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2017、7、28NSK合唱Combinareの取り組みによる、第4回演奏会となる「森の歌」「カヴァレリア・ルスティカーナ」の練習も、去年の10月から始まり、後三か月足らずを残すばかりとなった。最初は「一年間もまるまる練習するの?」と思うのだけど、なかなか細かいところまできっちり暗譜となると逆に時間が足りないほどである。こんにち合唱となるとどこも男性不足であることがほとんどだが、今回の我々のメンバーでは男性が特に充実しており、その中でもバスパートは人数も多く、皆さんしっかり声を出して下さるので、ロシアの音楽に相応しい豊かな男性の声が期待できる。日本における合唱という分野は、今ちょうど80代、70代の方々が20代のころに最大のブームを迎え、若者は猫も杓子も合唱であったらしい。だから今でもお集まりいただく方の年齢層はそのあたりが一番多い訳だが、それより若い層はガタッと少なく、学生時代に合唱に関わったからと言ってずっと関わるという方も、今は少ないようである。このような状況を見ていると、日本における合唱という分野ではどんどん人口が減少し、一つのところに集中していく傾向となるようだ。いろんな団による特色というものは消滅し、ベートーヴェンの第九やモーツァルトのレクイエムのような有名なものをオーケストラとの共演できる作品を演奏することだけが、かろうじて残っていくのかもしれない。僕個人としては、詩人たちが自分の人生を精一杯文字に表した詩に、作曲家たちがこれまた自分の人生を精一杯重ね合わせたような、室内楽としての繊細な合唱がとても好きなのだが、おそらくそういったものには誰も興味を持たなくなっていくのだろう。もちろん今から40、50年前に日本でブームを迎えた合唱の背景には、当時の歌声運動や労働組合の活動も大きな要因であるだろう。だからこそ貴族からの抑圧から解放されたウィーンの人々の歓喜を歌うベートーヴェンの第九が日本で受け入れられ愛されて、そこを中心に合唱に火がついていったのではと。そこで僕の話は文学の方に傾いていくのだが、先日述べたようにこのところ小林多喜二に手を付けて、その後葉山 嘉樹、それから聞いたこともないプロレタリアートな作家たち、そして沼田流人までいってほとほと疲れてしまった。つづく
2017.07.28
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2017、7、18学校を卒業してまずやりたかったことの一つに読書三昧がある。その我慢していた欲が下水道が破れたみたいに噴き出して、時間があればずっと本ばかり読んでいる。やはり明治から昭和の初めにかけて活躍した作家ばかりに興味が向いて、夏目漱石のまだ読んでいなかったもの、菊池寛、久米正雄、樋口一葉、壷井栄、国木田独歩、二葉亭四迷、その他その時代の作家たちから無名の作家の物まで読み漁ってから、とうとう小林多喜二に手を付けた。小林多喜二は以前からもちろん名前だけは知っていたが、あえて読んでみようとは思わなかった。なぜなら彼はあまりにもはっきりとした思想の持ち主で、それを守り抜くためにあえて撲殺されることを選んだ人物である。僕は常に思想や目的に左右されず、何にも染まらずに真っすぐその作家を覗き見ることを主眼に本を開いているので、あまりにも強い力を持つ彼のペンに恐れのようなものを感じていたからかも知れない。しかし今、何故今なのか分からないが、勇気を持って彼のプロレタリアートな世界に足を踏み入れてみた。手始めに手に取ったのは「蟹工船」。恥ずかしいことにこの有名な作品のタイトルすら僕は初めて聞いた。ノンフィクションな作品であるようだが、これがとんでもない話である。国土から離れた、いわゆる無法な船の上で繰り広げられる恐ろしい話。労働者がここまで非人間的に扱われて、使い物にならなくなったらゴミのように捨てられる世界。当時本当にこんなことが行われていたのだろうか。彼の大袈裟な脚色ではないのか。小林多喜二の文体には独特の表現と包み隠しのないえぐい描写で、顔をそむけようとする読者の鼻先に遠慮なく現実を押し付ける。歴史の中にはまだまだ我々に知らされていない残酷な現実が溢れていて、そこでは多くの人々が文字通り地獄を見て死んでいったのかもしれない。僕はいつも考える。それは昔話ではなく、平和な今の日本でも人々の中のスイッチがいったん入れば、すぐに100年前と同じ人格になれる。他人の苦しみに全く鈍感になり、金儲けのためにはどんな地獄も鼻で笑い捨てることができるようになる。昔の人間が下等で、今の人間が進歩して上等であるということではないのだ。そこでは教育というものが重要な要素となってくる。人間そのものが金銭よりも貴いという教育をどこかで踏み誤れば、何が頭を擡げるか分からないのだ。つづく
2017.07.18
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・2017、7、13我々はもう10年以上前から「NSK合唱Combinare」というプロジェクトを行っている。健常者だけではなく、各種障害をお持ちの方々にも積極的に参加していただき、オーケストラの伴奏でベートーヴェンの「第九」、ショスタコービィチの「森の歌」などをレパートリーに活動して来た。今年は奈良県で国民文化祭が開催されるということで、その一環として我らがNSK合唱Combinare」にお声が掛かり、「森の歌」の再演を行うこととなった。この「森の歌」という作品は、戦後焼け野原になったサンクト・ペテルブルグの町に村人自身の手で森を植林して、再び緑豊かな故郷を復興した、人々の湧き上がる情熱と希望を描いた実話がテキストとされたオラトリオである。今回はこの「森の歌」に添えて、一部にマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の中の合唱曲を二曲演奏する。このオペラは、1800年代後半にシチリアのある田舎町で実際に起こった殺人事件が題材になっているが、オペラ全体の中での合唱曲によって、その村の人々が農業と信仰を中心に生活を営む民族的な素朴さが表現される。三拍子の魔術師と言われたマスカーニの音楽によって、ダイナミックにかつ繊細にロマンティシズムの粋が描かれる。この、ある一日にエネルギーのビッグバーンを迎えるような演奏を、皆様に是非ともお聴きいただきたいと思っている。お問い合わせ先を含め、詳細は下記のチラシデータをご参照下さい。ーーーーーーーーオラトリオ「森の歌」 2017NSK合唱Combinare[日時] 2017年10月15日(日) 15:00開演(14:00開場)[会場] 奈良県文化会館国際ホール[入場料] ¥2,000 障がい者・サポーターペアチケット ¥2,000 子供チケット ¥1,000※未就学児の入場はご遠慮いただきます【曲目】第1部 オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より マスカーニ:作曲 前奏曲 オレンジの花は香り 讃えまつれわが主よ 間奏曲第2部 オラトリオ「森の歌」作品81(日本語訳演奏) D.ショスタコーヴィチ:作曲 E.ドルマトフスキイ:詩 井上頼豊/櫻井武雄:訳詩【出演】 指揮:高谷光信 オーケストラ:奈良交響楽団 ソリスト:テノール/茶木敏行 バス/デニス・ビシュニャ 合唱:NSK 合唱 Combinare 児童合唱:関目東小学校合唱クラブ 城東ジュニアエコー〔お問い合わせ〕NSK合唱Combinare事務局 TEL/FAX:0742-45-6386 E-mail:info@nsknara.com〔主催〕NSK合唱Combinare
2017.07.14
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2017、7、9今弟子入りしている治療院で、先生に横に付いてもらいながら僕の患者様に治療を行っているが、皆さん思ったよりもたくさん来て下さり、リピーターの方も増えてコンスタントに治療している。とにかくこの方法はとても勉強になり、先生からは遠慮なしに間違いを指摘していだだきながら、今のところ患者様には満足して帰っていただいているようである。どこかで間違えて治療が進んだとしても身体に悪い影響があるわけではないのだが、的を得た主訴の解決が速やかには進まないということになる。まず治療の最初は脈診で、そこから身体の様々な情報を看き取る。ここでは繊細な指の感覚が要求される。ちょっとした脈の形の違いや種類から、これからの治療法をより分ける。しかしこの治療の入り口である脈診で僕は躓いている。とにかく難しい。自分は人一倍理解力と触覚が鈍いのでは、と疑いたくもなる。一日も早く独り立ちがしたい一心で焦るが、ここは我慢と根気が求められる。「先を見すぎてはいけない。先を見すぎると、足もとがおろそかになり、人は往々にして転ぶ。かといって、足もとの細かいところだけを見ていてもいけない。よく前を見ていないと何かにぶつかることになる。だからね、少しだけ先を見ながら、手順にしたがってきちんとものごとを処理していく。こいつが肝要だ。何ごとによらず」とは、海辺のカフカに出てくるジョニー・ウォーカーの言葉である。
2017.07.09
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