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「無意識の三要素による歩み」 2014年4月10日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月22日放映「真の生きがい」「無意識の三要素による歩み」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、7章15~25節 一、霊は無意識で、心の奥も無意識です 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者のフロイトです。 キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。パウロは「私には、自分のしていることがわかりません。......私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と告白しています(15、19節)。 この無意識の霊と無意識の心が意識している心を支配しています。言い換えれば、人の行いは、善であれ、悪であれ、意識して行うことと無意識のうちに行うこととの両者があり、しかも無意識のうちに行うことが意識して行うことを支配しているのです。 二、愛の行為は無意識に行います サマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、愛のゆえに彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすればよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施しています(ルカ10章34、35節)。 オズワルド・チェンバーズは、「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものである。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素など少しもない。......意識しないということが愛の特質である。......私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことがある」と言っています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当然のこととして、ごく自然に神と隣人を愛するようになります。それは意識しないものです。 三、罪の行為は無意識に行います 羊たちは、キリストに愛の奉仕をしたことを賞賛された時、「主よ。いつ......しましたか」と驚いて答えています(マタイ25章37~39節)。彼らは、この奉仕は、神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いが全くなく、当然のこととして愛の奉仕に励み、しかも無意識にしていたのです。 これに対して山羊たちは、キリストに愛の奉仕をしなかったことを叱責された時、「主よ。いつ......しなかったのでしょうか」と驚いて答えています(同25章44節)。彼らは、この奉仕は神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いがあり、その奉仕は押しつけがましいものでした。彼らは、結局は自分のためにしたのです。 もし私たちが、神と隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょうか。 四、人の歩みは無意識に行います 人間の内臓は、意志の力の及ばない「自律神経系(交感神経と副交感神経)」によって自動的に働いています。もしすべての内臓を意志の力によってからだを動かす「知覚と運動の神経系」によって働かすとしたら、仕事や勉強をするどころか、睡眠をとることも休むこともできず、死んでしまうでしょう。いのちに関わる大切なことは、無意識のうちに自動的に行うように造られているのです。 霊と心も、いのちに関わることは無意識のうちに行います。「肉の思い」を持つ人間は、意志の力で罪を犯すことをやめることも、愛の行いをすることもできません(19節)。私たちは、キリストとともに十字架につけられて「肉の思い」が取り除かれ、「御霊による思い」が心に宿り、神の愛と聖霊の力が与えられて無意識のうちに愛の行いをするのです。 そのためにキリストは、お生まれになり、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、天に昇り、聖霊の降臨によって、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけ」てくださったのです(ヘブル8章10節)。次は2014年4月17日「人類の新しい始祖であるキリスト」です甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.25
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「真の信仰の三要素」 2014年4月3日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」「真の信仰の三要素」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章1~6節 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(6節)。 H・オートン・ワイレーは、真の信仰は、「知性的に承認し、意志的に承諾し、信頼し、拠り頼む」ことであると述べています。 一、真の信仰の第一の要素--神を知性的に理解し、納得し、承認する ある人々は、信仰とは実際には無いものを、あたかも有るもののように思い込むことであると考えています。しかしそのようなことは、知性と理性を持った人間には不可能です。人間に頭脳と理解力がある以上、何だか分からないものを、ただ信じることはできず、信じる対象を知り、理解しなければなりません。 しかし信仰の対象を理解するだけでは不十分です。それが確かな事実であり真理であることを納得しなければなりません。聖書は、知性を持った人間が十分に信頼できる「数多くの確かな証拠」(使徒1章3節)のある神の言葉です。パウロは、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら......この福音によって救われるのです」(第一コリント15章2節)と述べ、信じるためには、十分に考えて、それが確かな事実であり真理であることを納得しなければならず、軽はずみに信じてはならないと教えているのです。 二、真の信仰の第二の要素--神を意志的に受け入れ、承諾する キリストは「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか......がわかります」(ヨハネ7章17節)と、願いの必要性を教えられました。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間も知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている人間が意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて承認するだけでは不十分であり、意志的に受け入れ、承諾することが必要です(ヨハネ1章12節)。 このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「科学的な真理」は、それを受け入れる人の道徳性には全く関係がないので、悪い心や生活を悔い改める意志がなくても、その科学的な真理を知性的に承認しさえすれば、その人のものになります。 しかし「宗教的な真理(神の救い)」は、神の聖い性質上、道徳性が含まれているので、悪い心や生活を悔い改めて信じたいという意志がなければ、その真理(神の救い)は、その人のものにはなりません。多くの人々は、神を信じるなら、悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、信仰を拒否しています。聖書は、「彼らが神を知ろうとしたがらない」と(ローマ1章28節)、神を意志的に拒絶していると教えているのです。 三、真の信仰の第三の要素--神を信頼し、拠り頼む 神への信仰は、神を「信頼し、拠り頼む」ことですが、人間は、その神を「知性的に理解し、納得し、承認」し、「意志的に受け入れ、承諾」しなければ、神を「信頼し、拠り頼む」ことはできません。私たちは神を「知性的に理解し、納得し、承認」し、神を「意志的に受け入れ、承諾」し、神に「信頼し、拠り頼む」なら、信じた通りに「歩み」(コロサイ2章6節)、その結果、信仰は実を結び、「信じきること」(ルカ1章45節)、すなわち「確信」になるのです(第二テモテ1章12節)。次は2014年4月10日「無意識の三要素による歩み」です甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.25
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「人間を構成する三要素」 2014年3月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」「人間を構成する三要素」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章23節 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。......キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(23節)。 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです 聖書は、人間を霊、たましい、からだという三つの要素から成り立っていると教えています(23節)。 1.からだは、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 2.たましい(ソウル)は、「知性の面での心(マインド)」と「感情の面での心(ハート)」と「意志の面での心(ウィル)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 3.霊は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、神の像に似せて造られた不滅の生命です。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 古代ギリシャの哲学者は、「何が一番困難だろうか」と尋ねられた時、「自分を知ることだ」と答えたと言われています。キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。 ダビデは「人の内側のものと心は、深いものです」と記しています(詩篇64篇6節)。人の心が自分でも分からないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が、意識している心の表面に、良きにつけ、悪しきにつけ、多大な影響を与えている、いやそれを支配しているのです。 二、心(たましい)は、からだと霊を結びつける懸け橋の役目をしているからです 人間が霊とたましいとからだという三つの要素から成り立っているという三要素説は、一番中心の円が霊、中間の円がたましい、一番外側の円がからだという三重丸で現すことができますが、もう一つは、「霊」と「からだ」という二つの円を描き、両者を半分ほど重ね合わせたものとして現すことができます。その重ね合わせた部分が「たましい」です。 確かに「霊」は「たましい」の中枢機能として「たましい」を支配し、「たましい」は、「からだ」の中枢機能として「からだ」を支配していますが、「霊」は、見ることも、聞くことも、さわることも、感じることもできません。ですから、その「霊」を変えるためには、「たましい」の三つの面である知性と感情と意志に働きかけなければなりません。すなわち「たましい」は、「霊」と「からだ」という二つの要素の懸け橋(橋渡し)の役目をしているのです。 三、たましいが救われるためには、心の奥にある霊が救われなければならないからです エペソ人への手紙の4章23節は、新改訳聖書では「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。ここから「霊」というのは、「心の深み」であり、「心の底」であることがわかります。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまいました。しかし人がキリストを信じるなら、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」を取り戻し、「心の深みまで新たにされる」ことなのです。次は2014年4月3日「真の信仰の三要素」です甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.25
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「苦難の意味するもの(2)」 2014年3月20日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」「苦難の意味するもの(2)」 甲斐慎一郎 ヨブ記、42章1~6節 あらゆる恵みに満ちた神がキリストを信じる者に備えられた永遠のご計画は、この世においては、罪の解決(救いと聖化)と苦難による完成(成長)であり、次に来る世においては、永遠の栄光(天の御国)です(第一ペテロ5章10節)。ヨブ記は、苦難による完成を教えています。 一、苦難について 聖書は、苦難について次のような五つの説を教えています。 1.刑罰説--「だれか罪がないのに滅びた者があるか。......不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(4章7、8節)。 苦難についての第一の説は、罪に対する刑罰として来る苦難です。ヨブの三人の友は、ほとんどこれによってヨブの苦難を説明しようとしています。しかしこれでは苦難について全部説明することはできず、五つの説の中の一つにすぎません。 2.教育説--「悩みのなわに捕らえられると、そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ......神は彼らの耳を開いて戒め」(36章8~10節)。 苦難についての第二の説は、前のよりも少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難です。エリフは、このように説明しています。これは、罪を犯したことを教えるために苦難が来る場合と、その時点においては、正しい動機で行い、罪がなくても、知恵がなく、幼稚で未熟なために、教育される必要がある時に、苦難が来る場合とがあります。 3.試験説--「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」(創世記22章1、12)。 苦難についての第三の説は、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。アブラハムの苦難の説明はこれです。これは、前の二つと違って、その人には全く罪がないのに来る苦難です。 4.代償説--「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 苦難についての第四の説は、さらに高尚で、自分には全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を身代わりに負い、代償として来る苦難です。キリストの苦難は、まさにこれです。私たちも罪に陥っている人を救いに導くためには、代償の苦難を受けなければならないことがあります。 5.栄光説--「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 苦難についての第五の説は、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。キリストは、生まれながらの盲人に関して、このように説明されました。 ヨブの苦難は、個人的には彼の姿と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人々に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」です。 二、苦難の結果について 最後の章である42章には、次のような四つの幸いな結果が記されています。◇神を目で見る(5節)--より深い神経験◇全く悔い改める(6節)--より深い謙遜◇友のために祈る(10節)--より大きな愛◇二倍に祝される(10節)--より高い恵み 私たちも、苦難を乗り越えるなら、私たち自身がより高く成長し、ほかの人がより大きな恵みに与かり、神のわざがより広く現れます。 ヨブ記の主題は「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でしたが(1章1節)、この苦難を乗り越えることによってきよめられ、完成したのです(1~6節)。拙著「聖書の中心的な教え」の42「苦難の意味するもの(2)」より転載 次回は2014年3月27日「人間を構成する三要素」 です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.05
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「苦難の意味するもの(1)」 2014年3月13日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」「苦難の意味するもの(1)」 甲斐慎一郎 ヨブ記1~42章 不朽の大作「レ・ミゼラブル(ああ無情)」を著したフランスの文豪ビクトル・ユーゴーは、「ヨブ記は、恐らく人類の心の所産の最大傑作である」(ヘンリー・H・ハーレイ『聖書ハンドブック』220頁)と言いました。ヨブの受けた言語に絶する苦しみは、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、大きな苦しみを受けたヨブ(1、2章) 神は、ヨブに五つの苦難が来ることを許されましたが、これは苦難の程度の軽いものから重いものに至るまで五つの段階を教えているのではないでしょうか。 1.息子の行状を心配する心の苦しみです。具体的には何も失っていません(1章5節)。 2.財産が失われる苦しみです(1章13~17節)。これには心の苦しみも伴います。 3.愛する七人の息子と三人の娘が失われる苦しみです(1章13~19節)。 この苦しみは想像を絶するものです。しかしヨブは、「主の御名はほむべきかな」と神を賛美しています(1章21節)。 4.自分の健康が失われる苦しみです(2章7節)。重い病ほどその心の苦しみは増すでしょう。しかしこの時ヨブは、「神から......わざわいをも受けなければならない」と言って神の摂理に従っています(2章10節)。 5.言語に絶する苦しみを受けながら、同情もされず、友から激しい非難を浴び、人間の尊厳を損なわれた苦しみです(4~25章)。 二、神のお取扱いを受けたヨブ(3~41章) ヨブの三人の友は、ヨブを慰めに来ましたが、彼のことばを聞いているうちに「ヨブがこのような大きな苦難に会ったのは、大きな罪を犯したからである」と異口同音に彼を非難しました。しかしヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人ですから(1章1節)、この非難は全く的外れです。ヨブは自分の無実を述べる時、三人の友よりも知識と経験と能力において優っていると言っただけでなく、自分の正しさを主張するあまり、神を非難してしまいました(40章8節)。そのような時、神はヨブに三つの質問をされました(38~41章)。 ◇あなたは......(を)知っているか。ヨブの知識を問う質問です(5回)。◇あなたは......(した)ことがあるのか。ヨブの経験を問う質問です(9回)。◇あなたは......(する)ことができるか。ヨブの能力を問う質問です(25回)。 神がヨブに浴びせた矢継ぎ早の質問には、さすがのヨブも自分の無知と無経験と無能力を認めざるを得ませんでした。 三 神の祝福を受けたヨブ(42章) 神のねんごろなお取扱いを受けたヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(1節)と、改めて神の全知全能を心から認め、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(5節)と、新しい神経験をしました。それでヨブは「自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い」改めました(6節)。ヨブが三人の友のために祈った時、主はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて二倍に増し、息子七人と娘三人を与えられました(10、13節)。こうしてヨブは神からあふれるばかりの祝福を受けたのです。 「あなたが苦しみに会っても落胆しない......一つの秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神をとらえていれば、すべてを失ったとしても、実際は何も失っていないのです。というのは、あなたに神がついていてくだされば、すべてのものがあるということなのです。神はあなたが失ったすべてのものを倍にして返そうとしておられます。一番恐るべきことは、すべてのものを持っていて、神をとらえていないことです。神がいないなら、あなたの持つすべてのものも零に等しいのです」(テモテ・ザオ『わざわいをも』21頁)。拙著「聖書の中心的な教え」の41「苦難の意味するもの(1)」より転載 次回は2014年3月20日「苦難の意味するもの(2)」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.04
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「生命の設計図と宇宙の設計図(2)」 2014年3月6日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」 「生命の設計図と宇宙の設計図(2)」 甲斐慎一郎 イザヤ40章26節 三、宇宙の設計図である「神の数式」 2013年9月22日にNHKのテレビで「神の数式」という番組が放映されました。それは「宇宙はなぜ生まれたのか」(最後の難問に挑む天才たち)という内容です。世界各国の天才物理学者たちがミクロの素粒子を完璧に表した「素粒子の数式」と広大な宇宙を支配する「重力の数式」(すなわち一般相対性理論)の二つを一つに束ねる「神の数式」を書き表すもので、まだ完全に計算することはできていませんが、この「神の数式」こそ「宇宙の設計図」または「神の設計図」であるというものです(テレビ番組より)。 「数式」という言葉を用いるのは、この宇宙のすべては、数や量を表す数字で書き表せるからで、宇宙のすべては、1秒の狂いもなく、正確に動いているということです。これは、創造主である全知全能の神のみがなせるわざです。 今日、天文学者は宇宙には、少なくとも10の26乗(100×1億×1億×1億)個の星があると推定しています。聖書は、「海辺の砂」の数が「空の星」の数に匹敵する(創世記22章17節)と記しています。 聖書には次のような言葉が記されています。 ▽「あなたは天の法令(口語訳は法則)を知っているか」(ヨブ38章33節)。 ▽「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」(詩篇147篇4節)。 ▽「この方は、その万象(星)を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる」(イザヤ40章26節)。 宇宙のすべてが1秒の狂いもなく、正確に動いているので、数式で表すことができる例として皆既日食を取り上げてみましょう。 皆既日食は、太陽と月と地球が一直線に並んで、地球から見ると、太陽の前に月がすっぽりとはいり、真っ黒い太陽に見えるというものですが、これが何年、何月、何日の何時、何分、何秒に起こるかを何十年も前に計算して出すことができ、その時になると、計算通りの日時に皆既日食が起こるのです。 天文学者の小尾信弥(おび・しんや)氏は、2009年7月22日に起こった皆既日食を満喫して、「太陽の直径は、月の直径の四百倍で、地球と太陽の距離は、地球と月の距離の四百倍なので、ちょうどうまい具合に同じ大きさに見える。自然界の偶然なのでしょうが、もしも神様みたいなものがいるとしたら、随分おつなことをしたもんですね」と朝日新聞の記事で述べています。 皆既日食が起こる日時を計算するには、地球の自転と公転の速度、そして月の自転と公転の速度を知ることが必要です。 地球の自転の速度は地球一周を赤道上で計ると約4万キロメートルなので、これを24時間で割ると、時速1666キロメートルです。地球の公転の速度は、地球は楕円を描いて太陽を回っていますが、ほぼ円に近いとして、公転距離は、二πr×天文単位(1億4957万6960キロメートル)で、約9億3981万9740キロメートルです。これを365.2422日で割ると、秒速で約30キロメートルです。 月が一回自転するのにかかる時間は、29.53日です。月の公転の速度は、秒速で約1キロメートルです。しかし月の移動速度は一定ではありません。月が地球の外側にある時は、月の進む方向が地球の進む方向と一致しているため地球の公転速度に月の公転速度が加わり速くなります。逆に地球の内側にあるときには、月の進む方向と地球の進む方向が逆になるため、地球の公転速度から月の公転速度を引いた速度になり、月の速度は遅くなっています。 地球の自転と公転の速度、そして月の自転と公転の速度は、非常に複雑です。地球の軌道は真円(まんまる)ではなく、少し楕円であり--そのために皆既日食だけでなく、金環日食も起こります--月も移動速度は、一定ではありませんが、決してランダム(気まま、行き当たりばったり)ではなく、数式で書き表せるものです。それで皆既日食と金環日食の起こる日時を1秒の狂いもなく計算することができるのです。まさに宇宙は「神の数式」すなわち「宇宙の設計図」または「神の設計図」の通りに創造され、その創造された天体は正確に運行しているのです。 人間は、神の存在を科学的に証明することなど、とてもできません。なぜなら人間は、全知全能の神と比較するなら、余りにも無知で、無力だからです。だからこそ全知全能の神は、ご自身が存在していることをご自身で証明しています。生命の設計図と宇宙の設計図は、その一つです。全知全能の神以外に、だれがこのような設計図を書くことができるでしょうか。21世紀に起こる皆既日食●21世紀の金環日食 次回は2014年3月13日「苦難の意味するもの(1)」甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.03
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「生命の設計図と宇宙の設計図(1)」 2014年2月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月7日放映「神に会う備え」 「生命の設計図と宇宙の設計図(1)」 甲斐慎一郎 イザヤ40章26節 旧新約聖書が書かれてから約1900年が経過し、その間、科学は著しく発達しましたが、科学が発達したことによって2000年も前に記された聖書の記事が科学的に正確な事実であることが次々に証明されています。そのうちの一つが「天地創造」の記事です。 一、生物進化論と宇宙進化論の誤り 天地創造に関しては「生物進化論」と「宇宙進化論」が唱えられてきました。 ダーウィンは「種の起原」を発売し、進化論を唱えましたが、それは今から約150年前の1859年です。ダーウィンの時代に観察できた外観上の生物の進化の仕組みは、形態学的なレベルでしか研究することができず、もっと根本的な細胞レベルでは、何が行われていたか全くわかりませんでした。当時の最も強力な顕微鏡でさえ、細胞は単純なものにしか見えなかったので、それは、まさにブラックボックスでした。進化論者は、生物は環境に合せて何百万年も時間をかけて少しずつ器官を獲得し(進化し)、それが子孫に遺伝すると主張してきました。しかしゲノム(遺伝情報全体)が発見されてから、それが誤りであることがわかりました。生物は、生命の設計図であるDNA(遺伝情報)によって形造られることがわかったからです。 宇宙に関しては、進化論者は、137億年前にビッグバンがあり、その直後から物凄い勢いで膨張して、銀河、恒星、星雲、惑星が生まれ、地球が46億年前に生まれ、その地球に原核生物(単細胞)、真核生物(単細胞)、多細胞生物、そして原生人類に進化したと主張し、このように宇宙と生物が進化した仕組みと方法は、ビッグバンの直後から宇宙が膨張したからであると説明しています。しかし宇宙が膨張したことは、宇宙と生物が進化したという証拠にも証明にもなりません。 二、生命の設計図である「DNA」 現在、生物は生命の設計図であるDNAによって形造られることは、中高生でも知っていることです。生物進化論の正しさを証明するには、外側の形を研究する形態学的なレベルではなく、分子レベル、すなわちDNAレベルで研究しなければ何も証明したことにはならないのです。 1989年に1億ドルの予算でアメリカの国立保健研究所を中心とした「ヒトゲノム計画」をスタートさせました。さらに一年間の準備期間を経て、1990年に本格的に国際的なプロジェクトとしての活動が始まりました。プロジェクトの中心となっているのはアメリカ、日本、フランス、イギリス、ドイツといった国々です。これらの国をはじめ世界各国が協力し、膨大な情報量を持つヒトゲノムの解析に励み、2003年に完了しました。全世界の人々のDNAを調べ、遺伝子の地図(ヒトゲノムマップ)を作りました。ベンター博士(セレラ・ジェノミクス社の社長)と国立保健研究所の科学者たちは、ヒトゲノムのすべての配列を完成させたと発表しました。彼らは、満場一致で「人種は、ただ一つしかない」と宣言しました。すなわち人類の始祖は、一組の夫婦(アダムとエバ)であることが、21世紀の「観察科学・実験科学」によって証明されたのです。一家に1枚ヒトゲノムマップ第3刷について A3判対応版次回は2014年3月6日「生命の設計図と宇宙の設計図(2)」 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.03
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「神を信じる人生と神を信じない人生」 2014年2月21日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」 「神を信じる人生と神を信じない人生」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~5節 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。......すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(1~3節)。 一、神を信じない人生--進化論を信じる 1.初めに物理法則ありき(原因、由来) ホーキング博士は、「宇宙は神によって創られたのではなく、物理法則によって自然に作られるのだ」と述べています(『ホーキング、宇宙と人間を語る』258頁、エクスナレッジ、2011年)。しかし「物理法則」があっても「情報」がなければ、何も生まれません。昔は、テレビもスマホも飛行機もありませんでした。なぜなら、それらを製造する設計図、すなわち情報がなかったからです。ましてテレビやスマホよりも何千倍、何万倍も複雑な動植物は、設計図すなわち遺伝情報(DNA)がなければ、何万年、何億年も時間が経過しても生まれることはありません。 2.苛酷な運命にもてあそばれる(過程、今) 「初めに物理法則ありき」というのは、初めに盲目的なエネルギー(物理法則)があり、それが機械的・自動的にすべてのものを造ったということを意味します。それは人格(知性・感情・意志)を持ち、すべての情報を持っておられる全知の神が全能の力で、すべてのものを創造されたことを信じないことです。それは何の計画性も目的も持たない盲目的なエネルギー(物理法則)がすべてのものを造ることですから、人間の力では、いかんともすることができない盲目的な力が決定した苛酷な運命にもてあそばれることになります。 3.絶望に満ちた人生(結果、将来) 「神を失った世界では、醜く悲惨で不合理な人生が、そのままの素顔をあらわにする。しかもその不幸な生涯を終えた人間は、死とともに永遠の闇の世界に消えて行く。このように人生は非合理に満ちたものであるがゆえに、それは『運命』なのである」(ある宗教学者)。苛酷な運命にもてあそばれる人生は、絶望に満ちた、悲惨なものです。 二、神を信じる人生--創造論を信じる 1.初めに情報(ことば)ありき(原因、由来) 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、「初めにことばありき」(ヨハネ一章1節)というヨハネのことばを用いて「初めに情報ありき」という本を出版しています。すなわち、「ことば」は情報にほかなりません。聖書は、「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」と記しています(ヘブル3章4節)。「ヒトの遺伝情報を読んでいて、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」Amazon.co.jp: 〔文庫〕生命の暗号 (サンマーク文庫): 村上和雄: 本 2.愛にあふれた摂理に導かれる(過程、今) 聖書は、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50章20節)、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)と教えています。これが神の摂理です。「摂理とは、神が世界と人間のために、その知恵と聖なる意志によって、これら世界と人間の存在と持続のために必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、配慮してくださること」です(『キリスト教大辞典』教文館、649頁、1963年)。 3.希望に満ちあふれた人生(結果、将来) 聖書は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。......それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と教えています(エレミヤ29章11節)。愛にあふれた摂理に導かれる人生は、希望に満ちあふれているのです。次回は2014年2月28日「生命の設計図と宇宙の設計図(1)」甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.03
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「三つの現実」 2014年2月14日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」 「三つの現実」 甲斐慎一郎 創世記50章20節 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(20節)。 私たちは一日や一週間また一月や一年の終わりになると、今までのことを振り返って、良かったことやすばらしかったことを感謝するでしょう。しかし私たちが悪かったことや芳しくなかったことには、いっさい目をつむって見ようとせず、ただ良かったことだけを見て感謝するならば、大きな問題です。なぜなら悪かったことは、反省して悔い改めなければならないにもかかわらず、それをしないことになるからであり、それとともに冒頭に記したみことばが教えている大切な真理を見失ってしまうからです。 このことばは、三つのことを教えています。 ▽「あなたがたは、私に悪を計りました」という悪い計略の現実です。 ▽「良いことのための計らい」という良い計画の現実です。 ▽「神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」という神の摂理の現実です。 一、悪い計略の現実 ヨセフは、兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが」と言いましたが、これは、どのようなことでしょうか。 1.ヨセフは、父に特別に愛されていたので、兄たちに憎まれました(37章4節)。 2.ヨセフは夢の話をしたので、兄たちにねたまれました(37章11節)。 3.ヨセフは、兄たちのたくらみによって殺されそうになりました(37章18節)。 4.ヨセフは、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かりましたが、エジプトに奴隷として売られました(37章28節)。 5.ヨセフは、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられました(39章20節)。 6.ヨセフは、献酌官長の忘恩によって2年間も忘れられました(40章23節)。 5番目と6番目は、直接的には兄たちの計略ではありませんが、彼らがヨセフをエジプトに売らなければ、このようなこともなかったはずです。ともかくこれらが悪い計略の現実であり、ヨセフは、このことのためにどんなに苦しんだことでしょうか(42章21節)。 二、良い計画の現実 ヨセフは、「良いことのための計らい」と言いましたが、これは、どのようなことでしょうか。 このようにヨセフの生涯は、兄たちの憎しみとねたみによる悪い計略が現実であることを教えていますが、この中にもう一つの現実があります。それは、ヨセフがエジプト全土の統治者となることによってエジプトとイスラエルの家族のいのちを救うという神による良い計画の現実です。 ヨセフが兄たちに憎まれてエジプトに売られたのも、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられたのも、献酌官長の忘恩によって2年間も忘れられたのも、彼がエジプトの統治者となって人々のいのちを救うためでした(45章5、8節)。 三、神の摂理の現実 このように「悪い計略の現実」の中に、もう一つ「良い計画の現実」が組み込まれており、この二つの現実を正しく支配しているのが「神の摂理の現実」です。「摂理とは、窮地に陥り、困難に直面している人間に対して、神がその無限の知恵と愛によって、その必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、また配慮してくださること」です。 ですから私たちは、悪い計略の現実を直視して神の前に砕かれることが必要であり、それから目をそらしてはなりません。なぜなら悪い計略の現実から目をそらすことは、その中に含まれている良い計画の現実を見失ってしまうからです。 私たちは、神の摂理を信じる時にのみ、悪い計略の現実の中にあっても、それに打ち勝ち、それを乗り越えて、良い計画の現実の中を生き抜いていくことができるのです。拙著「聖書の中心的な教え」の43「三つの現実」より転載 次回は2014年2月21日「神を信じる人生と神を信じない人生」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.02.02
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