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昨日は30分離れたヴァージニア州のFAIRFAX市にあるHマートという韓国系スーパーに行って参りました。Hマートといっても変なものではありません!Han Ah Reum (ハナレゥン) というチェーン店の巨大版とでもいうのでしょうか。とにかく、一昨日のジャパニーズ・デイに引き続き、今度はコリアン料理、ということで買い出しに行ってきたのです。実は、3月に親しい韓国人のファミリーのリーさん一家が遊びにくるということもあり、それまでにキムチを作っておかないとヤバイ! という焦りもあったので。白菜4束(というのでしょうか)、韓国大根3本、エビの塩漬(アミ?)、ニンニクと生姜のすりおろし、万能ネギ、分葱、それからホワイトキムチに用いる韓国梨。トック(餅の棒状のもの)、エノキ茸、マイ茸、冷凍の牛肉・豚肉の薄切り、お米を膨らませた甘いおせんべい、おもしろそうな韓国産のインスタント・カップ麺、富士リンゴ、青リンゴ等を買ったら合計130ドルくらいになっていました。行く度に買いすぎて後悔するんですが、でも食品を買うって楽しいですよね。それに、日本食品店で同じようなものを買ったとしたら2倍はしていそうな量でした。昨夜は赤いキムチと白いキムチ(辛くなく、子供がピクルス!!と言って喜ぶ重宝品) をそれぞれ作ろうと意気込んでいたのですが、買い物で疲れてしまい、スコットとテレビを一緒に見て後は寝てしまいました。今晩がんばろうとは思っていますが、実は五時にキーちゃんの新しいプリースクールの下見インタビューがあるので、その結果にもよると思っています♪(もっと近い場所に移そうと思っている所です)
2005年01月31日
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今日はスヌーピーに前の日に4回もオシッコされたベッドカバー・シーツ・やら洗濯物等の洗い物で大掃除の日になっていた。オシッコされたので前の晩にシーツをはいでおいたから、朝起きたときにマットレスの上に敷いてあったブランケットとスコットの下着の上に置き土産・プラス・オシッコを発見した頃はもう頭痛がする状態。。。スヌーピーよ、なぜー?! (とシーザーがブルータスに裏切られた様を想像して)スヌーピーは今日から寝室立ち入り禁止の身となった。動物心理学の先生にはまだ連絡をいれていない状態である。洗濯機は5回まわし、家中掃除機をかけ、猫のトイレをキレイにして砂を足し、水も換えた。ケイちゃんとキーちゃんは「もののけ姫」や「天空の城ラピュタ」を英語と日本語で見ていたりした。金曜のインターナショナル・ナイトのスクール行事で日本のものを展示した私。日本の食器や着物、折り紙やお金を出品したからだろうか、今日は無性に日本食が懐かしかったので、「まるいち」さんへ買出しにいった。切れていた納豆・お米・枝豆 (味が良い茶豆というもの) はもちろん、子持シシャモ、アジの開きなども買ってしまった。我が家は納豆は切らしてはならない必需品なので、大量に買込んでしまった。なので、夜はスコットとケイちゃんにジロジロ見られながらシシャモをまるごと食べたり、アジの開きをキレイに食べてしまっていた。素人のスコットやケイちゃんはアジの開きを食べるのが下手である。キーちゃんはシシャモにパクリついて見たが、ダメであった。。彼等はもっぱら納豆一筋で、お味噌汁とゴハンで満足だった様だ。そのうちアジの開きも納豆と同じくらいはまってもらわないと。。今日は雪が降り、日本食のあるまったりとした一日。私にはこんな日が毎日だったらいいのに、と思う。
2005年01月29日
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Caitlyn Age 4大型マグにチキンヌードルスープを入れ、2日ぶりのブログ。外はマイナス13℃。何を触っても静電気がバチっというような日は熱々のホームメードスープがあるとホッとする。日記が遅れてしまった理由は色々だった。昨夜イトコのK(ご存じない方は パート1かパート2参照)とのチャットがまたあり、今回はどんな車を買ったらいいかアドバイスをしていた。もちろん私は2005 ACURA(ホンダ)の3.5RL(レジェンド)に目がないわけだからそれをオススメしたのは言うまでもない。ウェブサイトを通して好きなパッケージをどんどん足していくと、なんと560万(1ドル=100円として) 台までになっていた。「僕にはちょっと高いかな」「私も。。。」ショボン。私たちそれぞれ一昨年と去年に家を購入したてで貯金が無い身分。Kは今年イラク遠征 (いや、他国にもいっているがそれは秘密。パリからチャットかかって来たときはさすがに「ズルイ~!」) のため、年末にドンと報酬が出るようで、それを新車の頭金にするそうだ。「ねぇ、午前2時なの。これからもう寝るわ」「オッケー、僕これから仕事にいくところだし」私たちのお決まりの別れ文句でチャットウィンドーを閉じた。そして、父とのネパールについてのメールのやりとり。地名が定かじゃないことが明らかになり、かなりショックだったので、昨日・今日はネパールの地図やトレッキングのスケジュール表などをインターネットで調べて自分の記憶と比べていたりした。結局違っていたのはゴラパニが最高地点で、チャンドラコットは実は中間地点だったという事。父はチャンドラコットを覚えていなかった。そんなユニークな名前忘れないでよね、と内心思ったり。。。(なのでネパール旅行記はさっそく直しました Sorry!)【運命の出会い】今日はケイちゃんの小学校のイベント「International Night」だった。数週間前から「Mommy、私たちも何か出展しようよ」とケイちゃんはおねだりしていた。担任のブルク先生も是非何かお願いします、と言ってたので、国際、ということもあり、日本に関するものを出そうという事に。ちょうど、悪友リーラのBFが合気道の先生だったときに日本で買ってきた婚礼用の着物(鶴の刺繍が施されていてとっても素敵)があり、他にも漆器や浴衣にゲタ、去年徹夜で作ったかなり凝った折り紙のお内裏様とお雛様など。思った通り、この辺一体は日本人が居ないという私の勘が当たっており、日本を代表した展示は私たちだけであった。日本を代表といっても私はハーフ。。。本当に他に誰もいないのー?! (と虚しく思ってしまった)なぜか着物と漆器より、漆塗りのゲタがいちばん受けていた。女性が一番気づくので、きっと「靴」狂ということなのかしら。とにかく「Beautiful」の連続であった。ある方は千代紙と和紙で作ったお内裏様とお雛様にすごく感動していた。今まで見たもので一番優れている、と言ってくれた。(嬉しい!)他に出品されている方々の国は様々。エクアドル、ドメニカン・リパブリック、メキシコ、中国、インド、イタリア、ベトナム、イラン、チリ、ドイツ。 そして、なんと。。。ネパール!!子供達のそれぞれの国のシール集めラッシュが終わり、私も他の展示物を拝もうと歩きまわっていると、ネパールのテーブルにたどり着いた。 ネパール旅行を思い返し、懐かしくて仕様がなかったという時。なんという運命のイタズラ♪そこからは、もう時間が止まったようにネパール出身の方とお話した。そして、彼等の娘ビヴェットちゃんは担任のクラスは違うが、ケイちゃんと同じ2年生だということが分かった。さらに驚いたのは、住所も私たちほとんど同じ所。まさに運命の出会いである。あまりの懐かしさと嬉しさで、いつかネパールにもう一度行きたいから、今度帰国なさる際、一緒に行きたい、等と話した。だんな様の方も「ニホンゴハナシマス」といきなり話し出したり。流暢なアクセントでした。ネパールの人はけっこう外国人を相手にすることが多いので言語に強いとも思える。(ネパールには世界最大峰の10のうち8つが存在するという。あらゆる国からの山男が殺到するのは納得)これって運命ですよね。このことを予知して私はなぜか15年も前の家族旅行を回想したのだろうか。不思議な体験でした。
2005年01月28日
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(Continued)ゴラパニを後に惜し気に去った5日目。トレッキング後半は殆んど下りだということもあり、なんだか消極的なメンバー。さっさとこの旅行を終えて東京に帰れる、なんという気持は全然なかった。自然の厳しさと壮大さ、小さな幸せの豊富さ、貧しいながらに精一杯生きているネパールの人々、そして家族と一緒に一つの目標を共にする、ということの素晴らしさを満喫していた。【青春した妹】旅行中一番ドジの多かった真ん中の妹アリー(当時中学2年)は、よく道ばたに落ちているミュールの糞を踏んづけたりしていた。この事でよくからかわれていたのだが、いつの間にか糞を踏んづける事を「青春する」という風に言い回すようになっていた。本当に何処をみて歩いているのか分からないくらい青春していた彼女だったのである。彼女の青春はこれに定まらず、なんともっと凄いことをやってのけてくれたのである。その後に起こった事も母は今でも鮮やかに覚えている。下り始めて最初か次の日だっただろうか。崖沿いのゴツゴツした道を一列になって全員気をつけて降りていく。ガイドのリンジも足下に気をつけて、と注意していた。慎重でありながらも会話しながら降りていくメンバー。その緊張はしているが明るい空気を破ったのは「キャーッ!!」ともの凄い悲鳴。ギョっとして振り返ると私の後ろを歩いていたアリーが「居ない」。一瞬誰もが凍り付いたように動かない。1メートルの幅もない道のすぐ横は岩だらけの崖。何故か私は冷静に端まで駆け寄り崖側を覗き込んだ。変な言い方かも知れないが、彼女がどこら辺まで「落ちた」かを見るためであったと思う。アリーは10メートルもしない岩場に仰向けに転落していた。彼女は恐怖で目を見開いて呆然として空を見ていたのが印象に残っている。私はリュックを脱ぎ捨て、横でショックでボーっと突っ立っている家族とイトコを残し、岩から岩へ飛び、夢中でアリーの元まで降りた。彼女の怪我の状態を調べるためでもあった。こんな所へ救急車やヘリコプターがくる訳がない。重症だったらどう運ぶのか、などとかなり先のことを悩んでいたりしていた。天のおぼし召しだったとしか言いようがない。彼女は強運にも自分で背負っていたリュックの上に直接落ちたのである。何処も折れている様子はなく、腰の辺りに鮮やかなアザができていた。あの高さから落ちて頭をうったら絶対に重症だっただろうし、打撲・骨折も当たり前だっただろう。彼女が無事で殆んど無傷だということを確かめた直後、冷や汗とめまいに一瞬襲われた。土壇場の馬鹿力を提供したアドレナリンが退いていったのだろう。彼女にこんな所で死なれたらどうしようか、なんてマジで心配してしまったではないか。彼女も極度の緊張感が溶け、泣きはじめたのを私は抱き寄せた。「ダメじゃない、心配かけて。もう2度と会えないかと思ったよ。こういう所はよそ見して歩いちゃだめだよ」「うん 、ごめん」(嗚咽)「立てる?」「うん」(嗚咽)「歩ける?」「うん」(嗚咽)私はアリーのリュックを崖の上まで持ち上げ、その後は彼女をゆっくり父の手が届くところまで歩かせた。父も「大丈夫か」と明るく声をかけたが、目が険しかったのが印象に残っている。母は末の妹を庇いながら真っ白な顔だった。アリーの命の恩人のリュックはリンジがその後、山のように積んだ彼の荷物に足された。父、私、イトコのYと交代で彼女を見ながら下山を続けたのは言うまでもない。家族全員相当にビビっていたらしく、しばらくギクシャクしていたのだが、私はイトコのYとギャグの飛ばし合いをはじめた。「アリーも青春した中でこれが一番の青春だったね」ワハハハ! 。。。ハ母から後で聞かされたのだが、私が一番こういう時に役に立つということは前から知っていたが、崖から飛び降りる行為は信じられない事だったらしい。私がプレッシャーに強いのはピアノ演奏やコンクールで鍛えられていたからだろうか。とにかく普段はポーッとしている私でも、肝心な時には能力を発揮するようである。【チェサピーク、ついに失脚】ネパール旅行の間、家族のメンバーそれぞれゲリ・嘔吐など色々マイルドな症状があったりした。私だけはなぜか食べ物・飲み物すべて平気でピンピンしており、ローカルの様になんでも気にせず食べていた。ところが運命というものは残酷。ずっと何事も無い、という訳にはいかなかったようである。トレッキングが無事おわり、麓のポカラまでもどり、あの古風で上品なホテルに戻った。その夜の御馳走はチキンのカレーソースのようなグルメ料理に再会。また大富豪のようなお食事を済ませ、その夜はマットレスのある豪華な寝室でいい気になって寝た。末の妹のリサはランプを点けてトレッキング中できなかった夜間読書に浸っていた。翌朝、プロペラ機でまたカトマンドゥに戻る準備中、私は吐気に襲われ、ホテルのバスルームにこもった。何事か、と妹達や母が覗きにくる。たぶんトレッキングが無事終り、気が緩み、食べ過ぎたか何かに当たったのだろう。死にたい位気持悪かったが、そんな体にムチうってプロペラ機に乗った。プロペラ機は言うまでもなく非常に揺れるもので、乗っている間は嘔吐との戦いであった。悲しくも紙袋が私の旅のお供であった。【ファミリー旅行振り返って】最後に失脚した私だったが、カトマンドゥのホテルに戻り、半日昼寝をしたらケロっと治った。残り少ない日数は家族一斉で繰り出し、片っ端からセーター・コート・線香・シルバージュエリー・美しいヒンドゥーの絵巻などのお土産の買い物を楽しんだ。お年玉はくれないはずだった父も新年でめでたい気分になっていたのか、みんなに500ルピーをそれぞれ分け与えた。家族みんな発熱、ゲリ、嘔吐などあったけど、一番思い出になったのはアリーが「青春」したことだね、などジョークの連続。そのときは笑えない状況だったのだけれど。まさか岩登りでもないのにアリーが崖から落ちるなんて誰も思っていなかっただろう。(全員寿命が10年くらい縮んだと思う)ガイド兼ポーターのリンジやホテルのオーナーの息子さんとも仲よくなり、これからも手紙でやりとりする約束をし、お別れした。ネパール語の「ナマステ」がハワイの「アロハ」と似ていることにも気づいていた。行きと逆の航路を22時間隔て東京に戻る。2週間後に帰ったホーム・スィート・ホームは何故かいつもより大きく感じられた。お湯の出るシャワー、どっぷり浸かれるお風呂、ウォシュレットとビデ付の室内トイレ、床暖房、電気式ブランケット、セントラル・ヒーティング、冷蔵庫、ストーブ、ポット、炊飯器、電話、FAX、電気。。。書き出したらキリがない位、なんと私は今までこんな贅沢を当たり前だと思っていたのだろうか。すべてが新鮮で愛しかった。パピイ、こんな貴重な体験をありがとう。なんでも当たり前と思って生活していては根が腐ってしまい、器の小さい人間になっていたと思う。この家族旅行はいつまでも忘れず、子供の子供に語り伝えるようになるだろう。またお婆ちゃんのいつもの昔話が始まった、と笑われるように・・・。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆男のロマンとして書いた理由なのですが、父ほど自由きままに、あるときは登山、あるときはトライアスロン、あるときはテレマークスキーに繰り出す男性は稀だと思うのです。それは家族というものがあり、危険な事は避ける、という理由もあるのでしょうが、健康的・金銭的な問題にも及んだりします。(ウチの場合、金銭的な問題では無いのですが、数年前のゴールデンウィークで、登山スキーの際、父は崖から250メートル転落し、行方不明になり、首の骨にヒビが入った、という恐ろしい目にあったことがある。「驚かないで聞いてね」と母から電話が掛ってきて、ここからでは何も出来ない不安に駈られたのを覚えている。当時はニュースにも載ったみたい。)母や時には私たち姉妹にヒンシュクをかいながら、父はつねに夢を追い掛けているのです。それは時には迷惑だったり、時には眩しかったり。大人になり、結婚し、家庭をもち、子供を産み、仕事を持ち、毎日の雑用に左右されるようになってからは、★男のロマン★を貫く父が私には羨ましくもあり、眩しいのです。
2005年01月26日
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【家族のふれあい】雪もやみ、静かに日が暮れていった昨日。底冷えする寒さから逃げるように仕事から帰ったら、暖炉には火が灯り、スコットがストロベリー・ダイキリをブレンダーで作ってくれていた。夕食まで1時間ある。みんなで豪快に燃えている暖炉の前で寝転がり、ライムを絞ったダイキリを飲み、チップスを食べた。子供達も楽しそう。家族で特別なお出掛けでもなく、他の事に気を捕らわれず、ただゆっくりとくつろぐ時間。こんなシンプルな贅沢は久しぶりであった。原始時代もこんな感じで一日の終わりを祝ったのだろうか。そして、今日仕事から帰り、夕食の準備が終わった頃、フロリダの妹から電話があった。なんでも実家のお店が三○堂との売買の話しが進んでいる模様。年末に母が大学の講義を引退し (通訳とコンサルティングはまだ現役)、父もそろそろ引退の準備なようだ。こんなに着々と話しが進んでいるとはすこしびっくりした。地が山男の父は休みがある度(休みを作る度) にスキーやら登山やらに母曰くフラフラとと遊びにいく。これは私曰く男のロマンを貫いている父。家族のふれあい・シンプルなひととき・父と男のロマン、と連想しているとネパールを思い出した。【ネパール回想】私が高校最後の冬休みだった年に父はある日宣言した。「今年のクリスマス・プレゼントと正月のお年玉はネパール・トレッキング15日間旅行だ」夕食を食べていた私は口のなかのものを吹き出しそうになった。17歳だった私は、楽しみにしていたアメリカンスクール仲間との大みそかの六本木プランを台無しにされた。当時BFだったスコットもハワイ大学から冬休みのために東京に帰ってきていたのだ。(翌年は彼も招待してニセコでスキー旅行)「えー、困る! 私もう冬休みは計画済みなんだけど。私ひとりで留守番していい?」「ダメ。みんなで行くの」「どうしていつもの様に嬬恋スキーにしないの? そっちの方がいい」「ダメ」「じゃ、温泉」「ダメ。もうチケット買っちゃった」 うっ。。。ブーブーと自分勝手な私の文句を横に家族は着々とプランを立てていく。いつのまにか私のすぐ下の年のイトコYも同行することになった。え、Yも来るの? じゃ、ちょっとマシになった。(現金なわたし)母はもとからアウトドア系のものは苦手だったので彼女もあまり嬉しくなかったようだが、全員でいくので大人しくしていた。私は反対に父に散々幼いころ鍛えられていた為、とりあえずアウトドア系であった。体型や運動神経からいくとそう思われる。(本性は室内でぐーたら系かも)ネパールへ着くまでの22時間は辛かった。中華航空で羽田から台湾 ─ 台湾から香港 ─ ドラゴン航空で香港からダッカ・バングラデシュ (注油のためストップ。飛行機からは降りない。ここでは機関銃をもった軍隊が飛行場を警備しており怖かった) ─ ダッカからカトマンドゥに到着。カトマンドゥに着き、空港から出た瞬間、現地の子供達にワーと囲まれ、お金をくれと一斉に手を出してきた。親に送り出されている子供は観光客を対象にお金を稼がされているのだ。唖然としながらもタクシーに乗り込み、ホテルへ連れて行かれた。着いた当日はみんなで異国での買い物や初めての値切りというものを楽しんだ。次の日はポカラまでプロペラ機で飛び、イギリス系のホテルに泊る。何だか40年代の映画に出てきそうな感じのお洒落で上品な古風のホテルだった。インド系の料理を贅沢なチャイナやシルバーウェアで頂いた。ウェイターも頭にターバンを巻いていた様な気がする。まるでサファリでバカンスをする大富豪のような感覚。翌日、ジープで麓で下ろしてもらい、4日間登り・4日間下りのトレッキングに出発。トレッキングのコースはミュール(馬とロバの合の子)が歩く道と同じであり、できたてホカホカのフンも転がっていたり。家族メンバー一人ずつしっかり自分の寝具、ダウンジャケット・パンツ、着替、ダウン入り4シーズン用寝袋、トイレットペーパー、タオル、等をつめたリュックを背負っている。腰から頭の高さくらいまである。夫婦で雇われたガイド兼ポーター達も同行である。彼等は現地で足腰鍛えられ、旦那さんのリンジは炊事・英語ができるマルチ人間であった。ネパール人だが、チベット系の人種であり、顔立ちもとても綺麗で人懐つこかったのを覚えている。ポーターということもあり、彼等は物凄い荷物を背負っていたが、一番足取りが軽かった。ペースを見ながらスピードを調節してくれるのだが、運チなマイ・マミーと9歳だった妹は列の最後。父は最初は張り切ってさっさと先頭を歩いていたのだが、そのうち母が気になりゆっくりと後ろのほうを歩くようになった。めんどくさいながら、挑戦されると受けてたつ性質の私はイトコのYと競争のようにどんどんと先へ行ったりした。8日間の登り降りは毎日がひたすら歩き、食べるためと寝るためだけに村による、ということの繰返し。夕食は泊るための村へストップ。昼食も夕食も同じメニューで、タルカリにダル・スープ。ゴハンには砂利が入ってたりする凄いものだったが、私はこの素朴な料理が新鮮で最高だった。スパイスの効いたバッファローの肉もアラカルトで注文したりした。母はそんな私を日頃とは違う目でみていた。この頃から私のエスニック料理好きが始まったのだろうか。夜は大抵離れた木の小屋の中のベンチそれぞれに寝袋をおき、標高およそ3000-4000Mのせいでマイナス何度という気温で寝るため、ダウンジャケットとパンツを着込んで睡眠。若者・冬場という弱点もあり、夜中はみんなで起き出し、懐中電灯とトイレットペーパーをもって外にある「トイレ」にいく。トイレとは、地面に掘ってある穴であったり、木陰であったり、豪華なものだと崖から突き出た300メートル下の地面が見える小屋だったりした。これはさすがに用を足すまでかなりの時間がかかった。(高所恐怖症でなくても、谷からビョーっと吹き上げてくる血も凍るような風に出るものも引っ込んでしまうからである) この時ほど実家のウォームシートのトイレが恋しかったことは無い、と断言できる。朝一番は決ってリンジが妙に甘いコーヒーの様なドリンクを作ってくれた。これがとても楽しみにしていたアイテムになっていた。(どこかで入手できるだろうか)ゴラパニ峠を越える頃、夕日に照らされピンクがかったマチャプチャレとアンナプルナを拝んだ。生意気盛りの17歳の人生ではじめて素晴らしい景色を目にして感動した。大学時代、エベレストで山岳部の同僚を肺炎で亡くした父はどう思っていたのだろうか。気を改められていた私は父のことも気になっていた。ゴラパニのレストハウスは今まで泊ったところより豪華であった。やはり同じ目的できているドイツ人、オーストラリア人、アメリカ人の登山客もいた。先ほど目にした感動を語り合うように和気あいあいと誰とでも話しかける。アウトドア系の人間達はみんな国境を越えた理解を持っているとも言える。飾らない、気取らない、そして感動を素直に伝える。夕食が終わったあと、ドイツ人の人たちとトランプを楽しみ、9時には失礼する。ゴラパニが一番高度がある地点でもあり、夜は物凄く冷え込んだのを覚えている。トイレも出たいものが出てこない。翌朝、5ルピーを払ってお湯の入ったバケツを頂く。4日目の初めての洗髪である。一人バケツ一杯だけで洗顔、洗髪なので交代で手伝う。マチャプチャレを拝みながらレストハウスの前の草のはえた地面の上で足を踏ん張り、前かがみに洗う。頭からは湯気がでる寒さでもあったが爽快であった。(長くなったので下りのネパールストーリーは次回)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日と明日の日記は大分長くなります。読みにきて下さり、最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。ネパールは青春していたころの眩しい思い出なのです。この旅行のお陰でファミリーの大切さや近代社会の贅沢をしている自分を見つめ直すことも出来たのです。「この貴重な経験を生かして」というような内容で南カリフォルニア大学の願書の論文に利用しました。全ハワイ大学でハワイ電力会社から一年間の奨学金を勝ち取ることも出来たのもこの論文のお陰だろうと思います。お高く生意気な高校のシニアだった私を無理やり連れて行った父にも感謝。男のロマンがなければ行かなかった場所だったとも思う。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆スヌーピー女王は今夜は抜かりがないように、念入りにブラッシングし、撫で撫で攻撃。エサもお皿満タン、トイレもキレイにした。これでも不満だというのなら手紙でも書いてもらいたい。。
2005年01月25日
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数日前のこと。Caitlyn & Kiki と私が風邪をひいているため、一緒にキングサイズのベッドで寝たある日。(ケイちゃんが夜中に吐気で目がさめた為、バケツを用意して一緒にねる、という理由で。キーちゃんは騒動につられてやってきた)夜中に足下をガサガサと擦られている感触。目を開けるとスヌーピーが寝る準備でもしているのかベッドの上から前足で擦っているのだ。何気なく足を伸ばすと、そこが濡れて冷たい感触。寝惚けた頭で屋根が雨漏りしたのか、などと腹立たしげに思ったが、場所、スヌーピーの存在、このベッドのアレンジからの条件が何故かすばやく頭の中で計算され、スヌーピーがオシッコした、と発覚。こんなコトは一度も無かった。スヌーピーは13歳のおばあちゃんである。プライド高く、人見知りをするが、家族に対しては愛情たっぷりのファミリー・キャットである。最近は子供部屋でキーちゃんの傍で寝るようになった。もちろん夜中になると私のベッドに移動しているのだが。臭い尿が染み込まないうちに早朝からベッドのデュヴェー・シーツ・マットレスカバーなどすべてはぎ、洗濯機へ無理に入れて洗う。猫の尿はほっておくととても臭いのだ。猫に虐待されるようなコトはあまり経験ない私には動物の心理は詳しくないが、おおよその検討がつく。スヌーピーはきっと傍に寝ているハズのキーちゃんがベッドにいない。仕方なくママ(私)のベッドにくると、なんと女3人全員寝ている。キーちゃんを私に取られた、というジェラシーか、又は彼女のメインのキングベッドが占領されたからか。腹いせに私の足下にオシッコした・・・。そして、これが最後でないということもうっすら予感。この後、スヌーピーは一日に一度は「オミヤゲ」を置いていくようになった。オシッコではないが、やはり貰うほうはあまり嬉しくない。睨みつけても知らん顔。キーちゃんもケイちゃんも全快に近く、自分達のベッドで2日前からちゃんと寝ているのだ。エサはあげているし、トイレも掃除している。一体何が不満なのだろうか。。。キーちゃんのように、愛情を注いでもらえないと、「ファニー?」と確認できないからだろうか。猫だって構って欲しいときは床にゴロ~ん♪とヒトの足下に転がるくらいはするのだが。毎週水曜か木曜、あるラジオ局でペット心理学の先生が視聴者を相手に質問に答えたりアドバイスを述べる。これにちょっと電話してみようかな。可愛さあまって憎さ百倍、とよく耳にするが、このことを言うのだろうか。途方にくれる私である。タズは年3回ほど剃ってしまいます。剃ったあとなので裸!◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日のブルーベリーマフィン のレシピを日本語でアップしました。他のレシピは日本語ソフトの漢字キットがすぐPCをシャットダウンしてしまうので、気長にやることに。。それから、漢字キット、本当に調子悪いんです。コメント書いている最中にフリーズしたり、PC がシャットダウンしたり。。何かもっと良いソフトないかしら。
2005年01月24日
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日曜の今朝の朝御飯はベーコンエッグと手作りのブルーベリーマフィンではじまった。昨日降った大量の雪も今日はキラキラと光を反射して静かな景色。ここ数日ずっとせき込んでいる為、埃のたつような掃除洗濯は避けていたので、比較的具合いが良くなってきた今日がんばろうと意気込んでいた。ケイちゃんもずっと風邪で家にこもりっぱなしでムズムズしていたらしく、可哀想なので新雪のつもったデッキに出して遊ばせてあげた。スキーウェアを着込んで本当にうれしそうだった。(彼女のジャケットはフィラデルフィアに忘れてきたので私のを着ている)お日様の光の中でまぶしそうに雪を引っ掻き回して遊んでいるケイちゃんは子供のあどけなさ100%。寝転がってスノーエンジェルを作っていた。ケイちゃんの雪遊び私は室内でコーヒーを飲みながら、ケイちゃんを横目に最近調子がよくないアイビーのトピアリーの手入れをした。(なんだか料理に園芸。。。本当にマーサ・ステュワートの弟子みたい)トピアリーの手入れをしていて、最近そういえばキーちゃんを叱ると泣きそうな顔で「ファニー?」と訊くことを思った。可笑しい? と、訊いているのではなく、スマイルして、という哀願なのだ。笑い顔を「ファニー」と自分で称している。私が怒ると、彼女は愛情を注がれないので心配ならしく、すぐ私が彼女のことを愛しているかどうかを確かめたい。涙がうるうるとたまった丸い瞳で見つめられ、「ファニー?」なんて訊かれて心がトロっといかない親はいないだろうが、そこは自分にムチうって「反省してるの?」(目でギロリ)と訊く。こっくり。「ごめんなさい」 ニコ~っ。親指を加えたまま首を傾げるキーちゃん。顔は怒ったままだが口だけでとりあえずニコ。。。(心はデレ~)親ばかである。。。(汗)スコットに訊くと、彼にはこんなやりとりはないそうだ。キーちゃんは両方に平等に、叱られる時は叱られるのだが。キーちゃんの弱味を把握したような気がする。要するに、彼女は母親である私に怒られることで拒絶されるのを恐れているのだ。日中はスコットが面倒を見るので(保育園がない日)、私と接する時間が少ないから多分に気をつかっているのだろう。人の顔色を伺うとは成長してきたともいえる。ブルドーザーのごとく人の目も気にせず親にとって一番恥ずかしい公の場所で破壊的なプレイをしてくれる「Terrible Two's」の良い例であったキェラ・・・。そろそろ「Terrific Three's」かな。。。。
2005年01月23日
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今日は土曜日。娘たちを昼寝させ、一人で雪景色を眺めながらウィッタードのピーチティーと一昨日作ったアップルパイを頂いている。と、優雅でいいわね、と思われる方。昨日どうしてブログを書かなかったかの理由を先に・・・。実はこの冬、4度目の風邪(!!)をひいてしまい子供と一緒に大変だったのです。いつもは一人でピンピンしているのに今年は子供とゲホゲホ苦しんでいる始末。夫は子供の病気はすぐ感染し寝込んでしまう位なのに、彼だけ今年は元気である。どういう風(風邪?)の吹き回しだろうか。キーちゃんは先週の金曜プリースクール(名前はそうであるが、本当は保育園) から帰ってきてから不思議なブツブツが唇や口周りにあり、鼻水・メヤニが凄かった。結膜炎かな、と心配したが、大丈夫だったみたい。不思議なブツブツは正体が分からないまま消えている。ケイちゃんはとうとうキーちゃんとママのゴホゴホが移り、可哀想に熱をだして昨日は学校お休みであった。発熱は彼女だけなのだが。私は私で子供のケアと自分の風邪の為、会社ではなく家で仕事をした。家にこもっていたこともあり、貯まっていたエネルギーの影響か、夜になったらマーサ・ステュワートのごとくスープ、ポテトとハムのオーブン焼き、アップルパイを作ってしまった。(彼女のような穏やかさはなかったが)と、いうわけで土曜日の今日の午後に至る。ワシントンは今朝早朝から明日まで大雪だ。アフタヌーンティーには最適な景色である。(子供も文句いいながらさっさと昼寝している)良いのは景色だけで、外の気温は血も凍るマイナス6度。時間は遡るが、木曜日に家で仕事をしていたら、郵便が届いた。東京に住んでいる母からのケアパッケージ。入っていたものは:◆フォションのアップルティー2缶◆ロッテのクランキー◆桃屋のツユ◆明星の中華三昧◆ユリアポット (旅先・車内での:子供用携帯トイレ) ─ 初めてもらったときはコケた・・・◆文房具 (折り紙・香り付きケシゴム・便箋・シール)1ヶ月に一箱くらいの割合で母は送ってきてくれる。近所にはポロロッカという比較的新しいスーパーがあったり、神楽坂も近い。私の好きなものをセールがある度に買っては送ってくるのである。送料を入れるとこっちで買ったほうが安くなってしまうのだが、彼女はこれを楽しみにしているのではないかとも思うようになった。ケアパッケージの中身は色々なのだが、定番で他に送ってきてくれる物は:◆とびきりソバ (このウドンも美味しいのだがなかなかセールにならない)◆揖保の糸そうめん (ここでは5ドルくらいする)◆キューピーのミートソースの缶詰 ─ 子供の頃からハマッている◆燻製さきいか (太めのもの) ─ 最近無くてはならないスナック◆テングのビーフジャーキー (ハワイから送られてくるもの)桃屋のつゆやヘレナ・ルービンシュタインのスキンケア等こっちでは手に入らないものはリクエストしている始末である。キューピーのミートソースは家庭の味なんてまっとう無いが、なんだか甘くてトロッとしてて子供の頃をおもいだす。(母が手抜きしたい時のアイテムだった)ハワイでは全然気にしてなかったのはさきイカ。ローカルの人はセンベイ(ローカルはカキモチと言う)・イカ・魚のスナックなんて毎日のように食べる。ワシントンに来てからは魚介類のスナックを見かけなくなった。一度映画館に持ち込んで静かに食べていたら、辺りの人が臭そうに「魚の匂いがするぞ」と言っているのに気づき、以来、車の中や家で食べるようにしている。ここで質問です。日本に住まわれている方・外国に住まわれている方・実家から離れて暮している方、どのようなケアパッケージ(お土産)が送られてくるのですか。定番のアイテム、もしくは貰って嬉しいアイテムはどんな物でしょうか。【ケアパッケージと無関連の話題】ここ一帯住んでいる人工にはユダヤ系の人たちが多いのだが、お寿司だけは大人気でスーパーではハワイでさえ負けるくらいパックでお寿司が買えたりする。(まぁ、ダイエーやマルカイには負けるかも)もうひとつ面白い事。韓国料理店や中華料理店でもよく見ると、看板に「SUSHI」と書かれていることが多いのだ。さすがの私でもこれにはびっくり。それを見てホイホイお店に入る方達はいるだろうが、日本人はまさか居ないだろう。お寿司がジャパニーズだという感覚がないのだろうか。。。(爆) いや、その反対に、ここは日本人が住んでいるかいないか本当に分からないくらい見かけないからそんな事ができるのだろう。
2005年01月22日
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aaronrickloveさんの日記を先に読んだので自分のなかで静かに燃えているものについて書こうと思う。バイリンガル育児でお悩みの方が結構いらっしゃる様で、ここでひとつ体験談、そして私自身の悩みも述べて行きたい。【まず、体験談】私は国際結婚した親を持つ。3人姉妹の長女であり、東京の○X家でも一番年上である。ハワイから東京に嫁いだ母はもちろん英語がメインで、子育てはすべて英語であった。保育園に行きだすまで、私は英語だけ喋っていた。ここまでは誰でも同じであろう。(外国語の交流がなければ母国語/Mother Tongueしか喋らないはず)保育園に行きだしてからは、やはりこれも一般と殆んど同じで先生とお友だちが喋る言葉・日本語「しか」喋らなくなった。大きくなるにつれ、母の喋る英語には日本語で答えるようになる。聴く力はもちろんあるが、読み書きや会話ができない。ただ、妹2人にない才能が私にはあったようだ。それは3人の中で一番音感があった。音感があると悟った母は私にピアノレッスンを始めさせた。耳が発達しており、音符を読もうとしなかったヒトクセある生徒であったのだが(!)、少し頑張ればすぐ演奏できるようになった。ただタラタラと弾き通しているのと違い、ちゃんと微妙な強弱・アクセント・ニュアンスも想像している通りを弾いていた。ピアノの先生もピアノの鍵盤のどれを弾いても私が音を当ててしまうので、レッスンのある度に聴覚レッスンもした。父が毎朝シンフォニーやらピアノ・コンチェルトを朝食中に流すのも効いたのか、登校中私はクラシックばかり口津さんでいた。音感=発達した聴覚=外国語を習う。(順番はこの通りでなくても良いと思う)私が妹達よりずっと早く英語をマスターできたのは、きっとこの理由からくると確信している。[注:あくまでも音感/リズム感に優れていたわけで、天才ピアニストまでには至りませんでした。もしそうであったなら今頃はコンサートピアニストで活躍しているはず。。]良い例としてひとつ挙げる。中学で初めて英語という科目がでた当時。母がESLの修士号をとるため、私が中3、妹達がそれぞれ小6、小2の時にハワイに戻り、転校した。年齢から行けば私が一番苦労するはず。日本で習う英語は「This is a map. This is a pen.」から始まるわけだから、それを2年間やってもアメリカの高校に追い付くわけがない。小学校へ入った妹達もなかなか馴染めずしばらく全員苦労していた。でも、もとからハーフでコンプレックスのある私は馴染みたいし、「日本人」というレベルを張られたくなかった。ジャパニーズ訛りを隠し、勉強も頑張った。幸い、ポピュラーな子たちが受け入れてくれ、私もそれなりにハイスクール生活を送れた。母がアメリカ人であり、英語教師であったことも超プラスであり、成績も1年半で帰国するまでに絶好調であった。妹達はそうラッキーでなく、真ん中の妹は音感が比較的鈍く、英語の発音もなかなかつかめないままであったし、下の妹は読書狂だったので読み書きは抜群、成績はよかったが、発音もまだこの時点ではイマイチであった。(現在は末妹はハーバード大学を卒業し、東京で仕事中)音感・聴覚というものを育めば、かなり良い線までいけるもう一つの理由。それは、高校まで日本語しか話さなかった私は、ハワイの高校からハワイ大学に至るまでフランス語も習った。2つ習ったら3つ目も勢いで習える。今はそうでもないが、一時はトライリンガルであった。******************************************************[ハワイの友人のレスのおかげで書き忘れていたことがあったので付け足しました]医学雑誌で数年前に記事になったのだが、音楽教育で脳を刺激された子供は数学や言語に強くなる、とある。私はそれを通り越して、音楽教育はもちろん、「音感」があればもっと有利だと思う。何しろ、言葉を習うのにはアクセント (インフレクション・プラス・イントネーション)を自分のモノにしなければならないからだ。ここでいう「バイリンガル」は読み書きはもちろん、いかに自然に会話が出来るかということもある。******************************************************脳というものは面白いもので、今まで経験してきたものは忘れていたと思っても、ちゃんと刺激さえあれば再現できるのである。だから幼いころから聴いていた英語は1年半内で身につき、フランス語も覚えやすかったのだ。要するに、今子供が喋らなくてもちゃんと耳が聴いているはず。話していれば子供はしっかり記憶するのだ。【バイリンガルであるゆえの悩み】長くなって申し訳ないのだが、体験談からいくと、私自身なんの問題もなくバイリンガル育児に挑戦できるだろうと思われる方がいるだろう。ところが、上に書いたようにそうスムーズに行かないことに気づいた。●心理的問題 ─ 子供に話す言葉・母国語というものが日本語でない私。日本語しか 喋らなかった子供時代だったが、自分の脳には「英語」がくっきりと母の喋る言語だとプログラムされている。きっとこの理由で自分の娘たちになぜか日本語を話すことが出来ない。単語は使うが、一日中ベラベラと話せない。日本語に子供に託す愛情を感じないのだ。●器用貧乏である自分 ─ あれもこれもとしてしまうのは言語から始まり、音楽・美術・科学・ビジネスなどに対する興味。この人生でひとつの事だけにコダワルということが恐ろしいのである。このまま腐ってしまうのではないか。こんな自分が子供に一直線な道を歩ませることができるだろうか。(貧乏ではないが、何かに大成功してお金持ちになったこともない。どれもいい線まではいくのだが、飽きてしまうものもたまにある)●キャリアについて ─ 興味とは別のキャリア。バイリンガル、そしてある時点ではトライリンガルであるため、仕事はどうしようかとても迷った。母の例から行けば、末妹と同じように日本でどこかの大学で英語を教えること。バイリンガルで得をするキャリアは他にもある。スチュワーデス、国際ビジネス、通訳、等など。小さいころ、母は我が家を訪ねるスチュワーデスさん達にプライベートで英語レッスンしていた。(ここらへんは混乱していた: スチュワーデスになりたいのか、それとも彼女等をクライアントにしたいのか) 結局はピアノ演奏に進んだ。なぜなら幼いころからずっと切実に続けていた唯一の科目であったからだ。●自分の存在・立場 ─ 日本とハワイの両方を故郷とする私には今いるメインランドは困惑するものである。2重国籍ではあるが、いままでの自分を見返してみると、メインランドには一応溶け込んでいるが、なかなかしっくりいかない。日本にいてもハワイにいてもやっぱり自分のどこかで「本当の自分はどこに存在するのだろうか」という考えが横切ることがあった。こういうコンプレックスのそろった条件もあり、普段はハッピーに、そしてたまには持ち前の天然ボケを活かして(?)生活をしているのだが、自分の子供達の将来となると居ても立ってもいられなくなるのである。それはマルチリンガル・多国籍・多趣味・多文化の私の個人的な問題。。。さて、体験談と悩みを述べたところでバイリンガル育児のためのちょっとした★アドバイス★母の実検台にされた自分の体験から行けば、ママが諦めずにしっかり子供に日本語を喋り、その子供の聴覚がしっかり育まれていれば、問題はないと確信している。今は英語でしか答えられない子もいるが、何かをきっかけに喋れるようになるはず。そのきっかけは私とは逆だが、日本の学校かアメリカなら日本語学校に入れたりすること。すこし苦労しても結果的には効果は絶対あるはず。子供の耳を発達させる為に音楽のレッスンもしっかりすること。ここで一つお断り: 私自身はマルチリンガルだけでなく、多国籍、多文化という影響もあるので、この体験談と悩みは同じような環境に置かれた方達に最適だと思われる。本日書いたことが少しでもお役に立てたら幸いです。ここに書くことによって自分の問題もすこしまとまり、解決できればもっとグッドかな。 Caitlyn & Kiki (2002)
2005年01月20日
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今日の私のくつろぎタイムのお供はフォションのアップルティー。朝夕はコーヒー派なのだが、ブログを始めてからは昔の紅茶派が復活したようだ。最近はホットシャワーの後は入れたてのホットティー。いつも仕事、家事、育児でなにかとドタバタしているから、子供が寝入ってから優雅にお茶を飲みながらのブログの読み書きがとっても貴重な自分だけの時間になっている。【今日のお天気】天気予報は大当たりで、今日は通勤ラッシュが終わったころ、雪が降り出した。9時半くらいから午後3時まで絶えなく静かに雪は降り、シルバースプリングも名前のごとく銀世界に。雪は5センチくらい積もる、と予告されていたので、今日は寒いのをがまんしてトレーンで通勤した。湿度があるので昨日よりは幾らか暖かかったかも。いや、暖かいと感じたのは、きっと今年初めてスパッツをモモヒキのごとくスラックスの下に着込み、スノーブーツ、ダウンジャケット、マフラー、毛100%のフィッシャーマン・セーターを着た重装備でもあったからだろう。(このコンビを着てなかったら何処かで凍え死んでいたかもしれない)【スノーデイ・文句】今住んでいるモンゴメリー郡は雪が少しでもちらつくと学校が閉鎖されるようなところ。全米ではトップ5位のパブリックスクールの功績を誇るらしい割には、なんだか情けない。ここは弁護士が多すぎで、きっと雪ですべって郡が裁判沙汰になるのを防ぐためだろう、と誰かが言っていた。政府がスノーデイで閉鎖されると、その首都圏の周りのメリーランドとヴァージニアも同じく学校や公務員はおやすみになる。私のつとめるコンサルティング会社も政府のスケジュールに合わせる。なぜなら、クライアントが仕事していなかったらこっちも仕事にならないからである、というシンプルな理由。夫は日中昼寝をするのだが、今日はなぜかケイちゃんの学校が早く終わるのではないか、と心配していた。経験からいくと、もう学校に行ってしまっていれば、変更なしのスケジュールのはず。お昼すぎたころ、キーちゃんのプリースクールから仕事場に電話があった。雪の関係で今日は学校を4時に閉鎖し、生徒も先生も安全に帰宅できるように配慮したとのこと。キーちゃんを4時までに迎えにきてほしい、とのことだった。私は仕事している訳だから、睡眠をとっている夫に頼むしかない。3時くらいに起こし、ゴメンネといいながら彼に迎えにいってもらう。3時45分。今度はケイちゃんの小学校から電話。なんと、ケイちゃんがスクールバスを乗り逃し(ケイちゃんやってくれるね!)、学校に迎えにくるように、とのこと。「申し訳ありません。今主人が妹をプリースクールに早めに迎えに行けといわれ、今向かっておりますので、その後になりますが」「なるべく早くして下さい」「直接行きますが、なんでも雪の積もった道路の状態にもよりますので、30分から45分位かかるかも知れません」電話の向う側の女性は少しイライラしていた様子。「分かりました。お待ちしてます」「ありがとうございます」電話を切って少し後味が悪い。仕方が無いことではないのか。何だかこっちが悪者扱いされたような気分。共働きで同じ時間帯で仕事している父母はどう思っているのだろうか。生徒・教師・交通安全を考えてのモンゴメリー郡の対策。政府のスノーデイとモンゴメリー郡のスノーデイの規則が一致していればいいのに、モンゴメリー郡は政府と比べはるかに大げさだと思うのだ。(内陸の州やもっと東北の州なんかは大雪がふっても子供はみんな登校しているという)ウチの場合、スコットがたまたま夜間の仕事だから日中は色々できるのだが。このスノーデイの規則、もう少しなんとかならないものだろうか。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ちょっと愚痴らせて下さいね。でも、皆んな無事に帰ってきてからはお外で雪遊びとかしてしまいました。スコットは雪遊び曰く、雪掻き・塩蒔きの方でしたが。明日は大統領就任式日。スコットはワシントンでしばらく残業になる。私も子供の学校が閉鎖、もしくは2時間遅れて登校ということも可能あり、という事で、マーサには家から半日仕事する許可をもらった。少しのんびり出来そうで嬉しい気分。
2005年01月19日
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今夜は緑茶を入れてマッタリしながら書いている。【今日のお天気】アメリカ本土では暖かかったワシントンと猛烈に寒かった内陸が交代したようだ。今日の最低気温はマイナス9度C。大したことは無い温度ではあるかもしれない。ミネソタ州出身の友人はマイナス27度Cを経験したことがあるらしい。(とはいいつつも彼女も私もすっかりハワイの気候にふやけてしまっているから当分治らないだろう)今日はさすがに寒く、電車に乗らずドアからドアへ移動できる車で通勤。ぬっくい家の車庫から出発したのは良いが、会社のビルの車庫で駐車し、車から出た瞬間の肌を刺すような空気。オフィスで数時間こもって仕事した後、ロビーのレストランのテイクアウトでスープを買いに行こうとエレベーターに乗ったら、外の冷気が入ってくるのだろう、冷蔵庫のようであった。その後、ロビーから13階のろりのろりと上がるエレベーターが焦れったかった (スープが冷めるじゃないの!)家に帰ったら、南国のような暖かさ。加湿器は2台がんばっているし、なんと非常用(?!)の電気ヒーター(パネル式)が出ている。余談だが、ウチはセントラル・ヒーティングなので、そんなにしてまで暖かくしなくても良いのだが、すきま風が入ってくる窓際にデンと置いてあった。「こうすると空気の循環がいいんだって」という夫。この際、あたたかければ理由はなんだって良いのである。【寝る前の戯れ】アメリカの学校・育児書や雑誌では耳が腐るほど言われる『子供と一緒に読む』『子供に読んであげる』という事。とにかく何がなんでも読むと子供の脳が発達し、のち良い影響がある。科学的証拠もあるのだろう。そう言われ、ケイちゃんが幼いとき一緒に読書を試みようと彼女がひっぱりだしたお気に入りの本を毎晩読んだ(読もうとした)。ところが、2才の愛しのケイちゃんはママがまだページを読み終わらないウチにさっさと次へとめくってしまう。 最初は微笑みながら「コラコラ」と言いながら根気強く読んではいるが、そのうちあまりのしつこさに我慢できず、最後の方は怒って省略してスピード読み。。。。(後で反省するんだが、なかなか治らなかった) 今は小学2年にもなり、ケイちゃんは小説を一人で読めるようになった♪ でも効果があったのかどうかちょっと疑問である。そういうケイちゃんとの経験もあり、さぁ、キーちゃんの番だわ、となるとちょっと怖かったりした。だが、キーちゃんの番が来たとき、奇跡のようであった。これは親が経験を積んで以前より穏やかなのか、それとも子供の器量が良いのか (両方かも)キーちゃんはいじらしくも最後までじっくり聴いているのである。ただ、彼女には大好きな定番の本があり、バラエティーに富んだ他の本には目もくれず、ひたすら同じ本を毎晩読んで、とリクエストする。その定番の本というのが、ディズニーのアリストキャット (貴族キャット?)。ママ猫、子猫3匹の冒険の話し。それで始まったのだが、最後まで聴いてくれるのはもちろん嬉しい。こっちもキャラクターごとに声色をかえて(時にはアクセント/なまりも変えると子供がウケル)入り込める。キーちゃんの特徴はといえば、ケイちゃんの反対=飽きない。このアリストキャットはここ3ヶ月くらい毎晩読んでいる。そして、最近はその上にマザーグース、フルーツの絵本、おやすみの本、そして「Each Peach Pear Plum」が追加されている。この先定番の本合計5冊の上に足されるのかと思うとちょっとボロボロになりそうだが、真剣に聴いてもらえるだけ有難いかも。ここでキーちゃんの大好きなマザーグースのとりわけ好きなものを紹介。子供の音感を育むのにはマザーグースのようなリズム感の良いものを選んで頂きたい。彼女が好きな理由は最近30くらいまでスクールで数え出している様で、数え歌もどきの詞が好きなようだ。One, two,Buckle my shoe;Three, four,Shut the door;Five, six,Pick up sticks;Seven, eight,Lay them straight;Nine, ten,A big fat hen!最後の方になると興奮してケイちゃんもキーちゃんもママも大声で合唱している始末。 キーちゃんなんかはまだ言葉がはっきり喋れないが、それなりに発音しているからカワイイのだ。マザーグースは私も小さい頃母に聴かされていた。思えば、彼女も本を見ずにすっかり暗記してしまっていたのだ。(笑)(スモアーズを作るケイちゃん。全て同じ日に撮った写真を沢山アップしているので服装が同じままである。。。)
2005年01月18日
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今熱いシャワーを浴び、渋くほうじ茶を入れて再び日記に挑戦。フィラデルフィアは本日マイナス4度Cであった。3時間ほど南へ運転し、メリーランドのわが家へ到着。もっと暖かいと期待していたら、なんとマイナス5度C。(どうしたらこっちの方が寒いのか)木枯らしがビュービュー吹く中、友人ジョー&ヴァニーと息子ウィル、そして私たち4人はダウンタウンの有名なレディング・マーケット・プレイスと自由の鐘を拝見しに行った。昨夜はヴァニー特製のファー(ベトナム語ではフォーではなく、ファァという風に発音する)をお腹いっぱい御馳走になった。大好きなファーのお供は濁り酒・キアンティ・ポートワインという意外な組み合わせ。最後の方はもうどうでもよくなっている。ファーの作り方は彼女に教わり、もう何度も作っては食べているけれど、やはり自分以外の人に作ってもらったほうが美味しいと思う。(一日中匂いを嗅いでいないし)ファーは私の食生活に無くてはならない存在になっていることも事実。娘たちも一体どこの国の者なのか他人には分からないくらい色々なエスニック料理が好きだし。 さて、今日はマーティン・ルーサー・キング博士の誕生日。アメリカに住むすべての人々が平等に平和に住めるようにと願う博士の記念日である。彼が全米で大切な存在なのは、1950年代、黒人という人種がまだバスの後ろへ座らなくてはいけなかったり、白人が来たら席を譲らなくていけない、という法律がまだあったアメリカ南部のバス会社へのボイコットを奨めたのがキング氏。そのバスのボイコットは1年間も続き、倒産寸前になり、ようやく反人種差別の法律ができたとか。そして有名な「I have a dream...」という彼の演説は今でも世界中の人種平等活動には欠かせないもの。今日拝んできたフィラデルフィアのリバティー・ベル(自由の鐘)は、最初はその町のタウンホールのアメリカ独立記念のシンボルとして作られたものだったが、時が経つにつれて、すべての自由・平等・独立のシンボルになった訳である。リバティー・ベルはつい最近まではアウトドアに設置してあったのだが、やはり記念婢、もしくは国宝なのだろう、今はインドアのもっと偉い、専用のビルに移された。マーティン・ルーサー・キング博士も1959年にライト博士と一緒にこのベルで彼等の平等活動を記念している。キング氏は1968年の盛大な平和パレードを計画していた最中、暗殺された。7才のケイちゃんもアメリカ教育テレビで掲載されたアニメ番組『リバティーズ・キッズ』の場面となったフィラデルフィアに来れて嬉しかったようだ。『リバティーズ・キッズ』はアメリカ独立戦争の様子を若者記者の目を通して学んでいく。主人公の一人はベン・フランクリン博士。雷にうたれ、電気を発見し、印刷所をフィラデルフィアに設けた人物でもある。(他にも数々の発明がある)そのベン・フランクリン博士の像も見つけ、ケイちゃんに見せたら、「え、そんなに年とってたの?」(ズコッ!)「テレビでは現役の年齢だったのでしょうね」とそれらしく答えたが、彼女はイメージに合わなかったらしい。明日からはまた仕事。4日間という短いワークウィークだが、暗くならずにはいられない。。。そして、今夜は最低マイナス9度Cまで下がり、週末までどんどん天気も悪化するようだ。雪が降ると、すぐ政府(ワシントン)は閉鎖されるので、こちらも仕事に行かずに済むのだが。そんな事を祈っていてはバチアタリかも。
2005年01月17日
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今日はなんとキーちゃんと3時間半もお昼寝してしまった。昼寝なんてしてる場合じゃないのに。明日はフィラデルフィアに遊びにいくので洗濯と掃除をがんばった。土曜日は大抵こんな感じなのだが、今日はもっと念入り。疲れて帰ってきて家が清潔じゃなかったら誰だってイヤだろう。それに、帰ってきたら大量の洗濯物が待っていて、その上に旅行先からの洗濯物もあるとなると。。。と、いうことで洗濯機は4回まわし、乾燥機もがんばっている。(意気込んで必要ないものまで洗ってしまった)料理もすごい手抜き。家を2日間空けるので作り置きしても意味がないので。手抜きとは、ゴハンと冬瓜のスープとそぼろだけ。(お昼は同じスープに麺をいれ、具を足したり)全国の奥様、野菜はどこ? と思われるでしょうが、生はなくてもスープに入っている、と勘弁してください。荷造りも少々したが、あとは明日の朝までお預け。フィラデルフィアといってもお隣の州なので、運転で3時間ちょっとでいけてしまう。ニューヨークは早くて3時間半。車もさいきんステップワゴンを買ったのでドライブが楽になりそうだ。その前の車は自慢だったアキュラ(ホンダ)の3.5RL(旧レジェンド)だったのだが、去年の8月に事故にあい、手放す破目に。3.5RL は前列の皮シートが暖かくなりハワイで血が濃くなっていた私たちのオシリに欠かせない特典であった。実は10月にもステップワゴンで事故にあっているスコット。。。。(無言)最愛の車はもうないが、気をとりなおしてステップワゴンの良さ(例:自動スライド式の両バックドア) を満喫できそうなミニ旅行にはワクワクしている私である。なので、日記はあさってまでお預けになります♪帰ってきてから画像アップしますね。では、行って参ります!(メリーランドとヴァージニアをつなぐホワイトフェリーで嬉しいケイちゃん)
2005年01月15日
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今夜もなんでもあれこれポプリ♪【今日のお天気】昨日は15度Cというワンダフルな気温だったのに、今日から風が強く急激に冷えてきた。土日はもうマイナス4、5度くらいまでなるらしい。(文句は言えぬが) 去年と比べると暖冬といえるのだろうか。あの3週間前の気温だけは不気味に寒かった。(ワシントン周辺は東京と緯度は違うが、気候は似ているのである)【週末のお遊び計画】今週末はマーティン・ルーサー・キング博士のホリデーで3連休。学校も仕事もお休みということもあり、夫婦そろって海軍オフィサーズのジョー&ヴァニーの住むフィラデルフィアに遊びにいくことになった。二人そろってオフィサーなので家も凄いサイズである。彼等と出会ったのはハワイのコンドミニアムに住んでいたとき。彼等は斜め上のユニットに住んでいた。ケイちゃんが6ヶ月のときに妊娠したヴァニーと仲よくなり、カップルで以来ファミリー同様。彼等は海軍なので2年もするとヴァージニアに引っ越してしまった。まさか私たちまでこちらに来るとはつゆ知らず。。。ふたたび再会したのはキーちゃんがお腹にいたとき。彼等が近くにいるということは心強かった。彼等の息子のウィルくんが実は数日前のブログで書いた「あの」全裸になってケイちゃんのベッドに潜り込んであそんだ張本人! 最近はもう6才になったのでそんな事はしないようになった。遊びにくるたびヒヤヒヤものだったが。ふぅ。【イトコのK・不思議の国のチャット】今日もコンピューターに向かってウェブサイトのお掃除をしたり週刊ダイジェストを書いていると、イトコのKがチャットの招待をしてきた。最近多いわね、とか思いながら実は嬉しい。一週間に一度くらいならもっと身近に感じられるだろうし。(実はそれよりもっと頻繁かも)何やらダウンロードを促されているのでクリックするとウェブカムで彼が写っている。うん? なにやら背広をきてなかなか決ってる彼。バックにはなんだかお洒落な建物の中だと思われるインテリア。ここはどこ? と内心焦る。「実は今パリにいる」ズコッ!「いきなりパリでなにしてるの? イラクじゃないの?」(心配というより嫉妬)「ちょっとね。二日ほどいるんだ」(またぁ。。思わせ振りな)「その背広姿なんだか怪しいわね。でも決まってるわよ」「そう?」と、照れて笑っている。「せっかくカメラあるんだから自慢してるんでしょ。ちょっと立ってまわって見せて」すると、Kはカメラの前に立ち、言われた通りに廻ってみせる。(まだヒトの言いなりになるやつめ) と、思ったら今度は背広のボタンをひとつひとつはずしだし、踊っている?「キャー、なにしてるの。脱がないでよね!」とからかうように書くと、KはまたPCの前に座り、得意げにフフフとでも笑っている顔。しまいにはカメラにキッスするK。こんなやりとり中、私がオフィスでクスクス不気味に笑っているのをしっかり聞いて一緒に笑っているのは向かいのオフィスのマーサ。あまり怪しがられたくないので今日は最初からイトコとチャットしていると断っていた。何かといつも話題になっている彼である・・・。パリからのチャットとウェブカムの彼の踊り。今日は彼に一枚取られた。。。(こっちは仕事してんのよ! もう)(それに彼だって向こう側で人に見られていたのではないか。爆)→これでも私は名誉ある○X家の長女 (どこが)。仕事もファミリーライフも誇り高く営んでいるハズなのだが。。最近はコケル話しばかり。(イトコKとケイちゃん。リバー・フェニックスに似ているでしょう?)【ケイちゃんのつぶやき】仕事が終わり、今日は運転せずにMARCトレーンに乗って帰った。今日は乗り越しせずにバッチリ自分の駅で下車した (自慢)。夫だけまた昼寝できるよう家に寄って下ろし、ケイちゃんと二人でキーちゃんのお迎えにプリースクールへ。建物に入る直前、ケイちゃんが学校の看板をゆび差して言った。「あたし、あの看板好きなの」「うん、どうして?」「あの親子3人一緒の絵が好きなの。」なるほど、抽象的に描かれているのは親子3人のイメージ。ファミリーが一緒なのが好きなのね。よしよし。と、一見思った。するとケイちゃんが言った。「でも、ウチは4人家族でしょう? あたし、もういちど3人家族がいいな」ブッ。「ど、どうして? 妹が出来てうれしかったんじゃないの?」と辛うじてカジュアルに聞いてみる。「だって。。。キーちゃんばっかり構われてるんだもん。あたしもあたしだけ構ってほしい」が~ん! そんな風に言わないで欲しい。7才だとはいえ、2才の子がどんなに手がかかるかご存じのケイちゃん。私と二人きりなのをチャンスとばかり攻撃にでたのだ。「ケイちゃん。。。あなただってカナリ手がかかるマイ・ベイビーよ。」「あたしベイビーじゃないもん。」い、言い返せない。。。たまたま建物に入るためドアを開けたところだったので、「よし、競争!」と、キーちゃんのいる教室までダッシュして話をそらした。ケイちゃんも3歩走って忘れたのか、その後ケロっとしていた。私は未だにグサッと刺された心のキズが。。。7才のお姉ちゃん、一見うんと成長しているように思えて手放し気味だったかも知れない最近。もっと気をつけなければ。(6歳だった頃のケイちゃん・サッカー)
2005年01月14日
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頭が空っぽだった昨夜。今夜は色々な事で頭ハチキレそう。どこから書いたら良いか。今日のテーマは【家に越してきてから良いこと・悪いこと】【猫のスヌーピー&タズ】【ケイちゃんのニューレッスン】【親友・その後】その他。【家に越してきてから良いこと・悪いこと】9月末にようやくリフォームが終わり引っ越してきたマイホームはちょっとマイナーな天井の水漏を抜かして住み心地抜群。日本では何というのか分からないけれど、アメリカには買った一年以内の保証保険というものがあり、なにか壊れたり水漏したりの時には100ドルくらい前払いするが、あとは保険会社が受け持って治してくれる。そのサービスを使ってもう2度。今のロウハウス(3階建てのタウンハウス)はガレージ・大理石の暖炉・ウッドフロアがついていてとりあえず気に入っている。14年しか経ってないのだが、年齢からいくとそろそろ屋根とかもサービスしないと、という頃。ディッシュウォッシャーのモーターが壊れたり、バスルームのパイプの水漏を治したりとマイナーだが面倒な修理があったりした。まぁ、これもオーナーシップの特権ということで。。。今の学校の地区はケイちゃんにとって最高。ちょっと離れているのだが、スクールバスも来てくれるし、今の担任の先生には熱烈に愛されているケイちゃん。親も親ばかで、いままでに見ないこの先生の教育に対する情熱に涙ポロリ。夫と二人で学校訪問(日本は家庭訪問ですね)した時、30分間話している間、なんだか神様にあったような経験をした。ケイちゃんは前の学校での難しい教育方針では、なかなか自分の勉強法がつかめなかったのだが、ブルク先生に出会って優等生なみまでに。おまけに優等生のカワイいボーイフレンドまでいるようだ。ボーイフレンドなんて本人の前でいったら殺されそうである。彼女のモットーは「ボーイズ大嫌い」である。(余談:でも、あの二人を合わせるとカワイイカップルになりそう。。。)さて、どこでもそうなのだが、住む場所にはやはりご近所というものがある。すぐおとなりさんはイタリア系のだんな様とフィリピン系の奥さん。子供さんはもう大学生で家を出てしまっているが、ご親切になさってくれる。もう片方のおとなりさんも中国人のカップルでなんだか居るんだか居ないんだか分からない存在。お向かいにはデイケアをなさってるインド人のピンキィ婦人。彼女にはたまにお世話になる。そのすぐとなりの黒人のファミリーはケイちゃんと仲のよいキアナちゃんの。ちょっとしたハプニングが一昨日の朝あった。ケイちゃんとキーちゃんをこれから車に載せて登校しようと用意していたとき。ピンポーンとドアが鳴った。ドアベルを鳴らすのはたいていキアナなのですぐ分かった。ただ、何でこんな時間に? ドアを開けるとウチの家の前でお母さんが車の運転席からなにやらこちらをみている。キアナはもう学校にいく服装。バスはまだ1時間先のはず。「私ちょっと今日は早めに仕事いかなきゃならないの。彼女みててくれる? ケイちゃんと一緒にバス停まで歩けばいいわ」え??「あのぅ、実はこれからもう出かけるんです。キーちゃんをプリースクールに下ろし、その後ケイちゃんは今日は私が車で学校に直接送るので」と、断ろうとすると、「ああ、いいわよ、一緒に連れてって」「はぁ」唖然。(そんなもんなの???)何の連絡もなしに家にまだいるからといって勝手に押し掛けてこないで下さい! (とそこら辺は堪えて) 彼女のママの「お許し」が出て、キアナは私たちと一緒に車で次の45分間一緒になった。こっちは家を出ようとドタバタしている一方、彼女のママは♪のほほん♪と通勤だったのだろう。これを又繰り返されたら穏やかな私もプッつんきれてしまうかも。ご近所付き合いはとても大切。困っている人がいたら助けてあげるのはグッド・ネイバーだが、それを通り越した強引さであった。(一言感想: 非常識な人ってどこにもいるものだ)【猫のスヌーピーとタズ】わが家には猫のスヌーピーとタズマニア・デビル(あだ名タズ)がいる。両方ともハワイ出身、今年で13才。スヌーピーは野良猫ミックスでタズは血統書付きのペルシャ猫。おまけにグランドチャンピオンという肩書きまである。タズの前のオーナーはガンで寝たきりでもう猫の面倒がみれなかったので引き取ったのだった。いろいろな面白い話もあるが、今日はお二人の性格の話。スヌーピーはメスだ。人見知りするわ、縄張りにきびしいわ、タズが大嫌い。お高いクイーン。夜は一番えらい場所、私たちのキングベッドのど真ん中で寝る。布団の上から寝るので (それも人の足の間とかワキの下) 寝返りができない私。シャム猫の血が混じっているのが分かるのが、三角顔に声がシャム猫している。黒がまじった白でうす緑の目。でもグランドチャンピオンのタズと比べられるからオスだといつも間違えられる。(これでかなりヒネクレてるかも) さぁ、彼女の正反対はタズ。真っ白フワフワで目は琥珀色。綺麗だからメスとまちがえられ、プライドがないから誰にでもゴロゴロといってしまう。すぐ誘拐されるタイプだろう。彼は遊びにきたお客様の人気者である。お客様がいるときはスヌーピーはいつも隠れているので、きっと皆さんわが家には猫一匹だと思っているだろう。挙げ句、どろぼうがきても全部盗ませ、おまけに一緒に連れ去られるのが彼の運命かも。性格の違いはどうでもいいし、それなりにお二人ともいじらしい。ただ、13才にもなって兄妹喧嘩はやめてほしい。。。【ケイちゃんのニューレッスン】今日からケイちゃんの学校で放課後をつかったハンズ・オン・サイエンスのコースがはじまった。毎木曜・8週間で90ドルなのだが、このコースは実は工学に興味をもたせるためのもの。ピラミッド・ブリッジ・迷路・パズル等、小学2・3年生にウケそうなトピックスで巧みにどんどん本題に入っていく。一日目の今日、学校に迎えにいったら、楽しかったが『クレイジー』でもあったらしい。きっと新鮮だったのだろう。すこし型からはずれたカリキュラムはいいと思う。それに、これに根がついて工学のほうへ進んだらラッキーではないか! (親ばか。。。)【親友・その後】なかなか連絡がないからそろそろ心配になってきていた。無事に日本に帰り、翌日は夜更かしで残業だった。いつもの事だが、それで治りかけていた風邪がぶり返し、次の日やすんでいた。ニューヨークではお財布・迷子事件もあり、まる一日潰れた彼女は一日延長。あまり聞かれるのはいやなので体の具合いが悪いから、という理由で仕事に連絡したのはいいのだが、ここでまたユニークな対応。「具合いが悪くて申し訳ないが、アメリカのフォーミュラを買い込んで欲しい」と。え??[注:フォーミュラ=ベビーミルクのこと]どうことかと聞いたら、そのフォーミュラを愛用している日本で好感度一位の女優さん(といったらバレてしまうだろうか)の為。彼女の芸能事務所の社長さんからの依頼だった。具合いが悪い人にそんなお買い物をさせるのは常識だろうか。高い州税のニューヨーク・マンハッタンでセールでフォーミュラを見つけるのはきっと困難だろうからきっと定価を払ったのだろうと思う。いったいフォーミュラの缶いくつ買ったのだろう。聞いてなかった。親友にかわってムカッときてしまった。【その他】今日は15度Cという快適な気温。1月のど真ん中なのに春のよう。温度の上下の関係でワシントンは昨日と今日霧に包まれていた。素敵でロマンチックな霧のやわらかい空気。頭痛と鼻血がでそうなウェブサイトのプロジェクトはもう頭になく、とっても良い一日であった。
2005年01月13日
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メリーランドは今午前12時42分ほど。今日は水曜日。仕事が終わり、キーちゃんをプリースクールまでお迎えにいき、帰宅。帰ってからはお向かいさん宅へケイちゃんをお迎え(遊びにいっていた)。その直後ガールズはお風呂、私は夕食の用意とお洗濯。6時にはじまり7時に食事。どうやったのか自分でもびっくりだが、今夜はトムヤム・スープを作ってしまった。大好き♪後片付けが終わり、今度はキーちゃんが寝る前の定番の本「Each Peach Pear Plum」を3度読んだ。今日はケイちゃんもキーちゃんも抵抗せず自分達でさっさと寝てしまった。不思議な気分なのだが、本当はこれが当たり前なのだ、と自分にいいきかせている。(^^;)夫が仕事に行ったあと、戸締まり & アラーム設定。そしてティーボでセーブしておいたエイリアス(主演:ジェニファー・ガーナー)を見たらもう限界。でもSeason Premierだったので最高でした。ブログはちょっと読みにいき、「読み逃げ」も少ししてしまった。自分のブログも今日はごく普通のダイアリー。頭の中が空っぽです。明日はなにかひらめいた事・キレル事を書こうと自分に約束しながら、寝ることにした。最近寝不足でもあるし。それでは、おやすみなさい♪
2005年01月12日
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今日はコンフェレンス・コール2つ。あーでもない、こーでもない、行ったり来たりのウェブサイトの会議であった。ウェブ言語をITほどスラスラ話せなくても仕組みは結構良く知っているから、会議に参加している人たちのコメントにウンザリしていた。上司のマーサも午後は他の会議に出席するため私ひとりで情報センターのお留守番・プラス・会議コール。お外は晴れているのに。。。ウェブサイト組員になるのなら今時のテクノロジーくらい分かってほしいものだ。ウェブサイトをデザインしているコントラクターには絶望だし、組員の方も知識が乏しい。コントラクターはなんだかインチキっぽいソフトでデザインしているらしく、あちこちに間違いがある。それを探して指摘するのが私の役目になってきている。こんなことになるのなら、どうして政府は最初からデザインとメンテナンスの両方を私の会社に依頼しないのか。まったく意味不明である。ちょっと憂鬱なのは3月からまた一年の契約がはじまる。そのコントラクトをマーサが読んでいた。マーサは私よりこの道10年先輩だが、彼女を情報センターで慣れるまでトレーニングをしたのは私。奇妙な関係である。私はマルチ人間でなんでもこなすが、彼女のメディケアやヘルスケアの知識はとても豊富。ネットワーキングやパートナーシップが彼女なら、私は運営・コーディネイト。二人でリサーチや分析もする。全米 (プエルトリコ、グアム、バージンアイランド含む)に送り出す週刊ダイジェストもせっせと書く。年に2、3回の総合会議でいろいろと飛ぶこともある。新しいコントラクトには新しいスタッフ数人を加えるのと共に仕事の内容が急増。「なにこれ?」と二人で言いながら読む。ウェブサイト関連の仕事が沢山足してある。今以上やらされたら鼻血がでそうである。先日にも書いたのだが、会社の待遇がどんなによくても、限度というものがある。この情報センターにずっといては脳みそが腐ってしまいそう。刺激が足りない。それに指が鈍ってきているのも感じる。上司とは上手くやっているつもりだが、彼女に本当に私の価値が分かっているのだろうか、と最近思うようになってきたし。彼女もかなりのやり手だから、もう慣れてきた仕事に自信があるだろうし。私は必要ないのではないか。そう考え出してきて、会社に対する服従感 (とでもいうのだろうか) が薄れてきている。会社といってもコンサルティングなので、部によってまるで関係ないプロジェクトが多い。プロジェクトごとなのでやっていることが全然違うわけだからライバル意識もなく、みんなでワイワイ仲よくやっているのも事実である。こんな調子でいいのだろうか。転職はしたくないが、子育て面でも悩んでいるように、今の仕事をキャリアとするより、何の保証もないピアノ演奏と教育に戻ったほうが有意義な人生になるのだろうか。この答えは新しいコントラクトを読み通し、これから先一年をみて明らかになるかも知れない。それに、このプロジェクトもその後、健康局に再ビッドされる。今の会社にコントラクトがこなかったらそれが良い機会かも知れない。。。〔つまらない仕事の悩みでごめんなさい。でも、本当に最近考えこんでいるのです。〕----------------------------------------------今日フリーページのグルメクラブをアップしました。週末、ホリデー、イベント、お客様等、機会があれば楽しいクッキングをエンジョイしてます。ご興味あったら覗いていってね♪
2005年01月11日
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親友も無事に日本に経ち、今日からまた平凡な月曜日。の、ハズだったのに。平和に起きた昨日の朝はなんだか喉がイガイガ、鼻がでる私。マズイ。そういえば、最近キキは親がよそ見しているといつの間にか裸になっている。洋服は窮屈なわけでもなく、厚着させているわけでもない。でも、プリースクールでも外遊びするとき、「暑いの」といってコートを脱いでしまうらしい。経験と周りにいる知り合いから、世界中の2歳児はストリーカーなようだ。友人の息子も遊びに来たときは素っ裸になり、娘のベッドに潜り込む遊びを楽しんでいた。キーちゃんのすっぽんぽんは稀だが、パンツイッチョで一日中走りまわられるわけにはいかない。夫も私が仕事でリラックス(?!)している間、家では末娘と格闘である。全裸で大ウケしていたりするのも彼女であったりする。その上、最近の激しい温度差で体がついていけないのか、いつもは病気をまったくしない私でさえ、もう2度風邪でダウンしている。それも2週間続けてである。(クリスマス直前のブログを始めた頃)抗生物質を2週間前に頂き、中耳炎もやっと治ったキーちゃんだったが、私から移ったのか、裸で大騒ぎしているからか、今朝とうとう『また』熱を出してしまった。親子そろって鼻水たらりの一日。。。情けないばかりである。世界中の2歳児のストリーカー症候群、どこかの国の政府の企みだろうか。
2005年01月10日
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親友がニューヨークで財布を無くし迷子になった大騒動もすぎた2日目。彼女は言われた通りに電車で例のバスで今度はターミナル(ガレージ)まで行き、財布を取り戻しに行くはずだった。夫の仕事先のホテルのスタッフの一人がNYのホテルのコンシェルジュと知り合いなので何か分かったらすぐ連絡したい為、午後2時までには財布の中身を確かめよう、というコトを親友と私で前もって話していた。今夜は私と夫のアメリカンスクールからの悪友リーラ、BF 、と娘ハーリーが遅れに遅れたホリデーディナーを、うちにご馳走になりに来る予定。メニューはプライム・リブ・ロースト、ポートワイン & エシャロットのソース、サラダ、ポテト・リーク・セロリルートのグラタン、デザート等。ワインは2000年のキャベルネ・ソーヴィニョン・リザーブ (91点と採点されているというから買ったもの)。友人ファミリーが来るというので、洗濯・掃除・買い物・料理に目を廻していた私 (といってもいつものコトだが)。携帯が鳴る。もうお財布の中身を確認した報告だろうか。「実は、今電車を降りてバス停にいるんだけど、運転手がどのバスもガレージには行かないって言ってるの。申し訳ないんだけど、彼に昨日言われたことを説明してくれる?」会話中、バックではなにやら男たちの話し声が聞こえる。「もちろん。携帯彼に渡して」と興奮をなだめながら言うわたし。(挑戦されたら受けてたたずにいられない自分の性格が恨めしい。。。)「もしもし? 彼女にはもう何度も言ってるんだよ、ガレージ直行のバスはないって」と無愛想な運転手。「はい、それはききました。ただ、きのうの320番の運転手さんに言われたのは、このバスからそのガレージに行けると聞いているんです。心当たりありませんか」「知らないね。一番近くて○Xモールだよ。でもそこはガレージじゃないぞ。彼女、英語しゃべんないね。問い合わせてガレージまで車でいくんだね。」本当に無愛想極まり無い。ここまで会話できているのが世界七不思議である。とりあえずお礼をいい、彼女とまた会話。今言われたことを説明。そこまで行ったのにこれから引返さなければならないのか。私はホテルに戻ったら現金を用意してくれるからそこからタクシーで行ったら良いのではないか、と提案した。でも、なんとかこのままバスで行けないか、ともう一度横にいる乗客と話してみようと思い、携帯に出てもらった。「すみません、友人が英語があまり出来ないので、メリーランドからちょっと案内したいので、助けてくれますか」今度の男性はもっと親切だった。先ほどの運転手には自分も不親切にされ、ちょっと怒っている、とも言っていたが、親友が英語が喋れないのに一人旅は危ないよ、と会話が一転した。「なんで君が一緒に居てあげないんだ」と私がしかられてしまった。。。。「は、はい」それはさすがにグサッと来た。そう言われたら言い返せないではないか。彼女は大人で、自分の面倒は見れるハズだという理由もあり、一人旅は賛成だったのだが。。。おせっかいなヒトもいるものだが、まぁ、良心的なヒトで面倒見がよいのだろう、と自分をなだめる。とにかく、何とかモールの名前を聞き出そうと聞いたが、あいにく彼も知らなかった。彼は「がんばってね」と言い残し携帯を換わった。この後、彼女は昨夜知り合った日系の男性に連絡をとり、なんとか無事にバスにのって近くのターミナルまでいけたようだ。一時間後には今度は受付の男性との携帯のやりとり。。。昨日7時頃バス320番で無くし、緑色のチャックのついた財布。円とドル両方入っている。身分証明書が必要ならパスポートをもっている、等など。彼は探しているが、見つからない。携帯越し、親友と二人でどんより。もしかして違うターミナルにきてしまったのだろうか。 15分後、奇跡的にみつかった。そして中身を確認すると、なんと、すべて入っているそうではないか。ただ、入れ順が違っているらしいが、お金の額は同じらしい。溜っていたものがドーっと抜けていく感じ。「いろんな人たちに迷惑かけちゃったよー」「でも、こんなところでも親切にしてくれる人は沢山いるんだってことが分かったね」「うん、本当。いい体験になった」それはそうでしょう・・・(苦笑)その後、彼女は気分をとりなおし、ニューヨークの英語のみのツアーに参加。私はディナーにくる友人たちのための準備に追われ、彼女とは夜中まで連絡をとらなかった。それに、ディナーと伴うカクテル、ワインで盛り上がっていた我らにはその日だけ世の中の心配事など頭になかった。それにしても親友はなんて運が強いのだろう。本当にヤバイことになってもなんとか上手く切り抜けられてしまう。でもやっぱり携帯がなかったらかなり危かったかも。。。(冷汗)
2005年01月09日
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今夜は夫の仕事先のホテルのパーティー。金曜の夜であり、始めてベビーシッターを雇ってお出掛けにワクワク胸を膨らましていた。有名なフレンチシェフの料理にワイン、格別なデザート。仕事で7時くらいまで時間を潰し、メトロでFarragut North駅まで20分。Kストリートと17th ストリートの角で車で来た夫と待ち合わせ。ホテルにつくまで車の中では二人で夜出かけるのは不思議だ、などと話していた。だが、着く直前、携帯に電話。今ニューヨークで一人旅をエンジョイしている親友だった。時間でいえば、NBAのNJネッツの試合を見にマンハッタンからバスにのってニュージャージーのコンチネンタル・アリーナにいっているはず。「もしもし?」なんだか頼りない声。アリーナ直行のバスにのるはずだったのが、違ったバスにのってしまい、運転手にどこか下ろされた挙げ句、財布もバスに落としてしまったらしい。今どこにいるかも分からず、一銭も持っていない。それを聞いて私は顔の血がサーっとひいた。彼女は旅慣れているわりには英語があまり出来ないのである。試合のチケットはもっていても、現金がなければ、どこにも行けないし、帰ることもできない。こちらから現金を用意するにもすぐには無理だ。タクシーをこちらから依頼するにも場所が分からないのである。会話中、バス停にいた黒人のおばさんが、やってきたバスに乗るように催促しているという。とりあえず乗る様子だったが、これから夫のホテルに着くからなるべく何か対策しておく、変なことになったらすぐ携帯に電話をするようにと言い残し、切った。こっちは気が気でなかった。ホテルについてからはパーティーに行かず、夫のオフィス直行。電話でいろいろ乗っていたらしいバス会社に忘れ物の問い合わせ。そして携帯から親友にかけようと思ったら、なんと国際番号にはかけられず、新しいコールサービスを足さなければならないと伝えられた。夫はすでにかなり動揺していたが、彼には出席しないと面子が、ということで私はロビーでひたすら携帯で電話。運悪いことに私の携帯は今にも電池が切れそうであり、親友がかけてくるのじゃないかとハラハラしながら夫の携帯で手続き。30分後、手続きはとれたが、今度は彼女の電話につながらない。きっとレセプションの悪い場所にいるのだ。レセプションの悪い場所→どこか遠い場所→携帯盗まれた→誘拐された、などと考えはどんどん暗い方向へ。友人の居場所が分かり次第 出来る事はとりあえず2項目:● ホテルの従業員の知り合いがちょうど彼女の泊っているホテルのコンシェルジュを知っていて現金を用意できる。● 先日の日記に書いた友人のクリスタルとノーマン夫婦が金曜の夜だというのに、ちょうど家にまだいて、彼女を迎えにいくことが出来る。連絡がとれない間は仕様がないのでとりあえず私もパーティーへ。動揺していた割にはその場では割りきることができ、食事はエンジョイできた。となりに座っていた新米のオーストリア人のローマンとガールフレンドのドイツ人のニコールと知り合えた。 美味しい赤・白ワインを頂きながら、私は幼いころドイツに住んでいたことがあり、スイス・ルクセンブルグ・ベルギー・オランダにも行ったことがある等と話した。大学時代に行きそびれたウィーンのモーツァルテアムは残念だったと話すと、ローマンは遊びにきたらアパートに泊っていいよと言った。オードブル・サラダ・メインコースが終わったころに夫の携帯からもう一度電話。留守電にメッセージを残していると、私の携帯が鳴った。彼女だ。案の定、親切な黒人のおばさんが5ドルを貸してくれ、マンハッタン行きのバスの中で日系の男性がバスの運転手といろいろ親切にしてくれたらしい。今地下鉄でホテルに帰る途中らしい。そして、財布は運良く見つかったらしく、翌日バス・ターミナルに取りに行けとの心遣いまで・・・。ニューヨークの物騒なエリアでの迷子と財布の紛失。彼女が無事にホテルにもどったとしても財布など戻ってこないと確信していたが、人々の親切さには驚くばかりである。良いニュースだったこともあり、後半に差し掛かっていたパーティーではコーヒーを呑み、スタッフとゲストが混じったダンスフロアで少し踊ってから帰った。先ほどまでの友人が困っているのにパーティーに来ている自分の後ろめたさも無くなっていた。そして、家ではベビーシッターがケイちゃんとまだ起きていたが、ここでは何事もなくリラックスした夜だったようだ。こんな大変なことになるなんて思ってもいなかったのだが、一人旅していた彼女は自業自得だ、と話していた。こんな破目にあったのも私が同行しなかったからだと少々反省したのは言うまでもない。携帯電話というものがなかったらどうなっていたことやら、と思うと悪寒が走る。(財布を取り返すという作業がまた別のストーリーなのだが、それは続く。)
2005年01月08日
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昨日と比べ、今日は良い日であった。仕事での例のけしからんウェブサイトもコントラクター側にいろいろ交渉をとり、メンテナンスを明日にすることに。電話ごしでウェブ言語でしっかり説明するのには私と上司だけでは自信がなく、いつも仲よくしてくれているIT課にいるジョンに会議に立ち会ってもらった。ハンサムだが、いつもそんなに冴えてないような感じの彼には今日は大感謝であった。(ジョンは冴えてはいるのだろうが、マネージメントが下手なのがタマにキズ。余談: これでマネージメントがしっかりしていればかなりモテるだろうと思う)メールや問い合わせの電話の合間にドタバタしているとデスクのコンピューターのIMのチャイム。イトコのKではないか! それも昨晩 又いろいろとチャットをしたばかりであったが、とりあえず応答。1分おきくらいに「電話なの、ちょっと待って」とコメントを入れていたが、イラクとアメリカ間のチャットにしてはギャグのようであった。昨晩はまた私たちの若かった頃 (お断り: 今も若いつもり) の楽しかった思い出話や、彼の好きなショパンの曲をダウンロードするため探している等の話し。妹のアリの年末ハワイ・ウェディングの噂。そしてサンディエゴに置いて来た彼女の話し。ここ数年別れたりよりを戻したり。私は1年前の別れたすぐ後あたり、悩みごとを1時間ほど電話できいた。それも、彼がイラク遠征中、彼女が浮気したこと。そんな事を聞かされて許せるわけがない。その上、いつもお金がなく(と、いっても彼女は裕福なご家庭からきている) 彼がなにかしら援助しているなどなど。。そんなとんでもない人はキッパリ諦めて、よりを戻さないように、とその頃は励ましていた。お金が絡んでくると私は許せない。人間はそんなに単純な生き物ではないのは私も承知だが、彼はよりを戻してしまっていた。でも昨晩のチャットでは自分の非も色々と述べ、彼女を構っているわけではないが、自分も反省する面があった、とポツリ。私もすべてを一方的に見るのはいけないと自分でも反省し、お互いをいたわりあい、過去を許しあえるのなら私も応援している、と伝えた。彼はそれをきっと確かめたかったに違いない。彼の妹はなかなか彼女を受け入れないようで、Kはそれが気掛かりでいるようだ。「K、このチャット、セーブするね」「どうして?」「状況が状況だし、何かあったら思い出だもの」「大丈夫だよ、僕」「うん、そうだよね」「でも、そうだね。セーブしておいて」さて、昨晩のチャットはさしおき、今日は仕事場でのチャット。イラクからだとは言え、冷や汗ものであった。結局的にはもっと普通な会話だったのだが、私がまた仕事が忙しくなってきたのを理由に中断することに。そしてお決まりの「I love you」「I love you, too」のやりとり。アメリカの身内でもこんなにしょっちゅうのやりとりはないが、Kは昔からこんな感じであった。そんな彼を見習い、私もこれからは素直にもっと言えるよう努力するつもりだとも約束した。「これもセーブするんだよ」「OK, もちろんよ」仕事・チャット・雑用をすべてこなしてしまった今日であった。でも気分よく今日はMARCトレーンにのり、読みかけの小説を開き、優雅な時間を過ごそうと思っていたら、不覚にもウトウトしてしまい、自分の駅を乗り越してしまった。乗り越した駅では夫が待機していたが、降りてこないので次の駅まで車を飛ばして迎えにきてくれた。。。 かっこよかった一日がドジな終わり方であった。(涙)P.S. でも、寝ている子供達のあどけない顔をみていると本当に癒されます。そして、ああ幸せだな、と思えるのです。
2005年01月06日
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5連休の後、とうとう仕事に戻った。ホリデーが立て続けに重なり、お客さんも大勢訪問し、グルメ・お遊びばかりだったここ2ヶ月間。冬休みだったということもあり、交通状態も最高であった。でも、5日という今日はハードな現実に戻っていた。どんよりした天気はもちろん、親友のいない禁断症状、ケイちゃんも腹痛を訴えながらも登校し、挙げ句は早引けしてしまっていた。バケーション明け、さっそく仕事に遅刻してしまった。2日しか有給休暇をとってないのに、待っていた仕事の量には舌を巻いた。上司が2週間半いなかった12月後半は暇すぎる位だったのに、私が2日間いなくなるとどうして急に忙しくなるのだろうか。こうなってはもう遅いが、マッサージの後遺症でオシリが痛かったのが懐かしいくらいだ。今日私を待ち受けていた仕事はウェブ・マネージメント/メンテナンスであった。コンサルティングとはいえ、従来の役割ではない。得意とするものではあるが、問題はそのサイト自体の「基本」がなっていない。我会社がデザインし、そのメンテナンスならいいが、他社が下手な機能をビルドし、その修正をやらされるのだ。ユーザーをまったく分かっていない素人な出来映え。はっきり言ってしまえば、ユーザーはともかく、それをメンテナンスする側を分かっていない。書けばうんと長くなるので詳しいことは書かない事に。。。私はいつからこんな仕事についてしまっていたのだろうか、と最近よく思うようになった。会社の待遇はとても良く、個室オフィスがあり、そして上司ともとても相性が良い。同僚には羨ましがられ、お給料も文句言えない額だし、老後対策の投資もできる。普通のヒトなら幸せな仕事だろう。私のファミリーも満足だと思う。でも、私は心に引っ掛かっていることがある。私の本来のキャリアはピアノの教師なのだ。大学の専攻も音楽科・ピアノ演奏である。ハワイで11年間ほど教えた後、メリーランドに来たわけである。引っ越して来た当時は妊娠5ヶ月であった為なのと、まだ住む場所を確保していなかった為もあり、ピアノ教室を始めるのは我慢していた。生徒さんが出来てから又引っ越しとなると無責任だと思ったからである。産休も近づいているので、なにか短期間で簡単なアルバイトみたいなものを探していたので派遣会社 へ。それで派遣され今の会社とクライアントのアメリカ健康局に気にいられ正式社員となった。それも、引っ越したてで健康保険がなかった私の為に、派遣会社との契約をうまく破って雇ってくれたのだった。長い話が要するに、【1】今の仕事が悪くなく、【2】産休後戻らないかも知れない私に賭けてくれた会社に感謝、【3】ビジネスを一からのやり直しが怖い、という心境から今日に至る。そんな私を悩ませているのは二人の娘たち。子供がいなければ申し分ないキャリア。でも、放課後のスポーツ、レッスンなど連れていく暇がない。できることは週末くらいだ。夫が日中家にいるのはプラスだが、彼も一晩中仕事しているわけだから、本当は寝ていて欲しいものだ。それを私がいない間カバーしてくれている訳である。どんどん大きくなっていく子供達。ピアノの教師をしていた私。また子供達を育て上げる一人の人間として役立ちたい。こう見ると今の大人相手の仕事は私の目標と噛み合わないのだ。器用貧乏でもチョイスがあるだけ喜べるはずだが、いつか決断を迫られる日がくるだろう。それも、近い将来だと思っている。
2005年01月05日
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今日は痛いオシリと足腰をさすりさすり、ベストフレンドをダラス空港まで送って来た。今晩はニューヨークでNYニックスの試合を見る彼女。いいなぁ、と羨ましく思ってしまった。ここ3、4日間は1月の真冬だというのに、物凄く暖かい。2週間前のマイナス10度Cという気温はなんだったのだろう。夢のようである。なので元旦そうそう特した気分。(なんでもロスあたりは寒いらしく、カリフォルニアの山の方は雪が大量に降ったとか)こんなに暖かいのを前もって知っていればもっと休暇をとってニューヨーク今年も計画すれば良かったと今更になって後悔している。親友がお正月を一緒に祝うためにメリーランドに来るのはこれで3年目。去年は夫のホテルの支店がマンハッタンにあったため、一泊40ドルという信じられないお値段でスイートにタンデムで2泊泊ってしまった。彼はその後ワシントンの最高級ホテルに転職したのでそんな特典はもう無いのだが。(今のホテルはいわゆるブティックホテルであり、支店などない)ニューヨーク/マンハッタンに遊びにいくついでにいつも訪ねるのはハワイ大学からカップルで仲が良かったクリスタルとノーマン夫婦。彼等はケイちゃんが生後5日目の時にワイキキのモアナ・サーフライダーで結婚した。夫のスコットはGroomsmanであった。クリスタルとノーマンはおととしニュージャージー州でマイホームを買った先輩でもある。ハワイではキャリアがイマイチといっていたノーマンは、実はハワイでは有名なジャズ・ミュージシャン(サクソホン)のゲーブ・バルタザール氏の甥。ノーマンのお母さんは日本人だが子宮ガンで何年か前に亡くなっている。クリスタルがニューヨークのイーストマン音学院で修士号をとり、そこに移住するつもりでいると、結婚後ノーマンも移った。今はある銀行の副社長にまで昇進したという。ハワイではあり得ない話しである。彼等には本当にこれで良かったと言えるニュースである。今年は会えなかったが、去年までいつも会いにいっていたと理由をつけ、訪ねるのは彼等の番だと連絡を入れることにしよう。ニューヨークも楽しいが、ワシントンだって負けていない、とは最近思えるようになった。親友だって飽きずに来てくれるのだ。訪ねにくる理由が少し違うが。それに、来たら来たで今度は子供に占領されてしまう。。。今頃はもうニックスの試合が終わっている頃だろうか。ちょっと電話でもかけてみようかな。
2005年01月04日
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親友が訪ねにきて3日目。彼女にリラックスしてもらいたいのと二人だけの時間をエンジョイする為に、今日はマグノリア・サロンへ。彼女はディープ・クレンジング・フェイシャル&マッサージ、私は希望していたスウェディッシュ・マッサージ師のオルガが休暇だったため、アキュプレッシャー (ツボマッサージ) のショーンさんにお世話に。オルガが来るまで待てば良かったと思うのは後になってからなのだが、アキュプレッシャーで痛い目にあった。すべてのツボを押されてグリグリとかなり効くのだが我慢していてもたまに「キャー」(「ギャー?」)と声がでてしまう。「これ痛いですか」と訊かれて素直に「ハイ、痛いですー!」と答えた。もうプライドなんて捨ててしまっていた。「アジア系のヒトは皆さんアキュプレッシャーがお好きなんですよ」とか「ここら辺ではアキュプレッシャーをやってもらえるのはこのサロンだけですよ」とかマッサージを堪えている間聞かされた。ふん、アジア系だからって勝手に決めないでよね、と痛い最中心のなかで反抗していた。確かに珍しいかも知れないし、彼がかなり上手なのは痛い目にあっている本人には納得。「でも、私スウェーディッシュ好きだわ」と言ったらすこし静かになっておられた。スウェーディッシュの方が好きだ、と言ったのではなく、「も」好きだといったつもりだったが。すると、ショーンは「スウェーディッシュ好きなそうなので、少しやってあげましょう」とローションを出してきて15分ほどサービスしてくれた。「ラッキー」と思ったのは言うまでもないが、やっぱり男性・プラス・中国人であることもあり、ちょっとラフな感じ。終わって友人のフェイシャルとマッサージの会計を済ませている間に、ショーンは気になるらしく、「マッサージ気に入ってくれましたか」などと訊いていた。「はい、とっても効きました」とだけ答えて、「遠いのでたまに来るようにします」と言っておいた。身体中の筋肉がスクランブルエッグの様にマッサージされ、こりは無くなるだろうけれど、今度はもっとリラックスでき、気持の良いスウェーディッシュがいいなぁ、と密かに計画していた。その後、痛いオシリと足腰をさすりながら、親友と古着屋を回ったりして夕方を過ごした。明日はもうニューヨークに経つ彼女は最後の夜というのにも関わらず、5時ぐらいから真夜中まで爆睡していた。
2005年01月03日
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