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6月2日しいちゃんのアトリエ舞踏199こじゃがじゃが悲恋五句老人ぶんかこじゃがじゃが 土曜の朝、貸農園にでかけた息子が大きなバケツに一杯 きれいなメイクィーンを収穫してきた。台所の床で大小によりわけると、親指の先より小さなこじゃが残った。絶対に売ってないチビサイズ。半分だけさっと茹でて夜の牛筋肉カレーに入れてみたころころ可愛くてうまい。楽しくてうまい。かわうま、たのうま。残りは朝、ウィンナと炒めグリーンのさや豌豆をちらした。畑でちびいもだけを作れないから、出回らないけどこれフレンチやイタリアンで使えそう。エルサイズは肉のつけあわせに、茹でてサラダかマッシュ。 エムサイズは肉じゃがかおでん用。娘の家とその子さんちにも、どこにもあるじゃがいもだけどエッヘンて自慢して送ってあげよう。畑にいつも来る腹がオレンジ色の鳥が、土の中のみみずや虫を貰うと近くの電柱で食べてたのが、口にくわえて飛んでいくとまた戻ってくると言う。巣に雛が生まれたのかな。私は親しか見てないが、去年一度だけ子供を連れてきたと言うからまた、親子で来るかもしれない。私は最近畑に行かなくなったが、こんど行ってみよう。悲恋五句殺しの場ひとおもひけり稲妻に 加藤三七子野の八方凍てきって泣くところなし 鷲谷七菜子春寒やふたたび逢えぬひとの顔 日野草城春泥に捨つ恋ひとつ曳きあるく 小林康治埋め火や暗じゐたる彼の私語 山田みずえろうじん文化静岡駅に近いホールには40名ほどの詩人たちが集まっていた。酔うほどの酒も出なかったが、平均年齢70歳みんなおおいに元気だ。ようやく若者を仲間にすることをあきらめたようだ。それでいいと思う。人生終りが近い人間とこれからの若い人間が、同じことを考える方が不思議だ。詩人は、まづ何を思うかが問題であって、その主題をいかに書くかは、書いていくうちに身につくものだろう。会場にいるのは、高い書く技術を持っている詩人ばかり。それなら老人の老人による老人のための詩を書けばいい。若者を刺激するほどの円熟した詩を書けばいい。実は詩のマーケット(主に出版)は、暇も金もある老人のほうが若者より大きい。そのことにマスコミと出版界が気づけば詩だけではなく、俳句や短歌、随筆や小説の老人文芸が飛躍的発展をし、沈滞した文芸全体を元気づけられるはずだ。狭い会場内にあふれる老詩人たちのエネルギーをみていやいや詩の未来はあきらめることはないのだと思った。※ この下空間多し
2014年05月28日
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5月30日しいちゃんのアトリエ舞踏198ああ結婚 城ケ島の雨 オチビの浜木綿※宇多田ヒカルが結婚式をした南イタリーの海の町ああ結婚新宿の高層マンションから飛び降り自殺した演歌歌手藤圭子の娘宇多田ヒカルがイタリアの町の教会で結婚式をしたそうだ。再婚相手は若いロンドンのバーのバーテンダーで逆玉結婚だと話題をまいている。逆玉って英語でなんと言うのかなあ。大富豪の未亡人とか・・世界のお金持ちは男ばかりじゃない・・ネットはついでに世界の離婚率や、離婚した家庭の子供のいる割合、親切にも離活とか言う賢い離婚のしかたについて指南記事まで沸騰。お金の心配もなくいつでも離婚できることも真の女性の自立だと説く。ちなみに最近の1年間の日本の結婚数は668869組、離婚数は235406組世界的にみれば離婚率は低いが、子どものいる離婚が13734組でなんと離婚の58%。子連れ離婚がこれだけ多いと、女性の経済的自立と、男女とも再婚の道を真剣に考えないといけない。 最近のアメリカの調査では、ネットで知り合った男女のほうが友人の紹介などよりも離婚率が低く、満足度が高いと報告されている。最初、事件にまきこまれるとか、怖い印象もあったネットが、ここまで信頼さている事実に驚いた。意外と本音が書けるネットを忙しい現代の人間の、大切な愛のツールとして改めて認識した。 これからは老若男女とも、恋愛能力が生きる必須アイテムになるかなどと、外野席でヤジウマおばさんは今日も姦しい。城ケ島の雨 作詞:北原白秋 作曲:梁田貞 雨は降る降る 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨が降る 雨は真珠か 夜明の霧か それとも私の 忍び泣き 舟は行く行く 通り矢のはなを 濡れて帆あげた 主の舟 ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの 心意気 雨は降る降る ひは薄曇る 舟は行く行く 帆がかすむ オチビの浜木綿 浜木綿と言う植物を御存じですか。息子が落ちていた小さな浜木綿を拾ってきて狭い庭に植えたところ、あれよあれよとモンスターとなって冬に白いピンポン玉の種を50個ばかり実らせるようになりました。ある年そのうちの幾つかを、隣の葵小学校の道路わきの土手に蒔くと翌年、オヤと言うほどの小さな小さな芽が3個だけ顔を出しました。その3個は条件の違いから、一番大きい家康公バスの停留所近くのは、今年はなんと50センチに伸びました。こうなると、春夏の学校の草刈りも除草剤も避けてくれます。次は校庭の土手の角の草の中のが15センチ、最後は校門近くの伐り株の根に蒔いたのが10センチです。夏の暑さにも冬の寒さにも、それぞれが与えらけた環境で必死に生きています。 散歩や100円の観光バス家康公で家に帰るとき、小学校の道を通り、オチビの浜木綿に頑張れと声をかけます。逢いは愛なのですか、浜木綿に逢えば逢うほど好きになります。それが愛の法則なのでしょうか。
2014年05月26日
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5月26日しいちゃんのアトリエ舞踏197新内そしてシェクスピアマツコ・ファミリイ・イン・掛川新内そしてシエクスピアすごく乱暴で勝手な新内とシエクスピア論です。慶喜公の住まいの跡地の料亭で、名人の新内を聞いたことがあります。なんでもその名人が言うには、新内の主人公たちは皆心中をするそうです。哀れな遊女の話が多く、三味線の音に合わせて、大夫がせつなくせつなく語るので、当時の江戸中に心中が流行り、とうとう幕府が心中禁止令を出したそうです。三味線と義太夫語り二人一組で流したのが、人気の原因だった。今でも文楽や歌舞伎の心中ものは人気があります。阿部寛と寺島しのぶの近松心中の舞台で雪の中で首をしめてくれとせがむ寺島しのぶの赤い襦袢と白い足が、妙に色っぽかった記憶があります。東西ことにして、16世紀から17世紀にかけシエクスピアのハムレット、オセロ、マクベス、ロミオとジュリエットリア王も、登場人物たちは心中ではなく、毒殺や剣で殺し合って死にます。ロミオとジュリエットも、死体が累々と重なりカーテンが降ります。日本は二人で、あちらは大勢ですが、とにかく死にます。そして、すべて話は終わります。死が、当時どう捉えられていたのか、不思議な気がしました。シエクスピアは私のような無教養な人間にはあまり面白くない芝居で、拍手に目が覚めると、芝居が終わっていることがよくありました。「ロミオとジュリエット」のバレエはよく見ますがシェクスピアの芝居は見なくなりました。ハムレット役者で思い出すのは、文学座の芥川龍乃助の長男の芥川比呂氏です。ハムレットの衣装が似合う父親似の足の長い端正な顔の俳優でした。できれば死ぬまでに、ひとつだけシエクスピアのセリフを諳んじてから観にいきたいと思ってます。すみません。言いたい放題でした。マツコファミリイ・イン・掛川土曜日に掛川駅近の美観ホールに、吉武マツコ・ファミリーののハートフル・コンサートに行ってきました。マツコデラックスではありません。吉武マツコは住んでいる埼玉や故郷の掛川ではポピュラーな歌手です。静大教育学部に在学中、声楽家の私の姉についた縁で、しばらく私の家に暮らしていましたが上野の東京芸大声楽科受験に挑戦し合格。40年以上昔の記憶に毎年クリスマスに、上野公園内の木造の奏楽堂で芸大生の「メサイア」を聞いた記憶があります。縦長の窓には、えんじ色のビロードのカーテンがかかっていました。マツコは卒業後、芸大美術部の吉武研司と結婚、埼玉に住みコンサート活動をはじめる。息子の吉武大地は芸大出のポピュラー歌手、音大出の萌はフラメンコダンサーで歌手。今回は気のあった親子三人のハートフル・コンサートです。しかし、この一家で一番すごいのは、父親の行動美術の吉武研司。現在、女子美の教授職を定年退職、ロンドンオリンピックで中国がスポンサーの世界の画家二百人展に招待された日本人の六人に入ってました。佐賀大学構内、空港第二ビルスカイアクセス上りホームと地下鉄副都心線の北参道駅の通路で、彼の大きな壁画を見ることが出来ます。芸大を出たばかりの頃の個展を思い出すと、同世代の山本容子に通ずる画風はすでに完成されていました。今は、色彩がより鮮明に大胆になった気がします。ところが、最近の建造物と合体した大きな壁画写真を見ると岡本太郎のような、時代に呼応する激しさを感じました。毎年暮に、埼玉のコンサートで会う静かな彼とは想像できない激しさです。足が悪い姉と行くポルトガル旅行の時に、成田空港で彼の最新の壁画を見ようと思います。一人の画家の四十年の心模様は、たしかに記録されているでしょう。マツコファミリー・コンサートのことを書かなくては。きれいになった萌のフラメンコは突然本物になりました。ひょっとして、化けるかもしれません。この1年よく頑張ったと思いました。大地はとてもいい声です。ここはオリジナル曲のヒットが欲しい。親子の楽しい雰囲気で掛川のお客さんは大喜び茶っきり節をみんなで歌って、楽しいコンサートは終わりました。掛川は静岡から新幹線で15分、土曜の午後の二時間を楽しんできました。
2014年05月23日
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5月23日しいちゃんのアトリエ舞踏196パティシエの卵ちゃつみ家路 パティシエの卵駅ビルのパルシェに寄ったら鈴木調理学園の若い女子のバティシェの卵たちが作った本格ケーキを売っていた。ピチピチのパティシエの数二十人。値段はやや安いくらいだが、にぎやかなこと。基本のカラメルプデイングとシュークムを買ってみた。忘れていたクリームをいれすぎない下に沈むカラメルが濃い正しいプディングだった。シュークリームもきちんと浮気しないシューが入っていた。パティシエは重労働で離職率が高く、人手不足の業界と聞くがバレンタインの新宿伊勢丹本店地下のお祭り騒ぎを見ると日本の女子パティシエはこれからだと思う。個性的な女子のバティシェが誕生するといいな。ちゃつみなつもちかづく はちじゅうはちやのにもやまにもわかばがしげるあれにみえるはちゃつみじゃないかあかみたすきにすげのかさ家路疲れたら家に帰ろう。夕方になると駿府城跡に遊びに来ていた陽気なカラスたちが、カアカア誘いあい真っ赤な夕焼け空をいっせいに西の賎機山に帰っていく。体の大きなカラスは食いだめがきくので昼はみんなで遊びにでかけると言われている。夜は山の大きな木に、みんなで寄り添い眠るのだろう。昔のこと、家にカラスが入ってきたことがある。尖ったくちばしが怖くて、隣の部屋で見ているとあっちこっち歩きまわり、そのうち流し台の汲みおきの水をパシャパシャ浴びだした。それにあきると、水をプルプルッととばして、突然「両替町二丁目花咲き家政婦会25の7688」とはっきり言うではないか。当時の電話局番は二ケタだった。その番号に電話してみると、まもなく自転車で男の人がカラスをむかえにやってきた。散歩の途中公園から逃げたという。カラスをやさしく叱った。カラスの黒い目がごめんなさいと言っていた。カラスにも帰る家がある山がある。寝ることは無防備だから、動物も人間も安心してぐっすり眠れる家が必要だ。みんな疲れたら家に帰ってぐっすり眠ろう。
2014年05月19日
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5月19日 しいちゃんのアトリエ舞踏 195江戸前文部省唱歌 我は海の子 安全日本列島改造江戸前もり蕎麦と寿司の話。どうももり蕎麦の茹で上がりのすすぎ水の温度が気になる。夏に生ぬるかったり冬に冷たすぎるのもまづい。井戸水の温度が一番いい。いつもピタリの蕎麦を出す老舗は、たいがい井戸がある。安いそばチェーン店のもり蕎麦は、夏は瞬間氷水につけて出す。地下数十糎もぐるだけの水道水では、年中適温ばかりではない。もり蕎麦の温度は実は一番大切なことだと、私はいつも思う。蕎麦は信州が本場だが、静岡のタレは東京にくらべてかなり甘い。西にさがるほど甘くなる傾向がある。徳川家康も慶喜も住んでいた城下町駿府には、創業二百年を超す蕎麦屋が何軒もあり、蕎麦好きはみんな足をのばして、おめあての店に行く。さて、寿司は東京に比べると、私の好きな貝があまりないのが不満、そしてシャリは酢合わせが蕎麦と同じく、かなり甘い。ネタも酢あわせも江戸前の築地の鮨屋が伊勢丹にあるが客の少ない日の夜は、シャリが冷えて固くネタになじまない。今週、ホビイ祭りで来た友人が絶賛したのが駅前の松の鮨。酢合わせは江戸前。貝は少ないがネタは豊富で新鮮。老齢の大将がもくもくと寿司を握り、二階に個室、三階が宴会場。炊き立てのシャリの状態がよく安いランチタイムがおすすめ。文部省唱歌 我は海の子 宮原晃一朗 我は海の子 白浪のさわぐいそべの 松原に煙たなびく とまやこそわがなつかしき 住家なれいで大船を 乗り出して我は拾わん 海の富いで軍艦に 乗り組みて我は護らん 海の国※1番と9番の歌詞。夏が来ると歌の会で 歌うたびに歌詞の意味が重くなる安全日本列島改造311以来、地震、津波の不安が列島全域を覆い、日本中の海岸部の地価が下落を続けている。100年間に2度も大津波に襲われた東北の被災地の人たちが前のことを忘れて住み続けたことに不思議な気がしていた。お金持だけが高台に移ったのだろうか。この静岡でも空襲で2200人もの市民が逃げまどい死んだ 事実を、私は子供に話してないことに気づきハッとしたのだ。戦争は大量の人殺しであることを・・・災害は忘れた頃にやってくると書いたのは、寺田寅彦か。静岡県の由井、蒲原の狭い海岸線を走る日本経済の大動脈の新幹線、東名高速道路が、実は地震と津波が起こればずたずたに寸断されることに、国民は311で突然気づかされたのだ。国はすでに山間を走る第二東名を作り、JR東海は山梨長野の山間を通り、名古屋大阪に至るリニアの企画を立ち上げていた。高度経済成長が続いていれば、すでに地震津波対策として田中角栄ならずとも、安全日本列島改造が実施されていたのではないか。たとえ、それが大企業の金儲けのためだとしてもだ。そして、これからの地域経済の振興は、対中央対策だけではない近県の経済共通圏の確立と世界までを視野に発想を変えることだろうか。大胆な発言だが、二千万人以下の国は世界に一杯ある。世界の国々との外交と国防を担う小さな政府と経済的に独立する地方。それには国税と地方税の分け方だがこの税金の問題が話題にならないのは私には七不思議。豊かでない県は仲間に助けられ、仲間とともに頑張ろう。豊かな県は仲間を助け、ともに高い文化圏をつくろう。人工減で衰弱する地方などと、新聞の見出しで書くのは地方差別だ。みんな日本人、みんなで生きていくべきなのだよ。なんちゃってね。またまた老人がって笑うでしょ?
2014年05月18日
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5月16日しいちゃんのアトリエ舞踏194インプット・アウトプット俵万智五首昭和の静岡・葵文庫インプット・アウトプット動物の肉体はみな摂取した食物を、消化吸収し排泄する間にエネルギーを取り出して生きているらしい。きちんと食べること排泄することが、とても大切なのだと。途中で故障がおきるのが、病気と言うわけだ。今週、テレビの二時間トクバンで有名な脳の博士が受験生と老人の認知症予防に、入れた情報はどんどん出せと言う。とくに老人の変化のない暮らしは、認知症の原因だそうだ。入れた情報は電話やおしゃべりなり書くことで、記憶の襞にしまわれるらしい。見たまま聞いたままでは消えていく。そうして脳味噌の記憶の襞が減っていき、認知症にちかづく。しかし、仲間が一人アウトプットの相手になれば認知症は遠のく。認知症予防はトモダチ作戦てことらしい。受験生も詰め込むだけではダメで、例題を沢山こなしてアウトプットすることだと。およそ生涯、生きたいままに生きてきた私と言う人間は認知症には遠いと思うが、肉体の老化があるから先はわからない。 ※静岡県立美術館・ロダンの地獄の門俵万智の五首さりげなく家族のことは省かれて語られていく君の一日焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好きまっすぐに棒を一本刺してくれ脳のだるさにねじれるぼくに昨日逢い今日逢うときに君の言う「久しぶりだな」そう久しぶり深く厳しく我を愛せよ「地獄の門」のロダンの手より※チョコレート革命より昭和の静岡 葵文庫かつて駿府城跡の内堀の一角に葵文庫と言う名の図書館があった。戦火を逃れ戦後一時、進駐軍のGHQ本部として米軍が使っていた。ドア一枚の小さな出入り口は、当時珍しかった虫除けの網ドアーがついた二重扉だった。GI帽をかぶった背の高い鼻のとがった米兵たちが、ジープに乗り出入りしていた。城の中にあった武徳殿は米軍のダンスホールとして毎晩バンド演奏の音楽が鳴っていた。市民の中の娘さんたちがダンスのお相手になっていたのだろうか。彼らの住まいは、焼け残った籠上の洋館や高松の洋館だった。進駐の時のために、焼夷弾をピンポイントで落とさなかったと思った。進駐軍撤退の時、葵文庫は市に返還され、再び市立図書館となった。木造の趣のあった建物に、疎開していた沢山の図書が戻り再開された時、市民は平和をしみじみ味わった。大岩から谷田に引っ越した静大跡地に、静岡市立図書館ができるまで葵文庫は市民のただ一つの図書館であった。跡地に建てられた青葉小学校もなくなり今は市の施設になっている。 六月に、戦時の葵文庫の蔵書の疎開にまつわる話が聞ける講演がある。行きたいと思う。
2014年05月11日
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4月12日しいちゃんのアトリエ舞踏193ロダン体操日野草城五句南下する静岡市街※佐伯祐三の郵便配達夫ロダン体操1928年、二度目のパリ滞在中に、30歳の若さで結核で死んだ「佐伯祐三とパリ展」を静岡市立美術館で見てきた。大阪の寺の息子として生まれ、今の東京芸術大学に入り結婚、彼が絵を描いたのはわづか6年間だった。その6年間に、ユトリロの影響を受け、独特のパリの街角の風景を描き続ける。くすぶった建物の壁は作者自身のように感じられた。帰国中に描いたという下落合の風景二点は違和感があった。500円払ったイヤホンの解説が、かなり悲劇的で暗い町角とピタリ合致していたから、妙な気分になった。冬の曇天の日に描いていたのかと思ったが結核を患ってから、最後は少し精神も病んだらしい。見終わってロダン館にまわったら、彫像をスケッチをするグループが静かにキャンバスに向かっていた。彫像も地獄の門も、以前より黒く磨き上げられている。見疲れて緑の山を眺められる休憩室に入ったら、テレビで体操のお姉さん三人が不思議な体操をしている。よく見たら、画面の右下にロダン館のいろんな彫像が現れてそのポーズを真似する体操だった。とても面白かったのでロダン体操と名付けTVの日本珍風景に申し込もうかと思った。新緑の中を電車の駅まで、のんびりと歩いて帰ってきた。日野草城「ミヤコホテル」けふよりの妻と来て泊つる宵の春バラ匂ふはじめての夜のしらみつつうららかな朝のトーストはづかしく湯上りの素顔したしく春の昼永き日や相触れし手は触れしまま※ 静岡市の呉服町商店街南下する静岡市街静岡市の街はどんどん南にさがってきている。戦前から戦後長いこと、紺屋町、呉服町通りと七間町が交差した角に伊勢丹のある札の辻が街の中心だった。デパートは他には戦前からある駅前の松坂屋だけだった。40年くらい前になって、静岡清水を走る静鉄のターミナル駅が今はセノバと呼んでいるテナントビルとなり、同じくJR静岡駅がパルシェとなった。これで駅周辺は戦前からの松坂屋に109と丸井、西部だったパルコが加わり6店になり、街は札の辻中心からどんどん南下してJR駅北口中心になった。ところが新しく、JR静岡駅から東に4分一つ目の東静岡駅前にマークイズとか言う巨大なテナントビルが出店した。三階建てだが、通路がすごく広く、ヤングと若い家族でかなり混んでいる。静岡清水の真ん中にあり、県内からは海岸線を車でくると駐車場も広く便利らしい。静岡市80万人に周辺市町の30万人を加えた1,000,000人商圏ではあるが、街の中心だった、特に映画街で繁盛した七間町は今はすっかり影が薄れてしまった。昔から老舗より新店と言う言葉があるくらい客の心理は移り気だ。かつてJR駅の位置が東にずれると、紺屋町通りの客が減ると国道をそのままJR駅をくぐる南北通路も通さず駅南のイトヨーの売場を二階までにとどめた世界的に有名な静岡市ショーチョーキョーがあった。今はただ大型資本のテナント進出に、街は悲鳴をあげている。時は変化をもたらすエネルギーだと言うが、呉服町育ちの私は、昔の街並みが懐かしいですよ。
2014年05月08日
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5月9日 しいちゃんのアトリエ舞踏 192昭和今昔 紅白饅頭皐月五句捨てる神あれば拾う神あり昭和今昔 紅白饅頭戦後まで続いた静岡地方の出産にまつわる祝い事にでぎょうと不思議な行事があった。初産の近い月の犬の日に、夫婦と両家の両親と仲人夫婦8人が集まる。両親たちは数は忘れたが、箱につめたすごい数の紅白饅頭をそれぞれ持参する。祝いの食事をすませて、その饅頭を四つにわけて出産まじかな夫婦、仲人、両家の両親が持ち帰る。子の誕生で二家族が三家族になると言うことなのか。昔は家で饅頭も作っただろう。そんな饅頭屋のお金儲けも戦後長くは続かなかったようだ。私の親は仲人を沢山したので、戦後、砂糖が出回るようになると二人で出かけていき、どさっと饅頭を持ち帰ることがあった。もうひとつの紅白饅頭の記憶は、幼稚園や小学校のお祝い行事でも紅白饅頭を貰ったこと。戦況が悪化して食料難になるとふすまを使った饅頭になり、餡はサッカリンで甘く割ると皮が糸をひくものもあった。それでも食料不足の時代、うれしかったことを覚えている。久しぶりにネットで「きままにしいちゃんのアトリエ舞踏」をひいたらブログ内容紹介に「昭和今昔」が出ていた。すっかり忘れて自分のことばかり書いていました。ごめんなさい。皐月五句いずこよりリラの匂へる夜の駅 山田禮子駆け下りて来し一陣の青嵐 稲畑汀子ババロアにミント香らす聖五月 黒崎よし江大牡丹崩燭のゆらぐごと 橘沙希どこかしら病みいて赤き夏の月 関洋子 捨てる神あれば拾う神あり愚かな私は、またまた多勢に無勢の戦を挑まれた。ある事件に電話で正論を吐いた瞬間一対五の敵陣に囲まれ、出入り禁止令を宣告された。事件も禁止令もあきらかな規則違反だ。しかし発端の五分間の電話も三分間の禁止令の電話も録音してないから、証明できない。証明されないと言うことは、また事件前と事態は変わらないとも言える。大事な要件の電話は必ず録音する、できれば紙面を取り交わすこと。CIAもどきの、恐怖人種の跋扈する世間を、老人が一人生きぬくには、録音機能のある電話機を買う。絶対に買う。以前、やくざめいた人間から金銭の脅迫にあったことがある。警察の二階にあるやくざ係に、次の電話の録音をするように言われた。事件の証拠になると言う。しかし次の電話がきた時、電話機を買い替えてなかった。するとまだ80歳の元気だった母が突然「電話の録音はこのボタンかね」と大声で言ったのだ。途端に電話は切れた。その後の脅迫はなかった。母がいてくれれば今度の電話事件も助けてくれただろうか。しかし、世の中捨てたものではない。捨てる神あれば拾う神あり昨日のこと、突然私はその地獄から、新天地へ移籍できることになった。今は神への感謝でいっぱいだ。
2014年05月07日
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4月6日しいちゃのアトリエ舞踏191躑躅銀座俳句道場ローカルでんしゃ躑躅中国では躑躅、てきちょくと読むそうだ。書けない読めない難読語。行っては止まる意とあり、つつじが人を引き留めるほど美しい花だと言うことらしい。このもってまわった表現はいかにも中国らしく、それをそのまま使う日本もずいぶん教養のある国なのだろう。駿府城の内堀、葵小学校前の躑躅の盛りは意外と短い。五月連休前に咲き始め、連休の終わり頃は花の色が褪色していく。市民ホール側の土手は夜間ライトアップするが、手入れが悪くて近年花が半減しているのが気になる。日本中、躑躅の名所は多い。庶民が気軽に楽しめるのがいい。銀座俳句道場春愁や蛇となる髪解き放ち 谷子鬱の希の男と菫そだている 谷子春愁いルオーのピエロいる空間 美沙春愁を一気に葬るシュレッダー ちあん「でんしゃ」見てまた見てすみれそこかしこ 由弥子※ 銀座俳句道場よりローカルでんしゃ当たり前のことだが、現在はたちまち過去になる。まるで現在は存在しないかのように、人生は過去の連続。しかし、その過去は実は現在が作ると言う見逃しそうなからくり。よく考えてみる。一瞬の現在の連続が、連なり過去になる。私は過去を振り向かず、前をみて歩くのが、いいと思っていた節がある。いや違う。膨大な過去こそ自分の人生そのものだったのだ。あらためて愚かに生きた愛すべき私の80年に及ぶ歳月を慈しむ。飛行機も新幹線もバスも、全席前向きの座席で次々と現れては消えていく景色を見ている。古いローカル線はボックス型で、後向きの座席が半分、その席からは過ぎていった景色が、消えるまで見ていることが出来る。これからは急がずのんびり、ローカル線の後向き座席で、大好きな景色が消えるまで、眺めていくのがよさそうだ。気が付けば終着駅もま近い。
2014年05月04日
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4月30日しいちゃんのアトリエ舞踏190歩く町蕪村五句御前か田舎か歩く町戦火に焼かれなかった古い町が、実はとても人間らしい町だと久しぶりに鎌倉の町を歩いて、そう思った。車が主役でない、人間が主役の歩く町こそ、これから復活させたい町づくりではないかと思った。江ノ電はのんびりと、線路わきの家の庭の樹の枝をこすって走り、海に出る。波に乗るサーファー。江の島が見える。みんな電車一日券で乗り降りして寺の多い鎌倉の町を歩いてまわっている。電車で来た赤ちゃんを乳母車で押すその子さん一家と昼に鎌倉駅で落ちあい、昼飯は名物しらす丼ぶりはやめて、静岡もしらすの本場なので、おいしい鎌倉ビールと天丼を食べて、町歩きに出る。小路を巡って鶴岡八幡宮の牡丹を堪能してじつに素晴らしかった、四時過ぎ駅で東西に別れ七時帰着。今の京都は河原町界隈をのぞけば、意外と歩く町ではない。小学生だった子供たちと歩き回った記憶が懐かしい。忘れていた小路を歩く楽しさを思い出した日だった。蕪村五句春の海ひねもすのたりのたりかな畑うつや動かぬ雲もなくなりぬ遅き日のつもりて遠き昔かな行く春や撰者をうらむ歌の主春雨や小磯の小貝ぬるるほど 御前か田舎かしるこは御前がいい。柏もちの餡も二派にわかれる。なめらかな漉し餡のとろっとした甘さがたまらない。田舎派はあのあづきのごつごつ感がいいらしい。鎌倉の小路歩きの終わりに、甘味処によった。見るからに古い店に、客が満杯。なかなかの美味。戦前の味のままだろう。小さい餅ひとつが寂しかったが日頃、蕎麦屋で盛り一枚で、蕎麦しるこを食べている人間に、ここの御前しるこは、うまかった。
2014年05月01日
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