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警察制度は、明治五年、司法省に警保寮がもうけられ、中央集権の全国画一の警察制度の第一歩がふみだされていましたが、当時はなお司法警察が主でした。その警保寮が新設の内務省に移管されるとともに、警察は犯人の逮捕など司法警察にとどまらず、政府に反対する人民の動きを日常不断に探偵することから、産業奨励、各人衛生にかんする注意にいたるまで、国民生活のすみずみまで介入する行政警察も行ない、かつそれを重点とするようになりました。
2026年01月28日
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大久保は新設の内務省の充実を急ぎました。明治七年(一八七四)一月十日公布した職制によれば、「内務省ハ国内ノ安寧、人民保障ノ事務ヲ管理スル所」とし、課を勧業寮・警保寮(以上一等寮)・戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理寮(以上二等寮)および測量司(八月三十日廃止)の六寮一司に分かち、内務卿は、「全国人民ノ安寧ヲ謀り、戸籍人口ノ調査、人民ノ産業ノ勧奨、地方ノ警備、其他土木・地理・駅遮.測量等」所管の事務について大臣の拒示のもとに専決する権利をもち、「而シテ其事務ヲ調理スルニ於テハ、天皇陛下二対シテ担保ノ責二任ズ」と、諸省卿よりは格段に重い天皇への直接の責任を規定し、諸省卿よりも一段高い権威を与え、「特旨解赦恩典ノコト」も、内務卿が勅旨を奉じて行なうこととしました。内務省の二大任務は、全国の警察権を一手に掌握することと、大久保が欧米を巡回してその必要を痛感した殖産興業、つまり資本主義産業を急速に育成することでした。
2026年01月27日
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国内では、それまでしばしば対立・抗争を続けていた政府と政党が一致協力の態勢をとり、議会では巨額の軍事予算も満場一致で可決されるなど、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められました。日本側が明治維新以来、強い対外危機意識のもとで国内の改革を進めて立憲政治を実現し、国をあげて十分な準備を整え、よく訓練され近代的に組織化された軍隊をもっていたのに対し、清国側は国内の改革に立ち遅れ、西太后(せいたいごう)派(后党)と光緒帝(こうしょてい)派(帝党)問の政治的対立も激しく、専制政治のもとで国力を十分に発揮できません。そのため戦争は日本の優勢のうちに進められ、日本海軍は黄海海戦で清国艦隊を撃破し、陸軍は清国軍を朝鮮から一掃し、さらに遼東(りょうとう)半島・山東(さんとう)半島の一部などをも制圧しました。こうして、約2億円余りの戦費と約10万人の兵力を動員した戦争は、約8カ月で日本の勝利に終わりました。戦争における日本軍の死者は約1万7000人で、その約7割が戦病死です。
2026年01月26日
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1894(明治27)年5月、朝鮮で民族主義的な東学(とうがく)を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反抗がおこりました(甲午(こうご)農民戦争、東学の乱)。朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要請し、同年6月、清国は軍隊を送りました。日本もこれに対抗してただちに出兵しました。両国の出兵もあり、農民の反抗は収まったが、日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案した。しかし、清国政府はこれを拒否したので交渉はついに決裂しました。ちょうどそのころ、日英通商航海条約が締結され、イギリスが日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣、陸奥宗光外相)も開戦を決意し、7月には豊島沖(ほうとうおき)の海戦によって日清戦争が始められ、8月には正式に対清国宣戦が布告されました。
2026年01月23日
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1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させました。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避されました。
2026年01月22日
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江戸時代末期に日本人はアジアにたいしてどのような考えをもち、そして明治政府は当初どのような対外政策をもっていたのでしょうか。西洋の東洋進出にたいして、支那と日本がおなじ利害でむすばれており、アジア人は協力して西洋を撃退しなければならないという考えは、幕末に根づよくあらわれていました。幕末の代表的な志士・横井小楠は「支那と日本とは唇歯(くちびると歯のように密接な関係でむすばれたあいだがらの国)である。支那の衰退を目前に見ながら、座視すべきではない」といっています(一八六○年の『国是三論』より)。いっぽう、新しい明治政府のアジア外交の最初の重要な成果は、一八七一年(明治四年)に清国とむすんだ日清修好条規です。この条約は、日清両国がおたがいに治外法権制度をみとめ、またたがいに同一の関税をもうけようという対等なものでした。日清両国はたがいにたすけあい、なかよくすべきだと明示してあり、アジアは連帯して西洋列強のアジア進出に対抗しようというものです。
2026年01月21日
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明治政府は、朝鮮が清国から独立して近代化すること狙っていた。この背景には、ロシアが南下を続け、朝鮮国境まで領土を広げていた。もし半島が、ロシアに領有されるか、列強に分割されるかすれば、日本の国土防衛が不可能になる、との情勢判断があった。なお、これが明治期の征韓論の背景でもあった。1873年、大院君(だいいんくん、1820~98)が失脚し、改革派官僚に支えられた王妃の親戚である閔(みん)氏一族が政治の実権を握りました。これにより、日本と国交を開く許可が清国から朝鮮に降りた
2026年01月20日
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フランスがインドシナに入り、その南部三省を取ったのは、一八六二年(文久二年)のことで、その後、次第にその勢力は延び、一八八四年(明治十七年)安南全域をフランスの保護国としましたが、そのために清国とフランスとの間に戦争が起りました。明治政府は、この情勢を見て、早くより安南の歴史を研究し、いよいよ清仏の戦いが起るや、武官を派遣してこれを視察させました。インドシナに対してさえ、この通りですから、隣の韓国、清国、及びロシアに対して、注意を怠らなかったことは、いうまでもありません。
2026年01月19日
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新政府は国民の全員に、徴兵の義務を課しました。明治五年十一月の「徴兵告諭」は、「全国四民男子二十歳ニ至ル者ハ尽グ兵籍二編入」すると宣言しました。国民とくに農民は動揺した。この義務は与えられた権利すなわち職業と結婚の自由に比べてあまりに大きかった。二十歳の働きざかりを兵役にとられれば家族の生活は破壊されるだろう。江戸時代の農民のたった一つの自由は刀を持たず殺しあわずにすむ自由だったのに、新政府はそれすら奪おうとしたのだ。この勅語には不用意なことばが書かれていた。「人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報ゼザルペカラズ、西人之ヲ称シテ血税卜云フ、其生血ヲ以テ国ニ報ズルノ謂ナリ」。不安はこの文章を口実に爆発した。もっとも代表的な例は、美作(岡山県北部)の北条でおこった「血税暴動」だった。数万の人民が徴兵令に抗議して役場を襲い、新戸籍によって作られていた村の支配者たる戸長の家を焼き、明泊六年五月末から六月はじめまで、十日にわたって権力をまひさせたのです。大阪鎮台の軍隊が出動しても容易におさまらなかった。鎮圧後の処罰は死刑十五名、叱りおきまで含めれば二万六千九百名におよぶ。血税反対暴動は全国各地にひろがった。
2026年01月16日
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我が国は、アジア大陸の東に沿うて、南北に長く連なる島々より成っています。しかるにアジア大陸は、日本列島をその中央において衝くかのような形をもって、一つの半島を突出しています。朝鮮半島がそれです。従って日本は、自国の安全のために、朝鮮半島の動きには、常に注意しなければならないのです。日本の希望は、朝鮮が独立国であり、かつまた日本と仲好くしてゆく国であってほしいという点にあります。一方、朝鮮半島は、その自然の地形からして、とかく大陸の侵略を受けやすいのです。そして強大な勢力の侵略を受ける場合、助けを求めるとすれば、日本以外にはなかったのです。
2026年01月15日
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朝鮮半島をめぐる明治六年の政府の重臣の分裂は、各方面に大きな影響を与えましたが、最も大きな動揺を生じ、損害を受けたものは、陸軍です。当時の陸軍、大将は西郷隆盛ひとりでした。その西郷がやめると同時に、少将桐野利秋、篠原国本以下、数多くの将校が、辞職して郷里へ帰り、陸軍の威厳は、薄らぎました。しかし残留陸軍はしっかりしていました。中将山県有朋を中心として、軍の再建につとめ、一方には内乱を鎮定すると同時に、迫りくる列強のために揺り動かされるアジアの情勢を研究して、国防の責任を果そうと努力しました。
2026年01月14日
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明治四年(一八七一)七月十四日、天皇は在京の旧藩主たちを招集し、「藩」を廃して「県」とすると宣言した。旧藩主たちは、この二年前、いちおう「版籍奉還」、つまり徳川家からもらった領地を天皇に「返す」たてまえをとってはいたが、藩知事として旧幕以来の権力は一手ににぎっていました。家臣団も年貢のとりたても、そして藩内での司法権も、旧幕時代以来、なにも変わってはいませんでした。木戸孝允(一八三三-七七)・西郷隆盛ら、倒幕運動から戊辰の内乱を戦いぬいてきた人びとは、いくら形式だけは王政復古になったところで、旧蒲主が割拠しているのでは新しい統一日本を建設しえないことを誰よりも知っていました。しかし、彼らには武力がなかった。幕府軍と戦った「官軍」は薩長土肥四藩の兵を主力とするよせあつめの連合軍であり、幕軍が箱館の五稜郭で明治二年五月、最終的に降伏すると、官軍自身はばらばらに各藩へ復員してしまっていたのです。新しい権力はまず武力から創設せねばならなかった。木戸の指導で薩長土から約一万の「御親兵」を東京に集中し、出身藩と切りはなした上で藩の解体にはじめて着手できたのです。
2026年01月13日
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欧米諸列強の干渉を心配したのは、当時もっともよく西洋を知っていた福沢論吉(一八三四~一九〇一)でした。彼は洋学の知識をもったため幕臣にとりたてられていたが、彼はこの心配のあまり、英明のほまれの高かった十五代将軍・徳川慶喜をもりたてようとすらしたのである。彼は建白書や手紙に書いた。「大君のモナルキ」すなわち将軍の絶対主義でなければ、「ただただ大名同士のカジリヤイにて、我国の文明開化は進み申さず」と。だが、このときの福沢論吉は、歴史のより深い流れをとらえそこなっていた。幕府はもはや「モナルキ」を実現する能力を失っていたのです。慶応二年になると、大名の「共和政治」ではもうだめなこと、日本はそれでは救われないこと、幕府に変わるまったく新しい統一日本が必要であることを、西郷隆盛以下の倒幕派の志士たちは悟った。それが天皇をシンボルとする統一国家の構想であり、維新の変革は、幕府の打倒と明治元年(一八六八)から二年にかけて東日本をおおう内乱のなかで、おこなわれたのです。ここに明治国家が誕生しました。
2026年01月09日
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寛政年間に「尊王」をとなえて全日本をへめぐつた高山彦九郎(一七四七-九三)は「奇人」と呼ばれ、あげくのはては、腹を切って死なねばならなかった。浪人がじかに尊王を説いたりしたら、分をこえたものであり、「上」を恐れぬ仕業だった。幕末、幕府の権威が外圧に押されるなかで低下していったとき、各藩はこぞって自立への動きを強め、独立した「藩国家」への道を歩みはじめたのです。明治政府のスローガンとなった「富国強兵」も、はじめは各藩国家の「富国」のための合言葉でした。ペリー来航以来、第二次幕長戦争の慶応元年(一八六五)当時、西南雄藩は事実上の独立国となり、薩摩の指導者・西郷隆盛(一八二七-七七)は、公然と大名の「共和政治」を説きました。雄藩連合、すなわち「共和政治」がおし進められてゆけば、日本は欧米諸列強の干渉のもとに分断されてしまいかねなかった。
2026年01月08日
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一九世紀末に近づくと、西欧の列強の海外進出と植民地の形成がさかんになってきます。まず、一八七五年ごろからイギリスがあきらかに海外膨張政策をとっています。イギリスは、一八七四年に新しい内閣が成立すると、同年マレー侵略にのりだし、八九年までにマレー半島南半を占領しました。その間、七五年にはエジプトに干渉をはじめ、八二年にイギリス領としています。さらに、七七年からは南アフリカでも侵略をくりひろげ、一九世紀のうちに、そのほとんどを占領してしまいました。このようなイギリスのあいつぐ拡大政策から、イギリス帝国主義ということばがもちいられるようになり、これより「帝国主義」という用語がさかんに使用されるようになっています。
2026年01月07日
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福島事件は、1882年に福島県で発生した自由民権運動の一環です。県令三島通庸が強制的な道路建設を進めたことに対し、自由党員の河野広中らが反発しました。これにより、自由党員が逮捕されるなどの弾圧が行われました。この事件は、自由民権運動の激化を象徴する出来事であり、後の加波山事件などに影響を与えました。当時の政府は自由民権運動を弾圧していましたが、福島県の自由民権運動家である高橋祐吉らが政府に抗議する大規模な集会を開こうとしました。しかし政府はこの集会を不許可とし、高橋らを逮捕しました。この事件をきっかけに、政府の弾圧に対する批判が高まり、自由民権運動が全国的に広がっていきました。福島事件は、明治政府の専制政治に対する民衆の不満が表面化した重要な出来事でした。
2026年01月06日
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薩摩隼人を自任し、「土木県令」「鬼県令」といわれた三島通庸が福島県に着任したのは、まだ雪深い二月のことです。かれは、「火つけ強盗と自由党とは管内に一匹もおかぬ」と豪語してきただけに、初めから喧嘩腰でした。相手は東日本の民権運動でもっとも古い歴史をもつ福島の民権家たちだ。議長河野広中を中心に、そのころ二十人の党県会議員団を擁して、県会を制圧していました。官憲はこの事件との関係のあるなしにおかまいなく、県内自由党員の一斉検挙をおこない、さらに、関東・東北にわたる関連検挙を強行して、四百名に近い自由党員を捕縛しました。あくまで遵法闘争を主張していた河野広中は、その夜、無名館にあったが、数十人の抜刀した警吏と暴漢にふみこまれ、着がえをすることも許されずに連行されました。農民の拘留は会津だけで五百名をかぞえました。
2026年01月05日
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