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こんばんは。 街を歩くと、マイケル・ジャクソンのポスターや在りし日のプロモーションビデオをよく目にしますね~。 同い年ということもあって、オイラの青春時代はすごく気になる存在でした。 …というか、当時、オイラの唯一の自慢は、全盛時代のマイケル・ジャクソンと同じ身長と体重ということでしたから。 そういえば、トシちゃん(田原俊彦氏ですので、念のため)も、「日本のマイケル・ジャクソン」を目指すといつも言っていたのを覚えています。 スリラーやBADのビデオを見てしまったら、誰でもその類まれなダンスに心が浮き立つはず。 オイラも、身長・体重が同じというだけでは満足できず、マイケルの動きまで真似してみたいと思ったのです。 当時はビデオなんてなかったから、テレビを見ながら頑張って真似して踊ってみるのですが、常人では、とてもあの素早い動きに対応できない。 トシちゃんの「哀愁でいと」や「原宿キッス」は、バク転も含め、かなり忠実にコピーできたと自他ともに認めているのに…。 マイケルの兆速のダンスには、一歩たりとも近づけなかったですね~。 ムーンウォークなんて、いくら普通の人間が努力しても、絶対あの水準には到達できないのではないか。 でも今、マイケル・ジャクソンの当時のプロモーションビデオを見て気づいたことがあるのですよ。 身長・体重は同じでも、足の長さが倍ほども違っていた…。 そんな簡単なことに気づかず、マイケル・ジャクソンにあこがれていたなんて…。 天国のマイケルに謝りたい。 やっぱり、若いのは怖い、と感じる今日この頃です。 …ということで、またしてもお散歩ネタ。 今回行ったのは、埼玉県の東北部にある加須。 かつて、奥州街道の脇往還沿いの宿場町として栄えたらしい。 ここへ行ったのは、まだ行ったことのない町ということもあるのですが、当日は天気予報で、午後3時頃から雨が降ると言われていたから。 朝早くに家を出て、3時頃までに観光スポットをまわれるウォーキングコースだと踏んだからなのですね~。 雨が降るとわかっていて、山歩きはかなりハードですし…。 それはともかく、加須という地名は珍しいですよね。 地元の人でないと、読めないかも。 加須は、「かぞ」と読むそうな。 地名の由来をネットで調べてみると、いろいろな説があるそうですね。 たとえば、この地方の古刹を創建した人の名前に由来するとか、有力なお寺の別名に由来するとか、あるいは江戸時代の新田開発に由来するとか。 新田を開発すれば、石高が加増しますから、加増がなまって加須…。 どれもありそうな理由ですが、立派なお寺があって、広い田んぼが広がる土地だったのは想像できます。 それから加須は、「鯉のぼりのまち」としても有名らしい。 なんと、鯉のぼりの生産量日本一を誇るそうな。 それは知りませんでしたね~。 行った日は、五月の初旬でしたが、やけにたくさん街中に鯉のぼりを見かけると思ったらそういうわけだったのですな。 …ということで、ウォーキングのスタートは、東武伊勢崎線の加須駅。 どんよりと曇った空で、今にも雨が降り出しそう。 天気予報どおり、午後3時までは雨が降らないでくりぃ~と祈りつつ、歩きはじめました。 まず向かったのは、駅から程近い場所にある千方神社。 「せんぽう神社」や「せんかた神社」ではなく、「ちかた神社」と呼ぶらしい。 「千方」という社名は、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の六男藤原千方が由来らしい。 ということは、かなりの歴史がある神社ということですな。 お祭などイベントがあるときは、露店なども出て賑やからしいのですが、静かな雰囲気が漂っていました。 千方神社から古い家が建ち並ぶ道を通って向かったのが光明寺。 このお寺は、戦国時代の1571年に開山されたとのこと。本堂前には浄土宗の宗祖法然上人の銅像があります。 清潔感漂う境内に足を踏み入れると、背筋がピーンと伸びますね。 光明寺の裏手にあるのが、会の川。 この川の風景は、家の近所にあって今は暗渠になっている昭和時代の立会川の景観によく似ているんですよ。 もちろん、こんなに川幅や道幅は広くなかったですが。 川沿いを歩いてゆくと、やはりこの川も暗渠になっている部分があって、会の川親水公園となっていました。 この公園は、平成6年に完成したのですか。 水遊びのできるせせらぎや花壇、ベンチなどが設けられています。 噴水の水だまりでは、かなりの大きさの鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。 さすが、鯉のぼりの街だけあって、鯉のぼりのモニュメントもありましたね~。 しばらく親水公園を歩くと、再び川の流れが顔を覗かせます。 やっぱりオイラは、こっちの景観のほうがノスタルジックな気分に浸れるような。 昭和の時代には、うちの近所にもこんなレトロな石の橋もまだ残っていましたね。 しかも、まわりの商店を含めた景観が当時にタイムスリップしたかのよう。 そんな懐かしい街並みを歩き、次の目的地の龍蔵寺に到着しました。 寺の門前で、絵を描いている人がいましたが、絵に残したくなるくらい見事な朱色の門です。 この寺は、南北朝時代の1355年に開山されたとのこと。 解説板には、この寺にちなんだ伝説が書かれていました。 なんでも、このあたりは昔、鬼島といわれ、邪悪な白龍が棲んでおったそうな。 教蔵上人という偉いお坊様が、これを退治し、この龍蔵寺を創建したのですね。 白龍の飲料水であったという龍水井戸や退治した白龍の亡骸の頭のところに植えたという大イチョウが境内にあります。 その大イチョウは、樹齢約650年、幹回りが4.3メートルもありました。 オイラが持っているガイドブックでは高さ50メートルとあったので、こりゃまさにスカイツリーを連想したのですが、どうやらミスプリで、実際は高さ約20メートルみたい。 江戸時代には、徳川幕府から寺領を保護され、3代将軍家光から14代家茂にかけての9通の朱印状が当寺に保存されているのですな。 1835年から9年間の歳月をかけて完成した本堂は荘厳で、将軍家からも厚く保護された風格が伝わってきました。 ゆっくりしたいところですが、いよいよ厚く雲がたちこめ、いつ雨が降ってもおかしくない天候。 先を急ごうと、大通りを渡り、住宅地をテクテク歩き、加須パイパスを越えて前進します。 そして着いたのが、市民運動公園。 ここはその名の通り、野球場やテニスコート、陸上競技場、プール、体育館を備えた加須市民のための運動公園なのですね~。 行った日は、少年野球大会が開催されていたようで、多くの子供や保護者が野球場に集まっていました。 これから雨が降るというのに、その熱意に脱帽です。 この程度のコンディションで中止していたら、将来のハンカチ王子やマー君は現れないのかも。 市民公園の中央広場に、平和の鐘と呼ばれる時計塔があります。 高台からは、公園が一望できました。 藤棚もあったりして、一休みするには最適かも。 しかし、雨雲に追われているオイラは、休憩もそこそこに次の目的地へ向かいます。 田んぼの中の車道沿いにあるのが首なし地蔵。 首なし地蔵というからには、ミステリアスな伝説があるのかと思いきや、解説板には、「地元では、願い事がかなう地蔵尊として信仰され、願いが叶うと前掛けを奉納する習わしがある」と記載されていました。 首があるように見えるのですが、どうやら普通の石を乗せているみたい。 この地蔵は、江戸時代まで、付近にあった喜福寺という寺院の境内にあったもののようで、喜福寺が明治の廃仏毀釈によって廃寺になったため現在地にうつされたそうですね。 願いをかけようと思ったのですが、願いが叶うと前掛けを奉納しに来なければならないので…。 そして最後に向かったのが、関東三大不動尊の一つとして江戸時代から信仰を集める總願寺。 このお寺は、江戸時代の初期に總願上人によって開山されたそうですから、いままで参拝した神社仏閣より歴史は新しいのですね。 急速に発展したのは、館林城主の庇護を受けたところが大きかったそうな。 ちなみに、関東三大不動尊とは、このお寺のほかに成田山新勝寺と高幡不動なのだとか。 どちらも、地元の人たちばかりではなく、多くの地域から信仰を集める大寺院です。 オイラのブログでも、ご紹介しましたね~。 …ということは、このお寺をお参りすれば、関東三大不動尊を全部お参りしたことになるのですか。 これは、ご利益が期待できそう。 境内の広さや門前町の大きさは一番小さいものの、趣のある建物が並び、さすが由緒あるお寺の風格を感じました。 まずは、金色の山門。 百年ぶりの大改修の一環として、山門の改修が行われたみたい。以前朱色から金色に生まれ変わったのですか。 金色とは珍しいかも。 本堂は、幕末近くの1844年に建立されたらしい。解説板を読むと、本尊の不動尊像は、1039年に古利根川の大洪水でこの付近に漂着したという伝説があるそうですね。 本堂の脇には、鎌倉時代末期に作られたという散蓮華模様青石塔婆という板碑がありました。 珍しい模様なのだそうですが、素人にはよくわかりませぬ。 そして注目すべは、境内の西側にあるこの黒門。 なんと、1842年に作られた忍城の城門だったとか。 それを明治6年に移築したそうですね。 お寺に来て、城の遺構を見られるなんて得した気分。 …と思ったら、ポツポツとお約束の雨が頭上から降ってきました。 時計を見ると、午後2時半。 雨に追われたウォーキングも、どうやら逃げ切ったようですね。 でも、加須駅まで土砂降りの中をトボトボ歩く時間は計算に入れてなかったのでした。
2009年07月11日
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こんにちは。 今日は、川越シリーズの2回目。 前回は、大雨の中、喜多院を見学したのでした。 これからいよいよ、川越のメインストリートを歩くぞ、と意気込んで、蔵の町エリアへやってきました。 でも、喜多院をじっくり見学したので、昼時をかなり過ぎている。 腹が減ってはウォーキングができぬと、少し遅めの昼食にすることにしました。 洗練された観光地のいいところは、飲食店の情報が充実していることですよね。 朝、バスに乗る前にもらったパンフに書いてある飲食店を探します。 オイラが選んだのは、札の辻という蔵の町の中心地から程近いところにある和食レストラン。 芋釜めし、とはちょっと珍しいかも。 そういえば、川越はイモを使ったお菓子や料理が名物なのでした。 千円とちょっとなので、さっそくそれを注文です。 これが芋釜めし。 若干、食いかけですが…。 オイラが、お散歩先でグルメ写真をアップするのは極めて珍しいですな。 いつも、ファストフードばっかりだし。 どこへ行っても、名物店は混んでいて、とても並んで入る気が起きないのですが、雨の日はどこへ行ってもすいているのがいいですね~。 芋釜めしを食べ、外へ出ると相変わらずの雨。 しかも、完璧にさっきより雨脚が強くなったのがわかります。 でも、驚いたことに、決して少なくない観光客が傘をさして歩いているんですよ。 この悪天候の中ですから、晴天だったらすごい人ごみになっていたかも。 ポジティブに考えるようにして、まず川越のランドマークタワー「時の鐘」へ。 高いものを見ると昇りたくなるオイラの琴線に触れる塔ですな。 高さ、16メートルというからそれほど高くはありませんが、まわりに高い建物がないのと、何と言っても木造板張りのタワーって珍しい。 そんじょそこらのビルとインパクトが違います。 地上600メートルを誇る東京スカイツリーも、ツリーと言うだけあって、ホントに木造で作ったらすごいでしょうね。 怖くて誰も昇らないでしょうけど…。 それはともかく、この「時の鐘」。 初代は、江戸時代初期に川越城主の酒井忠勝が、こことは別の場所に建てたものが最初らしい。 現在の鐘は四代目だそうで、明治半ばの再建だとか。 中は3層になっているそうですね。 時の鐘というくらいだから、江戸時代から約350年間も、川越の町に「時」を告げてきたのですな。 現在は、毎日、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が鳴り響くのだとか。 誰が一日4回もここに昇って鐘を撞くのだろうと思ったら、今は機械仕掛けなのですか。 でも昔は、ここに昇って鐘を撞く人がいたのでしょうね。 高いところと、鐘を撞くのが好きなオイラは、物欲しそうに見上げます。 時の鐘の周辺は、ご存知、蔵造りの店が並んでいます。 重厚な黒い壁、そして堅牢な瓦屋根。今でも地方の古い町へ行くと、たびたび土蔵造りの店蔵を見ることができますけど、これだけ一そろい蔵が並ぶ景観は珍しい。 さすが「小江戸・川越」と思ったのですが、これらの蔵のすべてが江戸時代からのものではないそうですね。 なんでも、明治26年の川越大火があったとき、江戸時代から続く蔵造り建物が無事だったそうなんですよ。 それで火事に強い建物ということで、これだけ多くの蔵造りの建物が作られたとのこと。 現在、この周辺は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、つい最近には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されたらしい。 きっと、江戸時代の日本橋とか、当時の繁華街はこんな感じだったのかもしれませんね。 昔に思いをはせ、ボーッと美しい街並みを眺めていたかったのですが、どんどん雨が強くなってきて、このままではやばい状況に立たされそうだったので、雨宿りすることにしました。 おかげさまで川越には、雨宿りする場所には事欠かないのですね~。 まず向かったのは、すぐ近くにある川越市蔵造り資料館。 入館料100円なのもうれしい。 ここは、かつて川越大火の直後に、当時、タバコの卸商を営んでいた小山文造氏が建てたものだとか。 つまり、明治時代の中頃に建てられたのですな。 でも、江戸時代の雰囲気もよく残しているのではないかと思いました。 通りに面していて、間口はそれほどないものの、奥行きがすごくあるところ、とか。 通りに面している部分は、店蔵や住居部分、そして奥に行くに従って、文庫蔵や煙草蔵、そして文庫蔵の順に並んでいます。 小さな庭もあって、通りの喧騒とは別に静かな雰囲気が漂っていました。 この庭からも「時の鐘」が見えます。 当時ここに住んでいた人は、東京人が東京タワーを眺めるイメージだったのかも。 店の二階から、広い通りを覗けるのですが、鉄格子越しに外を眺めるのは不思議な気分。 二階へ上がる階段は狭くて急だし、しかも出入り口は一つだけ? 窓には鉄格子がはまっているし、火事のときはどこから逃げようかと避難路を考えてしまいました。 防火性が高いから、窓を閉めて篭城してしまえば大丈夫なのでしょうか。 店蔵には、レンガ造りの地下貯蔵庫も設けられていて、城好きとしては抜け穴などいろいろイメージが膨らみます。 もうひとつ別の蔵も見学しようと、次に向かったのは大沢家住宅。 なんと、この建物は重要文化財なのですね~。 作られたのは、江戸時代中期の寛政年間とのこと。 当時は、呉服太物を商っていた店蔵らしい。呉服はわかるけど、太物って何?と思い、この前買った電子辞書で調べてみました。 何でも、絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物を総称した語らしい。 載っていたのはさすが広辞苑ですが、説明が難しくてよくわかりませぬ。 要するに、着物関係を扱っていたお店なのですな。 この建物は、明治の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つなのだとか。 蔵の町・川越のルーツともなった建物なのですね。 一階は、今でも川越観光のおみやげ物を売っていましたが、二階は見学できるそうなので入館料を払って入ります。 話好きなおじさんが一生懸命解説してくれて、独特の建築様式がよくわかりました。 太い大黒柱が二本もあり、二階は、16畳の広間のほかにも四部屋もあるのですね。 お城や古民家を見慣れているオイラでも驚いたのは、箱階段の幅が狭くて急なところ。 ここを日常、平気で上り下りしていたのだから、当時の人たちのバランス感覚はすごいと思いました。 「いや、あんなものじゃないよ、こっちを見てご覧よ」とおじさんに言われて、今は使われていない裏の階段を見せてもらいました。 おおおお~、すごい!! ほぼ垂直の階段。 上から覗き込むと、階段と言うより、切り立った崖を上から見下ろすような感じです。 しかも、手すりがない。 現代人の会社や住宅にこんな急な階段があったら、日に何人かは転げ落ちる人が出るのは間違いない。 打ち所が悪ければ、天国へ行く人も出るのではないか。 でも、当時の人は平気で荷物を持って上り下りしていたのだとか。 おじさんに聞いてみると、爪先立ちで上ったり下りたりしていたそうですね。 かかとは使わなかったそうな。 もっとも、かかとを置くほど階段の奥行きがありませんが。 江戸時代や明治時代の人たちが小さくてやせているのはわかりますが、軽業師のような身のこなしができていたのは意外でした。 大沢家住宅を出て、最後に向かったのは菓子屋横丁。 観光のために作られたのなら、昭和ブームのいいところに目をつけたなと考えていました。でも、ここはもともと、明治の初めから菓子を製造していました地域なのですね。 なんでも、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになったとか。 現在も十数軒の店舗が集まっているのですね~。 昭和の街並みと昔食べた駄菓子を楽しみにしていたのに、大雨で閑散とした雰囲気。 前回来たときは、すごい混雑していて、駄菓子をゆっくり買う気がおきなかったのですが、すいていると逆に店に入りづらかったりして…。 イモのアイスクリームを食べたいと思っていたのですが、行った日は寒いくらいだったのでパスせざるをえませんでした。 もっとも、昭和の下町も大雨の日はこんな感じだったなとノスタルジックな気分に浸りながらバスに乗り込んで駅へ向かったのです。 …が、しかし。 川越の駅についたとき、またも大失態を演じたことに気づきました。 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~また、七福神めぐりの最後のお寺をお参りするの、忘れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ また、いつか川越へ行かねばなりませぬ。
2009年07月03日
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