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「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 2014年5月1日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月4日放映「真の幸福」 「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~3節 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを仰ぎ見なさい」(2節、文語訳、口語訳)。 エーリヒ・ザウァーは、「失望したければ他人を見なさい。落胆したければ自分自身を見なさい。しかし勇気を得、勝利を味わいたいと思うなら、イエス・キリストを仰ぎ見なさい」と述べています。そこでイエスを仰ぎ見ることの意味について学んでみましょう。 一、イエスから目を離さないこと(2節) 人間は誰でも欠点や悪いところを持っています。もし私たちが他の人の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、他人につまずいてしまうでしょう。また自分の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に目を離さないで見ているその労力と時間は大変なものです。しかしそれだけの労力と時間をこのような無益で有害なことのために使わず、すばらしいイエスから目を離さないことのために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第一の意味です。 二、イエスのことを考えること(3節) 人間というものは、あるものから目を離さないで見ていると、今度はそのことに関して深く考え始めてくるものです。 私たちは他の人の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して色々と考え始めるため、その人の小さな欠点や悪いところも、だんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭や心がそのことで一杯になり、他人につまずいてしまうでしょう。また自分の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して深く考え始めるため、初めは小さな欠点や悪いところもだんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭と心がそのことで一杯になり、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に考えているその労力と時間をこのような無益で有害なもののために使わず、すばらしいイエスのことを深く考えるために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第二の意味です。 三、イエスに期待し、求めること(3節) 人間というものは、他の人の欠点や悪いところを深く考えているうちに、今度はその人に改めるように期待したり要求したりするものです。そしてその人がこの期待や要求にすぐ応えなかったり、この期待や要求そのものが過剰であったり身勝手さがあったりすると、不平や不満やつぶやきになり、さらに非難や中傷に発展し、つまずいてしまうのです。 私たちが自分の欠点や悪いところを棚上げして、他人にばかり改めるように期待したり要求したりするその労力と時間をこのような無益で有害なことのために使わず、自分の欠点や悪いところが取り除かれるようにイエスに期待し、求めるために使うこと、これこそイエスを仰ぎ見ることの第三の意味です。 四、神を通して自分と他人を見ること 私たちは、神を無視して他の人を見る時、もしその人が自分よりも優れているならば嫉妬するでしょうし、劣っているならば卑下するでしょう。また神を無視して自分を見る時、もし自分の思い通りにすべての物事が運ぶなら、高ぶるでしょうし、何もかもうまく行かなければ落胆するでしょう。どちらにしても神を無視して他の人と自分を見るなら、罪を免れることはできないのです。 私たちは、他の人を見る時、(1)私たちの姿を教えるための「鏡」(箴言27章19、21節)、(2)私たちを懲らしめ、造るための「砥石」(同27章17節)、(3)私たちが神に仕えるための「相手」(マタイ25章40、45節)として見ること、自分を見る時、(1)「神に愛されている自分」(イザヤ43章4節)、(2)「神の恵みによって救われている自分」(第一コリント15章10節)、(3)「神の作品である自分」(エペソ2章10節)を見ることが必要です。 このように神を通して自分と他の人を見る時、嫉妬したり卑下したり、高ぶったり落胆したりすることなく歩むことができるのです。次回は、2014年5月8日「「イエスを仰ぎ見なさい(2)」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.04.30
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「三つのさばき」 2014年4月24日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月31日放映「信仰の決断」「三つのさばき」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、4章1~5節 私たちは、世の中に住んでいる以上、色々な人から、様々なことを言われることを避けることができません。しかし、その時、私たちは、それに対して正しく処していきませんと、それに負けて、他の人を傷つけてしまい、正しく歩むことができません。パウロは、三つの「さばき」について教えています。 一、他の人によるさばきについて パウロは、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです」と述べています(3節)。 パウロは、他の人がとやかく言うことなどは、取るに足りないことだと言っています。私たちは、他の人から言われる他の人のさばきそのものによって、私たちの永遠の運命が決定するのではないという意味において、確かにその通りであり、他の人の言葉など気にする必要はありません。 しかし、それだからと言って、私たちは、厚顔無恥や傍若無人であってよいはずはありません。なぜなら人のことばであっても、決して無視してはならないものがあるからです。私たちは、次のような三つの原則によって、それを知ることができます。 1.真実の原則 これは、人から言われたことが、私たちにとって真実であるなら、私たちは、それを無視してはならず、認めなければなりません。 2.謙遜の原則 これは、人の言葉であっても、それが聖書の教えであるなら、私たちは、それを人を通して語られる神の声として、相手の年齢や身分に関係なく、謙虚に耳を傾けなければなりません。 3.愛の原則 これは、私たちの動機が純粋で、正しく、人からとやかく言われる筋合いのない正しいことであったとしても、それが弱い人をつまずかせるなら、自分の正しさを通さず、愛のゆえに弱い人の声に聞き従わなければなりません(同8章7~13節)。 私たちは、この三つの原則に抵触しなければ、他の人のさばきなど気にする必要はありません。他の人のさばきは、どこまでも小さなことであり、それよりも他の人のさばきに対して私たちが真実と謙遜と愛の態度をとるかどうかということのほうがより重要なことなのです。 二、自分のさばきについて パウロは、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べています(3節)。 これも他の人のさばきと同様に、私たちは、自分で自分の善悪を判定する自分のさばきそのものによって、私たちの永遠の運命が決定するものではありません。ですから私たちは、自分で自分をさばいて、悪ければ失望落胆したり、自暴自棄に陥ったり、良ければ誇ったり、高ぶったりするというように、自分のさばきの結果に振り回されてはなりません。 私たちは、自分の姿をよく知って、自己批判や自己反省をすることは必要です。しかし私たちは、そこでとどまるべきであり、神のさばきを差し置いて、自分で結論を下したり、「先走ったさばきをしては」ならないのです(5節)。 三、神のさばきについて パウロは、「私をさばく方は、主です」と述べています(4節)。 私たちの永遠の運命は、他の人や自分という人間のさばきによって決まるのではなく、神のさばきによって決定します。なぜなら神のさばきのみ完全で、公平だからです。 正しい裁判を行うためには、確かな証拠や証言などの必要な資料が全部そろうことが必要です。しかし人間は、「やみの中に隠れた事」や「心の中のはかりごと」(5節)まで知ることはできないので、証拠や証言が不十分で、正しい裁判をすることはできません。 しかし神は、それらを全部明るみに出されるゆえに、完全で公平なさばきをすることがおできになります。私たちは、不完全な人のさばきなど恐れず、完全で正しいさばきをされる神を恐れて歩もうではありませんか。次回は、2014年5月1日(水)「イエスを仰ぎ見なさい(1)」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.04.23
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「人類の新しい始祖であるキリスト」 2014年4月17日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」 「人類の新しい始祖であるキリスト」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12~21節 商品の説明に「植物由来」とか「果実由来」と書かれています。1月14日付の朝日新聞の「親子鑑定」という記事に「父由来の遺伝子」「母由来の遺伝子」という言葉が記されていました。「由来」は、「今にまで引き継がれたもの」という意味です。 聖書が教えるキリストの十字架の贖いによる罪からの救いは、私たちの始祖が古い人類の始祖であるアダムから新しい人類の始祖であるキリストに変わることによって与えられると教えています。 一、アダムの堕罪と死の支配 パウロは、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(12節)。赤線の三角形は、そのことを教えています。 ヒトゲノム計画は、全世界の人々のDNAを調べ、ヒトゲノム(人の遺伝情報全体)のすべての配列を完成させました。ベンター博士と国立衛生研究所の科学者たちは、満場一致で「人種は、ただ一つしかない」と宣言しました。換言すれば、すべての人はアダムの「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の支配下にあったことが21世紀の科学で証明されたのです。 二、キリストの贖罪といのちの支配 青線の三角形は、人類の新しい始祖であるキリストを頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 DNA(遺伝情報)は、いのちの設計図(情報)、また生きているいのちであり、新しいいのちを形造り(複製し)ます。パウロは「私のうちに啓示(神の情報)」されるキリスト(ガラテヤ1章12、16節)と「私のうちに生きておられる」キリスト(同2章20節)と私の「うちに......形造られる 」キリスト(同4章19節)について述べています。 聖書は「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となりました。......第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(キリスト)は天から出た者です」と教えています(第一コリント15章44~49節)。 これをDNAという言葉を用いて言い表すなら、次のように言うことができます。 アダムには肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAがあり、全人類は死の支配下にありますが、キリストには霊(御霊)のDNAがあり、キリストの贖いを信じるすべての人は、いのちの支配下にあるのです。「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型」(14節)であるように、「アダムの肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAは、キリストの霊(御霊)のDNAのひな型」です。 三、死の支配からいのちの支配への移行 人は、父由来の遺伝子と母由来の遺伝子を持って生まれ、人類の始祖にまでさかのぼれば、アダム由来の遺伝子を持って生まれるので、アダムの堕罪による罪を引き継ぎ、罪から解放されることはできません。しかしキリストの十字架による贖いを信じるなら、キリスト由来の御霊の遺伝子を引き継ぎ、罪から解放されることができるのです。次は2014年4月24日「三つのさばき」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.04.11
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