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天使のような笑みを浮かべて、アルデバランが俺を呼んでる、と思った。 一歩踏み出した足が、底なしの沼にずぶずぶとめり込んでいくのにも気がつかなかった。 アルクトゥールスはただ、アルデバランのもとへ行きたい一心で、無我夢中、両手で泥をかき分け、向こう岸目指して、沼の中央へと進んでいった。 向こう岸でアルデバランが、手を差し伸べ、アルクトゥールスを待っている。 早くあそこたどり着かなければ。 だが、足の先は、どこまでもぐってもしっかりとした地盤に届かない。 もがいても、もがいても、体は泥に沈み込んでいく一方で、一向に前へ進まない。 アルデバランの、差し伸べた手まで、あと少し。 が、体は、すでに胸までどっぷりと泥に浸かり、気がつけばもう身動きが取れなくなっていた。 これ以上は一歩も先へ進めない。 体が重い。 息ができない。 肺の中に残った最後の息を吐き出しながら、つぶやいた。 「・・・可愛いアルデバラン、わからずやの兄ちゃんを」 許してくれ、という言葉は、もう、泥に飲み込まれて言えなかった。 どこか遠くのほうで、ヴェガの泣き叫ぶ声がかすかに聞こえた。 「アルクトゥールス! 戻って来い! ああ、誰か助けてくれよ! アルクトゥールスが、沼に沈んじまう! くそっ、どうしたら鏡の向こうに行けるんだ?! アルクトゥールス! 目を覚ませ! それは幻だ! 宝の山も沼も、全部幻だ! 蒼竜の仕掛けた罠だ!」 ああ、そうか、俺は、人の心を攻撃するという蒼竜の仕掛けた罠にはまって、今、死ぬところなのか、と、ぼんやり思った。 もう、死んでもいいや、と思った。 アルデバランは一人前の大人になった。 もう俺のもとには戻ってこない。 この世での、俺の役目は終わったのだ。 アルデバランの、明るい笑顔に重なって、アンタレスの、寂しげな横顔が、ふと脳裏をよぎった。 ああ、そうだった、アンタレス、おまえのことはとうとう助けてやれなかった。 ごめんな。 ――― 悲しみの泥が、アルクトゥールスをゆっくりと押しつぶしていく。* * * 明るい日差しの降り注ぐ王宮の中庭、まだ幼い黒豹が1頭、よたよたと足をもつれさせながら大慌てで逃げてくる。 ゴルギアスの大勢の侍女たちの中で、2頭の小さな黒豹兄弟の世話を言いつけられた、醜く嫌われ女のアルクトゥールスは、子猫のようなこの黒豹兄弟が、可愛くて可愛くてたまらない。 この子たちといると、自分の顔の醜いことも、同僚たちの陰口も、白い目も、みんな忘れられる。 逃げてきた黒豹を抱き上げて頬ずりしながら、アルクトゥールスは心から笑う。 「おお、可愛いアルデバラン、そんなにあわてて、どうしたの? また、アンタレスお兄ちゃんにいじめられたの?」 アンタレスとアルデバラン、2頭の黒豹は、兄弟なのに性格が全然違う。 兄のアンタレスは乱暴で野生むき出し。 何にでも牙をむいて襲いかかる。 弟のアルデバランは心優しくて血を見るのは大嫌い。 王宮の庭に遊びに来る小鳥たちとも仲良しという変り種。 そのアルデバランが、みゃあみゃあと鳴いてアルクトゥールスに訴える。 アンタレスお兄ちゃんが、僕のヤップを殺しちゃったの。 「あらまあ! かわいそうに!」 ヤップというのは、庭に遊びに来る小鳥たちのうちで一番アルデバランの可愛がっていた雀。 豹が雀を可愛がるなんて、その方がよっぽどおかしいんだけれど、雀を襲ったアンタレスのほうが当たり前の黒豹の子なんだけれど、何かとそりの合わないアンタレスとアルデバラン、どっちも可愛くてならないアルクトゥールスには、どっちの味方もできなくて、結局はいつも、両方抱きしめて頬ずりしてしまう。 手の平に今も残る、あの、あたたかい、やわらかい感触。 ゆっくりと流れる、幸せな時間。 ・・・ああ、あそこに戻りてえなあ。 ――― 幸せの泥が、アルクトゥールスをゆっくりと押しつぶしていく。
2011.02.27
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『鏡の間』の向こうをのぞきこんだヴェガが、うひひひ、と意地汚い笑い声を上げた。 「ほーら、やっぱり、俺の思ったとおりだ! アルクトゥールス、早く来て見ろって! 早く早く! 大鏡の向こうにうっすら透けて見えるだろ! ほらっ、お宝の山! どうやって運び出す? ・・・っひっひっひ!!」 よだれをぬぐったヴェガの後から、鏡の間を覗き込んだ二人のニンゲン族も目を丸くして顔を見合わせ、部屋の中を指差し、興奮した様子で顔を紅潮させて言葉を交し合っている。 ヴェガが、アルクトゥールスの手をぐいぐい引っぱりながら上ずった声で叫んだ。 「ほらほら! 鏡の向こう! なっ? 見上げるようなお宝の山! ・・・しかし、鏡の向こう、って、どうやったら行けるんだろうな。 鏡を割ったら行けるのか? いや、鏡を割っちまったら、その向こうはただの壁だよなあ。 鏡と一緒に、お宝も消えちまうかも。・・・なんか、あの鏡を割らずに割って向こう側に行けるような、特別なハンマーみたいなものとか、ねえのかなあ! 秘宝、鏡割りハンマーっ! とかさ」 ヴェガに引っぱられて、アルクトゥールスも、しぶしぶ『鏡の間』に足を踏み入れた。 「お宝の山? そんなはずはねえよ。 この前俺が見たときは、鏡の向こうにうっすら、大きな水たまりのようなものが透けて見えて、俺はてっきり蒼竜とやらのプールかと・・・」 いぶかしみながら、『鏡の間』の奥、壁一面に広がる巨大な鏡を見上げて、アルクトゥールスは、はっと息を飲んだ。 ――― アルクトゥールスの目の前、大鏡の向こうに広がる世界は、遠い昔、どこかで見たことがあるような気がする、薄暗い不気味な沼地だった。 沼・・・どこで見たのだったか。 倒木の陰にたった一人、置き去られて泣いている小さなアルデバランを抱き上げて、いっしょにこの沼を渡った、かすかな記憶。 ふらふらとその沼に向かって足を踏み出したとき、沼の向こうの黒い大きな倒木の陰で何かが動いた。 赤ん坊のアルデバランを拾った、まさにその場所、と思えた。 ごしごしと目をこすって、目を凝らして、アルクトゥールスの胸が、どきんと大きく跳ね上がった。 「・・・アルデバラン?!」 それは確かにアルデバランだった。 漆黒の色の髪を風になびかせ、腕組みをして、何か決意を秘めたように固く唇を引き結んだ、そのすっかりりっぱに成長した姿は、今やアンタレスと見まごうばかり、黒豹のように強靭でしなやかだ。 沼の対岸のアルデバランの視線がゆっくりと動いて、こちら岸の兄の姿を捕える。 と、その鋭い眼光が、ふっとやわらいだ。 見慣れた、ルビー色の瞳に優しい光を浮かべて、アルデバランの唇が動く。 『兄ちゃん!』と。 小さな、子どものころのままに。 「アルデバラン!!」 我知らず金切り声を上げて、アルクトゥールスは、アルデバランに向かって駆け出した。 ふたりの間には、底知れぬ黒い沼が横たわっていることも、人の心の隙間に忍び込む魔の鏡が立ちはだかっていることも、きれいさっぱり忘れていた。 アルクトゥールスの後ろで、ヴェガの叫び声が急速に遠ざかっていく。 「おい待て、アルクトゥールス、そんなに勢いよく走ったら、鏡にぶつかっちまう・・・あっ、あーっ! アルクトゥールスが、鏡の中に入っていっちまった! 鏡の向こう側の世界に! ・・・な、なんで?!」
2011.02.26
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不思議だ。 ヴェガに追い立てられるようにして迷宮に入ってきたものの、どうしたことだろう、今日は怪物が一匹も出てこない。 これまでヴェガとふたり、薄い氷の上を歩くように、びくびくしながら次のドアを開け、あるいは、アンタレスの戦いぶりを震えながら見守って、緊張の糸を張りつめっぱなしで歩いていた回廊も、今夜はまるで白昼の散歩。 どこにも、何の危険も感じられない。 まるで、侵入してきた者たちを避けているかのように、ひっそり静まり返った迷宮を歩いていると、ここはいったいどこなのか、俺はどこに行こうとしているのか、知らない場所を歩いているような、奇妙な思いにとらわれる。 拍子抜けするほど安全、なのはいいが、皮肉なことに、怪物が出てこないと、その怪物の守っているお宝のほうも、さっぱり手に入らない。 ニンゲン族の戦士たちふたりは、ものめずらしそうにきょろきょろあたりを見回したり、壁の石にちょっと手を触れてみたり、二人の間でしか通じない言葉で何事かささやきあったり、まるで物見遊山だが、お宝目当てのヴェガのほうは、だんだん不機嫌な顔になっていくのが傍目にもわかる。 「・・・なあ、アルクトゥールス、今夜はなんでこんなに静かなのかなあ。 これじゃカストールとポルックスも、腕の見せ場がなくてさぞがっかりだろうな」 しびれを切らしたように嘆息したヴェガに、アルクトゥールスは苦笑して言った。 「がっかりしてるのはヴェガ、お宝めあてのおまえだけだろ。 おまえの戦士のお二人さんは、けっこう楽しんでるようじゃねえか、遺跡見物。 きっと、迷宮の怪物どもも、戦士さんたちがあんまりのんきにしてるから、敵と思ってないんじゃねえの? この調子じゃいくら歩き回っても無駄骨折るだけだ。 今夜はもう帰ろう」 ヴェガがむっとしたように言い返した。 「ちぇっ、やっぱりアンタレスがいなきゃだめだ、とか思ってるんだな? アンタレスばかりが戦士じゃないんだ、カストールとポルックスは本当に強いんだから! 見た目とは全然違うんだから! ・・・ふん、雑魚の怪物なんか、出なきゃ出ないほうが好都合、ってもんだ。 それなら今夜は、このまままっすぐ『鏡の間』へ行ってみようよ。 この前は俺、『猫目石のかんざし』ひとつ持ち出すのが精いっぱいだったけど、あそこにはもっとたくさん、お宝がざくざくあると思うんだよなあ! そういう匂いがしたんだよ」 不思議だ、と思った。 お宝 ――― 以前はわくわく心躍ってじっとしていられなかったはずのこの言葉にも、今はなんの魅力も感じない。 山と積まれた金貨も、重くて運べないほどの金塊も、目のくらむような宝石も、今のアルクトゥールスには石ころと少しも変わらないのだ。 そんなもの、どうでもいい。 なにもかも、どうでもいい。 小さくため息をついて、アルクトゥールスは首を横に振った。 「お宝ねえ・・・あんまり気がすすまねえなあ。 あの『鏡の間』には、蒼竜とか何とかいう大物怪物がいるって、この前キマイラのやつが言ってたじゃねえか。 おまえの戦士のお二人さんだけではなあ・・・止めといたほうがいいんじゃねえの」 ヴェガが、がっはっは、と豪快に笑って、アルクトゥールスの肩をどついた。 「また、そういう気の弱いことを言う。 おまえらしくもない。 このまえ、おれひとりであの部屋に入っていったけど、別に何事も起きなかったでしょ? 大丈夫だって! さあ、元気出して、行こ行こ行こっ!」
2011.02.25
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「おい、アルクトゥールス! 目を覚ませ! いい知らせだよ、起きろってば!」 肩を揺さぶられて、腫れぼったい目を無理やり開けると、目の前にヴェガの、いつもの脳天気な笑顔があった。 「うるせえなあ・・・」 目をこすりながら顔を上げると、そこは見慣れた自分の家の居間。 今までアルクトゥールスが突っ伏して眠り込んでいたテーブルには、ゆうべアルデバランと最後の食事をした食器が、倒れたカップも転げたスプーンも食べ残した料理も、取り散らかったそのままになっていた。 そうだ、アルデバランは出て行っちまったんだっけなあ。 もう帰って来ないんだ。 混乱して、絶望して、なすすべもなく、台所にあった酒をがぶ飲みして、いつのまにか眠っちまってたのか、と、泣き腫らしてしくしく痛む目をこすりながら、アルクトゥールスは、ふと、目の前で脳天気なにたにた笑いを浮かべているヴェガの顔を見上げた。 「・・・あれ? ヴェガ、なんで俺の家にいんのよ。 悪いけど帰ってくれねえかなあ。 俺、気分悪くて。 もう一眠りするわ」 椅子から立ち上がったアルクトゥールスを、ヴェガが急いで引き止めた。 「だめだめ! 今日は仕事の日だろ! この前ちゃんと約束したのに、待ち合わせの場所でいくら待ってもおまえが来ないから、心配して探しに来たんだぞ。 ほら、ずっと前、宮殿通りの端っこの家に弟とふたりで暮らしてる、っておまえが言った、あの一言を頼りに、隅から隅まで、探したんだからね! ・・・いや、ははは、すぐに見つかったけどさ。 そうしたら、なんだよ、こんなに酔いつぶれちゃってもう! お酒なんて強くも好きでもないくせに、なんで大事な仕事日にこんなにぐでんぐでんになるほど飲んじまうかなあ! なんか面白くないことでもあったか? いやいや、大丈夫、今日は俺、おまえに、どんな憂さも吹っ飛ぶようなビッグニュースを持ってきたんだから。 これを聞いたらきっと、いっぺんに酔いなんか醒めて、シャキーンとするぞ! ほら、この前言ったでしょ? アンタレスなんか来なくたって心配いらない、俺がちゃんと、別の兵隊を手配してやるから、って。 それを連れてきたのよ、今夜は」 なに、もう夜なのか? 俺は丸一日ここで寝てたのか? と、アルクトゥールスがびっくりする間にも、ヴェガは嬉々として玄関の外に声をかけた。 「おーい、カストール、ポルックス、ふたりとも入って来てくれ。 リュキア一の鍵開け名人、アルクトゥールスを紹介するよ!」 その声に応じて、家の中にどやどやと入ってきたのは、戦士風のいでたちをしたニンゲン族がふたり。 アルクトゥールスは顔をしかめて、ヴェガに背を向けた。 「紹介なんかしなくていいって。 俺、もう、迷宮なんかに行くつもりはないから。 行くならおまえたちだけで勝手に行ってくれ。 俺はもう抜ける」 アルクトゥールスの前に回って、ヴぇががなおもしつこく食い下がる 「なにを言い出すんだよ! おまえがいなけりゃ、ほかにだれが宝箱の鍵を開けられるっていうんだ? ちぇっ、アンタレスがいなくなったくらいで、そんなに気を落とすなよ。 ・・・そりゃ、おまえとあいつが特別仲良しだったのはよく知ってるし、おまえが、あれ以上頼りになるやつはいないと思い込んでる気持ちもわかるよ。 だけど、このあたりでいっぺん気持ちを切り替えたらどうだ? アンタレスのことなんか心配して飲んだくれてたってしょうがないじゃねえの。 言っちゃ悪いけど俺は、アンタレスなんてそれほど頼りになるやつだとは思ってなかったよ、初めから。 剣の技は一等級かもしれないけど、チームメイトとしては、自分勝手でわがままで、俺たちいつも振り回されてたじゃない。 そこへいくとニンゲン族の戦士たちは、頼りになるよ。 見てくれは優しげだけれども、あれでいろいろ不思議な武器を扱うことができるんだぞ。 しかも、協調性抜群。 みんなが安心して、自分の能力をそれぞれ最大限に発揮できる。・・・うん、そりゃまあ、ふたりだから、取り分も倍になっちゃうわけだけど、その辺の交渉は俺に任せてくれよ。 おまえに損させるようなことは絶対しない。 だから、さあ、いつものように、元気を出して、仕事に行こうよ! なっ!」
2011.02.24
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数日ぶりに、アルデバランの作った料理を、差し向かいで食べた。 昔から、少しも変わらない食事風景。 数日前、アルデバランのいなくなった前の日とまったく同じだ。 が、少し食べて、アルクトゥールスは、あれ? と首をかしげた。 アルデバランの料理の味が、前と微妙に違う。 以前は、もっと旨かったような気がする。 もう一度、よく味わって食べてみる。 気のせいではない。 確かに、おいしくない。 アルデバランが、ふと顔を上げてアルクトゥールスを見た。 「兄ちゃん、俺の料理、まずいか?」 アルクトゥールスの皿には、料理がほとんど手つかずで残っていた。 アルクトゥールスはあわててスープを1口飲み、笑った。 「いや、おまえが帰ってくれたんで、胸がいっぱいで。 つかえちまったみたいで入っていかないんだよ。 腹減ってたんだけどな」 アルデバランも、少し笑って言った。 「無理しなくていいよ。 兄ちゃんには、今の俺の料理、口に合わないはずだ」 ちょっと首をかしげて、アルクトゥールスは、おそるおそるアルデバランにたずねた。 「・・・アルデバラン、おまえ、家を出てから今まで何をしてたんだ?」 フォークを置いたアルデバランが、口をぬぐって答えた。 「料理人になるための、修行の、準備だ。 兄ちゃんがだめだといっても無駄だよ。 おれ、料理人になる。 もう決めたから」 「もう反対なんかしねえよ! おまえの気持ちはよくわかったから。 しかし、料理人って・・・あの、菓子屋のじいさんじゃねえのか? あの、バルドーラ族の、狩りができたら修行させてやる、なんて無茶なことを言う料理人のほう? おまえ、まさか、あれを真に受けて、狩りを・・・!」 アルデバランが、ちょっと意外そうに目を見開いて兄を見た。 「知ってたのか、兄ちゃん。 ・・・いや、あの人の言うことはちゃんと筋が通ってて、俺も納得した。 だから、狩りをすることに決めたんだ。 もう、パピトの料理は作らない」 だから、と言いかけて、唇をかんだアルデバランが、再び顔を上げた。 「俺は、もう兄ちゃんと一緒に暮らすことはできない。 今は、兄ちゃんに買ってもらった短刀が、俺の牙だ。 俺の手はいつも、獲物の血で、真っ赤に汚れているんだ。 今日はそれを言うために来た」 そう言って、アルクトゥールスの前に突き出して見せたアルデバランの両手からは、本当に、生きた獲物の血の匂いが、どろどろと漂ってくるような気がした。 思わず後退ったアルクトゥールスを悲しげに見やって、アルデバランが椅子から立ち上がる。 「兄ちゃん、俺がパピトの料理を作るのは、今日で最後だ。 兄ちゃんの口に合うものが作れなくて、ごめんな」 衝撃のあまり、声も出なかった。 アルクトゥールスはただ、今のが聞き間違いでありますように、これが悪い夢であってくれますように、と心の中で祈り続けていた。 戸口に向かって歩き出したアルデバランが、ちょっと足を止める。 「兄ちゃん、勝手なことをしてごめん。 俺はもう兄ちゃんと一緒に暮らすことはできないけど、兄ちゃんは俺のたった一人の兄ちゃんだ。 俺を可愛がって、ここまで育ててくれたことは、一生忘れないよ」 言って、アルデバランは家を出て行った。 もう二度と、後ろを振り返ることはなかった。
2011.02.23
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姿を消してしまったミラを追って、宮殿通りからリュキア大通りに出たとき、向こうから見覚えのある人影が近づいてくるのに気がついて、アルクトゥールスは、はっと足を止めた。 闇の色の長い髪、ほっそりとした体つき、敏捷そうな長い足 ――― アンタレスか? いや、違う。 「アルデバラン・・・?!」 アルクトゥールスは、雷に打たれたようによろよろと2、3歩足を踏み出し、それから、だっ、と駆け出した。 「アルデバラン!!」 相手もはっとしたように顔を上げた。 「兄ちゃん!」 夢ではない。 間違いなくアルデバランだ。 あんなに嬉しそうに笑って、ちぎれるほど手を振って、アルクトゥールスに向かって走ってくる。 子どものころのように。 しかし、ああ、アルデバラン、ほんの数日会わなかっただけなのに、おまえはなんと大人びて、りっぱになったんだろう! アルデバランの赤い瞳は、もう、前のような、やわらかい、優しい光を宿してはいない。 鋭い、抜け目のない光を放って、まるで肉食獣のようだ。 すっかり日に焼けて赤銅色に染まった、頬の肉も少しこけたようだ。 もう、以前のように、ふくふくとした愛らしい顔ではなく、たくましく、野性味を帯びて、凄みさえ感じられる。 わずか数日の間に、この変わりようはどうだ! それとも俺が、今までアルデバランを子ども扱いするあまりに、本来の、この精悍な姿を見ようとしなかったのか。 いや、体つきも、確かに、ひと回り大きくなった。 出て行ったときのままの、見慣れたアルデバランの服が、いかにも窮屈そうだ。 腕や足を動かすたび、その古ぼけた服の下で、鋼のような筋肉が躍動するさまが、手に取るようにわかる。 腰には見覚えのある短刀 ――― つい先日、アルクトゥールスが買ってやった、あの料理用の短刀だ。 買ったときはぴかぴかだったのに、今はすっかり使い込まれたように、鈍い、しかし重々しい光を放っている。 安物の、料理用の短刀にはとても見えない。 とても危険そうで、そう、まるで、剣のようだ。 次第に涙でぼやけてくる視界の中で、アルデバランが、身をかがめて小さな兄を抱きしめた。 「兄ちゃん! 黙っていなくなったりしてごめんよ! とても詳しい説明をする余裕がなかったんだ!」 アルクトゥールスは、何も言えなくなって、涙をぽろぽろこぼしながら、大きな弟にぶら下がるようにしてむしゃぶりついた。 「・・・アルデバラン! なんておかしな格好をしてやがるんだ! なんでいきなりそんなにでっかくなっちまったんだよ! 服が、つんつるてんじゃねえか! 」
2011.02.22
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「・・・え? アンタレスをさがしてる?」 『嘆きの館』の玄関口に顔を見せたンタウロスは、不審げにミラの風体を眺め回し、アルクトゥールスに小声でたずねた。 「アルクトゥールス、その子は?」 「リシャーナの魔法使いの見習いだよ。 ケンタウロスは、リシャーナ族を見るのは初めてか? あいつらめったに街になんかでてこないもんなあ。 ヴェガは例外だけど。 ・・・この子はそのヴェガの身内で、いなくなったアンタレスのことを心配して、夜なのに、酒場まで一人で来たんだよ。 いじらしいよなあ。 ヴェガなんか、俺らの仲間なのに、心配どころか、せいせいした、って顔してやがるぜ」 ミラが、一歩前に進み出て、ぺこり、とケンタウロスに頭を下げた。 「ミラです。 どうぞよろしく、ケンタウロス先生」 面食らったようにミラの顔を見下ろして、ケンタウロスが答えた。 「へえ、君は、ミラっていうの? アンタレスを探しに、森から出て来ちゃったの?」 真剣な表情でうなずいたミラに、ケンタウロスは、少し言いにくそうに口ごもった後、決心したように顔を上げた。 「・・・10日くらい前だったかなあ、アンタレス、迷宮で毒針に刺されて、意識不明でここに運びこまれてきたんだよ」 これにはアルクトゥールスも愕然とした。 と同時に、怒りがこみ上げてきた。 「な、なんだと?! あの野郎、ひとりで迷宮に行っただと? 毒針に刺された・・・ちっ、バカが! 宝箱か何かに手ェ出しやがったんだな! ・・・ったく、ど素人のくせに! なんで俺に一言相談しねえんだよ」 気色ばむアルクトゥールスをなだめるように、ケンタウロスがうなずいた。 「うむ。 私もそのときは、怪物と戦って怪我したというならともかく、正体のわからない鍵に、アルクトゥールスに頼むこともせず不用意に手を出すなんて、アンタレスらしくもないことをしたもんだと思ったんだが、実は、あのときアンタレスは、リュキア軍の戦士に道案内を頼まれて、彼らを迷宮に連れて行ったみたいなんだ」 いろいろな情景がくるくるとめまぐるしく浮かんでは消え、ついに、アルクトゥールスの頭の中で、つるりと皮がむけるように、すべての謎が解けた。 「道案内・・・じゃ、ゾーハルの酒場で戦士にスカウトされたらしいって、ヴェガが言ってたのは、それだったのか! ・・・ちくしょう、リュキア軍め、危ないかもしれないとわかってる鍵を、自分では触らず無理やりアンタレスに開けさせたな! ぶっとばしてやろうか! ・・・それで、アンタレスはどうしたよ? どんな毒だったんだ? まさか、まだ動けずにここで寝てますなんて言うんじゃねえだろうな!」 腕まくりしたアルクトゥールスの剣幕に、ケンタウロスが一歩後退って首を横に振った。 「いや、ここにはいない。 あの毒は、いったん体に入ったら最後、深い眠りについて二度と目を覚まさないんだ。 神殿の奥の手、生き返りの祈祷さえ効果がないというが、かといってここに置いても私にはなすすべがないから、この際、いちかばちか、リュキア軍戦士の威を借りて神殿に保護を頼んでもらうことにした。 真偽のほどはわからないが、ジャムルビーたちがこの解毒薬の調合に成功したという話も以前聞いたことがあるし、リュキア軍戦士の依頼ということになれば、あるいは神殿も、アンタレスの存在を消し去るような愚挙は、・・・あっ、待ちなさい、ミラ!」 ケンタウロスがあわてて手を伸ばした、その視線の先では、ミラが、ものも言わずに外へ飛び出していくところだった。 アルクトゥールスもあわててその小さな後姿を追って駆け出した。 「待て! ミラ! 俺も一緒に行ってやる! 相手は強欲な神官どもだ、金がなけりゃ指一本動かしてくれねえよ!」 あと一歩でミラの背中に手が届く、ところで、ミラの姿が、かき消すように、ふっ、と消えた。
2011.02.21
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ゾーハルの酒場を出ると、アルクトゥールスは、小さく頼りないミラの肩を、そっとたたいて笑った。 「じゃあな、ミラ。 ほんとうにひとりで帰れるんだな? 森の入り口まで送ってやろうか?」 大丈夫だよ、と笑ったミラの顔は、心配事を吐き出したせいか、先ほどより少し明るくなったように見える。 「ぱっ、て飛んで帰るから。 心配しないで」 あ、そうか、魔法使いだもんな、と、アルクトゥールスも笑って頭をかいた。 「ミラ、何の力にもなれなくてごめんな。 俺、本当に、アンタレスのことは何も知らないんだ。 今思えばほんとに、浅いつきあいでしかなかったんだよなあ。 でも、大丈夫、あいつのことだ、またひょっこり酒場に現れるさ。 そしたら、すぐに、おまえに知らせてやる。 いや、ミラに会いに森へ行けと、やつにはっぱをかけてやろうな。 だから元気を出すんだぞ。 デネブってやつにも、ちゃんと魔法を教えてやれよ。 何か一緒にやっていると、だんだんわだかまりも消えていくもんだ。 ・・・俺とヴェガのことじゃないけどさ」 ミラも、その澄んだ瞳に、すっかりうちとけた光を浮かべてうなずいた。 「ありがとう、アルクトゥールス、あなたの弟さんも、早く帰ってくるといいのにね」 そうだな、と答えてから、アルクトゥールスはふと思いついて、金貨を一枚取り出し、ミラの手に握らせた。 「ミラ、小遣いだよ、とっておきな」 「えっ! 金貨?! いいよ、いいよ! 森じゃお金なんか使わないもん!」 アルデバランみたいなことを言う。 こういう問答が、懐かしくて、楽しくて、アルクトゥールスは、あわてて返そうとするミラの手を押し返してくすくす笑った。 「いいから持ってろ。 金は便利だぞ。 今はいらないと思っても、あとできっと役に立つ」 押し返した金貨をミラのふところに突っ込むと、ミラも、ありがとう、と、照れくさそうに答えてから、何か思い出したようにあたりを見回し、小さく笑った。 「アルクトゥールス、僕、この場所で初めてアンタレスに会ったんだよ。 ちょうどこんなふうにお金をふところにしっかりしまいこんで、ヴェガのお酒を買いに来たんだ。 そしたら、ここで強盗にあっちゃって、お金を取られそうになった。 そこへアンタレスが通りかかって、僕を助けてくれたんだよ。 強くて、かっこよかったなあ!!」 「そうか、そりゃかっこよかったろうなあ、あいつ、それでなくてもかっこいいもんなあ」 でも、俺が初めて会ったときは、と言いさして、アルクトゥールスは、はっと目を見開いた。 「そうだ! ケンタウロスだ! あいつに聞けば、アンタレスのことを何か知っているかもしれないぞ! ケンタウロスならあいつと付き合いが長いし、連絡が取れるかもしれない!」
2011.02.20
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「え、おまえも家出しちゃったの?!」 言いながら、アルクトゥールスは、ヴェガも俺と同じようにミラのいなくなったことを悲しんでいるだろうか、と考えてみた。 いや、あいつはミラの心配なんかしないだろうな。 何があろうと蛙の面に水。 酒さえあればへっちゃら、って野郎だ。 「・・・で、ヴェガの家を出て、おまえ今どこにいるのよ。 ちゃんと食ってんのか? 寝るところは?」 ヴェガには教えないでよ、そう前置きしてから、ミラが、物思わしげに答えた。 「今、デネブというやつの家にいるんだ。 デネブはニンゲン族なんだけど、魔法使いになる修行をしていて、僕がデネブに魔法を教えるって、デネブにも長老にも約束したんだけど・・・僕、あんまりちゃんと教えてやってないんだ」 「なんでよ? 親切に泊めてくれてるやつなんだろ? 一つ二つちょちょいと教えてやりゃいいじゃねえか」 笑ったアルクトゥールスに、ミラがしょんぼりとうなだれて答えた。 「・・・そうなんだけど。 僕、前はデネブのこと大好きだったんだけど、ニンゲン族が狩りをするって知った時から、急にデネブが怖くなっちゃったんだ。 ニンゲン族が僕たちの森の友達を楽しそうに殺す、その場面がどうしても頭から離れなくなっちゃった。 もちろん、デネブ自身は絶対狩りをしないことは知ってるよ。 僕たちと同じごはんだけじゃ体を壊しちゃうかもしれないのに、それでもじっと耐えてるのも知ってる。 もともとニンゲン族は狩りをする生き物なのに、デネブがかわいそうだ、って、頭ではちゃんとわかってる。 だけど、どうしても、前のようにのびのびとデネブに接することができないんだよ」 アルクトゥールスが勧めた飲み物に形ばかり口をつけて、ミラが小さくため息をついた。 「・・・デネブは、僕に何にも言わない。 本当は、少しは魔法を教えてくれよ、って僕に言いたいはずなのに、喉もとまで出かかっているその言葉を、無理やり押さえ込んでいるのが、痛いほどわかる。 いつもにこにこ笑って、優しい言葉だけをかけてくれる。 デネブ、初めのうち狩りのことを黙っていたからよけい僕を傷つけてしまったと思って、苦しんでいるんだよね。 ・・・そこまでわかっているのに、僕は、まだ、まっすぐデネブと向き合えない。 それがつらくて・・・」 しょんぼりうなだれていたミラが、ふと顔を上げて、アルクトゥールスをまっすぐ見上げた。 「そのデネブに聞いたんだけど。 アンタレスがいなくなった、って、ヴェガが言ってたって。 それほんとなの?」 そう言ったミラの目には、涙がいっぱいたまっていた。 ミラがなぜ今夜酒場に現れたのか、アルクトゥールスはようやく理解した。 アンタレスを探しに来たのだ。 わらにもすがる思いで。 この数日間、アルクトゥールスが半狂乱でアルデバランを探し回っていたように。
2011.02.19
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日が落ちて、暗くなると、なぜか無性にアンタレスに会いたくなった。 夕食を作る気にもなれないので、アルクトゥールスは、いつもより少し早い時間だが、食事も兼ねて、ゾーハルの酒場へでかけて行った。 店内は、まだ開店直後。 ひっそりとして客の姿もなく、カウンターの中でゾーハルが忙しげに立ち働いているだけだ。 ゾーハルに、酒だけ出してもらって、いつもの席で一人ぼんやりしていると、やがて出入り口の扉が小さく開いて、そこから、小さな白い顔が、おずおずと酒場の中をのぞきこんだ。 ――― ミラだ。 思いがけない顔の登場にちょっと驚いたアルクトゥールスと、何か探すように酒場の中をぐるりと一周見渡した、ミラの視線が合う。 はっとしたように見開いたミラの瞳の、その、どこまでも汚れなく澄んだ輝きに、アルクトゥールスはわけもなく心慰められて、手招きしてミラを自分の席に呼んだ。 「おや、ミラ、一人で酒場に来るなんて、どうかしたのか? ヴェガは? そんなところに立ってないで、ここに来て座りなよ。 ジュース飲む? 苺ジュースだっけ?」 少しためらってから、ミラがかすかにうなずき、テーブルに近づいてきた。 この前見たときよりも、なんだか精彩がなくて、しょんぼり沈んでいるように見える。 「ミラ、なんだか元気ないじゃねえか。 なにかあったか? そういうアルクトゥールス兄さんも、このところちょっとまいっちゃってるんだけどな。 ・・・え、どうしたのか、って? うん、実は弟がいなくなっちゃってさ。 真面目に話を聞いてくれない兄貴に失望して、家出されちゃった」 カウンターのゾーハルの手から苺ジュースを受け取って、テーブルに運ぶアルクトゥールスを、ミラが、大きな目を見開いて見上げた。 「・・・アルクトゥールスさん、弟さんが、いなくなっちゃったの?!」 ミラの前に苺ジュースを置いて、アルクトゥールスは自嘲的に笑った。 「そうなんだよ。 俺さ、あいつがいねえと、どうにも、寂しくてだめだわ。 ほんとに、何もする気になれねえ。 あいつが家にいて、うるさいくらい俺に話しかけてくれて、メシを作ってくれて、家をきれいにしてくれて、着る物をきちんと揃えてくれて、・・・それがどんなに幸せなことだったか、俺、あいつがいなくなって初めて気がついたんだよ。 俺がこれほど金に執着するのも、あいつがいたからこそだったってことにもさ。 たとえば、たくさん金を持って家に帰ると、あいつびっくりして叫ぶだろ。 兄ちゃん、こんなにたくさんのお金、どうしたの! すごいじゃない!って。 俺に尊敬の目を向ける、その、あいつの驚き喜ぶ顔が見たくて、それだけのために、俺、しゃかりきになってたんだよなあ。 あいつがいないと、金なんかいくらかせいだってちっとも楽しくねえんだもん。 今までそのことに全然気がつかなかったなんて、ほんとに、間抜けな兄きだよ」 吸い込まれそうな奇麗な緑色の瞳をまんまるに見開いて、アルクトゥールスを見上げたミラが、ようやく、蚊の鳴くような声で言った。 「・・・僕も、ヴェガの家を飛び出しちゃった」
2011.02.18
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バルドーラ族専用の、その店の裏口から、おそるおそる厨房の中をのぞきこんで、下働きと思しきパピトに、菓子職人の話からここにたどり着いた顛末を話すと、一部始終を見ていたらしいそのパピトは、気の毒そうな顔で2人に言った。 「ああ、昨日、菓子職人の紹介状を持って、料理人の修行をしたいと来たあの子ね・・・えっ、失踪しちゃったんですか? ああ、可愛そうに、ショックだったんだろうなあ。 いやあ、うちの親方もひどいことを言いますよねえ、せっかく、親方の腕を慕ってここで修行したいとやって来たパピト族の子どもに向かって、いきなり、狩りができるならここで働かせてやってもいい、狩りのできないやつは雇わない、なんてねえ。 バルドーラ族ならともかく、パピトに狩りは無理でしょうよ、ふつう。 でもね、あれ、口だけなんですよ。 実際にわしら狩りなんかやったことないのに、ここでこうして働かせてもらってるわけですからさ。 ただ、うちのようなバルドーラ専門の店では、お客さんがよく狩りの獲物なんか持ち込んで来られますからねえ、今日の獲物だ、料理してくれ、なんてね。 そういう時わしらパピトはつい、たじろいじゃいますでしょ? ええっ、首切り落すの?皮はぐの?内臓取り出すの?いちいち青くなったり気ィ失ったり、それじゃ困るぞと、いうことなんですわね。 だけど、初めてここに来た子に向かっていきなりそんなことを言っちゃあ、驚かせちゃいますよ、ねえ・・・」 聞いているだけで、気分が悪くなってきた。 アルデバランが、俺は料理人になれないかもしれない、としょげていたという、その気持ちがわかるような気がして、その親方には会うことなく、アルクトゥールスとカペラは、香辛料と血の匂いが充満する、その店を後にした。 帰り道、カペラが口を尖らせてアルクトゥールスに言った。 「ずいぶん無茶なこと言う親方だなあ! パピトに向かっていきなり狩りの話をするなんて、アルデバランが本気にして狩りなんか始めちゃったらどうするんですか! いくら腕のいい料理人でも、あんな無神経な店、温厚なアルデバランにはよくないです。 修行するならさっきのお菓子屋さんのほうがすっといい。 アルデバラン、きっとあの店の親方に失望しちゃったんですね。 少し時間がたって落ち着いたら、きっと、家に帰ってきますよ」 カペラのこの言葉に、アルクトゥールスは少し明るい気持ちになってうなずいた。 そうだ、俺も、家に帰って待っていよう。 アルデバランはきっと帰って来てくれる。 夢破れて、しょんぼり肩を落として、少し恥ずかしそうな顔をして、兄ちゃん、ただいま、と言って。 そうしたら俺は、何も言わず、おかえり、とだけ言って迎えてやろう。 料理人になりたい、アルデバランがもう一度そう言ったら、俺は今度こそ、心から笑って、がんばれ、と言ってやれる。 もう、砂漠の盗賊団なんか作らなくていい。 この狭い城壁の中で、けちなこそ泥とペテン師稼業に終始して一生を終えてもいい。 アルデバランさえいてくれたら。 そう心に決めると、アルクトゥールスはようやく少し笑顔を取り戻し、カペラののんびり顔をしみじみと見上げた。 「カペラ、ありがとうよ。 忙しい仕事の最中だったろうにすまなかったな。 いつもおまえをでくのぼうだのウドの大木だのと、怒鳴り散らしてばかりいた俺のためにな」 カペラが、照れくさそうに頭をかいて笑った。 「とんでもないです! アルデバランは僕にとって大事な友達で恩人だし、お兄さんは、僕を育ててくれたムルシェラゴにどこか似ていて、僕、大好きだし。 ・・・あのね、ムルシェラゴも、すごく口が悪かったんですよ。 だから、お兄さんの悪態聞いていると、僕、懐かしくて」
2011.02.17
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カペラに連れられて、リュキア大通りにあるその菓子屋へ行ってみると、そこは小さな別世界だった。 手の込んだ装飾芸術のようなお菓子、色とりどりの宝石細工のようなお菓子、――― 食べてしまうのが惜しいような、美しく可愛らしいお菓子ばかりが、体裁よく並べられて、こんなときでなければアルクトゥールス、一番小さくて奇麗なそのひとつを、つい、ポケットにおさめてしまいたくなりそうだ。 その店の奥から出てきた、品の良い、しかし見るからに頑固そうな顔つきの、その老職人は、カペラを見るなり、待ち構えていたようにこうたずねた。 「やあ、カペラ、アルデバランはどうした? 決心はついたかね?」 面食らったようにアルクトゥールスと顔を見合わせたカペラが、職人に視線を戻してたずねる。 「何の話です? 決心って、何の決心ですか?」 今度は職人のほうがとまどった顔になった。 「何って・・・菓子職人になる決心に決まっとるだろうが。 カペラ、おまえさんが言い出したことだろ? アルデバランは、昨日の朝、この店の開くのを待って私に弟子入りを頼み込んできた。 一昨日も君に言ったが、私は弟子をとる気はなかったので、断ろうと思ったのだが、話をしてみると、アルデバランは実にいい子でな。 穏やかで、誠実で、気配りも行き届き、そして何よりも、一途な情熱がある。 小一時間も話しているうちに私も、この子なら弟子にしてもいいと考えるようになった。 もし本当に菓子職人になる気があるのなら、私の技術のすべてをこの子に伝えてみようかとまで、心が傾いてしまったのだよ。 そこで、本当に私の作るような菓子を作りたいのかとたずねてみると、アルデバランは、少し考えてから、自分は料理人になりたいのだと答えた。 毎日安心して楽しく食べられる食事、人をあたたかい幸せな気持ちにさせる食事、もりもり元気のわいてくるような食事、そんなものを、誰にでもわけへだてなく提供したいのだと。 ・・・正直なところ、少しがっかりしたよ。 私は菓子職人だ。 人を幸せにすると同時に、日常とは異なる、贅沢で晴れやかな、特別なご褒美を味わう気分を作らなければいけないと常々思っている。 毎日食べるようなものではないし、値もはる。 アルデバランの目指すものは、私の菓子とは少し違うと思った。 私のもとで修行をしても、きっといずれは出て行くことになってしまうだろう。 それならば、はじめから、同じものを目指す料理人の下で腕を磨くのがこの子のためだ。 そう思って、知り合いの料理人に紹介状を書いてやった。 その料理人はバルドーラ族で、少し荒っぽいのだが、腕は確かだ。 いつも、新鮮な材料を使ったボリュームのある料理を、肩のこらないテーブルで、と、アルデバランと同じようなことを言っている。 そこへ行けばきっとアルデバランの望むものも見つかるだろう、あいつの仕事を少し見せてもらうといい、その上でもし性に合わなかったら、いつでも私のところへ戻ってきて、本気で菓子作りに取り組みなさい、そう言ってここを送り出した。 今、君が来たので、やっぱりアルデバランはここに戻ってくることに決めたのかと、ちょっと喜んだのだが?」 カペラが、しょんぼりと頭を振った。 「それが、アルデバラン、何も言わずに突然いなくなっちゃんたんですよ。 アルデバランのお兄さんが心配して、あちこち探し回っているところなんです。 じゃ、あいつその料理人のところで修行することにしたんでしょうか。 変だな。 俺には、料理人になれないかもしれないなんて言っていたのに」 「料理人になれないかもしれないって? じゃ、あの気難しくて荒っぽい料理人に、何か無理難題でも吹っかけられたのかもしれんな。 それとも、家に帰らないならやはりあいつのところに弟子入りしたのかもしれないし・・・とにかく、あいつの店に行って聞いてみるといい」 そう言って菓子職人は、その料理人のいる店を教えてくれた。 ふたりは、すぐに、教わったその店に向かった。
2011.02.16
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次の日もアルクトゥールスは、バルドーラ居住区のお邸街に足を運び、カペラを探した。 何軒目かでようやく、カペラが働いているというお邸に行き当たり、庭先で待っていると、やがて顔を出したカペラは、大きな図体を、これ以上縮められないほど小さく縮めて、おどおどとアルクトゥールスに言った。 「あっ、アルデバランのお兄さん、ごめんなさい! 僕まだお給料前なんですよ。 お借りしたお金は、お給料をもらったら必ず返しますから、もう少しだけ待って・・・」 委細かまわず、アルクトゥールスはカペラの腕にすがりついて叫んだ。 「カペラ、おまえはアルデバランがどこにいるか知ってるよな?!」 カペラがびっくりしたように目を見開いた。 「え、アルデバラン、お家にいないんですか?!」 「黙って家を出て行っちまったんだよ。 カペラ、おまえ、あいつに菓子職人を紹介してやったんだろ? 今アルデバランは、その菓子職人のところに行ってるんだろ? そうなんだろ? 怒らないから、教えてくれ!」 必死の思いで取りすがるアルクトゥールスに、カペラが途方にくれたように答えた。 「はい、たしかにアルデバランは一昨日僕に、その菓子職人に弟子入りしたいから頼んでくれって言いました。 それで僕、すぐにその人のところへ行って頼んでみたんですけど、断られちゃったんですよ。 弟子はとらないことにしてるって。 僕ずいぶん粘ったんだけど、頑固な人でどうしても承知してくれなかった。 日をあらためてもう一度頼みにいこうと思っていたら、昨日、アルデバランのほうから僕のところへ結果を聞きに来てくれたんです。 しかたなく、断られちゃったことを話すと、アルデバランは、それじゃもう一度自分で頼んでみるから、その職人の家を教えてくれって・・・」 テンポの遅いカペラの口調にいらだって、アルクトゥールスは、そのつかんだ腕を揺さぶりながら叫んだ。 「それじゃ、アルデバランは首尾よくそいつのところに弟子入りできたんだろうよ! だから帰って来ねえんじゃねえか! その職人の家はどこだ?!」 アルクトゥールスの剣幕に恐れをなしたように、カペラが一歩後ずさった。 「そ、それが、アルデバランはその後すぐ僕のところに戻ってきたんですよ。 やっぱりだめだった、って。 俺は料理人にはなれないかもしれない、って。 そう言ってしょんぼり帰って行ったんです。 だから僕、アルデバランはあれからすぐ家に帰ったのだとばかり思って・・・」 どすん、と一回足を踏み鳴らして、アルクトゥールスは声を尖らせた。「・・・断られちまったのか。 さてはその野郎、なにかアルデバランを傷つけるようなことを言いやがったんだな。 アルデバランも、断られたらあきらめてさっさと家に帰って来りゃいいものを・・・。 俺が料理人になることに反対したのが気にくわなくて、へそ曲げてるのか?」 いいえ、とカペラが激しく首を横に振った。 「アルデバランは、そんなことでへそまげて家出するようなひねくれたやつじゃないですよ。 お兄さんのことを、他の誰よりも心配してます。 なのに、家に帰ってないとは、どういうことだろう。 ・・・心配ですね。 とにかく、その菓子職人のところへ行って、昨日何があったのか聞いてみましょうよ。 そうすればアルデバランの行き先も見当がつくかもしれません」
2011.02.15
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遠くでかすかにアルデバランの笑い声がしたような気がして、アルクトゥールスが、はっと飛び起きたのは、もう昼過ぎのことだった。 あわてて部屋の中を見回したが、アルデバランが帰った様子はなく、今聞こえたと思ったのも空耳だったようだ。 アルクトゥールスはため息をついて顔をこすりまわし、それから、枕もとの煙草に手を伸ばした。 そういえば昨日の朝もちょうどこんなふうに、アルデバランとカペラの笑い声で目を覚ましたのだった。 煙草の先に火をつけて、アルクトゥールスはまたしばらくぼんやりしていたが、やがて、はっと気がついて毛布をはねのけた。 そうだ! カペラだ! どうして今まで思い出さなかったんだろう! 昨日アルデバランは何と言っていた? あの菓子を作った職人の弟子になりたいからカペラに話をつけてくれと頼んだ、と言っていたじゃないか! だったらアルデバランはきっと、その菓子職人のところへ行ったんだ! 決して、行くあてもなくろくでなしの仲間の家になんか転がり込んだんじゃない。 ちゃんと行先が決まっていたのだ。 そいつのところへ弟子入りするつもりだったから、だから余分な金なんか必要なかったんだ! それに気がつくとアルクトゥールスは、昨日から着ているよれよれの服をおおいそぎで着替え、髪の毛をいい加減になでつけながら表に飛び出した。 表に飛び出すと、カペラが勤めているというお邸をさがしに、バルドーラ居住区のお邸街に直行した。 大きなお邸ばかりが立ち並ぶ閑静な街並みをうろつきながら、時々すれ違う、品の良い、召使いと思われるパピトに出会うとそれを呼び止め、カペラという使用人の働いているお邸を知らないかとたずねてみた。 が、そういうパピトたちは皆、眉をひそめてアルクトゥールスの風体を胡散臭げにじろじろ眺め回しながら、さあ、存じませんね、と首を横に振るばかりだった。 それはいかにも気取った、冷たい言い方だったが、嘘をついている様子ではなかった。 きっと、こういう取り澄ました召使いたちは、よその家の召使いと親しく言葉を交わすようなことはしないものなのだろう。 そこで今度は一軒一軒のお邸を訪ね歩いて、出てきた使用人に、ここでカペラというやつが働いていないかと聞いて回った。 が、こういうお邸の使用人たちはどういうわけか皆、反応が鈍くて、一緒に働いているはずの同僚の名前を知らなかったり、あるいは疑い深げに黙りこんでしまったりするので、結局、はかばかしい結果の得られぬまま日は暮れてしまったのだった。 どのお邸も皆、門を閉ざし、勝手口の錠も下ろしてしまう中、アルクトゥールスはがっくりと肩を落とし、すごすごと家路につくしかなかった。 かすかな希望にすがりつく思いで家に戻ったが、やはりアルデバランは帰っていなかった。 次第に闇の深くなっていく、とり散らかった部屋の中で一人ぼんやり座っていると、アルデバランのいなくなったことがひしひしと胸に迫ってきた。 こんな夕暮れ時、アルクトゥールスがこんなふうに一人でぽつねんと座り込んでいたことはいまだかつて一度もない。 この時間はいつも、アルデバランが台所でことこと音を立てながら、あたたかいス-プやこんがり焼けていくパンの匂いに包まれて、今日会った友達のだれかれの話や、天気がどうとかで畑の作物がどうしたとか、そんな他愛もないおしゃべりをするのを聞くともなく聞いて、心安らぐひとときを過ごしていたのだ。 また、どこかでアルデバランの声が聞こえたような気がして、アルクトゥールスは頭を振り、のろのろと立ち上がって台所へ行った。 台所で水を飲むと、急に腹がグーグー鳴り出した。 考えてみたら今日はまる一日、飲まず食わずでアルデバランを探し回っていたのだ。 食欲はなかったが、なにか食べなければいけない、と思った。 調理台の上に転がっていた生のにんじんを、がりがりとかじって食べた。 不意に、涙があふれてきた。 こんな、心の底まで冷たくなるような貧しい食事の味を、俺は、長い間忘れていた。 それは、アルデバランがいつも必ず、俺のために、あたたかい食事を用意していてくれたからだ。 もしアルデバランが、ああいうあたたかい心づくしの食事を、俺だけでなく、他のさびしいパピトたちにも分け与えてやりたいと考えていたのだとしたら? アルデバランにとって、料理人になるとはそういうことだったのだとしたら? それを、話もろくに聞こうとせず頭ごなしに反対した俺を、あいつは一体どう感じたことだろう! しなびたかじりかけのにんじんを両手につかんだまま、アルクトゥールスは、声を殺してすすり泣き始めた。
2011.02.14
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アルデバランの友達がパピトの居住区のどのあたりに住んでいるのか、アルクトゥールスは知らなかったが、とりあえずパピトの広場へ行ってみた。 いつかアルデバランが、『俺が近所のバルドーラの店で買い物をせずに、わざわざパピトの広場まで買い物に行くのは、そこに行くと必ず友達の誰かに会えるからだ』と笑っていたのを思い出したからだ。 夜中のこととて広場は閑散としていたが、こんな時間にも、広場の隅のほうでパピトの子どもたちが3人、大声で冗談を言い合い、ふざけあっていた。 まっすぐそこへ飛んで行ってたずねてみると、3人は不審げに顔を見合わせ、そのうちの1人が、アルデバランなんていう名前は聞いたこともない、と答えた。 がっかりしてその場を立ち去ろうとすると、別の一人が、ぽんと手を打ってアルクトゥールスを呼び止めた。 「そうだ! 思い出したぞ! 教えてやるから、小遣いくれよ」 わらにもすがる思いで小銭を一枚握らせると、子どもはそれを嬉しそうにふところにしまいこんで言った。 「ずっと前に聞いたことがあるよ。 アルデバランっていうのは、あのスナフィ組をバルドーラ警備隊にタレこんで解散させた、トートスの飼い犬野郎だって!」 すると別の子どももこの話に割り込んできて、アルクトゥールスの顔の前ににゅっと手の平を差し出した。 「俺も思い出したよ! 間抜けなアルデバランの密告のおかげで、フーターのくれる食べ物をみんなで分け合うことができなくなった、って、いつかミンクス兄さんが言ってた」 アルクトゥールスは、ものも言わずにその子どもの手の平をぴしゃりとひとつひっぱたいて、その場を離れた。 あんなチビどもに聞いたってだめだ。 アルデバランの友達なら、もっと年が上のはずだ。 だが、今の子どもの口にした、スナフィという名前には、かすかに聞き覚えがあるような気がした。 アルデバランのことは、そのスナフィというのをさがして聞いてみたほうが早いかもしれない、と思った。 そこで、広場を出てさらに南へ、『かっぱらい横丁』というけちな名前のついた、ごみごみした街並みへと入っていくと、アルクトゥールスは、さっそくすれ違った若者に、アルデバランというやつを知らないかとたずねてみた。 すると、アルデバランとほぼ同じ年ごろと思える、その体の大きな若者は、アルデバラン、という名前を耳にしたとたん、血相を変えてアルクトゥールスに殴りかかってきた。 「アルデバランだと? おまえはアルデバランの仲間か? アルデバランの居所を知ってるなら教えろ! あの野郎、ぶち殺してやる! ロロの仇だ、生かしちゃおけねえ!」 もちろんアルクトゥールスはいたちのようなすばやさで、このちょっとイカレた若者の手をかいくぐって逃げ出し、その後も、かっぱらい横丁の、迷路のような街並みをあてどなく歩き回り、出会う人ごとに、アルデバランの消息をたずねてみた。 が、意外にもこの界隈でのアルデバランの評判はたいそう悪く、たいていの者が、アルデバランの名を聞いただけで眉をひそめ、あるいは肩をすくめて、そんなやつは知らねえよ、とか、とっとと失せろ、と怒り出すばかりで、何も教えてはくれないのだった。 アルクトゥールスは、アルデバランの仲間はろくでなしばかりだという自分の考えの正しかったことを身にしみて感じ、そしてアルデバランもまた、今頃どこかで、自分と同じ目にあっているに違いないことを、嘆かずにはいられなかった。 疲労困憊して、それでもアルクトゥールスは、もしやアルデバランが戻っていはしないかと淡い望みを抱いて家に帰ったのだったが、やはり、アルデバランは帰っていなかった。 家の中は、アルクトゥールスが飛び出していった時のまま、乱雑に散らかり、ランプもつけっぱなし、戸締りすらしていなかった。 アルクトゥールスは深く失望し、ベッドに倒れこむとそのままうとうと浅い眠りに落ちた。
2011.02.13
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暗い宮殿通りの先に自分の家が見えてきたとき、アルクトゥールスはふと立ち止まって首をかしげた。 いつも明々とランプを灯して、はるか遠くからアルクトゥールスを迎えてくれる、その窓が真っ暗なのだ。 アルデバラン、いないのか・・・? なにか嫌な予感に襲われて、アルクトゥールスは、だっ、と駆け出した。 家の中に駆け込んで、おおいそぎでランプを灯す。 「アルデバラン!」 返事はなかった。 家中探し回ったが、どこにもアルデバランはいなかった。 アルデバランの毛布がきちんと折りたたまれて、ベッドの隅の方に片付けられている。 それを目にするとアルクトゥールスは、はっとして、家中の戸棚や引き出しを手当たり次第、片っ端から開けて中を調べ始めた。 アルデバランの服や身の回りのもの、それに、この間買ってやったばかりの短刀などがなくなっていた。 金は、一銭も持ち出していなかった。 顔から、ざーっと音を立てて血の気がひいていくような気がして、アルクトゥールスはへなへなと床に座り込んだ。 アルデバラン、出て行っちまったのか?! 俺が、料理人になることは許さないと言ったから? それとも、盗賊団になることがどうしてもいやだったから? 俺は、アルデバランに、そんな無理なことを言ったのか? これ以上の話し合いは無駄だと思えるほど、俺はアルデバランを追いつめていたのか? 頭はすっかり混乱して何も考えることができず、アルクトゥールスはしばらくそのままぼうっと座り込んでいたが、やがて、はっと我に帰って立ち上がり、もう一度、アルデバランの身の回りの品を調べはじめた。 ここを出て、アルデバランはいったいどこへ行ったんだろう。 どこか行くあてがあったのか。 それとも、数え切れないほどたくさんいる友達のうちの誰かの家にでも転がりこんだのか。 あれほど頻繁に、入れ替わり立ち代りこの家にも顔を見せていたアルデバランの友達の名前や顔を、アルクトゥールスは一生懸命思い出そうとした。 が、一人も思い出すことはできなかった。 アルデバランが毎晩楽しそうに話してくれた、友達の音沙汰、住所、勤め先、たわいもないあれやこれや、それもほとんど思い出すことはできなかった。 皆、アルデバランの小遣いを巻き上げようと集まってくるろくでなしばかりと、歯牙にもかけていなかったからだ。 あんな、ろくでなしの仲間なんか頼って、アルデバランは出て行ったのだろうか? アルデバランが一銭の金も持たずに出て行ったことを思い出すと、やもたてもたまらなくなって、アルクトゥールスは夜の街へと飛び出した。 アルデバランの大馬鹿野郎! こういうときにはせめて、金ぐらいたっぷり持って出るもんだ! 『あれは兄ちゃんの金だ』俺がそう言ったことに腹を立てて、意地を張ったのか? まったく、あいつには何にもわかっちゃいねえ。 これまで自分がガキ大将でいられたのは、兄ちゃんの金の力だということに、まだ気づかないのか。 金がなくなったら誰も相手にしてくれねえ、ってことが、わからないのか。 つい昨日までぺこぺこしてたやつだって、金がなくなったとたん、手の平を返したようにぷいとそっぽを向いて鼻もひっかけてくれなくなるんだ。 世の中そういうものなんだぞ。 今までさんざん親身になって世話してやった友達を頼ってたずねて行ったアルデバランが、その友達に冷たく門前払いを食わされて途方にくれている、そんな様子がふと目に浮かんだ。 にじんできた涙をぬぐって、アルクトゥールスはまっすぐにパピトの居住区目指して突っ走った。
2011.02.12
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変だなあ、と、アルクトゥールスは、また首をかしげた。 アンタレスはいつも、リュキア軍なんてふぬけの集まりだと吐き捨てるように言っていたのではなかったか。 しかも、迷宮ではどんなお宝にも金にも目もくれなかったアンタレスが、軍の給料なんか欲しがるだろうか。 アンタレスが軍人になりたがるなんて、どうも腑に落ちない。 その軍人たちと喧嘩していたというならむしろ、スカウトされたのを突っぱねて喧嘩になったとか、そのほうがアンタレスらしい気がする。 考え込んだアルクトゥールスの顔色をうかがって、ヴェガがおかしそうに笑った。 「おや、アルクトゥールス、ずいぶん心配そうな顔になっちゃったね。 アンタレスのやつ、親友のおまえにも、本当に何も言わず行っちまったのか。 まあ、親友だからこそ言いにくい、のかもしれないけど、仕事仲間としては事情の説明くらいはしてもらいたいよな。 どれ、じゃ、俺がちょっとひとっ走り行って、あいつの様子を見てきてやろうか? アンタレスの家、どこだい?」 口ではそう言いながら、ヴェガの顔はなんだか嬉しそう。 どう見ても、自分とそりの合わないアンタレスが来なくなればもっけの幸い、と言いたげな顔つきだ。 アルクトゥールスは不機嫌にそっぽを向いて答えた。 「俺が知ってるわけねえだろ。 アンタレスとは、この仕事以外の付き合いはまったくねえんだから。 おまえだって、そんなこと百も承知のはずなのに、よくそんな、本当はやる気もない掛け声ばかりを口にできるな」 言いながら、アルクトゥールスはふと、不思議な気持ちになった。 考えてみればアンタレスとは、つきあいこそ短いものの、互いに命を張って仕事をするという、固い絆で結ばれていたと思う。 だから、戦闘するアンタレスのことならアルクトゥールスには何でもわかる。 得意技、苦手な敵、体調の良し悪し、強引に攻撃を仕掛けるときの激しい気合、退却を決意したときの無念の表情、それはもう手に取るようで、いちいち相談する必要もないくらいだ。 それなのに、それ以外のことになると、アルクトゥールスは、アンタレスのことをなんにも知らないのだ。 住まいはもちろん、これまでどんな人生を歩んできたのか、迷宮で得た金は何に使うのか、仕事のない日は何をしているのか、どんな友達がいて、どんなつきあいをしているのか、そういう日常的なことについては、本当に、何一つ知らない。 ありていに言って、迷宮の中の、あの得体の知れない怪物どもと、ほとんど変わらないレベルのつきあいでしかないのだ。 あらためてそのことに気づくと、アルクトゥールスはちょっと驚き、そして、俺はもう少しあいつのことを知らなければ、と思った。 もしかしたらこの先、ともにリュキアを出て生涯の友となるのかもしれないのだから、と。 砂漠の盗賊団として、と考えて、アルクトゥールスは不意に、アルデバランのことを思い出した。 そうだ、仕事が中止になったのなら、俺は早く家に帰って、今度こそ、アルデバランとまっすぐ向かい合って話をしなければ。 あんなふうに強引に俺の夢を押し付けるのではなく、もっと穏やかに、ゆっくり時間をかけて説得しなければいけなかったんだ。 話によっては、アルデバランの希望する料理人の修行というのも、当座認めてやらなければならないかもしれない。 実際に砂漠に出る準備が整うのは、まだ先のことなのだから。 思い立つと、アルクトゥールスはすぐに席を立った。 「さて、中止ということになればいつまでもここでおまえと遊んでいてもしょうがねえ、俺は家に帰るぞ。 それじゃヴェガ、また来週、同じ日の同じ時間、例の場所でな」 そそくさと立ち去るアルクトゥールスの背中に、ヴェガが、何か腹に一物ありそうな、含みのある声を掛けた。 「・・・来週、ねえ。 たぶんアンタレスはもう来ないと思うけど、アンタレスに代わる兵隊のことなら、心配しないで俺にまかせておきなよ。 ちょっと心当たりがあるんだ」
2011.02.11
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口では強いことを言ったが、アルクトゥールスも今は、アルデバランが自分の希望とはかけ離れた道に進みたがっていることが理解できた。 もう少し頭を冷やして考えてみなければ、と思った。 アルデバランが盗賊団に加わらないとすれば、自分は、アンタレスとふたりでこのリュキアの国とアルデバランを捨てるか、それとも、アルデバランのために、自分の壮大な夢は夢のまま終わらせ、一生つまらないこそ泥家業で終わらせるか、いずれにしても苦痛を伴う選択だ。 すぐには心を決めかねた。 鬱々とした気持ちで、いつもの仕事の申し合わせ場所、城跡まで来ると、アルクトゥールスは、おや、と首をかしげてあたりを見回した。 出掛けにアルデバランと口論して、約束の時間に少し遅れたというのに、まだ誰も来ていない。 首をひねりながら少し待ってみたが、やはり誰も姿を現さない。 こんな人けのないところで、一人突っ立っているのも心細いので、しかたなく、ゾーハルの酒場へと足を向けてみた。 すっかり夜になって、そろそろにぎやかになり始めた酒場に入っていくと、いつもアンタレスが一人で座っているテーブルで、ヴェガが、酒を前に、数人の飲み友達と冗談口をたたきあっていた。 ヴェガの前にはすでに、からになった酒瓶が3本も立っている。 へんだなあ、と思った。 ヴェガもまたアルクトゥールスと同じように、約束の場所に行ったら誰も来ていなかったから酒場に顔を出したのだろうか。 だとしても、この後仕事に出かけるかもしれないのに、こんなふうにガブガブ酒を飲むだろうか。 あるいは何かの都合でアンタレスが来られなくなったから、今夜の仕事は中止、ということに決まったのか。 そこにアンタレスのいないことが、今夜はいつになく落ち着き悪く思えて、アルクトゥールスは仏頂面でヴェガの席に近づいた。 「よう、ヴェガ、ずいぶん腰を落ち着けていいペースで飲んでるようだが、アンタレスはどうした? 今夜は中止か?」 アルクトゥールスを見るとヴェガは急いで飲み友達を追い払い、席を勧めながら言った。 「さあなあ。 俺はいつものとおり約束の場所に行ったんだが、刻限になっても、おまえも来ないしアンタレスも来ないから、ああ、それじゃきっと、また、俺をのけ者にしてふたりで何か始めることに決めたんだなと思って、むしゃくしゃするから気晴らしにここに来てみたのよ。 おふたりさんがうーんと仲良しで俺を邪魔に思ってるのは知ってるけど、仕事が中止になったことくらいは教えてくれてもいいのに、って、ぷりぷりしながらね。 そうしたら、さっきゾーハルに聞いたんだけど、アンタレスのやつ、どうやらリュキア軍に引き抜かれたみたいじゃないの。 おまえ、知ってた? 2,3日前、軍のりっぱな偉そうなやつと一緒にここで飲んでたんだって。 軍に来るとか来ないとか、大喧嘩してたって話だよ。 喧嘩ったって、ほら、バルドーラ同士の喧嘩なんて俺らの値引き交渉と一緒だもん、アンタレスのやつ、きっと自分の腕を売り込もうと張り切って大立ち回りしやがったんだろう。 それが功を奏してかどうか、あいつめでたく就職が決まったようだぞ。 和気あいあい、みんなで一緒にここを出て行った、ってさ。 ふん、アンタレスも今や天下のリュキア軍の戦士さまだ。 俺たちのような、いんちき手品師やこそ泥と組んで仕事をするなんて、馬鹿らしくなったのかもね。 今までさんざん世話になったおまえにも俺にも一言のあいさつもなしだよ。 まあ、あいつらしいって言えばあいつらしいけどさ。 俺らもまた別の兵隊をさがさないといけないなあ」
2011.02.10
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アルクトゥールスは、渋面を作って、ちぇっ、と舌打ちした。 「ばかやろう、知ってて買うわけがねえだろ、そんなもの。 おまえにだまされて、買わされちまったんじゃねえか。 まったく、それを知った時には、情けなくて、お前なんぞぶち殺してやりたくなったよ。 ・・・だが、それはもういい。 だまされた俺が阿呆だったんだ。 あの短刀を使って、料理でも何でも、好きなことをやればいいだろう。 だが、アルデバラン、その、よそんちの台所で修行、ってのは感心できねえぞ。 それじゃおまえ、ていのいい召使いじゃねえか。 そんな酔狂なまねを、いくら好きだからって、おまえにさせるわけにはいかねえ。 たとえ面白半分でも、召使いの真似なんぞしたら、おまえの体には、くさい召使の匂いが染み付いちまうんだ。 『うちのボス、もとは召使いだった』そんな噂が手下どもの間に広まってみろ、ボスの沽券に関わるってもんじゃねえか。 料理が好きなら、うちの台所で、いくらでも、好きなだけやれ。 だが、外ではそんなことは口に出すな」 アルデバランが、頭を振って言った。 「違うんだよ、兄ちゃん。 召使いだって恥ずかしくないりっぱな仕事だけど、料理人の修行をするのは、それとはまた違うんだ。 毎日兄ちゃんの食事を作るのとも違う。 ねえ、兄ちゃん、いつかカペラが、だんなさまにいただいたんだと言って、すごく手の込んだ奇麗なお菓子を持ってきてくれたことがあったろ? 兄ちゃんはあのお菓子を見てどう思った? 俺はあの時、すごく感動したんだ。 見ただけで人を幸福にさせるようなお菓子。 一口食べたら夢見心地になるような料理。 そういうのを、俺もこの手で作って、人に食べさせたい、って、あのとき思ったんだよ。 だから俺、さっきカペラに頼んだんだ。 あのお菓子を作った料理人の弟子になりたいから、あの人の下で修行させてもらえるかどうか、聞いてみてくれないか、って。 そうしたらね・・・」 アルクトゥールスは、うんざりしてアルデバランの話をさえぎった。 「その菓子なら覚えてるよ。 確かにうまかった。 確かに王さまになったような気分がした。 おまえの言うとおり、ああいうのは確かに、人をうんと贅沢な気分にさせる特別な食い物だということは認めよう。 しかし、あんなものは、金があれば毎日だって食えるんだぜ。 毎日食えば、特別な食い物でもなんでもない。 一番大事なのは、金がある、ってことだ。 ああいうものが好きなら、金持ちになって、その料理人を雇って、うちの台所で毎日作らせりゃいいだろう。 どうしてそう考えないのかなあ。 まして、そのために召使いの真似をして人にこき使われるなんて、アルデバラン、おまえにはぜんぜん似あわねえよ。 おまえはカペラとは違うんだ。 おまえがにっこり笑いかければ、どんなやつだって心とろかしておまえに従わずにはいられなくなる、せっかくそんな才能と風采を持って生まれてきたのに、その才能を生かすことを考えろよ。 召使いになるなんて馬鹿なことを考えるひまがあったら、早く一人前の大人になれ。 さもねえと、砂漠に出てから人になめられて泣くことになるぞ」 アルデバランが涙を浮かべて椅子から立ち上がった。 「だから俺、盗賊団になんかなりたくないんだってば! 俺は腕のいい料理人になることに一生を捧げたいんだ! どうして兄ちゃんは、そう盗賊団にばかりこだわるの?」 アルクトゥールスは、ことさらのようにそれを無視して立ち上がり、服を着換え始めた。 「さて、そろそろ仕事に行く時間だ。 おまえがあのろくでもない召使い野郎に俺の金を恵んじまった分だけ、俺はまた、命を張って稼がなきゃならねえ。 『おまえの』盗賊団のためにな」 とうとうアルデバランが泣き出した。 「『俺の』盗賊団なら、俺の好きにさせてくれよ! 俺の盗賊団は、今すぐ解散だ! 砂漠になんか行かせないぞ! 盗賊団のための軍資金なんか、全部カペラにくれてやる!」 アルクトゥールスは、耳をふさぎたい衝動をこらえながら黙って服を着替え、最後にもういちどアルデバランを振り返って言った。 「アルデバラン、おまえは盗賊団を作ってそのボスになるんだ。 俺はそのためにおまえを育てた。 召使いになることは絶対許さねえ。 さっきの金はカペラにくれてやる。 返さなくていい。 そのかわりおまえも、召使いになることはあきらめるんだ」 一方的にそう言うと、アルクトゥールスはさっさと家を後にした。 「兄ちゃん、どうして俺の話を聞いてくれないんだ! まだ話は終わっていないのに!」 背中にアルデバランの泣き声が追いすがったが、アルクトゥールスはもう取り合わなかった。
2011.02.09
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倒れたアルクトゥールスを、アルデバランがあわてて助け起こそうと手を伸ばした。 「兄ちゃん、カペラはそんないい加減なやつじゃないよ。 それでも、兄ちゃんがどうしてもカペラを信用できないというなら、お金は、俺が働いて返すよ」 アルデバランの、この無邪気な言い草を聞くと、アルクトゥールスは、立ち上がることも忘れてげらげら笑い出した。 「笑わすんじゃねえ、おまえが働いて、あんな大金を返す? アルデバラン、おまえはちょっと思い違いをしてやしねえか? 兄ちゃんがいつも一晩で大金を稼いでくるからって、金は簡単に手に入るものだなんて思ってるんじゃねえだろうな? 言っとくが、金を稼ぐのは簡単なこっちゃねえぞ。 おまえにも、兄ちゃんと同じくらい金が稼げると思ってるんだったら、おお、いっぺん一人で働いてみるがいいや! おまえの腕がどんだけのもんか、自分で確かめてみりゃいい! けっ、冗談じゃねえよ、まだ赤ん坊同然のくせに、いっぱしの大口たたきやがって。 兄ちゃんの金を、そこらのろくでなしどもにばら撒くしか能がないくせに、口ばかり達者になりやがる!」 アルデバランもさすがに悔しそうに顔をゆがめて黙り込んだが、すぐに顔を上げ、まっすぐにアルクトゥールスの目を見て答えた。 「・・・兄ちゃんほどには稼げないよ。 今すぐにはね」 アルデバランの真剣な表情に、アルクトゥールスはふと首を傾げて考え込んだ。 こいつは、本気で、自分ひとりで仕事をしようと考えているのか? 俺とは組みたくない、と? 椅子に腰を下ろしたアルデバランが、思いつめたような表情で兄を見る。 「兄ちゃん、俺ね、実は料理人になりたいんだよ」 アルクトゥールスは、アルデバランの見当はずれな言葉がすぐには理解できず、目をしばたたきながら床から立ち上がり、へぇ?と、間の抜けた声を出した。 アルデバランが、アルクトゥールスを見上げてうなずく。 「そう、料理人だよ。 兄ちゃん、知ってる? たとえばカペラの勤めているような大きなお邸では、自分で自分の食うものを作ったりしないんだよ。 専門の料理人を、何人も雇っているんだ。 大勢のお客さんたちがしょっちゅう集まるからね。 そして、料理人たちに、毎日いろいろな、珍しい、手の込んだ料理を作らせるんだ。 料理人たちは、お客さんたちを驚かせたり喜ばせたりするために、腕を磨いて、一年365日、朝から晩まで、料理のことばかり考えているんだって。 腕が上がれば給料も上がって、なかには、別の、もっと大きなお邸から、桁外れな高給で引き抜かれていくような料理人もめずらしくないそうだよ! ねえ、すごいよね!」 それでもアルクトゥールスには、アルデバランの言っていることがよくわからない。 「へぇ、一日中料理を作っていたいの? おまえも変わりもんだなぁ、アルデバラン。 それじゃこの前買ってくれと言っていたあの短刀は、料理用の包丁だったのか。 ・・・うむ、そりゃ、料理はうまいにこしたことはねえが、おまえの料理の腕は、今も天下一品だぜ。 これ以上の修行なんて必要ねえだろ」 アルデバランが目を丸くして叫んだ。 「兄ちゃん・・・! それじゃ兄ちゃんは、あの短刀が、料理用の包丁だって、知ってたの?! 知ってて、買ってくれたの?!」
2011.02.08
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アルクトゥールスは、大きく息を吸い込むと、くるりとアルデバランに向き直って、その邪気のない顔を思い切りどやしつけた。 「アルデバラン、いったいおまえはどういう頭をしてやがるんだ! どうしておまえがあの馬鹿の失敗まで始末をつけてやらなきゃならねえんだよ! そのうえに、メシを食わして帰してやった、だと? まったく、念の入った大間抜けだ、話にならねえよ! いいか、アルデバラン、俺がいつでもおまえにせがまれるままに小遣いをやるからって、これは自分の金だなんて思うなよ。 これは、兄ちゃんの金だ。 兄ちゃんが、危ない思いをして、命を張って稼いだ金だぞ! 俺はたしかにおまえに盗みを教えた。 だが、兄ちゃんから盗めなんていわなかったぞ!」 アルデバランの顔から、ふっと笑みが消えた。 足もとに目を落して、アルデバランがもごもごと言う。 「・・・黙って持ち出したりしてごめん。 でも、兄ちゃんはカペラを嫌っているし、それに、このところずっと俺に腹立てていて、口もきいてくれなかったから、今日はいくら頼んでもお金はもらえないと思ったんだ。 それを説得するだけの時間もなかったし・・・」 「だから盗むのか! 盗むのなら、俺の金じゃなくて、よそでちゃんと稼いできてみろってんだよ! おまえにそれだけの腕と度胸があるか?」 怒鳴りながらアルデバランの胸倉をつかみあげたが、背が低いので、まるで、大きなアルデバランにぶら下がったみたいな格好になった。 アルデバランが、そのアルクトゥールスの顔を、悲しげに見下ろす。 「盗んだんじゃないよ。 ちょっとの間だけ、貸して欲しかったんだ。 あのお金はカペラにやっちゃったわけじゃないし、カペラも、給料をもらったら必ず返すと言っていたよ」 かっとして、アルクトゥールスは思わず弟の顔を殴りつけた。 「だからおまえは大間抜けだというんだ! あんなのらくら野郎の言う事を真に受ける馬鹿がいるかよ! だいたい、給料をもらったら返すなんて言い草は、おかしくって腹の皮がよじれるぜ! カペラは、あんな大金を給料から返せるような高給取りか? あいつには初めっから返す気なんかねえんだよ! だからそういう大口が平気でたたけるんだ!」 アルデバランが、殴られた頬を押さえて言い返した。 「いっぺんに帰せなくたって、すこしずつ返せばいいだろ? 兄ちゃんは何も今すぐあのお金を使うわけじゃないんだ。 兄ちゃんが盗賊団をつくるまでには100回も返せるさ!」 アルクトゥールスは、耳まで真っ赤になって、アルデバランの髪の毛を引っつかみ、その顔や頭を、何度も何度も、力まかせに殴りつけた。 「兄ちゃんの盗賊団じゃねえ! アルデバラン、おまえがボスになるんだから、おまえの盗賊団だ! 何度言ったらわかるんだよ!」 悔しさと情けなさとで、くらくら、めまいがした。 こんなふうに弟を殴るのは、生まれて初めてだった。 それが悲しくて、アルクトゥールスは、ぽろぽろ涙をこぼしながら、それでもアルデバランを殴り続けた。 「いいか、アルデバラン、カペラのような大嘘つきは、給料を、たとえ100回もらったって、1000回もらったって、それを借金の返済に充てようなんて考えやしないんだ。 お前のやったことは、俺の命を削って稼いだ金を、どぶに捨てたも同然だ、いや、あんなとうへんぼくに恵んでやるくらいなら、どぶに捨てたほうがマシだっ!」 アルデバランは顔をしかめながら黙って兄に殴られていたが、やがて、とうとう辛抱できなくなってアルクトゥールスの体を押しのけた。 するとアルクトゥールスは、アルデバランに軽く押されただけで大きく足をよろめかせ、床に倒れこんだ。 アルデバラン、いつのまにか、驚くばかりの力持ちになっていた。
2011.02.07
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アルデバランの声が楽しそうにはずんで、時折、屈託のない笑い声が響いてくる。 聞くともなくその声に聞き入っていると、やがて客は帰って行ったらしく、部屋に戻ってきたアルデバランが、ふと顔を上げて、ベッドに起き上がった兄を見た。 その顔には、たった今まで友達とおしゃべりをしていたはじけるような笑みが、まだ残っている。 ひさしぶりのアルデバランの笑顔 ――― アルクトゥールスは、冷たく沈んでいた自分の心までなごむような気がして、我知らず口もとが緩むのをおぼえながら言った。 「今聞こえてた、うすらまぬけなあの声は、確か、カペラとかいうやつだったよな」 アルデバランも、楽しそうにうなずいて応じた。 「うん、そうだよ。 ふふ、カペラのやつ、相変わらずだ。 今日も、フリゲートのだんなさまに大切なお使いを言いつかったんだけど、マルシリオの店に行く途中、その預かったお金を落としちゃって、歩いてきた道をずっと探してるんだけど、どうしても見つからないんだって、泣きべそかきながらうちに来たんだよ」 アルクトゥールスも苦笑して、煙草に手を伸ばし、ふと、その手を止めた。 「・・・アルデバラン、おまえ、ひょっとして、まさか、その金をカペラに都合してやったんじゃあるまいな?」 アルデバランはけろりとした顔でうなずいた。 「貸してやったよ、もちろん」 アルクトゥールスは青くなって、手にした煙草を放り出し、金袋の入った引き出しに吹っ飛んで行った。 引き出しを開け、震える手で金袋の中を確かめる。 金袋の中からは、アルクトゥールスの稼ぎのほぼひと月分にも当たる金が消え失せていた。 呆然と息を飲んだアルクトゥールスの後ろで、アルデバランが、悪びれた様子もなく、とくとくとしゃべり続けている。 「カペラも俺と同じで体が大きいもんだから大食いで、お邸のお台所で出してくれる食事だけじゃ足りなくて、給料はみんな食い物に化けちまうんだって。 それでもまだ、いつも、腹減った腹減った、ってこぼしてる。 かわいそうだから、今、うちの夕飯を半分食わしてやったんだよ。 やっと人心地ついた、って、元気になって帰って行った」 こみ上げてくる怒りに、体中の血が逆流し始めた。 アルデバランにはいつも、十分すぎるほど小遣いを与えていたはずだ。 それでもアルデバランは、その小遣いを全部仲間に恵んでやってしまうのでいつも文無し。 金が欲しくなると、必ず、世にも申し訳なさそうな顔をして、素直に小遣いをねだるやつだった。 そして俺は、一度でも、アルデバランにねだられたその小遣いを、出し惜しみしたことがあったか? また悪餓鬼どもにだまされてやがる、と思っても、目をつぶって、いつでも、アルデバランが欲しがるだけの小遣いをやっていたじゃないか。 それを、俺が眠っているのをいいことに、黙って金庫から金を持ち出すとは、どういう了見なんだ?! しかも、その使い道が、あの、でくのぼうのカペラの、ドジの尻拭いのため、とは!
2011.02.06
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不意にそのことを悟ると、怒りと、情けなさとが、同時にこみ上げてきた。 これ以上アルデバランの言い分を聞きたくはなかった。 アルクトゥールスは混乱のあまり言うべき言葉を失い、そして、アルデバランに厳しい声で命じた。 「アルデバラン、おまえには何もわかっちゃいねえ。 俺たちは砂漠の盗賊団を作って世界中の盗賊という盗賊をこの手で仕切るんだ。 おまえも、俺も、そのために生まれてきた。 少なくとも俺はそのつもりでおまえを育ててきた。 つまらねえ世迷言は、もうおしまいにしろ。 二度と蒸し返すな」 言い置いて、アルクトゥールスは玄関のドアを開けた。 背中に、アルデバランの、低い、しかし一歩も後へは引かぬ硬い声が容赦なく突き刺さる。 「いやだ。 俺は絶対盗賊になんかならない」 アルクトゥールスは、胸も張り裂ける思いでその悲しい言葉を聞き、そして、聞こえなかったふりをした。* * * アルクトゥールスは、このアルデバランの頑固さにすっかり腹を立て、その日はずっと、黙りこくってそっぽを向いたまま過ごした。 アルデバランも、そんなアルクトゥールスに声をかけようとはしなかった。 目を合わせることさえ注意深く避けていた。 こうしてふたりは、次の日も、その次の日も、押し黙ったまま、まるでそこに相手が存在しないように、無視しあったまま過ごした。 アルクトゥールスは、弟がこんなふうに意地を張って、むっつり押し黙ったままでいるのを見るのは初めてだった。 来る日も来る日も、アルデバランは不機嫌な横顔しか見せてくれない。 自分もまた、正面から弟の顔を見ることはなく、ときおりふとその沈み込んだ悲しげな後姿に目を走らせるだけ。 アルクトゥールスにとっては耐え難い苦痛の日々だったが、それでも、今度という今度は一歩も譲らない覚悟を決めていた。 盗賊団を作るか作らないか、そんなことよりも、アルデバランが本物の意気地なしだったことが、悔しかった。 その度胸もないくせに、兄に対してはこんな風に意地を張る、その根性が情けなかった。 今、もし甘い顔を見せたら、アルデバランは図にのって己のわがままを押し通し、ついにはアルクトゥールス自身も、ずるずるとアルデバランに引きずられて、一生、この狭苦しく居心地の悪い、牢獄のような国から脱出する機会を失ってしまうだろう。 それを考えるのは、ほかの何よりも厭わしく恐ろしかった。 重苦しい霧がずっしりと全身に絡み付いて身動きが取れなくなったような、この気まずい沈黙のうちにのろのろと日は過ぎ、また、迷宮に行く日がめぐってきた。 その日も一日中不貞寝を決め込んでいたアルクトゥールスは、夕方になって、アルデバランの話し声で目を覚ました。 長年にわたって耳になじんだ、その明るい声が、むやみになつかしく心地よく感じられて、アルクトゥールスはしばらくの間、毛布に包まったままぼうっとその声に聞き入り、それから、のそのそと毛布から這い出して部屋の中を見回した。 部屋の中には誰もいなかった。 どうやらアルデバランは、訪ねて来た友達と玄関先で話し込んでいるようだ。 テーブルの上には食事の支度が、アルクトゥールスの分だけ、ひんやりと並んでいる。 その光景がまた、アルクトゥールスをみじめな気持ちにさせた。
2011.02.05
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アルクトゥールスは肩をすくめ、意地悪く笑って答えた。 「兄ちゃんが、死んじまったら、か? うん、そうだな、おまえひとりでは、盗賊団はちょっと難しいかもしれねえな。 おまえはお人よしだからな。 逆に、兄ちゃんの稼いだ金を、かたっぱしから、砂漠の旅人どもに恵んで回るか?」 アルデバランが、真っ赤になって、つかんだアルクトゥールスの手をぐいと乱暴に引っぱった。 「ふざけるなよ! 兄ちゃん、俺はまじめな話をしてるんだ!」 「俺だって真面目さ。 おまえがなんと言おうと、俺はまだ当分はこの仕事を続ける。 充分な金が貯まるまでは」 そう言って、アルクトゥールスはアルデバランの手を振りほどき、ベッドの枕元にかけてあったジョギング用の軽い上着に手を伸ばした。 「さて、それじゃ俺は、体力づくりのためのジョギングに行ってくるから。 おまえもどこかに遊びに行けば?」 アルデバランは返事もせずに、今にも噛み付きそうな形相でアルクトゥールスが着替えるのを睨みつけていたが、やがて、着替えを終えて玄関に向かって歩き出した兄の背中に、ぼそりと低く声をかけた。 「・・・兄ちゃん、俺は、兄ちゃんが迷宮の呪いを解くためにがんばってると思ったから、兄ちゃんの手伝いをしたいと言ったけど、盗賊団なんか始めるなら、俺、その手伝いはしないよ」 玄関のドアに伸ばした手を止めて、アルクトゥールスはちょっと考え込み、それから、ぱっとアルデバランを振り返った。 「アルデバラン、いま、なんて言った?!」 アルデバランは、さっきと同じ姿勢で、腕組みをしたままじっとアルクトゥールスを睨んでいた。 「俺は、兄ちゃんの盗賊団には入らない、そう言ったんだよ」 アルクトゥールスは天井を見上げてちょっと考え込み、それから、頭をかいて、へっへっへ、と笑った。 「おいおい、そうむきになるもんじゃねえよ。 な、ふざけた兄ちゃんが悪かった。 ごめんな。 おまえは剣も習わなくていいし、別になんにもしなくていいんだ。 ただ、今と同じようににこにこ笑っていてさえくれれば、どんなやつだっておまえに気を許して、逆らおうなんて気は起こさない、それで充分なんだよ、うん。 実際の采配は俺が振るえばいいんだし、荒っぽい仕事はアンタレスに任せよう。 だから、そうすねないで、機嫌を直してくれよ。 俺、他には何にも怖いものはないけど、おまえの、そういうふくれっつらを見るのが一番つらいんだ。 な、もう二度とおまえの話を茶化したりしないから、真面目に話をしよう」 が、アルデバランの固い表情は少しも緩むことはなかった。 「俺は別にすねてもふくれてもいないよ。 はじめからずっと真面目に話をしてるよ。 兄ちゃん、俺、兄ちゃんに逆らう気はないけど、盗賊になるなんて、いやなんだ。 本当に、やりたくないんだよ。 だから兄ちゃんも、俺のために、もう一度、考え直してくれよ。 盗賊団になんかなるのは止めて、ここで、好きな仕事をしながら、いつまでも仲良く暮らそうよ。 そのほうがずっと・・・」 なんてこった! この根性なしは、本気で俺を、このいまいましい鳥かごみたいな、狭い城壁の中に一生閉じ込めて、つまらない人生を送らせたがっているのか!
2011.02.04
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次の日の朝アルデバランは、何か考え込むようにずっと黙り込んだまま家の仕事をしていたが、向き合って朝食の席に着いたとき、ようやく顔をあげてアルクトゥールスを見た。 「・・・兄ちゃん、」 「なんだよ」 たずね返したきりもくもくと食事を続けるアルクトゥールスを、アルデバランは、思いあぐねるようにじっと見つめ、それから言った。 「兄ちゃん、ゆうべ、俺に話がある、って、言ったよね」 食事を続けながら、アルクトゥールスはちょっと笑って答えた。 「ああ、あれならもういいんだ。 別にたいした話じゃねえよ」 するとアルデバランはまた、うつむいて黙り込み、スプーンの先でスープの中のじゃがいもをつついていたが、しばらくしてまた、口を開いた。 「・・・今度はいつ、迷宮に行くの?」 「3日後。 言っとくけどお前は連れて行かねえぞ」 答えたアルクトゥールスをちょっと見て、アルデバランがスプーンを置いた。 「兄ちゃんが危険な迷宮に行くのは、ただ自分の金が欲しいからか? この国にかけられた呪いを解いてみんなを幸せにするためじゃなくて?」 アルクトゥールスは苦笑して頭を振った。 「何を夢みたいなこと言ってやがる。 呪いを解くだの、みんなの幸せだの、そんな世迷言、俺には関係ねえだろ。 あの迷宮の中には無尽蔵のお宝が眠ってる。 多少の危険を冒しても、盗掘に入り込んで行くだけの価値はあるのよ。 ・・・さて、じゃ今日も、体力づくりのためのジョギングに行ってくるか」 ごちそうさま、とナプキンを置いて立ち上がろうとしたアルクトゥールスの手を、アルデバランがぐいとつかんだ。 「兄ちゃん、まだ話は終わっていないよ!」 アルデバランの手の力の、思いがけない強さに、アルクトゥールスは目を白黒させながら、また椅子に腰を下ろした。 「な、なんだよ?!」 アルデバランの表情は、今まで一度も見たことがないくらい、おそろしいほど真剣だ。 「・・・兄ちゃんが、そんなに金を欲しがるのは、盗賊団を作るためか?」 アルクトゥールスは目をぱちくりさせてうなずいた。 「そうだよ。 だから、初めからそう言ってるだろ? 今ごろなにを言い出すんだ」 アルクトゥールスの手を?んだアルデバランの手が、わなわなと細かく震えている。 「だったら、盗賊団なんか作るのはよせよ! そうしたら金なんかいらないだろ? 迷宮なんか行かずにすむだろ? そんな危ない仕事を続けて、兄ちゃんの身にもしものことがあったらどうするんだよ! そういうこと、考えてくれないのか!」 それは、アルデバランには決して言ってほしくない言葉だった。 金はいらない。 危ないことはするな。 次に言い出すこともわかっている。 貧しくていい、額に汗して真面目に働け。 パピトはパピトらしく、地に足をつけた暮らしをしろ、だ。 ちまちまと。 あくせくと。 ・・・うんざりだ!
2011.02.03
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目を覚ましたのは、夜明け前、東の空がうっすらと青く染まり始めるころだった。 つけっぱなしで眠ってしまった枕もとのランプが、ちりちりとかすかな音を立てて燃えている。 その明かりの向こうの、テーブルの上には、すっかり冷たくなった夕食が、まだ並んだままだ。 アルクトゥールスはのろのろと起き上がり、テーブルの上に手を伸ばして、コップの水を一気に飲み干した。 向こうのベッドでは、アルデバランが穏やかな寝息をたてている。 枕もとの煙草に手を伸ばし、火をつけた。 いがらっぽさに少し咳き込んでから、今度は大きく煙を吸い込み、また、ベッドにごろりとひっくり返る。 ふーっと大きく煙を吐き出して、天井のしみをぼんやりと見ていると、そのしみに、アルデバランの泣きべそが重なって浮かび上がってきた。 ―――『兄ちゃん、しっかりして! 死んじゃいやだ!』 ゆうべあいつはそう叫んで、俺にすがりついて泣いた。 ゆらゆらとゆれて、消えかけたランプの向こう、アルデバランのベッドの上で、大きな毛布のかたまりが、規則正しい寝息に合わせて、かすかに上下している。 「・・・アルデバラン、俺は、間違っていたのかな」 声に出して、そうつぶやいてみた。 「おまえが、俺をだますはず、ないよな。 アンタレスの言うとおり、俺があんまり強引に話を進めようとしたから、おまえは本当のことが言えなくなってしまったんだよな。 俺を悲しませたくなかった、それだけだったんだよな」 可愛いアルデバラン、だとしたらおまえはそのことで、一人でどんなにか悩んだことだろう。 俺があの短刀を武器だと思い込んではしゃぐのを見て、どんなにか心を痛めたことだろう。 優しすぎるほど心の優しいおまえが、平気でそれを見ていられたはずはないんだから。 ごろりと寝返りを打って、アルクトゥールスは煙草の火をもみ消した。 もうアルデバランに、剣術を習えなんて言うのはやめよう。 何も剣術なんかできなくたって盗賊はできるんだから。 実際この俺は剣術のけの字も知らないし、アルデバランよりはるかに虚弱な体だが、あの迷宮の盗掘稼業で稼ぎまくっている。 剣を振り回すのなんか、できるやつに任せておいたほうがいいのだ。 たとえばアンタレスのような凄腕の剣士に。 そう考えて、アルクトゥールスは、不意に大きく目を見開いた。 ――― だったら、そのアンタレスを、俺とアルデバランの盗賊団に入るように誘えばいいんじゃないか! パピト族と、バルドーラ族の、混成盗賊団だ! そうすれば俺たちは、小ずるくて逃げ回るのばかりがうまいパピト族の盗賊団ばかりでなく、荒っぽくて規模の大きいバルドーラ族の盗賊団までも次々と手中に収めて、限りなく強大に膨れ上がり、バルドーラの軍隊だって蹴散らして爆走する、それこそ世界一の大盗賊団になれる! この新しい思いつきに、アルクトゥールスの胸はまた、大きく高鳴り始めた。
2011.02.02
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困惑したようにアルクトゥールスを見下ろしていたアンタレスが、やがて、静かな声で言った。 「アルクトゥールス、どういう目論見があるのかしらないが、おまえ、弟に強引に剣術を習わせようとしたんだろう? おまえにそのつもりがなかったとしても、弟はそう感じたかもしれないぞ。 だから、本当のことが言えなくなってしまったんだろう。 そんなに弟を責めてはかわいそうだ。 むしろ、喜んでやるべきじゃないのか? おまえの弟は、自分で、自分の進むべき道を見出したんだ。 もう子どもじゃない」 そんなふうに言われると、ますます情けなく、腹立たしくなった。 「喜んでやれ、だと?! 冗談じゃねえよ! アルデバランは、まだまだ、意気地なしの、赤ん坊だ! もっともっと強くならなきゃいけねえんだ! でねえと、人に馬鹿にされるだけで一生を終わっちまうんだよ! アンタレス、おまえのような、生まれつき強くて誰にも負けたことのないような幸運なやつに、アルデバランの何がわかるってんだ! もうほっといてくれ!」 叫んで、アルクトゥールスは、自分の腕をつかんでいるアンタレスの手に思い切り噛みついた。 痛てっ!と、アンタレスが悲鳴をあげて飛び上がった隙に、アルクトゥールスはその手を振りほどき、一目散に酒場から逃げ出した。 泣きながら走った。 人けのない大通りから、明かりの消えた真っ暗な広小路へ。 迷路のような街並みを、走って、走って、何度もつまづき、何度も転びながら、ただがむしゃらに走った。 いくら走っても、渦を巻き、猛り立つ感情の嵐は少しもおさまらなかった。 やがて涙も枯れ、あたたかい明かりの灯った家にたどり着くころには、もう、疲れ果てて、アルデバランを怒鳴りつけるどころか、ただいまの声も出なかった。 家に駆け込むなり、服のままベッドに倒れこんだアルクトゥールスに、アルデバランが青くなって駆けつけてきた。 「兄ちゃん! どうしたの?! 今日は仕事じゃないと言ってたのに、迷宮に行ったの?! また、どこかに怪我をしたの? しっかりして、兄ちゃん! 死んじゃいやだ!」 やっとの思いで目を開けると、アルクトゥールスの腕にひしとしがみついたアルデバランの、子どものような泣きべそが、そこにあった。 赤ん坊の時のままの、泣き顔だった。 深いため息をひとつついて、アルクトゥールスは、アルデバランの髪の毛を引っつかみ、歯をむき出して見せた。 「・・・アルデバラン、おまえに、話がある」 それだけ言うのがやっとだった。 目を閉じると同時にアルクトゥールスは眠りに落ち、グーグー大いびきをかき始めた。
2011.02.01
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