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2017、4、24僕の入学しようとしている学校は、府の視覚支援学校の小・中・高等部の上にある理療科である。ここは高等部専攻科理療科であり、年齢はいくつでもいいのだが高校生ということになる。府の学校機関なので当然入学試験があり、一般教養を問われる。勉強を始めてみると因数分解どころか分数の計算もろくに憶えていないし、各都道府県の県庁所在地も全部言えない。各県に流れる川の名前も言えないし、各国の首都も言えない。京都の盲学校時代の不勉強がこんなところで祟っている。小・中学校程度の社会と数学の勉強は同僚に見てもらっていたが「ちょっと、大丈夫?」と呆れられた。小学校高学年程度の算数は、当時小学校六年生だった息子に教えてもらったが、これが大変難しい。こんなこと自分が小学校の時に習ったかな、と思うことばかりである。あまりの理解の鈍さに「だ、か、らー!」と怒られながらの勉強であった。そんな泥縄な勉強が半年続き、入学試験当日を迎えた。二月の寒い日で雪がどっさり降り、駅から学校までの慣れない道のりで、点字ブロックが雪に埋まりうまく歩道を歩けなかったことを覚えている。鉄筋造りの古い校舎の会議室みたいなところで試験が開始された。女性は極めて少ないらしく、音楽の世界とは随分違うなと感じた。初めて点字で解答を筆記することにも難儀した。筆記試験の後には適応検査があり、鍼灸治療を行うに当たって、肉体的、精神的な問題が潜在していないか調べられた。帰り道「だめだなこりゃ」と思った。一週間後に合格発表の日となったが、朝起きるとまたものすごい雪。河内長野の住宅街から南海の駅までバスも出ない。学校に電話して「雪でそちらへ伺えないので、結果を教えてほしい」というと「来てもらわないと困るんです」と非情な応え。どうしようかと思案した結果、家から駅まで2時間ほど掛けて歩くしかなかった。駅に到着したときにはブーツの中に雪がたくさん入り込んで水浸しになっていたが、仕方なくそのまま学校に向かった。薄暗いローカに受験生がずらりと並び、そこに恭しく合格発表の紙が貼られた白板がゴロゴロと押し出されて来て、自分の番号と名前がそこにあることを教えられた。その後会議室で様々な注意事項があり、それが結構長い間だったので、ずぶ濡れになった靴下がたまらなく足を冷やし苦痛だったことを覚えている。それから白衣を注文するために、業者の人に体の寸法を図られた。なるほど、これがあるからどうしても来なくてはならなかったのだ。また雪の中を駅まで戻り、そのまま夕方のレッスンのために阿波座の教室へ。同僚に合格を告げると「えー!?」と驚かれた。そこから入学式まで約2か月、平穏な日々が流れた、つづくiPhoneから送信
2017.04.24
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2017、4、17周りの者にも相談してみた。皆仕事と学業の両立は無理ではと言った。特に母親は猛反対であった。家族を抱える身でありながら、それはあまりに自分勝手で無謀なことだと。しかし僕の心の内ではもう決まっていた。周りの人々で、自分にそのしわ寄せが来ると分かっていて賛成してくれた人たちもいた。見えないのに一人でドイツに渡ると決めた時の勇気と同じだけの勇気が再び必要とされている。教師をやめて、小さな体で関取を目指すと決めた舞の海のような気分である。そのころ、入学を目指す学校の相談窓口に足を運んで、理療科の進路担当の先生と話をして、僕の意志と今置かれている状況を説明し、意見を求めた。その時その先生は僕の話を聞いておっしゃった。「理療科の三年間の勉強はかなりハードです。どうしても仕事をしながらでしか無理なら、この道への挑戦は諦められた方がよろしいのでは?」と。学校機関の先生にそんな風に言われては、僕も勇気が滅却しそうである。それに勉強がハードとはどれぐらいのものなのだろう。俄かに恐ろしくなった。それから数日考えてみたが、やはりそのまま諦めるのは余りに残念で、なにやらつまらない。えーい、どうにでもなれ、と願書を提出した。さて、そうなるとまずやらねばならないことは、点字の勉強である。学校に入ると言っても、入学試験を受けなくてはならない。国家試験を受けるための資格として、訓練期間を卒業していなければならないのである。そしてゆくゆくの国家試験も、学校への入学試験もパソコン持ち込みは許されておらず、当時すでに大幅に視力の下がった僕は点字使用で受験するしかなかった。視覚支援の福祉センターの点字教室に入り、アイウエオから勉強し始めることとなった。入学試験半年前のことである。入学試験の科目は数学、社会、英語、小論文などなど。やれやれ、そんなもん一つとして覚えている訳ない。僕は友人に頼んで、因数分解から教えてもらうこととなった。つづく
2017.04.17
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2017、4、15結局のところ僕はかなり楽天家なのだと思うことがある。視覚障害の世界から飛び出て、健常者の中で見えないのは僕だけという生活を長く送り、その群れの中で皆が当然出来ることが自分にはできないということに長い間気付くことも出来ず、そこで泳げないと思い当たった時にはすべてを掛けて一心不乱に取り組んできた音楽から置いてきぼりになっている。これは客観的に見れば結構な悲劇である。鬱を発症しても恥ずかしくないことかもしれない。実際昔歌を共に勉強した友人や、共に舞台を踏んでいた知人がその事実を聞けば言葉を無くすことだろう。何故なら彼らは我々にとって歌うことがどういう意味を持っているかよく知っているからである。ところが本人はさほどの悲劇を感じていない。全くの絶望がなかったと言えば嘘になるが、何というのか諦めが早いというか、よく言えば前向き、悪く言えば感情が鈍いのか。大体泣こうが叫ぼうが逃れることのできないことで、それなら時間の無駄を省く方が得策なのだ。そこで考えることは、自分の中でまともに機能するところで、力を発揮できるところはどこだろうという課題である。取りあえず今の段階では目以外の部分は人並みに動いているようである。じゃそれらを使ってできることで、特に秀でて得意なことは何か?目だって特異なことはないようだ。見えないことをカバーできる才能は見当たらない。そもそも歌うこと以外で自分の能力を探すこと自体が苦痛である。じゃ好きなことはなんだ?人の書いた文章を読むこと。自分でも文章を書いてみること。人の身の上話を聞くのも嫌いじゃない。その人物がどのような境遇に生まれ落ち、どんな人生を送って来たか、というような話を聞くのが好きである。人嫌いでありながら人に興味がある。凝りを解すだけの鍼灸には興味はないが、特に例の流派で脈診を持って他人の体の訴えを聞き取ってみたい。そして自分の手で誰かの苦痛を少しでも軽減することができれば、どれだけの達成感だろう。そういう意味では鍼灸治療は自分に向いた分野であるようにも感じる。やれやれ、やはり鍼灸か、と思う。でも未だ医学の勉強に足を踏み入れる自信はない。でも年齢的にも今それをやり始めなければもう一生挑戦してみることはないかもしれない。家族があり、音楽の仕事がある。それらをどうするのか。やはり無理な考えか。つづく
2017.04.15
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2017.4.10視力が下がり続ける中オペラも出来なくなり、オーケストラとの仕事も困難となって行く中、その時点で自分の出来ることと言えばピアノの前に立って一人で演奏することぐらいである。年齢的に歌い手としては一番声の熟す時期を迎え、人生の内のそんな時代を精一杯歌うことで味わうためには、ドイツ歌曲に限局した活動でしかなかった。皮肉なことに、いや、皮肉と言うよりは不思議なことに視力の低下と声の成長は反比例して進み、その両者の進行は今も続いている。そのようにして10年間の間に何度もいずみホールでのリサイタルを開催し、チャールズ・スペンサー氏を迎えてドイツ歌曲によるプログラムを組んだ。リサイタルを企画し本番ステージまで持っていく作業は誠に大変な仕事である。どのような曲を選び(ただ選ぶだけではなく、一つの演奏会を持って何を表現したいか、その曲たちが本当に自分に合った作品化、耳にするお客様にとってそれをどう受け取って下さるかなど多くのことを考慮し決定していかなければならない)、百万単位で動くお金の工面を行い、どのようにして800席ほどあるいずみホールの客席を埋めるのか。その他新聞社、ホール、スペンサー氏との対応など、それらを一人で思案し行動に移して行かなければならない。その上最終的な自分の収入はゼロ、悪くすると赤字なのだ。そんな大変な作業の反面、そこには他のことには取って代われない楽しみと喜びがあった。すべての始まりは自分の意志であり、宝物のように大事にして来た曲の中からその演奏会に合った曲を選び、プログラミング、演奏に至るまで全て僕次第、100パーセント自分の企画による作品である喜び、達成感がそこにはあった。それは自分一人の部屋作りに似ている。曲選びにはスペンサー氏の意見が多く含まれているのではと思われているようだったが、彼の意見はそこに一つとして加えられていない。すべて僕が決定し、彼はどさっと楽譜を渡され、何も言わずただ伴奏してくれていた。イニシアティブを歌い手に委ねるというのが彼の信念でもあるようだった。それはある面厳しいことでもあるが、僕にはとても心地良い喜びである。舞台に立ち、彼の伴奏で演奏しているその時間は、最も生きている喜びに満ちることのできる時間だった。聴衆が僕の演奏を受け入れるか拒否するかはどうでもいい。結局そういうことなんだと思う。集大成としてスペンサーの共演でCDを作成し、10年が通り過ぎた。その間も鍼灸治療に通い続け、僕の中での治療への憧れも膨らみ続けた。つづく
2017.04.10
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2017、4、7そのようにして鍼灸と出会うことになった。と言っても出会ったその鍼施術の流派は、日本で行われている鍼治療という点からいうとちょっと特殊なものだったのだが、その時はもちろんそれが特殊かどうかなど分かるはずもなく、ただ先生たちがお互いに目の前の患者への治療について話し合う内容や、施術への一途でひた向きなその熱意に強く引かれていた。とはいえ、まさか自分でもそのような分野の勉強をしようとは思いもしない。長い間音楽の世界だけで生きて来て、今更巧妙な頭脳の必要とする医学の世界に足を踏み入れ、この年でまるで何も知識のない分野を一から積み重ねる勇気はどうしても持てない。でも僕もあんな風に毎日楽しそうにああだこうだと言いながら治療に当たり、人の苦痛を取り除くことができればどんなにすばらしいだろう。先生たちの会話は難しく、もちろん何を言っているのか分からない。東洋医学に関する用語やツボの名前らしき漢字二文字が飛び交い、何十年治療にあたっている先生方も日々勉強の積み重ねという風でものすごく治療が奥深そうである。僕は昔から人が一心不乱に何かに情熱を傾けている背中にとにかく弱いのだ。考えてみれば鍼灸という分野は日本に渡来してから一般の健常者によって継承され、江戸後期、明治大正、昭和にかけて視覚障害者の仕事としても確立し、戦後は一時視覚障害者の専門職のようになった。ということで、視覚障害を抱えていても健常者と同等に技術を競える分野ではないのか(そのような考えも、後に打ち砕かれることになる訳だが)。いや、それでもやはりそれを自ら勉強する勇気は到底持てない。そのような葛藤が10年近く続いた。つづく
2017.04.07
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2017、4、3二十代の頃はまだよく見えていたので(よく見えていたと言っても白杖は使わずに何とかいけたということだが)オペラにも進んで参加し、たくさんの舞台を踏んだ。しかしそれらを思い起こすと背筋が凍る。オペラの舞台上と言うのは一歩間違えば大怪我を招く危険に満ちているからである。セットというのはそこまで緻密な安全を考えられているというものではなく、歩いているすぐ脇にぽっかり大きな穴が開いていて、注意しないと晴眼者でもうっかりすると何メートルも下に転落することだってあるし、演出によってはオケピットに転がり落ちる可能性だってある。それで楽器を壊せば何千万の弁償ということにもなりかねない。舞台上に建築現場と同じ足場を組んで、遥か高いところから演技しながら歌ったこともあるし、暗い舞台上で高さ8メートルほどあるセットの上から階段を下りる演技で、本番突然その階段の位置が変更されていて、すんでのところで転落しそうになったこともあった。その後ドイツに暮らすころから視力が著しく下がりオペラは全くできなくなったが、それまでよくまあ無事に過ごしてきたものだ。歌は音楽なんだから、見えないことはそう決定的なハンディーにはならないだろうと言われることもあるが、決してそうではない。指揮者も見えないし、一人で舞台に出て行くことも困難となると、実質上音楽活動は閉ざされたということを意味する。先の閉ざされた袋小路に自分が入り込んで、前に進むことも、引き返すことも出来ないことに気付いたとき、睡眠障害、倦怠感、胃痛などの身体症状が現れた。それでもある程度のステージがあり、下がり続ける視力の中で、必死にそれらの舞台を務める中、精神的にもかなりの困難を極め、そのため声にも影響があり、そこでステージへのコンディションを整えるための鍼灸治療に通うようになる。つづく
2017.04.03
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2017、4、2僕は子供のころ6歳から18歳まで京都の盲学校にいて、一生懸命やったことと言えばギターを弾いてバンド活動をすることぐらいだった。しんどい、邪魔臭い勉強などほとんどやった記憶はない。またそのころの盲学校とはさほど勉強などしなくても泳いで行ける環境だったのだ。高等部三年間を終えると、その上に理療科三年間があり、ほとんどエレベーター式に入学できた。小学校から数えると15年間受験というものは全くなく、国家試験になる前の鍼灸資格はまず受けて落ちることも少なかったため、やはり仕事に着くまで厳しい受験というものはなかった。結果学生時代もさほど目の色変えて勉強する必要もないということになる。何故かというと、そこは視覚障害者の唯一の生きていく道として確保されていて、実際には他に選べる道は残されていないということだったのだ。先人たちが何とかそこにしがみ付いて視覚障害者が餓死せぬよう、何とか生きて行けるよう切り開いた道でもあった。今の時代パソコンでの音声ソフトの開発によって様々な可能性が出て来て、全盲者の翻訳者、弁護士、大学教授、研究者などが現れている。音声ソフトによって、視覚障害者の読み書きのハンディは大幅に軽減されたということになる。しかし当時はまだ鍼灸按摩しかなかった。我々の道が一つしかないというその現実を破りたくて、いや、そこからどうにかして逃げ出したくて、僕は音楽という分野を利用して脱出に成功したのだ。しかし飛び出したそこは荒々しい健常者の世界であり、当然彼らが出来ることが僕にはできない。彼らと自分は全く違う種類の動物なのだ。そういう言い方をすると「何という悲観的な考え」と人は思うかもしれない。だがそれは逆なのだ。別の生き物と思えなければ自分で自分を蝕み、やがて自分で自分を食い殺してしまうことになるだろう。我々は自らの身を守り、生きながらえなければならない。愚かなことにその生きる術に気付くのはずっと後で、若い僕は大きな勘違いを起こし、なんだって周りの友人たちと同じように出来ると、声楽の世界で生きていけることを夢見ていた。声楽における天性の秀でた才能があればそれはそれでまた話は違うが、そうでなければたたき上げる必要があり、視覚障害を持ってしてそれは不可能と言えた。何でも仕事にしてプロとしてそれで飯を食って行くとなると、好きというだけでは全く意味を成さない。その超えることのできない壁にぶち当たった時、理療から逃げ出した僕には他に縋り付くべき別の道も存在しなかったのだ。つづく
2017.04.02
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