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「過去を変えてこそ将来がある」 2014年12月25日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」「過去を変えてこそ将来がある」 甲斐慎一郎 イザヤ書、44章22節 私たちは、一年を終える時、今までのことを回顧します。そして失敗したり、罪を犯したりした悪かった過去を反省し、新しい年こそ同じ失敗を繰り返さず、やり直そうとするのではないでしょうか。 そのような時、ほとんどの人たちは「過去は変えられないが、未来は変えられる」と信じて、そのようにするのではないでしょうか。しかし聖書は「過去を変えてこそ、将来があり、過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。なぜでしょうか。 一、二種類のこれからの時(未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来」および「到来」と呼んで区別しました。 ◆未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ◆将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) 前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類のいままでの時をそれぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ◆過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ◆由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、過去―現在―未来という生き方 もし私たちが、いままでの時を過去としてしかとらえることができなければ、悪かった過去も良かった過去も、すでに過ぎ去って人の手が届かない、今さらどうすることもできないものとなるので、それを改めて現在という時に生かすことができません。その結果、これからの時を未来としてしかとらえることができず、絶望と不安に陥るのです。 神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェスレー)。人間も過去のことは、今さらどうすることもできず、未来のことは、来ないかもしれない不確かですから、神の前においては、過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。ですから聖書は、「過去を変えられなければ、将来はない」と教えているのです。 四、由来―今―将来という生き方 もし私たちが神を心から信じて、いままで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられたいままでの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。しかし神には、それができるのです。 「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(同44章22節)。 神は、キリストの十字架による贖いによって、私たちの罪をぬぐい去ることができるので、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くという将来があるのです(第二コリント3章18節)。次は2015年1月1日(木)「古代ヘブル語の時制概念」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.12.25
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「マリヤの夫ヨセフ」 2014年12月18日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月22日放映「真の生きがい」 「マリヤの夫ヨセフ」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、1章18~25節 ヨセフは、「ダビデの家系であり血筋でもあった」家柄のいい青年で、いいなずけのマリヤと結婚しようとしていた春秋に富む身でした(ルカ2章4、5節)。 一、婚約者のマリヤが自分と一緒にならないうちに身重になったことがわかり、内密に離縁しようと決めたヨセフ(18、19節) ところが、マリヤが自分と「まだいっしょにならないうちに……身重になったことがわか」りました(18節)。マリヤとの新しい門出を前に期待に胸ふくらませていたヨセフにとって、まさに晴天の霹靂でした。ヨセフは、胸をかきむしられるような思いをしたのではないでしょうか。なぜなら石打ちの死刑にしてマリヤをさらし者にするか(申命記22章23、24節)、内密に離縁するかのどちらかを選ばなければならなかったからです。 神の御前に正しい人であるヨセフは、自分の子ではない子を宿した「彼女をさらし者にはしたくなかったので」、断腸の思いで「内密に去らせようと決めた」のです(19節)。 二、マリヤが聖霊によってみごもったことを告げた主の使いに命じられたとおりに彼女を妻として迎えたヨセフ(20~25節) ヨセフがマリヤと離縁することを心に決め、「このことを思い巡らしていたとき」、主の使いが夢に現れて、「その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と告げました(20節)。 ヨセフにしてみれば、婚約者のマリヤが自分の子ではない子を宿した事実を認めることも、またその事実をうやむやにせず、離縁を決心することも、心を引き裂かれるほどつらく、苦しいことであったにちがいありません。しかし彼は、どんなにつらく、苦しくても、現実から目をそらしたり、逃避したりせずに、最善の方法によって対処しようとしました。 神は、このようなヨセフに聖霊による処女懐胎という全く新しい事実を示し、彼が妻マリヤを迎えるという思いもよらない全く新しい道へと導かれたのです(24節)。 三、マリヤが産んだ幼子イエスを羊飼いたち、シメオンとアンナ、東方の博士たちが救い主としてあがめるのを目の当たりにしたヨセフ(2章9~11節、ルカ2章15~38節) マリヤが幼子を産んだ時から不思議なことが次々と起こりました。まず羊飼いたちが訪ねて来て、神をあがめ、賛美しました。次にヨセフとマリヤが幼子を主にささげるために神殿に行った時、シメオンとアンナが神をほめたたえ、感謝をささげました。最後に東方の博士たちが来て、ひれ伏して幼子を拝みました(2章9~11節、ルカ2章15~38節)。 ヨセフは、彼らがみな幼子を救い主としてあがめているのを目の当たりにして、自分たちが救い主の両親に選ばれたことを改めて知り、厳粛な思いに満たされたことでしょう。 四、ヘロデが幼子イエスを殺そうとしたので、エジプトへ逃げ、ヘロデが死んだ後、ナザレという町に住み、そこでイエスの成長を見守ったヨセフ(2章13~23節) 東方の博士たちが帰って行った後、恐ろしいことが起こりました。ヘロデ王がイエスを自分の王位を脅かす敵として殺そうとしたのです。主の使いの御告げでこのことを知ったヨセフは、ほうほうの体でエジプトへ逃げました。しかし自分たちの代わりに何も知らない幼児たちが虐殺されたことを知り、どんなに心を痛めたことでしょうか。ヘロデが死んだ後、ヨセフはイスラエルの地に入り、ナザレという町に住みました(2章13~23節)。 ヨセフは、神の御子の法律上の父として選ばれました。そのために婚約者のマリヤが神の御子を産むためとはいえ、また神から託された御子を守るためとはいえ、剣で胸を刺し貫かれるような苦しみと悲しみを味わいましたが、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と、主のことばに従い、神の使命に生きた人です。 新約聖書は、その後のヨセフについて何も記していません。ナザレにおいてイエスの成長を見守り、おそらくイエスが公生涯にはいる前にこの世を去ったと思われます。次回は、2014年12月25日「イエスの母マリヤ 」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.12.17
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「信仰に成長する秘訣(3)信仰を建て上げる三要素」 2014年12月11日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」 「信仰に成長する秘訣(3)信仰を建て上げる三要素」 甲斐慎一郎 出エジプト記、3章6節 真の信仰を形造る三要素は、敢行と忍耐と熱望ですが、敢行は獲得力、忍耐は持久力、熱望は推進力ということができます。この三つの力の均衡が取れていくことが自らの信仰の成長と人間関係の問題を解決する鍵です。 一、信仰の成長を妨げるもの 人間関係の問題は、語る資格がなく、神と人に仕えず、行動が伴わない人が不当に人を非難する時に起きます。 敢行に表れるアブラハム型の人は、忍耐の欠如によって厳しく人を批判する危険性がありますが、それ以外は、神のことばを信じて敢えて行う行動が伴うので、この点においては問題は少ないということができます。 忍耐に表れるイサク型の人も、忍耐の偽物である怠慢に陥る危険性はありますが、行動が伴わないことは批判しないので、この点においては問題は少ないということができます。 しかし熱望に表れるヤコブ型の人は、忍耐の欠如による失敗のほかに、イスラエル人のように「その熱心は知識に基づくものでは」ない(ローマ10章2節)という問題をはらんでいます。すなわち熱望は、まだ心の段階で、行動に移る敢行の一歩手前ですから、行動が伴わず、口先だけの熱心になりやすいのです。たとえ行いが伴ったとしても、目的を得るためには手段を選ばない行動に陥りやすいところがあります。 ヤコブは、父イサクと兄エサウを欺いたので、伯父ラバンと子どもたちに欺かれています。彼は、「私のたどった年月は130年で……ふしあわせで」(創世記47章9節)と述懐しているのも無理からぬことでしょう。ヤコブは、知識に基づかない熱心さのゆえに、貧乏くじを引くまいと焦りましたが、結果的には、神によって貧乏くじをひかされているかのようです。それにもかかわらず、「ヤコブの神」と言われる祝福を受けたのは、ただ計り知れない神の恵みによるのです。 二、信仰を建て上げる三要素 信仰者の務めは、人をつまずかせず、人の徳を高めていくことです(ローマ14章1、19節、15章1、2節)。信仰の弱い者をつまずかせるのは、敢行や熱望の欠如よりも、忍耐の欠如によることが多いということができます。堪忍袋の緒が切れて、怒りが爆発する時、人をつまずかせるからです。その時、加害者は、信仰の強いアブラハム型やヤコブ型の人が多く、被害者は信仰の弱いイサク型の人が多いのではないでしょうか。 被害者は、心の中で加害者を赦せばよいのですが、加害者は、被害者に謝罪するまで罪は赦されません(マタイ5章22~26節)。アブラハム型やヤコブ型の人は、不得手な忍耐を身につけていくことによって信仰が成長し、円熟していきますが、それまでの間、忍耐の欠如によって弱い者をつまずかせる危険性があります。信仰の弱い者をつまずかせる罪は決して小さくありません(マルコ9章42節)。イサク型の人は、不得手な敢行や熱望を身につけていくことによって信仰が成長し、円熟していくので、信仰の弱い者をつまずかせる危険性は小さいということができます。 現実の世界は、どれほど敢行と熱望の信仰をもって奉仕しても、一朝一夕にできるものではなく、いつも物事が順調に運ぶとは限らず、必ず苦難があり、忍耐を要することが多いもので、完成するまで、神のお取り扱いを受けて、砕かれ、教えられ、学ばなければならない多くの信仰の学課があります。 旧約時代のヨセフは、まず孤独と人に仕えることと中傷や非難を耐え忍んだからこそ、立派な指導者になり得たのです。指導者の運命また十字架は、この孤独と人に仕えることと中傷や非難を受けることです。どのような信仰の型の人であれ、神はヨセフのように、(1)まず忍耐、次に希望、最後に愛を学ばせ、(2)そこから生じる健全な熱望と敢行を身につけさせることによって、(3)他の人をつまずかせず、人の徳を高める器に私たちを造られます。 これこそ信仰を建て上げる三要素です。次回は2014年12月18日「マリヤの夫ヨセフ」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.12.11
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「信仰に成長する秘訣(2)信仰を形造る三要素」 2014年12月4日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 「信仰に成長する秘訣(2)信仰を形造る三要素」 甲斐慎一郎 出エジプト三章6節 世の中には様々な問題や課題が絶えませんが、その中で人間関係の問題ほど複雑で厄介なものはないでしょう。この根本的な原因は罪ですが、たとえ罪が赦され、きよめられたとしても、性格の相違についての正しい認識を持たなければ、人間関係の問題は解決しないでしょう。性格の相違について考える時、忘れてはならない大切なことは、信仰と性格の関係、そして信仰は、どのようなものから形造られているかということです。 そこで信仰を形造る三要素について学んでみましょう。 一、信仰の三つの型について 「アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11章8節)とあるように、神の言葉を信じて敢えて行動を起こした(すなわち敢行した)人です。 信仰の積極面は敢行です。しかしアブラハムは忍耐深さに欠けていたので、女奴隷ハガルによって子どもを儲けるなど、多くの失敗をしています。「敢行」に表れる信仰、これがアブラハム型の信仰です。 アブラハムの子イサクは、父とは全く反対で、どんなに大切なものでも、それを得るのに焦ったり、争ったりすることなく、どこまでも柔和にふるまい、謙譲な態度を取り、神が与えてくださるまで困難を耐え忍んで待ち望んだ人です(創世記26章14~22節)。 信仰の消極面は忍耐です。しかしイサクは信仰の積極面である敢行は、不得手であったたために、優柔不断で、その子ヤコブに欺かれています。「忍耐」に表れる信仰、これがイサク型の信仰です。 イサクの子ヤコブは、これまた異なり、飽くなき探求心によって、どこまでも神の祝福を求め続けた熱心な人です。しかし彼は、その名前(押しのける者)のように、父イサクと兄エサウを欺いてまで熱心に神の祝福を求めたので、自分の息子たちやおじラバンにだまされています。「熱望」に表れる信仰、これがヤコブ型の信仰です。 二、信仰と性格について 真の信仰は、神の言葉を信じて踏み出す敢行と、神の言葉を待ち望む忍耐と、神の祝福を熱心に求める熱望の三つを含んでいます。 しかし人はみな、先天的な性格や性質が異なっており、また育った環境による後天的な性格や性質も違っています。ですから人は、信仰を持つなら、罪から救われますが、持ち前の性格や性質は変わり難い面があるので、その人の性格や性質からにじみ出る信仰になり易いのです。すなわち、その性格によって、ある人は敢行の面の強い信仰、他の人は忍耐の面の強い信仰、別の人は熱望の面の強い信仰になるのです。 三、信仰の成長について 私たちは、信仰に成長するために次のような二つのことが必要です。 1.他の信仰の型の人を受け入れること 人は、それぞれ性格や性質、また信仰の型が異なるので、自分の信仰の型に他の人を合わせようとしたり、異なる信仰の型の人を非難したり、排斥したりしてはなりません。 アブラハム型の人はイサクやヤコブの信仰に、イサク型の人はアブラハムやヤコブの信仰に、ヤコブ型の人はアブラハムやイサクの信仰に、それぞれ必ず学ぶところがあるはずであり、また学ばなければなりません。私たちは、信仰に成長するために他の信仰の型の人を受け入れることが必要です。なぜなら神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だからです(出エジプト3章6節)。 2.自分に不得手なものを求めること 私たちは、信仰に成長するために信仰の三つの面である敢行と忍耐と熱望が片寄ることなく、均衡が取れるように自分に不得手なものを神に祈り求めることが必要です。そしてこの信仰の3つの面に均衡が取れていた信仰者は、ヤコブの11番目の子である4代目のヨセフではないでしょうか。次回は2014年12月11日「信仰に成長する秘訣(3)信仰を建て上げる三要素」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2014.12.03
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