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「聖書が教える国家の建設(6)戦争と国家」 2014年7月31日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」 「聖書が教える国家の建設(6)戦争と国家」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、23章33~43節 聖書には戦争の記事が多く、「主はいくさびと」とか「万軍の主」とありますが、これはどのように考えたならばよいのでしょうか。 一、戦士としての神 神は超越者です。神はその充全性のゆえに人間の言語や理解能力をはるかに越えた存在です。ですから神がただ超越者として存在するだけの方であるなら、人間は、その超越的な方について語ることなど不可能となります。 戦争は人間的な活動です。さらに言うなら、戦争は罪深い人間の活動であり、同じ人類である仲間たちに人間に固有な非人間性をさらけ出すことでもあります。ですから神を戦士として描写するというのは、神が罪ある人間存在を用い、しかも通常の人間活動を媒介として、なおも人間の歴史に参与しようとされる意志をもっておられることを明らかにすることなのです。神は、人間の生活を媒介としてこの世で働き続けようとされるかぎり、この世の救済という目的のために罪深い人間を用いられます。言い換えるなら、神は、この世に救いをもたらすために、救いを必要としている人間を進んで用いられるのです。 神が王、すなわち人間の歴史において究極的な主権者であられるとするなら、神が戦争と何らかの関係をもたれるのは当然のことです。戦争は、神が贖いと審判という二つの目的をもって積極的にかかわられた邪悪な人間活動の一形式なのです。 二、戦争と国家 古代イスラエルも、現代の国家としてのイスラエルも、一国が国家として生き残るためには、戦争に訴えざるをえませんでした。聖書の本来の目標は、人類全体の本質や人間国家の本性をえぐり出して見せることにあります。国家は、国家の防衛のために、暴力の使用を必然化しました。しかも国家を防衛するために用いられる暴力が恒久平和をもたらしたためしはなかったのです。 三、神の国の建設 全人類を贖うという神の目的は、神の国を通して実現されることになっていました。神の国が歴史に初めて姿を現したのは、古代イスラエル国家においてでした。しかし、ある意味においてイスラエルの王国は、失敗に終わりました。その王国は、イエスとその教えのもとで始められた神の国の建設に対して、その道を準備したということができます。 イエスに対する信仰において神の国を建て上げようとすることのうちには、暴力についての新しい理解が隠されています。古い王国は、暴力の行使によって確立されましたが、今度の新しい神の国は、暴力を受けることによって基礎づけられるからです。戦士であった神は、今や十字架刑に処せられる神となられました。神は、自ら圧倒的な人間の暴力を正面から受けて立つことになられたのです。イエスが暴力の受け手となられるということ、すなわちイエスの十字架上の苦しみと死は、神の征服というわざを成し遂げる道になるのです。 つまり、それは悪を征服し、この世の君主の支配と軍事力を敗退させることなのです。ここにこそイエスが成就された新しい王国の原理があります。神の国の力は、暴力をふるうことのうちにあるのではありません。それは、暴力への服従という謙虚な行為のうちに秘められています。言うまでもなく、キリスト教の歴史のなかにみられる数多くの悲劇は、キリスト教徒が、戦士としての神が十字架につけられた神となられたことを再三再四忘れてしまうことに由来するのです。 神は戦争を通して、また戦争をも用いて、ご自身がどのような方であるか(罪を罰せずにはおかない正しく聖い方であるとともに、罪人を愛してやまない愛と憐れみに満ちた方であること)を教え、また人間がどのような者であるのか(救われなければならないほど罪深い者であること)を示し、さらにご自身のいのちを捨てて、私たち一人一人をお救いになるだけでなく、ほんとうの国家である神の国を建設されることを啓示されるのです(P・C・クレイギ著、『聖書と戦争』より抜粋)。次回は2014年8月7日「聖書が教える国家の建設(7)世界の宗教人口」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.07.23
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「聖書が教える国家の建設(5)ヨーロッパの国々の歴史」 2014年7月24日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」 「聖書が教える国家の建設(5)ヨーロッパの国々の歴史」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、13章1節 「聖書が教える国家の建設」は、初代教会から現代までのヨーロッパの国々に起こった国家と教会の関係から学ぶことができます。 一、国家と対決した教会の時代――初代教会からミラノの勅令(紀元313年)まで キリストの教会は紀元30年の聖霊の降臨の時に誕生しました。これが初代教会です。初代教会が飛躍的に成長するに従って、ローマ帝国はキリスト教を迫害するようになりました。なぜなら教会は、「国家の中の国家」のように見えたからです。これは、教会が国家と対決した時代です。「殉教者の血は、教会の種子である」(テルトゥリアヌス)という言葉のように、教会は迫害を受ければ受けるほど成長し、ローマ帝国を内側から突き崩し、遂にコンスタンティヌス皇帝は、ミラノの勅令によってキリスト教を公認しました。 二、国家と協力した教会の時代――ミラノの勅令(紀元313年)からフランス革命(紀元1789年)まで ミラノの勅令によってキリスト教が公認されてから、ローマ教会が中心的な地位を占めました。ここから教会は国家と協力する時代になりました。その後、教会は西方教会(ローマ・カトリック教会)と東方教会(ギリシャ正教やロシヤ正教、日本は日本正教会)に分かれました。これが紀元1054年です。この分裂後は、西方教会であるローマ・カトリック教会は、ローマ法王の権力が世俗の王権をも圧倒するようになりました。これは、教会と国家の主導権争いを招き、国家も教会も世俗化するという弊害を生み出しました。 紀元1517年にマルチン・ルターが起こした宗教改革が成功したのは、ルターの前に改革者が出て、犠牲となり、土壌を肥やし、空気を作ったからです。これらの人々は宗教改革前の改革者または宗教改革の先駆者と言うことができます。この宗教改革の先駆者の中にジョン・ウィクリフ、ヨハン・フス、サヴォナ・ローラがいます。もう一つ、中世には1350年から1650年までの間にヨーロッパのおもな国々で文芸復興(ルネッサンス)が起こりました。 「文芸復興は、人生に宗教的・団体的に近づく中世のやり方の代わりに、現代的・非宗教的・個人主義的な人生観に置き換えた文化的方針の再決定の時代と定義することができよう。……神がすべての事物の尺度であった中世の神中心の世界観は退いて、人間がすべての事物の尺度となった人間中心の人生観が力を得てきた」のです(E・ケアンズ)。 マルチン・ルターによる宗教改革は、このようなカトリック教会の中で起きた宗教改革の先駆者たち、そして世俗の世界で起きた文芸復興を背景に起こったのです。近代は、霊的なものである宗教改革と、知的なものである文芸復興(ルネッサンス)によって誕生したということができます(E・ケアンズ)。 三、国家から自由とされた教会の時代――フランス革命(紀元1789年)から現代 教会は、国家が世俗化し、政治目的のために教会を利用するという弊害に気づき、「信仰の自由」と「政教分離」を求め、それを勝ち取ることができました。ここから教会は国家から自由とされた時代になりました。 キリスト教の2000年にわたる歴史において、国家と対決した教会の時代が約300年、国家と協力した教会の時代が約1500年ですから、宗教(キリスト教)と国家が正しい関係になり、健全な国家が建設されるまで、実に1800年もの長い歳月が流れ、しかも「信教の自由」があって「政教分離」の国家が建設されるようになった期間は、約200年です。 因みに紀元前の時代は、どの国も国家と宗教が協力した「政教一致」です。それで日本では「政治」のことを「政(まつりごと)」と言い、「まつりごと」は「祭り事」すなわち「神を祭ること」で、「政教一致」を表しています。 「政教一致」であれ、「政教分離」であれ、宗教なしに国を治めることはできず、古今東西を問わず、宗教(共産国は思想)なしに国家を建設した国は、一つもないのです。次回は、2014年7月31日「聖書が教える国家の建設(6)戦争と国家」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.07.23
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「聖書が教える国家の建設(4)王政以後の国家の建設」 2014年7月17日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」 「聖書が教える国家の建設(4)王政以後の国家の建設」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章15節 イスラエルは、初代の王サウルから王国時代にはいりましたが、ここから神の国が始まったということができます。神の国、一般的には「天国」と呼ばれていますが、これは神の支配される国のことで、聖書は、神の国には三つの段階があることを教えています。 一、地上の王国としての神の国 第一の段階は、イスラエルの初代の王サウルから最後の王ゼデキヤまでの王国時代のことです。これは神が民を統治(支配)された「地上の王国としての神の国」です。これは第二の段階の神の国と第三の段階の神の国のひな型(模型)です。その後、イスラエルは聖霊降臨節において教会が誕生するまで大祭司が統治する国になりました。 「メシヤ(これはヘブル語で、ギリシャ語はキリスト)」とは、「油を注がれた者」という意味で、旧約時代に油を注がれて、その職に就いたのは預言者と王と祭司です。メシヤは、この三つの職分を備えています。 「神政政治の国、すなわち神の統治される国であるイスラエルの歴史は、次のような三つの時代に分けられます。第一は、預言者の指導のもとにあった時代で、これはモーセからサムエルまでです。第二は、王たちの政治のもとにあった時代で、これはサウルからバビロン移住までです。第三は、大祭司の統治のもとにあった時代で、これはエズラからイエス・キリストの誕生までです。そしてこの神政政治の国は、このような三つの段階において、完全にその予表的な発達を遂げた時、その予表された神の国の預言者、王、大祭司であるイエス・キリストが来られたのです」(A・イーダーシャイム)。 二、信仰者の心にある神の国 第二の段階は、キリストを信じる者のただ中にあるという「信仰者の心にある神の国」です。神がキリストを信じる者の心を支配されるならば、そこは神の国です。キリストは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べ伝えられただけでなく(マルコ1章15節)、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われました(ルカ17章21節)。この「信仰者の心にある神の国」は、教会のことです。 心の中に神の国を持ったキリスト者は、健全な国家を建設するために働き始めました。このことを初代教会から現代まで、特にヨーロッパの国々の歴史から学ぶことができます(このことは、次回の「聖書が教える国家の建設(5)ヨーロッパの国々の歴史」において学びます。 三、新しい天と新しい地という神の国 旧約聖書は、イスラエル民族の歴史が記され――政教一致の神政政治ですが――この世におけるイスラエルの国の建設について教えています。しかし新約聖書を学ぶなら、旧約聖書におけるイスラエルの国は、来るべき神の国のひな型であることがわかります。 キリストは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言われましたが、新約聖書は、神の国(神が支配される所)はキリストを信じる者のただ中にあるという霊的な神の国について教えています(ルカ17章21節)。そして世の終わりには有形の神の国が建設されるのです(黙示録11章15節)。 第三の段階は、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)とあるように、世の終わりにつくられる「新しい天と新しい地」(同21章1節)という神の国です。次回は2014年7月24日「宗教と国家の建設の建設(5)ヨーロッパの国々の歴史」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.07.16
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「聖書が教える国家の建設(3)王政以前の国家の建設」 2014年7月10日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 「聖書が教える国家の建設(3)王政以前の国家の建設」 甲斐慎一郎 創世記、12章 ヘンリー・H・ハーレイは、「旧約聖書は一つの民族について記している。新約聖書は一人の人について記している。その民族は、この世界に『その人』が来るために神が始め、育てられたのである」と述べています。 この「一人の人」というのはイエス・キリストであり、「一つの民族」というのはイスラエル人であることは言うまでもありません。新約聖書は、この救い主キリストがイスラエル民族からお生まれになり、人類の罪を贖う十字架の救いが成就したことを記しています。旧約聖書には、キリストが救い主としてこの世界に来られるために、神がイスラエル民族を起こし、教育された過程が詳細に描かれているのです。 一、族長時代について 「創世記」は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという4人の族長の生涯について記し、イスラエル人の先祖として神がアブラハムをお選びになり、その子孫が周囲のカナン人の悪習に染まらず、イスラエル民族を形成するためにエジプトへ行かなければならなかったことについて教えています。 二、出エジプトからカナン入国まで 国家を建設するためには、多くの民が特定の地に住まなければなりません。それで「出エジプト記」から「ヨシュア記」までは、エジプトでおびただしく増え、強くなったイスラエル人がモーセに導かれてエジプトを脱出し、ヨシュアに率いられてカナンの地に入り、その地に定住したことについて書いています。 アブラハム、イサク、ヤコブの生涯は、個人の歴史を記し、ヨセフの生涯は、イスラエル民族が形成される前の段階として、家族および部族の歴史を教えていますが、モーセの生涯においては、それが民族および国民の歴史に変わっていく過程が描かれています。 三、王の前身である士師の時代 「士師記」と「サムエル記」は、カナンの地に定住したイスラエル人が、ヨシュアとその同世代の者たちの死後ただちに堕落し、その後、王の前身である士師が国を治めたことについて記しています。しかし士師が治めた時代は暗黒でした。イスラエル人が周囲の国と同じように王を求めた時、神はそれを許し、サムエルに王政を敷くように命じ、イスラエルは、王国時代にはいりました。 四、神が王政を許された理由 神は、アブラハムから王たちが出ることを約束され(創世記17章6、16節)、また王の条件や規定については、申命記に記されています(17章14~20節)。ですから王が立てられることは、初めから神のみこころとご計画の中にあったことなのです。 世俗的な王や専制君主は論外ですが、王政自体は必ずしも悪いものではなく、王と民が心から神を信じて従うなら、王政によって理想的な神政政治を行うことができます。 そして最も深い理由は、将来において来たるべきメシヤは、預言者、大祭司であるとともに王でもあるので、そのことを民に教えるために、主は王政を許されたのです。 五、預言者、王、大祭司であるキリスト 「メシヤ(これはヘブル語で、ギリシャ語はキリスト)」とは、「油を注がれた者」という意味で、旧約時代に油を注がれて、その職に就いたのは預言者と王と祭司です。メシヤは、この三つの職分を備えているのです。 「神政政治の国、すなわち神の統治される国であるイスラエルの歴史は、次のような三つの時代に分けられます。第一は、預言者の指導のもとにあった時代で、これはモーセからサムエルまでです。第二は、王たちの政治のもとにあった時代で、これはサウルからバビロン移住までです。第三は、大祭司の統治のもとにあった時代で、これはエズラからイエス・キリストの誕生までです。そしてこの神政政治の国は、このような三つの段階において、完全にその予表的な発達を遂げた時、その予表された神の国の預言者、王、大祭司であるイエス・キリストが来られたのです」(A・イーダーシャイム)。次回は、2014年7月17日「聖書が教える国家の建設(4)王政以後の国家の建設」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.07.10
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「聖書が教える国家の建設(2)人間観と神観と国家観」 2014年7月3日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月9日放映「新しい事をされる神」 「聖書が教える国家の建設(2)人間観と神観と国家観」 甲斐慎一郎 創世記、2章4~7節 人間の本質には三つの考え方があります。1.人間の究極の実在は物質である(唯物論)2.人間の究極の実在は動物である(進化論)3.人間は、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(創 造論、キリスト教) 一、人間の究極の実在は物質である(唯物論) 唯物論は、究極の実在は物質であるというもので、史的唯物論は、マルクスによって提唱されたもので、マルクス主義とも呼ばれ、共産主義国家の哲学的教条となっています。 二、人間の究極の実在は動物である(進化論) 進化論は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したというものですが、唯物論者は、進化論を受け入れています。 「社会主義・共産主義・無政府主義、その他多くの『左翼』運動の科学的で理論的な根拠として進化論が使われてきました。その一方で『右翼』の哲学者は、『闘争』と『適者生存』というダーウィン進化論の概念を用いて、ナチズム・人種差別・帝国主義・自由放任的資本主義などの多くの有害な体系を正当化しようとしてきました。前者に属するマルクス、レーニン、スターリンは熱烈な進化論者でしたが、後者に属するヘッケル、ニーチェ、ヒトラーもやはり熱烈な進化論者でした。 世俗ヒューマニズムの教義として有名なヒューマニスト・マニフェストが1933年に宣言されましたが、その第一条と第二条では、宇宙と人類が進化したことを事実としています。どんな形であれ、無神論・汎神論・神秘主義は必然的に進化論に基づいています。 決定論・実存主義・行動主義・フロイト主義、その他の非道徳的心理学体系も進化論に基礎をおいています。進化論は、無神論やヒューマニズムだけでなく、汎神論(あらゆるものを神として崇拝)・神秘主義(霊との接触やそれへの帰一融合)・アニミズム(あらゆる事物に霊魂や精霊を認めてそれらを崇拝)などさまざまな宗教の根幹をなす前提です。 広く信じられている民族宗教(道教・仏教・儒教・ヒンズー教・他同様の信仰)はすべて、本質的にある形式の進化論に基づいています。 進化論の哲学は、ほとんどの反キリスト教的な社会哲学・経済哲学・宗教哲学の基礎であるだけではありません。今日世界を荒廃させている多くの反社会的で不道徳な行為(妊娠中絶、麻薬、同性愛、動物的不道徳など)に対して進化論という疑似科学が理論的根拠を提供しているのです」(ヘンリー・M・モリス『科学は聖書を否定するか』68~70頁、CRJ出版、2006年)。 三、人間は神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(創 造論、キリスト教) 健全な国家を建設するためには、外的規範と内的規範の両者が必要です ▽外的規範――人間の外側に表れた行為を取り締まるもので、具体的には法律です。 ▽内的規範――人間の内側の心を制御するもので、具体的には思想、信条、宗教です。 国家が優れた「法律」を制定しても、国民がその法律を守らなければ無法地帯になり、その法律を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その倫理・道徳を守るようにさせるものが内的規範である「思想・信条・宗教」です。国家と外的規範、内的規範の関係には基本的に三つのものがあります 1.国粋主義(右翼)の国家 国家は、法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために内的規範(思想や信条や宗教)を定めます。これは政教一致です。 2.共産主義(左翼)の国家 国家は、法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために、宗教を否定し、思想や信条を定めます。これも政教一致です。 3.民主主義の国家 国家は、法律(外的規範)を制定するだけで、思想や信条や宗教(内的規範)は国民が自由に選ぶことができます(信教の自由)。これは政教分離です。 健全で良い国家は、国が特定の宗教を定めて、国民に信じるように強制し、その宗教で政治を行う「政教一致」を否定し、また国の法律を破らない限り、どのような宗教を信じてもよく、また宗教を信じなくても良く、どちらも安心して暮らせるという「信仰の自由」がある「政教分離」の国です。 民主主義の国家こそ、「政教分離」と「信仰の自由」がある健全で良い国家であり、創造論を教えるキリスト教は、人権を最も重んじる宗教なので、民主主義の国家を建設することができるのです。次は2014年7月10日「聖書が教える国家(3)王政以前の国家の建設」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.07.03
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