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戦争当事国がお互いに、怪物だとか野蛮人だとか言って相手国を罵倒するのは、もちろんいかなる戦争にもつきものだが、極東戦争においては、植民地支配の事情と、それにつながる人種偏見のために、この戦争像が一段と複雑なものになっている。 日本軍のオランダ領東インド侵攻は侵略戦争としてだけでなく、ある種の”違反”とも見なされた。 つまり、西洋の国々を攻撃することは身分不相応なことであり、そのうえ負けることを知らないとは、なんと礼儀知らずで謙譲の美徳のなさよ、と見なされたのである。「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年01月30日
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大統領側近グループの一人、内務長官のハロルド・イッキーズは『秘密日記』(三八年三月四日付)で次のように書いている。 「(中国共産党の)八路軍に従軍する海兵隊大尉からの手紙を大統領が受け取ったそうだ。そこに描かれた八路軍の素晴らしい戦いぶりにえらく感動したようだ。日本軍をずいぶんてこずらせているという。そこで私は最近読んだ(スノーの)『中国の赤い星』について話した。その大尉と同じように新聞記者が延安を訪問した話だが、大統領のほうがより詳しいのには驚いた」 カールソンが日本の世界征服について確信するようになったのは、報告書をみる限り、三七年十二月中旬にスノーの手助けで延安を訪問し、ほぼ三千二百キロに及ぶ八路軍従軍を果たしてからだった。 報告書を読んだルーズベルトは日本非難の「クオレンティン(隔離)演説」を行い、三八年秋には中国への初の具体的支援となる二千五百万ドル借款を決定している。「ルーズベルト秘録」下 前田徹 産経新聞社
2015年01月29日
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天下の事其の巳(すで)に然る(現行)を知るも、其の將(まさ)に然らん(将来)とするを知らざる者は衆人なり。 其の巳に然るに因つて、而て將に然らんとして未だ然らぎるを逆(あらかじめ)にして之を知るは、深識遠慮ある者に非ずんば能はず。 室巳に焚(や)けて而て薪を徒(うつ)し、舟巳に溺れて而て壺(ふくべ)を市(か)ひ、疾己に成つて而て艾(もぐさ)を求むるがごとき、力を殫(つく)して之を爲すも及ぶ無し。今夫れ隆然たる堤・蟻を容るゝの穴あり。 損ずる所無きが如(ごと)きも宜(うべ)なり。 然れども識に周(あまね)き者は必ず塞(ふさ)いで之を賓(み)つ。 其の久しうして必ず訌潰(かうくわい:つぶる)に底(いた)るペきを慮るが故なり。 天下の事皆能く是の如く之を慮らば、尚ほ何の後患か之れ有らんや。「為政三部書」 張養浩 明徳出版
2015年01月28日
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四十年以上前のことになるが、フランクリン・ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って、ついに米国を日本との戦争にまきこむことに成功した。 そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるというルーズベルトの最終目的を達成させることであった。 クレア・ルースが述べたように、ルーズベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争にまきこんだのである。「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ PHP
2015年01月27日
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青年將校の運動は既成秩序に封する眞向からの反撃だつたが、しかし階級闘争ではなかつた。 上からの革命でもなく、下からの反抗でもなかつた。 かれら自身はおおむね中産階級の出で、實社會から離れた生活をしていた。(極端ないい方をするなら、これもこの三十年来いまもつづいている、社會の不正に對する若い世代の反撥の一齣だつた)。 檄文にも見るように、かれらはみずから革命の前衛をもつて任じていて、後から国民大衆がつづいてかれらのはじめた仕事を完成することを期待していた。 かれらの動機は自分の階級の利益のためではなくて、観念の情熱からだつた。 階級は一つの權力の主體であるが、階級のみがそれなのではない。 階級の悪を否定しようとする情熱もそれとなりうる。 軍縮時代に軍人が肩身がせまかつたから、それへの怨恨が軍隊の中にあつた。 これが軍人の政黨嫌いの一因をなしていたにちがいないが、かれら自身はもつと若く、その根本の動機は檄文に表明されたとおりのものと思われる。 しかし、このように主観的動機を重視することは、はたして歴史の開明になるだろうか.? 歴史をうごかすのは、もつと「根本的な」要素なのであり、證明は権力ないし経済ないし階級によって裏づけられなけれはならないのではないだろうか? 青年將校の連動は、獨占資本にあやつられたか、農民の反抗であつたか、あるいは苦しんでいる小市民のあがきであつたか、とにかくそのような観點に基礎づけられなくてはならないのではないだろうか? 観念の情熱--? そんな頼りのない話ではなくて、もつと實質的な要素に還元して、そこの上からの演繹をするのでなければ、すべては非科學な「むなしい唯心論」なのではないだろうか?「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年01月26日
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宣長は、『常見の人』とか、『漢意の常見』とかいふ言ひ方をしてゐるが、ここで、彼が『常見』といふ言葉で、言ひたかつたところは、簡単に言つて了へば、今日の学者達のやうに知性だけを頼んでゐては、決して古学の本質に到達する事はできない、といふ確信なのである」と。 私にはこの「常見」と「常識」とが重なって見える。 「常識」は明治以降の造語だから、当時は、無い。 いわば、当時の「学的常識に基づく知性」と見てよいであろう。 各時代には各時代の学的常識があるだろう。 当時は「漢意の常見」が主流であったが、現在は「欧米意の常見」が主流なのかも知れない。 もちろん「漢意」が「中国人のもつ中国思想」いわば中国人の常識と一体不可分の中国思想とはいえないように、「欧米意」もまた欧米人の欧米思想そのものとはいえまい。 「漢意」であれ「欧米意」であれ、それぞれの背後には、その時代を生きていた日本人の常識があるはずだ。 それを無意識に絶対化して、それに基づいて対象を見る。 宣長にとってはそれは、本当に『古事記』の世界を見ることではない。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2015年01月23日
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前線では、うそやごまかしが通用しない。 誠実に任務を遂行するか否かは、すぐ結果となって現われる。 それに砲爆撃、重軽機弾の集中の生む恐怖は、うまくごまかすことを考えるだけの余裕を与えない。 砲弾の恐怖は、人間の衣装をはぎとってしまう。 ずるい人間、臆病もの、正直もの、あらゆる人間の本性がむき出しになってしまう。 それに反比例して、人を見る眼は鋭くなる。 誰かのちょっとした不注意や、手抜きや、不正直が、大変な損害を招くおそれが極めて大きいから、本能的にそうなるのだ。 言行不一致が一番、全員の危険を招くことになる。 そういう人間への目はとくにきびしい。 インチキが容易に通用しない所以である。「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」 会田雄二 新潮社
2015年01月22日
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パシフィコは商人としてギリシャのアテネに住むようになったが、ここで騒動が起こった時、彼の家も民衆に荒らされた(同様の被害を蒙(こうむ)ったイギリス人が、はかにも一人いる)。 ところが、パシフィコは被害を受けた家具代のみならず、裁判関係の書類もなくなったという口実で、途方(とほう)もない巨額の賠償金をギリシャ政府に要求したのである。 ギリシャ政府はその補償責任を負(お)うことを拒絶した。 そこで、当時のイギリスの外務大臣ヘンリイ・テンプルことパーマストン子爵は、イギリス海軍を派遣してアテネ港を封鎖し、港の中の全船舶を拿捕(だほ)せしめたのである。 これに関連して、仲裁しようとしたフランスとの関係もまずくなって、駐英フランス大便がロンドンを引き揚げる事態にまで立ち至った。 イギリス上院は、パーマストンがアテネに住むポルトガル系ユダヤ人の一商人の法外な要求を支持するために、英国海軍を派遣し、英仏関係を危険にした責任を問題にして弾劾(だんがい)決議をして辞任を要求した。 この時のパーマストンの演説を有名にしたのが、シセロ(ローマの雄弁家)に由来する、「われはローマの市民なり」の原則であった。 パシフィコは、少なくとも国籍はイギリス人、つまりイギリス市民である。 その市民の財産が外国において破損されたのである。 パーマストンは、海外に住むイギリスの一市民の権利を守るためにはイギリス艦隊をも派遣するという方針を内外に明確にしたのである。 パーマストンは四時間以上に及ぶ議会演説において、議員たちを魅了し、恍惚(こうこつ)たらしめ、賛同の嵐を起こした。 日本の生麦(なまむぎ)村で起こった事件は、このパシフィコ事件からわずかに十数年の後のことであるから、「われはローマ市民(イギリス市民)なり」の原則が発動されても不思議はない。「日本史から見た日本人 昭和編」 渡部昇一 祥伝社
2015年01月21日
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日本史上初の国家としての破局は、一九三七年七月の日支事変以降の「八年戦争」の総決算でもあった。 その代償は、たんに広大な領土の喪失にとどまらず、民族としての精神の崩壊を招くに至り、日本の国家としてもっとも深刻な禍根を遺すことになった。 敗戦五十周年を迎えて、「八年戦争」は真実において回顧されねばならず、「八年戦争」の正しき理解こそは、この「八年戦争」の敗戦シンドローム(後遺症)から日本が精神的に再生するためにも欠くことのできないものであろう。「近衛文麿とルーズベルト」 中川八洋 PHP研究所
2015年01月20日
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日本人は、外国人が日本語を習得してくれるとはほとんど期待していない。 だから欧米諸国や他のアジアの国々で共通語として通っている英語を、もう何十年となく義務教育の課程での必修科目の一つにしている。 けれど大学教授やトップクラスの実業家の中でさえ自在に読みこなすことはできても、流暢に英語を話す人は少ない。 これはひとえに学校英語教育のあり方によるものと思う。 日本での英語の習い方は、われわれがラテン語や古代ギリシャ語を習うのとまったく同じやり方をしている。 試験のために文法や正書法を必死になって頭の中につめこみはするが、日常生活の中での人間同士のつきあいのための練習はまったくない。 日本中には約五万の英語教師がいるが、彼らのうちでも、外国人が聞いてすぐわかるような英語を話す人は少ない。 だから喋ったり聞いたりする練習をしようと思う者は学校以外で(もちろんほとんどの大学も含めて)、英会話の講習を受けるのである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年01月19日
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況んや大臣は初より事として知らざる無きを尊ばず。 第(た)だ其の心を公正忙して媢嫉(ぼうしつ:ねたむ)する所無ければ、則ち智者は謀を効(いた)し、勇者はカを効す。 呫々(てふてふ:くどくど)として以て才と爲し、捷々(せふせふ:すばしこい)として以て瓣と爲し(呫々と捷々とは反對の方が当たると思ふ)自ら衒(てら)ひ自ら伐(ほこ)らば則ち賢者必ず之が用を爲すことを楽しまず。 大抵人君自ら伐(ほこ)らば則ち臣の職行(すす)まざる所あり。 相・臣自ら伐(ほこ)らは則ち百執事の職行(すす)まざる所有り。 人の上たる者は約を操(と)りて以て繁を馭し、(大切なところを要約して繁雑をさばく)静に居つて以て動を制し、無心を以て而て天下の心に應ずれば、則ち令せらるゝ者從ひ、庸(もち)ひらるゝ者勵(はげ)む。 筍(も)し其の賢を知つて而て之に任じ、既に任じて而て之を疑ひ、而して務めて之を勝(おさ)ふるは、顧(かへ)つて知らず用ひず自ら其の才に任ずると也奚(またなん)ぞ異らん。 若(も)し然らば則ち體統・失して(筋が通らなくなり)而て諂(てん)佞の小人至らん。 小人と處れば則ち天下の事論ぜらるや知るべし吁(あゝ)「為政三部書」 張養浩 明徳出版
2015年01月16日
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言葉の多き/口のはやき/あわただしくものをいう/ものいいのくどき/さしで口/おれがこうした、こうした/人のもいいきらぬうちにものをいう/わがことを強いていきかさんとする/人の話の邪魔をする/鼻であしらう/酒に酔いて理(ことわり)をいう/おのが意地をい通す/あやまちを飾る/ひきごと(引用)の多き/好んで唐言葉を使う/田舎者の江戸言葉/学者くさき話/風雅くさき話/悟りくさき話/茶人くさき話/たやすく約束する/人にものくれぬ先に何をやろう/くれて後に、そのことを人に語る/返らぬことをくどくど口説く/推し量りのことを真実になしていう/己(おの)が氏素性の高きを人に語る/ものの講釈をしたがる/おかしくなきことを笑う/子供をたらし、すかしてなぐさむ/憎き心をもちて人を叱る。「おとなの学問」 伊藤 肇 善本社
2015年01月15日
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「武」の精神とは、自分の義務のために、いつでも死ぬということで、人間としては一番高貴な行為と言えるでしょう。 一切の暴力を退け、無抵抗のままに十字架に磔(はりつけ)にされることを選んだキリストの教えを奉ずるキリスト教圏でも、武は常に尊ばれてきました。 キリスト教国で「大王」とか「大帝」と呼ばれた中世の指導者たちは、いずれもキリスト教圏を侵す敵と戦場で戦い抜いた英雄たちでした。 日本でも、『葉隠』を引き合いに出すまでもなく、「一旦緩急あれば死をもいとわぬ」精神は、武士の精神として尊ばれ、崇められてきました。 私たちが、歴史小説や劇などで、「武」の精神に感動を覚えるのは、人としての素晴らしい生き方をそこに見るからなのです。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2015年01月14日
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好き嫌いはよく人を欺(あさむ)く。 「好きこそ物の上手なれ」ということがあり、多くの人は好きなところをただちに適所だと考えようとする。 もっとも、自分の好きなことは、無理なしに一生懸命になれるから上手になる。 「好きこそ物の上手」ということ、それもたしかに一面の真理はあると思うが、またかならずしもそうとはいいきれないことがある。 その証拠に「下手の横好き」ということがあります。 好きでやってはみたが、思ったほどうまくいかない。 適所と思ったのが間違いであったということが少なくない。 つまり、自分の好き嫌いだけで仕事の適不適を判断することは、きわめて危険であると思わねばなりません。 ことに若い方々に、このことを深くご注意申しあげておきたい。 かなり多くの人が、このところで一生の方針を誤ることがあるのを見ています。「職業と人生」 田中良雄 ごま書房
2015年01月13日
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一九九五年の九月二日は、日本が国家主権を喪失するという、日本史上もっとも痛恨をきわめた日からちょうど五十周年目にあたる。 東京湾に浮ぶ米国の戦艦「ミズーリ号」の甲板において、日本の重光葵(外務大臣)と梅津美治郎(陸軍参謀総長)の二人の全権が降伏文書に調印した日が一九四五年(昭和二十年)九月二日であった。 このとき、日本の敗戦が定まった。 英米蘭に宣戦布告した一九四一年十二月八日から三年九ヵ月間の太平洋戦争の幕引きであった。 八月十五日正午の昭和天皇の玉音放送による、ポツダム宣言受諾という停戦命令から二週間後であった(日本の敗戦記念日は、停戦記念日の八月十五日ではなく、九月二日が正しい)。「近衛文麿とルーズベルト」 中川八洋 PHP研究所
2015年01月09日
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人は自己の思想的成果以外は自らに誇ることはできない。 そして誇ることができないものは、「事実の前でいかに弱いものであるか」を思い知らされざるを得ない。 内的感覚のない人間は、「苦しかつた」と感じないから、思い知らされることは何もない。 だが「事実の強制という名の占領軍」は、それが米軍であろうと国際情勢であろうと国内情勢であろうと、一つの“法”を制定して“戦犯”問題に「うつゝを抜かす」のだ。 その”法”が成文化しているか否かは問題でない。 現に自衛隊がいる。 だが憲法のどこを探しても、自衛隊に関する条文は一条もない。 その国の基本法に一条の規定もない武装集団が存在する国は、日本以外にはあるまい。 事実の強制による制定は、新しい事実の強制によって別の制定を生む。 それは思想的帰結ではない。 思想の帰結でないものが存在するということは、思想の敗北でなくて何であろうか。 それが苦しくないなら、それは、何の思想もないという証明にすぎまいではないか。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2015年01月08日
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日本語では三種類の文字記号形態を、同時にしかも組み合せて使う。 「音」を表す二種類のかな文字、ひらがなとカタカナがあり、さらに古代中国に源をもつ「意味」をもつ記号、漢字がある。 どちらかといえば角ばって固い感じのするカタカナは、主として外来語や外国の名前に使う(例えばホテルでも、コンピュータでもそうだ)。 やわらかな感じのひらがなは、接頭語、接尾語、活用語尾などに用いて漢字を補う。 ひらがなもカタカナも、「カキクケコ」「ナニヌネノ」のような図式に組み立てられていて、五〇弱の基本音から成り立っている。 これに簡単な記号を加えたり、組み合せを変えたりすることによって、基本音以外の音声も表現することができる。 これらは音声学的論理に従って組み立てられているものの、日本語の中で使われる音声にしか用をなさない。 だからいくら外国語をカタカナに移し変えるといっても、まず外国語を日本語発音に直してからカタカナで書くのだ。 Zurichは「チ・ュー・リ・ッ・ヒ」となるし、「サ・マー・フ・ェ・ス・テ・ィ・バ・ル」は英語のsummer festivalで、同じ祭でも少し気取って表現する時に用いられている。 日本人が英語を習うのはほとんど学校だけだし、このように思いきり日本語化した発音で喋るから、こちらにはなかなか理解しにくい結果になる。 逆に漢字だと、発音とは関係なく即座に視覚的にその意味が通じるのだ。 例えば「人」とか「山」「川」などの漢字は具体的な象形文字だから、見るだけですぐに意味が通じる。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年01月07日
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前輩(せんぱい)謂ふ、仕官して而て将相に至るは人情の栄とする所たらと。 是れ栄なるものは辱(はじ)の基なるを知らぎるなり。 惟(た)だ善く自ら修むる者は則ち能く其の栄を保ち、善く自ら修めざる者は適(つね)に其の辱(はじ)を速(まね)くに足る。 所謂善く自ら修むる者とは何ぞ。 廉(れん)以て身を律し、忠以て上に事へ、正以て事に處し、恭慎以て官僚を率うるなり。 是の如くんば則ち令名随ひ(焉:これに)、輿論帰し(焉)、鬼神福(さいはひ)す(焉)。 其の栄を辞せんと欲すと雖も得べからぎるなら。「為政三部書」 張養浩 明徳出版
2015年01月06日
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これはつまり、好ましい社会とは、好ましい人間関係を可能な限り多く育て、奨励し、評価し、創り出し、好ましくない人間関係を可能な限り創り出さないように制度的に整備されている社会であると言うことを意味する。 また、前述した定義から推しはかるなら、好ましい社会とは心理学的に言えは健康な社会と同義であり、一方、好ましくない社会とは心理学的に病んだ社会ということになる。 これも、つまるところ基本的欲求が充足されているか、その充足が妨げられているか、ということである。 すなわち愛情や愛着、保護、尊敬、信頼、真実などが十分にいきわたっているかどうか、敵意や屈辱、恐怖、軽蔑、支配などが多すぎはしないかどうかということになる。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2015年01月05日
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