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平山の光徳寺に来ました。32.994300, 130.501723正門の上の彫り物が見事です。 平山小路の天福(てんぷく)山光徳寺は、小代家の老臣福山刑部光長が永禄4(1561)年に山鹿郡方保田(かどだ)西光寺了覚の門弟になった後、得度して善正と名乗って平山に一寺を建立した。光徳寺、藤原加賀守供養塔(左端)、石幢(中央)石碑の裏面、藤原の字が読めるこの石搭について、以前の講演会より、関係部分を記す。「 さて次に、荒尾市平山の光徳寺に在る二つの石造物について話を移す。 まず、年代の古い『154 平山広徳寺笠塔婆(石幢)』で、この石造物の年代は文明十二庚子(1480)年願主加賀守藤原忠弘とある。このことにより、小代加賀守の実名は『忠弘』ということがわかる。 次の『162 広徳寺阿弥陀如来立像板碑』の年代は、延徳元(1489)年乙酉初冬十六日・・・と板碑正面の左枠にあり、下部右側に、宗鎮、左側に妙泉の法名が残り、正面右枠に願主加賀守忠弘とある。このように願主名に加賀守忠弘と残されているので、上の石造物と同一人物が建立したことがわかる。 それでは、宗鎮、妙泉の法名の人物は誰なのかということであるが、『荒尾の文化遺産』によると、小代泰弘のこと、妙泉はその妻のこととしている。つまり、「一念弥陀佛即滅無量・・・」の碑分から加賀守忠弘が、自身の両親である宗鎮、妙泉の現世安穏と後世往生を願った板碑であるとのことである。 これにより、『通史編』には系図が載せてあり、加賀守の小代氏における位置がわかった。」藤原加賀守=小代加賀守=小代忠弘 であり、家長では無いようです。
2020.01.31
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三池氏の居城・大間城跡に来ました。33.048257, 130.475282大間城跡: 東若宮八幡宮一帯は、中世三池地方の領主であった三池氏の居城(館)跡と伝えられ、通称大間城跡とよばれている。 (中略) また、当八幡宮の周辺には、空堀・土塁・水濠などの遺構も残っており、本城の縄張りは、東北・南北それぞれ200m四方の広さであったと推定される。本丸跡の神社大間城の土塁大間城の土塁・・・結構高低差あり
2020.01.30
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陣屋跡近くの、劫月院跡石像遺物(六面地蔵)に来ました。33.048188, 130.477645道路の角に区画を作って石碑がまとめられている。六地蔵。笠は無くなっている。他の石造物
2020.01.29
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三池藩の陣屋跡に来ました。33.045710, 130.482319今は、大牟田市立・三池小学校です。学校のフェンスに説明板があります。三池藩主居館跡: 初代藩主立花種次は、元和7年拝領、三池新町の陣屋の館に居住。文化3年7代種善の時、奥州陸奥国下手渡に移封。嘉永4年8代種恭の時、半知復封し、再びこの地を所領し、明治維新を迎えた。 眼鏡橋、石段、掘割などは往時の面影を残している。陣屋へ上がる石段。今もグラウンドへの登るために使われている。石段へ行く前の眼鏡橋現在は、周辺は住宅地となっており、道路は狭く、大きな車は入れない。
2020.01.28
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四つ山灯台の麓の市民花壇に来ました。32.996880, 130.427189市民のボランティアで、こんなに立派に咲かせています。
2020.01.27
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小岱山の自生ツツジを見に出かけました。満開でした。天気も好くて最高でした。
2020.01.26
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正代、残念だったけど、まだまだ! 頼むぞ! 期待してます。
2020.01.25
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大相撲、正代関の快進撃が続いている。是非、好結果となって欲しい!正代氏は、荒尾の小代氏と、多分に繋がった姓であることが想像される。正代氏は、熊本の宇土に多い。全国的にはめずらしい姓である。小代氏は、荒尾が本拠地で、今は菊池・阿蘇に残っている。小代氏の、発祥地とされる埼玉県東松山市正代は、「正代」である。そういった意味で、小代氏の兄弟筋が分家の時、「正代」と名乗ったのだと思われる。いずれにしても、熊本の代表としても、是非、好結果を得て欲しい!!頑張れ! 正代!!
2020.01.25
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菊水史談会と、大牟田の有明高専の登り口にある、萩ノ尾古墳に来ました。33.003216, 130.470841近くのお店で鍵を借りて、扉を開け、中を見学させて頂きました。古墳の説明パンフです。
2020.01.25
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春のよき日に阿蘇へ。山賊旅路で「だご汁」を食べて。32.933642, 131.070065阿蘇駅で自転車を借りて。32.933642, 131.070065見て下さい、この真っすぐな道路。広域農道の様です。32.947001, 131.031668乙姫神社にお参りして。32.943363, 131.033084帰りは豊後街道を。最後はバッテリーが切れて、大変でした・・・
2020.01.24
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引き続き、むかし話腹赤 昔、景行天皇は、悪者どもを討ち従えるため兵を率いて九州へ下った。天皇は豊前、日向を経て肥後に入り、芦北の日奈久から船出をして八代・三角・島原を経て、六月三日に玉名郡の長洲に向かった。船が岸に近ずくと、無数の魚の泳いでいるのが見えた。お供の者がこれを釣って天皇に差し上げた。その魚の腹が赤かったので、そのあたりは「腹赤」と呼ばれるようになった。虚空蔵さんと鰻 昔、うなぎは虚空蔵さんの春属(神の使者)と信じられていた。それで、漁師が多かった大島では、うなぎを食べると虚空蔵さんの怒りにふれて豊漁が望めないといわれ、うなぎを食べないようになった。がわっぱとお竹どん:出典詳細:熊本のむかし話(各県のむかし話),熊本県小学校教育研究会国語部会,日本標準,1973年12月20日,原題「がわっぱとお竹どん」備考:舞台は荒尾市平井の井出川との事。 昔ある所に、大変いたずらもののがわっぱ(カッパ)たちが住んでいる川がありました。 このいたずらカッパたちは、近くに住む庄屋の家の女中「お竹どん」だけには、頭が上がりませんでした。それにはこんな理由があります。 二~三年前の事、庄屋がカッパたちの川で釣りをしていました。カッパたちは、庄屋が釣り上げた魚を盗むイタズラをしていると、一匹のカッパが庄屋につかまってしまいました。 庄屋はすばやくカッパの頭の皿から水をかき出して、カッパの力を封じました。そして、懲らしめのために、炎天下の中、荒縄で縛りつけておきました。 次第に弱っていくカッパを見て、お竹どんは「水は命のおおもと、それを絶ってしまうとは思い上がりが過ぎるのではないか」と思いました。でも、女中のお竹どんが、勝手にカッパに水を与えるわけにはいきません。そこでお竹どんは、全く水を使わず料理したり、米は水なしで炊いたり、使用人たちに水を与えず、馬にも全く水を与えませんでした。 のどか渇いて暴れる馬をみた庄屋は、慌てて「水じゃ、水、水を持って来い!」とお竹どんに声をかけました。お竹どんは、水がいっぱい入った桶を手にして、庭にいる馬や使用人に水をぶっかけました。そしてお竹どんは、どさくさに紛れて縛られていたカッパにも水をかけました。頭の皿に水が入ったカッパは力を取り戻し、縄を引きちぎって川へ逃げて行きました。 庄屋は「お竹の奴、わざとやったな!もう家から出ていけ!」と激怒しました。が、庄屋も働き者のお竹どんが出ていかれては困るし、お竹どんも行くあてもないし、その後もお竹どんは庄屋の家で働き続けました。
2020.01.23
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続いて、その2蛇小岱山の大蛇 昔、小岱山の麓に大蛇が住んでいた。この蛇は、小岱山に谷が100できたら龍になって天に昇ることができるというので、その日を待っていた。次第に小岱山の谷の数が増え、やがて九十九谷になった。大蛇はそれが百になるのを待ち続けたが、あと一つがどうしても出来なかった。それで、大蛇はとうとう天に昇れなかった。池黒池の蛇 昔、池黒池は広さが十町余りあった。それで、いつからか、ここに恐ろしい大蛇が住みつき、腹がへると野山に這い出て兎や鼠などを呑み込み、時には人家に近づいて鶏や子馬を呑み、付近の田畑を荒らした。そのため、村人だらけ、その日の暮らしに困るようになって、「何とか大蛇を退治する方法はないか」と相談した。すると、一人が「この池には大蛇が住めないように狭くしたら?」と言った。皆はその案に賛同し、熱心に計画を練った。何日か経って大嵐の日に、大蛇は雨雲に乗って天に昇った。この時を待っていた村人たちは、一晩の内に一反余りを埋め立てて九町九反にしてしまった。大蛇は翌朝、天から降りて来たものの、九町九反しかない池には住めないので、仕方なく、再び天に昇ってしまい、村人達はやっと安心して暮らせるようになった。猿はじき 明治35(1902)年頃、三池港の築港工事が始まってまもなくのことである。土掘りをしていた玉名出身の人がある晩、工事現場の土の中から白蛇が一匹現れて、「いま、子を育てていますから、ここを掘るのをしばらく待ってください」と願うという不思議な夢を見た。その人は初め、夢のことであると思ったものの、さすがに白蛇の願いが気になって、そこを掘るのを後回しにした。何日かたって、その人がそこを掘ってみたら、夢で見た通りの白蛇が現れて「おかげで子供は無事に育ちました」とお礼でも言うような動きをしてから姿を隠した。それから何年か後、その人は病気にかかって働くことが出来ず、その日の暮らしにも困るようになった。すると、いつかの白蛇がまた夢に現れて、「こんなおもちゃを作って売れば長く商売が続けられます」と猿はじきの作り方を教えてくれた。その人は教えられたとおりの猿はじきを作って虚空蔵さん祭りで売り出した。やがて、これは災難を「はじき去る」縁起物として飛ぶように売れた。鳥府本熊野宮の鳥 府本熊野宮は、小岱山頂上の熊野宮を「本宮」というのに対して「新宮」と呼ばれ、今の建物は享保年間(1716~1735年)に建てられたと言われる。ところで、その神殿から拝殿にかけての彫刻は立川四郎の流れを汲む名匠が造ったもので、その中の鳥は毎日、夕方になると、近くの田に水を飲みに行くと伝えられている。魚水島の大だこ 昔、水島村の漁師が、とてつもなく大きな「たこ」を生け捕った。しかし、漁師はその「たこ」が余りにも大きくて持って帰れないので、その日は足を一本切り取って帰り、次から日々足を切り取ってかついで帰った。そして八日め、漁師が最後の一本を切り取ろうとしたとき、「たこ」は死にもの狂いになって漁師を食い殺し、そのまま姿をくらましてしまった。
2020.01.22
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2020.01.21
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予定の月例講演会が実施されました。小代氏の城跡について講演されました。
2020.01.21
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荒尾史学会会長の講演で頂いていた資料のご紹介「荒尾の民話・昔話」猫猫宮 小代3代目伊重が二次分与を行ったのは13世紀後半(北条9代貞時の頃)、叔父の政平が増永を治めた頃のことと思われる。その頃、増永と一部の境で海岸一帯には大きな川があり、川口から東へ3、4百メートルのあたりまで唐船が出入りして取引をしており、そこを「せなが」と言っていた。そこに住んでいた「せなが長者」が、出入りする唐船との交易で栄えていた。この「せなが長者」が飼っていた猫を大層自慢にしており、近郷ではこれに勝てる猫も犬もいなかった。ある時、唐船が「せなが」に着いた。この唐船の船主もまた、これまでに負けたことのない犬を自慢にしていた。酒席のとき、宝物を賭けて、二匹に勝負させた。この結果、犬は負けて死に、猫も二、三日後に死んだ。そこで、やがて「せなが長者」は猫を憐れんで、少し南に祠を建ててその霊を慰めた。これが、「猫言大明神」の由来であり、その付近も「猫言」と呼ばれるようになった。牛ぶち(まだら模様)牛 昔、上井手の荒井に大小二つ並んだ池があった。ところが、小さな方の水だけは、冬の最中でも凍らないほど、いつもほどよい暖かさで、田植え前に種もみをつけておくと、よそよりも早く芽が出て丈夫な苗が育った。それで、里の人達は、この池を「種つけたんぼ」と呼んだ。あるとき、種つけたんぼに入っていたぶち牛がしっぽを振ったところ、しっぽの先についていた水牛が山鹿に落ち、これから山鹿に温泉が湧くようになった。狐狐のしかえし 昔、増永村の新才には、所々の藪に、よく人を騙す狐がいた。ある日、同村の正楽寺にいた当観さんという小僧が檀家回りの帰りに藪の中をのぞいてみると、うまい具合に子狐がいたので石を拾って投げつけたところ、子狐はケンケン泣きながらビッコをひいて逃げていった。その夜、母狐は子狐から昼間の出来事を聞いて腹を立てた。それから数日後、母狐は当観さんが檀家回りに出かけて行くのに気づき、こっそり後をつけたところ甚助どんの家に入るのを見届けた。その時、母狐は近くの畑で仕事をしていた一人の百姓を見かけると、それがよく見える川端へ行って川藻を引き上げると百姓はすぐそれに気付いて不思議がった。はは狐が藻を順に載せて小僧に化けたので、天秤棒を持ってあとを追った。はは狐は甚助の家に入ったと見せかけて、素早く物陰に隠れた。百姓が甚助どんの家に飛び込んでみると、小僧が甚助どんと世話話をしていたので、天秤棒で小僧さんをイヤというほどどやしつけた。しかし、その小僧さんは当観であったので、母狐は手をだたいて喜んだという。
2020.01.21
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玉名のこころピアで、玉名高校の全国優勝の記事を発見!玉名高校の生徒と走る金栗四三玉名高校は昭和27年第3回全国高等学校駅伝大会で優勝した。この写真は、優勝の写真ではありませんね。晩年の写真の様です。当時の写真は無いのでしょうか?全国大会の優勝とは、貴重な歴史ですね。
2020.01.20
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久しぶりに荒尾の宇宙桜の情報です。今日は、曇り空で、グリーンランドのジェットコースターも盛り上がっていませんでした。宇宙桜は、毛利さんがエンデバーで宇宙飛行をした桜です。荒尾にも、その苗を分けて貰っています。枝の先にはもうツボミが出ています。開花は何時でしょうか。
2020.01.19
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こころピアで、特別展が有りました。チラシです。チラシの裏面展示品雲仙岳爆発の図(崇城大学図書館所蔵): 寛政4年の雲仙普賢岳の噴火に伴い発生した津波に関する絵図5枚と、渋谷敏寛氏による解説2枚が貼り合わせてある。 1:雲仙岳爆発の図・・・ 2:小島ノ沖盗人嶋ヨリ望見タル普賢ノ図 3:肥前国嶋原図 4:雲仙岳の遠望 5:島原図
2020.01.19
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岱明町の日嶽城の登り口にある「ほたるの里」を案内して貰いました。32.947676, 130.519908開田の箱崎八幡宮のすぐ横に在ります。ここでは、ホタルを飼育して増やす作業が行われていました。歴史勉強とはズレますが、あえて紹介します。ほたるの稚魚の餌になるカワニナ(ホウジャ)を養殖。現在、ほたるは放流して雨が降るのを待っている。ほたるの交配テントこの中央の細い清流で孵化する。テントの中の清流から雨のあと川辺の土に2ヶ月潜り、成虫で4,5日飛ぶ清流には、餌となる貝がびっしり・・・
2020.01.18
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以前の講演会内容です。南関・玉名で、洋式銃が生産されていたのを御存じでしょうか。資料2 池部啓太略歴 1798(寛政10)1月15日生~1868(慶応4=明治元)8月13日没 71歳。幕末(1850年代以降)、異国の「黒船」で日本が開国を迫られる恐れの中で、長崎の高島秋帆とともに洋式砲術や隊列訓練を開発・研究して国内に広め、日本が植民地化されるのを防いだ第一人者。このため池部啓太の砲術理論や西洋砲術学を学びたい―と、吉田松陰ら多くの若者が山崎町の池部屋敷を訪ねてきた(吉田松陰と宮部鼎蔵の出会いも)。横井小楠も門弟に池部啓太から西洋流砲術を習わせている。同田貫の碑は、32.9287, 130.5524洋式銃の生産に関する史跡は無さそうです。元々、名刀「同田貫」が作られた歴史の土壌があって、幕末には洋式銃の開発が行なわれたのだそうです。色んな藩へ納入されたのだそうです。わずかに残る現物です。同田貫刀鍛冶による鉄砲の製造
2020.01.17
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史蹟 鎌倉将軍下馬石(なぎなた石)に来ました。32.98838, 130.43373宝治元年(1247)武蔵国入間郡(現埼玉県)正代の地頭・小代重俊は肥後の国野原の荘の地頭を?して新補され、菩提寺・浄業寺を建立。この碑は、寺院の威厳を保持する下馬の?標識であると伝える。一説には、浄業寺の境内を示すために、東西南北の四辺に建てられたものとも言われている。石の形から「長刀石(なぎなたいし)とも言われている。※ この様に標識が倒れてもメンテナンスされずにいます。
2020.01.16
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篠原国幹戦役の地に来ました。32.87552, 130.63012篠原国幹戦役の地: 明治10年3月4日、薩軍一番大隊長 篠原国幹は、緋裏の外套をまとい銀装の太刀をおびて、ここ原倉 六本楠の地にて陣頭指揮をとっていました。そこに、同郷の後輩である近衛歩兵第一連隊第二大隊長 江田国通少佐の指示する狙撃にあい、東上の雄図空しく戦死したといわれています。一方、狙撃を指示した江田国通少佐も、復讐の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死。薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に敗退しました。この日、官軍が撃った小銃弾は数十万発という大激戦だったといいます。以後、官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼び、近づくことすら恐れたそうです。篠原の地より、有明海方面。先に見えるのは雲仙岳かな。もう16:25で、これで終わりますが、最後にメモをひとつ・・・
2020.01.15
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荒尾の城址跡の一覧を示します。小代氏の支城となります。各々の城の説明などは、1月21日の会長の講演により、詳しい説明があります。受講下さい。城跡の位置の一覧を示します。緯度経度は、コピーしてグーグルマップにペーストすれば、その位置に移動出来ます。マップコードは、カーナビの地図に使われていて、目的地の入力にマップコードを選んで、この値を入力すればその位置が設定されます。城の位置が判っても、登り口や駐車場所が必要なので、示します。カーナビに駐車場のマップコードをセットして行き、到着してから、登り口を検索したらよいと思います。駐車場に値が無いのは、特別な駐車場が無いところです。直接、城跡を目指して下さい。
2020.01.14
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熊本隊本営跡に来ました。32.87357, 130.66097中央の、坂の上の御宅がそのようです。ちいさくて見難いのですが、庭横に「熊本隊本営跡」と書いてあります。続いて、「薩軍本営跡」です。32.87365, 130.66166庭のかどに石碑が建てられていました。更に、「薩軍病院跡」が在りました。32.87392, 130.6622いづれも、今は不通に民家として暮されているようです。山へ登って、「吉次峠」へ来ました。32.87657, 130.64284
2020.01.14
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七本官軍墓地に来ました。32.9041, 130.66026官軍は、ひとつひとつの墓だった。管理もされている。
2020.01.13
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七本柿木台場薩軍墓地に来ました。32.90203, 130.65581七本柿木台場薩軍墓地: (前略) この墓地には、3月14日七本で戦死した熊本隊3番小隊長の城市郎ほか、この周辺で戦死した薩軍311名が埋葬されている。 玉東町原倉にも薩軍の墓がある。植木町が改葬整備したそうだ。薩軍墓地改葬の由来薩軍墓地から、吉次峠・半高山を望む
2020.01.12
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田原坂の上の、田原坂公園に来ました。32.91293, 130.65121ここには、資料館や戦没者名を刻んだところもあります。先ず、弾痕の家ですもともとの場所から、100m程移築されていますが、坂の山頂で白壁で目立ったので標的にされて、随分沢山の弾丸が当たっていました。昭和に入ってからでも、壁からポロッと当時の弾丸が出た様です。田原坂崇烈碑です。田原坂崇烈碑: 碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。 (後略)
2020.01.11
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田原坂三の坂に在る、谷村計介戦死の碑に来ました。32.91474, 130.64906谷村計介の碑: 宮崎県諸県郡倉岡の生れにして、明治5年徴兵により歩卒として熊本鎮台に入隊する。明治7年2月佐賀の乱に際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、8月第11大隊に属して征台の役に従軍した。 明治10年西南役に際しては熊本城内にて守城軍として活躍し、命により密使として征討軍本営との連絡にあたり、使命を果し、再び第1線に参加して、3月4日田原坂にて戦死する。25才後に、西南戦争の勇士として、教科書にも取り上げられ、有名人となった。
2020.01.10
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豊岡の眼鏡橋に来ました。32.91889, 130.64086すぐ先が、国道208号線です。右手後方に田原坂への入り口が有ります。豊岡の眼鏡橋: (前略) この橋を渡り、川沿いに沿って旧道があり、国道208号線へ出た所に「田原坂攻撃官軍第一線陣地址」の石標が建っている。官軍は田原坂本道の丘の右翼及び左翼へこの川沿いの旧道を通り、本眼鏡橋を拠点に出撃していった。
2020.01.09
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荒尾市より案内がありました。奮ってご参加下さい。事前連絡が必要の様です、注意下さい。
2020.01.08
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横平山の戦跡に来ました。32.89681, 130.64631横平山の戦跡: 明治10年、西南の役の三大激戦の一つ薩軍の抜刀隊が活躍した古戦場で、今も当時の塹壕の跡が残っている。 (後略)山頂は、公園になっており、展望台が建っている。周辺は、みかん畑で、軽トラの細い道だった。ここを取れば、田原坂の後面へ周り込むことも可能なので、重要拠点となったのだろう。展望台より、田原坂方面を右手の植木方面を
2020.01.08
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大太刀「蛍丸」のご紹介です。すごく大きかったです。
2020.01.07
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二俣瓜生田官軍砲台跡に来ました。32.90685, 130.64444二俣瓜生田官軍砲台跡: ここは、南に位置する二俣古閑地区とともに官(政府)軍の砲座が設置された場所です。記録には三ヶ所の砲座に合計八門の大砲が据えられ、3月20日に田原坂が陥落するまで日々砲撃が繰り返されたそうです。 平成22年に実施した発掘調査では、硬くしまった砲座の跡と大砲の轍と思われる遺構が確認されました。正面が、田原坂です。この畑のさきが跡地で、埋められています。その先から崖下で川があり、その先が登りで田原坂の崖面です。ここからなら、薩軍の塹壕を狙って大砲が撃てます。さらに、近くの二俣古閑官軍砲台跡に来ました。32.9037, 130.64609道路脇に説明板がひっそりとたっていました。
2020.01.07
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役場に車を置いて、高月官軍墓地に向います。高月官軍墓地です。32.91747, 130.62752官軍墓地は、西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した墓地であり、県内には21ヶ所つくられている。 この官軍墓地は、埋葬者980人、墓碑数970基(10基は亡失)を数え、その大半が西南戦争最大の激戦地であった田原坂、吉次峠、二俣および横平山の戦闘で戦死した大坂、東京、広島、名古屋及び熊本鎮台ならびに近衛所属で、本県出身者は、極めて少数である。 墓碑には氏名のほか、出身地、戦死場所などが刻まれている。石材に砂岩を用いてあるため、表面が剥離したり、折れるなどの痛みがみられる。
2020.01.06
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官軍木葉本営址に来ました。32.92056, 130.63006正念寺および町役場の裏手になります。官軍本営跡: (前略) 当時は参軍山縣有朋がここで作戦指令を行い、野津、三好、大山等の各旅団長や参謀、副官等が幾度となく集まり軍議を開いたといいます。今は、古井戸だけが当時の姿をとどめています。前の道路です。前方に有栖川宮督戦の地(丸田公園)が見えます。古井戸です。今も使えそうです。そして、有栖川宮督戦の地(丸田公園)です。32.91972, 130.62752碑が建っているそうです。
2020.01.05
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木葉の正念寺に来ました。32.91868, 130.63083このお寺は、激戦地田原坂の麓にあるので、傷病者がかつぎ込まれました。官軍・薩軍の隔て無く、対応したそうです。西南の役、官・薩・両軍戦?の碑が在りました。門の柱には、今も銃弾の跡が残っていました。ここが、赤十字の前身の、博愛社の発祥縁起の地、の碑があります。ここで見つかった弾痕のサンプルを見せて頂きました。
2020.01.04
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明けましておめでとう御座います。現在6:50で見たところ、10,029 と遂に1万件達成しました。朝3時くらいに達成してたみたいです。有難う御座いました。今後とも、宜しくお願い致します。そこで、お祝いに、伊勢の二見興玉神社です。34.509088, 136.787587本年もよろしく!
2020.01.03
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宇蘇浦官軍墓地に来ました。32.92166, 130.62355官軍の将兵および抜刀隊として参加した警視局巡査たち398名の戦死者を葬っている墓地で、乃木希典少佐率いる第14連隊の吉松秀枝少佐や、武勲で有名な谷村計介の墓もあります。昭和52年に県の史跡として指定されています。古くはなっていますが、官軍墓地は整備されています。吉松少佐墓それぞれに階級と氏名が刻まれています。
2020.01.03
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木の葉の乃木希典奮戦の地に来ました。32.91934, 130.613石碑: 乃木第十四聯隊長奮戦阯明治10年(1877)2月22日、小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊(連隊長乃木少佐)は、南関・高瀬を経て熊本へ前進中、植木南方1kmの向坂にて薩軍より攻撃をうけて敗れ木葉に撤退した。この戦いで連隊旗手河原林少尉は戦死、連隊旗を奪われた。翌23日、木葉の戦いで第三隊長吉松少佐の戦死もあって、この地に後退して奮戦したが、北方の木葉山頂より薩軍の一隊が急襲したので、白兵相打つ混戦となり、乃木少佐は薩摩兵に囲まれた。乃木少佐の乗馬も銃弾に倒れ、少佐も転倒した。薩軍刀をふるって迫り、少佐を斬らんとしたした。大橋伍長その間に入り斬られ少佐を助けた。摺沢少尉試補もまた助勢したしたので、九死に一生を得て木葉川を渉り、寺田山にのがれ、更に高瀬北方5kmの川床にて隊を集結した。
2020.01.02
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続いて、木の葉の薩軍砲兵地跡に来ました。32.92075, 130.61295石碑が建っていました。此処は、古くは稲佐廃寺跡であり、熊野座神社が建っています。西南の役では、薩軍の砲陣地となり、このナギにも弾痕が残っている。現在の熊野座神社
2020.01.01
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