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僕等の発明した時間は生き物だ。 僕等はこれを殺す事も出来、生かす事も出来る。 過去と言い未来と言い、 僕等には思い出と希望の別名に過ぎず、 この生活感情の言わば 対称的な二方向を支えるものは、 僕等の発明した僕等自身の生に他ならず、 それを瞬間と呼んでいいかさえ僕等は知らぬ。 従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、 この奇妙な場所に、 僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。「小林秀雄全集 第五巻 ドストエフスキーの生活」 小林秀雄 新潮社
2018年01月31日
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日本語は題述関係の構造であって、 文法上主語は必要でないこと、 これを非論理的であるというのは、 主述関係の構造をとる言語に制約された アリストテレス以来の 形式論理学的な思考に基く偏見にすぎないこと、 記号論理学の発達によって、 命題函数には性質と関係の二つがあり、 主述関係の構造をとる欧米語の文法にしたがって それらをすべて性質に変換して理解するのは 無理であること、 その点、題述関係の構造をとる日本語の方が はるかに新しい論理学が示すところにかなっていること が指摘されている。 したがって、日本語の構造が 論理の発達を阻害すると考えるのは、 あきらかに誤まりである。.「日本人の発想」 神島二郎 講談社現代新書
2018年01月30日
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論理的エゴイストは 自分の判断を 他人の悟性にも照らして吟味してみることを、 無用とみなすものである。 まるで彼はこの試金石 (真理の外面的な標準 criterium veritatis externum)を 全然必要としないかのごとくである。「カントの人間学」 中島義道 講談社現代新書
2018年01月29日
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〈書き言葉〉の本質は、 書かれた言葉にはなく、 読むという行為にあるのである。 しかも、二重言語者は、 たんに外から伝来した巻物を 読めるようになるだけではない。 二重言語者が 外から伝来した巻物を 読めるようになったとき何がおこるか。 かれらは、実は、 その〈書き言葉)で書かれた(図書館〉へと 出入りできるようになるのである。 ここでいう〈図書館〉とは、 蓄積された書物の総体を抽象的に指す表現である。 建物のあるなしは問題としない。 戦争、火事、洪水、盗難、焚書など、 さまざまな歴史の荒波にもかかわらず、 人類にはなお残されたたくさんの書物があり、 その、たくさんの書物を 集めたものが(図書館)である。 外から伝来した 巻物を読めるようになることによって、 二重言語者は、その(図書館)への出入りが、 潜在的に、可能になる。 無文字文化が文字文化に転じるというのは、 すなわち、伝来した巻物を読める少数の 二重言語者が誕生するだけでなく、 それらの少数の二重言語者が、 そのような(図書館)に、潜在的に、 出入りできるようになるのを意味するのである。「日本語が亡びるとき」 水村 美苗 筑摩書房
2018年01月26日
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私達は生れた國の性格的なものを失ひ 個性的なものを失ひ、 もうこれ以上何を奪はれる心配があらう。 一時代前には前には 西洋的なものと東洋的なものとの争ひが 作家制作上重要な關心事となつてゐた、 彼らがまだ失ひ損つたものを持つてゐたと思へば、 私達はいつそさつぱりしたものではないか。 私達が故郷を失つた文學を抱いた、 靑春を失つた靑年達である事に間違ひはないが、 又私達はかういふ代償を拂つて、 今日やつと西洋文學の傅統的性格を 歪曲する事なく理解しはじめたのだ。 西洋文學は私達の手によつてはじめて 正當に忠實に輸入されはじめたのだ、 と言へると思ふ。 かういう時に、徒らに、日本精神だとか 東洋精神だとか言つてみても始りはしない。 何處を眺めてもそんなものは 見附かりはしないであらう、 又見附かる樣なものならば はじめから搜す價値もないものだらう。「小林秀雄全集 第三巻 文藝時評」 小林秀雄 新潮社
2018年01月25日
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どんなに不完全でも、 いやしくも自負心をもつすべての動物のなかで、 もっとも優秀なものや もっとも美しくて価値のあるようなものが、 ふつういちばん自負心を備えている、 ということにわれわれは気づく。 ちょうどそれと同じように、 動物のなかでもっとも完全な人間において、 自負心は(どんなに巧妙にそれを隠したり 偽ったりする方法を知ろうとも) 人間のまさに本質から切りはなすことができず、 それがないと、人間をつくりあげている複合体は、 そのいちばん重要な要素を一つ欠くことになるであろう。 こう考えるならば、次のことははとんど疑いえない。 つまり、 もしも教訓や忠告を上でのべたばあいのように 人間のうぬぼれと巧みに適合するようにし、 群衆のなかに広めてやると、 思索する人々については その大部分が同意するに違いない。 またそればかりでなく、そのなかの何人か、 とくにもっとも熱烈で決然として善良な者は、 自分は第二の人種 (卑劣な人種ではなく、高潔で気概のある人種) なのだと考えて喜び、 したがって、 その人種に備わっていると聞いてきた卓越性を すべて自分のものにして喜ぶことができるように、 かぎりない不便に耐え、 かぎりない困難を忍ぶようになるに違いないのである。「蜂の寓話」 バーナード・マンデヴィル 法政大学出版局
2018年01月24日
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アラブ人とユダヤ人の祖となるセムと 白人の祖のヤペテ、 そして黒人の祖となるハムだ。 ノアが六百歳のとき、 酔って素っ裸で寝込んでしまった。 いやもっとおぞましい場面だった という説もあるが、 それを息子のハムに見られてしまう。 ノアが日本人なら己を恥じて 頭を丸め仏門に入るところだが、 あいにく彼はユダヤ教徒だった。 ノアは醜態をさらした自分が悪いのではなく、 それを勝手に見たハムが悪いと非難して言った。 「ハムの子孫は呪われよ。 そしてほかの兄弟セム、ヤペテの 奴隷になるがいい」と。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2018年01月23日
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友人の紹介で、 ラオスコ・マライーニ先生(一九一二~二〇〇四)に お会いしました。 有名な人類学者のお一人です。 もうお年でしたが、 若いころに日本にいらしたこともあって、 アジアに深い関心をおもちでした。 ミケランジェロの丘の近くにあるご自宅の書斎で、 マライーニ先生はこういわれました。 「日本には大変なショックを受けました。 日本は私を目覚めさせたのです。 西洋人のキリスト教や古典学に依拠(いきょ)しないで、 立派な文明をもっている国が、 そこにあったからです。 どちらを向いても道徳的一貫性、 正義感、精神的な成熟さを 示す人々に出会うことができました。 そこで西洋のキリスト教が最高の宗教ではなく、 相対的、歴史的な存在なのだと知らされました。 どの宗教、どの哲学も、 人問の存在、時間、死、悪を説明する 試みの一つにすぎないのだと。 日本人は自分たちのすぐれた考え方を、 西洋人に向かって 書物で広く知らせているわけではないけれど、 日本に行ってみると、それを実践しているのです。 そうした日本という国の存在自体が、 西洋に挑戦状を突きつけているのです。 日本という国は、 その世界地図に占める小さな位置よりも、 はるかに大きな存在なのです……」「日本の歴史 本当は何がすごいのか」 田中英道 育鵬社
2018年01月22日
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マッカーサーは総司令部民生局に指令を発し、 日本政府を指導するために、 特に次の三点を含む独自の憲法を起草せよ と指示いたしました。 これがいわゆるマッカーサー・ノートであります。1. 天皇は国家元首の地位にあり、皇位は世襲される。 天皇の職務と権能は 憲法の定めるところに従って行使され、 憲法に示された 国民の基本的意思に応えるべきものとする。2. 国家主権の発動として戦争は廃止される。 日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、 自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。 日本は、その防衛と保全とを、 今や世界を動かしつつある崇高なる理想に委ねる。 日本が陸・海.空軍を維持する権能は 将来共に許可されることがなく、 日本軍に交戦権が与えられることもない。3. 日本の封建制度は廃止される。 華族の特権は、 皇族を除き現在生存する一代以上に及ばない。 華族の地位は、 今後いかなる国民又は公民としての 権利をも伴うものではない。 予算の形態は、英国の制度にならうこと。「利と義と」 江藤淳 TBSブリタニカ
2018年01月19日
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西田氏は、 たゞ自分の誠實というものだけに頼って 自問自答せざるを得なかった。 自問自答ばかりしてゐる誠実といふものが、 どの位惑はしに充ちたものかは、 神様だけが知ってゐる。 この他人といふものの抵抗を 全く感じ得ない西田氏の孤獨が、 氏の奇怪なシステム、日本語では書かれておらず、 勿論外國語でも書かれていないといふ 奇怪なシステムを創り上げて了った。 氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、 創意が不足していた爲でもない「小林秀雄全集 第七巻 學者と官僚」 小林秀雄 新潮社
2018年01月18日
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「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウルス)で、 形容矛盾を犯すものといえる。 なぜなら歴史とはすべての並列を許すことで、 それは非哲学であり、 哲学は序列をつけることで、 それは非歴史だからである」。 ブルクハルトが『世界史的諸考察』の冒頭で述べる ヘーゲル批判である。 ヘーゲルの歴史哲学は フランス革命において「理性」が神化されたように 世界史が理性の摂理で支配され進行するとの「歴史」を 宗教的に神化して信仰することであったが、 ブルクハルトは現在の基盤をなす過去を忘れずに、 「歴史を人生の教師とする」ための 歴史的知識修得の努力を本筋として、 歴史を始源もない終末もない、 むろん進歩もない連続性に帰着せしめた。 そして連続性とは伝統の継承にあるとした。 一方の、ヘーゲルの歴史哲学の「歴史」とは、 バーク等の保守主義の〝歴史〟の尊重とは 似ているがまったく別の異質なものである。 ヘーゲルの「歴史」は、 フランス革命の「自由」「平等」「共和国」などが 「理性」の神々とみなされたように、 民族の「歴史」に神的意志を見るのである。 われわれの一般通念上の〝歴史”ではない。「正統の哲学 異端の思想」 中川八洋 徳間書店
2018年01月17日
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命ある者の幸福はなんと空虚なことか。 至福にも限界があり この世の完全などは 神々の力もおよばないと知っていたなら、 大臣たちや政治にも ブンブンうなる虫けらは満足しただろう。 だが失敗あるごとに 救いようもなくだめになった者のように 政治家や陸軍や海軍をひどくののしった。 他方だれもが「詐欺はだめだ」とさけび 自分の詐欺は知りながら他人だと まるでがまんしないむごさだった。「蜂の寓話」 バーナード・マンデヴィル 法政大学出版局
2018年01月16日
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アジアにおいて、 日本は稀に見る統一国家であるが、 中国は全く逆の国である。 中国は国内で争い、日本はまとまって外国と戦っている。 中国人と日本人は全く違う人間だが、 アメリカ人には違いがわからない。 地理的に近いから性格も似通っていると思っている。 これほど大きな誤解はない。 例えばメキシコ人、カナダ人をひっくるめて 「我々はみな北アメリカ人です」というようなものだ。 メキシコ人とアメリカ人、エスキモー、 フランス系カナダ人、それぞれ違うように、 日本人と中国人も全く違うのである。 確かに、日本人と中国人は体つきがよく似ている。 が、似ているのは体型だけで、 性格は似ても似つかない。 もちろん日本人として通る中国人もいれば、 中国人として通る日本人もいる。 しかし全体としてみれば、違いは一目瞭然。 口で説明するのは難しいが、現地に行けばすぐわかる。 中国人はイタリア人と同じくおしゃべり好き。 サンバンだろうがどこだろうが大声で、 うるさくて生きた心地がしない。 少しでも英語ができると、 舟だろうと汽車だろうと道端だろうと、 近寄って話しかけてくる。 こういうことは日本では起こらない。 日本人は実に物静かである。 下層階級はじっと見ているだけである。 礼儀正しい上流階級はこれさえしない。 ましてやあれこれ話しかけることは失礼になる。「暗黒大陸中国の真実」 ラルフ・タウンゼント 芙蓉書房出版
2018年01月15日
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あのころは、なんでも物がヤミで売れた時代ですわ。 どこの会社でも、ある程度のヤミをやった。 そうしないと食っていけなんだ。 ところがウチは、ヤミをするわけにはいかなかった。 おまけにぼくが財閥の指定をうけて、 監視の目が鋭(きつ)いんですわ。 また、ぼくがヤミをやったために 自分がGHQや政府に抗議してることも オジャンになるかもわからん。 正しい道を踏んでいかなんだら危険や という気イがありましたからね。 会社もぼくも、いっそう困難になっていったわけですわ。 インフレで資材はどんどん高騰する。 それでも公定価格で売らんならん。 電球一個、ヤミで売れば百円で売れるのに、 公定価格ならわずか四円二十五銭で売らんならん。 これでは、苦しゅうなるのは当然ですわ。 こういうバカな世の中はない。 戦争に敗(ま)けたことは仕方がないにしても、 日本の復興を妨げている何ものかがある。 それは何かというと政治の過ちだ。 政治の誤謬(ごびゆう)、過ちは みんなで協力しあって正していかんならん という気持が自分には強かったですね。 物をつくって売れば売るほど損をする。 ”一体、世の中はどうしてそうなるんだ。 人間とは一体なんなのだ″ という煩悶、 この間いかけがPHP運動、つまり PEACE(平和)、 HAPPINESS(幸福)、 PROSPERITY(繁栄) になっていったわけです。「天馬の歌」 神坂 次郎 日本経済新聞
2018年01月12日
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フランクリン・ルーズベルトは 類い稀な深謀遠慮のヒトだつた。 ただ根性が悪すぎて、 後世に禍根しか残せなかった。 彼は日本に仕掛けた戦争の結果を見ずに 終戦の4か月前に脳卒中で死んだ。 墓は中国風で、それも彼の深慮からだった。 祖父ウォールン・デラノは中国に阿片を売って、 そのカラ船に苦力を詰め込んで財をなした。 いわば中国人の膏血で ルーズベルトはいい暮らしをしてきた。 それがあったので中国には最大級の好意を示し、 墓のデザインも決めた。 蒋介石も宋美齢も大喜びしたが、 それも彼の遠謀だった。 蒋に日本と絶縁させ、 白人国家の手先として日本に立ち向かわせた。 白人が黄色人種相手に血を流せるか。「日本よ、カダフィ大佐に学べ」 高山正之 新潮社
2018年01月11日
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易簡而天下之理得矣。 易経繋辞上傳 簡潔は智慧の、妙諦なり。 シェークスピア―ハムレットⅡ 冗長になることは、いつでも容易であるが、 簡潔にするには容易ならぬ努力が要る。 圧縮し要約し そして最後はきりっと緊めることである。 (佛)E・アラン「百朝集」 安岡正篤 全国師友會
2018年01月10日
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「日本」という言葉ができたのは七、八世紀のことです。 それ以前は「やまとの国」といいました。 中国からは倭国といわれていました。 そう考えると、「日本史」では、 七、八世紀以降の歴史になつてしまいます。 しかもこの「日本史」という言葉には、 外国から客観的に見た歴史という意味があります。 我が国の歴史というアイデンティティーが 欠けているのです。 従って、世に出ている「日本史」のほとんどは、 亡国の歴史とさえいえるかもしれません。 そこには歴史を自国の立場で書かなくてもいい という思い込みがあるのです。 しかし日本人が書くかぎり、 外国研究経験が長く、 アイデンティティーを外国に移しているならともかく、 そうでなければ、 そもそも「日本史」など書けるわけがないのです。 国の観念を失った国の歴史などないはずです。 多くの日本の歴史家や、歴史出版業者は 変な思い込みをしています。 どこの国であれ、自分の国の歴史を述べるときには 「ナショナル・ヒストリー」といっています。「日本の歴史 本当は何がすごいのか」 田中英道 育鵬社
2018年01月09日
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