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「信仰に成長する秘訣(1)信仰を成長させる三要素」 2014年11月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」「信仰に成長する秘訣(1)信仰を成長させる三要素」 甲斐慎一郎 創世記、50章20節 パウロは、「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し」、「この希望は失望に終わることが」なく、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と述べています(ローマ5章3~5節)。 一、忍耐を生じさせる信仰 聖書は「信仰がためされると忍耐が生じる」と教えています(ヤコブ1章3節)。 ヨセフは、祖先から良い信仰を受け継ぎ、神を愛し、罪を憎む青年でしたが、彼の温室育ちの信仰は、嵐が吹き荒れる厳しい現実の世界で試されなければなりませんでした。 ヨセフは、兄たちに妬まれて穴に投げ込まれましたが、まず孤独に耐えなければなりませんでした。そしてエジプトに売られて奴隷になりましたが、次にしもべとして人に仕える忍耐を学ばなければなりませんでした。さらにポティファルの妻に無実の罪を着せられて、投獄されましたが、第三に中傷や非難を耐え忍ばなければなりませんでした。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第一の要素は忍耐です。信仰は、「見えないものを確信させる」もので(ヘブル11章1節)、神の約束と保証に立って、遠くの良いことを見ることです(同11章13節)。決して霊的な近視眼ではありません。ですから現在の一時的な孤独や苦難の中でも、つぶやかず、疑わずに、忍耐をもって黙々と神と人とに仕えていくことができます。信仰は、人を焦らせず、性急にさせずに、神のよしとされる時まで耐え忍ばせるものなのです。 二、希望を生じさせる信仰 聖書は、「信仰により……望みを熱心に抱いて」と記しています(ガラテヤ5章5節)。 ヨセフは、兄たちによって穴に投げ入れられる時には、理解することができずに苦しみましたが、エジプトに奴隷に売られてからは、嘆いたり、つぶやいたり、くよくよしたりせずに、喜々として働いています。また無実の罪を着せられて牢獄に入れられても、嘆いたり、つぶやいたり、くよくよしたりせずに、かえって人を慰め、励ましています。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第二の要素は希望です。ヨセフは、兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」と言いました(20節)。彼は、人が思い図る「悪い計略」の中に神による「良い計画」が組み込まれており、この二つを正しく支配しているのが「神の摂理」であることをよく知っていたので、「悪い計略」に負けることなく、希望を抱いて生きていくことができました。信仰は、どのようなことがあっても、神の摂理を信じて希望的な観測をするのです。 三、愛を生じさせる信仰 聖書は「愛によって働く信仰だけが大事」であると教えています(ガラテヤ5章6節)。 ヨセフは、過去を回顧し、兄たちの嫉妬やポティファルの妻の中傷や献酌官長の忘恩など、人間の罪や失敗をも凌駕して余りある神の支配と導きを現実に見ながら、今さらのように神の愛の広さ、長さ、高さ、深さの計り知れないことを知って感激したにちがいありません。この神の愛を現実に知ったヨセフは、兄たちに対して恨みや復讐心などはみじんもなく、ただあるのは赦しと愛だけでした。 信仰が厳しい現実の世界で生かされていくための第三の要素は愛です。ヨセフは、その人の信仰の有無を問わず、周囲の人は、自分の姿を写す「鏡」(箴言27章21節)、自分を磨く「砥石」(同27章17節)、神に仕えるための「相手(対象)」(マタイ25章40、45節)であることを知ったのです。しかしこれは、自尊心が強く、体面を重んじ、誇りの高い人には受け入れがたいものです。ただヨセフのように、様々な逆境や苦難を通されて、謙遜と自己否定を学んだ人のみ愛と感謝をもって受け入れることができるのです。次回は、2014年12月4日「信仰に成長する秘訣(2)信仰を形造る三要素」甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.11.26
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「信仰の妨げ(3)世への愛着」 2014年11月20日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」「信仰の妨げ(3)世への愛着」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、2章15~17節 「世への愛着」について学んでみましょう。 一、聖書が教えている世の意味について 「世」または「世界」と訳されている原語のギリシャ語は「コスモス」で、聖書が教えている「世」には、四つの意味があります。 1.「世界が存在する前に」(ヨハネ17章5節)、「世界が創造された時からこのかた」(ローマ1章20節)――これは、宇宙や世界を意味しています。 2.「神は……世を愛された」(ヨハネ3章16節)――これは、この世界に住む人間や人類のことを表しています。 3.「人は、たとい全世界を手に入れても」(マタイ16章26節)――これは、この世の事柄や所有物のことを指しています。 4.「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(第一ヨハネ2章15節)――これは、神を離れた世界、すなわち神と十字架と真理に敵対している世界を意味しています。 「キリストは、今の悪の世界(すなわち第四番目の世)から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てにな」ったのです(ガラテヤ1章4節)。 二、世への愛着の意味について 聖書は、第四番目の世を愛することを厳しく禁じています。主の兄弟ヤコブは、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」と述べ(ヤコブ4章4節)、パウロは、「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」と警告し(ピリピ3章18節)、ヨハネは、聖霊が「来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16章9節)と記しています。 1.それは神に敵対することです 真の幸福や栄光、また真の喜びや楽しみなど、ほんとうに良いものは、すべて神から与えられます(ヤコブ1章17節)。これに対して偽の幸福や栄光また喜びや楽しみなど、すべての模造品や代用品など偽物を提供するのが世です。これは神に敵対することです。 2.それは十字架に敵対することです キリスト教の中心は十字架で、聖書は自分を否定し、罪深い自我が滅ぼされなければ、真の救いといのちはないと教えています(マタイ16章24、25節)。これに対して罪深い自我を滅ぼすどころか、自我をどこまでも主張して喜ばせ、高揚させて生かしていくのが世です。これは十字架に敵対することです。 3.それは真理に敵対することです 真理は永遠に変わらない絶対的なものです(ヨハネ14章6節)。これに対してこの世をすべてとし、永遠も絶対的なものも信ぜず、すべてを相対的にとらえ、刹那的、地上的、物質的、現世的な世界が世です(ピリピ三章19節)。これは真理に敵対することです。 三、世への愛着の結果について 聖書は、悪魔(サタン)は「この世の神」であり(第二コリント4章4節)、「世全体は悪い者(悪魔)の支配下にあ」り(第一ヨハネ5章19節)、この世界には神の国とそれに敵対するサタンの国があると教えています(ルカ11章18、20節)。神とその国を愛する者は、永遠のいのちに至りますが、サタンとその国を愛する者は、永遠の滅亡に至るのです。 四、世への愛着からの救いについて 次のような三つの心構えが必要です。 1.「私たちの国籍は天にあり」、私たちは、「この世のものでは」ないという自覚です(ピリピ3章20節、ヨハネ17章16節)。私たちは、「地上」すなわちこの世では、天の故郷に向かう「旅人であり寄留者」です(ヘブル11章13節、第一ペテロ2章11節)。 2.「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたの」だと信じることです(ガラテヤ6章14節)。 3.私たちは神の国から、この世に派遣された「キリストの使節」であるという自覚が必要です(第二コリント5章20節)。私たちは、旅人や寄留者以上の者なのです。次回は、2014年11月27日「信仰の効用(1)信仰を成長させる三要素」です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.11.14
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「信仰の妨げ(2)物への執着」 2014年11月13日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」「信仰の妨げ(2)物への執着」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章3~19節 次に「物への執着」について学んでみましょう。この「物への執着」と次回の「世への愛着」とを分けたのは、「物」と「世」には次のような相違があるからです。 1.「物」は、一般的に目に見えるものであるのに対して、「世」は、本質的に目に見えないものだからです。 2.「物」は、それ自体、善でも悪でもなく中性であるのに対して、「世」は、それ自体がすでに悪だからです。 3.「物」は、ただ現世において現象として存在するのに対して、「世」は、現象の背後にある霊の世界に属するものだからです。 「世」についての詳しいことは、次回に述べることとして、ここでは「物への執着」について、次のような三つのことを考えてみましょう。 一、物への執着の意味について ここで言う「物」とは、物質、また目に見えるすべての物、そしてこれらのすべての物を手にいれることができる金銭や富を指しています。物自体は中性です。しかしこの物に執着することは悪です。その理由は、 1.物は、目に見えるものですから、物に執着することは、目に見えるものに執着することです。これは、見えないものを信じる信仰とは、根本的に相反することで(第二コリント5章7節)、不信仰を意味しています。 2.物に執着することは、物欲にとらわれていることであり、これは決して満足することを知らない貪欲な心です。この貪欲ほど神と人への愛を妨げるものはないでしょう。 3.物の代表は富ですから、物に執着することは、富に執着することです。これは、富すなわちマモン(黄金の神)に仕える偶像礼拝にほかなりません(マタイ六章24節)。 二、物への執着の結果について 物に執着して身を滅ぼした人を旧約聖書と新約聖書より三人ずつ挙げるなら、次のような人たちです。 旧約聖書では、分捕り物をひそかに取ったアカン(ヨシュア記7章)、不義の報酬を愛したバラム(民数記22章)、贈り物をだまし取ったゲハジ(第二列王記5章)がいます。 新約聖書では、真のいのちのことを考えなかった愚かな金持ちの農夫(ルカ12章)、銀貨30枚でキリストを売ったユダ(マタイ26章)、地所の代金の一部を残しておいて、それが全部であるかのように聖霊を欺いたアナニヤとサッピラ(使徒5章)がいます。 彼らはみな悲惨な最後を遂げています。彼らの転落の過程をみるならば、 1.金に目がくらんで、心の眼が見えなくなっています。 2.そのために、正しく歩むことができなくなり、不正な道を歩んでいます。 3.ついには、つまずき倒れて、滅びの穴に落ちてしまいました。 三、物への執着からの救いについて 「私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもできません」(7節)というみことばは、物への執着からの救いを教えています。 1.人間は、物質ではなく、霊的な存在であるという自覚を持つことです。私たちは、神に似せて造られた不滅の霊と人格を持つ者ですから(創世記一章27節)、神との交わりにのみ永遠の喜びがあり(第一ヨハネ1章3、4節)、物では決して満足することができないのです(伝道者1章8節、5章11節)。 2.キリスト者は、地上では旅人であり、寄留者であるという自覚を持つことです(ヘブル11章13節、第一ペテロ2章11節)。すべての物の真の所有者は神であり、私たちは、神より委託された物を有効に活用し、神に報告しなければならない管理者なのです(第一コリント4章1、2節)。 3.私たちにとって最も大切なことは、永遠のいのちを獲得することです(12節)。なぜなら、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得」もないからです(マタイ16章26節)。次回は2014年11月20日「信仰の妨げ(3)世への愛着」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.11.11
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「信仰の妨げ(1)人への恐れ」 2014年11月6日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月7日放映「神に会う備え」 「信仰の妨げ(1)人への恐れ」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、13章 物事には多くの場合、両面があります。すなわち表と裏、または積極面(プラス面)と消極面(マイナス面)です。信仰の成長も同じであり、成長するために励むプラスの面と成長を妨げるものを取り除くマイナスの面があります。 ボートをどんなに一生懸命に漕いでも、ロープが杭につながっていたのでは前進しないように、私たちは、どんなに信仰に励んでも、それを妨げるものを断ち切らなければ、信仰に成長することはできません。私たちの信仰を妨げるものは数多くありますが、代表的なものは、次のような三つのものではないでしょうか。1.信仰の妨げ(1)--人への恐れ2.信仰の妨げ(2)--物への執着3.信仰の妨げ(3)--世への愛着 まず人への恐れについて学んでみましょう。 一、人への恐れの現れについて サウルは、13章と15章において一つずつ罪を犯しています。第一は、祭司しかしてはならないことを敢えて行った越権行為であり(13章13節)、第二は、勇気をもって神の命令を遂行しなければならない時に、民の声に負けて、神に従わなかった臆した行為です(15章19節)。 このような罪を犯した原因を調べてみましょう。聖書は、サウルは次のような4つのことを恐れたと教えています。1.民が自分から離れて行くこと(11節)2.敵が自分を攻撃して来ること(12節)3.自分の人気が落ちること(15章24節)4.自分の面目が失われること(15章30節) このようなことはみな、人への恐れの現れであるということができます。 私たちは、神に従うことよりも、人々が自分を離れ去ったり、迫害したりしないように、また自分の人気や面目が失われないようにすることのほうを選ぶなら、人を恐れている証拠です。 このように人を恐れている人は、神を第一にして神の前に正しい姿になることを捨ててまでも、人間の前で良い顔をし、人に良く思われようとするのです。 二、人への恐れの結果について サウルは、人を恐れることによって忍耐を失い、またあせり、ついに越権行為をしただけでなく、民のご機嫌をとり、人々の声に負けて、神の命令を行うことに臆してしまいました。このように人間は、人を恐れると、出過ぎた余計なことをし、しかも必要で肝心なことができなくなってしまうのです。このしてはならないことをし、しなければならないことをしないことこそ罪です。 この罪を犯した後のサウルの生涯は、堕落の下り坂を転がりながら、霊媒をする女性に尋ねたことが致命傷になり(第一歴代誌10章13、14節)、ついに真っ逆さまに滅亡の淵に落ちてしまったのです。人を恐れたサウルの生涯の末路は、何と悲惨なことでしょうか。 三、人への恐れからの解決について サウルがこのような悲惨な最後を遂げたのは、罪を犯した後、なおも神を恐れず、人を恐れたために、真の悔い改めをしなかったからです(15章30節)。しかしダビデは、サウルに劣らない、いやそれ以上の姦淫と殺人という大罪を犯しましたが、その後、人を恐れず、神を恐れて、全く悔い改めたので、罪を赦されて立ち直ったのです。 私たちが人を恐れるのは、人の前に生き、神の評価よりも人の評価のほうを重要視するからです。私たちの永遠の運命は、人の前にどのような姿であるかによってではなく、神の前にどのような姿であるかによって決まります。ですから私たちにとって最も大切なことは、私たちの生涯のすべてをさばかれる神を恐れ、その神の前に歩むことなのです(伝道者12章13、14節)。 次回は2014年11月13日「信仰の妨げ(2)物への執着」です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.11.04
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