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アクセス数の6並びを待っていますが、現在、66621です。どうも、24時過ぎから未明になりそうです。眠たくなりました。どなたか、目撃された方、スクリーンショットを撮って、お知らせ下さい。よろしくお願いします。
2020.11.30
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榎津えのきつ城に来ました。33.20634, 130.37335城山公園となっていますが、山のカゲは無く、住宅地の中の公園で、城跡は案内板のみです。「榎津城は現在の城山公園一帯に築かれていたと云われる。 名は「城山」であるが、全くの平地で特に遺構はなく、筑後川の河口を押さえるための城館であったようだ。」城島じょうじま城に来ました。33.25742, 130.42822城島天満宮になっています。小学校に削られています。「城島城は現在の城島小学校一帯に築かれていた。以前は付近に堀跡が残っていたが小学校の拡大にともない消滅した。小学校の北西側に城島天満宮があり、その境内に城島城の石碑と案内板が建てられている。」「吉政は、これら九支城と中島城以外の城塁(じょうるい)は、口分田甚左衛門に破壊させ、 田畑に開墾しました。これを「口分田開き」といいました。」
2020.11.30
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現在のアクセス数=66,186 です。あと480で、66,666になります。是非見たいものです。しかし、ピッタリを見るのは、なかなか難しいものです。平常心で待ちます。
2020.11.29
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本城である柳川城に来ました。33.16087, 130.40114城跡は、隣接の高校と中学に削られて、本丸跡のみになっています。「関ヶ原の戦いの戦後処理により、西軍側だった宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となる。吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。しかし田中氏が改易になると立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川藩主の立花氏の城となった。元禄10年(1697年)城の西方に藩主別邸(現在の「御花」)が造営された。その後、会所として使用され、さらに柳川城より奥機能が移転して、「御花畠」と命名される。」「吉政は、城の要害に備えて規模を拡大し、城濠を掘り、石塁を高 め、五層の天守閣を建て、これを本城(居城)としました。そして、 前代以来の旧臣・土豪(どごう)、さらに毛利・立花両氏の遺臣が土着割拠(かっきょ)す る在地の情勢に対応して、立花氏と同じように支城駐屯(ちゅうとん)制度を布(し)き、 一門・功臣(こうしん)を城番として支城に配置しました。吉政は、次男吉信(よしのぶ)を久留米城に、三男吉興(よしおき)(康政)を福島城に、 舎弟清政を赤司(あかじ)城に、元小早川重臣松野主馬を松延城に、家臣(譜 代)宮川才兵衛を鷹尾城に城番(城代)として入れ、さらに猫尾・ 城島・榎津・江浦の支城に重臣をそれぞれ配置しました。」
2020.11.29
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大和町の中島城跡に来ました。33.12051, 130.43616住宅地になっている内に、説明板のみが有りました。続いて、鷹尾城 (田尻氏居城)址に来ました。33.12983, 130.44467神社が建てられています。さらに、すぐ近くの安房神社(鷹尾城跡)です。33.12897, 130.44278「立花氏改易の後入封した田中氏の時には家臣宮川才兵衛門が城主となったが、田中氏改易により廃城となった。」ここで、以下の表が、今回巡った城跡です。カーナビ用のマップコードも示しています。車(分)は、江ノ浦城までの22分は、荒尾からの時間。松延城からの36分は、荒尾への帰り時間で、車時間だけで4時間47分の行程でした。
2020.11.28
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高田町の江ノ浦城跡に来ました。33.1158, 130.44464208号線沿いに石碑があります。城郭放浪記「慶長6年(1601年)柳河城に田中吉政が入城するとその家臣田中主水正が城主となる。 元和の一国一城令により廃城となった。」城郭放浪記「現在の淀姫神社一帯が城址で、国道208号線と県道94号線が交わる丁字路が「江の浦本丸」交差点と名付けられ、そこに石碑が建っている。」裏手に、淀姫神社があります。この日は、柳川城の田中吉政の支城を、1日で巡ってみる計画です。以下が城の位置です。この内、荒尾に一番近い「江浦城」から順に周りました。吉政の九支城と云われますが、10支城があります。中島城は、鷹尾城の支城というか、鷹尾城番宮川才兵衛 が兼務しています。
2020.11.27
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新大牟田駅前の、團琢磨之像に来ました。33.071630, 130.488331團琢磨は、安政5年8月1日に福岡藩士の家に生れました。明治4年、明治政府が派遣した岩倉具視使節団の留学生の一員として13歳で渡米、ボストンのマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学びました。帰国後、東京大学の助教授などを経て工部省に入り、三池鉱山局の御用掛開坑長として着任、三池炭鉱が官営から三井に払い下げられても、三池炭鉱の事務長兼炭鉱長として残り、三井炭鉱を飛躍的に発展させました。当時、三池の石炭は有明海の干満の差が大きいため、艀(はしけ)で島原半島の口之津港まで運ばれ、外航船に積み替えて輸出されていました。万田坑の開発や大地震で水没した勝立坑を、イギリスから輸入したデービィポンプで排水に成功、飛躍的に出炭を伸ばし、口之津港からの輸出が限界に達することを見越して本格的な港を造ることを決意、5年余の歳月をかけて三池港を完成させました。團琢磨は100年先を見越して三池港を造りました。三池港のほかに、病院や学校を創り、納屋制度や囚人労働などを廃し、労働者の待遇改善も図っています。このように彼は三池炭鉱を飛躍的に発展させ、港を造り大牟田・荒尾地域の発展、ひいては、わが国の近代産業の発展に大きな貢献を果たしました。そして、大正3年に三井合名の理事長、また大正6年には、日本工業倶楽部の初代理事長に就任し、我が国経済界のトップリーダーとして活躍しました。三池港を向いて建てられています。
2020.11.26
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伊藤整一海軍大将の墓所に来ました。33.075357, 130.436873以前も照会済みですが、客人をご案内しました。以前は無かった掲示板が設置されていました。写真のコピーも掲示されていました。今までは、ひっそりとしていましたが、時を経て、少し表に出せる様になってきた様です。墓横に、父子桜が植えられていました。結構咲いていました。
2020.11.25
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津奈木町の津奈木城跡(舞鶴城公園)に出かけました。32.23375, 130.46004紅葉に期待して行ったのですが・・・よくありませんでした。モミジの先端の葉は枯れており、その内側は未だ青い、という状態。がっかり。ウォーカープラスの紅葉名所情報から、良い時の写真を転布します。全然違いますね。情報としては、この様に、「色あせ始め」だったので、あわてて行ったのですが。どうも、今年は寒さが足りず、色づきが悪い様だ・・・と素人話しをしました。ついでに、県南周辺を巡りましたので、また、後日掲載します。ご期待下さい。
2020.11.24
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2019/03/19の講演会「小代武士団」で、小代一族の海賊物語を教わりました。その中で、横島に「新九郎坂」と言うのが今もあるそうです。32.88275, 130.56324小さな坂道ですが、説明の石碑があります。新九郎坂: 昔、横島が海中の孤島であったころ(およそ500~600年前)小代一族の武将で、通称「新九郎」という水軍がここに本拠を構え伊倉・高瀬の両港に出入りする商船から案内料や通行料を取っていたという。従わぬ船からは強制的に金品を没収したので人々から「海賊」として恐れられていた。 この本拠から坂を下り船を出す海辺まで百五十間の坂道を今でも「新九郎坂」と呼ぶ。中央の赤いピン位置です。AとBのルートが、新九郎坂です。山の上から下まで坂です。横島は、海に囲まれた島でした。周囲は海(有明海)です。今は農地です。横に長い島なので横島と呼ばれたのだそうです。今は、山頂は「山の上展望公園」として整備され、池辺吉十郎の墓も在ります。坂の下は、以前ご紹介した「加藤神社」があります。元、海だったこの地を、せいしょこさんが干拓により農地にしてくれました。現在の加藤神社です。この道の左手に、新九郎坂の登り口があります。以下に、元の高瀬の港の様子を示します。右下に横島が見えます。周りは海です。高瀬や伊倉の港に唐船が来て、商いが行われていました。横島の横を通るので、新九郎坂の辺りが関所みたいな位置です。※ 小代氏が直接やっていた訳では無くて、一族の中からこの様な事をする者も出ていたということです。
2020.11.24
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元村天満宮の芭蕉句碑に寄りました。33.00504, 130.49824「荒尾市の文化財(1)」には、 凝灰岩、台土高さ136cm、巾34cm、厚さ23cm、の角柱状の正面に「芭蕉翁 古池や蛙飛び込む水の音」の句が刻まれている。 元村には熊本藩士松尾幸之助因興がいた。俳号松花亭如濤と称し、友左坊より仙号を授けられ、露濃仙といった。俳諧を松調舎其因に学び、交友多く、特に山鹿の風斜とは親密であり、荒尾郷一帯のこの道の中心人物となった。と、ある。すぐ近くに、地神宮があった。33.005206, 130.498595新しいものであろうか?文化財に載っていない。
2020.11.23
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四ツ原の殿の墓に来ました。32.998, 130.54582説明文は、「 里人は殿さんの墓という。秋月院とはどんな人かわからないが場所からして小代氏に縁のある人と思われる。」墓石に秋月院と彫ってあるのかな。
2020.11.22
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大河ドラマ関連です。浅井の反旗によって逃げた信長が、浅井を攻める「姉川の戦い」が、簡単に述べられましたが、その場所は、マップでこうなります。琵琶湖の北東、長浜市です。当時は、もっと琵琶湖が入り込んでいたと思われます。赤いマークが戦場です。上の青が小谷城。黒が家康陣です。ここで、この戦いと荒尾との関係は無いのですが、柳川とはあります。田中吉政が柳川城主となる訳ですが、この姉川の戦いの時には、浅井の配下の宮部の配下として戦いました。まだ駆け出しのペーペーだった訳です。しかも敵方!その後、宮部が秀吉の配下となったことで、吉政も秀吉の家臣となりました。浅井攻略後は、吉政は300石を拝領しています。活躍したみたい。その後、実力をあげ、家康の配下となり、石田三成を捉えた功績などで柳川を拝領しました。大変な大出世大名でした。以上、大河ドラマ関連ネタ、でした。
2020.11.21
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兵士の墓の、道の反対側に、殿様の墓を見つけました。32.985794, 130.547991殿様の墓: その昔、この地方を治めた領主朽木氏一族の墳墓地である。観音堂をバックにし、朽ちかけた巨木の下に苔むす墓石に取り囲まれ、玉垣を張り巡らした格式ある墓標が、「朽木三郎源昭仲」の墓である。 延宝年間(1670年頃)丹波国(京都の一部)より下校した源氏の末裔という朽木三郎源昭仲は、鎌倉時代に玉名郡に下向し、坂上・坂下170町を治めた臼間野氏の配下に入り、その一部の石尾、福山、川床の領主となった。領主の職を退くと、福山に隠居し、武を捨て、仏門に入って余生を送ったという。地元では「朽木さん」の愛称で親しまれている。
2020.11.21
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三ツ川の光蓮寺に来ました。32.986158, 130.548173元は玉名の街にあって、西南戦争時は官軍の病院となったお寺です。その後、ここ三ツ川に引っ越したのだそうです。博愛社誕生を語り継ぐ光蓮寺住職お寺の裏手に、官軍兵士の墓があります。何故か、墓も寺と一緒に引っ越したということの様です。手書きの説明文がありました。「明治10西南戦争の時、当寺本堂にて往生された方々の墓石です。」
2020.11.20
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引き続き、富尾の菅原神社です。この石段を駆け上らされていたというわけです。中央の手摺は、当然無かったでしょう。石段の上から。上から、本営跡方面を望む。こちらは、戦場にはなっていないと思います。当時と同じ状態だと思います。
2020.11.19
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なんと、何と、昨日のアクセス数=694。最高値です!!
2020.11.18
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富尾の菅原神社に来ました。32.94673, 130.55973急な石段があります。ここは、西南戦争で官軍に関係があります。玉名の講演会で、以下のことを教わりました。下にマップを示します。中央緑色のマークが菅原神社で、右手東側青ピンが玉名船隈本営地跡です。つまり、本営から真っ直ぐ西への道を、菅原神社に行き、階段の上り下りで鍛錬したと言うのです。下の道が、神社の階段から本営跡を見たところです。
2020.11.18
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次月の予定です。皆さんのご参加、お待ちしています。
2020.11.17
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講演会が実施されました。コロナで、話題になっている、コレラ対策の警神・増田神社のお話しでした。大変興味深いお話で、福田さんの人脈の広さにも驚かされた講演でした。
2020.11.17
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17日(火)に講演会 開催予定です。
2020.11.15
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発掘現場の南端に、少し高まりがあり、木が茂っていましたが、切られています。館南の見張り台かな、と云われていたのですが、この下から人骨が出たそうです。急遽、ここも掘られます。お墓で、目印の木だったのでしょうか??疑問が大きくなります。この南端から、更に南を見ます。向こうへ、大きな土塁?が見えます。こちらと繋がっていたのだそうです。炭坑電車の線路の為に、削られたのだそうです。現在は道路です。
2020.11.15
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そして、北側の竹やぶギリギリまで、土塁の調査が進んでいました。遺跡の土塁の土が確認出来ます。そして西側の、館跡には大きな溝が見つかっていました。こちらは、ほぼ発掘は終わった様です。調査報告書が楽しみです。
2020.11.14
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昨日の朝、7:21頃、近くで交通事故がありました。軽自動車どうしで、後ろから思い切ってぶつかっていました。前の運転者は、車から出られず(挟まれてでは無く、むち打ちの為だと思われます)にいらっしゃいました。救急車で、運ばれました。この道路は、長い上り坂で、この時期、この時間は、朝日が正面に来て、太陽に向かって進む感じになります。子供の通学時間帯でもあります。危ないな、と日頃から感じていたところです。恐ろしくて、ゆるゆると走る車もあれば、結構なスピードを出す車もあります。ほんの数m位しか先が見えなくなる状態です。安全運転をお願いします。この話を近所でしていたら、三池港の「光の航路」の事を聞きました。調べたら、以下に、情報がありました。今日から23日までが、まっぽしの日だそうです。期間限定!世界遺産の三池港から見える絶景「光の航路
2020.11.13
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再び、市民病院駐車場の発掘現場に来ました。32.974809, 130.446444今回は、前回の発掘現場の、すぐ東側です。弥生時代の遺跡が見つかったそうです。以前から、遺跡があるとの話はあったのですが、本村館跡の発掘現場の隣にありました。表土を取り払ったので、あとは手作業で、少しずつ泥をかき分けて行きます。住居跡のようです。土の色が違っています。カメカンが発見されました。子供のお墓の様です。
2020.11.13
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荒尾駅の前にある、海達公子3号詩碑です。32.994438, 130.434174汽車の車輪を形どった碑で、味があります。駅舎玄関から見た荒尾駅前です。どこも、駅前がシャッター街になり、寂れてきています。荒尾も、寂し~い。海達公子詩碑めぐりのパンフです。荒尾駅、3号が、中央に描かれています。
2020.11.12
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福岡県青少年科学館に来ました。33.318154, 130.528371何と、65歳以上は無料でした。はずかし・・写真は撮れませんので、パンフレットのみ・・・福岡県の施設ですので、内容も立派なものでした。お土産に、館内のロボットによる直筆の似顔絵を頂きました。そして、久留米と言えば大砲ラーメンと伺ったので、科学館近くの大砲ラーメンさんへ。玉名と変わらず、うまい!! やっぱとんこつやね!とんこつラーメンの発祥は、久留米では無くて、実は玉名なんです。 久留米出身の方が、玉名でラーメン店を営んでおり、ある日、娘のソフトの応援で、スープを煮込みすぎ失敗・・捨てる前に試しにすすってみると、ナントおいしい!! それで玉名で完成し、その後、店を久留米に戻って営まれ、久留米で皆さんにひろめたのだそうです。という説明を聞いたので、信じております。
2020.11.11
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引き続き、高良大社です。ツツジがきれいな様です。立派な神社で、おごそかな気持ちになります。久留米市街が一望出来ます。
2020.11.10
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高良大社に寄りました。33.301725, 130.565646駐車した後ろに、父小桜があり、ビックリ。33.302275, 130.565260玉名と同じ頃の植樹でしょうか? まだ小さい木です。長い石段がまっていました。なんとか登りきりました。トリが放し飼いされてました。ウィキペディア(Wikipedia)高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。社殿は国の重要文化財に指定されており、神社建築としては九州最大級の大きさである。
2020.11.09
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山川招魂社内の慰霊碑です。さらに石段があり、神社に向かいます。御楯神社です。
2020.11.08
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引き続き、山川招魂社です。墓所の上に、神社が見えます。どうも正面から入らず、裏の墓所へ直接入った様です。正面へ回ってみます。山川招魂社:御由緒 明治2年2月、久留米藩主有馬頼威の命によって招魂所が設けられ、嘉永6年以降勤王、国事に殉じた真木和泉守保臣以下38人の霊を合妃した。 廃藩置県ののち、三潴県大参事水原久雄は高山仲縄(彦九郎正之)の祠堂建設を提唱し、明治6年8月ここに御楯神社が創建された。一方、招魂所には、陸軍墓地が併設され、佐賀の乱(明治7年)、西南戦争(明治10年)の戦死者の墓が営まれている。 社殿の背後には、真木保臣(和泉守)、稲次因幡(正訓)をはじめとする招魂墓、佐賀の乱、西南戦争に殉じた軍人、警察官の墓が立ち並び(旧官修墳墓)石段の下には高山仲縄祠堂、御楯神社)の記念碑、爆弾三勇士之碑、大東亜戦慰霊碑、龍工兵第56聯隊慰霊之碑が建てられている。さながら近代日本の歴史がここに集約されたかのようで、訪れる人に深い感銘を与えずにはおかない。爆弾三勇士之碑がありました。他のブログより、 昭和7年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死した。 この混成第二十四旅団独立工兵第十八大隊第二中隊に所属していたのが江下武二一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵の3人でした。3人はそれでも突撃を止めず、ついに鉄条網と共に自爆粉砕した。 このことが内地で報道されるや「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」として、映画や歌で英雄視され、軍神と崇められた。そして、高山彦九郎の碑です。他のブログより、 彦九郎は多くの人々との間を交流し、情報の媒介者として、全国をくまなく遊歴した旅の思想家です。寛政3年(1791)7月19日、京を立ち、九州へと旅を続けた後、寛政5年(1793)6月27日筑後国(現福岡県)久留米の森嘉膳(嘉善)宅で自刃し、47歳(数え)の生涯を閉じます。 彦九郎の自刃後各地で彦九郎を敬慕する尊王の人々の動きが現われます。江戸中頃の幕藩体制崩壊の兆しの中で、近代を告げる彦九郎の尊王思想の先駆的な行動と実践は、吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎・西郷隆盛を始めとする幕末の志士達に強い影響を与え続けました。
2020.11.07
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山川招魂社に来ました。33.309910, 130.557021西南戦争官軍墓地です。西南戦争の関係地ということで、来ました。田原坂周辺の官軍墓地とおなじ様に、整然と並べられています。同じ場所に、佐賀の乱での官軍碑もありました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社。そして、山川招魂社は、(他のブログより) 久留米藩は明治2年、高良山麓にある茶臼山に招魂所を設けました。嘉永6年以来勤王のため死んだ真木和泉守保臣(禁門の変で活躍し天王山で自刃)以下38名の志士を合祀したのです。明治6年には高山彦九郎(勤皇思想の先駆者)の祠堂として御楯神社が創建されています(自刃地は東櫛原町にあります)。境内には真木和泉守の墓碑や稲次因幡(享保一揆において農民のために尽力するも藩主の怒りに触れて蟄居)の墓碑もあります。 この地に陸軍墓地が併設され「佐賀の役」の戦死者63名、「西南の役」の戦死者190名の墓が建てられました。西南の役の戦死者190名は大阪・和歌山等遠方の出身者であり、多くが戦闘で倒れ政府軍の陣地であった久留米の軍団病院で亡くなった方々です。 この様に、田原坂で負傷した方々は、玉名で手当し、久留米や長崎などの軍団病院に送られ治療されたそうですが、病院で亡くなった方は、ここに葬られた様です。すこし小高い丘のしずかな森の中で、ひっそりと眠られています。
2020.11.06
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腹赤の御腰石に来ました。32.92156, 130.47693個人の畑の中にあります。御腰の石: 景行天皇に関する伝説は各地にみられますが、日本書紀によりますと、景行天皇は朝廷に従わない熊襲を討伐された後、八代、島原半島を経て長渚(ながす)の浜に着かれ、ここ深田浦でお休みになりました。その時、腰を掛けられたのがこの石だというのです。 しかし、この石は、室町時代末期の1529年建てられた逆修碑です。正面に地蔵菩薩が彫ってあり、周養という仏師の作です。逆修碑というのは生きているうちに碑を建て死後の冥福を祈るためのものです。建てた人の名は、はっきり読めません。正面に、彫ってありますが、よく見えません。横から見ると、こんなに薄い岩です。以前ご照会した、景行天皇の上陸地から、直線距離で970mの位置です。
2020.11.05
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揚増永(あげますなが)のお宮に来ました。32.972607, 130.446082揚増永の公民館の横にあります。阿蘇氏の家紋がかかっていました。ご本尊の写真が、上に掲げてありました。他の資料で、この観音像について・・ 揚増永木造観音菩薩: 本像は平成十?年荒尾市市史調査中発見されたもので一本の桧材から頭・体の主要部分まで彫り出した一木造りの手法がとられ高さ100.5センチあり、像の特徴は衣の襞(ひだ)が浅めできれいな平行線状に整えられている。特に左胸を斜めに通る襟、両肩から膝やすねの前にU字形に垂れる天衣に平安時代後期(今より850年前)に造られた特徴がよく現れている。 背面をみると像の干割を防ぐために背中が抉り抜いてある。内刳りして背板がふたをしていたと思うがこれは紛失している。この背板には年代や大工名等が書いてあったと思うが紛失は惜しまれる。と、書かれている。実は、この地区は、龍造寺家が領していた歴史があって、この観音像も龍造寺家との繋がりが予感される。
2020.11.04
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ええ~っ、またも見過ごし・・・ちょうど電話が入って、終わってから見たら、この数字・・・なんてこった!見られた方、いらっしゃいますか?コメントに、報告下さい。
2020.11.03
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ここで、この地域で起こった「国人一揆」について・・・以前、会で史跡巡りをしました。そして、放し討ち・・・隈部の館も巡りました。そして、九州の国割りはこうなりました。しかし、関ヶ原でまた変わることになりますが・・・この辺で終わります。
2020.11.03
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あらためて、高橋紹運と立花宗茂のご紹介です。そして、紹運寺です。そして、ついに秀吉が乗り出して来て、島津を屈服させました。(あと一週間、島津が引き延ばせば、秀吉軍のあまりの大軍のため兵糧不足が発生し、情勢が変わっていたかも・・・)小代氏は、島津に従い、さらに秀吉に従いました。秀吉は、南関から高瀬に入った様です(荒尾は通っていない)。肥後には、佐々成政が入りましたが・・・次回へ。
2020.11.02
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今現在、アクセス数が 055139 です。5並びの数字となるのが、明日になりそうです。見れるかな?と、少し期待してます。あっという間に、5を過ぎてしまうかも知れません。見れたら、何かラッキーが訪れるかも知れませんので、期待して待っています。皆さんもご期待下さい。
2020.11.01
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1584年、沖田畷の戦いで、情勢が一変します。玉名に、龍造寺隆信の首塚が在ります。ビックリ。肥後と肥前を一気になびかせ、九州制覇へ進む島津に、高橋が岩屋城で抵抗し、大友が秀吉に泣き付いて、島津を止めることになった。お隣の大牟田に、高橋紹運の名前の寺があります。高橋紹運の墓も、岩屋城に在ります。
2020.11.01
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