人を罪から救う霊的な救いですが、それは、心(知性と感情と意志)を変える精神的な救いや、病をいやす肉体的な救いをもたらし、また貧しい人たちを援助する経済的な救い、さらに世の中をよくする社会的な救い、そして国家を変える政治的な救いにまで及んでいくのです。 二、健全な国家を建設するためには、外的規範と内的規範の両者が必要です 「法律」は、個人の権利と利益、また公共の福祉と安全、そして国家の秩序と平和を守るために制定されたもので、人間の外側に表れた行為を取り締まります(外的規範)。その「法律」を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その「倫理・道徳」を守るようにさせるものが「思想・信条・宗教」です(内的規範)。冒頭の図は、この三つの関係を教えています。 三、国家と外的規範、内的規範の関係には、基本的に三つのものがあります 1.国粋主義(右翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために内的規範(思想や信条や宗教)を定めます。これは政教一致です。 2.共産主義(左翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために、宗教を否定し、思想(共産主義の思想)や信条を定めます。これも政教一致です。 3.民主主義の国家 国家は法律(外的規範)を制定するだけで、思想や信条や宗教(内的規範)は国民が自由に選ぶことができます。すなわち信教の自由があり、これは政教分離です。国家は内的規範には一切干渉しませんが、国民は法律(外的規範)を守る義務があり、それを犯せば罰せられます。 民主主義の国家が生まれる以前は、どの国も国家と宗教が協力した「政教一致」です。それで日本では「政治」のことを「政(まつりごと)」と言います。「まつりごと」は「祭り事」すなわち「神を祭ること」で、「政教一致」を表しています。 「政教一致」であれ、「政教分離」であれ、宗教なしに国を治めることはできず、古今東西を問わず、宗教(共産国は思想)なしに国家を建設した国は、一つもないのです。次回は2014年7月3日「聖書が教える国家(2)人間観と神観と国家観」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.06.25
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「万物の改まる時を待ち望みなさい」 2014年6月19日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月14日放映「主のことばを聞く」「万物の改まる時を待ち望みなさい」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章19~26節 ペテロは、無知のためとはいえイエスを引き渡し、拒み、殺したイスラエル人に対して人知をはるかに越えた神の救いのご計画を心を込めて語りました(13~18節)。 一、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさいとイスラエル人たちに勧めたペテロ(19節) ペテロは、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」と勧めました(19節)。これを聞いた人々は、無知のためとはいえ人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君であるイエスを殺した大罪さえも、ぬぐい去られることを知って、神の愛の深さに感動したのではないでしょうか。 二、万物の更新はイエスの再臨の時まで待たなければならず、このことは預言者たちが預言していたと語ったペテロ(20~24節) ペテロは、イスラエル人が神に立ち返ることは、彼らひとりひとりの罪がぬぐい去られるという個人的な救いを受けるだけでなく、「回復の時」(20節)、そして「万物の改まる時」(21節)という遠大な神の救いのご計画が完成することでもあると述べています。 ペテロは、この箇所において三段階の救いを述べています。第一段階は、イスラエル人が悔い改めて、神に立ち返るなら、彼らの罪がぬぐい去られることです。第二段階は、「主の御前から回復の時が来」ること(20節)、すなわちイスラエルの家が回復することです。第三段階は、「万物の改まる時」が来ること(21節)、すなわち罪に支配されている全世界が更新されることです。それは、キリストが再びこの世においでになる再臨の時です。 ペテロは、さらにことばを続けて、このことは昔からモーセやサムエルをはじめ聖なる預言者たちの口をとおしてたびたび語られたことであると主張しました(21~24節)。 「特にイスラエルの家にむかってなされたこのペテロの説教は、わたしたちに何を教えているのでしょうか。第一にまず、昔、立てられた神の目的が変ったのではないということを、はっきりと理解することができます。第二に、万物が更新されるためには、イエスの来臨を待たなければならないということもわかります。第三には、このイエスの再臨が、イスラエルの復興の時(1章6節)であろうということも知っています」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』34頁)。 三、イエスがあなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださると語ったペテロ(25、26節) ペテロは、神は万物の更新というご自身の計画の実現のために、預言者たちの子孫であり、契約の子孫であるあなたがたイスラエル人が悔い改めて神に立ち返らなければならないこと、いやイエスがあなたがたを祝福して、一人一人をその邪悪な生活から立ち返らせてくださるために神がイエスをお遣わしになったことを彼らに告げました(25、26節)。 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのはヤブ医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」(1996年6月6日、朝日新聞の夕刊、経済気象台より抜粋)。 この3章には、まず生まれながら足の不自由な男が歩いたという「病のいやし」が記されています(1~10節)。しかしペテロは、その後の説教において(11~26節)、病のいやしを強調したのではなく、注意深く人々の目をイエスとその十字架の救いに向けさせ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という「人のいやし」について語っています。そして「万物の改まる時」(21節)という「国(全世界)のいやし」について述べているのです。 次回は、2014年6月26日「聖書が教える国家(1)人間観と神観と国家観」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.06.17
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「聖書が教える聖霊の働き(2)」 2014年6月12日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月5日放映「神のことばである聖書」 「聖書が教える聖霊の働き(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章~16章 キリストは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われました(使徒一章8節)。このことばがあまりにも有名なので、私たちは、聖霊が臨まれるというと、すぐ偉大な力に満たされることだけを考えてしまいます。しかし聖霊は、私たちが力に満たされる前に、私たちの罪をきよめ、私たちを愛に満たすために働いておられます。なぜなら罪をきよめられず、愛に満たされないで、ただ力だけを振り回すのは非常に危険なことだからです。この「訣別の説教」は、力に満たされる前の聖霊の働きについて教えています。 一、聖霊の働きについて (1)誤りを認めさせる聖霊--「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16章8節)。 人はだれでも、その人なりの罪観念というものを持っており、その罪観念に違反する時、罪意識を持ち、良心の呵責に苦しみます。しかし聖霊が来られないかぎり、この罪観念そのものが自分の都合によって変えてしまう極めて身勝手なものであることに気がつきません。それで聖霊は、神とキリストを信ぜず、身勝手に生きていることが罪であることを教え、その誤りを認めさせるのです。 (2)キリストをあかしする聖霊--「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)。 今までの誤りを認めさせ、神の前に罪人であることを自覚させるのは聖霊ですが、罪を自覚した人に、その罪からの救い主キリストを指し示すのが聖霊です。サタンは、罪を責めるだけで、人を自暴自棄に陥れますが、聖霊は罪を自覚させるだけでなく、その罪からの救い主キリストをあかしします。聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と教えています(第一コリント12章3節)。 (3)神のことばを思い起こさせる聖霊--「聖霊は......わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14章26節)。 信仰の土台は神のことばです。私たちは信仰を持つために神のことばを信じなければならず、そのために神のことばを思い起こさなければなりません。救い主キリストを指し示すのが聖霊ですが、そのキリストを信じて救われるために神のことばを思い起こさせるのが聖霊です。聖書は、「弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」と教えています(2章22節)。 (4)真理に導き入れる聖霊--「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16章13節)。 キリストは、聖霊にすべての期待をかけておられました。なぜならキリストでさえも聖霊が来られないかぎり、弟子たちを真理に導き入れることはおできにならなかったからです。聖書は、「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」と教えています(第一コリント2章11節)。 (5)心の中に住まわれる聖霊--「その方(聖霊)はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(14章17節)。 私たちを真理に導き入れるのは聖霊ですが、それとともに神が私たちのうちに住むようにさせるのも聖霊です。そして聖霊が私たちの心を支配される時、私たちは、罪がきよめられ、神の愛が心に注がれるとともに(ローマ5章5節)、奉仕の力にも満たされるのです。 二、人間のなすべきことについて この聖霊の働きに対して私たちのなすべきことは、次のようなことです。 (1)聖霊を悲しませたり、消したりしないことです(エペソ4章30節、第一テサロニケ5章19節)。 (2)御霊によって祈り、内なる人が強められることです(ローマ8章26節、エペソ3章16節)。 (3)御霊の声に従い、御霊に導かれて進むことです(使徒8章26~39節、16章6、7節)。次回は、2014年6月19日「万物の改まる時を待ち望みなさい」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.06.11
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「聖書が教える聖霊の働き(1)」 2014年6月5日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年10月3日放映「三つの選択」 「聖書が教える聖霊の働き(1)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章17~36節 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(17節)。 一、旧約時代における聖霊の働き サムソンは、イスラエルをペリシテ人の手から救うという自分の使命を自覚して、情欲に負けず、ナジル人の誓いを守っている間は、「主の霊が激しく彼の上に下って」(士師記14章6、19節、15章14節)、驚くべきわざを行いましたが、彼が自分の使命を忘れて情欲に負け、ナジル人の誓いを破った時、主の霊の力を失ったと聖書は教えています(同16章20、21節)。 またサウルは、サムエルを通して語られた神のことばを聞いた時、「神の霊が彼の上に激しく下」り、預言者の一団といっしょに預言する「新しい人に変えられ」たと聖書は教えています(第一サムエル10章10、6節)。しかしサウルの上に主の霊が激しく下り、新しい人に変えられたことは、新約聖書が教えている「新しく生まれ」る(ヨハネ三章3、7節)ことと全く同じではありません。確かにサウルの「心、すなわちその感情と動機と意志の源は、ただちに一変し、彼は全く以前とは異なった思想と目的と希望を持つ新しい人に変えられました。しかしこの旧約における新しい人と新約における新しく生まれた人との相違は明白です。......前者は、ただ神の霊によって大きな感化を受けた人に過ぎませんが、後者は、聖霊が直接的に心の中に働かれて変えられた人なのです」(A・イーダーシャイム )。これはサムソンにおいても同じです。 二、新約時代における聖霊の働き ペテロと使徒たちは、キリストが地上におられた間はキリストが語られた十字架と復活のことも、キリストにおいて成就した預言のことばも全くわかりませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節)。ところがペテロは、キリストが昇天されてからダビデが書いた詩篇のことばを引用し(1章16~20節)、旧約聖書とキリストに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(17節)と説教しました。 「幻」や「夢」について聖書は、次のようなことを記しています。 (1)「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)。 (2)「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)。 (3)「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)。 (4)「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、協会訳は預言)。 これらのことばから、「幻」や「夢」は、神の啓示、すなわち神のことばであることがわかります。聖霊に満たされると、聖書の真理が分かり、あかしをする力を受けてキリストの証人となるのです(1章8節)。さらにペテロは、ことばを続けて、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(33節)と、聖霊によらなければ分からない神のことばを説教したのです。 キリストが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」るためであり(ヘブル1章3節)、それは、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためです。 私たちは、罪を悔い改め、キリストは私たちの罪のために死に渡されたと信じるなら、聖霊によって新しく生まれ、さらに「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(ローマ6章6節)と信じるならば、聖霊によって心の中の罪が「きよめ」られ(15章9節)、「神の愛が......心に注がれ」(ローマ5章5節)、キリストをあかしする「力を受け」る(1章8節)とともに、「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くのです(第二コリント3章18節)。次回は、2014年6月12日「聖書が教える聖霊の働き(2)」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.06.04
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