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下関市立歴史博物館で開催されている特別展に来ました。 33.99593, 130.98402真新しい立派な施設です。入場券です。資料目録です。 館内は撮影禁止ですので、資料内容は撮影していません。当時の貴重な文書・手紙が展示されており、毛利を動かす輝元の悩みなど感じられました。
2019.10.31
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小城の千葉城跡へ来ました。 33.302750, 130.206237この一帯を領した千葉氏の山城跡だそうです。山頂は公園として整備されており、立派な展望台がありました。千葉城址展望台へ、しだれ桜が立派です。詳しくは、こちらをお読み下さい。
2019.10.31
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歴史博物館にて、東行記念館で以下の展示をやっている事を知りました。34.08595, 131.07119お出かけしませんか。 12/22までです。奇兵隊についての資料が得られそうです。
2019.10.30
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特別展に、10/31に行く予定と言ってましたが、当日予定があり、急遽今日10/30に行って来ました。内容(撮ってきた写真)は、明日にもUPします。
2019.10.30
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小城羊羹の村岡屋の小城羊羹博物館を見学。 33.301383, 130.204381左がお店で、右が博物館です。見学自由でした。打物菓子と言われるものの木型だそうです。館内には、羊羹作りに関する色んな資料が展示されていました。外に出ると、ずいぶん急な一本の階段が・・・須賀神社と云うらしい。その先に千葉城跡も在るそうです。より路してみましょう。
2019.10.30
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みやま市の松風の関に来ました。 33.09193, 130.53993国道443沿いに、この表示が建つのみです。大水(おおむつ)と呼ばれています。 松風の関 松風の関は古代からの築後の国と肥後の国を結ぶ街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。 平家物語に「寿永二年・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にうちこえて、・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。 寿永二年(1183)当時既に関所として菊池氏によってまもられていたこと、七世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うことがわかってきています。 その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしましたが、戦国時代の終わりに田中吉政が筑後国三二万五千石の領主として柳河城に入ると慶長六年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。続いて、柳川・肥後領境界石へ寄り道 33.08115, 130.53966筑後国の領境界石:湯谷柳川領境界石 ここにある新旧二本の境界石は、江戸時代に筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示すために建てられたものです。古い方は、江戸時代初期に建てられたものと思われ、一辺36cmの四角柱の花崗岩で作られています。三つに折れて中段と下段だけが残っており、現在高は3mです。表面の文字は、読みにくく鳴っていますが、次のように判読できます。 「(従是西)北筑後国立花(左近将監)領内柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」 新しい方は、古い方が折れたため江戸時代末期に取り替えられたものと思われます。一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱材で作られています。表面には肉太の文字で次のように刻まれています。 「従是西北筑後国柳河領 従柳河札辻四里二十町余」 以上、90Km程のドライブでした。
2019.10.29
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植木の伝郡界標・立石に来ました。 32.89306, 130.71374 この碑について①貞観元年(859)合志郡から山本郡を独立させた時、その由来を刻んで合志・山本・飽田の郡界を示す標示石を建てたが天文の中ごろ安藤道覚という大力者が西合志の上生に持って行ってしまい立石の地名だけ残り、この碑が建てられた。②ここは太宰府から肥後国へ通ずる古代の官道で、高道駅跡であるという説がある。そして、これが古代官道跡だと思われるとの事。畑として使われながらも、その形が残っているのが驚きである。そして、若宮古墳へ。 32.97766, 130.60589此処は、ついでに立ち寄っただけです。そして、古代官道巡りに戻って、江田の古代官道跡へ 32.98201, 130.60721古代官道の道の形が残っている事が驚きです。古代官道はこの様に一段低く掘られて、道幅は6mだった様です。そして、菊水の内田の渡しです。 32.98703, 130.5977古代官道は、ここで菊池川を渡る為に船で渡しを設けていたそうです。このほんの少し上流を高速道路が通っています。(古代官道と高速道路は近いところを通っています)この渡しを越えたら、正面の山を越える道だった様です。
2019.10.28
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古代官道跡を巡るツアーが実施されました。以下が巡ったルートです。最初に、「大湊」港は、現在の玉名駅裏手になる、との説明でした。32.925884, 130.549843立願寺に向い、玉名郡倉跡へ。 32.940149, 130.553582疋野神社内の郡倉礎石。32.938034, 130.552477そして、これが西南戦争の弾跡で、疋野神社の外板も見せて頂きました。
2019.10.27
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以下の情報を見附けました。お出かけになりませんか。ちなみに会長は10/31に行くそうです。同行希望の方は連絡を。天下分け目の戦い「関ヶ原の合戦」で敗れた毛利氏の軌跡を紹介する特別展が、山口県下関市の博物館で開かれています。1600年の関ヶ原の合戦は、徳川家康らの東軍が毛利氏の西軍に勝利し、江戸幕府が誕生するきっかけとなりました。下関市立歴史博物館で開かれている特別展「関ヶ原-天下分け目と毛利氏の戦い」は、国内有数の勢力を誇りながらも敗れた毛利氏に焦点を当てています。長府毛利家に代々伝わってきたかっちゅうは、戦いに参戦した初代の長府藩主・秀元のものとされています。当時、毛利家は家督の継承問題などを抱え、結束して戦える状況になかったことも敗因の1つとなりました。=下関市立歴史博物館・松田和也学芸員=「今の山口県に領土を減らしてしまうことになるがなぜそういう結果になったのかというところを解明すべく」特別展は12月1日まで、下関市の市立歴史博物館で開かれています。【下関市立歴史博物館】前期:10月27日まで後期:10月29日~12月1日まで●開館:午前9時半~午後5時(入館は午後4時半まで)●休館:月曜(祝日の場合、翌火曜が休み)●料金:一般500円大学生等300円18歳以下無料
2019.10.26
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熊本で資料展があるそうです。お出かけ下さい。
2019.10.26
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宮崎兄弟資料館に寄りました。 32.984796, 130.434491人形で、孫文と話している様子です。資料館内の兄弟生家にて。資料館で、「宮崎家の墓」の場所を教えて貰い、行きました。生家より海の方へちょっと行ったところです。 32.977985, 130.431876戦前は此処に「孫文記念館」も建てられていたとのそうだ。
2019.10.26
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荒尾二造記念碑が建ちました。 32.974274, 130.446746東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所跡地碑文 : 市屋の海岸から緑が丘までの約百万坪の敷地に戦時中、大火薬工場がありました。 (後略) 荒尾史学会の会長も、世話人に名を連ねておられます。
2019.10.25
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臥龍梅を見に来ました。 33.032398, 130.496879見学者が沢山いらっしゃいました。龍が臥せたような樹形の八重咲きの紅梅があります。樹齢450余年。全長およそ24メートルの梅を見るために、毎年大勢の観光客が訪れます。(大牟田市HPより)
2019.10.24
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仁王滝へ来ました。 32.961784, 130.545962ちいさな可愛らしい滝です。小岱山の八十八ヶ所霊所で、修行小屋が建てられています。滝の水で炊事が出来ます。何で「ぞうめき」かな?と調べてみたら、以下の記述が有りました。「ぞうめき」とは「ざわめき」から転じたものだそうです。うるさい? 「仁王滝」、小さい滝です。山口県にあるぞうめきとは無関係の様です。この滝のことは、19.06.10の140918小岱山・仁王ヶ滝にも掲載しています。合わせて御覧ください。
2019.10.23
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和水町には、八つの神様が祀られた場所が有ります。この内、多目的広場近くの「手足の神様」に寄りました。 33.067387, 130.626354白い水が湧いており「竜神がくれた乳の水」とのこと後日、他の神様も巡ってみましょう。
2019.10.22
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いよいよ合戦が始まりました。両軍、一歩もひかぬ戦いです。ほぼ勝ち負けが決まりました。最後に、豊臣軍の勝どきです。 見たくない・・・ちなみに、荒尾の小代氏はこの時、大坂で役務をしており、不参加でした。
2019.10.21
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「戦国肥後国衆まつり」を見学に、和水町の多目的広場に来ました。 33.065238, 130.622272すでに始まってました。福岡からの武将隊の演武です。 黒田官兵衛、清正家来、立花、らしい。福岡からですから・・・。ここで、まつりの案内ポスターです。 毎年開催です。一度お出かけ下さい。いよいよ「国衆一揆の再現」で、武者行列です。和仁軍総大将:和仁親実です。続いて、豊臣軍総大将:小早川秀包が登場し、両軍対峙しました。いよいよ合戦がはじまります。明日照会します。
2019.10.20
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プリントしてお使い下さい。
2019.10.20
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今日は、文化センターで荒尾市民病院主催の、人工知能の特別講演に出かけました。ので、「宇宙さくら」を撮ってきました。この様に、宇宙桜といえど日本の四季に従って、いまは葉も落ちて冬支度です。春を待ちます。
2019.10.19
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玉名郡倉跡に来ました。 32.940121, 130.553560 玉名郡倉跡は、発掘調査の結果、七個の礎石と多量の炭化籾が出土し、隣接して大きい掘立柱を総柱にした高床の倉庫跡も発見された。郡倉とは、律令時代、庶民が国家に納めた租税である米殻を収納する倉庫で、この郡倉は、南北100尺(約27m)、東西180尺(約48m)の長方形の棚列の中に、南北二棟、東西四列、計8棟の倉庫群が造営されたと推測され、7世紀末より9世紀末まで継続したと考えられる。 (後略) 現在は、推定地の石碑が建つのみである。
2019.10.19
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菊水史談会より、講演会ご案内のはがきが届きました。ぜひお出かけ下さい。
2019.10.18
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三の宮神社内にある、三の宮古墳です。 この古墳は、主軸をほぼ東西にとる全長60m、荒尾唯一の前方後円墳である。 (中略) くびれ部にある石人は、古墳を装飾する形衆石像で、衝角付かぶとをかむり短甲をつけた武装石人である。 (後略) 古墳は、木や竹が茂り、判りずらい。そして、石人がこれ。さらに、四方仏もある。 筑後馬篭の石工、助次の作品。助次は助継・介継の名も用い、三池普光寺、宮原・藤田の両天満宮、大川風浪神社などに三重塔、五重塔、板碑類九塔を残しており、そのほとんどが好塔として有名である。 (後略)
2019.10.18
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三ノ宮神社に来ました。 33.00266, 130.46564このように、大きな楠木があります。この楠木と、チシャの木と、浄業寺の銀杏の木で、「荒尾の3名木」ということでよいでしょうか。
2019.10.17
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山鹿の不動岩に来ました。 33.02938, 130.73613すぐ近くまで車で登れました。山鹿市の北東の蒲生山の斜面にそそり立つ不動岩は、第三期層の変はんれい岩です。 その昔、山伏達が不動明王を本尊として修行したことから、この名がついたと言われています。 (後略) 不動岩にまつわる伝説: 山鹿市三岳の彦岳と不動岩は異母兄弟で、母は実子の不動岩を可愛がっていた。ある日、母は首引きをして勝った者に宝物の3つの玉を与えると約束した。そこで二人は一生懸命力をふりしぼって戦ったところ、彦岳の方が強く不動岩の首がとんでしまった。これが今の首石であり、その時の出血で三玉の土は赤土となった。 (後略) 最後に、岩を真下から見上げると、こんな感じでした。
2019.10.16
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荒尾史学会の講演会が終わったところ、隣の会場から、寛平ちゃんが出て来ました。TKUの番組の収録だったそうです。放送日は、11/5(火) 19:00~ TKUだそうです。荒尾が取り上げられます。
2019.10.15
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今日の公演で、万田抗フェスタの案内が有りました。万田抗フェスタhttps://www.city.arao.lg.jp/q/aview/1/13916.html11月3日です。
2019.10.15
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11月度の予定です。
2019.10.15
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10月度例会講演がありました。万田抗の整備について真剣な提案が有りました。
2019.10.15
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さらに山に向い、米噛石に来ました。 32.94868, 130.53039「玉名の自慢」と書いて有ります。 米噛石は高さ5m、周囲10m。 竹林の中にあり、かつては住民がしめ縄を張って「山の神様」としてあがめていたという。巨岩に供えられた握り飯をこっそり食べた山男が、干ばつに苦しむ住民のため命懸けで雨ごいして田畑を潤したという昔話も残る。 「米神様」ともいわれ、幾つもの亀裂が入った姿はおにぎりのようにも見える。
2019.10.15
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築地の四十九池神社に来ました。 32.93937, 130.5299結構長い参道をとおりお参りです。周辺は公園として整備されています。碑文 この祭神は、大野領主及び奥方を四百年昔、築地の部落の氏子の方が祭った祭神である。大野領主は、天正年間、この地玉名を治められた領主であり、戦国時代の始め、隣接の小代氏との戦いに敗れ、其の折奥方々四十九人は、四十九ケ池に投身され、ゆえに四十九ケ池神社の名がついた由来がある。大野一族の霊を案じた部落の方達が主神阿蘇大明神の横に霊を祭ったものである。このたび、大野大明神を新しき床地に祭るにあたり、碑文をあげ紹介するものである。 (後略) そして、これが四十九池です。
2019.10.14
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順番が遅くなりましたが、宮内出目の浄業寺に来ました。 32.986500, 130.434619小代氏の菩提寺です。先ず、境内にそびえる銀杏の木小代重俊がこの地に武蔵国(埼玉県)から下向した。その際人民を平定するため、この浄業寺が宝治二年(1248)開基された。この銀杏は寺を火災から守るため開基当時に植えられたものと思われる。境内には、小代氏縁の墓塔や供養塔がある。
2019.10.13
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有明海苔づくりの見学会があり、参加しました。 名古屋で海苔の卸やを見学した事がありますが、有明海苔は高級で高額で扱われていました。海苔の受け入れタンクです。あらカット装置とゴミ洗浄装置のり貼りつけ装置。子供の頃、升ですくってすだれに一つずつ貼りつけた事を思い出しました。貼ったのりはそのまま乾燥機に入り8時間前後かかるその後、海岸に出て、貝探しをしました。
2019.10.12
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史跡散歩で断念した、韮塚城へ行きました。 近くの道路に、案内杭が建っていました。 32.962893, 130.439372なお、「まつのきどんのちしゃのき」となっていますが、後で説明しますが、同じ処です。前回の写真の畑の横の林に入ると、この様なところが見えてきました。ここが、韮塚(にらつか)城跡です。 32.96157, 130.43861「弥五郎六郎供養塔」と「まつのきどんのちしゃのき」と記して有ります。これが「ちしゃのき」です。以下に、その説明です。荒尾の名木にも選ばれている、と聞きました。多分、地元の人達により、草取りなどされているようでした。
2019.10.11
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続いて、梅尾城入り口に来ました。 32.97607, 130.50766城跡はここからしばらく登りますが、今回は登りませんでした。金城跡の神社に来ました。 32.95812, 130.47414ここには、抜け穴といわれる穴がありました。いまは、この程度の穴です。今もこうして残っているのが不思議です。以上で、史跡散歩の報告を終わりますが、計画を止めた所が、蔵満城(四の宮)、尾形山城、袴嶽城、田倉館、梅尾城、筒が嶽城、小野城でした。また天気の好い日に。
2019.10.10
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続いて、別当塚古墳に来ました。 32.99485, 130.47108ちょっとした丘になっています。続いて、井手城跡に来ました。 32.99652, 130.47817権現堂が建っています。井出城への別登り口です。
2019.10.09
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田次郎丸館跡に来ました。 33.00245, 130.43973先ず、「かずやコスメディア有明斎場」の横に、田次郎丸館の土塁と思われるものが残っています。駐車場に、説明板があります。近くにお宮があり、ここが田次郎丸館跡であり、薬師寺跡といわれます。ここは、周辺の古塔を集めてあります。このお宮(薬師寺)に、東光寺十三仏板碑があります。
2019.10.08
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2015年12月ですが、荒尾史跡散歩が実施されました。以下が、計画ルートです。最初の「大園山館跡」へ。 32.96605, 130.43939有明小学校の校庭内に説明板があります。 生憎の雨模様でした。次は韮塚城跡です。32.96157, 130.43861この道を進んで、畑の先の林が城跡ですが、何も痕跡有りません。蔵満城跡です。32.96019, 130.44274教育委員会の説明杭がありました。 この先の四の宮神社には行きませんでした。本村館跡の林です。 32.97576, 130.44584荒尾市民病院の駐車場横です、何の説明板も有りません。 林には入りませんでした。宮内城跡です。 32.98524, 130.43823ここも何の説明板もありません。 国道208号線沿いで、この辺・・というだけです。続きは、明日へ。
2019.10.07
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宮崎兄弟資料館に来ました。 32.984821, 130.434509入場券です。「中国「辛亥革命」を支援した偉大な兄弟」と書いて有ります。また、「孫文が2度訪れた宮崎兄弟の生家」と書いて有ります。奥の平屋が生家です。宮崎家は大変な土地持ちで、現在の荒尾市の中心部を保有していました。荒尾史学会でも、宮崎兄弟は何度も取り上げて、講演しています。
2019.10.06
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古城公園からの帰りに、扇崎千人塚に寄りました。 32.917087, 130.490085ちょっとした丘になっており、登ると、墓所と津波供養塔がありました。この墓地の標高が、現在7mですから、この下は津波に浸かってしまった様です。扇崎千人塚供養塔は、江戸時代の寛政四年四月一日(西暦一七九二年五月二十一日)、雲仙普賢岳の火山活動にともなう大地震による前山(眉山)崩壊によって引き起こされた大津波の犠牲者を弔った供養塔である。 被害は対岸の島原で一万人、肥後国で五千五百人に及び今日でも「島原大変、肥後迷惑」との□伝が残る。玉名、飽田、宇土の三郡と天草の有明海沿岸の村々を襲った。 特に玉名地域では、干拓地を造成中であった下沖洲村や鍋村での被害が甚大であった。玉名郡だけで死者二千二百一十一人と記録されている。 なお、この供養塔は、同年九月、肥後藩で建立したものである。凝灰岩製で縦高ニメートル五センチ、二段重ねの台石の上に高さI・五メートルの標石を立て玉垣で囲まれている。正面に「南無阿弥陀佛」と彫り、両側と背面の三面にかけて供養塔を建てた趣旨が刻まれている。同様の供養塔は被害の大きかった飽田郡、宇土郡にも建てられていて、「一郡一基の塔」と呼ばれている。 この供養塔は、有史以来の日本最大の火山災害とされる「寛政地変」による大津波の被害が当地において甚大であったことを物語る資料であり、玉名市の災害史上、忘れてはならないもので、多くの教訓を伝えるものとして、学術的価値の特に高いものである。
2019.10.05
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長洲町に「古城公園」というのを見附けて、サイクリングで出かけました。その途中、池のほとりに説明板を見附けたので、パチリ。 32.9334, 130.49165ゆっくり読んでみると、立派な行いの説明でした。鷲巣谷大堤(わしのすたにおおつつみ)と云うそうです。荒尾手永御総庄屋になった木原寿八郎さんです(手永は細川藩の行政単位で、庄屋の上に総庄屋さんが任命されて、多くの村を管理しました)。この辺りは水害と干害との両方に悩まされていたそうです。そこで木原総庄屋さんが決心して、この堤を作って、水の管理が出来る様にしてくれたそうです。この様な地元の歴史が、この様に説明板で伝えられている事に感心しました。古城公園(ふるじょう)に着きました。見廻りましたが、特に説明板も無く、良く判りませんでした。そこで、後日、ネットで調べてみたところ、こんな情報をみつけました。「赤崎古城」というようです。まだすっきりとはしませんが、小代氏の支城だった様です。
2019.10.04
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澁谷龍氏の講演です。テレビ局(RKK)の取材も有りました。澁谷龍:「探求 菊池一族」著者昭和27年熊本県玉名市生まれ。昭和46年熊本県立玉名高校卒業。昭和52年山口大学経済学部卒業。株式会社ゼニヤ(現・ジーク株式会社)入社。イベント事業室室長として、海と島の博覧会ひろしま、第一回ジャパンエキスポ富山、うつくしま未来博、えひめ町並博など会場演出ディレクターを務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 講演時のご本人の説明では、姓は父が戦時中に菊池から澁谷に改名したものだそうです。お墓まいりをすると菊池なので不思議に思っていたのが、菊池家系図調査のきっかけだった様です。 自分の家系調査の経験から、一般の家系図作りかたを講演して頂きました。参加者からは、「自分も家系を調べはじめたが、ここで行き詰っている、どういう方法があるか」など具体的な相談が相次ぎ、熱い講演会となりました。
2019.10.03
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「福島の菊池氏」展において、現当主の方の講演があるとの事で、でかけました。会場は、こころピアのすぐ前の玉名市民会館第2会議室です。 32.933959, 130.562027何で、当主が菊池姓でないのか、もうおわかりですね。イベント案内の、左手中央の講演会です。なお、右下の「家系図の作り方」も聞いたので、明日報告しますが、このご縁は、澁谷氏が本「探求菊池一族」を書いた事により、講演などを通じて福島の菊池氏と知り合い、また、澁谷氏が「こころピア」館長と高校の親友だったことから実現したという事でした。お陰で貴重な史料・講演に触れる事が出来ました。
2019.10.02
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刀の作り方の後、道場にて、据物斬りの実演が有りました。 32.978550, 130.469154直ぐ近くで見られて、すごい緊張感と迫力です。この後、希望者には剣を握らせて頂けました。重さを感じました。小刀・脇差などを結婚祝いなど、家宝として注文されるかたが多いそうです。
2019.10.01
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