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佐賀城近くの万部搭に来ました。33.24883, 130.30339万部搭: 石塔群は、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂から代々の藩主または嫡男が自ら願主となって、藩の安穏と領民の息災を祈願し、法華経ー万部読誦の結願石塔として建てたものである。このならわしは、永正2年龍造寺家兼が執行したのが最初である。(後略)ずらりと並んだ、万部搭この一基毎に、多くの僧を集めて、一万回の読経が行なわれたのだそうです。
2020.02.29
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小城藩邸跡に来ました。33.29018, 130.19632藩邸正門の石橋です。修復工事中でした。そして、岡山神社です。
2020.02.28
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当会の会長:諸隈氏から、ご案内がありました。氏は上荒尾地区の役員もされていますので、よろしくお願いします。4月14日(土)に開催されるそうです。駐車場は、32.984860, 130.434007
2020.02.27
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千葉城の対面の、村岡屋羊羹資料館に来ました。33.301428, 130.204327有名な、「おぎようかん」、そして「村岡屋の羊羹」です。この写真は、いろんなようかんの展示です。資料館には、羊羹の製造工程や歴史が照会されていました。外観の写真。以前の写真を参考に。
2020.02.27
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小城の千葉城跡に来ました。33.30273, 130.20624此処は、山城です。城山の下からは、こうなっています。中腹に、須賀神社があり、急な石段です。文禄の役で、秀吉が腰掛けたといわれる石が在りました。説明、お読み下さい。
2020.02.26
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総会が、実施されました。役員が、一部変更になりました。
2020.02.25
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御館の森に来ました。33.29049, 130.26352右先に見える、意外に狭い場所です。
2020.02.25
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あらためて、史跡巡りのスケジュールを示します。という事で、直鳥城跡へ来ました。33.27241, 130.37022今回の城跡は、筑後平野の中ですので、平城で、水堀を巡らした作りです。ここ、直鳥城跡は堀が残ったまま公園となっていました。熊本の城跡の様な石垣跡も在りません。石も採れないところの様でした。城の説明文です。よくお読み下さい。
2020.02.24
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蓮池城跡の蓮池公園に来ました。33.24585, 130.35932この看板は、蓮池公園にあったものですが、いま再確認すると、右下に「蓮池公園・現在地」となっていますが、全く位置が違います。どういう地図だったか??蓮池藩8代藩主の歌碑: のどかなる 春のすがたを 力なき 柳の糸に 見する 朝風 (雲そう)案内の会長さんから、説明文を貰いました。
2020.02.23
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続いて、三重津海軍所跡に来ました。33.20773, 130.34011公園化されており、記念館もあります。ここでは、VRメガネを借りて、その場所の説明を見聞する事が出来ます。番号の場所で、説明を聞きながら、そこから見えた景色を見る事が出来ます。それぞれの発掘址には説明板が設けられています。外の見学が終り、記念館の中では、パノラマスクリーンで海軍所の説明を聞く事が出来ます。プラネタリゥムでは有りませんよ。
2020.02.22
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荒尾史学会の史跡巡りで、佐賀に出かけました。最初に、佐野常民生誕地に来ました。33.20615, 130.33742佐野常民先生記念碑の由来: 日本赤十字社の創設者佐野常民先生は文政五年(1822)十二月二十八日佐嘉藩士下村充実贇の五男としてこの地早津江に生まれた。天保三年(1832)十一歳の時藩医佐野常微の養子となり藩主より栄壽の名を賜った。 長じて藩校である弘道館に学び、その後、江戸の古賀侗庵、京都の広瀬元恭、大坂の緒方洪庵等につき、さらに藩命により江戸の戸塚静海、伊東玄朴の塾に入って漢学、医学、蘭学、物理学、化学、外科術、冶金学などを修め、また長崎において航海、造艦、造船、砲術などを伝習した。文久三年(1863)三重津に汽罐製造所を建てて佐嘉海軍の創設に努力し、明治維新となり帝国海軍が創設されるやこれに尽瘁した。 明治十年(1877)西南の役が起こるや、その惨状を見るに忍びず自ら熊本に赴き、征討総督有栖川宮熾仁親王にお許しを得て同年五月大給恒らと共に博愛社を創立した。 明治二十年(1887)博愛社を日本赤十字社と改称して万国赤十字社に加盟した。佐野先生はその初代社長となり社業の振興に日夜努力し社名を内外にとどろかせたが同三十五年(1902)十二月七日齢八十歳で没した。 晩年元老院議官、元老院議長、大蔵卿、枢密顧問官、農商務大臣等国の要職を歴任し、同二十八年(1899)伯爵を陞授された。また龍池会(日本美術協会の前身)等をつくって、日本美術工芸の振興育成にも力を尽した。先生は本県七賢人の一人であり、真に日本の偉材ということが出来る。日本赤十字社は大正十五年(1926)十一月創立五十周年を記念して生誕のこの地に記念碑を建てた。 昭和四十三年十一月 日本赤十字社佐賀県支部 日本赤十字社の創設と言うと、西南戦争の臨時病院として木の葉や玉名女子高が創設の地となっています。
2020.02.21
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会長さんから、荒尾の旧地図を見せて貰いましたので、パチリ。古文書で地名が出た時にお使い下さい。同じ地図ですが、フラッシュ有無で、見やすい方を参考にして下さい。
2020.02.20
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茨城県土浦市小野73の小野小町の墓に来ました。36.163951, 140.156293小野小町の墓(石造五輪塔) : (前略) 京都から奥州に旅する途中、清滝観音から北向観音へ向かいお参りした後、病に倒れ、この地の村長 小野源兵衛宅で親切な介抱をうけたが、元慶7年7月7日 67歳で亡くなったといわれています。(後略) なお、小野小町の墓は、他に、36.368586, 139.62591038.600897, 140.91841834.630144, 133.74471134.189236, 130.969418などにあるみたいです。
2020.02.19
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以下の日程で、総会が実施されます。 2/25日(火) 18:30 ~ 2階B室会員の方は、参加願います。
2020.02.18
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2020.02.18
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講演会が実施されました。良い講演でした。
2020.02.18
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いよいよ本日夕方、開催となりました。
2020.02.18
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植木町の小野泉水公園に来ました。32.908600, 130.712863眼鏡橋が移築復元されていました。何と、此処は、小野小町の生誕地だというではありませんか!小野泉水 : 小野小町(平安時代の女流歌人、六歌仙の一人)の生誕地です。出羽郡司(秋田県)小野良実(小町の父)は、義父小野篁の罪に連座して、肥後のこの地へ流罪に処せられました。 七国神社は、本国帰参の祈願のため良実が勧進したものであると伝えられています。配処の月を眺めること11年、この間に長女龍子、次女小町が生まれ、小町こそ世にいう絶世の美人小野小町のことです。 生まれた時、ここの泉水の水を産湯に使ったと伝えられています。岩の隙間や池底から湧出する水は豊富であり、古庭園名ごりの池畔には、小町堂があり、小野小町像が安置されています。この中に、小野小町の像が・・・、見たいなぁ!
2020.02.18
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海軍大将 伊藤整一君生誕の碑 33.08334, 130.43756横には、「父子桜」も植えられました。
2020.02.17
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「伊藤整一大将の墓」に来ました。33.075358, 130.436864伊藤整一 : 明治23(1890)年7月26日高田町生まれ。(中略) 日米開戦に最後まで反対し、最後の出撃(司令長官として「大和」に座乗)では若い将校や乗務員に退艦命令を出し、自らは艦に残って戦死したのです。(後略) 海軍大将となる。駐車場が、16号線沿いに在ります。33.074074, 130.436243少し歩きます。案内板に従って、民家横の小道に入ります。お兄さんが、この地に建立されたと聞きました。生家は、川を隔てて直ぐ近くです。
2020.02.16
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ちょっと寄り道の情報ですが、荒尾の「未来の遊園地」に行ってきました。32.985141, 130.463364お子様連れで賑わっていました。正面が、お絵かきタウンです。滞在は、2時間を越えていました。子どもが楽しんで、何枚もクラフトを作っていました。案内パンフです。荒尾文化センターの子ども科学館・あらおキッズドームに出来ました。昨年の11月から、4ヶ月目に入っています。常設展示です。チームラボの作品は、「お絵かきタウン」と、「つながる!積み木のまち」と、「お絵かきタウンペーパークラフト」がありました。専用のWEBサイトがあるそうなので、アクセスしてみました。検索で「チームラボ荒尾」で、検索して下さい。「お絵かきタウン」などの遊び方が、動画などで照会されていました。
2020.02.15
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連載の続きです。
2020.02.14
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金栗四三翁の和水の生家に来ました。33.062593, 130.603669左手が生家です。道路のカーブの先に、前回紹介した記念碑があります。町が買い上げてこれから整備に入る時でした。道路の向い側に、この案内板がありました。金栗瀬助翁の墓 と記されており、庄屋として地域の発展に貢献したことが記されている。金栗家の墓所と思われる。この斜面の上。生家の裏面:四三の祖父の時代には作り酒屋だったそうだ。生家の玄関面:現在、ここが駐車場となり、生家も展示用に整備された。四三少年は、ここから走って尋常小学校に通った。
2020.02.13
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月瀬の青木磨崖梵字群に来ました。32.959899, 130.584164古いのに綺麗に残っています。梵字の説明板が有りました。
2020.02.12
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崎津教会に来ました。32.312399, 130.0258111569年に建てられて布教の中心となった後、1638年の禁教令により「隠れキリシタン」となり、明治になってから3回建てなおされたものの様です。内部は撮影禁止ですが、めずらしい畳敷きです。
2020.02.11
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2020.02.10
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金栗四三の熊日連載の続きです。
2020.02.09
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史蹟では有りませんが、天草の夕日を撮れるスポットのようです。この方角が夕日の様です。この後、夕方も寄ってみたのですが、天気に恵まれませんでした。
2020.02.08
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天草をぶらつきました。轟きの滝です。32.421557, 130.034027滝だけ見ましたが、森全体は相当に広い様です。癒されました。
2020.02.07
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苓北町・富岡城跡に来ました。32.529230, 130.031525富岡城 かつて苓北町は、数百年にわたり天草の中心として栄えました。1205年からおよそ400年もの間、志岐氏が統治する時代が続き、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎えます。その後、徳川時代には唐津藩によって統治され、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)頃に富岡城が築かれました。 寛永14年(1637年)「天草・島原の乱」で、富岡城は幕府側の拠点として一揆軍から攻撃を受けました。必死の守りで落城を免れたことが、乱の早期終結と後の徳川纂府の安定をもたらしたといわれています。 乱後、山崎甲斐守家治の領地となり、築城の名手と謳われた山崎氏は大規模な修築および拡張を行い、現在見られる富岡城の形が完成しました。山崎氏の後に天草は天領となり、初代代官・鈴木重成の時代を迎えます。後に再び私領となり戸田忠昌(後に老中に昇進する)が城主となるものの、戸田氏の領地替えの際に富岡城は破城。再び天領となって、天草の行政の中心となりました。 現在、富岡城の本丸跡に「熊本県富岡ビジターセンター」を開設。さらに櫓・高麗門・白塀等が復元され、当時の面影を偲ぶことができます。有明海を望む天草の恩人の銅像がある天草の恩人 鈴木重成 天草・島原の乱後、寺沢堅高の後を継いだ山崎家治が富岡城の立て直しを終えると、寛永十八年(1641)に天草は天領となり、初代代官として鈴木重成が赴任しました。重成は、農村の行政組織を整備し、実兄の正三和尚の助言を得て、寺社を復興して民衆教化を図り、荒地を開拓して各藩からの住民の受け入れを促進しました。特に、天草の石高四万二千石が過大で、乱の一因てあったことを痛感し、幕府に半減を再三、上申しましたが容認されず、抗議の意味で、江戸駿河台の自邸で切腹したと伝えられます。その後、重成の願いは幕府に認められ、重辰代官時代の万治二年(1659)、石高二万一千石へ半減されました。 なお、重成は天草に赴任するに際し、三河国足助から「一仏二十五菩薩」を円通寺に祀リ、島民の心の拠り所にしました。今、この菩薩群は国照寺に安置されています。「冨岡吉利支丹供養碑」は重成が建立したものです。 鈴木正三 鈴木重成の兄として知られます。関が原の戦いなどで活躍し、旗本に取り立てられましたが、42歳の時に弟の重成に家督を譲って出家しました。全国を行脚し、厳しい修行に励み、「仏の教えは特別なものでなく広く世のため、人のためを考えて、毎日自分の職業に励む事が仏の心につながる」という「万民徳用」の教えをまとめました。 その後、代官となった重成の依頼によって、63歳になっていましたが天草の地に赴いて3年間滞在し、政策顧問として補佐しました。乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、荒廃した神社仏閣の復旧を重成に勧め、「農民ひとりひとりが心を正しく持って自分自身の仕事に打ち込んで働けば、結果として生甲斐のある世の中になる」と説きました。 晩年は江戸に住み、明暦元年(1655)に77歳で生涯を閉じました。天草の人々は重成、正三、重辰の遺徳を偲んで、島内の各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀リ、鈴木神社も造営されています。
2020.02.06
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金栗さんの情報です。「いだてん」は終わってしまいましたが、これは、始まる前に熊日に載った連載です。何とか、文字読めそうですね。今回、その4まで。シリーズ40回までです。時々、間にはさんで、紹介したいと思っています。金栗さんの原点、走って通学した道、「すっス、はっは」の紹介です。金栗さんは成績も優秀だった様で、旧制玉中から高等師範(現筑波大)に進学します。
2020.02.05
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金栗四三の、ゆかりマップを紹介します。熊日に載ったものです。01、生家記念館02、金栗四三ロード03、南関第三小学校04、金栗四三ミュージアム05、旧宅:以前に写真紹介06、墓 :同上07、銅像:新幹線玉名駅前08、歴史博物館こころピア:記念品が保管されている09、銅像:玉名高校校庭10、大河ドラマ館:すでに閉館
2020.02.04
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武蔵が五輪の書を書いた所と言われる「霊厳洞」に来ました。32.820160, 130.621115霊厳洞と呼ばれる洞窟です。内部はこの様になっています。となりには、五百羅漢があります。
2020.02.03
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金栗四三翁の墓に来ました。32.950945, 130.600919金栗翁は、玉名の池部家へ婿養子に入りましたが、義母の許可により表向き金栗を名乗りました。そこで、お墓は、池部家の墓に入っています。池部家の墓です。墓所への入り口三叉路です。右が墓所へ、左手が池部家です。正面が池部家です。金栗翁は此処で暮しました。32.952327, 130.599248
2020.02.02
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阿蘇供養塔に来ました。32.99345, 130.51036道路脇に在ります。 平山小路より小岱山林道に沿って土壇上に一基の板碑(高さ105cm、幅22cm、厚み13cm)が建っている。これは永禄5(1562)年に建てられた阿蘇惟富の供養塔である。阿蘇大宮司家に見える惟富は、元弘の乱(1331年:後醍醐天皇を中心とした 勢力による鎌倉幕府討幕運動)の時、大宮司惟時に従って上洛し、後醍醐天皇の六波羅攻めの功臣となった。大永3(1523)年、菊池家の相続をめぐり菊池武包と菊池義武(大友義宗)が争い、小代重忠(第十代)の支援を得た武包の勢が阿蘇惟豊に攻略された。この頃、阿蘇大宮司家は惟長ー惟長ー惟富と惟豊ー惟将の一族爭いが続き、その渦中で惟富が敗着されたと推量されている。なお、惟富の供養塔がこの地にある理由はわかっていない。 続いて、すぐ近くの平山薬師堂です。32.99335, 130.51099 惟富碑より200mほど登った所は中世寺院(寺名不明)の跡であり、道路脇に薬師如来(木造)を安置する石厨子がある。ここに石幢と板碑が並んで建っていた。願主は藤原加賀守(小代忠弘)であり、文明12(1480)年に建てられた。藤原加賀守忠弘は、8代小代泰弘の次男重行である。元亀元(1501)年、菊池家22代守護職菊池能運(よしゆき)は叔父宇土為光に菊池館を追われ、高瀬保田木城に拠ったが、城は陥ち肥前国高木に逃れた。この戦いで加賀守忠弘は戦死した。この2碑は延徳元(1490)年父泰弘の母妙泉の逆修供養のために建てた。この両塔は、現在、光徳寺内に移されている。
2020.02.01
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