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・2017、5、29今日は演奏会のご案内をしたいと思う。僕はいくつかの合唱団に呼んでいただいて指導、本番の指揮を担当させてもらっているが、このCAC混声合唱団は唯一僕自身が立ち上げた団である。結成以来もう15年近くなるのではないだろうか。世の中にある合唱団はほとんどが美しいハーモニー、美しい声、そして美しい音楽を取り上げ、その音の魅力に取り組み、客席にそれを届ける、ということを念願に置いているように感じる。そしてそれを達成している団こそが世間で称賛されるべきものとして捕らえられている。しかしそこには文章からにじみ出て来た音での解釈というものは極めて希薄であるように僕は感じて来た。歌である限りそこに文章があり、文章こそが音楽の発露であるはずだと。だが合唱という分野において、ハーモニーの重要性の前には言葉などただの飾りにしか過ぎないと言わんばかりの演奏を、僕はずっと耳にしてきた。まあもちろん僕の少ない経験からということだが。また僕は極端な意見を持っている。音楽は畢竟詩の額縁であると。そしてそこにこそ合唱の醍醐味があると。例えば我々は宗教曲としての合唱曲を好んで歌う。しかしそこに出て来るKyrie eleison(キリエ・エレイソン)という言葉の意味を分かって歌っているのだろうか。もちろん訳せば「主よ、憐れみたまえ」とするだろう。しかしそこに含まれている言葉にならない意味を僕は肌では感じ得ない。当たり前だ。それは生まれ落ちた環境の中で、長い時間を掛けて心と肌に刷り込まれる言葉なのだから。じゃあ僕は宗教曲において何を演奏する?そう、そこでは額縁である音楽のみを切り離して演奏することになる。作曲者が肌に刷り込まれた言葉から音を染み出させたにも関わらずだ。僕は僕たちも肌に刷り込まれた言葉から生み出された音楽をより分け、絵と額縁を丸ごと味わえる合唱団が欲しくて、この団を立ち上げた。そのようなプログラムと演奏を是非お楽しみいただきたいと思っている。
2017.05.29
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2017、24、水我々の通う学校の校舎は、築60年は経っている鉄筋の古びた建物だった。壁はいたるところでボロボロと崩れ、冬は暖房が入っていても室内でダウンジャケットを着て授業を受けた。音楽室からの音が丸聞えで、授業を受けていると女性の声で歌われるトスティやドナウディの歌曲が聞こえて来た。この学校には音楽科があり、一人だけ声楽を志す女子高校生がいるということだった。音楽の世界から離れ、生理学や解剖学の話を聞いている耳にイタリアの歌曲が聞こえてくると、いつのまにかそちらの声に耳が集中していて、ふと我に返ることが度々あった。その時の慣れない苦しい生活の中で、聴き慣れたそれらの歌は何とも懐かしく、どうしてこんな遠いところに来てしまったのだろうというような思いになったものだった。それが二年生の夏休みが明けると我々はピカピカの新校舎に引っ越しをした。もう音楽室からの音は漏れて来ない。入学したときからすでに工事は始まっていて、大きなトラックやシャベルカーのような車が出入りし騒音を出していたが、ついに60年の校舎の歴史に終止符を打ち、快適で明るく綺麗な校舎に移り変わったのだ。我々は丁度その歴史的節目に在学していたということになる。その新校舎で三年生になると臨床があり、僕は一階にある臨床室で学期初めにすでに怪我をすることになった。ベッドが並ぶ治療室から準備室に抜ける入り口はドア一枚の狭いところで、治療が終わった我々は忙しくそこを出入りして片付けをしていた。その時は一回目の治療で、僕は新しい臨床室の間取りや感覚に当然まだ慣れておらず、そのドアの通り抜けに失敗して脇の柱に激突し、あっと思う間に額からぽたぽた血が床に流れ落ちた。手でその血を受け止めた時、人の血液というのはこんなに温かいものなんだなと思った。学生が校内で怪我をしたということで、結構大騒ぎになった。僕は保健室で手当てを受け、保健室の先生にガーゼで額を抑えられたまま到着したタクシーに乗り込んで近くの総合病院に向かうことになった。そのタクシーには副担任の先生も乗り込み、校門には校長先生、教頭先生、主事の先生が三人直立不動で我々のタクシーを見送っておられた。保健室の先生はずっとその間も僕の額を抑えたままだった。病院ではドクターが「ああ、これは縫ってしまった方が綺麗に治るからね」と言いながら手早く四鍼縫った。あれから一年が過ぎたが、今もその傷跡はくっきり残っている。つづく
2017.05.24
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2017、5、17体育の授業で行ったフロアー・バレーなる競技もここに紹介しておきたいと思う。京都の盲学校時代もよくやったもんだが、ここに来て再びこの競技をやることになるとは思ってもいなかった。フロアー・バレーとは視覚障害者用のバレーで、張られたネットの上ではなく、下をボールを転がして行うバレーである。全盲者は前衛(健常者や弱視者が前衛を守る時にはアイシェードを着ける)、弱視者は後衛を守る。前衛者は三人でしゃがんでブロックを作り、後衛者は立ったままで前衛のブロックを抜けて来たボールを打ち返す。アタックは前衛後衛どちらのものがやっても良い。後衛の者が後ろからアタックする場合は、前衛のものはブロックを解いて脇に開かないといけない。僕は常に前衛で、最初の頃このブロックを閉じたり開いたりの作業でへとへとになり、動けなくなっていた。とにかく動きが速いので汗だくになり、おまけに相手チームからのアタックを前衛がまともに受けると、内太腿にボールを受け腫れあがってしまうこともある。僕は一度相手からのボールが急所にまともに当たり蹲ってうなったことがある。次の日に慌ててスポーツ用品店に防御用のサポートを買いに走った。おもいっきりボールを打つため、肩から腕までの酷い筋肉痛にも悩まされる。視覚障害者の競技とはいえ、かなり激しいものなのだ。夏の終わりの体育でのプールも思い出深い。9月の終わり頃ですでに気温は秋に近付いていたが、体育の先生方は最後のプール授業をすると決められ、皆水着に着替えて屋上のプールサイドに集合すると、外は土砂降りの雨。それでも警報は出ていないということで、授業は続行。若い者たちは平気そうだったが、年配者は皆寒い寒いと言いながら25メートルプールを往復していた。僕は水の中にいるだけで震えてくるので、プールサイドに上がって背中や頭を強い雨に打たれていた。「茶木さん!さぼってないで泳いで下さい!」と情け容赦ない先生の叫び声。仕方なく水に入り泳いでいると、今度は「茶木さん!すぐ水から上がって下さい!」との声。顔色も唇も真っ青になっていたらしく、すぐに退場させられ着替えた。体育の先生方は皆20代の若い人たちだが、学生にはおじさんおばさんもいるので「あまり無茶をさせるとぽっくり逝くぞ」と憤然としたものだった。でもそれでも風邪は引かなかった。ただ、その日の夜に阿波座でレッスンするのも大儀であったことを覚えている。週一回のかなり激しい体育の授業が、三年間一度も風邪らしい風邪を引かなかった原因であったことは前にも述べた。結果インフルエンザの流行っている2月に、予防注射もしなかった僕の体を健康に保ち続け、国家試験当日まで無事に体調を維持できたのも、この体育のおかげなのだ。つづく
2017.05.17
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2017、5、16学校生活の一つの特徴として挙げられるのが給食である。公立の学校だから、当然給食がある。我々は高校生だからエプロンを着けて給食当番もある。四時間目が終わると給食室に降りて準備をし、みんなで「いただきます!」と言って手を合わせた。僕は給食に多くのおぞましい思い出がある。僕が京都の盲学校の小学部であったころ、校舎から出て少し離れた木造の建物に出向き皆で給食を食べた。がらんとした部屋の真ん中に今ではお目に掛かれない太い煙突のついた大きな石油ストーブがあり、上の丸い蓋を開けると中に石油が入っていて、ちり紙にマッチで火を点けてその中にほりこみ蓋をする。その周りに皆机を並べて食べる訳だが、これが説明のしようもない不味さなのである。当時は御飯はなく毎日食パンで、まずこれがとても食べられない味で、ストーブの上に網を置いてその上で味が分からなくなるまで真っ黒に焼いてしか食べられない。ここにマーガリンなりママレードなりが付くのだが、僕は今でもこれらの名前を聞いただけでも身の毛がよだつ。僕はこの給食室に入っただけでマーガリンの匂いに耐えられなくなり嘔吐したことがある。さておかずだが、どれを取ってもおよそ人の食べられる物ではないと思えた。一番記憶にあるのがクジラの肉である。これが結構な割合で登場し、銀のアルミの食器に入ったこれを見るだけで生きることの辛さを覚えたものだ。おまけに僕は牛乳がとにかく嫌いで、盲学校小、中、高の12年間の長く暗い少年時代を彩っている。当時皆がそうであったように、やはり僕も全部飲めるまで残されて苦労に苦労を重ねてやっつけていた。一口牛乳を口に含み、味が口中に広がらないうちにお茶を口に入れて流し込むというのを何度もやって、なんとか一本すべて飲むのである。母が見かねてコーヒーの粉を持って行って牛乳に混ぜて飲ませてやってくれまいか、と学校に願い出たことがあるが、ひとりだけにそんなことを認めることはできないということで却下された。カレーでさえも油を捏ねたような耐えられないしろものであった。僕はべつに味にこだわった家に育った訳でもなく、その当時それほど味に煩い子供ではなかった。にも関わらず、余りの難儀から、ある時食べ終わった食器を調理場に持って行った際、ねーねーと給食の叔母さんに声を掛けた。おばさんは嬉しそうに「うーん?どうした?」と近付いて来た。「ねえ、給食ってどうしてこんなにまずいの?」と僕は率直に尋ねた。おそらく小学部の三年性ぐらいだったと思う。おばさんはしばらくものも言わず立ちすくんでいて、それから落ち込んだような低い声で「私ら上からこの材料でこれを作れと言われるだけやからな」と答えた。僕の心中には、何とかしてこの毎日の苦痛を取り除いて欲しい、という切なる願いがあったのを覚えている。とにかく僕は子供のころ不思議やな、これは納得できんなと思うことはそのまま真直ぐに大人に質問する子だったようで、大人になってから退職された先生方にお会いした時に「茶木君からの質問にはいつもどぎまぎさせられたわ」と言われたことがある。あれは小学校の二年生の時だった。音楽の授業では先生は二人体制で、一人の女性の先生がピアノを弾いて僕らはそれに合わせて歌っていた。教室の後ろでもう一人の男性の先生が太鼓のスティックで机を叩き小太鼓の練習をしていた。するとピアノを止めて女性の先生が「だれですかスティックで遊んでいる人は!」と声を荒げた。後ろから男性の先生が「すみません」と誤った。すると女性の先生はにっこり微笑んで「ああ、先生でしたか」と穏やかに行った。僕はその場にいて、これはおかしいだろう!と憤慨したことを覚えている。それで後でスティックを使っていた男性の先生のところに行き「生徒なら怒り、それが先生ならにっこりとして怒らないのはなぜですか?」と質問してみた。その時の先生の答えを今でもはっきり覚えているが、今思えばそれは恐ろしい悪答である。「それはね、多分あの先生より僕の方がたくさん勉強してきているからだろうね」さすがに子供としてはその答えがとんでもない教育であることを知るすべはなかった。話がとんでもないところに反れたが、現代の給食に戻れば、そのころに比べて夢のように美味しいということである。僕は毎日ものすごくお腹が空いて、若い子たちと一緒にお代わりをして、40代50代のクラスメイトの倍は食べていた。有難いことにもうどこにもマーガリンやマーマレードの姿は見えなかった。つづく
2017.05.16
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2017、5、10一年生の授業は座学に加え、鍼や按摩の実技の授業もある。我々は新調した白衣を身に着けこの授業に臨んだ。白衣と言っても病院でドクターがはおっている長い白衣ではなく、半袖で首まできっちりボタンを閉め、丈の短い上下セットになったケーシーと呼ばれる医療用のものである。一同この出で立ちで授業に出たとき、始めて大きな責任の伸し掛かる医学の世界に足を踏み入れたんだな、と感じたことを覚えている。この衣装をケーシーと呼ぶのは、僕はずっとKCとアルファベットを略したものと思っていた。これが何を略した呼び方なのかひどく気になっていて、周りにそれを尋ねても誰も知らなかった。それから約三年後のことである。僕は鍼治療の臨床に出ていた。我々が臨床と呼んでいる授業は、三年生にだけある鍼の実地訓練で、学外から患者様がお見えになり、我々学生の治療技術の訓練に協力いただくという名目で台になっていただく。その時点で我々学生は免許を持っていないのだから本来は違反になるところを、横に先生方が付いて管理するということで特別に許可された授業のようである。三年生の一年間毎日その訓練を行い、免許を取得した卒業後もすぐ社会で使い物となるようにと設けられた取り組みだそうだ。そんな治療にももう随分慣れて来たころ、僕が担当していた70代の女性の患者様が「先生はベンケーシーに似てますよ」とおっしゃった。「は?何ですかそれ?」と尋ねると「白黒のころのアメリカのテレビドラマの主人公で、彼は外科医なんです」と教えてくれた。「もちろん先生はまだ生まれておられないころのドラマですが、でもすごくハンサムなんですよ」と。それで夜のレッスンの前に生徒さんたちにそのベンケーシーのことを尋ねてみた。年配の方はやはりそのドラマのことをご存じだった。その場でネット検索してみると、ベンケーシー扮するイタリア系の俳優の白黒写真が僕と同じ白衣姿で出て来た。「この俳優がとてもハンサムで、それに僕が似ていると言われた」と説明すると、皆その画面をのぞき込んで「これのどこがハンサムやね」と苦笑した。その時生徒さんの中におられた内科のドクターが「だからこの動きやすい白衣の形をケーシーと呼ぶようになったんですよ」と教えてくれた。僕はなるほど!と指をならした。アルファベットのKCではなかったのだ。まさかドラマの主人公から来ていたとは。ということは、患者様の目には僕がケーシーを来ていたからベンケーシーに似て見えただけのことだったのだ。つづく
2017.05.10
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2017、5、9入学して最初の中間試験を5月の中頃に体験した。約一ヶ月半授業で進んだ部分だが、まさかそれ全部が範囲なんて思っていなかった。が、もちろん進んだ分が範囲となるのが普通である。一教科だけみても恐ろしい量で、それが幾つもの教科に渡る。これを全部頭に入れるなんて人間業ではない、とまで思えた。今から思えば、それぐらいどんどん進まなければ三年間でこなすべき量は達成できないのだ。しかし、学期初めでいろんな紹介や説明に日を取り、授業の進んだ量としては三年間で一番少ない範囲の試験であることを、不幸にもその時は知りようもなかったのである。その時の生理学ではDNAや細胞の話が出て来て、それらの基本的な知識は高校の理科の授業で習ったはずなのだそうだが、例によって僕にはなんの記憶もない。考えてみれば中学高校の六年間に習う内容を何も覚えていないのなら、その六年間ずっと机の前に座って日々を送ったことは、全く無駄な六年間であった訳で、貴重な十代に狩りの方法を憶えて食料を手に入れることを身に付けたり、槍の砥ぎ方を教わったり、住処の作り方を覚えたり、森の恐ろしさを理解したりする方がどれだけ意味のある十代だろう。DNAや細胞のことを勉強しなければ上の学校に進めず、進めなければ思い通りの仕事に就けず、そうでなければ充分なサラリーが取れないというこの世界の成り立ちが根っこから間違っているのだろう。しかし今の僕はDNAと細胞のことを知らねばならないのだ。本当にそれを知らねばならない時に、本当の勉強が始まるのかもしれない。初めての中間試験が終わったとき、出来るはずないと思ったその膨大な範囲の勉強が意外に出来、成績もそんなに悪くはなかった。中学高校でも、またその後の人生でも出せたことのない集中力が発揮できたような気がした。何故か。それはどうしても手に入れたい目標が前にあるから。ここから振り落とされる訳にはいかない、という石にもかじり付く必死さがあるからである。それから考えると、義務教育というものに意味があるのだろうか、という疑問も生まれる。僕のように落第する危険の極めて少ない盲学校で、義務教育として中学部を卒業し、その六年間の内容は全く頭に残っていないことと、明治時代のように義務教育のない厳しい試験制度で振り落とされ中学を中退せざるを得ないこととの間にどれほどの違いがあるというのだろう。まあそれはいい。とにかく求むるところに勉強あり、なのだろうということを知った。つづく
2017.05.09
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2017、5、3四月の入学式までは結構長く感じた。しかしこれからの行き先が決まっているというのはまあ良いことである。入学式当日体育館に設けられた式場に入り、理療科一年の席に案内され座を占めた。この感じ、とても懐かしい。式が始まり、名前を呼ばれて大きな声で返事し起立した。今日から先生ではなく、一生徒なんだなと思った。ホームルームに入り、僕が最年長で、下は22歳の若者たちであることが分かった。彼らと机を並べ担任の先生が話す教壇に向かっていると、今自分がやっていることが滑稽に感じる。実際滑稽なのだろう。このようにして、がらりと変わってしまう僕の環境と生活が始まることとなるのである。周りのクラスメイトのことや、先生方のこと、ほかにも学校内のことを書けば僕の苦しい、そして楽しい三年間がよく分かっていただけるところだが、前にも述べたように個人情報に触れてくることになるので、結局ここには何も書けない。しかしざっと振り返ってみれば、やはり一度として気のほっと休まる合間のない苦しい時期だった。でもそれでもその時間は、僕に多くの体験と戒めと考察と自信を齎すことになる。つづくiPhoneから送信
2017.05.03
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