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「尾田の丸池」です。32.885245, 130.593423「平成の名水百選」にも選ばれています。「尾田の丸池: 玉水の平野部をくねくねと蛇行しながら流れる尾田川。「九十九曲り」といわれるほど曲折に富んでいる。 その水源が尾田の丸池。絶えることのないゆたかな湧水で、熊本名水百選にも選ばれた。一日に約6百tの水が湧出していて、休日には多くの水汲み客が県内外から訪れている。 この一帯は通称「池ん頭」と呼ばれている。 付近は旧藩時代は御建の池と称され、池守がいて殺生禁断の池だったが現在は好釣場となっている。」周辺の田畑をうるおしています。
2019.07.31
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今日は、鹿児島へ出かけて、西郷さんのゆかりの地をめぐりました。後に詳しく照会するとして、今回は行った所を紹介します。征韓論に敗れて、鹿児島に帰った時の足跡を中心に。最初に、桐野の開墾地へ。続いて、西郷さんの開墾地へ桐野の誕生地へ晋さんの誕生地へ南洲墓地へ。西郷さんの墓です。
2019.07.30
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横島の山をおりて、干拓地へやって来ました。明丑堤防です。32.861714, 130.539541「 明丑(メイチュウ)堤防: 明治26年、栗崎寛太氏他6名の人達により築堤された。横島干拓として43番目で面積89町歩である。 同じ年に他の人達による明豊開も完成し、明治35年には大豊開も完成した。 ( 後略 )」元は、ここは海で、石垣が堤防です。今は、このずっと左端に新堤防が出来て、この所も畑になっています。この堤防の作りと、長さ・・・畑を増やしたい、人々の熱意を感じます。ちなみに、俗称「玉名の万里の長城」と呼ばれている、とか、いないとか・・・上から見ると、こんな感じです。長い堤防です。
2019.07.30
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引き続き、横島の山の上です。下の道路からよく見える木製の展望台です。古城の天守のようにも見えます干拓歴史広場の隣に、経塚史跡公園があります。「史跡経塚: 石塘築堤工事成功祈梼の地であり、経文を埋めたところで横島のシンボルである。 石塘はもと丹倍津といって潮流急激の瀬戸であった。加藤清正公はここをせき止めて小田牟田の良田を得るため工事に着手されたが、其の工事は困難を極め、遂に人柱の犠牲と読経の功力によって成功したと伝えられている。 時は慶長10年11月、今から4百年前のことである。 石塘築堤4百年に当たり、経塚史跡公園整備は5千9百有余全町民の願いであり、これを記念して8百25字の経文を一人一石に書写埋経し、町民各位の繁栄と子孫長久を祈願して経塚を永年に亘り維持保存し、清正公と先人の遺徳を偲びその業績を讃え顕彰する。 平成14年11月吉日」さらに、桜の木があります。この桜は、「一心行の桜:この桜は、東海大学農学部で、有名な一心行の桜の種から育てた桜です。大切に見守って下さい。 平成13年4月吉日」
2019.07.29
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横島の山の上展望公園に登りました。32.883305, 130.560275この山の石碑です。「 史跡 展望台 中世の山城跡であり海上交通の目標となる重要なところであった。ここは御坊ヶ塚といわれ五輪の塔があり住民の信仰の場所であったと思われる。又すばらしい展望所でもあったので明治になり遥拝所(ようはいじょ:遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所)に定められ大正4年天皇即位大典を記念して遥拝之碑が建てられた。このほど公園整備にともない碑を修復した。」公園内に、「干拓歴史広場」があります。「 干拓歴史広場 : この施設は、約400年にわたる横島町の干拓の歴史を現わした施設です。 横島町は、現在地「山の上展望公園」の位置する横島山以外のすべての土地が46回にもおよぶ干拓事業により生れました。 そこで、横島町の誕生の歴史である「干拓」の歴史を、永く後世に伝えることとともに、広く多くの方々にも紹介する施設としてこの広場を整備しました。 (後略) 」広場の床面に干拓地をモデル化してあります。実際の干拓地が見渡せます。干拓史 の説明板干拓史 : 何年にどの土地が誰によって干拓されたか。1605年の加藤清正の干拓から1967年の国営干拓まで。広大な農地が作り出されました。
2019.07.28
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大牟田の解脱塔へ来ました。33.017659, 130.468697説明板から、「解脱塔 由来 : この解脱塔は、三池炭鉱の囚人苦役で次々に非業の死を遂げていった人たちが葬られているもので、俗に囚徒墓と呼ばれているものの一つであります。明治21年(1888)8月死者の霊魂が冥界をさまよわず、浄土に成仏するようにと祈って、三池集治監吏員の手で建てられたものであります。 三池炭鉱で囚人労働が始まったのは、官営炭鉱として発足いたしました直後の明治6年(1873)の7月、そうして明治21年に官営炭鉱が三井の所有になってからも、囚人労働はそのまま続けられ、昭和6年(1931)3月に終止符がうたれるまでの58年間にわたって続けられました。 その歴史を振り返りますと、先づ三潴県(後で福岡県と合併)の監獄囚50人が出役し引き続き福岡、熊本、長崎、佐賀などの各県から囚人出役が相次ぎました。そうして囚人達を収容するために大規模な三池集治監が設置され、特に西日本全域から無期刑などの重罪囚を、三池炭鉱の坑内苦役へ駆り立てたものであります。 こうして始まりました三池炭鉱の囚人労働は、民営になった後の三井にも引き継がれました。即ち「一般鉱夫を募集することが頗る困難であることや、囚人出役が安定した上に廉価な労働力として便益が大きい」ことを理由に、囚人労働の継続を強く政府に要請した結果、この願いが聞き届けられ、その後は、三池炭鉱の全労働者3千百3人の7割に当る2千百44人という大量の使役にまで増大し、これによる出炭量も、官営当時僅か6万トンにすぎなかったのが、三井になってからは38万トン台へと膨れ上がり、国内出炭量の2割を占める、我が国最大の炭鉱へと発展していきました。 この原動力となった囚人労働は、明治5年(1872)に維新政府が制定しました監獄則によれば「獄トハ罪人ヲ禁鎖シテ之ヲ懲戒スツトコロデアッテ、決シテ人ヲ痛苦、残虐スルノガ目的デハナイ-人間の自由拘束-」と宣言した獄政の理想も、明治18年(1885)には、時の内務卿山形有朋によって「囚人労働の目的は懲戒にあり懲戒駆役に堪え難き痛苦を与え、罪囚をして囚獄の畏るべきを知り、再び罪を犯すことの罪念を断たしむるにあり」と獄政の方針を大転換の上、これを各県に訓示して、強制苦役へ駆り立て、残酷、非道が繰り返されました。こうして三池における囚人労働者は、収監数延6万千5百44名、志望者数2千4百27名(年平均約58名)の多くが病死、変死、狂死、縊死(首をくくって)等による非業の数々が記録に残されています。 (中略) 今ここに崩壊寸前の解脱塔を維持保存のために、心温かい多くの市民各位の御協賛を賜りまして、「福岡県近代史」を語り継ぐ遺産であり、「郷土史探訪」の地としての小公園化の悲願もようやく達成することができました。御支援を頂いた関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。 ここに囚人労働者の歴史の一端を記して、地下に眠る数多くの霊魂を、大慈大悲の功徳をもってお守り給えと、地蔵菩薩を安置して、その御冥福をお祈りする次第です。 安らかにお眠り下さい 合掌」周辺は、勝立工業団地緑地として公園化され、桜の季節でした。
2019.07.27
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玉名の「西郷小兵衛戦死の地」です。32.923903, 130.558561「 西郷小兵衛は西郷隆盛の末弟。明治10年(1877)、西南の役に薩軍一番大隊一番小隊長として出陣。2月27日の高瀬をめぐる攻防戦で、繁根木川を境にして繁根木八幡宮に立てこもる官軍大部隊と激戦を展開、堤防上で陣頭指揮をとっていた小兵衛は銃弾を胸に受けて戦死しました。31歳の若さでした。 (後略)」田原坂から10km程西にあり、田原坂の戦いの前哨戦として高瀬の戦いがありました。高瀬周辺は焼けたり、相当な被害を受けてしまったそうです。
2019.07.26
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玉名に来て、保田木城跡に寄りました。32.931186, 130.564451菊池氏の一族で、高瀬氏居城です。住宅地となっています。「 南北朝時代の正平2年(1347)、菊池武尚がここ保田木台に保田木城を築きました。ここは菊池川の下流をおさえ、有明海に臨む要衝の地だったのです。 武尚の子武国は高瀬氏を名乗り、代々の高瀬氏はこの城を本拠として菊池本家を支え、海外にも活発に進出しました。5代武教の名は朝鮮の「海東諸国紀」に出たほどです。(後略)」現在は、保田木大明神の神社が在ります。
2019.07.25
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四ツ山に登りました。33.002180, 130.426535四ツ山古墳の説明板です。さらに、「虚空蔵菩薩降臨の跡地」の記述も有りました。説明にも記述されてますね。入り口は封鎖されてますが、離れて見る事が出来ます。四ツ山神社です。古墳はこの後ろです。五円玉で有名です。
2019.07.24
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日中友好発祥の聖地 記念像が在ります。32.982336, 130.464384市民運動公園の交差点前にあります。「「世界は一つ」 中国革命の父・孫文と郷土の先覚者・宮崎滔天の両人をかかげたこの石碑は、日中国交正常化前の1965年10月、荒尾市在住のある一人の男の情熱とそれを支持する多くの有志によって建立された。 1911年の中国辛亥革命は、欧米列強のアジア進出が進む時代に抗い、世界諸民族の自由のために、中国に新しい国を誕生させるべく立ち上がった革命家・孫文とその盟友・滔天によって成し遂げられ、自由・平等を基調とする民族・民権・民生の三民主義を礎に、アジアで初めての民主共和制国家を樹立させることになった。 市中央の小高い丘に立つこの石碑は、日本で唯一、両先覚者が並ぶ記念像として誇り高く存在し、孫文と滔天の友情の歴史が日中友好の架け橋となり、千万年の後までも両国の友好交流が続くことを温かく見守っている。」荒尾には、今は「宮崎兄弟資料館」が在りますが、ここはそこから3km程の所にあります。「日中友好発祥の聖地記念像 由来之碑 小代の霊峰に暮雲流れ、雲仙の雄岳に、落日燃ゆる香麗明媚の有明の海辺に、アジア革命史上不朽の光彩を放つ、一この快男子が生れた。その名を宮崎滔天(1870年明治3年12月6日生)と云う。 波乱万丈を極めた滔天悲劇の生涯は、隣邦大地の天地に理想の実を結び、新中国誕生の因子をなした。今に国父と仰がるる孫中山に一代の豪俊たらし、黄興も悉く集い来って荒尾の浜に世界震憾の革命を劃策せる昔日の夢の何と豪華絢爛たることよ。 この東洋の偉大なる大浪漫の精神に共通の理想があり、孫文(1866年11月12日生)は、新中国に民族、民権、民生の各自由平等を基調とする三民主義を施し、博愛と世界大同を唱え、滔天は四海平等無我自由であり、世界の潤滑油になれと云い、万国共和の極楽郷の建設を理想とし、盟友孫文に夢を託した。 孫文・滔天と親交のあった熊本県出身の最後の国士、紫垣隆は自らを大風と称し人間の価値を高める仕事に感謝し、人間が人間を敵に廻す不合理から超越し、人間相互が感謝し合い、賛美しあう、豊かな心をもった国民の輪を、世界に広げる運動に一生を捧げ日中友好発祥の聖地として、明治の先達孫文滔天両先覚回天記念像をここに建立された業績は大きく悠久不変の平和を実現する為に、心から祈念してやまないものである。 福田赳夫、ニコニコ堂代表、委員長佐藤常雄など」
2019.07.23
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聖人塚板碑です。32.99004, 130.48484木に囲まれて、見え難くなっています。ちょうど地元紹介誌に記事がのりました。1570年頃は、小代氏が全盛期であり、豊後、筑後、肥後に所領を拡げた時期です。
2019.07.22
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8月のカレンダーをUPします。プリントしてお使い下さい。先日、蔵満城の写真をUPしておりますので、合わせて御確認下さい。8月の定例講演会は、20日(火曜)です。
2019.07.21
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熊本県立美術館にて、「菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」が始まりました。出かけるつもりです。皆さんもどうぞ
2019.07.20
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平戸へ観光に行きました。「オランダ井戸」です「お寺と教会が見える景色」の写真スポットです平戸城。改装中で入城出来ませんでした。
2019.07.19
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尾形山城跡に登りました。32.97972, 130.44944おかちやまと呼ばれています。本村城の詰め城「尾形山城」があった所です。城跡の説明文などは見ませんでしたが、展望台より小岱山を望みます。展望台が出来ています。ここは、水道局の施設となっています。施設の屋上が展望台として公開されています。有明海側を望みます。
2019.07.18
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2019.07.17
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予定通り、「菊池川・米づくり」の講演が有りました。米にまつわる歴史を知る事が出来ました。
2019.07.17
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隣町の日嶽城跡です。32.95172, 130.52148登り口の八幡宮横にある説明板です。「日嶽城は、中世大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)の地頭として栄えた、大野一族の山城であったといわれている。 古代における日嶽(標高201メートル・別名 鶴城)は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも言われている。 有明海に敵の船が侵入してくると、狼煙を上げ、次々とリレーして、菊池の鞠智城まで伝えたのではないかと考えられている。 天正九年(一五八一)日嶽城主大野弾正少弼紀親祐は、かねて不仲の小代左近将監親忠(長洲町から荒尾氏にかけた野原荘の地頭)と戦って敗退、つめの城日嶽も落ちて、大野別府地頭大野氏は滅んだのである。」途中から、急な坂で階段が設置されていました。ひと汗かいて、やっと山頂です。山頂の説明板です。有明海の見張り台として、有明海が見渡せます。小岱山から見るよりも良く見えます。地元の方々によって整備されていました。
2019.07.16
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講演会の前に、柳川古文書館を訪問しました。玄関の柳川城は写して良いそうなので、パチリ。講演で詳細が説明されるでしょう。大河ドラマにするように運動しているそうです。ぎん千代さんは、長洲のぼたもちさんで亡くなりましたし、宗茂は、関ヶ原後改易された時、玉名市高瀬に滞在しましたので、大河ドラマになれば、玉名や長洲も紹介されるのでしょうか。しかし、そうそう九州が続くのは難しいかな。
2019.07.15
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柳川で、講座の第一回が開催されました。満席でした。遠くからの参加も有りました。講演会のレジメです。P1のみ開催場所です。この施設の中の部屋にて。この中にはお風呂やストレッチマシンも有ります。柳川市は、市民サービスが優れていると感じました。
2019.07.15
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赤田公園です。32.957482, 130.493002荒尾の人も、玉名の人も、癒しの場所です。「赤田池は、江戸時代(加藤清正の時代)の初め「かんがい用水」として作られた小池で、中の島の両端には古墳が2基残っています。」加藤清正公の実績のひとつとして永く親しまれています。中の島です。以前は良く渡っていたのですが、今は渡りずらくなっているみたいです。
2019.07.15
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「賀庭寺古塔群」をご紹介します。32.96661, 130.49148賀庭寺は廃寺ですが、きれいに整備されています。「賀庭寺古塔群: 賀庭寺は保元年間(1156~1158)に延暦寺の末寺として建立されたと伝えられる天台宗の寺院である。かつては荘園領主の庇護のもと、寺内に44の僧坊があり、多くの寺領を有し繁栄したというが、戦国時代に衰え廃寺同然になった。江戸時代の初めに再興されたが、明治初年廃寺となった。古塔群は、寺跡に残っていたものに併せ、広く周辺の山野、集落内に散乱、埋没していたものを収集し再構成したものである。現在は宝塔41基、五輪塔118基、板碑4基、の合計163基がある。これらの古塔は形容、位置とも元のままではないにしても、賀庭寺の歴史、石塔の変遷を知る上で貴重なものである。」宝篋印塔(ほうきょういんとう)ずらりと並ぶ石塔このような方の努力により保存されているのですね。
2019.07.14
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「大園山居館跡」に来ました。32.96605, 130.43939現地の説明文です。「有明海をのぞむ、高さ二十mの増永大地には昔から「大園さん屋敷」とよばれる高地があり、その場所を「大園山」ともよんでいました。 (後略)」 ここの領主は、重俊の六男・資経と言われているが、系図によれば、五男・資重が領したといわれている。表示されている地形図を拡大。周辺の現在の様子です。実はここは、有明小学校の敷地です。この正門内の左手に説明板が有ります。校内に入るには許可を得て下さいネ。全く余計ですが・・・、同じ日に、池に鴨がいるのをパチリ。
2019.07.13
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今回は、蔵満八幡宮です。32.95913, 130.4415前回の蔵満城跡のすぐ近くです。実は、蔵満城の場所については異論があります。この八幡宮が蔵満城跡だとする意見です。周辺は堀切で囲まれており、城跡の様にも思います。いずれ白黒つくのでしょうか。
2019.07.12
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今日は、「蔵満城」へやって来ました。32.96019, 130.44274現在は、住宅に囲まれています。「小代氏の一族・蔵満氏の居城跡。現在、城跡に天四柱神社をまつる。城跡は、美名尻地区の丘陵地末端部(標高13m)に位置する。丘陵地の背面は広い平坦地となっているが、家屋が建て込んでいるために遺構の確認が困難である。」天四柱神社
2019.07.11
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今日は「梅尾城」に登ってみます。小代氏の居城です。先日、登り口を紹介しましたが、その登り口です。梅尾城跡です。32.97872, 130.50962 休憩所があり公園として整備された様子があるのですが、あまり利用されていない様です。「城主は、小代行平という。城跡は、小岱山の西方端部(標高147.3米)にある。本城跡は、筒が嶽城の登城口にあたる府本町の最高所にあることから、筒ヶ嶽城主の平時における居城と見なされている。東にフロン(風呂)谷、北にカジヤ(鍛冶屋)谷があり、北の尾根は、幅7~8米の堀切で仕切られている。地元の人はこの堀切で仕切られた北東の尾根筋(長さ百米、幅20米)を「馬かけ場」と呼んでいる。城跡周辺には「殿の屋敷」「土居内」等の地名が残っている。」
2019.07.10
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府本の小岱山登り口横にある「菩龍の瀧」です。32.977960, 130.516193マップでは「生目神社」となっています。行者の修行の地の様で、「九州88ヶ行所」との表示が在りました。いまもきれいにされています。今は、車が通る道が出来て、道からすぐ入れます。
2019.07.09
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府本の奥、「梅尾城入口」までやって来ました。32.97607, 130.50766城跡へは、ここから暫く登ります。筒ヶ嶽城を「詰城」として、梅尾城を「麓城」としていたと思われる。後日登りますが、今日は入口まで。梅尾城 「城跡は、小岱山の西麓、前嶽の南に延びる尾根に築かれた三の郭よりなる山城で筒ヶ嶽城跡の出城である。三の郭の南は堀切に仕切られて、北西方面に延びる二の郭と、北東方面に延びる。二の郭は、長方形の平坦地をなし、先端に円丘状の高所があり、裾野の傾斜面を02・03の堀切で仕切る。三の郭にも長方形の「馬かけ場」と称する緩傾斜面があり、東側に土塁跡、西側に険しい削り落しの跡がみられる。また北東のくびれ部分に小規模な04・05の堀切が設けられてある。一の郭は城の南方に位置し、西側の崖壁を削り落とし、台地を削平し凹地に埋め、南側に「左く」の字形の土塁を築く等の普請をなしたことから「埋の尾」(梅尾)の城名が生れたのではあるまいか。山麓の「古畑」に梅尾館、「土居内」に家中武士を配し、ここから西、権現山に至る道路をつくり、古府本の集落をここに移し、揚・町等の城下町「フモト」(麓)を営んだといわれている。梅尾城は鎌倉時代、小代家惣領、重康によって築城され廃城は文保二年(1593)である。」#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#小代氏,#居城,#梅尾城
2019.07.08
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荒尾市府本の熊野宮に、「宿町御免之碑」がある。32.97553, 130.49553(説明)府本の熊野神社境内に六角石柱があり、「亨保元年開基 宿場御免 七月 荒木七良兵衛」と刻まれており、宿場町として認可されていたことが判る。(説明:肥後国 くまもとの歴史より)熊本より植木でわかれ木葉・高瀬町・金山・府本・岩本を経由して筑後三池に至る三池往還は江戸時代初期にも要路であった。街道制確定後は三池街道とよばれ往来者も増えて、府本町は1716年(享保元年)には藩主より宿町として許可された。それを記念する宿町御免の碑が1743年(寛保3)3月に熊野宮境内に建てられている。肥後国 くまもとの歴史そして熊野宮。近くには、御茶屋跡と御成門がある。細川藩の交通の要衝であった。
2019.07.07
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荒尾には、戦時中、陸軍の火薬製造施設が在りました。「東京第二陸軍 荒尾製造所」、略して「荒尾二造」と呼んでいます。その施設の中で、変電所跡が、当時の姿を残しています。32.97857, 130.45912中には入れません。
2019.07.06
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小岱山麓にある、「中国人殉難者慰霊塔」にやってきました。32.97346, 130.52462おとづれる人も少ないらしい・・・三井三池炭鉱で働かされた中国の方々を慰霊しているそうです。近くに、岩の上に観音像が有ります。説明板です。「中国殉難者観音略縁起:この聖観音さまは、願主深浦さんが熱い悲願をかけて建立されたものであります。今を去る四〇年昔太平洋戦争中に強制連行された中国人非戦闘員2,481名は三井三池鉱山で坑内重労働に酷使されました。しかも無辜の住民を敵国虜囚として使役したのですから、その残酷さは筆舌に尽くせないものがありました。僅か1,2年という短期間のうちに564名という大量の人が現場で死亡している事実をみても、その苛酷な重労働と残忍な虐待が想像できるというものです。願主の深浦さんは当時三井三池鉱山の職員としてこの悲惨な現状を眼の当りに目撃してきた人でしたが、40年この方夢寐にも忘れ得ず、遂にこの聖観音建立となったのでした。その間あられもない迫害に遭遇するという苦境もありましたが、よくこれらの運命を乗越えてきたというだけに、この観音さまには深浦さんの熱い涙がかけられているのを仰ぎ見ずにはいられません。幸い深浦さんは悲願を同じくする同志たちと力を合せて、この観音さまを本尊とする慰霊塔建設の計画を着々と進め、小岱山上の霊域を結界するに至りました。この上は一日も早い悲願成就の為に、皆さまの結縁が祈られてなりません。合掌」
2019.07.05
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筒ヶ嶽城の見張り台と言うか、四つ原から城への出入りを監視していたと思われる、現在「長助金比羅」と呼ばれる嶽に登りました。当然、筒が嶽からも行けますが、今回は、四つ原登山口から登ってみました。ここに車3台程の駐車スペースが有ります。32.9936, 130.53127すぐ、この様な階段(九州自然歩道なので整備されています)があり、山頂までずっとこんな感じです。小岱山の登山道の中では最も急な登りだと感じました。山頂です。32.98849, 130.52759山頂は、狭い岩場です。山頂からの眺めです。グリーンランドの観覧車、その先に有明海、諫早方面まで見えます。西田さんの講演で頂いた資料を示すこの様な縄張りで、筒が嶽城を守っていたと思われる。
2019.07.04
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海達公子さんの歌碑を見つけました。32.99578, 130.42871「有明海に注ぐ小さな川口の有明海の干潟の中にすわるように乗っている船の帆柱がとても高く感じる」堤防から島原を望む諫早方面。 満潮で「がた」が見えません。
2019.07.03
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「日本最後の仇討ちの地」に寄りました。石碑が建っています。32.960393, 130.565876「文久元年(1861)四月六日、江戸細川藩邸で入佐唯右衛門が下田平八、中津喜平の二人を殺し、逐電した。残された平八の妻田鶴(たづ)喜平の妻寿の(じゅの)の両家では、苦しい生活に追われながら仇討ちを誓い、再び家名を立てんと遺児らには文武に励ませた。十年後、唯右衛門が山口藩に捕えられ、熊本藩に送られることが分かった。田鶴や寿の、平八の遺児らは護送の役人に頼んで、ここの宇津呂木谷に連れ込んでもらい本懐を遂げた。時に明治四年四月十六日(1871)、三年後の明治六年二月七日に太政官布告で仇討ち禁止令が公布されたので、これが日本最後の仇討ちとなった。」
2019.07.02
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今日は、玉名の「蛇ヶ谷展望台」をご紹介です。32.948082, 130.548355公園内の展望台ですので、整備されています。「蛇ヶ谷の由来」です。拡大してお読み下さい。展望台から東方面の景色です。九州新幹線の新玉名駅です。32.942518, 130.573633手前に医療センターの看板が見えますが、ここに西南戦争の官軍本営が置かれました。32.945381, 130.565736右上の先の方に田原坂が在ります。この平野でも戦いが行なわれています。ちょうど、新幹線が出発しました。左へ、博多へ向います。
2019.07.01
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