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高岡城跡に来ました。32.93666, 130.54141高岡城跡: 山田団地の北側一帯の丘陵地は、熊本城等とはまったく異なる古い時代の築城法(朝鮮式山城)で造られ、監視所と防禦塞を兼ねた要塞のような山城でした。隣接地には城主の屋敷が構えられてぃました。一郭には一族の墓も営まれ、中には初代城主の墓とみられる巨大古墳もまつられてぃます。 うっそうと竹林が生い茂ってうす暗い中には、小さな墓標一基がひっそりとたたずんでいます。「釈尼童女」宝暦十二王天(一七六二)正月廿三日と墓誌銘が鮮やかに読み取ることができます。この乙姫墓を付近の人はお姫さんの墓と読んでいますが、城主の子孫で幼くして逝った姫君の墓です。 西の家の庭先にも『高町殿紀氏の墓」(貴婦人墓)がまつられるなど、高岡には至るところ文化遺産やロ碑が語り継がれていて、高岡城にまつわる遠い歴史のおもかげを偲ぶことができます。現在は、道路横に小さな墓所が残るのみです。
2020.03.31
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玉名郡衙跡に来ました。32.94344, 130.54935蛇が谷前の玉名バイパスの横です。何も残っていません。標識もありません。狭い道しかありません。
2020.03.30
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玉名市岩崎の菅原神社・岩崎城跡に来ました。32.93409, 130.55774大野氏の一族の支城です。この石が城の礎石か、墓の蓋石とも云われている様です。出土した石搭が並べられています。
2020.03.29
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玉名の保田木城に来ました。32.93122, 130.56446保田木神社(保田木城): 南北朝時代の正平2年(1347)、菊池武尚がここ保田木台に保田木城を築きました.ここは菊池川の下流をおさえ、有明海に臨む要衝の地だったのです。 武尚の子武国は高瀬氏を名乗り、代々の高瀬氏はこの城を本拠として菊池本家を支え、海外にも活発に進出しました。5代武教の名は朝鮮の「海東諸国紀」に出たほどです。貿易で築いた富で隣接の清瀬寺、宝成就寺など五ヶ寺(五山ともいう)や神社の保護に務めました。高瀬氏は16世紀はじめには菊池本家ともども衰亡します。 江戸時代に入り寛永11年(1634)、高瀬町は肥後五ヶ町のーつになり、保田木城跡に町奉行所が置かれました。 現在、城跡は保田木神社となり、菊池武尚と奈良時代肥後と筑後両国の国司をつとめた道君首名を祀っています。 なお、境内の一帯には縄文時代の貝塚の跡があります。江戸時代には、ここに町奉行所があった様です。
2020.03.28
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偶然、海に航空機を見つけました。34.162336, 134.840064グーグルアースで見つけました。グーグルマップだと、「航空写真」に切り替えると見れました。倍率を相当上げて下さい。何と言う機体か?ご存じの方は教えて下さい。場所は、淡路島の横の沼島の沖合です。すでに報告上がっているのかなぁ?今から調べてみます。取り合えず、ご報告まで。=====2021.02 追記======現在確認したところ、少し薄くなって・・見えます。=====2024.03 追記======現在確認したところ、見えなくなっていました。======
2020.03.27
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玉名の願行寺に、龍造寺隆信の首塚を見にきました。32.93024, 130.56285願行寺: 一遍上人を宗祖とする時宗のお寺です。貞和5年(1349)、遊行五世他阿其阿弥陀上人の開山によるものです。 寺は代々菊池・小代・大友・細川氏の保護を受け、天正年間には、玉名郡7ヶ村内に千石余の寺領を有したほどです。 御堂には本尊の阿弥陀三尊のほかに、鎌倉末期の時宗高僧の倚像が安置されています。また、天正15年(1587)、九州平定の際、当寺を宿陣とした豊臣秀吉が寺への謝礼として残したとされる陣太鼓も所蔵されています。 境内には、天正12年(1584)、島津・有馬の連合軍と戦って敗死した肥前の戦国大名龍造寺隆信の首塚と伝えられる石塔のほか、高瀬町別当をつとめた荒木家の五輪塔、高瀬町教導師黒田紫山の祠堂・祠堂記碑などがあります。龍造寺隆信の首塚: 「肥前の熊」ともいわれた、戦国時代の猛将龍造寺隆信は、天正12(1578)年3月24日島原・沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍に討ち取られた。 肥後高瀬川に遺棄された隆信の首は、ここ願行寺の四阿上人によって丁重に葬られ、その後明治四(1871)年隆信の故郷肥前高傳寺に移された。
2020.03.27
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玉名の蓮華院誕生寺にある、浄光寺跡の関白搭に来ました。32.93222, 130.53516関白搭: 浄光寺跡出土五輪塔地輪: この五輪塔は、浄土宗の開祖である法然上人の師、皇円上人の生誕地として、皇円上人の祖、関白藤原道兼の菩提を弔うために造立されたものと伝承され、地元では関白塔の名で親しまれている。以下、向かって右を東塔、左を西塔とする。 東塔は、高さ約二・五三メートルの巨大なもので、地輪下に幅約一・一六メートル、高さ約二十センチメートルの基礎石がある。西塔は、高さ約二・六八メートルあり、東塔より若干高く、九州では最大の高さを誇る五輪塔である。 この関白塔には、規模が大きいにも関わらず、梵字等は何も刻まれていない。このことは真言律宗総本山奈良市西大寺の叡尊塔に代表される特徴であり、真言律宗においては鎌倉時代後期から室町時代にかけて梵字を刻まない大型五輪塔が僧の墓塔として造立されている。 関白塔は、真言律宗の玉名地域への伝播と、その後の発展および定着を示しており、中世における九州での仏教受容のあり方とその背景を考えるうえで重要な文化財である。蓮華院誕生寺
2020.03.26
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三池街道の古道がありました。32.9748, 130.50263府本の三池街道と平行にはしっているので、旧道と思われる。
2020.03.25
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すぐ近くに神社を見かけて、覗いてみたら、立派な像が飾られていた。32.97651, 130.50331200826本記事の下に追記します。神社名や由来などは未調査です。知っている方は教えて下さい。(200826追記) 先日、ある方から、「それは府本会下釈迦堂ですよ。荒尾市史の『荒尾の文化遺産』に載ってますよ」と教えて頂きました。(フモト・エゲ・シャカドウと読みます。エゲは地名です) そこで、200826の日記に、その紹介文を載せておきますので、ご確認下さい。
2020.03.24
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当ブログを見て頂いている方へありがとう御座います。今さらですが、1行目の数字の列は御存じでしょうか?「○〇に来ました。32.97683, 130.50183 」これは、その場所の緯度経度です。この数字を、範囲指定でハイライトにして、右クリックから、「google で検索」 を選べば、その場所が照会されます。あるいは、範囲指定して、「ctrl+C」を押してコピーし、グーグルマップを立ち上げ、その検索欄にカーソルを合わせ、「ctrl+V」とやって貼りつけ、検索すると、照会されます。お試し下さい。もうひとつ、タイトルの前の、「200323コメント・・・」の数字ですが、これは、「2020年03月23日」の略です。あたまの2000年を省いています。同様に、「170505」は、「2017年05月05日」です。「以前の記事です」を表しています。以上、よろしくお願いします。
2020.03.23
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府本の宗善寺跡に来ました。32.97683, 130.50183一般のお宅の裏手に、ポツンポツンと石塔が建っています。荒尾市の情報で紹介されていました。下段の32号です。旧道の横にあります。
2020.03.23
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玉名で以下の催し物がありました。久しぶりに、真空管の優しい音に包まれました。
2020.03.22
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小岱山釈迦院に来ました。32.95144, 130.54222蛇が谷前の道沿いから入り込んだ処に在り、道から見えないのであまり知られていません。全国版のTV番組で、秘仏として紹介されたことがあります。
2020.03.21
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山田日吉神社の前に在る毘沙門宮があり、その脇に宝塔がある。この地の地主が亡くなって、その供養の為に建立したとある。神社の境内に、「山田の藤」があり、4月に花が咲くと多くの人を集めている。
2020.03.20
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山田日吉神社に来ました。32.94481, 130.53711神社の参道には、山田十二坊塔碑が点在しています。山田十二坊塔碑: 山田日吉神社に合祀されている白山宮比売神を主神とし、参道に沿って12の坊が配置されている。これら12坊のうち、覚満坊が最も位が高いとされ、「白山のオッカサン」あるいは「モジ様」とも呼ばれている。 成立当初は、修験道の行者(山伏)がそれぞれの坊守を勤めていた。(後略)坊跡には、各種の石碑が残されており、巡ってみました。個人のお宅の敷地内などに在り、今も大切に受け継がれているようです。
2020.03.19
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日本赤十字発祥之地、石碑に来ました。32.93256, 130.55618玉名女子高校の中庭にあります。明治十年西南役の戦火を避けた白川県は、その庁舎をこの地にあった旧高瀬藩邸の後に移していた。勅命を奉じて戦況を見に来た佐野常民は、県令富岡敬明と会い悲惨な戦傷者の救護をする為博愛社(後の赤十字社)設立について徹宵謀議したと謂われている。 故老相語り相伝えて今日に至るも今や星移り人去って標識失せ遺跡又消滅しようとしている。 ここに碑を建てて後世に残す所以である。
2020.03.18
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玉名町小学校の校庭に、旧高瀬藩跡に来ました。32.93183, 130.55501旧高瀬藩、ご存じでしょうか?高瀬藩陣屋地跡: ここ玉名町小学校と東隣の玉名女子高等学校の敷地は、明治初期、高瀬藩の藩邸とされたところです。明治2年の「高瀬藩図」によれば、陣屋地は、藩邸およそ2.3haと、藩士とその家族700人が住む家臣団屋敷を合わせておよそ10haの広さとなっています。 慶応四年(1867)、200年間江戸に在った肥後新田藩(10代藩主細川利永・同年7月末高瀬藩と称す)は、明治維新の動乱のさ中、本藩の勧めで肥後に下向、高瀬町に仮住まいしたのち、明治3年5月、家臣たちは割り当てられた屋敷にはいりました。その年の9月、本藩への統合で、完成目前の藩邸は建設を中止、3年足らずで高瀬藩はその使命を終えました。 すい星のような存在でしたが、高瀬藩は、江戸風の文物や教育など、明治初期の玉名に新しい風をもたらしました。
2020.03.16
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先日も連絡アップしましたが、以下の件、ご連絡します。3月17日に予定していました、定例講演会は、新型コロナの対応で、中止します。よろしくお願いします。
2020.03.15
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その横の、繫根木八幡宮に来ました。32.92707, 130.5583此処は、西南戦争で官軍が置かれた為、激しい戦闘が行われたところです。官軍軍楽隊の石碑がありました。周辺の石垣には、鉄砲の弾跡がいくつも残っています。
2020.03.15
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その横にある渡海碑に来ました。32.928, 130.55822補陀落渡海碑補陀落渡海碑並びに宝塔搭身: 三基の板碑と一基の宝塔搭身があるが、これらの石造物のうち、向って右側の阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑が補陀落渡海碑である。 補陀落渡海碑とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。 この補陀落渡海碑は、永禄11年(1568)11月18日に、下野国の弘円上人、駿河国の善心、遠江国の道円らが補陀落渡海したのにちなみ、西光坊が施主となって建立したもので、現存の補陀落渡海碑は、本市の伊倉本堂山及び大阪府泉南市の一基、計3基だけである。 この補陀落渡海碑と並ぶ板碑2基の左端に、文永4年(1267)銘の宝塔搭身がある。
2020.03.14
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玉名の壽福寺跡に来ました。32.928232, 130.558738 天台宗繁根木山壽福寺は、平安時代のはじめの開山です。平安の中ごろ、大野別府(荘園のこと)の地頭紀(大野)隆村がこの地に八幡宮を勧請すると、壽福寺は同宮の神宮寺となりました。 南北朝から戦国時代のはじめにかけて、高瀬に進出した菊池氏一門の高瀬氏は、繁根木八幡宮や「高瀬五ケ寺」といわれる諸寺を手厚く保護したので、高瀬の町はこの時期いちばんのにぎわいを見せました。 戦国時代、高瀬は竜造寺・大友・島津の争いに巻きこまれ、壽福寺の仏像や梵鐘さえも持ちさられています。 江戸時代後期、住職となった豪潮は寺の復興に務め、一字一石搭の造搭、薬師三尊の造立、梵鐘の鋳造など、往時の名さつにふさわしい姿に戻しました。明治のはじめに廃寺となった跡地には玉名郡役所が置かれました。その横に、小岱山88ケ所霊場というお地蔵さんが並んでいます。すぐ前に、読坂阿弥陀如来立像があります。32.928038, 130.558569読坂鋳造阿弥陀如来立像: この阿弥陀如来立像は、ここから約200m離れた読坂というところにあったのを現在の場所に移し変えたもので、昔から「読坂の黒ぼとけさん」と呼ばれ、市民に親しまれてきた。 この像の背中に書いてある銘文によると、1789年8月、平山三郎左衛門の養父古閑杢?成富伝右衛門が、平山・成富両家の先祖供養の成?となり、高瀬町の豪商古閑吉兵衛の出資によって?の鋳造師田中伊賀掾に注文して造らせた仏像である。像の高さは2.4mで、金属の仏像としては?内随一の大きさを誇る。 西南戦争の戦禍では、右袖に銃弾を受け倒された?もあったが、その後町民により現在の姿に戻された。これが立像です。部屋に入れられて、覗き見します。
2020.03.13
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熊本城内の加藤神社に来ました。32.807159, 130.705312ここに、石垣の観音像がかざってありました。写真映りが悪くて、良く見えませんでした。上の説明の写真を参照下さい。ついでに、近くにあった西南戦争関連碑です。
2020.03.12
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刑部邸前に、崩れた石垣の石が並べられていました。熊本城の様子です。
2020.03.11
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熊本城内の細川刑部邸に来ました。32.809400, 130.699637この刑部屋敷は熊本藩主となった細川忠利の弟、細川興孝が刑部家をおこしたのち、現在の熊本市東子飼町に立てられた屋敷で、1993年(平成5年)に現在地に移築された。熊本県指定有形文化財となっている。熊本地震で、邸内は立ち入り禁止でした。庭の紅葉が評判のところです。地震で崩れた状態です。
2020.03.10
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菊水史談会より、以下の連絡が入りました。お出かけ予定の方がいらっしゃいましたら、ご確認下さい。
2020.03.09
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熊本県庁のイチョウ並木に来ました。32.788974, 130.741306ちょうど良いタイミングでした。まだ「ルフィ像」が無い時でした。
2020.03.09
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熊本県一の景勝地に来ました。32.838846, 131.134800確かに、此処からの阿蘇5岳の眺めは最高です。根子岳です。烏帽子岳、杵島岳、中岳、高岳、
2020.03.08
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菊池武光公騎馬像 に来ました。32.985832, 130.814264ちょうど、菊まつりが行われており、菊人形が展示されていました。
2020.03.07
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小岱山の南端・玉名の蛇ケ谷公園に来ました。32.945575, 130.549621大蛇が住んだ蛇ケ谷公園: 「蛇ケ谷」は、「大蛇(龍)が住んだ谷」ということから出来た名前です。 今から910年前、此処から西南2キロの玉名市築地に「皇円上人」という名僧が生まれ、96才の時、衆生済度のために身は比叡山にありながら、静岡県の桜ケ池に龍になって入られたと伝えられています。 ところがそこは信仰の不思議です。静岡の、龍神皇円上人と桜ケ池の信仰は、やがて静岡の相良氏によって玉名に移され、入定の静岡県ばかりか、誕生の玉名にも、「桜ケ池」ができ「蛇ケ谷」が出来ました。 しかも両方に、「男池」と「女池」の2つがあり、「男池」は埋まり、水のあるのはともに「女池」というのも不思議な符合です。 その信仰から「皇円上人の大蛇が住んだ谷」ということで、いつしか「蛇ケ谷」と呼ばれるに至りました。 皇円上人は、親鸞聖人の師にあたる浄土宗開祖法然上人のお師匠であります。テニスコートもある公園です。
2020.03.06
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丸山ビジターセンターに以下の記述を見つけました。32.967703, 130.529846『小岱山は、別名を「筒が嶽」といい、小岱山を流れる樺川(硯川(すずり川))の川石が硯に似ていることから「墨摺山(すみずり山)』と言われたり、どの方面から眺めても姿が同じところから「七面山」と言われたりしていました。小岱山の名前は飽田郡生まれの僧俊芿(しゅんじょう)(後の月輪大師)が中国で修業をとげて、帰朝後、建久6年(1195)この筒が嶽の山頂に正法寺を建立。この山の形が中国の霊地、泰山(対山)とよく似ていることから、小岱山と名づけたという説や、宝治元年(1247)、肥後国玉名郡野原庄を賜り、地頭職に任じられた小代家五代重俊が、筒が嶽に城を築いたので、この山を小代山(現在は小岱山)と呼ぶようになったという説などが有ります。』「しょうだいさん」と言いますが、漢字が「小岱山」か「小代山」かで悩むところです。多くは、城の名前や城主と同じになっていますが・・・はたして?今は、「小岱山」と書くのが多い様です。以前の会の講演で、16年の丸尾さんの資料に以下の記述があり、それで納得しています。『筒ヶ嶽の名称は、その頂上に航海安全の神である筒ノ男ノ命(みこと:住吉神)が祀られたので、一般に筒ヶ嶽と呼ばれるようになり、安土桃山時代まで筒ヶ嶽となっている。その筒ヶ嶽の頂上に、野原庄地頭職小代氏の城があったので、一般に小代ヶ城の山と呼ばれるようになったと言われている。江戸時代の正保元(一六四四)年に、幕府の命によって各藩の国絵図が作成され、細川藩でもそれが行われ、それには小代山と記されている。小代山と呼ぶようになってから、七つの峰にも呼び名が付き、頂上の峰を筒ヶ岳と呼ぶようになり、それぞれ前岳、長助岳、正法寺があった寺屋敷の上の峰を天狗岳、赤松岳、日岳、俊芿律師によって、中国南宋から帰国して二周年の建暦二(一二一三)年二月二十八日に観音堂を建立した峰を観音岳と呼ぶようになった。観音岳の南側の地域では、正法寺の道場である観音堂で、修学修行僧が使い余った墨を棄て、下に流れる小川の水が黒くなってながれたので、墨擦(すみすり)山と呼ぶようになったと伝承されている。』と、あり、続けて、『昭和三十(一九五五)年四月、小岱山県立公園期成同盟が結成され、県に申請する際に、郷土史家で肥後史談会会長中川斎(いつき)氏の説によれば、俊芿律師が補陀落(ふだらく)山補陀落寺がある岱山島に逗留し、帰国する際に補陀落寺の観世音菩薩像を請い受けて持ち帰り、小岱山と名付けたという』と有る。以降、この説の矛盾点をついている。こじつけだった様だが、その後、「小岱山」と書かれる様になってしまったようだ。
2020.03.05
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光徳寺文書を見つけました。内容は、清正公より、小代親忠が仏門に入り光徳寺を建て、留まる事を許す、という文書です。玉名の光徳寺に保管されているそうです。玉名市文化財場所は、現在地:光徳寺:玉名市大坊。32.948853, 130.571228 建築当時:玉名市富尾:福祉大から新玉名駅あたりのどこか(不明) 当時、荒尾には清正公一族の加藤美作守が封じられるので、少し離れた玉名にしたのではないか? (注) 荒尾の平山にも「光徳寺」が在り、以前紹介済みですが、間違えない様に。小代親泰:小代家13代、加藤家家臣となる。清正から葦北への移封を命じられた。 龍造寺氏に従っていたが、龍造寺没落後、秀吉に従い、加藤家家臣となった。小代親忠:小代家12代、移封に伴い富尾に光徳寺を建て、宗虎と号して仏門に入ることを願い出て許される。 大友氏に従っていたが、1579年龍造寺氏に敗れ、家督を親泰に譲って荒尾にて隠居していた。願い出た平井十兵衛は、玉名郡代とある。
2020.03.04
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佐賀城に来ました。33.24539, 130.30328最初に、直正公像に挨拶本丸御殿が再現されています。
2020.03.03
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3月17日に予定していました、定例講演会は、新型コロナの対応で、中止します。会場が休館になりそうで、予定がたたない為です。よろしくお願いします。
2020.03.02
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龍造寺隆信生誕地に来ました。33.24284, 130.30508記念碑が建っています。
2020.03.02
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大隈記念館に来ました。33.24795, 130.30882佐賀が生んだ、大隈重信の記念館です。本人の書です。そして、早稲田大学を作りました。そして、此処には旧宅が在ります。
2020.03.01
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