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台湾の民生局長だった後藤新平が勝海舟から聞いた話として、博士はこういう逸話を挙げている。後藤は元来は医者だったので、勝は「君は医学生だから首の筋肉作用ぐらいは知ってるだろうね。しかし知らないやつが多いよ。首を横や縦に動かすことは知っておるがね。何か起こったときに、ちょいと首を伸ばして向こうを見通すことができない者が多い」といったということである。眼先のことにやけにならないで首を伸ばしてみろ。そうすると先が見えてくることもあるよと勝は後藤に教えているのである。「運命を高めて生きる」 渡部昇一 致知出版社
2013年01月31日
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現代人の意気は確かに弛緩しています。強烈な色彩、雑然たる騒音、間断ない労役、生計の不安、近代文明が齎(もたら)したあらゆるそれらのもののために、神経の末梢は絶えず刺激されて、始終ピクピクしている結果、容易に恢復できない暗い疲労が生じています。そして表面は非常に感覚が鋭敏なように見えてはいるが、その実精神は甚だしく弱ってきて、もはや言うことを聞かないようになっています。見かけるところ誰の瞳も散乱しています。街を行くすべての足どりが踉蹌ととしています。これうちに不動心の確立せざる証拠です。従って、その言う所なす所少しもとりとめがない。書を観ても、画を観ても、毫も風神の躍動がない。音楽を聞いても廃頽的です。うちに安んずる所なければ人はおのずから荒むのであります。「政治と改革」 安岡正篤 明徳出版社
2013年01月30日
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愛の共同世界が崩れ去ってしまった。その途端、闇は残された者の心の世界に侵入し、これを真黒に塗りつぶしてしまう。しかしやき場で骨を拾うとき、骨壷をかかえて帰るとき、墓の前にたたずむとき、愛する者の存在がただそこにあるものだけになってしまったとはどうしても思えない。残された者の心は故人の姿を求めて、理性とは無関係にあてどもなく、宇宙のはてばてまで捜しまわる。今にも姿がつかまえられそうな、声がききとれそうな、そのぎりぎりのところまで行って空しく戻ってくるくやしさ。そのかなしみは人の心をさまざまな迷路に追いやって来た。「生きがいについて」 神谷美恵子 みすず書房
2013年01月29日
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すべてが満ち足りていた人に不幸が訪れた例はたくさんあります。今、幸福であるからといって思い上がるべきではありませんし、今は裕福でも近い将来そうでなくなるかもしれない時に、人の裕福さを褒め称えるべきでもありません。将来は分かりません。本当にさまざまな事が起こり得るのです。神から一生ずっと幸せだと約束されたのでない限り、幸せであるということはできません。「まぐれ」 ナシーム・ニコラス・タレブ ダイヤモンド社
2013年01月28日
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「頭がいい」ということは、教育学的にも心理学的にも問題解決能力があるということである。問題解決能力とは、「過去に経験したことがないか、あるいは過去に経験したことがないと自覚している事柄にたいして、どのように素早く、どのように正確に対応できるかという能力」のことである。大学を出ても頭の悪い人はいる。頭が悪い人が頭が悪いと思っていない時、組織の混乱が起こる。そして、学歴でその人たちを管理職にしてしまうと、起こるのは悲劇である。「やる気を科学する」 田中誠一 THE-SENKEN-KEIZAI
2013年01月25日
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天下の職は相(しやう)を擇ぶより重きはなし。宰相の職は賢を用ふるより重きはなし。然らば則ち何を以てか其の賢を知る。諸(これ)を人に詢(はか)れば則ち之を知る。其の行を察すれば則ち之を知る。舉ぐる所を觀れば則ち之を知る。夫れ室を爲(つく)つて而て衆工の資(たすけ)あらずんば、梓人(しじん:だいく)巧みと雖も室成る能はず。國家を爲(をさ)めて而て衆賢の集まりあらずんば、相臣・才ありと雖も國治まらず。彼(か)の相たる者誠に能く誠を開き、公を布(し)き、廓焉(からり)として我無く、己能くせざる有れば、能者を舉げて而て之を用ひ、己知らざる有れば、知者を舉げて而て之を用ひ、己敢言(思ひきつて言う)せざる有れば、敢言する者を舉げて而て之を用ふ。是の如くんば則ち彼の能くする所皆我が有なり。「為政三部書」 張養浩 明徳出版社
2013年01月24日
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儒教の考え方によってさまざまな基準が決められていく『地球村』においては、非儒教者の役割は非常に難しいものになる。一〇年か二〇年先に、漢字を使用する言語と根本的な儒教的伝統の理解をもたない個人が、今日の英語を知らず、また現代の西洋の価値観と流行を理解していない個人と同様に、国際的に非常に不利な立場に置かれていること意味するであろうか。自分たちのほうがまだ優れているという考えにとらわれている社会に対して、この現実に適応せよという圧力は、計り知れないものであるに違いない。多くの国が、国民的理解の寛容さ、政治的決断の深さ、制度的改変の巧みさを生み出して、効果的に対応するという事態は想像しがたい。しかしこれに代わるものといえば、富と影響力の衰退、ますます増える儒教世界の国からの技術、経営、融資への依存、そして「地球村」における二等村民の状態に甘んじることである。「儒教ルネッサンス」 レジ・リトル、ウォーレン・リード サイマル出版会
2013年01月23日
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「何かをする」を拒否する場合必ず「それをすればこうなる、こうなるとああなる」がはじまり、「結局こうなる」からやめよう、ということになる。これは国内問題にも国際問題にも現れており、「なるなる論」ではないかという目で点検していけば到る所にあると言ってよい。「なるなる論」を押し切って「する論」が勝ち、実際に着手した場合、成功もあるであろうが失敗もある。失敗した場合は「する論者」はその責任を追及される。だが一方、成功した場合「なる論者」は別に責任を追及されるわけではない。というのは「なる論者」は決して「する論者」に、「それをしてはならない」といって反対したわけでも妨害したわけでもないからである。そして「お前の言う通りにならなかったではないか」と言われれば「私はあの時点の客観情勢を前提に『こうなる』と予測しただけで、客観情勢が変化すればそうならなくて不思議ではない」といえば、客観情勢の変化はその人の責任ではないから、それで終わりである。従って「なるなる論」は、休養・休止願望期に於ける最も安易な無責任論的主張と言える。「一九九〇年の日本」 山本七平 福武書店
2013年01月22日
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数年前、経済同友会でありましたか、パリの有力財界人たちがウィーク・デーをどういう風に使っておるか、ということについて調査した。驚いたことにその殆んどが、ウィーク・デーの半分は自宅で夜を過ごしておる。つまり、家で晩餐を摂って、自分の自由時間にしておる訳です。そうしてその自由時間を何に使っておるかと言うと、ギリシャやローマの古典、或はフランスのモラリストの著書、といったものを専ら読んでおる。日本の財界人の大方が宴会と遊戯に使っておるのに較べると全く違う。これは大いに考えなければならぬ。「活学 第三編」 安岡正篤 関西師友協会
2013年01月21日
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病気というものは、どうも繰り返すものです。肉体は物質ですから、これに対して薬を与えたり、患部を切除すれば、その悪い部分はなくなる訳ですが、しかしまた別の部分に病気が起こってくる。こうなると、病気の起こる原因というものが、その部分にあるのではなく、もっと別の世界、別の次元にあって、それが肉体に投影してくるのが病気であると考えられる。たとえば、高血圧という病気は神経質で取り越し苦労する体質に起こる病気です。肝炎は頑固な人で抑圧された精神状態の時、ガンは怨みをもって抑圧されたときに一番発生しやすい。心のあり方、性格が病気をつくるのに大きな誘因になっている。そこで治療にかかる際に、どこに問題があるかと探っていくと、原因のわかった患者はその病気が治ってきた。しかし、治りたいという病気は絶対に治らない。治りたいという気持ちを完全になくした時に勝手に治っていく。「能力が目覚める瞬間」 中島孝志 ダイヤモンド社
2013年01月18日
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企業の生き残り策は損益分岐点を下げることである。収益力を挙げることである。そのためには、固定費を減らすべきである。損益分岐点が上がったのは固定費が増えたからである。損益分岐点を下げるためには固定費を下げるにかぎる。では固定費を下げるためにはいかにするべきか。設備を減らすか従業員をクビにするか。この両方を行うか。 設備投資をしまくって設備も増えた。減価償却費も増えた。生産力が向上したからとて、不況で売上高が落ちれば設備の一部はあそばせておくしかない。あそんでいる設備にもコストがかかる。設備を廃棄して固定費が減れば損益分岐点は下がる。収益力は高まる。これを「企業設備」のストック調整と呼ぶ。単に「設備調整」ともいう。「国民のための経済原論」 小室直樹 光文社
2013年01月17日
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人を得ては「事を任せて疑わず」任じたものを辱しめてはならぬ。その為にもよくよく人を用うるに吟味する必要がある。才と徳とを鑑識して、似而非者に欺かれぬことが大切である。世俗にいわゆる利根なもの、軽薄なもの、口が達者で非を飾るもの、世狎れて巧者なもの、学問あってかえって道理に暗いものなど、才に似てしかして非なるものの例である。徳に似て実は贋者にもいろいろある。無知で無欲に見えるもの、頭が悪く寡言なもの、重厚に見えて、実は埒明かぬ鈍なもの、温和に見えて懦弱なものなどその例である。功名心の盛んなものも油断がならぬ。人は功名心のために行跡を正しくすることもあるが根本が実でないから、終わりを全うすることができない。功名心の満たされるに従って、だんだん初めの行跡と相違していくものが多い。「経世琑言」 安岡正篤 明徳出版
2013年01月16日
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問題は、現政権が経済学の基本的な教え、すなわちサービス産業は資本家を支えるだけだという点を忘れたことに在る。労働力と機械を使って原料に付加価値を与える製造業こそ資本主義である。サービス産業の優先は資本主義でなく、物質的な富を生産しない。サービスの対象となる製造業がなければ、サービス産業は存在することさえできない。経済学のこの基本的な教義をなおざりにするならば、アメリカはいつまでも日本経済に従属し続けることになるだろう。「拝復 石原新太郎殿」 レオン・アンダーソン 飛鳥新社
2013年01月15日
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人間の精神が健康であるためには少なくとも三つの問題を反省しなければならない。その一つは、人生の意義である。自分の存在、生活に何らかの意味を覚えるという事ほど、人間の根本問題はない。その二は、人間は孤独、疎外に堪え難いということである。家庭、職場、その他の社会、とにかく自分の周囲から愛情や敬意や容認を得られなければならない。その三は、人間は自己の小さな自我の殻から解脱して、人生の少しでも高く、大いなる目的、理想、信仰というものに精進しなければならぬ。「おとなの学問」 伊藤肇 善本社
2013年01月11日
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売上とシェアを追い続ける拡大の時代は終わって、個性と独創性のある知恵で勝負する時代なのだから、その時代にふさわしいものに社内の組織や制度を改革して、有能な人材が思い切って能力を発揮できる体制を作らなければならない。しかも、売り上げが拡大しなくても、生存と再生産のための利益が見込めるような高収益体質の企業に変えなければならない。その為には、組織の無駄、仕事の無駄を徹底的に排除した合理的経営に徹することが必要になる。「コンピューター関連企業の高収益革命」 A・D・リトル編 ダイアモンド社
2013年01月10日
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人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。ちゅうちょして立ち止まっていては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んでみてはじめて知れるからだ。失敗は、その一歩の踏み込みだと思う。前進への足跡だと思う。「やりたいことをやれ」 本田宗一郎 PHP研究所
2013年01月09日
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吾日三二省吾身一。(吾れ日に吾が身を三省す) 三は三度に限ったことではない。常にとか、しばしばという意味です。但し問題は三ではなく省の字にある。誰もみなこれをかえりみると読んでおるが、これだけでは五十点。今一つははぶくという意味がある。しかし、かえりみ・はぶくと読むと煩わしいから、せいと音で読む。この省の字をつくづく味わってみると、かえりみてはぶくことの一番根源的なものは自己であるから、人間の存在そのもの、その生活、また政治にしろ、道徳にしろ、人間に関する一切はこの一省字に尽きると申して宜しい。「活学 第二編」 安岡正篤 関西師友協会
2013年01月08日
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「権威」とは、正統性(legitimacy)をつくることである。簡単にいうと、何が正しいか、何が正しくないか決定することをいう。父親の「権威」とは、本来、こういうものである。父親が、是非(ぜひ)善悪を決定する。これによって、父親の「権威」が生まれる。この父親の「権威」を機軸として「兄弟」のあいだの「連帯」(solidarity)が生じ、これによってはじめて、家庭も社会も成立する。これがないと、社会にはアノミー=無連帯が生ずる。規範(倫理)も何もかもなくなってしまう。これより恐ろしいことは考えられない。イスラム教においては、唯一絶対的人格神アラーの権威に結びつくことによって人びとのあいだに連帯が成立する。アラーの権威の前では、国王も大統領も大臣も庶民も、ただひとつの連帯で結ばれるのみである。儒教において、父親の権威がいかに重要なものか。これは、儒教発生の事情にてらしても明白である。父親の「権威」によって、「兄弟」のあいだの連帯は成立する。この連帯こそ、家族と社会の基礎である。この連帯を基礎として、社会の規範が生まれる。ゆえに、父親の権威がないことには、連帯も生まれる余地はなく、社会の規範も成立しえない。「親子関係は親分と子分だ」 小室直樹 KKベストセラーズ
2013年01月07日
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白隠の悟りに応えて正受老人は、願わくば汝が壽算わが年に到れ。必ず小を得て足れりとする勿れ。これより力めて悟後の修行を行ぜよ。小を得て足れりとするは声聞乗なり。もし汝悟後の修行を知らずんば、惜しむべし。小果の羅漢とならん。疥癬野干の身は受くるとも、二乗声聞の類となる勿れと。かくして積日悪辣の師、今日涕泣の翁となって袂を分かったのである。「東洋倫理学概論」 安岡正篤 関西師友協会
2013年01月04日
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