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食堂の中をのぞきこんでみると、一番隅のテーブルの下で、隠れるようにしゃがみこんですすり泣いているのは、調理場の下働きの、小さなドードーだった。 また、何か失敗をして、あの短気な料理長に叱られたのだろうか。 足音を忍ばせて、エリダヌスはそっとドードーに声をかけた。 「ドードー? どうしたんですか? またグリーディさんに叱られちゃいました?」 はっとしたように顔を上げたドードーが、その、涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を、エリダヌスに向けた。 と、エリダヌスの顔を見るなり、ドードーは激しく泣きじゃくり始めた。 「エリダヌスさま、俺もう死んじゃいたい! こんなところ、大嫌い!」 エリダヌスは、床にしゃがみこんでいるドードーに近づき、その隣に腰を下ろして、取り出したハンカチで顔を拭いてやりながら優しく言った。 「おやおや、死んじゃいたい、とは聞き捨てなりませんね。 いったい何があったんです? 私に話して聞かせてくださいな。 なにかお力になれることはないでしょうか?」 ドードーは、エリダヌスのハンカチに顔を押しつけ、しゃくりあげながら頭を横に振った。 「ないよ。 俺を助けることなんて、誰にもできない。 神さまだって無理だ。 エリダヌスさま、あなたにだって、俺のこのぶきっちょな手を、器用な手に取り換えるようなこと、できないでしょ?」 エリダヌスは少し困って、ドードーの肩を優しく撫でた。 「確かに、それは誰にもできないことですね。 神さまにもできないことかもしれません。 でも、ドードー、あなたにだって、できることはたくさんあるでしょう? 人は誰だって、自分にできることを精いっぱいやればそれでいいんです。 できないことを、人よりうまくやりたいなんて、望まなくていいんですよ」 ドードーがまた、激しく頭を振った。 「俺、別に高望みをしてるわけじゃないよ。 悲しいのは、俺にはその『できること』がひとつもないってことなんだ」 「そんなことありませんよ! たとえばあなたは、まだそんなにお若いのに、もうあの調理場で、大人のかたたちとご一緒に、ちゃんと働いていらっしゃる。 ジャムルビー族だったらまだ、ひとりで外を出歩くことも難しい年頃ですよ」 「パピトとジャムルビーは違うよ」 悲しげに首を振って、ドードーが、鼻水をすすり上げた。 「あの調理場には、俺と同じくらいの年頃の見習いが、シェルヴォと、ファーと、俺と、全部で3人いるんだけど、俺はこの3人のうちで、一番不器用で物覚えが悪いんだ。 今度グリーディさんは、俺たち3人に、雑用ばかりでなく新しい仕事を教えることにしたんだけど、俺たち3人のうち、シェルヴォは一番器用で覚えが早いから、板場のガビアルさんが真っ先に、俺が包丁を教えてやる、って自分の弟子にした。 そうしたら、焼き物専門のエオスさんがあわてて、火の扱いは気が張るから、真面目でよく気が回るファーに火の番をさせたい、って言った。 そうしたら、ふたりに出遅れたスープ係のゴズリングさん、いやーな顔で俺を見てからグリーディさんにこう言った。 『スープ係はアタシ一人で十分です。 スープ専門の見習いは、また次の機会に、新しい下働きを採用した時にでも考えましょうや』って! 誰も、俺なんかいらない、って言うんだ! グリーディさんも苦い顔で俺を睨んで、『ドードー、おまえはいまだにりんごの皮むきひとつ満足にできねえんだから、今までどおり皿洗いとゴミ捨てでいいよな』って。 そしたらシェルヴォのやつげらげら笑って、『心配するなドードー、俺が一人前になったらおまえにちゃんとりんごの皮向きを教えてやるから』って! そしたらファーまで一緒に笑い出して、『そんなに待ったらシェルヴォもドードーもじいさんになっちゃうぞ』って・・・・!」 ここまで一気に言うと、ドードーは涙でのどを詰まらせ、わっと声を上げて泣き出した。
2011.03.31
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さらに一日が過ぎた。 プラターマ導師は、道場に現れたエリダヌスを見ると、困惑の表情を浮かべて言った。 「エリダヌス、昨日までに私が授けた『保護』『祝福』『解放』の3つの呪法が、雀の間にて授けられる呪法のすべてです。 この3つのうち、どれかひとつでもよいから習得できないうちは、総師長から、次の『燕の間』に進級する許可がおりません。 ですから、今日からはまた、第一日目の『保護』のおさらいに戻り、順次、同じ練習を繰り返すことになります。 どうか、あせることなく、気長に練習を続けてください。 練習を重ねるうちに、きっとできるようになりますから、心配しないで」 心配するな、と言われても、無理だ。 その日の修行もおざなりにすませて、エリダヌスはしょんぼりと部屋に帰ってきた。 プラターマ導師の困惑した表情を思い出すと、いっそう打ちのめされた気分になった。 その表情は、『こんなはずはない、神に認められた神官ならば、どれかひとつくらいは、必ず、一度で成功するものなのに』と、無言のうちに語っていたからだ。 私は神にさえ見捨てられた、できそこないの神官なのか、と思った。 何のために、はるばる砂漠を越えてこの国にやってきたんだろう、と考え込んだ。 カノープスとスピカのふたりは順調に歩を進め、有益な呪法を次々と習得して、着実にそのお役目を全うしつつあるのに、ここでもたつき、迷い悩んでいる自分はいったい何なのか。 ただ、身を挺してあのふたりの弟を守り、この神殿に送り届けることだけが、私の役目のすべてだったのか。 本当は、盗賊たちに命を奪われたあの時、私は2度とこの世に戻ってくるべきではなかったのではないのか。 そんなふうに思うと、さらなる不安で目の前が真っ暗になった。 あの晩、エリダヌスがこれまで深く信じ、一度たりとも疑ったことのない神は、エリダヌスを助けてくださるどころか、お迎えにすら来てくださらなかったからだ。 ――― あの時私を助けに来てくださったのは、神さまではなくレグルスさま。 が、その輝くばかりの勇姿を思い浮かべても、もはや以前のようには心躍らない。 神さまにも見捨てられた、そんな思いに愕然と立ち尽くすばかりだ。 ――― エリダヌス、決してあきらめてはなりませんよ。 フォーマルハウトの励ましの言葉もすでに聞き飽き、申し訳ないと思いつつも今は、顔を合わせることさえうとましい。 意気消沈の日々を送っていたある夜、この日もエリダヌスは、思い千々に乱れて真夜中過ぎても眠れず、悶々としていたが、とうとう眠ることを断念してベッドから這い出した。 沐浴でもして気持ちを切り替えることにした。 あるいは、もしそのあたりにアギーラでもいれば、とりとめのない愚痴につきあってもらうのもいい。 しかし、当然のことながらこんな深夜、昼間でもひっそりしている廊下に人影はなく、エリダヌスは、そのまま階段を上って浴室のある上の階へ行った。 昼間通っている道場や、集会室は真っ暗だったが、食堂や休憩室、浴室などには、昼間と同じように皓々と明かりが灯っている。 徹夜でお勤めをする神官たちのために、いつでも使えるよう準備が整っているのだ。 薄暗い廊下に明るい光を投じる、食堂の前を通りかかったとき、エリダヌスはふと、その食堂の片隅から、誰かのすすり泣く声が聞こえてくるのに気がついて足を止めた。
2011.03.30
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エリダヌスはプラターマの指先から流れ出る血の色におびえて少し後ずさり、やっとの思いで小さくうなずいた。 プラターマがにっこり笑って、励ますように言う。 「怖がることはありません、エリダヌス。 あなたの胸の中に燃える、その、聖なる力を信じるのです。 昨日と同じように、その力の源を心の目で見据え、この傷に手をかざして、傷がすっかり癒えたさまを思い描きながら、呪文を唱えるだけです。 このくらいの傷がすっかり治せるようになれば、同じやり方で、皆が欲しがる『祝福』の巻物を作ることが、すぐにできるようになりますよ。 勇気を出して。 では呪文を授けます」 エリダヌスは、ごくりと生唾を飲み込み、おそるおそる片手を伸ばして、プラターマの傷の上にかざした。 エリダヌスのために、自ら練習台となって、このような傷までこしらえてくれたプラターマ導師の、尊い気持ちにこたえたい、と思った。 痛々しい傷を、今すぐ治して差し上げたい、と心底思った。 治せないまでも、せめて血止めだけでも。 痛みをやわらげるだけでも。 その気持ちはもはや、法力の習得という目的すら超えた、純粋な、プラターマ同士への感謝以外の何ものでもなかった。 エリダヌスは、目を閉じて、胸の奥でかすかに揺れている聖なる力の源を、心の目でじっと見つめ、一心に、どうかプラターマさまの傷を治す力を、私にお与えください、と念じた。 その指が、もとの、傷ひとつないなめらかな皮膚に戻るさまを思い描いて、教わった呪文をゆっくりと唱えた。 が、胸の中の小さなともしびは、昨日とまったく同じように、ちらりと揺らぐことさえなかった。 何度も何度も念じ、繰り返し繰り返し呪文を唱えた。 それでも、何事も起こらなかった。 エリダヌスはがっかりして目を開けた。 プラターマの傷の血はすでに止まり、黒くかたまりかけていたが、それがエリダヌスの力によるものでないことは明らかだった。 これだけ時間が過ぎれば、たいがいの出血は放っておいても止まる。 失望のあまり言葉もなく、悄然とプラターマを見上げたエリダヌスに、プラターマも、さすがに失望の色を隠しきれず、こう言ったのみだった。 「・・・今日の修行はここまでといたしましょう。 明日は、あなたに、雀の間第3の呪法『解放』を授けます」 そして3日目、プラターマ導師が授けてくれた『解放』とは、邪悪な意図によってかけられた呪いを解く、あるいは、下等な悪魔や怨霊を取り払うための呪法ということだったが、聖域である神殿内には、『呪いをかけられた』だの『怨霊がとりついた』などというものが存在しないので、じっさいにその呪法を試すわけではなく、ただ、そのやり方の説明を受け、呪文を教わったに過ぎなかった。 それでもエリダヌスには、この第3の呪法もまた、習得にはいたらなかったことがはっきりとわかった。 胸の中の小さな火は、今日も身じろぎひとつすることはなく、ただじっとそこに燃えているだけだったからだ。 プラターマ導師も、おそらくそれに気づいたに違いなかったが、もはや何の助言も与えてくれなかった。 いや、助言を与えたくても、これ以上与えるような助言はもうなかったのだろう。 ただ、神の定め給うた時期の、巡ってくるのをお待ちなさい、と、短く言っただけだった。
2011.03.29
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フォーマルハウトの言ったとおり、プラターマ導師は次の日、雀の間道場に顔を出したエリダヌスに、笑顔でこう言った。 「エリダヌス、第一の呪法『保護』はひとまず後に回すとして、今日は第2の呪法『祝福』を練習してみることにしましょう。 あなたならばきっと、この呪法はたやすく習得できるはずです」 昨日の『保護』ができないうちに次に進むのは、いささか悔しい気もしたが、人によってその習得の時期が定められているならば、それもまたしかたのないことなのかもしれない。 「わかりました。 よろしく御指導ください」 頭を下げ、合掌すると、導師は優しい微笑を浮かべて答えた。 「エリダヌス、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。 『祝福』は、神さまが神官として認め給うた者なら誰にでもできる呪法です。 気を楽にしてやってみましょう。 もちろん、初めから目の覚めるようなことはできませんが、修行を重ねるうちに必ず、この呪法の確かさ、偉大さが実感できます」 一抹の不安を抱きながら、うなずいたエリダヌスに、導師が続ける。 「『祝福』は重要な呪法です。 この、雀の間道場で授けられる呪法の目的がすべて、人を苦痛から解き放つことである以上、この『祝福』を習得することこそが、『雀』の最終的な目的と言ってもいいでしょう。 なぜならばこの呪法を習得した後精進を重ねれば、ついには、病を治し、傷を治し、弱り衰えた体に、生まれたばかりの赤子のような活力を与えることができるようになるからです。 このリュキア神殿に救いを求めてくる人々の多くが、この『祝福』を強く望んで来る、そのことを考えれば、極端な話、この呪法を会得できれば、それだけで十分、神官として人の信頼を得ることができるということです」 ああ、そんな力を得てハザディルへ帰り、残してきた兄弟姉妹すべてにその力を分け与えることができたら、どんなに幸せだろう! 思わずため息をもらしたエリダヌスに、導師はさらに続ける。 「『祝福』は、その目指すところがはっきりと目に見える点で、昨日学んだ『保護』よりも、いっそう習得しやすいはずです。 たとえば昨日、あなたが呪法の1に失敗したのは、この私の錫杖を、害意を持つ敵というふうにはっきり認識できなかったからかもしれません。 でも、今日は違いますよ」 そこまで言うとプラターマは不意に、エリダヌスが止める暇も与えず、ふところから小さな小刀を取り出し、その切っ先で自分の指をさっと撫でた。 傷口から、みるみるうちに鮮血が滲み出す。 「プラターマさま!」 仰天して叫んだエリダヌスの前に、プラターマが、血のしたたるその傷口を突き出した。 「驚かないで。 よくごらんなさい。 私の指の、この傷を治すことが、あなたの今日の修行ですよ。 すっかりきれいに治らなくてもいいのです。 血を止めるだけで十分です。 エリダヌス、私の傷を治したいと願うでしょう?」
2011.03.28
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どのくらいの時が流れただろう。 遠慮がちなノックの音に気づいて、エリダヌスは、はっと顔を上げた。 部屋の中は真っ暗。 いつのまにか夜になっていた。 夕べの祈りの鐘も、食事を知らせる鐘も、一心に祈り続けていたエリダヌスの耳には入らなかったらしい。 急いで神衣の乱れを直し、指で髪を梳きながらドアを開ける。 ドアの外に、浮かない顔つきで立っていたのは、フォーマルハウトだった。 手にはお茶の道具の乗った、大きな盆を持っている。 エリダヌスはあわててドアを大きく開け、フォーマルハウトを部屋の中に迎え入れた。 「ああ、フォーマルハウト、お待たせしてすみません。 今ちょうど、お祈りの最中だったものですから」 ちょっと笑って、部屋の中に入ってきたフォーマルハウトが、テーブルの上に盆を置く。 「あなたにお茶をご馳走しようと思って運んできたんです。 夕食の時間にも、食堂にお姿が見えなかったから、もしや食事をお取りにならなかったかと思って」 「それは御心配をおかけしてすみませんでした。 別に何でもありませんよ。 ちょっと鐘を聞きそこねただけ。 ではさっそく、そのおいしそうなお茶とお菓子をご馳走になろうかな。 ああ、おいしそう!」 テーブルのランプに火を燈しながら笑ったエリダヌスに、フォーマルハウトはちょっと拍子抜けしたように、目をばちくりさせた。 「エリダヌス、先ほどプラターマ導師にお会いして話を聞きましたよ。 雀第一の呪法『保護』ができなかったそうではありませんか。 私は、あなたがどんなにお力落としだろうと思って、お茶にかこつけてお慰めにあがったのに」 エリダヌスはくすっと笑って言った。 「おや、思いのほか元気でがっかりしました?」 「まさか! だって、お夕食にも夕べの合同礼拝のときにもお姿が見えなかったから、きっとお部屋に閉じこもってめそめそ泣いていらっしゃるのではないかと」 「もちろんそうですよ。 本当のことを言いますと、道場から帰ってきたときには、落胆のあまり涙がこぼれました。 けれど、それからずっと神さまとお話をしていたら、元気が出てきたんです。 それにこんなおいしそうなお菓子と温かいお茶を見たら、ますます元気になってしまいました。 どうぞ心配しないでください、フォーマルハウト。 明日は今日よりもっとがんばって、いい日にするつもりですから」 フォーマルハウトは目を丸くしてエリダヌスを長い間見つめていたが、やがて、心底感じ入ったようにつぶやいた。 「・・・エリダヌス、あなたはすごい。 なんてお強い方なのだろう」 エリダヌスは笑って、フォーマルハウトの顔を見つめ返した。 「いいえ、すべては神さまの思し召しですから、嘆いてばかりはいられません」 考え込みながら、フォーマルハウトが、2つのカップに熱いお茶を注ぐ。 「・・・後で私、もういちどプラターマ導師のところへ行って、明日はあなたに別の呪法を授けてくださるようにお願いしてみます。 『保護』はできなかったけれど他の呪法はすぐにできた、というケースもよくありますから。 呪法は必ずしも第1、第2、第3と順番に習得してゆく、と決まったものでなく、人によって、1も2もできなかったのに3でいきなり成功したり、差があるものなのです。 それに、そのときはできなくても、必ずいつかはできるようになるのですから、少しも心配することはないんですよ。 法力というのはそういうものなんです。 能力によって差が出てくるのではなく、それぞれ習得する時期というものがあるようなのです。 それはすべて神さまがお決めになることですから、新しい呪法が人より早くできるようになったからといってむやみに得意がったり、また逆に、いつまでもできるようにならないと落胆したりするようなことではないんです」 フォーマルハウトのこの言葉に、エリダヌスはまたひとつ救われた気がして、にっこりと微笑んだのだった。
2011.03.27
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プラターマの表情もすっかり不安げに曇っていた。 プラターマはもう一度、エリダヌスに丁寧に呪文を教え、もう一度、と促した。 だが、何度やっても結果は同じだった。 エリダヌスは、プラターマに励まされ、叱りつけられながら、繰り返し、繰り返し、呪文を唱えたが、そのたびに、プラターマの錫杖に突き転ばされるばかり。 他には何事も起こらなかった。 しまいには、錫杖をふるい続けるプラターマのほうがすっかりへたばって、荒い息をつきながらこう言った。 「エリダヌス、大丈夫ですか? もしや、お体がまだ快癒されていないのでは? 確かにダルシャーナ大司教さまの御許可が出たのですか?」 つまり、健康な者であればこんなにできないはずはない、ということだ。 目の前が真っ暗になるような気がして、エリダヌスは立ち上がるのも忘れ、プラターマ導師の顔を見つめた。 「私は、もうすっかり健康のはずです。 もちろんお許しもいただきました。 なのに、こんなにできない、ということは、神さまが私に法力を与えてくださらない、ということでしょうか? ならばこの胸の中の、このあたたかみはいったい何なのでしょう!」 プラターマも、すっかり困惑した表情になって、しきりに首をひねりながら答えた。 「そんなはずはありません。 先ほども申し上げたとおり、神さまは、望む者には誰にでも、等しくこの力を分けてくださるのです。 エリダヌス、やはり、御自分では大丈夫とお思いになっていても、まだお体が本調子ではないのかもしれませんよ。 ともかく、今日のところはお部屋に帰ってゆっくりお休みなさい。 明日、もう一度試してみましょう。 今日できなくても、一日休んだら次の日はするりと一度で成功、ということもよくありますし。 ね?」 エリダヌスは力なくうなずき、立ち上がってプラターマ導師に礼を述べると、すごすごと道場を退出するしかなかった。 導師の言葉は、どれも気休めにすぎないと思った。 導師が、初めから何のためらいもなくいきなり錫杖で突きかかってくるところから考えても、普通は必ず一度で成功するはずのものに違いないのだ。 しかも、あれはたくさんの呪法のうちでも初歩の初歩、最も簡単なものだという。 このハザディル神殿では、ほんの小さな子どもを除いて、あの『保護』の呪法ができない神官なんて、一人もいないのだ。 それを思うと、悔しさのあまり涙が浮かんできた。 自分が人より優れているとは思わない。 でも、特別劣っていると思ったことも一度もなかった。 なのに、なぜ、自分だけができないのか。 自分の部屋に戻ってくると、エリダヌスは、誰はばかることなく、祭壇にすがりついてすすり泣いた。 胸の中に灯ったやさしいあたたかみが、かすかに揺れて、エリダヌスの傷ついた心を優しく慰めるかのように、再び、あの心地よい、優しいあたたかさをじわじわと放ち始めた。 エリダヌスは涙をぬぐい、そのあたたかみを確かめるように、胸に手を当てた。 神が与え給うた聖なる力の泉は、確かに、そこにある。 エリダヌスはゆっくりと立ち上がり、顔をきれいに拭って、再び、祭壇の前にひざまずいた。 数珠を取り出し、一心に祈り始めた。 くじけそうになる心に勇気を与えていただくために。 そして、明日もまた、道場へ行って、プラターマ導師に教えを受ける力を与えていただくために。 長い長い祈りを、繰り返し、繰り返し、続けているうちに、エリダヌスの心から、次第に霧が晴れるように、迷いが消えていった。 たった一度の失敗が、何だというのだろう。 私たちは、遠いハザディルの国から数々の試練を乗り越えてここまでやってきたのだ。 今日できなければ明日、明日できなければ明後日という日があるではないか。 今日できなかったからといって嘆き悲しむことは少しもない。 プラターマ導師が授けてくれた神の力の源は、この胸の中に、こんなに確かに息づき、燃えているのだから。
2011.03.26
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立ち上がったエリダヌスから、少し離れた位置に向かい合って、プラターマ導師が言う。 「では、エリダヌス、あなたに、雀の間第一の呪法、『保護』を授けます。 これは、神さまがあなたに貸してくださる、目には見えない大いなる楯。 あなたの中に宿った聖なる力が全身を覆い、『悪しき者』の攻撃からあなた自身を守るばかりでなく、あなたの周りの愛すべき家族友人たちをも包み込み、いかなる刃をも撥ね返してくれます。 この呪法の目的は、人々を、来るべき苦痛から守ること。 では、よろしいですか、呪文は、『эイグリッド壱モントワー<護>』・・・ゆっくりと、唱えてみましょう」 うなずいて、エリダヌスは胸に手を当て、意識を集中した。 聖なる力の源、やわらかなあたたかみは、まだそこに、確かに息づいている。 静かに目を閉じ、教わった呪文を口にした。 「・・・эイグリッド壱モントワー《護》」 しかし、どういうことだろう、胸の中のやわらかなあたたかみには、何の反応もない。 ただ、そこに、静かに燃えているだけだ。 変だな、と首を傾げた、そのとたん、プラターマ導師が、いつのまにか取り出した錫杖で、エリダヌスの胸を、どん、と突いた。 びっくりする間もなく、後ろにひっくり返ったエリダヌスに、プラターマが青くなって駆け寄る。 「ああ! これは申し訳ないことをしてしまいました! ごめんなさい! もう呪文を唱え終わったとばかり思って・・・。 少し早すぎましたね。 大丈夫ですか? 痛かったでしょう」 いやな予感がした。 エリダヌスは当惑してプラターマ導師の顔を見上げた。 「プラターマさま、私はもう呪文を唱え終わっていましたよ。 『эイグリッド壱モントワー《護》』ですよね? 間違いありませんよね? でも、私の中の聖なる力の源には、何の変化もありませんでした。 なぜでしょう? 何か、やり方を間違ったのでしょうか?」 間違うような難しいやり方は特にないはずですが・・・と、首をひねったプラターマが、気を取り直したように、もとの笑顔に戻って言った。 「大丈夫。 皆が皆、一度で必ず成功すると決ったものではありませんよ。 そんなにがっかりした顔をなさらないで。 初めてのことで、緊張しすぎていらしたのかもしれませんね。 気を楽にして、もう一度やってみましょう。 さあ、立って!」 不安な気持ちで立ち上がり、もういちど、その呪文を、今度は導師の耳にもよく聞こえるように、大きな声でゆっくりと、唱えてみた。 「・・・эイグリッド壱モントワー《護》」 だが、また同じことだった。 エリダヌスはまたもプラターマ導師の錫杖に突き倒され、青くなって飛び起きた。 「プラターマさま! なぜですか?! 聖なる力の源は、ほら、ちゃんとここに、揺るぎなく存在しているのがはっきりわかるのに、なぜ、呪文を唱えても何も起きないのです?! 私の身を守ってくれるはずの、神さまの『大いなる楯』は、なぜ現れてくれないのですか?!」
2011.03.25
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道場の一角に作られた祭壇の前にひざまずくと、プラターマ導師が、エリダヌスの額に手の平を押し当て、低く呪文を唱え始めた。 意味はさっぱりわからない。 が、その声にじっと耳を傾けていると、だんだん意識が遠のいていくような、それでいて感覚が鋭く研ぎ澄まされていくような、不思議な気持ちになっていく。 ほどなく、体全体が、まるで、あたたかな日差しの中にいるように、ぽかぽかと暖かくなってきた。 この熱は、いったいどこからやってくるのだろう、と、いぶかしみながらも祈り続けていると、体が徐々に、あたたかいのを通り越して熱くなり始めた。 これはあまりいい気分ではない。 どこか不安を呼び起こす熱だ。 しかも、この熱の上昇はとどまるところを知らない。 どんどん熱くなる。 しまいには、燃えさかる火のすぐそばにでもいるかのように、かっかと体が火照って、我慢できなくなってきた。 このままじっとしていたら、この見えない火は自分の体にまで燃え移って、焼き殺されてしまうのでは、と、恐怖さえ感じる。 それでもプラターマの唱える祈りの声は一向に止む気配がない。 ついに耐え切れなくなって、目を開けようとしたとき、まるでそれが合図であったかのように突然、周囲が、すっ、と涼しくなった。 その急激な変化にたじろいでいる間にも、体はどんどん冷えていく。 どうしたことだろう。 今度は、寒くて寒くて、凍えてしまいそうだ。 体ががちがちと震え始めたとき、またしてもその寒さは、ふっ、と嘘のように消え去った。 これは、何かの試練なのだろうか、そう考えたとき、エリダヌスはふと、自分の胸の奥に、まるでそこだけ、ぽっ、と明かりが灯ったように、小さな、春の陽射しのようなやわらかな温かみが残っていることに気がついた。 目を閉じたまま、心の手で、おそるおそるその温かみを手探りしてみる。 すると、それは、確かな手触りとなってエリダヌスの心の手に触れ、次第に形を整えて、またたく間に、揺るぎないものとなっていった。 両手の平に乗るほどの、なめらかな、あたたかい、不思議な球体 ――― そんなイメージだろうか。 なんともいえず好ましく、心強いもの。 さらに、その球体から、はじめに感じた荒々しい熱さとはまるで違う、やわらかく、からりと明るい、不思議なあたたかさがあふれ出してきて、それがみるみるうちにエリダヌスの全身へと広がり始めた。 なんと心地よいあたたかさなのだろう。 まるで、広い野原の真ん中に寝転がって、降り注ぐ陽射しの中、目を閉じて天を仰いでいると見える、あの、まぶたの裏の赤い闇のような安心感。 あるいは、丸一日の祈祷という荒行を終えた夜、清潔なシーツの中で思い切り手足を伸ばして眠りに落ちるときのような解放感。 あるいは、真冬の吹雪の夜、道に迷った旅人を無事救い出した後、神殿の妹たちが用意しておいてくれた熱い香油風呂に体を沈めたときのような幸福感。 ――― たとえようもなく幸せな気持ちに包み込まれた。 「エリダヌス、どんな気持ちです?」 プラターマの静かな問いかけに、祈りの終わったことに気づいたエリダヌスは、うっとりと目を開けて答えた。 「はい。 はじめは熱く、次には寒くなりましたが、今は、とてもあたたかい、幸福な気持ちに包まれています。 ああ、その辺にあるもの何にでも、頬ずりをしたいくらい!」 プラターマが、くすくす笑ってうなずいた。 「それでよいのです。 神さまは、あなたが、どんな試練にも耐えうる心強き者であることを知り、あなたに聖なる力、法力を与え給うたのです。 ではエリダヌス、さっそく、その力を試してみましょうか」
2011.03.24
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こうして次の日からいよいよ、エリダヌスの、法力習得の修行が始まった。 フォーマルハウトに付き添われて、『雀の間』と呼ばれる第一段階修行道場へ行くと、その大きな扉の前で足を止めたエリダヌスの背中を、フォーマルハウトが、ぽんと優しく叩いて笑った。 「では、エリダヌス、しっかりがんばってくださいね。 緊張しすぎないで」 「ありがとうございます、フォーマルハウト。では行ってまいります」 さらに奥の、高段階の道場に向かって歩いていくフォーマルハウトの後姿を見送って、扉をノックすると、すぐに中から扉が開いて、年配の、優しげな表情の神官が顔を見せた。 「おお、あなたがエリダヌス? すっかりお元気になられたご様子、よろしゅうございました。 今日からあなたも晴れてこの神殿の修行の徒、まことにおめでとうございます。 私はこの『雀の間』道場の導師、プラターマと申します。 どうぞよろしく」 道場の中は思いのほか狭く、正面に祭壇と、あとは、質素な木の椅子が数脚、ばらばらにおいてあるだけだ。 エリダヌスは急いで両手を組み合わせ、その神官に礼を返して答えた。 「ハザディル神殿からやってまいりました、エリダヌスと申します。 おかげさまで、神さまの御加護を得ることができ、ここで御指導いただく幸運に恵まれて、嬉しくて夢のようです。 ただ 私は、法力という不思議な力については、何一つ知る機会のないところに育ちましたので、何の知識も素養もございません。 他の皆さまよりさぞできの悪い生徒となるかと思いますが、それでも、私なりに精いっぱいがんばろうと張り切っています。 プラターマさま、どうぞよろしく、御指導をお願い申し上げます」 導師がにっこり笑って、椅子のひとつを指差し、エリダヌスに座るよう示した。 「いいえ、エリダヌス、法力は、学問とは違って、何の知識も素養も必要ないんです。 修行にあたって必要はものはたった一つ、神さまを信じ、愛する心のみです。 その力がどんなものか、なぜこんなことが起きるのか、何も知らなくても、神の御力を決して疑うことなく、心を無にして、ただ信じれば、その力は自ずからあなたの中にも宿るのです。 心配することはありません」 言いながら、導師も、椅子のひとつを引き寄せて、それに腰掛けた。 「それでは、エリダヌス、あなたにその力を授ける前に、まず、この『雀の間』の意味をお話しておかなければなりませんね。 法力習得の修行は、この道場の部屋数を見ればわかるように、全部で7つの段階に分かれています。 これはもちろん、難易度による区分でもありますが、同時に、それぞれの呪法が目的とするところの区分でもあります。 すなわち、ここ『雀の間』において授ける3つの呪法はどれも、最も簡単な呪法であり、いずれにも共通したひとつの目的があります。 人々の病や傷を癒し、苦痛から解放する、という目的です。 したがって、『雀の間』では、特にそのことを念頭において修行を行っていただくことになります」 目を輝かせ、身を乗り出したエリダヌスに、プラターマ導師は、くすりと笑って続けた。 「普通なら、第一回目の授業は、この心構えのお話だけで終わりなのですが、あなたは、通常ここで初めて修行を受ける小さな行者たちよりははるかに熱意もおありだし、お年もすこし上で苦難の御経験も積んでいらっしゃる。 心構えはすでに十分御理解いただけていると思いますので、特別に、この場ですぐに法力をお授けいたしましょうね」
2011.03.23
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「それが・・・」 ちょっと口ごもってから、エリダヌスは顔を赤らめ、答えた。 「実は今日、マルシリオで、レグルスさまをお見かけしたんです」 フォーマルハウトの顔も、ぱっと輝いた。 「えっ! レグルスさまが街でお買い物とは、お珍しい! それは幸運でしたね! では、盗賊たちから助けていただいたお礼を、直接申し上げることができたんですね」 「それが・・・」 エリダヌスはますます小さくなって蚊の鳴くような声で答えた。 「お声をかけるタイミングを逸してしまって・・・レグルスさまはひどくご立腹のご様子で、マルシリオさんを叱りつけておられたので、お腹立ちのおさまった後も、なんだか恐ろしくて、おそばに近づくことがためらわれて・・・」 フォーマルハウトの目がまん丸になった。 「レグルスさまがマルシリオを叱りつけておいでだった? それはまた、どうしたことでしょう!」 「マルシリオさんは、リュキア軍の方から、訓練生の耳には決して入れてはならないと、きつく命じられていた迷宮の話を、ついお口を滑らせて、しゃべってしまったのだとか。 寝耳に水のレグルスさまは大変驚かれて、その話をもっと詳しく教えろとそれはそれは恐ろしい勢いでマルシリオさんに迫り、マルシリオさんはやむなく、知っていることをすべて話して聞かせてしまいました。 もしこんなことが軍のお偉い方に知られたら、マルシリオさんも何らかの処罰を受けることになる、と、頭を抱えておられましたよ」 フォーマルハウトも顔を曇らせて言った。 「それは、なんと軽はずみなことを! マルシリオのおしゃべりは毎度、本当にトラブルの種だ。 口は災いのもと、と、きつく言いおいてやらなければ」 「フォーマルハウト、軍ではなぜ、迷宮のことを訓練生に秘密にしておくのですか? 人々がその迷宮の怪物というのにおびえ、毎日のように犠牲者が出ているのならば、それを制圧するのが軍の役目、と、マルシリオさんが、その不満からつい口を滑らせても無理ない気がしますが」 フォーマルハウトも顔をしかめて深々とうなずいた。 「まったくです。 リュキア軍は今、高齢のヘルメス将軍に代わって、副官のリザード中将という者が実権を握っているのですけれども、このリザード中将というのが腰抜けで無能で、どうしようもないぼんくら。 部下が誰もついて来ようとしないから金をばらまいて動かそうというようなおおうつけなんです。 そのリザード中将が、今、のどから手が出るほど欲しいのが、迷宮のどこかに埋もれているという『君主の剣』――― 手にした者がこの国の王になる、という伝説の秘宝です。 リザードは現在すでに、暗愚な王みたいなものですから、そんな剣は必要ないと思うんですけど、ただ、その伝説の剣が誰か他の者の手に渡るのは困る。 もし仮に、レグルスさまのような、リュキア王の生まれ変わりとまでささやかれているような方が、その伝説の剣を手にしたとしたら、これはもう、軍内部の若者たちばかりでなく、国中の者が諸手を上げてレグルスさまを支持するでしょう。 リザード政権の転覆は間違いありませんもの。 リザードは、『君主の剣』は我が手に握っておきたいし、あまたの財宝秘宝も全部独占したい。 そこで、調査という名目でひそかに下級戦士たちを迷宮の探索に当たらせながら、若く優秀な訓練生たちは、迷宮から遠ざけておきたいのです。 お気の毒に、いくらそんな努力をしたところで、私に言わせりゃ汚い金まみれのリザード王国の命運なんか、もう風前の灯。 明日転覆してもおかしくない、すでに死に体ですよ」
2011.03.22
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その日の夜、フォーマルハウトは満面の笑みで部屋に飛び込んでくるなり、エリダヌスを抱きしめてこう叫んだ。 「おめでとうございます、エリダヌス! 大司教さまから、とうとう、お許しが出ましたよ! 明日からあなたも、“雀の間”で法力修行の第1教程を受けるようにと!」 一瞬、耳を疑い、フォーマルハウトの言葉を頭の中でよく咀嚼してから、エリダヌスはようやくその意味するところを理解して、文字通り飛び上がった。 「本当ですか?! 私にも、神さまの奇跡のお力が、ようやく授けられるのですね?! ああ、神さま、感謝します! つらい試練を乗り越えて、はるばるリュキアにやってきた甲斐がありました! フォーマルハウト、ありがとうございます! 神さま、リュキア神殿とフォーマルハウトに、大いなる祝福を!」 叫んでいるうちにも喜びは5倍にも10倍にも膨れ上がり、じっとしていられなくなって、エリダヌスは部屋の中をうろうろと歩き回り始めた。 「フォーマルハウト、あなたには、なんとお礼を申し上げたらいいんでしょう! 神さま、私が一生の間にあなたから頂戴することになっている祝福を、どうか全部、この、私の恩人、心優しいフォーマルハウトのほうにまわしてください! それから、ああ神さま、早く明日が来ますように! フォーマルハウト、私は、もう嬉しくて、今夜はとても眠れそうにありません。 こんなに明日が待ち遠しく思われるのは、子どものころ、初めてハザディル神殿の徒として外の世界に出られる、羽化の儀式以来のことですよ。 ・・・いいえ、今日の喜びはあの時以上。 だってあの晩は私、朝を待つ間にいつのまにか眠ってしまいましたもの。 でも今夜はきっと一睡もできないに違いありません。 ほら、こんなにも、胸が熱く高鳴っている!」 フォーマルハウトがくすくす笑って、エリダヌスの手を取り、椅子に座らせた。 「エリダヌス、嬉しいのはわかりますけれど、少し落ち着いてくださいな。 法力を授かるといったって、はじめから目を見張るような奇跡を起こせるわけではないんですよ。 いずれにせよ初めの日は導師さまのお話をうかがうだけ。 これから修行を始めるに当たってのいろいろな注意事項とか心構えとか、退屈なお話ばかりです」 目を輝かせ、身を乗り出すエリダヌスに、フォーマルハウトが穏やかな微笑みを向ける。 「それに、修行はすべて個別に行われます。 一人一人が受ける修行の時間というのは大変短いものなんです。 また、時間をかければ効果が上がるというものでもありませんしね。 断言できますけど、エリダヌス、明日はきっとあなたも、少々失望して修行の間から戻ってくることになりますよ。 けれど、そうやって少しずつ気持ちを落ち着かせることもまた、修行のひとつなんですから、決してあせってはなりません。 気長に、じっくり腰を落ち着けて、ね。 今夜はぐっすりお眠りになって、明日はもっと気楽なお気持ちで修行に臨んでください。 幸い私の修行も、部屋は違いますけれどあなたと同じ時間ですから、ご一緒に道場へ参りましょう。 明日の朝、お迎えに上がりますね」 席を立ったフォーマルハウトが、ふと、思いついたようにエリダヌスを振り返った。 「そうそう、エリダヌス、今日は、お使いを頼んでしまって、申し訳ありませんでした。 おかげで助かりました。 ・・・リュキアの祭日はいかがでしたか? 市場へ行ってみました?」
2011.03.21
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苦々しく言ったマルシリオが、気を取り直したように、座っていた椅子から立ち上がり、その顔に商売用の笑みを浮かべた。 「おや、これは、エリダヌスさまに、私のつまらない愚痴などお聞かせして、申し訳ございませんでした。 さて、本日は、何をお求めですか? あなたさまのお国の、大きなりっぱなお店の商品には遠く及びますまいが、このマルシリオにも、けっこう、珍しいもの、お役に立つもの、おいしいもの、いろいろ取り揃えてございますよ」 エリダヌスも笑って、マルシリオの滑らかな売り口上を押しとどめた。 「もちろん、あなたのお店の品物はどれもたいへん結構なお品ばかりで目もくらむようですけれど、残念ながら、今日は買い物ではないんです。 昨日、うちのフォーマルハウトが、受け取るのを忘れたという請求書を・・・」 言い終える前に、マルシリオが、ぽんと両手を打ち鳴らした。 「そうでした、そうでした! 昨日は、あのかたがお求めになった飾り帯のことで、つい長々とおしゃべりをしてしまいまして、用意しておいた御請求書をお渡しするのを忘れてしまったのでした。 夜になってからやっと思い出しまして、請求書を出し忘れるなんてなんとうかつな商売人かと苦笑いたしましたが、しかし、私はともかく、フォーマルハウトさまが忘れ物をなさるとは、珍しいことがあるものですな。 よほどお忙しかったか、何か別のことに気をとられておいでだったんでしょうかねえ」 マルシリオが、引き出しの中から書類を取り出し、封筒におさめながら愛想よく笑う。 エリダヌスもくすくす笑って応じた。 「フォーマルハウトが忘れ物をしない? そんなことはないでしょう。 今日だって、神兵さまたちのための慰労会の準備があるのに、それをすっかり忘れて私と外出する約束をしていたくらいですもの。 昨日はその慰労会の準備のことで頭がいっぱいだったのかもしれませんね」 「そうでしたか、慰労会の準備。 ではフォーマルハウトさま、昨日はよほどそのことに気をとられておいでだったのですな。 ああ、だらだらとつまらないおしゃべりなんかするんじゃなかった。 エリダヌスさま、神殿にお帰りになったらフォーマルハウトさまに、マルシリオがよけいな足止めをしてしまったことを謝っていたと、くれぐれもよろしくお伝えくださいませ。 あのかたはほんとうに、普段は絶対に忘れ物をなさるようなかたではないのですよ。 どんなときも沈着冷静でご聡明。 あれほど頭の切れるジャムルビーはいないと、有名なんですから。 ええ、もう、ゆくゆくはリュキア神殿の頂点にお立ちあそばして、神官長だか大僧正だか知りませんが、そういうのになって、神殿を動かすお心積もりだろうって、もっぱらの噂ですよ。 もしあのかたが大僧正になられたら、リュキア軍ももう、これまでのように神兵たちを厄介者扱いしてはいられない、いや、それどころか、軍のほうが神殿に手玉に取られてしまうだろう、っていうくらい、フォーマルハウトさまの洞察力の鋭さは恐ろしいばかり。 いやはや、ああいうのをこそ、神か悪魔か、神一重・・・」 言いかけて、マルシリオが、はっと口を押さえた。 「いや、あの、その、これはまた、たいそう失礼なことを、つい、口を滑らせて、申し上げてしまいました。 どうぞこのことは、フォーマルハウトさまのお耳に入れないでくださいまし。 あのかたに睨まれては、マルシリオ、生きた心地がいたしません!」 こんなふうに、フォーマルハウトが街の人たちに恐れられているとは、少し意外な気がした。 エリダヌスには、ほかの神官たちとどこも変わったところのない、いや、人一倍もの静かで穏やかな人物に見えるのに。 そう思ってから、エリダヌスはふと思いついて小さくしのび笑いを漏らした。 いやいや、あのかたには確かに、少々きついところがおありになるようだ。 ドードーのような、まだ若年の使用人にまで容赦なく罰をお与えになろうとする点、アギーラや、グリーディに対する、少しばかり尊大に過ぎると思われる口のきき方。 もし、フォーマルハウトをよく知らない人があんな場面だけを目にしたら、神か悪魔か、と震え上がるのも無理はないかもしれない。
2011.03.20
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耳をすませて聞いていると、マルシリオは先ほどから一生懸命、この国の昔話をしている。 一方レグルスのほうは、初めて耳にするという顔つきで熱心にそれに聞き入っている。 おかしなこと、とエリダヌスは首をかしげた。 マルシリオの話しているのは全部、エリダヌスが暇をもてあまして部屋で読みふけっていた、この国の歴史の本と、まったく同じ内容に過ぎない。 この国に生まれ育って、しかも戦士といえばこの国では支配階級にあたるはずなのに、レグルスはなぜ自分の国の成り立ちを知らないのだろう。 戦士たる者が、それを知らずにいったい何のために戦えるというのだろう。 考えこんでいるうちに、買い物を終えたレグルスは、お伴の少年たちを従えて、引き上げて行こうとしていた。 エリダヌスは、はっと我に帰り、ともかくも、この機会に、レグルスさまに、命を助けていただいたお礼を申し上げなければ、と思った。 思ったが、胸がどきどきして、どうしても、一歩前に足を踏み出すことができない。 ぐずぐずしている間にもレグルスは、エリダヌスの後ろの、出入り口目指してどんどん近づいてくる。 その姿はまさにあの夜、エリダヌスを迎えにきてくださった、光り輝く神さまのお姿そのものだ。 恐れ多くて、目をあけているのもためらわれる。 足を踏み出すどころか、今にも腰が抜けてしまいそう。 いいえ、あの方は神さまではない、と、いくら自分に言い聞かせても、エリダヌスの足は細かく震え、手はしっかり商品棚の柱にはりついたまま、どうしても離れない。 無理! あの美しく光り輝く戦士の前に進み出て、お声をかけるなんて! レグルスの全身から発する、まばゆいオーラに、すっかり気後れして、たじろいでいる間に、レグルスは、エリダヌスのほうは見向きもせず、まっすぐに、マルシリオ商店の外へ出て行ってしまった。 ああ、あのかたが、行っておしまいになる! 一抹の寂しさと、かすかな安堵と、さらに、かつて感じたことのない甘く悩ましい思いに、エリダヌスは、胸を震わせ、目を潤ませながらその後姿を目で追うばかりだった。 声をかけるどころか、まっすぐ見上げることさえ、とうとうできなかった。 レグルスの姿が、通りの向こうに消えてしまうと、エリダヌスは、不思議な高揚感と失望感のないまぜになった小さなため息をひとつつき、胸をさすって気持ちを落ち着けてから、マルシリオのところへ行って声をかけた。 「どうなさいました、マルシリオさん。 ずいぶんひどくお叱りを受けていましたね」 ぺたりと椅子に座り込んでいたマルシリオが、エリダヌスの声に、はっとしたように顔を上げた。 「あ、これは、エリダヌスさま。 それが、今、私つい口を滑らせて、レグルスさまにとんでもないことを申し上げてしまったんです。 ああ、どうしよう! こんなことがもし、軍の上層部の方々のお耳に入ったら、私、捕えられて首をはねられてしまうかもしれない」 ただ歴史の話をしていただけなのに? と首を傾げたエリダヌスに、マルシリオが苦々しく首を振って答えた。 「ああ、エリダヌスさまはまだこの国にいらしたばかりだから御存じなかったのですな。 そう、巷ではみんな知っていることなのに、訓練生たちの耳にだけは入れないよう、きつく命じられている公然の秘密、とは、リュキア城跡の地下にあるという、迷宮のことなんです。 恐ろしい怪物が出没する宝物殿、なんて噂を聞きつけたら、今の、レグルス軍曹のような、お若くて強い、血の気の多い訓練生は、たちまち好奇心と野心に取りつかれて迷宮に入り込んでしまうでしょ? それが危険すぎる、というんですが、なに、実のところは、莫大な財宝は誰にも渡さんぞ、ってところでしょうよ。 あきれた話ですが、軍に逆らうことは誰もできません。 今は、真実を知ったレグルス軍曹が、血気にはやって無茶なことをなさらないで下さることを祈るばかりですよ」
2011.03.19
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リュキアの休日は、お祭りという言葉から連想されるような大賑わいとはほど遠い、のんびりとした静かなものだった。 エリダヌスの生まれ育った国の賑々しい祭礼とはだいぶ様子が違う。 ハザディル神殿のお祭りは、目が回るほどにぎやかで、熱っぽかった。 勢いよく燃えるかがり火。 むせ返るほどの香の煙。 一歩足を踏み出すたびに必ず誰かとぶつかり合うほど人の集まる境内。 前に進むのが困難なほど人で埋まった参道。 高窓からこぼれ落ちるのではないかと心配になるほど、信者がつめかけた宿泊所。 その人出めあてに、ずらりと軒を並べた色鮮やかな露店の数々。 お祈りなんかそっちのけで、はしゃいで駆け回る子どもたち。 賭け事や酒宴に興じる不信心者たち。 毒々しい色の駄菓子。 それとわかっても買わずにはいられない、かわいらしいつくりの怪しげなお守り。 珍しい見世物小屋。 陽気な音楽。 派手な衣装の踊り子。 威勢のいい爆竹。 ハザディルなら、祭りといえばつきもののそういうものが、ここでは何一つ見当たらない。 道行く人の表情も、通りに沿って並んだ商店の、がらんとした退屈そうな様子も、普段の日とどこも変わるところはないと思われた。 なるほど、祭礼というものは、本来こういうものなのかもしれない、と、エリダヌスは、あたりをきょろきょろ見回しながら思った。 祭礼というのはそもそも、神さまに特別の感謝をしたり願い事をしたり、という日。 普段よりも特に心をこめて祈りを捧げれば、それでいいのかもしれない。 ハザディルより神の国に近いと思われるこの国では、祭りといって、特に浮かれはしゃぐこともなく、皆、いつもと同じように、その日の暮らしを心静かに送っているだけなのだろう。 マルシリオの店へと入った、ちょうどそのとき、店の奥のほうから、荒々しい怒声が響いてきて、エリダヌスは思わず身をすくめた。 何事だろう、と、奥の様子をうかがい見ると、エリダヌスと同じように、他の客たちも皆、物陰から顔だけ出してこわごわ店の奥を覗き込んでいる。 人々の視線の先には、平身低頭して震えるマルシリオの姿。 さらに、そのマルシリオの真向かいには、今にも剣を抜かんばかりに激怒する、ひとりのバルドーラ客の姿があった。 その客の顔に視線を移して、エリダヌスの心臓が、どきん、と大きく跳ね上がった。 ――― あれは、レグルスさま?! あまりにもだしぬけの邂逅に、エリダヌスの頭の中はほとんど真っ白になり、理由もないのにただ慌てふためいて店の商品棚の後ろに逃げ込むことだけしかできなかった。 高鳴り波立つ胸を押さえながら、商品棚の影から顔だけ出して、その姿を盗み見る。 激しい感情をあらわにしたレグルスは、おそろしく、そして美しかった。 むき出しの怒りに髪は炎のように逆立ち、今にも燃え上がらんばかり。 猛々しい光を宿す琥珀色の瞳。 張りつめた気を放つ、強靭な筋肉。 このように激昂してなお人を魅了してやまない、その高貴な風貌は、初めてその姿を見た夜と同じように、いや、それ以上に、まぶしく、神々しく、今にも建物の屋根を突き破って、神の憤怒のいかずちの矢が飛んでくるのではないか、と、思われるほどだった。 奇跡の現場を目撃したような心地して、エリダヌスが恍惚と立ち尽くす間にも、レグルスの怒りはほどなくおさまり、穏やかな口調に戻って、マルシリオと何か話しこみ始めた。 それを見るとエリダヌスは、後ろめたさを感じながらも、こっそり彼らの後ろに忍び寄って、どんな会話を始めたのか、耳をそばだてずにはいられなくなった。
2011.03.18
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はりきって身を乗り出したエリダヌスに、フォーマルハウトがちょっと笑って言った。 「実は私、マルシリオ商店に注文してあった礼装用の飾り帯を、昨日受け取りに行ったのですが、そのときついでに、マルシリオから神殿への先月分の支払い請求書をもらっておかなければならなかったのに、それをすっかり忘れていたんですよ。 そこであなたにお願いというのは・・・」 エリダヌスは笑ってうなずいた。 「わかりました、いそいでマルシリオ商店へ行って、その請求書をもらってきて欲しいんですね? おしゃべりのマルシリオに、リュキア神殿は先月分のお勘定をごまかそうとした、と、街中に言いふらされる前に。 そうでしょう?」 フォーマルハウトも吹き出してうなずいた。 「うふふ。 お察しのとおりですよ、エリダヌス。 今日、私は自分で行く時間がないので、誰かに代わりに行ってもらわなきゃいけないなあと思って、困っていたんです」 エリダヌスは、重々しくうなずいて立ち上がった。 「まかせてください。 リュキア神殿とあなたの名誉は、このエリダヌスが命に代えても守ります」 フォーマルハウトも、くすくす笑いながら立ち上がった。 「助かります、エリダヌス! これで私も安心して、神兵の方々をおもてなしする準備に専念できます。 もらってきた計算書は、玄関脇の事務所に渡しておいてください。 後ほど私が、会計の係りの者にその旨伝えておきますから」 しゃべりながら、フォーマルハウトが部屋の戸を開けたとき、前の廊下をちょうど、雑役パピトのアギーラが、掃除モップとバケツを手に通りかかった。 フォーマルハウトがすかさずアギーラを呼び止める。 「アギーラ! これからエリダヌスさまがお外へお出かけになります。 廊下の掃除は後まわしにして、エリダヌスさまのお供をなさい」 エリダヌスはあわててそのフォーマルハウトを止めた。 「とんでもない、フォーマルハウト。 私はお供なんかつけていただかなくても道に迷ったりはしませんよ。 マルシリオ商店なら先日あなたにお連れいただいたばかり、大通りをまっすぐ行くだけではありませんか。 目をつぶっていたって行けます。 ・・・アギーラ、いいから、あなたはあなたのお仕事を続けてください」 フォーマルハウトが苦笑して言った。 「やれやれ、エリダヌス、本当に、あなたという方は、私のいうことを何一つ聞いてくださらないのですね。 それではせめて、お守りだけでもふところに入れて行ってください。 リュキア大通りもマルシリオ商店も、決して危険な場所ではありませんが、今日は月に一度の休日、何が起こるか予測できませんからね。 ましてあなたは人一倍好奇心が強くてむこうみずでいらっしゃるから」 それからフォーマルハウトは、立ち止まったまま待っているアギーラに向かって言った。 「ではアギーラ、巻物書庫へ行って、アーテイア老に、“祝福”と“神罰”の巻物を出してもらって来なさい。 おまえは書庫のどこに何の巻物があるか承知しているでしょうが、例のごとくアーテイア老が居眠りをしていても、めんどうがらずにたたき起こして出していただくように。 絶対に自分で勝手に出してきたりしてはいけませんよ。 エリダヌスさまの身を守るものですから、くれぐれも間違いのないように」 深々とお辞儀をしたアギーラが、薄暗い廊下の奥へと風のように走り去って行った。
2011.03.16
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エリダヌスはあわてて立ち上がり、フォーマルハウトを部屋に迎え入れた。 「ああ、フォーマルハウト、私はもう大丈夫ですよ。 傷もすっかり癒えましたし、熱なんかありません。 どうかもう、これ以上のお気遣いはなさらないでください」 フォーマルハウトが、テーブルの上に薬湯を乗せたお盆をおき、まぶしそうに目を細める。 「エリダヌス、お元気になられましたね! 顔色もいいし、なんだか、輝いて見えますよ」 椅子に腰を下ろしたフォーマルハウトが、ちょっと言いにくそうに口を開いた。 「あのう、今日は月に一度の祭礼日で、リュキア軍の訓練もお休みですから、一緒にレグルスさまのところお礼を申し上げにまいりましょうと、先日お約束したのですが・・・」 レグルスさま、という言葉を耳にしたとたん、心臓がどっきん、と大きく跳ね上がり、顔が紅潮するのが自分でもわかった。 エリダヌスはあわてて、心の動揺を隠そうと両手で頬を押さえながら、もごもごと答えた。 「あ、いいえ! そんなことは今日でなくても・・・」 今こんな高ぶった気持ちのままであのかたの前に出たら、胸がどきどきして何もしゃべれない、どころか、立ってすらいられなくて倒れてしまう! が、幸いフォーマルハウトはそんなエリダヌスのうろたえぶりにはまるで気づかぬ様子だ。 テーブルの下に目を落としたまま、ひたすら恐縮したように話を続けている。 「・・・ところが、私、今日はちょっと都合が悪くてあなたと御一緒して差し上げられなくなってしまったんです。 今日は軍の休日ですから、神兵として軍に出向している神官たちも神殿に帰ってきますので、合同礼拝の後に、バルドーラの戦士訓練場でいつもご苦労されている神官の方々をねぎらうための慰労会が開かれるのです。 定例のことですから、いつもなら私たちもその慰労会にちょっと顔を出すだけなんですが、今日は、私がその準備をする幹事の番に当たっていたんですよ。 私ったら、それをすっかり忘れていて、あなたに軽々しいお約束を・・・本当に申し訳ありません」 実のところ、ほっとした。 それでいながら、心のどこかでかすかに失望している自分がいるのに、エリダヌスは戸惑いながら、急いで首を横に振った。 「いいえ、とんでもない! フォーマルハウト、そんなことは、いつでも、あなたの御都合しだいでけっこうですから、どうぞお気になさらないで。 それよりも、慰労会の御準備なんて、重要なお仕事があるのなら、こんなところで油を売っていてはいけません。 私はもう大丈夫ですから、早くお仕事にお戻りくださいな。 もし私にもできることがあれば、ぜひ、お手伝いをさせてください。 掃除、洗濯、荷運び、皿洗い、つくろい物、農作業、薪割り、垣根の修理、何だってできますよ」 本当に、こういう、気分のすっきりしない時には、無理にも体を動かすのが一番なのだ。 一瞬、目を丸くしたフォーマルハウトが、吹き出して答えた。 「そんなこと、雑役パピトがやりますよ。 ・・・でも、それじゃお言葉に甘えて、あなたにひとつお仕事を頼んじゃおうかな」 「はい! どうぞ、何でも言いつけてください!」
2011.03.15
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リュキアの祭日。 軍の休日でもあるこの日、エリダヌスは、フォーマルハウトとリュキア軍に行くことになっていた。 エリダヌスたちを砂漠の盗賊団から救ってくれた、レグルスという戦士に、あらためてお礼を述べるためだ。 この日エリダヌスは、部屋に閉じこもってお祈りばかりしていた。 フォーマルハウトが部屋まで運んで来てくれる食事も、まるでのどを通らない。 時おりアギーラが、シーツの取替えや部屋の掃除などにやって来たが、それも断っていた。 体中が、火照るように熱い。 ベッドから起き上がる気力もない。 目を閉じれば、まぶたの奥に、あの、レグルスという美しくりりしい戦士の姿が浮かんできて、このところ夜も眠れない日が続いていたのだ。 ――― あのかたは、神さまではなかった。 生身の、しかも、よりによって、人を殺すことを職業とする戦士だった。 それを、神さまのお姿と思い込むなんて、なんという恐れ多い罪を犯してしまったのだろう。 それを思うと、不安でいたたまれなくなった。 あるいはまた、それならばあの夜、死出の旅につこうとしていた私を、神様はお迎えに来てくださらなかったということになるのか、と思うと、それもまたエリダヌスの心をひどく苦しめた。 ドードーの言い草ではないが、神さまにすら忘れられてしまったのか、と絶望しそうになる。 エリダヌスはあわてて頭を振り、その罪深い考えを払いのけて両手を組み合わせた。 いいえ、神さま、私はあなたを信じます。 あなたは、私がまだこの世でのお役目を終えていないから、お迎えに来てくださらなかっただけですね。 私をもう一度この世にお戻しになるおつもりだったから、御国にお召しくださらなかっただけですよね。 私がこの世でのお役目を終えたときには、きっと私を迎えに来てくださいますよね。 あなたの深遠なる御業を、ほんの一時でも疑ってしまいそうになる、心の弱いこのエリダヌスを、どうかお許しください。 そうして、心を落ち着けてお祈りに集中しようと目を閉じると、またしてもまぶたの裏に、神ならぬあの戦士の姿が、神さまよりなお輝かしく神々しく、浮かび上がってきてしまうのだ。 エリダヌスはまた、ぱちりと目をあけ、頭を抱え込んで嘆息する。 これではさっぱりお祈りにならない、と思った。 ――― あのかたは、神さまではなかった。 その考えは、エリダヌスを当惑させ、罪深い気持ちにさせ、恐怖させたが、同時にまた、不思議なときめきと、甘美な喜びとをもたらしてくれるものでもあった。 あのように美しく、熱く、力強く、息づいておられる方と、私は今同じ世界に生きているのだ。 神様のような手の届かない存在ではなく、望めばこの目ではっきりお姿を見、この耳でお声を聞き、手で触れることすらかなう、血の通ったお方なのだ。 そう思うと、わけもなく心が浮き立って、明るい気持ちになるのが、抑えきれない。 もう何度目になるかわからないため息をついたとき、ドアを軽くノックする音がして、フォーマルハウトが顔を見せた。 「エリダヌス、ご気分はいかがです? 熱さましのお薬湯をお持ちしましたよ」
2011.03.14
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しばらくネットがつながらず、ご無沙汰いたしておりました。 その間に、大変な地震がありました。 日を追うごとに被害の大きさが明らかになり、 また、 連日テレビで報道される津波の恐ろしさには 目を覆いたくなるものがあります。 どうか、 一人でも多くの命が助かりますように。 心にも、体にも、 深い傷を負った方々が、救われますように。 心から、お祈りしています。
2011.03.14
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