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漢が滅亡(仏暦683)するとそれ以後、隋の成立(仏暦1081)まで400年もの間、支那は複数の国が乱立します。非漢民族国家も多く、道教、儒教の影響は薄れ、格義仏教はこの時代に入って解放されました。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、五胡とは匈奴・鮮卑・羯・?・羌の五つの民族のことです。この時代の仏暦780年、庫車国の仏図澄(ぶっとちょう:仏暦695-811)が支那に来て活動しました。その弟子の道安と更にその弟子の慧遠は、支那人として初めて教団の整備をした師弟です。同じ時代の仏暦864年、亀茲(きじ)国の鳩摩羅什(くまらじゅう)が洛陽にきて多数の主要な大乗経典を漢訳しました。また、法顕(仏暦800-885)は支那僧として初めて直接インドに赴きました。このころからインド、西域と支那の相互交流が活発となり、仏典が次々に流入し、仏教は支那に定着しはじめ、これらの経典は以後、玄奘三蔵が新訳を著すまでの間、支那仏教の根幹経典となります。
2012年01月31日
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慧可(えか、仏暦950 ?1056年))は、洛陽武牢(河南省栄陽郡)に生れ、儒教や老荘思想を学んだが得心せず、香山の永穆寺で得度(僧侶入門の儀式)をしました。出家後は各地を放浪し、さらに香山に戻り8年間修行を続けますが疑念を解明出来ず、嵩山(すうざん)の少林寺で面壁(壁に向かい座禅を組む)していた達磨に面会し弟子入りを請いました。達磨は断ったが慧可はあきらめず自らの腕を切り落として、弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されます(雪中断臂)。実際は元から臂(ひじ)がなかったため、この伝説が作られたのですが、達磨の伝統(法統)を継ぎ、禅宗第2祖となります。弟子の鑑智僧?(がんちそうさん)を育て法統を伝えたが、城安県での布教中、匡救寺の僧弁和が慧可を憎み、「講席(講義の席)を打破した邪見の道人」であると讒訴(ざんそ)し、弁和の訴えを聞いた県令は慧可を捕らえ、取調べなしに処刑しました。
2012年01月30日
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達磨(だるま:ボーディダルマ)は禅宗(仏祖の言葉は解釈によっていかようにも変わってしまい、悟りは文字によって得ることはできない、そのための臨機応変な以心伝心で悟りへ近づく方法をとり、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとの特徴をもつ宗派)の開祖とされている人物です。南インドのパッラヴァ朝で国王の第三王子として生まれ、宋(南朝)の時代(遅くとも仏暦940年以前)に中国南方へ渡海ました。梁の国の武帝(在位仏暦965-1012)が「私は今までたくさんの寺を造り僧を育てて来た。これはどのくらいの功徳になっているだろうか」と聞くと達磨大師は「功徳は何もない」と答え、「では仏教における聖なる真理は何か」と聞くと大師は「空っぽで何もない」と答え、更に武帝が「何もないというのなら、お前は何者だ」と聞くと「知らぬ」と答えました。武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かい洛陽郊外の嵩山(すうざん)少林寺で9年間、壁に向かい座禅を組んで悟りに達しました。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができませんでした。
2012年01月27日
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道教や儒教の思想を借りて仏教を解釈(格義仏教)し、不老長生術や黄老信仰の一つとして支那に入った仏教は、後漢の桓帝(かんてい:仏暦609-630)・霊帝(れいてい:仏暦631-652)時代に安世高(あん せいこう)・支婁迦讖(しるかしん)らの訳経僧が最初の漢訳仏典を提供しました。摂摩騰(しょうまとう)による漢訳は伝説にすぎません。安世高は安息国(パルティア)の太子でしたが、王位を伯父に譲り、出家をこころざし、諸方を遊歴しました。安息国では、部派仏教に属する説一切有部が流行していたため、世高は禅や阿毘達摩に通じており桓帝代の建和2年(仏暦611)に、都の洛陽に来朝しました。支婁迦讖は月氏の出身で支那に来朝したのは、桓帝代の末期(仏暦630)であり、安世高の来朝よりは少し遅れて洛陽に来て、初めて大乗経典を漢訳しました。
2012年01月26日
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百済は聖明王のとき、高句麗を攻め、漢山城 (京畿道広州市付近)の奪回に成功しますが、翌年、それを今度は新羅に奪われてしまいます。韓半島ではその後も百済、新羅、高句麗の3つ巴、あるいは伽耶を含めて4つ巴の戦いが続きます。百済はこういう戦いの間、倭国に救援要請を申し入れます。そして軍事協力の見返りとして、医博士、易博士、暦博士や人質を倭国に派遣し、卜書(占いの本)、暦本、種々の薬物など先進の文物を送ります。仏暦1001年(皇紀1199)聖明王の「仏教公伝」(仏像・経典などを含む仏教が、国家間で公的に伝えられたこと)も百済が倭国へ供与した先進文化の一つでした。その聖明王も仏暦1017年(皇紀1215)、戦死します。それは半島南部の戦線にも影響を与え、倭国が「任那」の最後の拠点としていた阿羅伽耶は、ほどなく新羅に併呑され、倭国は半島の足がかりをすべて失います。
2012年01月25日
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楽浪郡の漢人と通商することで韓半島に徐々に百済(馬韓)・伽耶(弁韓)・新羅(辰韓)の3国らしきものができ、倭人比率が高い順に並べると、弁韓>辰韓>馬韓となります。倭国は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、宗像族(海人、漁撈民の一大勢力)を支配下に置き、半島ルートを掌中にしました。弁韓は任那ということで倭人が倭国の一部として扱っており、辰韓の初期王家は倭人系、馬韓にも倭人豪族はたくさんいました。倭国がそれほど拘った理由は「鉄の確保」にありました。また倭国は伽耶=任那=金管伽耶を拠点に楽浪郡と通交していました。仏暦776年(皇紀974)、高句麗という北方の蛮族が楽浪郡を滅ぼし、楽浪郡崩壊で知識も技術も宗教も同時に韓3国・倭国に放出されました。韓3国はそれぞれ倭国に贈り物をして救援を求め、安全を保障してもらおうと一時的に倭の属国となりました。倭国も覇権を守るために高句麗と激しく闘いました。これが好太王碑に「倭の大王は百残(百済の蔑称)・新羅を臣民と成し」とかかれた実態で、倭の大王は応神天皇です。
2012年01月24日
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仏暦355年(皇紀553)、韓半島西部にあった衛氏朝鮮(支那人亡命者である衛満が韓半島北西部に建てた)を滅ぼした漢朝により設置された韓半島北部の植民地を管理する地方行政機構で、真番郡(しんばんぐん)、臨屯郡(りんとんぐん)、玄菟郡(げんとぐん)と共に漢四郡(かんよんぐん)と称されました。仏暦381年(皇紀579)に真番・臨屯が廃止され、臨屯郡北部の7県は楽浪郡に編入されました。玄菟郡も仏暦388年(皇紀586)には遼東半島に移転しています。楽浪郡は朝鮮県など25県を支配し、その戸数は6万2812戸、口数は40万6748人です。郡東部の嶺東(日本海側)7県には軍事組織として東部都尉が置かれ、郡の南部には南部都尉が置かれていました。稲作技術や製鉄業の進んでいた大国の倭も、韓半島に進出していましたが、東方における中華文明の出先機関である楽浪郡の支那人との通商により、仏教や漢字等を受容しました。
2012年01月23日
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西北インドからアフガニスタン、パキスタン地方に伝搬した仏教は、シルクロードの隊商とともに、次第に支那に伝搬しました。シルクロードは前漢の時代(仏暦324年)に張騫(ちょうけん)が開いたものです。後漢の光武帝の第4子である明帝(めいてい)は、夢の中で、頭から後光のさした神人に出会いました。夢判断で西方の仏陀と知り急いで禁門の守衛の蔡?(さいいん)を天竺(インド)につかわし仏法を求めました。蔡?は沙門の摂摩騰(しょうまとう)・竺法蘭(じくほうらん)を連れて洛陽に戻りました(仏暦531年、皇紀728年)。二人の僧は白馬寺で、仏教経典の最初の漢訳を行いました。「中華思想」と呼ばれる支那中心主義と「道教」「儒教」という既存宗教が外来の仏教を強く拒絶し鳩摩羅什が現れるまで異国的な仏教は支那にはなかなか受け入れられませんでした。当時の伝道者は、道教や儒教の思想を借りて仏教を解釈する(格義仏教)ことで、まずは仏教の定着を図ります。
2012年01月20日
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訳経者として著名な鳩摩羅什(仏暦813-872頃)は、インドの貴族の血を引く父と亀茲国(きじこく:新疆ウィグル自治区のクチャ付近にあった大きなオアシス国家)の国王の妹ジーヴァカとの間に生れました。羅什は七歳で出家し当時の亀茲国で盛んであった小乗仏教を学びました。九歳の時、母とともに西北インドのカシミールへ向かい、そこで説一切有部(せついっさいうぶ)系の小乗仏教を学び十二歳の時、母と共に亀茲国へかえります。帰路、沙勒(カシュガル)で大乗の空の思想を教えていた須利耶蘇摩(すりやそま)に学び、今までの教えを否定する大乗の思想に驚嘆しました。仏暦864年12月20日、鳩摩羅什は国師として長安にはいり経典の漢訳を始めました。龍樹の中観仏教を支那にもたらした最大の功績者は、羅什でした。
2012年01月19日
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仏暦260年頃より、匈奴に圧迫されて移動した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着しました。これを大月氏と呼びます。大月氏の一派がクシャーナ朝をひらきました。クシャーナ朝は、中央アジアから北インドにかけて、仏暦500年から800年頃まで栄えたイラン系の王朝で、その全盛期を確立したカニシカ王は、中央アジアから支那、西はアフガニスタンからイランに接する大帝国を統治し首都を現在のペシャワールにおきました。王は説一切有部(森羅万象を構成する法を想定し、これは過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在するが、それを経験・認識できるのは現在の一瞬間だけである)という教団を支持しました。王はカシュミールで5百人のアラカン(修行僧)を招集して十二年の歳月を費やして、経・律・論の三蔵の「第4結集」を行い、仏教が中央アジア、支那に伝道される推進力となりました。
2012年01月18日
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倶舎論は『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)の略で、仏教哲学の基本的問題を整理したものです。「阿毘達磨」は、「法に関して」という意味で、「倶舎」とは容れ物(蔵)の意味で、阿毘達磨の教理の全てがこの中に納められているという意味を持ちます。600の偈文(げもん:賛歌)と、その注釈の散文で出来ています。界品(存在の種類)・根品(存在現象の活動)で基礎的範疇を説明し、世間品(世界の構成)・業品(有情の輪廻の原因となる業)・随眠品(有情の煩悩)で迷いの世界を解明し、賢聖品(さとりの段階)・智品(智慧:ちえ)・定品(禅定:ぜんじょう)で悟りに至る道を説いています。最後に破我品で異説を論破しています。
2012年01月17日
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龍樹(ナーガルジュナ)に始まる 空の思想を「中観」といいます。 さらに続いて弥勒(マイトレーヤ)や 世親(ヴァスバンドゥ)が出て、 「唯識」をおこしました。 唯識では成仏には三大阿僧祇劫 (さんだいあそうぎこう:数えることのできないほどの) と呼ばれるとてつもなく長い時間の修行が必要だとされています。 修行の結果悟りを開き仏になると、 8つの「識」は「智」に転じます。 これを転識得智(てんじきとくち)といいます。 五識は成所作智 (じょうしょさち:なすべきことを成し遂げる智)に、 意識は妙観察智(みょうかんざつち:十分に観察する智)に、 末那識は平等性智 (びょうどうしょうち:自己と 他人とは平等で有ると知る智)に、 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち:ありのままに観じ取る智)に 転ずるとされています。 転識得智の考え方は天台宗や真言宗にも受け継がれています。
2012年01月16日
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唯識はインドで成立し、中央アジアを経て、支那・日本と伝えられ、さらにはチベットにも伝播して、広く大乗仏教の根幹をなす体系です。倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれています。諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つです。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識(末那識:まなしき、阿頼耶識:あらやしき)を指します。唯識は、認識論的傾向を持つ思想体系です。瑜伽行唯識学派は、中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)で制御し、また変化させて悟りを得ようとしました。
2012年01月13日
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六波羅蜜(ろくはらみつ)の、波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミターのことで、「究竟(くきょう)する」「彼岸に至る」「渡る」ということです。「究竟」というのは、真理を究め尽くし、仏道修行を完成した境地のことをいいます。八正道が主に個人の悟り(救われ)を目的とした修行なのに対し、六波羅蜜は他の人にも悟らせる(他の人も救う)修行です。その修行を六つに分けて説いているため六波羅蜜といい、それは「布施(物を施すこと)」、「持戒(身を慎むこと)」、「忍辱(寛容な忍耐)」、「精進(継続して努力すること)」、「禅定(落ち着いた心)」、「智慧(真理を見極めること)」の六つです。この考えは、仏陀の頃からあったのですが、このように体系づけられたのは大乗仏教になってからです。
2012年01月12日
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「空」のサンスクリットの意味は、欠如で、インド人が発見した0(零:ゼロ)という数字を表します。当初の経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられました。『般若経』(仏暦460年:垂仁天皇頃)が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想ではありません。初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は上座部仏教(小乗)を批判します。上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説き、般若波羅蜜の体得が強調されます。龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの上座部仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しました。すべてのものは実体がなく空である(無我:無自性)という見解を表明しています。
2012年01月11日
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中観の教理の基盤は、般若経の教えです。この世のすべての現象は、存在現象も含めて、原因(因)と条件(縁)によって生起(縁起)しており、その現象はそのまま他の現象の原因もしくは条件となっています。現象にそれ独自の固有な本性があるわけではなく無我であり、空性(くうしょう)であり、現象は「空」という「相」を持っているとします。真実には存在しない現象を、人間が誤って認識するために様々な名称をつけていますが、現象自体が空なので、我々が現象を認識することそのものが誤りであり、すべてのとらわれから離れた、いずれにも偏らない「中(ちゅう)」の立場でなくてはならないという中観(空)の教えは、大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えました。唯識学派の論理学や認識論を中観の立場から解釈し中観の学説の下に瑜伽行唯識学派の学説を配置することによって両学説の統合を図る折衷的立場は、それぞれの名から瑜伽行中観派とも呼ばれます。
2012年01月10日
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インド仏教の特徴は、認識論的な考え方にあります。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けられません。さらに、修行によって得られた智慧を重要とみています。それが中観派や瑜伽行唯識学派という潮流を形成しました。この特徴はチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されています。般若・空の思想から中の思想が生まれ、中観派が作られ、方便・識・有の思想から唯識瑜伽行派(現象的存在はわれわれの意識の所産であり、現象と心・実在とは常に一致(瑜伽)すべきであると主張する学派)が形作られていきました。智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものです。インド仏教の最終形態として密教に至りますが、これは仏教が西方に伝播される時、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものです。密教はこの「般若(知恵)」と「方便(現象的存在)」を、いわば方便の思想で統一することに成功した、仏教最後の思想運動でした。
2012年01月06日
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無というのは有に対する対立概念ですが、空はその両者を超えた概念です。善か悪かの二元的発想では世界を正確に分析し、問題を解決するのは難しい、善でも悪でもない無数の問題が発生します。一見対立する如く見える現象を超えて、もう一つの要素をおくことで両者を超越する方途が見えてきます。すなわち空は有でもなければ無でもない、と同時に空であり無でもあり、また、有と無以外のものでもある。空の理論家・ナーガルジュナ(龍樹)は「中論」でシッダ-ルダの悟りをこう説明しました。これは、形式論理学から言えばまったくありえない論理ですが、集合論的論理学では成り立つ論理です。例えば、幾何学で用いる点や線はあるのかないのか。長さだけあって幅が無い線や、位置だけを示して大きさをもたない点など現実世界にはありえません。人の識のなかにあるにすぎないのです。点も線も有でもなく無でもない、それは有であると同時に無です。それは有無以外のもの、すなわち空なのです。
2012年01月05日
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龍樹(ナーガルジュナ)は、若くして学識の誉れは高かったが、三人の友人と幻術を学び、陰身(おんしん)の秘術を習得し、自由に遊びまわりました。しばしば王宮に忍び込んで王の後宮にいる美女をみな犯してしまいました。百日余りして懐妊するものが多く、彼女らが王のもとに行き告白し処罰の許しを願いました。ことがあらわれて三人の友は斬られましたが龍樹だけは、王のそばに逃れ身をひそめていました。王の周りでは刃物をふるうことが禁じられていたのです。彼は愛欲が苦悩と不幸の原因であることに目覚め、もし自分が王宮から逃れることができたら出家しようと誓いました。逃走に成功した彼は、山上のストゥーパ(塔)を訪ね受戒し、出家しました。小乗仏教から勉強を始めた彼は、なお論理に欠けるところがあること気づき、仏陀の教えを深めて大乗仏教を樹立しました。
2012年01月04日
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