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皆さんは楽器屋で打楽器売り場を覗いた経験ありますか?今まで何度か当ブログでも取り上げましたが、あんがいお安いんです。==============================もしも彼氏彼女の事情の登場人物がプログレ女子だったなら、そして劇場版が制作されたなら・・・
Feb 28, 2016
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外タレ公演 ラジオCM集 1975〜82年 中にはベイビーズ来日公演中止告知とかかわったのもwボストンやらトッド・ラングレンとか色々あって楽しいです。
Feb 28, 2016
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1970年代中頃から、気が向くとひと月ほど軽井沢で過ごしたあのジョソ・レノソ氏の逸話れすwおまけうにおんに箱で入ると聞いてw
Feb 26, 2016
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前回に続き第4回目、最終回です。GGFはBBCラジオ1の番組「マイ・カインド・オブ・フォーク」にも呼ばれた。どういうわけか言葉に窮する思い込みで彼らGGFは「ジャンル的にフォークバンド」とみなされていたのだ!同郷ボーンマス出身の青年アル・スチュワートがホストを務めるラジオショーで、その放送回では前衛音楽家のロン・ギーシンを特集しており、ピーターは感銘を受けた。「ロン・ギーシンは愛すべき変人だった。彼は語り、歌を歌った。覚えてるのは彼が話をしながら金属瓶にこまごましたものを拾い集めながら詰め込み、収録現場に陽気な喧騒を招いてた情景だ。それはスパイク・ミリガン風で我々にも通じる共通のユーモアだったので、我々は彼の事がとても気に入ったんだよ。」(※スパイク・ミリガン、英国のテレビ創生期に活躍しコメディ番組「グーンショー」での活躍が特に有名。)その翌日9月13日は、彼らのアルバムThe Cheerful Insanity Of Giles, Giles & Frippの発売日だった。バンドが公式に4人編成へと変わったばかりで、いくつかの不都合も生じてきていた。アルバムへのレビューはまばらで、極わずかに賞賛も見受けられたがほとんどが彼らを落ち込ませるものだった。「ザ・サン」趣のある小曲の数々を奇天烈なモノローグが分断する狂騒で溢れかえってる。「ディスク&ミュージックエコー」GGFは弁護士の一団ではなく、美しい声ととても美しい作品。ただし売れ線じゃない。3週間後にはDJのジョン・ピールが「デラムから出された奇妙なアルバム。興味のある方は聞いてみてください。」と、宣伝に一文を寄せており、同時期の「レコードミラー誌」にも「好作品の部類だ、落ち着いていて実に音楽家らしい作風。」と書き、2、3週間後にも「これは本当にすばらしいアルバム。経験豊富を感じさせる演奏もある。」と紹介していた。10月の第二週、デラムはGGF二枚目のシングル盤「木曜日の朝 Thursday Morning」/「象の歌 Elephant Song」を発売した。A面曲は、イアンによるクラリネットと語りかける様なバッキングヴォーカルで清められた印象に仕上がっていた。にもかかわらず、彼らが17日に「エイモン・アンドリュースTVショー*」に出演した際にはB面曲がグループにより選ばれて演奏された。そこには彼ら自身が観衆にどう見られるかという計算が全く無かったのだ。※エイモン・アンドリュースショーGGF出演記録* http://www.imdb.com/title/tt0568404/?ref_=ttep_ep26(Eamonn Andrews TV Showの全179放送回中、173回分は失われている為、GGF出演回が現存する可能性は無いとの事)英国から米国へ度々アーチストが紹介されていた番組だが、トーク時間がほとんどの番組内容の為、彼らの演奏は象の歌のみであった可能性が高い。以前この番組について取り上げた際の記事はコチラから番組の雰囲気はこんな感じだったのでは?というあくまで参考動画。この回に彼らGGFは出演して無い。フリップが最悪だったと言ったのは、この番組が司会者との対談がほとんどで唄はオマケ程度だったのもあるのかもしれない。※10月28日と29日、彼らは新たに3曲を録音する為もう一度スタジオに呼ばれた。 Why Don't You Just Drop InとShe Is LoadedそれにUnder The Sky。これらのナンバーを録音できたのはスタジオ妖精からの恩恵を施された形だった。(※訳注。GGFとデラムの契約はアルバム一枚にシングル二枚だったので、この時点で既にレコード契約は完了していた。にもかかわらず、デラム側が追加録音を求めた件を指し示してるのだろう。)ここではマクドナルドの存在感が制作に顕著となり、頼れるリード・ヴォーカルとして「アンダー・ザ・スカイ」では起用され、同時に「シー・イズ・ローデッド」には3パート・ハーモニーにサキソフォンを唸らせて輝きを加えた。バンドはBBC2の革新的30分枠音楽番組「カラーミーポップ」11月出演オファーを受けた。この番組「カラーミーポップ」は、BBC2の番組「レイトナイトラインナップ(1964-1972年)」のスピンオフで、プロデューサー兼エンジニアのスティーヴ・ターナーにより、「アートマガジンスタイル」番組として企画されていた。11月13日、バンドは屋外ロケで様々なシーンをフィルムに撮影しまくり、その3日後シェファードブッシュのBBCテレビセンタースタジオAに入った。(シド・スミス著作ではスタジオBとも書かれているので、どちらか?または両方のスタジオで収録された可能性もある)彼らはブロンズベリーロードで録音した曲から番組用に7曲を選択し持ち込み、放送用15ipsマスター(※日本式に言うと38cm/s、俗称サンパチというテープレコーダーにおけるプロ仕様のテープスピード)にダビングするBBC(スタッフ)にその出来で感銘を与えた。番組では計7曲がフューチャーされ、Drop In、Digging My Lawn、Make It Today、She Is Loaded、Erudite Eyes、屋外撮影シーンにThursday Morning、そしてアニメーションシーンにElephant Songが使われた。撮影が進んでいく過程において、グループは商業的賛辞が得られぬ事と明確な音楽的方向性が定まらず将来への展望が欠如してる現状に不満を感じ始めた。彼らはお互いの意図を率直に討論し、マイケルとロバートは将来に向けどう進むべきか、いずれキング・クリムゾンと名づけられる事になる、挫けぬ集団を心に思い描きながら、深夜に何時間も議論をつくした。だがピーター・ジャイルズはたぶんその全てに不安が生じてきていて、再び深みにはまる事に態度を保留していた。番組放送前の試写会に訪れたピーターは、バンドのメンバーから外れて参加していた。画面で四人組が繰り出す調和の取れた幸福感にピーターは浸り、スタジオを出ると帰路をボーっとしたまま歩いていた。しかし彼の高揚感は短いものだった。彼自身が示した幻滅や反抗的な態度でバンドが勢いを失っていたのを認識していた。「ポップミュージックという憧れの世界でその日暮らしを続け、この8年間全てを捧げてきた。それも今思うと断崖絶壁に見掛け倒しの自己構築をし続ける生活に染まりすぎていた。」とこの時点で彼は思う様になっていた。留まるように彼を説得してたマイケルの最善の努力にも関わらず、ピーターはバンドを辞めた。一見円満な分裂であったのにもかかわらず非常にイギリス的結末に至った事態を明確にしていた。11月20日、カラーミーポップ放送10日前、不満を漏らす人もいる中、これといった声明も無しにGGFは瓦解してしまったのだ。ピーターにとって長すぎた共同生活は不幸に終わり、自分にふさわしい仕事を求める為にバンドとの関係を断ってしまった。後任にはすぐ若き日のグレッグ・レイクが納まった。これにより真紅の顔の絶対君主は寵臣を全て揃え、自らの爪を研ぎ澄ます段階になったのだった。ヴォイスプリントは、ジャイルズ兄弟が関わった初期録音のアンソロジーをリリースしている。あまりにも長い間、ジャイルズ兄弟の才能はひどく過小評価されてきた。このアルバムには1960年から67年まで8年間の彼ら兄弟の活動からスタジオ録音を集めたアルバムであるのだが単なる全集ではない。彼らの活動記録全般を多くの人が知ることのできる機会を与えてくれている。==============================以上です。色々至らぬ部分もある意訳を最後までお読み頂きありがとうございました。
Feb 24, 2016
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前回に続き第三回目です。アルバム「The Cheerful Insanity Of Giles, Giles & Fripp」は、2月26日から5月18日にかけて、ウェストハムステッドのブロードハーストガーデン(ここにはクリケット場があった)にあるデッカ第二スタジオにて録音された。プロデューサーの任に就いたのは元ピート・ベスト・フォーのベーシストだったウェイン・ビッカートン。トリオの奇妙な音楽観に対し、しきりとビッカートンが売れ行きの心配を口にしてたのをグループはこの当時の思い出としている。しかし、彼は心配してたにも拘らずGGFに自由な制作の場を与えていたし、とどのつまり完成の為にはエンジニアのビル・プライスの手腕に負う面が大きかった。(後年、プライスはパンクロックの時代にプロデューサーとして大きな成功を収めた。)レコーディングに際し、幾人もの一流スタジオミュージシャンが手配され、その中の一人にはローリング・ストーンズとの仕事など音楽業界での需要が高かったニッキー・ホプキンスも含まれていた。ピーター・ジャイルズは、ピアノ内部にチェーンをぶら下げたり、ハンマーフェルトに画鋲を打ち付けてサウンドの可能性を探求し続ける熱心な演奏家としての彼を覚えている。アイバ-・レイモンド*はアレンジャーとして、女性グループのザ・ブレイカウェイズをバッキングボーカルに起用した。レイモンドは非常に尊敬されてたアレンジャーで、ダスティ・スプリングフィールドに書き下ろした「I Only Want To Be With You」から「Summer Is Over」までのヒット曲の仕事でも大変有名だった。そして、GGFのアルバムにおいてもサウンド作りに重要な役割を果たしていた。(※4/8追記、アイバー・レイモンド*は、1964年にイアン・ウォーレス、ジョン・アンダーソンらウォリアーズのデビューシングルもプロデュースしてました。)ジャイルズ、ジャイルズ&フリップは、奇天烈音楽の盛り合わせを追及した訳ではなかった。68年当初はビートルズがレディ・マドンナを書くに至ったロックンロール・リバイバルも手伝い、サイケデリック・ムーブメントはあやふやなまま過ぎ去り、GGFがその風潮に悩まされる事は微塵も無かった。アルバム冒頭曲North Meadowは、ピーター・ジャイルズが生真面目な歌詞を試みて牧歌的な子供時代への賛歌を追憶を惜しむ様に具現化している。「目を赤く腫らした太陽があくびすると、草原は目覚め、朝になり、次の一日が始まる」レイモンドによる優美なストリングスとブラスアレンジメントが愛情のこもった歌を盛り上げていく。ピーターのユーモアは二面性が顕著で三つ作品に寄与している。「Digging My Lawn」は忘れがたい一節を持っている。「彼女はドイツ系ハーフ。身体が半分ベッドからはみ出てたが、それが『どちらの半分』だったかなんて言ってる場合じゃない。」トマス・エリオットだってこんなセリフは書けなかった!(※訳注、トマス・スターンズ・エリオット/英国詩人・劇作家)同様の出来となったのが「Newly Weds」。リチャート・ブライアーズとプルネラ・スケールズ主演で人気だったホームコメディ、マリッジラインズ(1961-66)のテーマソングとしても場違いにならない無邪気な夫婦を皮肉った一曲。ピーターの他の曲では・・・「Call Tomorrow」は秘匿された愛情とその感情を抑制する歌で、つかの間の出来事とその報いを入念に描いている。重々しいピアノがジョージ・オーウェル作品を思い起こさせる奇妙な感覚を駆り立てており、「Sunday-minded people of the parish」の一節はまるで小説「牧師の娘」や「空気を求めて」の様であり、保守的な中部イングランドの息の詰まる怠惰と切実でぶっきらぼうな下らない価値観を切り取って見せている。兄のマイケル・ジャイルズが多作のコンポーサーであった事は、あまり知られてないが、アルバムに作品提供で最も貢献したのが彼であった。おかしな16ラインのナレーション「ジャスト・ジョージ」と彼の作った6曲は、自身の才能を何年も磨く為の面倒さを厭わない稀有な性格を示している。「One In A Million」はキンクスの「危険な街角(Dead End Street)」や「ミスタープレザント」とたぶん同じ町を想定しつつも別の日における日常生活の断片を細かく描写いている。「The Crukster」はロバートの巧みなクロスピッキングに合わせるように、ジャイルズ兄弟が頻繁に出会ってきたであろう音楽業界人(ペテン師(CROCK)と広告屋(huckster)=調子だけいい無責任な業界人を示す造語(Crukster?)のキャラクターを描いた詩を詠んでいる。マイケルの気まぐれな作品群において「象の歌 Elephant Song」はおそらく最高の喜劇性をアルバムで受け持っており、シュールな才覚を充分に備えてたピーター・シンフィールド(若くして多作である為の何かを掴んでいた)が、シンフィールド作品(クリムゾン楽曲)サーカスの後日談に流用すべきと思わせるほどだ。「The Sun Is Shining」に例示されてるように、パームコートオーケストラ(※軽音楽楽団)とテンペランス・セブン(※1950年代半ば登場した20年代風の古風なジャズバンド)が出会い、古風なボードビリアン風装飾を加え、彼ら最上の皮肉を行う手法をも知っていた。マイケルは人を食った最高の深さでヴィブラート歌唱を見せており、ブレイカウェイズも同時に彼女らの扁桃腺がブルブル震える様誇張しながらリアルさを添えた。その上にアイバー・レイモンド(アレンジャー)もまたオーケストラでその情緒性をけしかけていたが、過度な感傷主義の甘さに陥る一歩手前に留めている。マイケル作品のメロディー面においては「木曜日の朝 Thursday Morning」が挙げられる。「North Meadow」にも似たもう一つの田園風景に溢れる夏の日に、少女が持ちえる美しさを祝福している。これまで彼らのリード・ヴォーカルはマイケルでもピーターでもなく、両者で同時に可能だと考えてきてたが、この曲への登板でマイケルはその力量を証明している。フリップはアルバムに4篇で寄与しており、この内には、彼による無意味な物語「The Saga Of Rodney Toady」(道路清掃やトイレ掃除を軽視する酷い一面がある)、そしてドロドロした感傷の一塊を描いた彼による最初の曲「Little Children」。これに対し「Suite No. 1」「Erudite Eyes」という彼の他の二つの楽曲は類型にはまっておらず、個別の形式で構成されている。フリップによって構成された二つのトラックには、どこから曲構成がやってきたか彼の意図が見て取れる。前者のネオクラシカルなモチーフ、後者のフリーフォームでモーダルな曲終わりの展開にフリップの求めてた方向性を識別できる。(夏になりイアン・マクドナルドの加入で)4人組となった彼らは再びデラムから呼び出された。それは世間の無関心に対し驚くべき信念の元に行われた、「木曜日の朝」と「象の歌」シングルリリースに向けてのリレコーディングで7月6日にスタジオ入りした。デラムが示す関心によって支えられてはいたが、バンドは無一文で生活にも支障が生じる状態が続いていた。そこでイアン・マクドナルドは融資を受けようと彼の伯父アンガスにアプローチする事を思いついた。イアン・マクドナルドの父の姉フィリスと結婚していたアンガス・ハンキングは、エンタテインメント事業への投資する申し出をかなり喜んだ。9月初めに関係者全てが策定し、バンドのメンバーはそれぞれ週30ポンドの手当てを受けると正式に調印された。(※シド・スミス氏著書によると結婚していたマイケルのみ40ポンドの記述あり)グループがダンロップのテレビコマーシャルのパイロット版のひとつに出演者として選ばれたことは、グループの将来を心強くさせていた。二日にわたる撮影はロスオンワイ(※ウェ-ルズ)でのロケで、演奏旅行で移動に苦労するバンドを中心に据え、彼らのゴム底(タイヤ)の安全性・信頼性は、そのまま滑りやすい斜面を彼らがスターダムまで駆け上がって行くのを支援するというプロットに基づいて行われた。一部のパートではこの共演で出会った後すぐにマイケル・ジャイルズと結婚する事になるモデルのメリー・ランド(歌手役担当)とのシーンに割り当てられた。若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 最終回へと続く
Feb 24, 2016
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前回からの続きザ・トレンドからメンバーの顔ぶれも変わらないまま、彼らはパーロフォンレコードに出戻りする事に決めた。移籍するとレコード会社は当然の如くバンド名変更を求めてきたので、ピーターはザ・ブレインにする事を思いついた。この当時、彼らはオリジナル曲を書いてはリハを繰り返していたので、その中からビル・ル・セージのプロデュースでシングルをカットする為スタジオ入りした。独学のピアニスト/ビブラフォン奏者ビル・ル・セージは、50年代において「ザ・ジョニー・ダンクワース・セブン」の中心メンバーとして名を上げ、その後作曲と編曲における等価値の分業制を唱えた人物だった。60年代末からセージは、ザ・ビバップ・プリザベーション・ソサエティのフロントマンとしても活躍した。ビルはバンドに完璧なウリを見出そうと、バンドが実験性に傾倒していくのを助けた。ジェームズ・ブラウンの「アイ・フィール・グッド」に心酔したマイケルが書き上げたA面曲「キック・ザ・ドンキー(いかしたブリットポップ?)」の全体にソウル風味をドロリと塗したり、B面曲では趣を変えケイジャン風味を全体に施した。Nightmares In Redはピーターが書いた曲で初めてレコード盤になったものだが、とても奇妙で不気味さを感じさせる。単純なピアノのコードに導かれ、「僕は目を閉じ、瞼の裏で探している。」と冒頭の歌詞が始まり、以下、間の抜けた声とディズニーのダンボから引用したカラス風のコーラスに、ビル・ル・セージ自身が鼻でいびきを鳴らし、そこへバンドの含み笑いや馬鹿笑いが混じってくる。決して十全な出来ではないが、いくつかの可能性を示していた。言うまでもなく、Kick The Donkeyは、テレビ番組Juke Box Juryで何の賞賛も得られず、エアプレイの機会も失われ、初っ端からバンドは挫折する羽目となった。ザ・ブレインはいずれ近い将来リリース出来る様にさらに4曲制作した。Nobody Knows The Game(いくつかイイハモニーもあるが、取るに足らないポップソング)、ボブ・ディラン楽曲Most Likely You Go YourWayのひらめきを感じさせるヴァージョン、それと二つのオリジナル曲であるOne In A MillionとMurder。失敗が繰り返されるのにうんざりしたジャイルズ兄弟はザ・ブレインを辞める事に決めた。長い時間を掛けて結局何も成しえなかった。そして何か目新しい成果を得る為にはロンドンに移転した方が得策だとは心得ていた。曲作りと録音に専念する為首都に定住した彼らだが、目的を果たす為には、メンバー拡充しないとならないと考え、リードを歌えるキーボードプレイヤーの募集広告を本格的に打ち始めた。オーディションを受けた大勢の中で有望な人物がロバート・フリップだった。フリップは当時を後年振り返り、「ジャイルズ兄弟からは『新しいグループを作るので唄えるオルガン奏者を探してる』と言われた。私は元々ギタリストだし、唄わないけど、仕事を得る為に行った。ジャイルズ兄弟はすぐに私の演奏能力とノルウェー人の知識(ロンドンのミュージシャンの使うスラング/符丁)に感銘を受けた。そしてすぐさまビーコンロイヤルホテルでコンサートリハーサルを始めたというわけさ。」まだボーンマスにいた時期、ピーターが先を見越してダウランド・ブラザースから買い取って置いたREVOX F36ステレオテープレコーダーを使い、デモ曲の数々を録音しはじめた。組んで約一月後、全く何も起こらない為、フリップは仕事は無いのかと尋ねてみた。マイケルはいつもの調子でさっとタバコを巻き、少しばかり燻らせた後、慎重に答えた。「まあ、お互いあまり成果を焦りすぎるのは止めよう」ということで、それ以上話題を続ける事はなかった。ボーンマスの11マイル北のウィンボーン育ちのフリップは、オーディションに参加した時点で独特なスタイルを会得した熟練ギタリストとして地元ではよく知られていた。いくつかのローカルグループでも演奏経験があり、そのうち最も知られていたのがゴードン・ハスケルもいたザ・リーグ・オブ・ジェントルメンだった。生来左利きだったにも拘らず、11歳の時から彼は右利きでギターを習い始め、熱心に自身が望んだ楽器を習得した。じきにダンスバンドやダンスコンボで腕を見込まれ演奏し、ギター教師としての自己も発見したが、フリップは21歳になるまでプロ転向しなかった。その決心をしたのはジャイルズ兄弟と組むほんの三カ月前だった。67年9月になると彼らトリオはロンドンはキルバーンパーク傍のブロンズベリーロード93aの住居へ移動した。(下記画像は現在の当地だが町の趣は昔とそう変わってないだろう。)その夕方にはソーホーのレストラン、ラ・ドルチェヴィータでダグ・ワード*という名前のアコーディオン奏者をサポートする仕事を見つけた。(*ダグラス・ワード、豪華客船評論家として現在は世界的に有名。)ジャイルズ・ジャイルズ&フリップは、アコーディオンと演奏する考えからマルクス兄弟の喜劇映画での喧ましいBGMを連想していた。(※現在ロンドンにはドルチェ・ヴィータというレストランが数多く存在するが、かってGGFが演奏したソーホーには既に無い模様?)ロンドンに到着すると、GGFはまもなくイミディエイトとデッカ両レコード会社オフィス周辺に、ビーコンホテルで作り貯めたデモテープを配り歩き、ブロンズベリーロードのフラット1階でリハーサルを続けていた。デッカはいくらかの関心を持って彼らをスタジオテストに呼び、試験後には人懐っこいヒュー・メンデルとの面接に彼らは招かれた。当時デッカのARヘッド、メンデルは前年ムーディブルースを大ブレイクさせたアルバム「Days Of Future Passed」のエグゼクティヴプロデューサーだった。最初の会見でメンデルは「君らの衣装と同じくらいヘンテコな音楽だ」とまずはGGFに言い聞かせた。セレモニーのように立ったり座ったりするわけでもなく、メンデルは彼の椅子をGGFのいるテーブル脇に寄せて座るとくだけた調子でお決まりの話を始めた。「さて、正直な所、君達はいったい何をやりたいのかな」レコード契約は68年2月14日に調印され、トリオで750ポンド(一人当たり250)と無名の新人にしては前例の無い好条件の支払いを受けた。ピーターは思い起こす「曲作り、アレンジ、リハしてレコーディングへと続くきつい三ヶ月間だった。」三人はそれぞれ個別に曲を自作していて、リハーサル段階になってから共同作業を行ったが、これが効率をあげ迅速に成果をあげていった。若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 その3 へつづく
Feb 24, 2016
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ひと月前に当ブログが50万アクセスに達したことへの感謝として、マイケルとピーターのジャイルズ兄弟が音楽活動をはじめた1960年頃からの足跡を振り返った記事の意訳をお届けいたします。キング・クリムゾンへと至る数々の源泉のひとつと言えるのが、激流の時代を彷徨いつつ歩んでいた彼ら兄弟。英国でロックバンドの数々が花開き始めた60年代の初頭から、ロンドンを中心に爆発的に様々な若者文化が発展した60年代中期。ジャイルズ兄弟の活動はシド・スミス氏の著作にして決定盤的伝記本「クリムゾンキングの宮殿~風に語りて~(ストレンジ・デイズ刊)」や、ジャイルズ・ブラザースの60年代音源集でのマイケル・ジャイルズのライナーなど、いくつかの文献にてその当時の状況が描かれています。そこで各人の視点はマイケルやピーター、フリップらそれぞれの証言により微妙な差異や心情の違いとして現れております。今回の記事はあくまでジャイルズ兄弟の活動を中心とした内容にあたる為、シドさんのクリムゾン中心に編纂された伝記本と重なる部分もあれば、かなり異なる部分もあり、GGFに興味をお持ちのファンなら楽しんで頂ける物と思い、今回企画致しました。毎度長々した前置きとなりすみません。では早速♪彼らの唯一のアルバムは1968年のDerams最悪の売りあげだった。彼らはエドワード8世(在位1936年1月20日-12月11日)時代の会計士のように見えた。彼らは馬鹿げてもみえた。彼らはその後、魔術に掛けられたが如くキング・クリムゾンへと変貌した。しかしGGFの音楽は「21世紀の精神異常者」へと全く結びつかないし、まだフリップの演奏も聞き手へと襲い掛かる彼になる以前であった。サイケデリックやコミカルのどちらでもなく、ロックでもポップでもない。GILES、GILES&FRIPPからは自制の利いたユニークなサウンドに奇抜な英詩と奇天烈な冗談がこぼれて来る。ピーター・ジャイルズとお茶と共にしながら振り返る。彼らのデビューアルバムLPの裏面にはピーター・ジャイルズとロバート・フリップによりでっち上げられた荒唐無稽な宣伝文句が書き記されている。「ジャイルズ、ジャイルズ&フリップは成功の頂点を手に入れようとしている。そうだ、絶頂の成果を。 何百万人をもエクスタシーへと誘うスリルと無数の賛辞の中で脚光を浴びるべく。さもないと奈落へ落とされ、底知れぬ屈辱に晒され、愛されもせず、無視され貧しいままだ。」彼らは押し寄せてくる(はずの)濁流に備えていた。しかし世間は彼らを待ってはいなかったし、反応すら得られず、アルバムに焼き付けた奇妙で奇抜な情熱も窯の中で焼かれて割れた陶器のようにバランスを失っていた。600枚にも満たぬ売上げ枚数は、この当時のデラムから出された作品で最も少なかったのだが、その後長年に渡って極めて重要なアルバムとして評価を得ているか、もしくは今日プログレッシヴ・ロックと呼ばれる野心的な指標を生み出したとも言えるだろう。この浮かれたトリオがどの様に形成されたのか理解するには、我々は彼らのキャリアが作られ初めた故郷ボーンマス(Bournemouth)から振り返らなくてはならない。ジャイルズ兄弟の父親はクラシック畑で活動したバイオリン奏者だったが、兄弟はジャズや反抗的で突っ張ったロックンロールといった音楽に引き付けられていた。マイケルはドラムスを学び、ピーターがベースを手に取ると、即席のリズム隊が生意気にも出来上がり、1960年にはジョニー・キング・アンド・レイダースを皮切りにいくつものセミプロバンドで活動した。その中にはザ・ダウランド・ブラザースも含まれていた。それらは1962年から64年にかけてのことで、ジョー・ミ-クがプロデュースしたダウランズはオリオール・レーベルから三枚のシングルを出したがチャートを騒がせるまでには至らなかった。(※ジャイルズ兄弟離脱後、ダウランズはザ・ビートルズのオール・マイ・ラビングをいち早くカバーしヒットさせている。)ジャイルズ兄弟は64年からトレンドセッターズ・リミテッドへ加入、彼らがプロミュージシャンに転向する事を引き止めるものは何も無かった。彼らはロックンロールのとても有名な曲を主にカバー演奏していたが、バンドでマージービート・サウンド風の自作曲も作っていた。定期的なギグでバンドは磨き上げられ、成功したアーチストたちのツアーでバックバンドとしての需要があり、ザ・ドリフターズ、ボ・ディドリー、ジ-ン・ヴィンセントやきちがいじみたシングル「狂ったナポレオン, ヒヒ, ハハ (原題They're Coming To Take Me Away, Hahaaa ※訳注、当時キャッシュボックスシングルチャート1位)」でジャイルズたちに精神的な影響を残したナポレオン14世とも共演した。ある時は実力派のバックミュージシャン、そしてある時は自分らトレンドセッターズとして、英国とドイツで広範囲に活動。また彼らはしばしばラジオやテレビ番組(Easy Beatへの二度の出演を含む)にゲスト出演し、ラジオルクセンブルグでは彼らのステージが4回のラジオショーで放送された。1964年から67年にかけて、バンドはパーロフォンから4枚のシングルをリリースしている。In A Big Way / Lucky DateGo Away / Lollipops And Roses Hello Josephine / Move On Over You Sure Got A Funny Way Of Showing Your Love / I'm Coming Home上記以外にもBBCテレビ番組「ジュークボックス・ジュリー」で審査員全員から評価され65年にシングル用のレコーディングが行われた、Sarah Darling / It's Not As Easyは、おそらくリリースに値しないと判断され、発売されなかったのだろう。成功を得られない事への不満から、シンガー兼リードギタリストのブルース・ターナーは67年に脱退し、ザ・ルート(The Loot)へ移籍。(右端)トロッグスのリズムギタリストだったデイブ・ライトにより結成された5人組で半ダース程のシングルを残したが、そのいずれもがトレンドセッターズより売れることは無かった。ターナーが巣立った後、ページワンレコードと契約したバンドは相変わらず商才が無いくせ抜け目無いマネージャー、ロイ・テンペストに契約金の多くを掠め取られていた。4人編成に縮小した彼らは、トレンドセッターズリミテッドの契約上の商標権侵害を回避する為、呼び名であったザ・トレンドにバンド名が変わっても問題ないだろうと考えていた。レーベルボスのラリー・ペイジの支援でバンドは一枚のシングルレコードをレコーディングした。Boyfriends And Girlfriends / Shot On Sightなんら痕跡を残せ無いほど酷く売れなかったが、B面はマイケル・ジャイルズがウィルソン・ピケットのイン・ザ・ミッドナイト・アワーにはまってた頃、それを指標として書いた曲であった。バンドは今まで以上に自分たちの楽曲制作に流行音楽の影響から手がかりを得ようと決意、ビートルズのサージェント・ペパー、ディランのブロンド・オン・ブロンド、フランク・ザッパのアブソリュートリー・フリー、そしてエルヴィン・ジョーンズとリチャード・ディヴィスのヘビー・サウンズから彼らは自分自身を改革していく必要性を見出した。若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 その2へとつづく
Feb 24, 2016
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UKの公式アルバムや未発表テイク、ライブ音源をCD12枚、ブルーレイ4枚に詰め込んだ限定1000セットのボックスが登場するようです。 詳細ライナーノーツや64ページブックレットもついて、ディスクユニオンさんでは、お値段29,700円(税込) で4月に発売予定なのだそうです。 高いけど、それに見合っただけのリマスター音源を集結した凄い企画といえそうですね。 『NIGHT AFTER NIGHT』は、今までカットされてて発売されなかった楽曲も含めた完全版となるそうでCDでは二枚組で、もちろんBDでも収録されてます。
Feb 18, 2016
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今回も画像をクリックすることで別窓に大きく表示するようになってます。 70年代末のプログレ女子も普段から能天気なわけじゃなくて学校生活など色々と思う事があったようです。。。この時代、原宿は竹下通りなどに輸入レコード店や中古レコードを置いてるお店があったのでした。まだタケノコ族とか現れる前の時代ですwではまた♪
Feb 18, 2016
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韓国はBIGPINKから紙ジャケCDとしてリイシューされた「King Harry - Divided We Stand (1977年作品)」 日本では、VIVID SOUND様の配給で国内発売がされるそうです。ツイッターでまっつん(o´ω`o)様に教えてもらいましたw 発売元VIVID SOUNDサイト上でのリリース情報キング・ハリー / ディヴァイデッド・ウィー・スタンドhttp://www.vividsound.co.jp/item_show.php?lid=4540399056425サイト上では1/29となっていた発売日は2/26に変更されてますのでご注意を。 2012年春に私が取り上げた際のバンド情報はコチラから、ちょっと長いですが(汗)King Harry - Divided We Stand (1977)http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/ ↑彼らの人脈図にあたる King Harry Family Treeも久々に加筆修正しましたw しかし、まさか日本国内で再発CDが流通するような事態になるとは、予想だにしませんでした。私はLPしか持ってないのでCDの出来についてはわかりませんw クリムゾン結成以前の人脈の末端から生まれた、ちょっと風変わりなバンドなので、彼らの音を気に入っていただけるかどうかは保障しかねますが、興味深い人々のバンドですね♪ 3年前に書いた紹介から後に判った情報としては、メンバーのアラン・バリー(元フィールズ)がこのバンドの後、クリフ・リチャードのバックバンドでゴードン・ハスケルと久々の合流をしてた証言がありました。 そんなハスケル氏も最近のアランはどうなのか近況を尋ねると「70年代末にクリフのバンドで一緒だったのが最後で、その後アランとは会ってない」という事なのでした。となると未だに連絡してるのはフリップ御大だけなのかもしれません。 そう、フリップ師は、キング・ハリーの3人、故ティノ・リチニオとは学生バンド時代からの友人関係でしたし、アラン・バリーは同郷のダウランズやシャイ・リムスに加え結成に手を貸したフィールズでの関係性もありましたし、ジョン・ディッケンソンに至ってはシャイ・リムスのLOVEセッションにフリップを招いてたり、彼の経営するモーテルがクリムゾンのリハーサルで利用されたりと、友人としての関係は続いてたりしてますので、何ぞ現状での元メンバー情報をお持ちかもしれませんね。ご自身のブログでキング・ハリーを少し紹介してたこともありましたしw そもそもフリップさんやシド・スミスさんは、このCD再発知っておられるんでしょうか?もし知ってたら、その内何かしらブログに書かれるかもしれないですね。【送料無料】キング・ハリー/ディヴァイデッド・ウィー・スタンド(初回限定) 紙ジャケット仕様【CD】価格:2808円(税込、送料込)
Feb 16, 2016
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つづりの間違いを指摘されました。 うう GGFが68年秋にオーディションを受け合格し収録したダンロップコマーシャルには、ジャイルズ兄弟、フリップ、マクドナルドに加え、モデルのメリー・ランドも参加しました。ロケ地はウェールズのロス・オン・ワイ。 メリー・ランドはこの後マイケル・ジャイルズと結婚したことでも知られる女性ですが、マクドナルド&ジャイルズのジャケットでもマイケルと肩を寄せて写ってる人でもあります。 その後イアンから頂戴したコメントですと、「マイケルがメリーの『わらの犬』出演を辞めさせちゃったから、結果女優として認知度上げるチャンスを失わせちゃったんだよね。」なのだそうでw いやはや、あの「わらの犬」ですか?サムペキンパーの?驚きですねw1946年生まれのメリー・ランドさんは、60年代中頃から70年代前半にかけていくつかのドラマや映画に出演歴がのこされてます。 Mary Land IMDb※ 2/18追記イアン・マクドナルド氏がFaceBookで「今年Honey West*でアルバム出すよ」と仰ってました。久々の本格参加作品となりそうですね。(*イアンが参加しているバンド。)今回プログレ女子不足分のおまけ
Feb 15, 2016
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