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日之影町岩井川の弾痕石に来ました。32.65067, 131.37389崩れたのでしょうか?今はコンクリで固められていました。あまり説明文を見かけないのですが、薩軍の兵の訓練のため、この石を標的にして射撃訓練をしたように聞きました。
2021.01.31
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高千穂官軍墓地に来ました。32.71325, 131.30509官軍墓地: この小高い丘には、明治10年8月18日、可愛丘の戦いで戦死した陸軍士官見習い、村上清之進(広島県出身)をはじめ本郡内で戦死した全国の官軍兵士の墓42基がある。8月18日 可愛岳を突破した薩軍は~祝子川~鹿川峠~湾洞川越~岩戸と、険しい山岳地帯を越え三田井を急襲(8月21日)、その後、五ヶ瀬町~諸塚村~西郷~銀鏡~西米良~多良木~小林~城山についたのは9月1日でした。
2021.01.30
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天安河原宮に来ました。32.737703, 131.353142天照皇大神、天岩戸へ御籠り遊ばれた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より500メートル川上の此の天安河原は其の御相談の場所であると伝へます。此の河原の一角に「仰慕窟(ぎょうぼがいわや)」と称し間口40メートル、奥行30メートルの大洞窟があり、全国から願事がかなうとの信仰があります。石を拾って積みます。願いを叶えたい人たちによって、日々刻々と石が積まれていくようになりました。最奥にある社付近には無数に積まれた石が置かれていて、神秘的かつ幻想的な雰囲気を生み出しています。
2021.01.29
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天岩戸神社・西本宮に来ました。32.734284, 131.350092天照皇大神が御隠れになられた天岩戸(洞窟)を御神体として御祀りしている神社。住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎(たかやまひこくろう)の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀(はったとものり)礼参し、水戸の烈土井上主人義秀(いのうえもんどよしひで)等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛(かたつむり)」を残して居ます。
2021.01.28
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天岩戸神社・東本宮に来ました。32.732373, 131.349719うずめが舞っています。お詣りしました。社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)より御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしている神社。
2021.01.27
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引き続き、高千穂峡です。仙人の屏風岩: 対岸に広がる屏風面の岩を、仙人の屏風岩と言います。 上流の神橋付近から下流の真名井の滝・ボート乗り場付近までが自然の造形美の美しいところです。 槍飛: ここは、五ヶ瀬川のなかで最も川幅の狭いところです。 天正19年1591県の領主(今の延岡)高橋元種に高千穂が攻められたとき、三田井城が落ちた際、城を脱出した家来たちがここまで逃げのびたが橋が無いので槍の柄を手前の岸についたものは飛び渡り、向こう岸についたものは川の中に転落したと伝えられており、ここを槍飛びと言うようになりました。
2021.01.26
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引き続き、高千穂峡です。若山牧水歌碑鬼八の力石: 高千穂神社の祭神三毛入野命は弟の神武天皇とともに大和に行かれますが、伝説では再びお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この地を治めたといわれています。この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれています。
2021.01.25
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高千穂峡に来ました。32.701482, 131.300983高千穂峡: 高千穂峡は古阿蘇火山活動のとき溢出した溶岩流が五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、急激に冷却したため柱状節理の素晴らしい懸崖となった渓谷です。 ここには七ツ池と呼ばれる欧穴(甌穴)や真名井の滝が懸っております。おのころ島: 昔この池には桜川神社(滝津の妙見社)があり鵜の鳥はこの社に仕える神聖な霊鳥であったと伝えられています。高千穂神社の春祭では御神幸のおみこしがこの池を三度まわってみそぎをされます。北原白秋歌碑
2021.01.24
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馬見原の瀧専寺に来ました。32.680095, 131.156277ここは、西南戦争で薩軍の病院となったところです。こちらは、以前も訪問して、照会済みだったと思います。180514薩軍人吉道・山都町馬見原・龍専寺沢山の兵隊さんが担ぎ込まれたのでしょう。
2021.01.23
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馬見原の九州のへそに来ました。32.683485, 131.153558会員の方が、西南戦争の延岡方面の史蹟巡りに行かれて、沢山の写真を頂きましたので、ご披露します。最初に、馬見原で休憩、の様です。九州のへそのおこり: 蘇陽町の西側に降る雨水は緑川となって有明海から東シナ海に注ぎ、東側に降る雨水は五ヶ瀬川となって太平洋に注いでいる。つまりこの地点が九州の分水嶺となり、九州のほぼ中心に位置し、人間の体にたとえるとちょうど「へそ」の位置となるわけである。私達町民は、ふるさとを愛し、温もりのある自然との共存を考えた豊かな町づくりに心がけます。そう、ここは日向街道です。(西郷軍の熊本からの撤退ルートです)明徳山・官軍本営阯です。(写真が回転しません。何度やっても・・)
2021.01.22
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干潟水鳥・湿地センターが出来たので行ってみた。32.961659, 130.432647立派な施設です。有明海・干潟の事について色々展示されてある。干潟のモデル、「むつごろう」の飼育。「まじゃく」のスミカ穴。一匹でこれだけ。実際の穴に流し込んで固めたもの。定期的に、館長案内のバードウオッチング会が開催されています。双眼鏡、望遠鏡の貸し出しと操作説明があり、うまく使える様になりました。
2021.01.21
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引き続き、一部の薬師堂です。32.964752513777746, 130.44055421031524地名の一部は、以前は一分と書いていたらしく、その一分氏は、肥後小代氏の始祖重俊の五男資重が一分を領し、猫宮一族を率いて、小代水軍として活躍し、一分を名乗った。その一分氏の菩提寺三宝寺の跡に、この薬師堂が建ったということらしい。木像は荒れるにまかせた感じになっていた。お地蔵様の頭だろうか、並べられていた。国道208号から、有明小学校へ向かう道から、ここを左に入ったところに在る。
2021.01.20
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荒尾史学会の総会を開催します。2月9日(火) 18:30~荒尾中央公民館、2階会議室(何時もの場所ではありません注意)会員の方は、ご参加願います。
2021.01.19
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2月の講演予定です。
2021.01.19
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1月の講演、古代の荒尾の歴史が実施されました。
2021.01.19
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一部の薬師堂に来ました。32.96475156654894, 130.44055875930042道から、階段を上がる小さなお堂で、藪に覆われています。今は、あまり面倒を見る人が居ないような感じです。お堂自体は、まだ新しい木なので、建て替えられたのでしょうが、その後、あまり手がかけられない様です。福島先生の「有明地区の史蹟探訪」によれば、 小高い塚のような丘に薬師堂があり、本尊の薬師如来をまつる。享禄二年(1529)僧・円須により開かれたが、天正八年(1580)肥前勢の侵入により焼かれたと伝えられる。堂内には本尊以外に天神、阿弥陀、毘沙門天の木彫が安置され、天神像には、「文禄三年(1594)一月吉日、奉造立天満大自在天神造立老師慶口」と墨書きされている。との事である。ここは、一分氏の門前で、一分氏の菩提寺・三宝寺の寺跡と考えられる。一分氏は、有明小学校の大園山館跡の城主である。次回へ続く
2021.01.19
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的石お茶屋跡に来ました。江戸時代、肥後の殿様細川さん一行が参勤交代のため江戸へ東上の折、休憩をした史跡で、豊後街道の中で唯一面影が残っているところです。四季折々の庭園の風景は見事で、市指定文化財で裏山からの湧水は県の名水百選に、また蛍の百選にも選ばれています。平成28年4月に発生した熊本地震によってこの史跡も大きな被害を受けましたが、一部を除いて見学が可能です。(サテライト21HP)(的石とは、)阿蘇国つくりの主、健磐龍命大明神は弓の達人で、いつも往生岳に登っては北外輪の麓の巨石を的にして矢を射られた、という伝説が残っています。的石とは、この時に的にされた大石で、矢が当たった勢いで穴があきくるりと回ったと伝えられます。そのため穴は北側を向いています。(サテライト21HP)美しいお庭が維持されています。
2021.01.18
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白川の上流です。根子岳より熊本市内へ流れています。見晴台駅:32.817409, 131.109869 午後の紅茶のCMで有名に自動販売機は、午後の紅茶のみ、です。そして、高森駅、到着。32.81966096857663, 131.1226365295983高森線は国鉄時代、高千穂線(後の高千穂鉄道高千穂線)と結ばれて九州横断鉄道の一部となる予定であったが、高森線開通時には高森 - 高千穂間の工事予定がまだ決まっておらず、駅は利便性を考えて町の中心部に造られた。九州横断鉄道全通時には、高森トンネル(現在高森町が運営する高森湧水トンネル公園)の入口付近に駅が移転する予定であったが、高森トンネルの出水事故や国鉄再建法成立などにより九州横断鉄道建設は中止となり、駅移転の話も立ち消えとなった(Wikipedia) 日清戦争後、横断鉄道計画が立案されたが、その後1922年の改正鉄道敷設法で熊本 - 立野 - 高森 - 高千穂 - 日ノ影 - 延岡という鉄道計画が最終案となり(熊本 - 立野間は豊肥本線)、同年高森線(現・南阿蘇鉄道高森線)立野 - 高森間の工事が着手された。しかし国の財政難で工事が中断された。 高千穂 - 高森間27.0kmの工事も1973年に着工、1977年完成を目指して工事が進められた。 ところが1977年2月、掘削中の高森トンネル(予定延長6500m)の入口から2050m地点の坑内で、地下水の水脈を誤って切断したために毎分36tの異常出水が発生。結局これが原因となって中断された。(Wikipedia)ここで折り返します。
2021.01.17
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阿蘇の山を見ながら、トロッコ列車はゆっくりと進みます。車内は、車掌さんが居て、色々楽しく案内してくれます。マップで見たら、吉田城跡との事です。32.823053, 131.072094線路の反対側には、吉田城御献上汲み場との事。32.822471, 131.073173水汲みされていました。おいしいのでしょう。(熊本県観光サイト)白水村のほぼ中央に位置していた吉田城のご献上汲場として知られています。吉田城は、阿蘇家の重臣 吉田主水頭(もんどのかみ)が在城していたといわれます。阿蘇家の主城の一つとしてこの地に君臨し、阿蘇家が矢部郷をあわせて支配した当時、この城は位置的に非常に重要な役割を果たしていたといわれ、この地域一帯に広大な土地を所有していました。そのため、修復野(城主使用のカヤを立てたところ)、馬場(馬の調教訓練場)、外園などの地名が残っており、当時付近一帯は町なしで繁栄を極めたと言われます。 この吉田城の使用水を一手に引き受けていたのがこの吉田城御献上汲場で、今でも往時をしのばせるきれいな水が岩間から絶えることなく吹き出しています。カッパのいる明神池です。32.823933, 131.078461 明神池水源は、旧白水村のほぼ中央に位置する湧水地で、現在、広さ752平方メートルの池となっています。湧水は池のいたるところから噴き出しています。この明神池は、もともと約5070平方メートルもある広い沼沢湖だったのですが、昭和28年の大水害や、その後の公園整備で埋められ、現在の姿となっています。以前の明神池は水を満々とたたえ、遠くに見える南外輪山が借景となり、景勝の地として知られていました。ここの湧水は飲むと子宝に恵まれるといわれ「誕生水」と呼ばれています。途中の白川駅の駅長さんです。32.82250007244882, 131.0842054693741
2021.01.16
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トロッコ列車の到着です。結構乗っています。ここ中松駅で折り返しになります。乗ったままの人もいました。外輪山を眺めながら、高森へ向けて出発です。
2021.01.15
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南阿蘇村一関、中松駅に来ました。32.827442, 131.053537トロッコ列車に乗ろうかと思っています。駅の喫茶店はお休みでした。ガンダムで有名のようです。ホームから外輪山です。トロッコ列車が入って来ました。ガンダムがお迎えです。
2021.01.14
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途中、萌の里でコスモス見物。32.842442, 130.938581夜は、かんぽの宿で夜神楽見学です。32.926689, 131.108275大変感動しました。毎年見たいのですが、現在はコロナ禍で中止の様です。見事、おろちが退治されて、終わります。
2021.01.13
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柳川の歴史文化講座があり、テーマは「立花宗茂夫人ぎん千代」でした。そこで頂いたぎん千代の年表です。拡大すれば読めるかと、UPしました。
2021.01.12
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中腹にある、招魂社に来ました :32.796087, 130.688636: 殉職警察官・県官の碑 : 明治9年10年24日警察官らは、熊本城を中心として発生した県士(神風連)の暴動の鎮圧等に従事中、その襲撃を受け、これに応戦したが多勢に無勢のため敵刃に斃れる。その奥に、薩軍砲座の跡 :32.796626, 130.688022: (前略) この地は、52日間に及ぶ熊本城攻防戦の際、薩軍が熊本城攻撃のため大砲を引き上げて城を砲撃した場所として知られています。大砲の弾は、熊本城まではとどかず、途中の新町や段山付近に落ちたとも言われています。同じ所が、官軍墓地になっています。:32.796313, 130.688030: この陸軍埋葬地には、神風連で倒れた熊本鎮台の116名が埋葬されています。
2021.01.11
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花岡山 (標高133m)より熊本城を望む。薩軍が砲台を設置し、熊本城を狙った。熊本駅方面。新幹線が入って来ました。
2021.01.10
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年度が変わりまして、総会を開催予定です。2月9日(火)18:30~ 会員の方集合 中央公民館2F会議室(何時もとは違います)なお、講演会は、予定通りです。 1月19日(火) 年会費を徴収します。 2月16日(火) 3月16日(火)です。
2021.01.09
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腰掛石 :32.796583, 130.685710: 熊本城築城の際、石を切り出す指揮を執った加藤清正が、兜を脱ぎ腰掛けたといわれる岩。当地で熊本バンドが結成されたことを記念する碑。清正公 清藤大明神堂 :32.796689, 130.685083:https://ameblo.jp/rosegardenwind/entry-11758090646.html偲徳殿 :32.796725, 130.685209: 仏舎利塔を建てた指導者・藤井聖人を偲ぶ
2021.01.09
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見たぞ、7並びやっと、見ることが出来ました。7が並んでます。ちょうど19時でした。
2021.01.08
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アクセス件数の7並びが、今日になりそうです。現在 77,570 ですので、あと少し・・何時になるのでしょうか?
2021.01.08
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護国神社に来ました。 :32.807460, 130.699460: 続いて、花岡山に登りました。 :32.796567, 130.686015: 仏舎利はインドのジャワハルラール・ネルー首相から、尖塔の黄金コタはスリランカのコテラ・クラ首相から送られた。兜石 :32.796654, 130.685603:熊本城築城の際、石を切り出す指揮を執った加藤清正が、兜を置いたという。
2021.01.08
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新一丁目御門跡 :32.804193, 130.698740: 「清爽園」(せいそうえん) :32.804193, 130.698862: 特別史跡「熊本城」の二の丸の入り口にある池泉回遊式庭園で、かつてここには熊本城の正面登城口であった新一丁目御門があったとされます。弔魂碑 殉難碑 : 明治初期の佐賀の乱、神風連の乱および西南戦争による戦没者の霊を祭るための弔魂碑と、西南戦争における県民の殉難碑が明治12年(1878)に建立された。 正面から見て左側が「佐賀、台湾、熊本、鹿児島四役戦死者弔魂之碑」で、右側が「熊本県人殉難之碑」である。
2021.01.07
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周辺の石碑を次々と紹介します。御駐驛之跡 :32.806414, 130.701790: 天皇陛下が行幸されたのを記念してして建てられた石碑です。昭和6年(1931年)11月12日~14日、昭和天皇統監の陸軍特別大演習が行われ、その時天皇がお見えになりました。F 「神風連首領 太田黒伴雄 終焉之地」碑 :32.804560, 130.699402: 夜明けとともに態勢を建て直した鎭臺兵は反撃に転じます。太田黒伴雄は銃弾を受け重傷を負ったため、近隣の民家を借り義弟の大野昇雄の介錯により自刃します。享年43。里程元標跡 :32.804117, 130.698716: (りていりげんぴょうあと) 熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後(熊本)藩の種々の政令を掲示する「札辻」(ふだつじ)と呼ばれる広場がありました。この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、薩摩(さつま)、日向街道(ひゅうがかいどう)の里数が測られました。その際に、一里、二里、三里・・・と進むごとに、街道の両側に榎(えのき)を植えてこれを里数木と称していました。現在でも、バス停や駅の名称に、「一里木」、二里木」、「三里木」などといった当時の呼称がそのまま使われているところがあります。このモニュメントは、歴史街道の起点を保存し、後世に伝えるものです。平成6年11月 熊本市長 田尻靖幹 と刻まれています。熊本電信発祥の地 :32.80421, 130.6985: 1874年(明治7年) 佐賀の乱, 1877年(明治10)年 西南戦争が勃発し, 現地と東京との間の 連絡は 電信で行われたという。ただし 当時の電信は 長距離の伝送ができなかったため, 要所要所に中継所があって 人間が一旦文字に書き取り それを 次の中継所に発信する という方法が取られたため, 通信文が宛先に届くのは かなりの時間がかかったという。
2021.01.06
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熊本城へ行った会員の方から写真見せてもらいました。空中廊下です。場内の方は、まだ崩れたままなんですね。外周りの石垣は、石を外して、番号打って、並べてあるのですが。空中廊下ですね。よく造ってくれました。おかげで場内の見学が出来ます。こちらは、崩れたまま、ですね。
2021.01.05
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時習館跡 32.807566, 130.702551 細川重賢が宝暦五年(一七五五)細川藩の子弟を教育するため開いた学校である。科目は儒学中心の道徳、社会、人生に対する知識及び武術であった。第一代教授(学長)は豊後(大分県)鶴崎出身の秋山玉山で、この学校には有名な学者が多く集まった。明治三年(一八七〇)廃校。熊本藩の藩校です。藩校時習館 - Wikipediaをご確認下さい。続いて、「西南戦争 籠城将校家族避難之跡」碑 32.807959, 130.703279 大正12年5月に建立されました。西南の役時に熊本城に籠城した鎭臺将校の家族は敵弾の飛来を避けるため、西之丸の空堀に天幕を張って避難したと言われます。鎭臺司令長官・谷干城少将の久万子夫人を中心に負傷者の手当や慰問に努め、将校の信望を集めました。城内の道路の脇にひっそりとあります。そして、内堀を隔てて、熊本城の、この時の様子です。天守閣の改修や、崩れた石垣の番号付けなど、大忙しの状態です。
2021.01.05
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「明治九年神風連之変 将士奮戦之跡」碑に来ました。32.807531, 130.702430ところで、神風連についてはご存知ですよね。神風連の乱 - Wikipedia現在は「乱」では無くて、「神風連の変」だと習いました。鉄砲でかためた鎮台へ、槍・刀で切り込んだのですから、死を覚悟ですね。歩兵第13連隊第4中隊の兵達は、この大楠の下で円陣を組み、銃剣をかまえて神風連第一隊と奮戦し、破れたと言われています。
2021.01.04
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アクセス数ですが、次は、77,777 と7並びが楽しみです。密かな予想としては、7日か8日くらいか?と思っているのですが??さて、何日の何時になるのでしょうか!?
2021.01.03
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県立美術館を出て、周辺の史蹟めぐりをしました。熊本城内です。まず、「明治九年神風連之変 軍旗染血之跡」32.806490, 130.700218二之丸駐車場(歩兵第十三聯隊跡)を出て護國神社に向かう途中にあります。大正10年7月に建立されました。歩兵第十三聯隊の軍旗を奪還したのち、再び神風連に奪われるのを防ぐため佐武広命中尉は軍旗を腹に巻いて奮闘中に負傷、中尉の鮮血が染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれます。此処は、現在野鳥園で、かつては細川家の重臣小笠原備前守の武家屋敷があった処です。
2021.01.03
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引き続き、菊池氏展です。そして、蛍丸が展示してありました。(これだけ撮影OKでした)ほんとに大きなものでした。
2021.01.02
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新年、明けましてお目出度う御座います。県立美術館で開催の「菊池一族展」に来ました。32.807573408751495, 130.70054439103473館内は撮影禁止、ですので、パンフレットで推察下さい。菊池氏に関係する多くの仏像が展示されていました。
2021.01.01
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