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今年もあと14分・・・残念ながら、9826件で、年越しとなりました。今日も、35件と、伸びませんでした。有難う御座いました。また、新年よろしくお願い致します。
2019.12.31
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荒尾史学会で、田原坂周辺の、西南戦争巡りをしました。最初に、立願寺の高津原官軍砲台跡32.93895, 130.5595ここからの眺めの写真を撮り忘れましたが、玉名平野を一望出来ます。菊池川を越えて攻めて来る薩軍を撃退する為の様ですが、あまり活躍した記録は無いようです。これらの石にくさびを打って、砲台の車停めにしたように言われている様です。今は、樹木に覆われて、忘れられています。説明板なども有りません。
2019.12.31
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玉名郡和水町中林の金栗四三生誕地に来ました。33.062629, 130.603679現在は、生家も整備されましたが、2017年は記念碑が建つのみで、実家は放置されたままでした。四三さんは、ここから尋常小学校に走って通学し、「すっすっはっは」を始めたとのことです。大河「いだてん」の視聴率が伸びず残念です。
2019.12.30
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最後に資料館内も見学しました。熊本城攻防戦の配置図です。高瀬・岩崎の戦いです熊本鎮台の隊員写真がありました。宍戸正輝:薩軍を潜り抜け、官軍本隊へ鎮台の様子を報告し、更に鎮台に戻って報告した人です。(長州藩士と思う。) 谷村は鎮台に戻れませんでした。
2019.12.29
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現在アクセス数 9700です。意外と伸びませんでした。26日、27日が27件でした。残念巻き返しは、少々難しいところです。年内は無理でも、早々の達成に、期待です。
2019.12.28
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薩軍陣地のひとつに来ました。戦いの配置図を見せて貰えました。熊野座神社です。32.916243, 130.651176戦闘の激戦地となりました。多くの弾丸が出てきました。神社で掘り出された弾丸の一例
2019.12.28
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田原坂の歴史ウォーキング講座のご案内がありました。先ず、資料館前の展望台より、全景を視て説明がありました。32.911593, 130.651739三の坂あたりです谷村の石碑です。谷村が高瀬の官軍本部に報告している様子・・・(
2019.12.27
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少し離れた「あんずの里」という所に、親永の銅像がありました。33.02746, 130.77082続いて、七城町の増永城へ寄りました。32.97485, 130.76401七城町は、日本一を受賞した米で有名ですが、菊池の外城の内7城もあった事から地名になったそうです。なんと、此処は、西郷家の発祥地だそうです。菊池氏の家臣として活躍後、一部が鹿児島へ移り住んだようです。今回の史跡巡り、終りです。
2019.12.26
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館跡から少し下った所に、墓所がありました。33.04961, 130.79201よく残っています。地元の人の努力が伺えます。清潭寺(せいたんじ・隈部氏墓所)
2019.12.25
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隈部氏館跡に来ました。33.05562, 130.79662隈部氏は、国衆一揆の首謀者の隈部親永です。隈部親永の墓。柳川より近頃移動されたそうです。 一揆後、秀吉が許さず、柳川の立花家にて、放し討ち(黒門の決闘)という切腹では無くて決闘という形で処分され、丁重に葬られていたそうです。庭園跡小高い山の中腹に、大きな館が建てられていた様です。
2019.12.24
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鞠智城に来ました。 33.00143, 130.78903鞠智(きくち)城は、菊池近くの菊鹿(きくか)町に在りますが、今の菊池とは字が違い、古くは(くくち)とよんだそうです。 鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、大和朝廷(政権)が築いた山城です。 663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つで、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』など、国の歴史書にも記載のある全国有数の重要遺跡として、平成16年2月27日に国史跡に指定されました。米倉です。
2019.12.23
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現在、9400 です。20日から、117件アップという事で・・・目標に届きそうで・・いまいち・・というところです。以前の記事を見直し、したりして、ご協力お願いします。
2019.12.22
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菊池神社の資料館入り口にある菊池本丸跡の碑 32.98805, 130.81579真っ先に兵を挙げたのは、六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永でした。佐々成政が、隈部氏の居城の菊地城を攻めると、菊池城はあえなく落城。隈部親永は息子の親泰とともに山鹿の城村城に立て篭もります。そして菊池神社菊池神社は、明治3(1870)年、菊池一族が本拠地としていた守山城(菊池本城)のあった場所に建てられた神社で、12代武時、13代武重、15代武光が主祭神として祀られ、16代武政以下一族26名が配祀されています。
2019.12.22
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現在、9354です。前回から、71件プラスですが、前日+10時間を経過していますから、まったくとどいて無いと云う事です。何とか、年内一万件達成の為に、よろしくお願いします。よろしく!!
2019.12.21
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引き続き、城村城です。33.04598, 130.67545畑の脇に、記念碑が建っていました。続いて、菊池城跡へ向う途中です。高木元衛門像、菊池市街まちかど資料館わいふ一番館前 32.98523, 130.81103その隣に、将軍木とありました。そして、菊池公園、菊池武光像です。(
2019.12.21
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現在のアクセス数が、9283です。一万件まで、717.と言う事は、一日平均65.2件のアクセスで達成出来そうです。ちょっと苦しいところでしょうか?もともとアクセス数を気にしたサイトでは有りませんが、1万件はひとつの区切りになりそうです。皆さんのご協力をお願いします。目指せ、年内1万件達成!!
2019.12.20
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和水町の坂本城へ。33.110819, 130.621236登山口までで諦めました。登り口は、33.1085, 130.62052 です。標識が立っています。下の説明板は、もっと下の道路脇にありました。33.10302, 130.62259城跡は坂本集落のほぼ真北にあって、城山と呼ばれる山稜の末端部(標高差役280m、集落との比高差約190mに位置しています。(中略) 天正7年(1579)には辺春親貞とその子親行が在城しており、親行は、田中城主和仁親実の姉を妻としたことから、天正15年(1587)の肥後国衆一揆の際は、和仁一族と共に田中城に籠城しました。しかし、辺春氏の裏切りで田中城は落城してしまうことになります。 西吉地字村の輪に菊水線沿いの水田地帯の一画には、辺春氏の供養塔がひっそりと建っています。続いて、城村城へ。 33.04598, 130.67545 城村城は、「肥後国誌」によると、菊池氏三大家老(城・赤星・隈部)の一人である城氏代々の居城といわれています。 天正15年(1587)、佐々成政は、検地をしようとしました。それに反抗したのが隈府城の隈部親水です。親水は成政に攻められ、隈府城は陥落し、息子の親安のいる城村城に生き延びます。城村城には、付近住民総勢約1万5千人が籠城し、8月に成政が攻め込んでくると、激しく抵抗しました。一揆は肥後全土に広がり、この戦いを肥後国衆一揆と呼びます。城村城は最後まで落城せず、隈部父子は、12月に成政側の和睦に応じる形で城を明け渡しました。次へ続きます。
2019.12.20
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田中城本丸です。33.07835, 130.59552 建物は復元されていません。城山を降りて、城山全景です。小さな小山です。(前略) 田中城の東側の水田の中を流れる小田川は、戦いの際に流された血で真っ赤に染まった水が何日間も流れていたといわれ、別名「血波川」とも呼ばれています。和二城三の丸城主(出丸)和仁人鬼親宗奮戦の地
2019.12.19
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和水町から菊池へ、史跡巡りがありました。和水町の田中城跡に来ました。33.07835, 130.59552 此処は、秀吉を怒らせたという肥後国衆一揆の舞台でした。一万の秀吉軍に囲まれても、38日間も籠城しました。下が、弾正屋敷跡です。弾正とは、国衆一揆の際に田中城に籠城した和仁三兄弟のひとり、和仁弾正親範のことと思われます。田中城本丸です。田中城 続きます。
2019.12.18
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1月の予定です。ご参加、お待ちします。
2019.12.17
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2019.12.17
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12月の月例講演会が実施されました。「荒尾の生産遺跡(窯業)」です。熊本県の窯跡が90程あり、荒尾に60が集中している、との事。九州各地に荒尾の生産品が見つかっている。中世の陸海の街道により運ばれたのであろう。
2019.12.17
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四つ山神社に来ました。33.002170, 130.426618四つ山展望所より慰霊塔があります。そして四つ山灯台です。
2019.12.17
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豊前街道・白坂に来ました。33.029592, 130.615623豊前街道 白坂: 豊前街道の中で、昔に近い景観がよく保たれている場所である。 (中略) また、「肥後隈本軍記」によると、戦国末期の天正15年(1587)肥後で起こった国衆一揆においては、山鹿の城村城において隈部氏との戦いを繰り広げていた佐々軍に対し、食糧物資を届けた立花宗成軍の帰路を、和仁・辺春・大津山軍がここ白坂で襲ったという。この襲撃をきっかけとして、和仁・辺春氏も一揆に加担し、田中城に立て籠もることになったと伝わっている。新しい標識碑も建っていました。33.037457, 130.588048肥猪官軍墓地に来ました。33.038495, 130.586060南関町追分がありました。 追分の道しるべ (南関町大字細永字尾楢): 追分とはもともと道路の分岐点を指すことばで、あわせてその周辺に形成される集落のなまえにもなりました。またそこには旅人が休息するための茶屋や飯屋ができ、物資の流通拠点に発展することもありました。 ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人のための道しるべが建てられました。石柱に「左やまか道」、「右たかせ道」と大きく文字が彫り込まれています。残念ながら建てられた年代はわかりません。 道しるべのうしろに、左から地蔵さん二体、早馬(ハユマ)神社、恵比須さんが祀られています。早馬神社は牛馬の神様として信仰されてきましたが、その源流は古代駅伝制の駅馬(ハユマ)にあるといわれています。 また、ここから旧豊前街道を関町方面へ250mほど進むと、沓掛(くつかけ)という地名の畑地が広がります。沓掛とは履き古した沓を道端の木に掛けて旅の無事を祈るということから、休泊場所や難所にさしかかる地点の意味に転化したことばです。 この沓掛一帯を、古代の南関地区に存在したとされる「大水(おほむつ・おおず)駅」跡の有力な候補地と考える研究者もいます。
2019.12.16
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更に豊前街道を進み、光行寺に来ました。33.02807, 130.63305豊前街道岩村 細川家御休憩の光行寺 (豊前街道の要所にあり、参勤交代の細川藩主のお茶所でした。門の軒瓦には「九曜の紋」が入っており、歴史の深さが感じられます。)続いて菰田水夫の碑に。菰田水夫の碑: 寛永14年末天草四郎を首領とした一揆が勃発、細川忠利・光尚父子の命で出陣、菰田水夫は150艘の船団を組織し島原の陣への物資輸送に大活躍した記念碑。豊前街道平野: 薩摩藩主島津家久公(天正3年)泊 細川忠利初入国の街道 吉田松陰通過街道
2019.12.15
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腹切り坂に来ました。33.02676, 130.63874左の道が旧豊前街道の腹切り坂への道で、右は車が通る新道です。腹切坂(三加和町大字岩字池入):永ノ原台地(西南戦争古戦場)から寺本に下る約200mのこの急坂を「腹切坂」という。道幅3mの左側は深い侵蝕谷となり、右側は急崖となっている。腹切坂の名はすでに慶安四年(1651)の「御帳之控」に見える。「小倉路」にも「下り急長し」の記載があるように、参勤交代の道中でも屈指の難所とされたところであるこの坂道も戦後迂回道路の新設(昭和45年)に伴い、地域住民の生活道路としての使命を終えた。この坂には次のような伝説がある。昔、西国の武士が、ひょんなことから人を殺し、敵とねらう若い武士から逃れようと諸国を逃げまわっていたが、しょせん逃げられぬ運命と悟って、この坂の途中で切腹して果てた。それ以来腹切坂という異名がつけられたという。そのほか、この坂には源平合戦に敗れた平氏落ち武者のある武将が、また一方、江戸時代、江戸から肥後細川家への大事な書状を預かった飛脚が、いずれもこの坂で腹を切り、覚悟の死を遂げたという言い伝えもある。今は整備されていますが、それでも相当な急坂です。西南戦争では、田原坂の様に、坂を登りたい官軍と、坂を降りたい薩軍が、土塁に隠れて戦ったのでしょう・・・坂の横に豊前街道の案内マップが、
2019.12.14
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山鹿市立博物館を過ぎ、443号線をまたぎ、豊前街道を進む。すぐの所に以下の標識。33.0269, 130.65996豊前街道を北上しようとする薩軍と、阻止しようとする官軍との戦いが、田原坂以上の激戦があった様だ。道沿いに豊前街道の標識途中に、玉名・山鹿郡境碑があった。33.02651, 130.651 古く古代からの要所路であった様だ。西南の役古戦場跡: (前略) ここ永ノ原台地から西に下った集落には、三浦少将率いる第三旅団の本部が置かれた光行寺と、その横に官軍を埋葬した下岩官軍墓地がある。豊前街道 薩軍墓地: 畑の向うに見える森の中に通称「賊軍の墓」といわれる、薩軍墓地がある。車坂の険を??て攻めのぼってきた薩軍は、この台地北端の腹切り坂を駈け下り、政府軍を南関方面??い上げた。その激闘の中で倒れた味方を塹壕を掘って埋めて、前進したところである。
2019.12.13
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山鹿口の戦い、飫肥隊奮戦地に来ました。33.019925, 130.666030鍋田口米良隊(飫肥三番)墓所の塁には敵前日の敗を雪がんと激しく之を攻撃せしも、飫肥隊死力を尽くして防戦し敵をして一歩もその地を侵さしめざりき、此の日の戦い官軍死屍銃器を遺棄するものその数幾ばくなるを知らず、午後五時をもって開戦し午後二時に亘りて遂に官軍の敗に帰せり。 薩南血涙史は飫肥隊奮戦の模様(三月十五日)をこう記している。この墓所を塁が此の地である。明治十年の西南の役では田原坂の激戦が余りにも知られているため、山鹿口の戦いは影が薄いが、ここ鍋田一帯の攻防戦は田原坂に劣らぬ激戦だった。南下する小倉十四連隊を迎え撃ち、官軍の拠点南関を攻略せんとする薩軍は知勇兼備、西郷総師の右腕と呼ばれた桐野利秋率いる薩摩第四大隊と宮崎(日南市飫肥)の飫肥隊、熊本協同隊の連合軍約二千五百人、官軍は三浦梧楼少将の第三旅団四千余人、二月二十四日の初戦から薩軍が隈府方面へ退却する三月二十一日までの二十六日間、此の一帯で死闘が展開された。此の墓所の明治十年以前の墓石の殆どが銃砲弾で欠けていることからも戦闘の凄まじさが伺える。 西南の役百十周年を迎えるに当たり、飫肥隊奮戦の一端を碑に記し、憂国の至情に燃えながら悲涙をのんで散華した飫肥隊烈士の御霊に捧ぐ。お墓の石を弾よけに戦ったようで、墓石が砲弾で砕けた跡が多く残っています。田原坂と変らない程の戦いがあったようです。今はひっそりとしています。
2019.12.12
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加藤清正を祀る横島の加藤神社に来ました。32.882725, 130.563903横島町:清正公の遺徳を偲び建てられた加藤神社:菊池川河口の大幅な河川改修工事を行い、石塘の築堤を作り、水田にした。工事が困難だった為、人柱が建てられたそうだ、合掌。神社の横の石塘の水門
2019.12.11
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西南戦争の研究家から「池部吉十郎が傷を負って隠れたお宮」と教わりました。32.92697, 130.58493当時はもっと木々に隠れたところだったのでしょう。そして、玉名市玉名の西南戦争の本営跡(官軍)に来ました。32.94528, 130.56575
2019.12.10
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滝廉太郎記念館に来ました。32.966734, 131.391358 (前略)竹田時代は、廉太郎にとって多感な少年期でした。学校の裏にある岡城址の探検や音楽など、 (後略) きつねの親子: 家の縁の下にキツネの親子がすみつきました。廉太郎は・・・(後略)瀧 廉太郎とライプチッヒの友情のバラ: 瀧廉太郎は1901年、19世紀のドイツが生んだ偉大な作曲家メンデルスゾーンが創立したライプチッヒの音楽院で本場の音楽を学びました。 一方、メンデルスゾーンの生家は、 (後略)
2019.12.09
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横島の高台にある池部吉十郎の墓に来ました。32.881714, 130.559850池辺吉十郎の墓: 幕末、維新に際し、学校党の英傑として世にしられた池部吉十郎は何等一片の私心なく、尽忠報国の国家的見地から西南の役(明治十年)には、熊本隊の隊長として千数百の隊士を率いて西郷方に味方されたが戦い利なく、捕えられ十月二十六日長崎に於て処刑された。 (後略)池邊重章(吉十郎)の墓此の詩は挙兵前、先生が佐々友房と鹿児島行の時、村田親八と会見し、共に大事を謀るに足るとして衷心深く怡然たるところあり其帰途加治木に於て是れを賦し、佐々に示したる決意の詩であるPS:池部吉十郎の子=池部三山:日本のジャーナリストの先がけ。朝日新聞主筆。二葉亭四迷や夏目漱石を入社させた。PS:佐々友房:戦国武将、佐々成政の子孫という。熊本日日新聞社長。池辺吉十郎(新聞人・池辺三山の父)の門下生だった。濟々黌高等学校を作った。 初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行と、婦人運動家から参議院議員になった紀平悌子は孫に当たる。
2019.12.09
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白水の滝に来ました。32.882631, 131.277845湧水による滝で、珍しい様です。途中に、御茶屋敷跡もありました。
2019.12.08
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河宇田湧水に来ました。32.939299, 131.393671そして、とり天を頂きました。
2019.12.08
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古い写真ですが、由布川峡谷に来ました。33.235385, 131.450905ほぼ垂直な壁の底へ。由布川の清らかな水です。
2019.12.08
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屋久島の朝焼け、今日もがんばろう。せんひろの滝 30.262366, 130.582171ここからの登山道案内相当急な登りの様です。高速船で鹿児島港へ、開聞岳が見えました。31.180723, 130.523112屋久島、終りです。
2019.12.08
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屋久島の西側に。いなか浜に来ました。30.406871, 130.433198きれいな浜です。ウミガメについては、永田ウミガメ連絡協議会 西部林道に来ました。30.390547, 130.391677少し森林浴ウォーキングしました。モッチョム岳がきれいに見えました。30.257020, 130.564202
2019.12.07
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仏陀杉に会いました。30.304805, 130.575240さらに紀元杉にも会いました。30.302748, 130.545729途中で、お猿さんに会いました。
2019.12.06
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ヤクスギランドに来ました。30.304854, 130.575261森の中を歩きます。空気がおいしい!リフレッシュしました。
2019.12.05
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平戸の史跡巡りを続けます。
2019.12.04
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屋久島に来ました。福岡から双発機です。早速、屋久杉自然館 30.309093, 130.632940 で、屋久杉について勉強します。折れ落ちた枝でも威厳があります。紀元杉の枝年輪が数えられます。1660歳だそうです。部屋からの眺めも素晴らしい。
2019.12.04
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一夜明けて、さあ今日も元気に・・・
2019.12.03
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ちょっとバンコクのお寺へ。暁の寺(ワット・アルン)・・・改装中でした。13.743716, 100.488905王宮・エメラルド寺院(ワット・ブラケオ)半日コースの現地ツアーで、1人1,200BHT(約3,600JPY)のお決まりコースでした。13.751695, 100.492701タイ料理レストラン・・・店名=Cabbages&Condoms日本でも名が知れた観光客向けのタイ料理レストランで名前の通りに帰る際にはCondomが無料で取り放題でした。13.736252, 100.557866
2019.12.03
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熊本に「ねぶたが来た」と言うので見に行きました。32.807083, 130.701762ねぶたが見えて来ました。これです。「ケッパレ熊本!」:震災からの復興
2019.12.02
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引き続き史跡巡りの旅・写真です。初日が終りました。飲んで寝るぞ!
2019.12.01
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玖珠の山の中で、合宿しました。33.34115, 131.20846電話も使えないそうです。奇岩に囲まれています。ごちそうさまでした。
2019.12.01
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