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レコード好きな方なら「輸入盤や中古盤の専門店巡り」の経験がおありだと思います。今回はそんなお話。オマケ:キースに代わっておしおきよ♪さすが会長であるw ってなんの?
Apr 26, 2016
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1966年、英国がワールドカップで優勝した年。この年の第6回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルースフェスティバルには、ザ・フーやスモールフェイセズにクリームなどスウィンギングロンドンから当時最先端だったロックやジャズのアーチストが参加していたそうです。 ソレから半世紀、当時の関係者が集結するイベントが4月30日ロンドンのザ・マクベスにて行われるとの事です。デヴィッド・オリストはPPアーノルドやオリストバンドのアンダース・オリンダーと共に出演するようですが、当日のスペシャルゲストはサプライズということにされてて公表されてません。 ナイス創設期、誰よりもバンドでキースと一緒に音楽性を語り合っており、仲もよかったデヴィッド・オリスト。キースの死後、ひたすら沈黙していたデヴィッド。言葉よりその音楽でキースへの気持ちを表したいのでしょう。当日の売り上げは、マクミラン・ガンサポートに寄付されるそうです。オリスト氏オフィシャルサイト内のイベント告知https://davyolist.wordpress.com/2016/04/25/davy-olist-tour-with-p-p-arnold-2016/
Apr 26, 2016
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イタリアの番組でしょうか?80'sクリムゾンの最初のギグ当時の映像で貴重です。
Apr 24, 2016
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Kevin Ayers & Friends at Spain TV. Musical Express, 12-02-1981.With JOHN CALE, ANDY SUMMERS & OLLIE HALSALL約一時間の番組全体がアップされてました。気付くの遅かったですw
Apr 24, 2016
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Peter Gabriel on The South Bank Show 1982インタビューやドキュメンタリー映像
Apr 24, 2016
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トラック野郎シリーズが映画館でかかってた1970年代後半のお話LPジャケットで遊ぶとマニアに怒られた時代今でも怒られますがw今や英国の日本料理店でランチにカツカレーは極当たり前なそうな・・・和食かコレ?まーいいかw美味しいし♪汎用人型年齢返答画像
Apr 22, 2016
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Fleur De Lys(以下FDL)のコンピCD「Reflections」には、Waygood Ellisのシングル曲も収録されておりますが、当時バンドと関わってたアレンジャーグラハム・ディーやハスケル氏自身のアルバムライナーやガスターの証言などから、FDLは無関係と結論が出ています。 I Like What I’m Trying To Doはあくまでグラハム・ディーの仕事でFDLは起用もされてません。 またFDLの自伝本におけるFDLセッション作品一覧にも当然Waygood Ellisは含まれていません。海外中古販売店や輸入レコード業者の誤った情報で、間違えて原盤購入とかなさらないようご注意ください。
Apr 22, 2016
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レコードの廃盤セールなんていう難儀な物がはじまったのは、おそらく70年代後半あたり。他にも輸入盤バーゲンセールとか中古盤大放出とか、列に並ばされる難儀なセールがありましたね♪ ほんと体力と根気勝負で。(※一部表現に誇張がありますw 今回も画像をクリックすると拡大します。) アーチストの中には来日時にセミナーやレクチャーをやってくれる人もいますよね。そんなある日の出来事です。オマケ
Apr 19, 2016
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ロック講談 1986年1月2日 講釈師 一龍斎貞水(人間国宝)なのだそうですw
Apr 17, 2016
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音楽の趣味なんてのは人によりけり、他の誰かからああだこうだ言われる筋合いのモノでもないですし、そこに優劣は存在しません。平井和正先生ではありませんが、心の王様は自分自身だというわけです。プログレも然りw※今回も画像をクリックすると拡大します。さてプログレ女子4コマも通算20回目↓オマケ:ババンババンバンバン♪進化の過程・・・有効活用
Apr 16, 2016
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ナイス初期、まだステージ上での過激なパフォーマンスに試行錯誤していたキース・エマーソン。その後のハモンドオルガンの下敷きになったり、上に飛び乗ったり、下敷きになったり、投げ飛ばしたり、下敷きになったり、反対側から弾いたり、下敷きになって弾いたり、星条旗燃やしたり、下敷きになったりする以前のお話です。 ※今回も画像をクリックすると拡大します。オマケ
Apr 14, 2016
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キースが亡くなった日と公式に地元警察が発表した3月10日の翌日、音楽界はその死を悼み、様々な音楽関係者が世界中から弔文を発しました。 1960年代キースがプロ活動しはじめた頃、同じ時期に後期ウォリアーズに加入したブライアン・チャットン氏。その後、フィル・コリンズらとのフレイミング・ユースを経て、元ナイスのリー・ジャクソンのジャクソン・ハイツに加入し素晴らしい楽曲と歌声/演奏を残されました。 ジャクソン・ハイツの通算4枚目のラストアルバムでは、キース・エマーソンもMOOGの貸し出しと音色のセッティングで参加しており、この当時ジャクソンを介してチャットンとエマーソンは知り合った訳です。 これ以後もチャットンは数々のバンドやセッションに参加し、80年代にはボーイズ・ドント・クライで商業的な成功も収め、今も現役で活躍中です。キースとはいくつかの音楽制作での共演もありました。 前置きが長くなりましたが、チャットン氏がニュースの第一報を聞いた3/11に出した追悼文を毎度の意訳で。ブライアン・チャットン「キースのご家族、息子たちアーロンとデーモン、前夫人エレノアに深くお見舞い申し上げます。私は彼の大ファンでした。彼は本当に凄かった。キースよ安らかに。」おまけ:ウォリアーズ時代からの友人ジョン・アンダーソンとブライアン・チャットン氏。
Apr 11, 2016
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1964年、結成以来コロコロとメンバーの変わっていたウォリアーズにドラムスの腕を見込まれ、半ば強引に引き込まれたイアン・ウォーレス。それ以前は地元のローカルグループのジャガーズ等で演奏していたそうですが、ウォーレスが亡くなりオフィシャルサイトも閉じてしまった今、公開されていた貴重な画像の数々は、今ほとんど目にする事が出来なくなりました。 彼自身が様々な画像をコレクションしてただけに惜しい事ですが、たまたまネットを漁っていたら、ウォーレス自身が持っていたというジャガーズ時代の画像がありました。まだ子供子供してますね♪ たぶん1960年代の初めくらいじゃないでしょうか?Youthful Ian Wallace (The Jaguars) このバンド画像で使われてるドラムキットは、ジャガーズのウォーレスがウォリアーズに引き抜かれ移籍する際にドラムを買い換えた為、ローカルバンドのThe Saracensにいたスティーヴ・ハリウェル Steve Halliwell(1977年から俳優として活動)が買い取ったとハリウェルの自伝If the Cap Fits: My Rocky Road to Emmerdaleに書かれていました。ウォーレスのThe Warriors入りは1964年2月なので、その頃の話になるのでしょう。 その当時のウォリアーズは1963年11月にNME主催のコンペティションに出場し、そこでデッカレコードの関心を引き年末にはオーディションを受けていたので、ドラマー交代の必要性はアンダーソン兄弟やデヴィッド・フォスターらバンドにとってもレコードデビューに向けてかなり切迫していたと考えられます。2月に前任ドラマー、デレク・ソーンヒルが最後のギグに参加した後、早速ウォーレスがテストされ、本人は乗り気ではなかったが、実家にまでウォリアーズの面々が直接押しかけての加入となりました。 ジャガーズの詳細については前出のオフィシャルサイト消滅で今は何も調べる手立てがありません。せめてウォーレスがまだ存命だったならまだ何かしら判ったかも知れませんが。以前も紹介しましたが、デビュー後のウォリアーズが出演した映画Just For Youより。コチラはリマスターDVDで購入できます。以前書いたDVDについての記事音楽映画 Just For You (June 1964) DVD (2014)http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201506050000/The Warriors - Dont make me blue - just for you film - 1964.http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201511080000/デビューレコードについてTHE WARRIORS - YOU CAME ALONE / DON'T MAKE ME BLUE (1964) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201208070000/この後、バンドはITVのテレビ番組Thank Your Lucky StarsやBBCのJuke Box Juryにも出演。65年当時のライブ音源はボルトンライブ'65として近年発売されている。65年10月になると兄のトニー・アンダーソン(リードヴォーカル。後にロス・ブラボーズ、ロス・ゼブラ)とマイク・ブレアトン(ギター。その後の音楽活動は不明だが、近年はランカシャーのクリザーローにある音楽ショップで働いていたらしい)2名が脱退。キーボードのブライアン・チャットンが加入。ウォリアーズ後期編成(1966-67)の画像左から・ブライアン・チャットン(キーボード。後にフレミングユース、ジャクソンハイツ、スナッフ他多数に参加)、・ロドニー・ヒル(ギター。後にスリーピー、アクリントン・スタンリー。エンジニア/プロデューサーへと転身)、・デヴィッド・フォスター(ベース。後にビッグ・サウンド、スリーピー、アクリントン・スタンリー、バジャー)、・ジョン・アンダーソン(ヴォーカル。後にソロを経て、イエス結成へ)・イアン・ウォーレス(ドラムス。後にビッグ・サウンド、スリーピー、ヴィヴィアン・スタンシャルズ・ビッグ・グラント、ザ・ワールド、キング・クリムゾン、スネイプ、プロコルハルム他多数に参加) 1967年夏にジョン・アンダーソンは脱退。残された4名でウォダーストリート100番のラ・シャッセンでハウスバンドとして活動するも1968年に入り解散。
Apr 10, 2016
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意図してるわけじゃないのですが、海外のミュージシャンによるキース・エマーソンを想うエピソードがまだ出てきているので、僭越ながら毎度のなんちゃって意訳です。ジョン・アンダーソンが昔の面白話を披露してくれてます。ジョン・アンダーソン「やあ皆さん、こんにちは。 今日キース・エマーソンを思い出すのは、1969年にイエスがキース・エマーソンのナイスとアイルランドをツアーを共にした事です。それはそれは波乱に満ちた演奏旅行となりました。(※訳注1969年7/18ベルファスト、ウルスターホール。7/19ダブリン、ナショナルボクシングスタジアム(2ショー)。7/20コーク、ハイバーニアンフットボールスタジアム(電圧不足OR暴動で中止?)。) 我々のツアーは、ベルファストでのギグの後、ダブリンのスポーツアリーナで行い、その後コーク(港町)に行きました。今思い起こすとイエスも非常に若い頃の売れ初めた時期で、ボンゾドッグドゥーダーバンドらも一緒になり、乗る者全てクレージーな連中が赤いバスへと押し込められ、アイルランドを反対側へと移動していたのです。 私達は途中途中でパブを見つけるたびに停車していたので、コークについたときは、控えめに言っても車中のみんながちょっぴりハッピーになりました!何しろココでのギグは良く来てたサッカー場で行われるからです。 でも肝心のステージの作りは最悪だったし、ショー全体で使われる電気プラグが「たったひとつ」しか用意されてなかったので、我々全員が「こんなんで出来るか!」と文句を言いました。 ボンゾのドラマーは毎回彼らのクレイジーショーで花火を使ってたんですが、ショーの終わりでドラムを爆発させていて、私たちがパブで一杯やろうと最寄の店を探してる時も彼は爆破させようとしていたんです。 あー、ロックンロール!ショーで何が起きたのか我々が知る頃には、私達はパブでパ-ティの最中。その事態を知らされた時キースは、彼に祈りを捧げるとホンキートンクピアノを弾き始め、その場の我ら全員で唄ったのを懐かしく思い出します。 その後ちょっと問題が発生。会場のファン大勢がパブに押しかけてきてしまったのです。それから数時間、ショーの再開を望むファン全てが制御不能な状態になり、我々が何を言っても収拾が付かなくなりました。年長で人の良いキースがちょっと事態を収めようと試みましたが、逆に殺気立ってしまい、そこでパブのマスターが叫びました。「お前ら全員静かにしてテレビ見ろ!」丁度「月面着陸*」の映像が流れていて、だれもがテレビに釘漬けになりました。(*人類初の月面着陸、アポロ11号) 私たち、イエス、ナイス、そしてボンゾバンドの面々はパブの裏口から飛びだしてバスの中に転がり込むとそのまま空港へ直行し、ロンドンの家まで戻ったんです。 私は今でもあのコークの夜のとんでもない狂騒から家まで戻る帰途が笑いに包まれてた事まで全てを思い起こします。「月面着陸!」ソレは僕達だ!!!!!ありがとうキース、祝福を・・・愛と光を ジョン」以上です。原文だけだと意味が伝わらない部分がありますが、前座のボンゾドッグバンドの起こした騒動で後のイエスやナイスの出番がすっとんで、イベントが中止になったようにも読めますが。文献を漁ると「電圧不足でショーがキャンセルになった」とも書かれてます。アイルランドツアーの資料はほとんど無いので詳細は不明です。※2017年7月31日追記当時のツアーの記念写真だとかボンゾドッグバンド、イエス、ナイスの各メンバー、そしてライターのクリス・ウェルチがいるそうです。
Apr 10, 2016
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リー・ジャクソンで調べていたら、ナイスがクレジットされている西ドイツ映画が3本ある事が判明。そのいずれもが音楽のみ。キャストに名は無く音楽クレジットのみなので、残念ながら出演ではなくレコードから楽曲が使用されてるだけという事だろう。短編が2本に、長編は独立系のが1本。Das Silo(1970)10分間のコメディー作品。Jimi (1970)10分間のミステリー作品。このどちらもがブルガリア出身Marran Gosovにより監督された作品。この監督、テレビシリーズを数多く手掛けているので、これもその手の企画で撮られた短編なのかもしれないが、情報が無い。Rote Sonne (1970)1時間29分の長編犯罪映画。この作品は長編だけに現在DVDなどにされている。YOUTUBEにもアップロードされていますので、ナイスの「ロンド」が劇中使われてる部分のみリンクします。動画の11分32秒から女性がロンドで踊っていますwこういう使われ方だとキースらナイスのメンバーたちは、映画での使用を知らなかったかもしれませんね。
Apr 9, 2016
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3月18日時点でリー・ジャクソン氏によるキースへの思いを取り上げた記事が出ていたのですね。以下毎度の意訳です。 英国北東部ニューカッスル、タインサイド出身のリー・ジャクソンは、1965年からTボーンズでキース・エマーソンと一緒に活動しはじめました。亡くなった親友のキースに敬意を払いながらリーは語りました。 リー・ジャクソンは今も12人編成のバンドで活動しています。(参考映像は2002年ジンジャー・ピッグ・バンドでベースを弾きながら唄うリー・ジャクソン。)「キースの死を聞いてものすごいショックを受けたよ」9週間後のリーの結婚式にもキースは出席するはずだったそうです。 PPアーノルドにバックバンドを頼まれたキースは、Tボーンズが活動停止していたリーを新バンド結成に誘いました。リー「1965年に知り合って以来、僕は彼の親友だったし、彼の親友は僕だった。」その後ナイスに進化したバンドは、様々な場所で演奏をしました。 ピンクフロイドやジミ・ヘンドリクスなど当時の人気ミュージシャンとパッケージツアーで廻っていた1967年後半、ナイスは大ブレイクしました。一年後にはバーンスタインの曲「アメリカ」をヒットさせアメリカをツアーしました。 1969年にはニューカッスル芸術祭のためにエマーソンとジャクソンは招かれ、タイン川を渡る橋についての曲を作り上げたのです。組曲「5つの橋」では、リー・ジャクソンがタインブリッジをメインにセント・ジェームズ・パーク、ノーサンバーランド・ストリート、グレーストリートとハイレベル橋といった場所から歌詞を書き上げました。(写真左から、エマーソン、デヴィソン、ジャクソン) そしてニューキャッスルシティホールでオーケストラとの共演で5つの橋を初演。 その後、ロンドン・シンフォニア・オーケストラを伴ってクロイドンのフェアフィールド・ホールでも演奏しました。 2002年のナイス再結成時にも、ニューカッスルでタイン劇場やオペラハウスをツアーで廻りました。(画像はナイス再結成時のジャクソン) リーは語る「本当に愛すべき奴でした。キーボード奏者として誰よりも優れ、ワイルドなステージングでしたが、ひとたび舞台を降りるとモノ静かで控えめな男でした。」「この北東部で演奏するのが我々はホントに好きでした。いつも受けが良かったからね。」 リーはエマーソンの追悼式に出席する予定。(記事が3/18日のため)以上です。
Apr 7, 2016
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1968年にゴードン・ハスケル作詞作曲のシングル曲「Lazy Life」をクエンティンEクロップイエガー名義で唄い、南アフリカでヒットさせたビリー・フォレスト氏。今まで何度か当ブログでも彼とハスケルの関係を取り上げてきました。 今回はそのビリー氏のまとめ的な内容ですw マニアックな話題ですが、まあ興味のある方向けと言う事で。(一体何人が興味を持っていただけることやら・・・) ビリー氏は、本名をWilliam Charles Boardman ウィリアム・チャールズ・ボードマンというそうで、出身は南アフリカのキンバリー。後の変名にビリー・キンバーというのがあるのも、ウィリアムの略称ビリーに出身地名の由来キンバーを付け足した物なんでしょうね。 1940年6月6日生まれ。15歳で地元のコーヒーバーでグループで歌い始めたのが始まり。最初のグループ「ザ・ジャイアンツ」には後に改名して活躍するマンフレッド・マンがマニー・ルボウィッツで参加していたそうです(彼は61年に渡英)。1959年からシングルを量産し南アで5万枚を売り上げるヒット曲も出してたようです。当時ヒットしたという曲、ハロー・オペレーターのオリジナルヴァージョンはYoutubeに無い為、ビリーが後年セルフカバーしたテイクで。 市場規模が小さいとはいえチャートに17曲を送り込んでいたそうですから、南アでは当時ちょっとしたスターだったのでしょう。テレビ番組などでも活躍してたようです。時代が時代ですのでまだ78回転のSP盤が主流。それもあり枚数自体は今と比較するべき物では無いのでしょうけど。1962年からはソロ名義の活動になり、様々なバンドや歌手との共演の中に若き日のシャロン・タンディも混じっていたわけです。 ビリーが英国でヒットを飛ばしていたマンフレッド・マンにどの程度刺激を受けたのかは判りませんが、南アでのビリーの活動はビートルズなど英国のヒット曲を数多くカバーしていたそうで、そこからいずれ英国に進出したいという気持ちも芽生えていったのかもしれません。 1967年に英国でレコーディングするに当たって、Fleur De Lysがバックメンとしてセッション参加した際、レコーディングに用意した楽曲が1曲しかないという偶然の手違いからその場でシングルのもう一曲はどうするかと話し合われ、たまたまオリジナル曲を作っていたハスケルが「僕が書いたばかりの曲があるんだけど・・・」と自作曲レイジー・ライフを披露。その曲が即採用となり、英国/ドイツでは歌手William E.名義で発売されました。上記はシングルB面曲 翌1968年ビリーは南アフリカで変名のQuentin E. Klopjaegerとして自身のバンド「ゴンクス」とレイジー・ライフをセルフカバーで再レコーディング。前年のFDLとのセッションではギターがアコギだったのをエレキに入れかえ、少しテンポも速めたテイクになりました。 これが南アで大ヒットとなり、州によっては首位を獲得する所もあったようです。(画像は1968年6月8日ビルボード南アチャートから。同日日本での首位はザ・タイガース/花の首飾り。)現在は南アフリカもののコンピCDに収録されており、アマゾンでDL販売もされています。同曲は翌1969年、クエンティン名義LPにも収録されました。 非常に珍しいLPなのであまり市場に出てきませんが、数年前やっと南アフリカからの出品を入手できました。シングル曲以外はオーケストラをバックにドリーミーに唄うナンバーが多く、FDL関連のジョン・ブロムリー楽曲やティム・アンドリューズ楽曲等もカバーされています。 レイジーライフは1970年にも南アのジ・アウトレットというバンドにもカバーされてました。 またオーストラリアではジャズロックバンド、Heart 'n' Soulにもオーケストラアレンジでカバーされスマッシュヒットしています。 これらのどのテイクを聴いての事かはわかりませんが、1972年暮にハスケルがコテージにいた所、英国のロカビリーアイドル歌手ビリー・ヒューリーの訪問を受け、ヒューリーが『君の書いた曲知ってるよ』とその場でレイジー・ライフを歌ったという話があります(ハスケル自伝)。ヒューリーは80年代に入るとじきに心臓の持病で亡くなりましたが、最晩年にこの歌をカバー録音しており、いくつかのコンピ盤に収録されています。 また1970年には、ビリーのプロデュースで南アフリカの女性シンガー、ワンダ・アレッティのシングル「ザンジバル」が発売され、コレも南アでヒットチャート入りしました。ゴードン・ハスケルが1969年秋に出したLPに収録されていたハスケル楽曲で、ワンダのレコーディングにはハスケルも参加し、ザビ部分のバックコーラスを行っています。ここらへんもビリー・フォレストがゴードン・ハスケルのソングライティング能力を買っていたといえるところなのでしょう。 1970年代に入るとビリーの活動はプロデューサー業が増えていき、様々なアーチストのレコードを手掛けています。また、南アに帰国したシャロン・タンディとも共演シングルを何枚か残してるようです。70年代終わりにはビリー・キンバー名義としてRCAでプロデューサーをしてた関係から、ハスケルがRCAと二年のライター専属契約を結ぶのと共にサードアルバムの制作に取り掛かる事が可能になったと言えるわけです。もちろんハスケルのサードは、ビリー・キンバーのプロデュース。 ※残念ながらパンクの台頭でハスケルのサードアルバムServe At Room Temperatureは白ラベルのテストプレスのみで1980年には発売に至らず、だいぶ後の90年代になりやっと日の目を見たのでした。(レコードとしての正規発売は、70年代末から80年代にかけて一部楽曲がシングルとして発売されたのみ。) ツイッターでココモJPさんに以前うかがった話ですと、ハスケルのサードが日本発売される際、ハスケルと日本の発売元がやり取りしてる最中、取り上げた雑誌編集部が中心となって来日させようかという動きもあったのだそうですが、実現には至らなかったそうです。 長年裏方を続けてたビリー・フォレスト氏も近年は歌手活動をマイペースで行っているようです。その殆どはカントリー調の歌ばかりなので、21世紀の現在はハスケル氏と音楽的な関係は特に無いと見ていいのでしょう。最後までお読み頂きありがとうございました。余談:この4月に70歳になられるゴードン・ハスケル氏。そのひと月後にはロバート・フリップ師も70歳を迎えられます。はたして1977年以来のハスケル氏来日は果たされるのでしょうか? お歳もお歳なので招聘するとしたらもう最後のチャンスといえるでしょう。彼が制作している新譜の状況、今まで何度も質問してきているので、あまり聞き返すと失礼になると思い、最近は尋ねてませんが、いずれ出るでしょうw 時期はサッパリ読めませんが。来日のチャンスはそこらへんだと思うのですが、どこぞのプロモーター様。よろしければ彼を日本に来日させてはいただけないでしょうか?どうぞよろしくお願いします♪
Apr 5, 2016
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キースの息子アーロンさんが、ご自身のフェイスブックにて公開されました。https://www.facebook.com/MrAaronEmerson/ ゆみぴかさんのツイートで知りました。早速手を合わせに伺いました。
Apr 3, 2016
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