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上区公民館に来ました。32.92685, 130.50871この辺が、上村城跡のハズなのですが・・・公民館横の道路です。しばらく探しましたが、城跡の特定に至らず・・・でした。後日、会長に連れて行って貰いまして、場所が特定出来ました。もう少し、奥に入ったところでした。後日、掲載します。上村城跡 築地国秀が築城し、大野光隆などが居城していたが天正九(1581)年小代氏に攻められて落城した。 「馬場原」の字名を残す集落(標高13m、東側水田よりの比高7m)の北東一隅が城跡とされる。 現在、民家の敷地となっており(居住無し)、丘陵端となった東側を除き三方を幅2m程の堀道が取り囲んでいる。 北側部分には幅5m、高さ1.5mの土塁が観察されるが、以前は西側と南側にも土塁が存在した。 なお、城跡北側の西側半分には、二重の空堀が堀道に沿って走っているが、堀に伴う土塁はその東側部分で結合して古井戸を囲むように南側へ曲折している。 城跡にはこの他、古井戸付近に小山状になった高さ6m程の土壇(底面の長径11m、短径8m)があり、上面には板碑と石碑が祀られている。
2020.04.30
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長洲町の、通称「ぼたもちさん」に来ました。32.92493, 130.47347 柳川藩主、立花宗茂の正室闇千代の墓碑 閤千代の父、戸次道雪と宗茂の祖父吉弘鑑理は、豊後大分の戦国大名の雄、大友宗麟の有力な家老でした。 宗麟は筑前・筑後を固めるために鑑理の子紹運を宝満山城主(太宰府市)に、戸次道雪には立花城主を命じました。天正九年(一五八一)紹運の子宗茂を道雪の娘闇千代の婿養子に迎えました。それが立花宗茂です。 宗茂は、関が原の戦いで石田三成方に味方したために領地は没収されましたが加藤清正のとりなしで助命となり、一時、高瀬(現在の玉名)に滞在し、その後熊本へ、さらに江戸へ移り住みます。 この高瀬滞在のときに、闇千代がなぜ腹赤の地に来て亡くなったのかは不明です。 宗茂は元和六年(ニ八二〇)旧領の柳川領を再び与えられます。そして寛永十一年(一六三四)には闇千代の墓をつくらせています。その後、改修されたと思われますが、墓の頭部が「ぼたもち」の型に似ているので地域の人々からは「ぼたもちさん」の愛称で呼ばれています。柳川では、「閤千代(ぎんちよ)をNHK大河に!」との運動があっています。もし実現すると、此処も大変な事になりますね。2016年に、久留米の善導寺から誾千代の墓石が発見されたそうで、こちらは「供養塔」と云われる様になったみたいです。道路から、ぼたもちさんの入り口標識です。
2020.04.29
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一本木に在る景行天皇上陸地の碑に来ました。32.9233, 130.46676日本武尊(古事記)・景行天皇(日本書紀)より82年 九州巡幸出向(日本書紀)88年 熊襲健征伐88年 長緖浜着(肥前風土記) 御腰の石 供御池 (清源寺一本木に上陸 漁夫の「朝勝見」が腹赤魚を献上) 89年 九州巡幸還御(日本書紀)
2020.04.28
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満開との情報で見学に行った。32.975484, 130.510601本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布する。但し、日本での自生は極めて限定的で、静岡県湖西市・三重県伊勢神宮・熊本県荒尾市のみ知られる。常緑小高木。花期は5月頃で細長い4枚の花弁の花を咲かせる。花の色は、基本種はごく薄い黄色であるが、紅色の変種であるベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubrum(中国原産で葉も赤みを帯びる)がよく栽培されている。(Wikipedia)伊勢の情報:https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=574湖西の情報:https://www.city.kosai.shizuoka.jp/kanko_bunka_sports/kankospot/3347.html
2020.04.27
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平山城近くのホタルの里に来ました。32.994740, 130.499359ここも小岱山からの清らかな水に恵まれている様です。
2020.04.26
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登り道から、山頂に着いたところ。32.999675, 130.500437山頂は、畑になっていました。石碑がありましたが、個人のお墓のようです。 現在は明確な遺構は残っていないが、かつては土塁と空堀に囲まれた長方形の区画が存在したという。 この城は筒が嶽城の北西を守る第一線の要害であるので北国守衛とも呼ばれたといい、近くには「城の下」、「大蔵」、「敵亡」、「馬無疵」などの下名がある。 また、平山村を領した平山権守正行が、東西1町25間、南北40間の城を構えたと伝えられ、そのあたりを陣屋敷と呼んだ。 (諸隈会長の資料より)
2020.04.25
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平山城跡に登りました。この路地を左に入ります。32.997511, 130.499535麓の集落のここを左に入ります。「古城考」によれば、城主は小代家臣、堀切種藤という。(「熊本県の中世城跡」より)この道を進みます。左、お宮の横を進みます。山道に成ります。山頂です。32.999576, 130.500377畑になっていました。
2020.04.24
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続けて、高森峠の千本桜に来ました。32.809302, 131.134898こちらも満開でした。新しく広い道路が出来ていますが、こちらは旧道の峠です。通称九十九曲がりと呼ばれている峠道に咲いています。
2020.04.23
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阿蘇で有名な「一心行の大桜」に来ました。32.835827、131.050827以前は、ぽつんと一本、だったのですが、いまは公園になって、駐車場も整備され、係員も配置されています。 樹齢 およそ400年 樹高14m、枝張り東西21.3m、南北26m幹周り7.35m戦火に散った矢崎城城主・伯耆守惟冬の菩提樹で、惟冬と家臣を弔うため一心に行をおさめたのが名前の由来となっています。(村のHP説明より)
2020.04.22
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西南戦争の田原坂公園に来ました。32.912740, 130.651586桜が満開で、多くの人が亡くなった土地とは思えない感じでした。
2020.04.21
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柳川の三柱神社に来ました。33.170315, 130.415179 三柱神社は、旧城下町から堀を一本隔てた外に位置します。柳川城から見ると、ちょうど鬼門の方角にあたります。 社名の由来は、祭神として戸次道雪、その養嗣子にして藩祖立花宗茂、道雪の娘で宗茂の妻誾千代を祀っていることによります。桜の名所です。市民に親しまれている神社です。
2020.04.20
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今月の講演会、4月21日予定は、コロナの為、中止します。よろしく、お願いします。
2020.04.19
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那古井館から歩いて、「前田家別邸」に来ました。32.851285, 130.587269宿泊は、こちらの「別邸」だったようだ。別邸内の風呂今は使われていないそうだが、風呂の形は残されていた。宿泊したと思われる別邸の部屋に草枕の一節の書がかかっていた。額も、このように。
2020.04.19
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宇宙桜の様子を見てきました。花は、終わってました。葉は、赤から青色へ変わりつつありました。今年の成長を期待しています。
2020.04.18
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天水町の那古井館に来ました。32.852276, 130.586512小説「草枕」で描かれた、天水町小天(おあま)の前田家ゆかりの宿です。現在は、旅館として営業されています。ランチもされています(要予約)。パンフレットです。落ち着いた静かな宿です。
2020.04.18
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早鐘眼鏡橋に来ました。33.019857, 130.460028この眼鏡橋は、人が通るものでは無く、農水路の為に造られたものの様です。通潤橋と同じです。しかし、水路橋としてはこちらが日本最初です。こんなに近くに日本初があるんですね。
2020.04.17
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毎年恒例の「戦国肥後国衆まつり」が開催されたそうです。何時か、この甲冑を着てみたいものです。(申し込めば着て参加出来るそうですよ)
2020.04.16
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かわりばえしない写真ですが、今日の宇宙桜です。一層葉が多くなり、花は終わりそうです。どうも、今年はこれで、ピークを過ぎた感じです。去年と比べても、花の少ない桜の様です。調べたところ、倉敷の宇宙桜は好く咲いているみたいです。余市もです。でも、本州の宇宙桜は、僅かに数輪というのが多い様です。此処は、九州ですので、気候が合ってない、様に想われます。そして今年は暖冬でしたもんね?
2020.04.15
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細川藩医師団:鳩野宗巴日本赤十字発祥の地としては、木の葉・玉名がありますが、川尻では薩軍近くで、両軍隔てなく看病した医師団がいました。延寿寺の紹介もありました。そして、川尻の南洲翁本営跡に寄りました。32.737857, 130.681052
2020.04.15
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今日は天気が好くなったので見に行きました。しかしながら、花は元気なく、葉桜状態です。エゾ山さくらはこんなもんなのでしょうか?荒尾が合ってないのでしょうか?御存じの方、教えて下さい。
2020.04.14
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2020.04.14
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今日の宇宙桜です。花よりも、葉が先の様です。まだ花はポツポツです。どうも気候や土が合って無い様な気がしてきました。可憐な花なのですが。
2020.04.13
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西南戦争の前に起こった新風連の説明がありました。川尻から薩軍への呼応:池部吉十郎が隊長川尻付近の戦い。12日から14日川尻鎮撫隊:上田休の活動を紹介するパネルがあった。
2020.04.13
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続いて展示パネルです。明治5年の町村図です。そして、川尻の様子です。西南戦争の電文
2020.04.12
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くまもと工芸会館で特別展が在りました。32.741414, 130.682067熊本城攻撃の薩軍本部地として、川尻は興味があります。当時の大事件でしたので、沢山の錦絵が出回ったそうです。西南戦争に至る前に起こった「乱」です。明治は変革の時代でした。
2020.04.11
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文化センターの宇宙桜です。まだ咲いていません。うしろの桜は満開ですが。この桜は、先に葉が出るみたいです。4/15日と予想してましたのが当たっている様です。ピンボケですみません。
2020.04.10
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ちょっと歴史から外れますが、熊本に鼎泰豊が出店している事が判り、出掛けました。鼎泰豊(ディンタイフォン)は、小籠包が有名です。小籠包と蒸餃子+坦々麺を頼みました。こんな店が熊本にある事に感激です。一度は行ってみたい店でしたので、大満足です。鼎泰豊は、台北に在り、そこのランチにツアーが組まれる程の人気店です。それが熊本で行けるなんて・・・感激!
2020.04.10
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菊池川沿いに小さな公園を見つけました。32.97019, 130.59457面白い石像がありましたので、興味をもちました。たぬきとかっぱを両脇にしています。人の子になんのかんのというけれど わが子の罪に源苦労する 叶源九郎源九郎さんは、玉名市月田に住み、代々、紺屋(あい染物屋)を生業としていました。本名を叶源九郎常信といい、幕末から明治初期にかけて実在した人物です。源九郎さんは、頭が良くて、そればかりか世話好きでもあったようです。また、とんちが大の得意で、その一流の話術で村人にもずいぶんといたずらをしたようですが、村人からは慕われ、村の世話役を務めたりしました。そのうえ、源九郎さんは、鉄砲撃ちの名人でもあり、お酒もたいそう好きであったということから、これらにまつわる面白い話が、「源九郎さんの鴨りょう」、「源九郎さんのガラッパ釣り」、「源九郎さんのどじょうとり」等などたくさん残っています。』(ブログ「熊本の花所」より転載)源九朗さんのどじょうとりむかーしんこつ、源九郎どんちゅう人がおったばってんがー、漁の名人でかる、金毘羅さんば信心しとらした。そんころは、秋の彼岸になっと、村ばいくつかに分けち、宮ごもりして、太鼓ばたたいて、豊作ば祝うて、大人も子供も座元の家さん集まって、子供ン分な芋の葉っぱに「ごくろうさん」ていうて、ごはんとざぜん豆ばもろうてなー、大人はお神酒ばいただきながるどじょう汁食うごてなっとった。ばってんが、そん年ににかぎって、どじょうの一匹もとれんだった。「こらあ、たのしみのどじょう汁のくわれんばい。こまったー、こまったー」て、しょうけばもってうろーうろしよらした。だっでんあきらめようかてしよらしたとき、源九郎どんがところへ「名人だけん」てゆうて頼みぎゃこらした。「あ、ちーっとでよかけん、どじょうばとってきてくだはりまっせんどか」実は源九郎どんなどじょうのおらんてゆうとはしっとらしたばってんが、 村人の頼みだけんつっけんどんにもされんとたい。「わかりました、明日の昼まじにゃどぎゃんかしましょ」て約束さした。 がちゃかりおらんとだけん、とるるわけのなか。 「やすうけあいせんばっかりだったー」て悔やましたばってんがしょわなかたい。(熊本の民話メニューより転載)菊池川・白石の堰が見えます。
2020.04.09
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今月の講演会、4月21日予定は、コロナの為、中止します。よろしく、お願いします。
2020.04.08
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熊日で蒙古襲来絵詩詞が特集されました。一度は拝見したいと思っていますが、まだ叶いません。この記事で、少し判った気になりました。残念ながら、小代氏は描かれていない様です。
2020.04.08
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荒尾文化センター、子ども科学館、横に植えられている、エンデバーで毛利さんが宇宙から持ち帰った、桜です。「エゾ山さくら」という品種らしいのですが、開花は遅いです。後ろの桜が満開ですが、宇宙桜はまだまだです。昨年の観察では、4/3で他が満開なのに、宇宙桜は今日の様な状態でした。そして他が散り始めの、4/11頃に満開を迎えてますので、今年は、4/15頃になりそうです。楽しみ、です。
2020.04.07
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阿弥陀寺跡の事が熊日にのりました。32.99843, 130.44143福田さんは、荒尾史学会で2017年12月にこの阿弥陀寺跡について講演しています。福田さんの尽力により、石仏が朽ちて周辺に散逸していたのを集めて積み直しされたそうです。郷土史の重要な仕事ですね。
2020.04.07
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いま話題の作品を見つけました。すごく良い作品です。こんな風に、戦国時代を鳥観してみたかった!ありがとう!URLは、https://www.youtube.com/watch?v=OcYa6QyUmoAです。是非、ご覧下さい。
2020.04.06
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荒尾一小の横にある「宮内神社・豊玉姫神社」に来ました。32.982794, 130.437736豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は祭神を豊玉姫としその名を冠した神社。トヨタマヒメは安産の神として全国の各所に鎮座している。『ウィキペディア(Wikipedia)』この神社は古く、荒尾にとって重要です。 現在の野原八幡宮は、当初この地に祀られ、その為ここが宮内と云われるようですが、しばらくして、野原村に移り、宮内には神社が建てられたと云われています。
2020.04.06
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泗水町の「有朋の里 孔子公園」に来ました。 32.925283, 130.772230中国の宮廷建築様式を採用して、中国宮廷の世界観を再現されたなかなかにゴージャスな公園です。孔子公園がここ泗水町に作られたのは、どうやら、泗水という地名のルーツが、孔子の生誕地、中国山東省・泗水県に由来することから来ているようです。「泗水」という町名は、明治22年4月1日、初代村長・西佐一郎氏が村会に諮って命名したもので、郷土発展を願って孔子の聖地「泗水」の名を取ったということで結論づけられたそうです。では、そもそも、なぜ孔子にあやかったのか?というと、泗水村が成立する前はこの地は「合志郡」だったので、「合志」と「孔子」をひっかけたようです。孔子の「人は生きている限り学ぶべきである」とした一生は、後世の人々の貴重な文化遺産(「論語」孔子の教えを弟子達がまとめたもの)となって今に伝えられています。※現地看板より引用
2020.04.05
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海達公子の資料が展示されていました。高瀬高女の時の写真です。直筆の資料など、展示されていました。そして、「腹赤のにべ」です。腹赤のニエ: 奈良平安時代、朝廷の新年宴会に先立ち天皇に新年の暦を奉り、大和拓植から氷室の氷を太宰府から腹赤魚を奉るのが恒例でありました。氷は穏やかな気候の、魚は豊かな食糧のシンボルであったのでしょう。この最高にめでたい魚は長洲町腹赤で獲ったと伝えられています。景行天皇が熊襲征討のとき長渚浜に泊まられ御船にニベが集ったという故事によるものです。
2020.04.04
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展示のなかから、男神像です。玉名大神宮男神像: 玉名大神宮東末社に祀られている菊池十二神の一神。平安時代、玉名一帯を治めていた菊池則隆を模していると伝えられる。則隆は延久3年(1071)年に太宰府から肥後に下向し、菊池郡深川村に館を構え、その権力は玉名まで浸透したといわれている。 大きめの巾子冠や怒りの表情、体部を抽象的に表した造りで、平安時代後期の典型的な男神座像である。当初は全体に装飾が施され、胸前に構える両手にはシャクをもっていたと思われるが現在装飾はすべて剥落しており、シャクも確認できていない。(後略)玉名の偉人:笠間精義・肖像画です。名字が笠間で、高瀬藩士となっているので、高瀬藩と共に江戸から来て、玉名に留まった人ではないか??高瀬藩士 笠間精義肖像画: (前略) 禁廷に召されて御前講書の栄を蒙り、遂に高職に登り、精勤により180石の藩米を給わった。国家の難を払うため諸藩に遊説し、ために朝廷より黒絹を賜い神祇史生従七位となった。病のため官を辞したが、猶欣喜として藩の教育に心血を注ぎ、師弟敬愛の交わりをなしたので、郷中が教化され学び来るもの多かった。 明治15年9月9日没、63歳玉名清源寺に葬られる。(後略)そこで、高瀬藩とは、高瀬藩 慶応4(1868)~明治3(1870)年: 寛文6年、本藩第5代藩主細川綱利により弟利重に内分され新田藩が生まれ、利重より利永まで10代にわたり続きました。江戸に常駐し藩主等の上京の際の差配などを行いました。支配する領分はなく、本藩より石高3万5千石の蔵米が支給されていました。 慶応4年、幕末の政治不安のなか、3月4日利永とその家族・家臣は江戸を引き上げ本藩に帰国。熊本新町に仮寓し、4月11日に高瀬御茶屋に到着。7月29日に藩主利永が高瀬御茶屋から高瀬町奉行の明邸(保田木)に移転し、高瀬藩となりました。 その後、岩崎村(現玉名市岩崎)に陣屋地を付与され高瀬藩邸の建設が開始されました。しかし、廃藩置県の前年の明治3年、熊本藩が高瀬・宇土両支藩を統合したことで高瀬藩は消滅することになりました。 高瀬藩邸跡に建てられた玉名町小学校には記念碑が建てられており、区画された道路や屋敷地とともに、その面影を残しています。
2020.04.03
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続いて徳永家の甲冑です。徳永家甲冑:製作年:不明: 玉名郡木葉在住だった徳永家に保存されていた。箱の表面には、日本十大紋である抱き茗荷が描かれている。天台宗の神紋である。甲冑の着かたの指南書が付いていた様です。
2020.04.02
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コロナが心配ですが、予定です。
2020.04.01
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こころピアで甲冑の展示がありました。森家甲冑:製作年:不明: 玉名市森家に伝わる甲冑である。使用されていた時期等の詳細は不明であるが、状態の良さから戦で使われていたものではなく、江戸時代以降に観賞用として受け継がれていたものと思われる。
2020.04.01
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