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「楽しみなくして生きていけるか?」ロスジェネ氷河期第一世代の息抜き術苦しい時代を生き抜いてきた我々ロスジェネ氷河期第一世代。就職氷河期の直撃を受け、正社員になれず非正規雇用を余儀なくされた者も多い。低賃金、長時間労働、社会からの冷たい視線 そんな過酷な環境を耐え続け、気づけば40代後半から50代に差し掛かっている。生活は苦しい。物価は上がるのに賃金は上がらず、将来の不安ばかりが募る。しかし、だからといって「楽しみ」まで諦めてしまえば、人生はあまりにも味気ない。生きているからには楽しみを見つけなければならない。 どんなに厳しい状況でも、小さな楽しみがあれば、何とか乗り越えていけるのだ。ちょっとしたことでいい、楽しみを見つける楽しみは大きなものである必要はない。むしろ、我々にとって重要なのは**「日常の中に小さな楽しみを見出すこと」** だ。① ひとり飯を楽しむ外食は贅沢に思えるかもしれないが、たまには自分を甘やかしてみるのもいい。牛丼一杯、ラーメン一杯でも、「今日はちょっと良いものを食べる」と思うだけで気分は変わる。さらに、一人で食事する時間を大切にすることで、自分のペースを取り戻し、リラックスできる。お気に入りの店を見つけたり、新しい味を試してみるのも楽しい。② 昔の趣味を掘り起こす若い頃に夢中になっていたものを、もう一度やってみるのも一つの方法だ。ゲーム、漫画、プラモデル、音楽、映画 昔ハマったものは、今でもきっと心を満たしてくれる。例えば、レトロゲームをプレイしてみるのはどうだろうか?「悪魔城ドラキュラを久しぶりにやってみたら、昔の感覚が蘇った!」「PCエンジンのゲームを買い直して、あの頃のワクワクをもう一度楽しんでいる」こうしたノスタルジックな体験は、我々世代にとって最高の息抜きになる。③ 昔の友人と会う、またはSNSでつながる学生時代の友人と再会すると、過去の楽しい思い出がよみがえる。仕事や生活に追われ、疎遠になってしまった友人も多いかもしれないが、LINEやSNSでつながるだけでも気持ちが軽くなることがある。「久しぶりに連絡したら、みんな同じように大変だった。でも、昔話をして笑えた」こんな時間を持つだけで、少しだけ気持ちが楽になるものだ。④ ちょっとした運動や散歩を取り入れる体がしんどくなってくる世代だからこそ、適度な運動が重要になる。ジムに行く必要はない。近所を散歩する、軽いストレッチをする、気が向いたら少し走ってみる それだけでも気分が変わる。歩きながら好きな音楽やラジオを聴くのもいい。最近はポッドキャストやオーディオブックも充実しているので、興味のあるテーマを聞きながら歩くと、新しい発見もある。「楽しむこと」を諦めない世の中の流れは、我々にとって厳しいものかもしれない。賃金は上がらず、将来の見通しは暗い。だが、「楽しむこと」まで手放してしまえば、本当に人生は苦しくなる。お金をかけなくても、楽しめることはたくさんある。・好きな音楽を聴く・昔のアニメやドラマを見返す・簡単な料理を作ってみる・喫茶店でのんびりコーヒーを飲む・ブログやSNSで好きなことを発信するこうした小さなことを積み重ねることで、「生きること」自体が少しずつ楽しくなってくる。まとめ 我々世代も息抜きが必要だロスジェネ氷河期第一世代は、常に「耐え続けること」を強いられてきた。だが、楽しみを見つけることまで放棄する必要はない。「こんな時代だからこそ、楽しむことを諦めない」この気持ちを持つだけで、人生は少しだけ楽になる。我々世代だからこそできる楽しみ方を見つけ、自分なりの「息抜き術」を持とう。あなたにとっての「楽しみ」は何ですか?
2026.08.31
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上段の端ロッカーから始まる、私の日帰り温泉ルーティン|50代日帰り温泉やスーパー銭湯へ行くと、最初に見るのは浴槽でもサウナでもない。売店に、その施設の名前が入ったタオルが置いてあるかどうかである。初めて行く場所なら、だいたい一枚買う。白地に店名だけのものもあれば、温泉マークが大きく入ったものもある。家にはすでに何枚もあるのだが、あれは入浴用品というより訪問記録に近い。集めてどうするのかと聞かれると困る。どうもしない。ただ、増えていく。画像上段の端ロッカーから始まる、私の日帰り温泉ルーティンタオルを買ったら脱衣所へ入る。ロッカーが上下二段に分かれているなら、なるべく上を選ぶ。腰をかがめて、下段の奥へ靴下を押し込む作業は、風呂へ入る前から少し疲れる。できれば列の端がいい。真ん中は左右から人が来るので、着替えている最中に何度も身体を細くしなければならない。風呂へ来てまで、人の通り道になりたくはない。服を脱いで浴室へ入ったら、まずはかけ湯をする。見ていると、そのまま浴槽へ向かう人も案外多い。何か事情があるのかもしれないが、私は一応、肩から腹、足のあたりまで湯をかける。それから洗い場へ行き、シャワーで身体をさっと流す。ここで身体を洗い始めるわけではない。最初はサウナである。まだ身体が疲れていないうちに入り、じっくり汗を出す。昔ほど長くは粘れなくなったが、テレビを眺めたり、壁の砂時計を見たりしながら座っていると、頭の中に残っていた細かい用事が、汗と一緒にどうでもよくなってくる。サウナを出たら身体を流し、水風呂へ入る。冷たい。分かっていて入るのに、毎回きちんと冷たい。足首、膝、腹と順番に沈んでいき、肩まで入ったところで息を吐く。何度入っても、最初の数秒だけは自分が何かの罰を受けているような顔になる。それでも、しっかり冷やす。少し休んでから、二回目のサウナへ向かう。一回目より汗が出るのが早く、身体の内部に残っていたものまで温まってくる。二回を終えたあたりで、私はようやく身体を洗う。順番として正しいのかは知らない。私には、この順番がいちばん具合がいい。身体を洗ったあとは、各種アトラクション風呂へ移る。アトラクション風呂という呼び方が正しいかどうかも知らないが、寝湯、ジェットバス、電気風呂、打たせ湯など、ただ湯につかる以上の働きをしてくれる浴槽を、私はまとめてそう呼んでいる。サウナのあとで少し疲れているので、最初は寝湯やリラクゼーションバスへ行く。背中に湯が流れ、首の下あたりから泡が出てくる。寝ているだけなのに、妙に忙しい風呂もある。次は電気風呂だ。浴槽の壁際にある電極へ背中や腰を近づけると、筋肉が勝手に縮む。少し離れれば弱くなり、近づけば容赦なくびりびりする。若い頃は、何が面白くて電気を浴びているのか分からなかった。今は腰や肩の方から、もう少し近づけと指示が出る。身体も五十年を過ぎると、好む風呂が変わってくるらしい。電気風呂を出たら、ジェットバスや打たせ湯へ移る。強い水流を腰へ当てたり、上から落ちてくる湯を肩で受けたりする。場所によって水圧が違うので、あまり強いところへ行くと、くつろぐどころか壁に押しつけられる。ひと通り身体を刺激したら、低温風呂へ入る。体温に近いくらいの湯につかり、何もせずにぼんやりする。熱くもなく冷たくもないので、出る理由が見つからない。隣に知らない人がいても会話はなく、換気扇の音と湯の流れる音だけが続いている。露天風呂や炭酸泉は、その途中に入れていく。外の空気が冷たい時期なら露天風呂は長くなるし、炭酸泉に空きがあれば、とりあえず入っておく。細かな泡が腕や腹へつくのを眺めていると、身体が何かの部品になり、洗浄液につけられているようにも見える。だいたい一時間ほどで上がる。時間がある日は、一度服を着て休憩所へ行き、畳やリクライニングチェアで少し休んでから、もう一度入ることもあった。湯から上がった直後は身体が軽いのだが、休憩所で横になると、今度は動きたくなくなる。このまま泊まれないものかと考える。泊まれないから、また浴室へ戻る。風呂から出たあとは水分補給である。車を運転して帰るので、酒は飲めない。冷蔵ケースを眺め、コーヒー牛乳か黒酢ドリンクを選ぶ。腰に手を当てて飲むほどの勢いはもうないが、風呂上がりのコーヒー牛乳には、ほかの場所で飲むものとは少し違う味がある。中身は同じはずなのに、脱衣所の蛍光灯の下で飲むと妙にうまい。そんなことを、久しぶりに思い出した。昔は毎週のように通っていた。週のどこかで汗を出し、水風呂へ入り、電気風呂で腰をびりびりさせる。それで身体の具合が全部直るわけではなかったが、一週間をいったん終了させる作業にはなっていた。今は、毎週ふらりと風呂へ出かけられる暮らしではない。時間がない時に限って、あの広い浴室や、上段の端ロッカーや、施設名の入った少し薄いタオルを思い出す。温泉へ行けなくなったからといって、すぐに何かが壊れるわけではない。それでも、以前は定期的に抜いていた疲れが、どこかに少しずつ残っている感覚はある。機械なら点検日を決められる。人間の身体と暮らしは、予定表どおりには止まってくれない。だから久しく行っていないなと思い、忘れないうちに自分の入り方を書いてみた。次に行けた時も、たぶん私は公式タオルを買い、上段の端ロッカーを探す。かけ湯をして、最初にサウナへ入り、水風呂で情けない顔をする。昔と同じ一時間にはならないかもしれない。それでも湯の中にいるあいだくらいは、自分の身体の面倒だけを見ていたいと思う。✨✨最後までお付き合いいただき、ありがとうございます✨✨日帰り温泉やスーパー銭湯で、自分なりの決まった入り方がある方もいるでしょう。少しでも思い当たるところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると、次の点検を続ける力になります。
2026.08.30
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治せなくても、調べる朝がある。父を連れて大学病院へ|50代昨日は、父の胃カメラ検査だった。予約が朝一番だったので、いつもより早くから準備を始めた。近所の病院ならまだ楽なのだが、今回も以前から通っている大学病院まで行かなければならない。病人を病院へ連れていくというのは、それだけ聞けば簡単な話に見える。実際には、家を出るところまでがけっこう長い。父はここ数日、かなり機嫌が悪かった。訪問介護の担当者が変わる、時間が変わる、こちらが何か提案する。それだけでも気に入らない。最近は何かにつけて引っかかり、いったん不機嫌になると数日そのままということもある。今回は胃カメラの予定がある。当日の朝になって「行かない」とでも言われたら困るので、ここ数日はなるべく近くにいて、話し相手になり、機嫌が大きく崩れないようにしていた。こう書くと、ずいぶん献身的な息子に見えるかもしれない。実際には、そんな立派な話でもない。病院へ行く日の朝に父を説き伏せる時間など、とてもないからだ。できることなら、その前に荒波を少し静かにしておきたかった。介護をしていると、優しさなのか段取りなのか、自分でもよく分からなくなることがある。たぶん両方なのだと思う。検査をして、その先に何があるのか今回、胃カメラをすることになったのは、逆流性食道炎のような症状や、最近いろいろと不調が続いていたからだ。とりあえず一度見てみますか、という話になった。ただ、私の中には最初から引っかかっているものがある。仮にがんの転移などが見つかったとして、今の父にどこまで治療ができるのか。少なくとも、大きな治療へ進むのはもう難しい。それなら身体に負担をかけてまで検査をする意味はどこにあるのだろう、と考えてしまう。もちろん、今起きている不調の原因が分かれば、少しでも楽にできる方法が見つかるかもしれない。何も調べなければ分からないこともある。だから検査には行く。でも昔のように、「悪いところを見つけて治すために病院へ行く」という単純な話ではなくなった。調べる。結果を聞く。そこでまた、その先を考える。最近の父の病院は、そんなことの繰り返しになっている。血液検査も少し先に予定されている。こちらも正直、あまり気が進まない。結果を見れば、以前より悪くなっている数字が出てくるのだろうと思ってしまうからだ。それでも採血の日が来れば、また病院へ行く。何とも言えない。悪くなっているかもしれないから見たくない。でも見なければ、それはそれで気になる。病院という場所が、安心するために行くところではなく、現実を確認する場所になってきたような気がする。忘れる母に、助けられることもある父とは別の方向で、母にも毎日手を焼いている。認知症なので同じことを何度も聞くし、こちらの予定とは関係なく話が始まる。外へ連れて出れば目も離せない。ところが最近、少し変なことを思うようになった。認知症の困ったところは、忘れてしまうことだ。でも介護する側から見ると、それに助けられることもある。母が何かで機嫌を悪くしても、しばらくすると忘れていることがある。さっきまで怒っていたのに、次に話しかけたときには別のことを考えていたりする。父は逆だ。一度機嫌を悪くすると、かなり長い。下手をすれば数日前のことまで覚えている。今のわが家では、忘れてしまう母と、なかなか忘れない父の間を行ったり来たりしている。もちろん母を適当に扱うという意味ではない。ただ、全部を真正面から受け止めていたら、こちらが持たない。母が忘れてくれるなら、こちらも少し力を抜く。最近は、それでいいと思うようになった。介護を始めた頃の私は、もっと全部きちんとやろうとしていた気がする。今は、回ればいい。少々格好が悪くても、その日の家が回ればいい。そのくらいまで基準を下げないと、長期戦には付き合えない。また結果を聞きに行く胃カメラは、なんとか無事に終わった。父を連れて家を出て、大学病院へ行き、受付をして、検査をして、また帰ってくる。文章にしてしまえば、それだけである。ただ、その「それだけ」を終える頃には、こちらもかなり疲れている。まだ結果を聞きに行かなければならない。さらにその先にも、別件で大学病院へ行く予定が入っている。その予定表を見ながら、ときどき妙なことを考える。父は、その日まで生きているだろうか。こんなことを書くと冷たく聞こえるかもしれないが、余命の話をされている以上、頭のどこかにはいつもある。もっとも、この状態になってからもう三年近くになる。その間も何度、「もう長くないかもしれない」と思ったか分からない。それでも、なんだかんだ父はここまで来た。弱っているのは間違いない。できないことも増えた。それなのに土日になれば競馬を見ているし、気に入らないことがあれば腹も立てる。人間というのは、数字や予定表ほど簡単にはいかないらしい。介護している私の数字も、あまりよくないそんな父を病院へ連れて行っている私も、血圧の治療を始めて三か月目に入った。こちらはこちらで、あまり変わっていない。特に下の血圧が高く、今でも100前後になることがある。夏でこの状態なら、寒くなったらどうなるのだろうと思う。薬は飲んでいるし、できる範囲で気をつけてもいる。となると、残っている大物は酒かもしれない。断酒。文字にすれば二文字だ。これが、なかなか遠い。介護生活をしていると、夜に少しくらい飲まなきゃやってられない、と思う日がある。一日の終わりに酒を飲んで、ようやく頭の中が少し切り替わる。ところが深く飲むわけにもいかない。夜中に父や母から呼ばれるかもしれないからだ。実際、何が起こるか分からない。飲みたい。でも酔いつぶれることはできない。血圧のためには飲まない方がいい。それでも、今日くらい飲ませてくれと思う夜がある。最近は、そんなところを行ったり来たりしている。父の検査結果を気にしながら、自分の血圧計の数字も見る。父の薬を確認して、自分の薬も飲む。父がいつまで生きるのか分からないと思いながら、自分の身体だって何十年も保証されているわけではない。なかなか忙しい。昨日も大学病院から帰ってきて、一日は普通に続いた。検査が終わったからといって何かが解決したわけではない。結果を聞きに行く予定が増えただけだ。今日も父と母は家にいる。私もいる。次の病院の日まで、とりあえずまた日常を回す。今のところ、それ以上でも、それ以下でもない。
2026.08.29
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疲れを抜くより、今日の身体を戻しておく|50代朝、台所で麦茶を飲んでいると、身体の重さが少し遅れてやってくる。寝ていないわけではない。布団には入ったし、目も閉じた。夜中に何度か目は覚めたが、それでも一応は朝までたどり着いた。ところが、身体の方はどうにも戻っていない。スマホなら充電器に挿し忘れたのかと疑うところだが、こちらは一晩ちゃんと横になっていたはずである。それでこの残量か、と思う。左肩の不調はまだ続いている。たぶん、もう五十肩ということなのだろう。棚の上のものを取る時、服を着替える時、湿布を貼ろうとする時、そのたびに肩の奥で小さな通行止めが出る。肩から首にかけての重さも抜けない。凝りというより、奥で何かが固着している感じに近い。時々、しびれのようなものが来ることもある。目の疲れも早くなった。昔なら、もう少し画面を見ていられた。もう少し文章も読めたし、夜になってからでも少し踏ん張れた。最近は、目の奥に閉店時間が来るのが早い。午後の途中で、商店街のシャッターが半分下りるような感覚になる。若い頃なら、疲れは寝れば取れるものだと思っていた。それが五十代になると、どうもそう単純ではない。寝ても残る疲れがあり、抜けたと思ったら別の場所に回っている疲れがある。肩に出る日もあれば、首に来る日もあり、目に来たと思えば、気分の底に沈んでいる日もある。疲れというのは、一つの症状ではなく、未処理の案件が机の上に重なった状態なのかもしれない。介護があると、その未処理案件はさらに増える。親の予定はこちらの肩の可動域を見てくれないし、目がしょぼしょぼしていても薬袋の確認は必要になる。首が重い日でも声はかけるし、疲れているから今日は全部止めます、というわけにもいかない。家の中の現場は、こちらの体調に合わせて都合よく停止してくれない。だから最近は、疲れを全部取ろうとは考えないようになった。全部取る、という言葉がもう少し立派すぎる。温泉に行って、ゆっくり眠って、翌朝には身体が軽くなっている。そういう回復ももちろんありがたい。だが、仕事と介護のあいだにいる日常では、そこまで整った回復はなかなか来ない。現実にできるのは、もっと小さい。台所で麦茶を一杯飲む。窓を開けて朝の光を見る。首の後ろを温める。画面を閉じて、目を休ませる。昼間に少しだけ横になる。風呂に入れる日は湯船に入る。家の片づけを一か所でやめる。今日やらなくてもいいことを、ひとつだけ明日に送る。書き出せば地味だが、この地味さが今の自分には合っている。元FAXのカスタマーエンジニアとして考えると、これは修理というより保守に近い。完全復旧ではない。原因部品を特定して交換し、テスト印字を出して完了、という話でもない。人間の身体は、肩だけを見ても首が絡み、首を見れば目の疲れが関係し、目をたどれば睡眠に行き着く。睡眠の奥には、介護の緊張や家の空気、仕事の残り香まである。症状が混線している時に、いきなり大きな解決を狙うとだいたい失敗する。今日の疲れは、眠れていない疲れなのか。目を使いすぎた疲れなのか。肩と首が固まっているだけなのか。気圧のせいで全体が重いのか。親の声や物音に、神経がずっと待機していた疲れなのか。ひとつに決めつけず、少しだけ切り分ける。それくらいなら、今の自分にもできる。朝に水分を入れるのは、身体に流れを戻すためだ。白湯でも麦茶でもいい。立ったままでもかまわない。乾いたまま一日を始めるより、少しだけましになる。窓を開けるのも同じで、散歩まで行けなくても、外の明るさを目に入れるだけで身体のスイッチが手動で入る。昔は勝手に切り替わっていたものが、今は手で戻さないと戻らない。首と肩は、いきなり動かさない。固まった機械を力任せに回せば、余計におかしくなる。湯を当てる、温める、湿布を貼る、無理な角度を避ける。痛みやしびれが続くなら、気合いでごまかさず病院へ行く段取りも必要になる。そこは根性論の場所ではない。目については、最近いちばん反省している。疲れている時ほど、なぜかスマホを見てしまう。見ても楽にならないのに、画面を眺めて、目の疲れをさらに上塗りしている。意味のないスクロールは、休憩の顔をした追い打ちだ。だから、目の奥が早めに閉店しそうな日は、こちらも少し早く店じまいする。通知を減らし、画面を暗くし、数分だけでも目を閉じる。昼間に横になることも、前より大事にするようになった。ちゃんと昼寝をしよう、などと考えると、それはそれで仕事になる。横になるだけでいい。眠れなくても、身体を水平にするだけで立っている自分から少し離れられる。介護をしていると、完全に電源を落とすのは難しい。親の物音、予定、薬、次の確認。どこかで常に待機している。だから、電源断ではなく、待機電力を下げる。そのくらいの休み方でいいのだと思う。食事も、きれいな理想を追いすぎない。疲れている日に、立派な健康メニューを作る気力はない。味噌汁、卵、豆腐、納豆、魚の缶詰、冷凍ごはん。野菜は切ってあるものでもいい。冷蔵庫の奥で同じ豆腐が二つ見つかる夜なら、それを使えばいい。疲労回復は、写真映えする食卓でなくてもいい。身体を空にしないこと、温かいものを一つ入れること、噛むのがしんどい日は飲み込めるものにすること。それも保守のうちだ。家の中の作業は、放っておくと無限に見えてくる。洗面所、台所、玄関、薬袋、古い書類、片方だけ残った靴下。休みの日ほど目につくし、目についたものを全部直そうとすると、こちらが先に落ちる。だから一日一か所で止める。洗面所だけ、流しだけ、薬袋だけ。古い紙を三枚だけ捨てる。それで終わりにする勇気も、五十代には必要になってきた。全部直さない。今日の不具合を一つだけ見る。この考え方は、介護にも似ている。親の老いを全部解決することはできない。家の疲れを全部消すこともできない。自分の五十肩も、一晩で元に戻るわけではない。だが、今日の薬は確認できる。今日の声かけはできる。今日の湿布は貼れる。今日の目は少し閉じられる。麦茶を一杯飲むこともできる。そういう小さなことを、軽く見ないようにしたい。疲れを取る、というより。今日の身体を戻しておく。新品に戻すのではない。明日の自分が少し困らないところまで、今日のうちに手を入れておく。首を温め、目を閉じ、予定を一つ減らし、温かいものを腹に入れる。できれば少し早く布団に入る。眠れなくても、身体を横にしておく。劇的な回復ではない。誰かに自慢するような健康法でもない。ただ、これを怠ると、身体の方が先に止まる。五十代の身体は、思ったより正直で、少し冷たい。こちらの事情を分かってくれているようで、限界が来れば黙って止まる。親の介護があっても、仕事があっても、家の用事が積み上がっていても、止まる時は止まる。だから止まる前に、少し手を入れる。まだだ。まだ終わらんよ。そう言うためには、根性だけでは足りない。身体の異音を聞き流さないこと。疲れた自分を雑に扱わないこと。休むことを、逃げではなく次の現場に出るための段取りとして見直すこと。介護と仕事のあいだで、直せない日々を言葉で保守する。そのためには、自分の身体もまた、保守対象なのだ。明日も大きく変わるわけではない。肩はまだ上がりにくいかもしれないし、目の疲れも早く来るかもしれない。親の予定も、家の現場も、たぶん普通に待っている。それでも朝になったら、麦茶を飲む。少し光を見る。首を温める。今日やることを一つだけ減らす。新品には戻らない。だが、まだ動く場所はある。そこを見つけながら、今日の身体を静かに戻していく。✨✨✨介護、仕事、50代の日々を、これからも少しずつ言葉で保守していきます✨✨✨
2026.08.28
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介護の朝は突然に|「病気だから仕方ない」で、もう全部は飲み込めない今朝も父の機嫌が悪い。正確には、昨夜からそのまま持ち越している。最近はこういうことが増えた。訪問介護の担当者が変わったり、来てもらう時間が少しずれたりするだけでも機嫌が悪くなる。「こうしてみたらどうですか」と提案されても気に入らない。自分の頭の中にある流れと少しでも違うと、それだけで面白くない顔をする。もともと気難しいところはあった。そこへ身体が思うように動かなくなったことも重なっているのだろう。ただ最近は、何をやっても気に入らないように見える日がある。昨日の発端も、たいしたことではなかった。妻が仕事から帰ってきて夕食の準備をしてくれた。父は食前の薬を飲んでいたので、食事までは30分ほど空ける。それなら先に風呂に入ってしまえば、あとが楽だろうと思い、私からそう勧めた。妻も普通に風呂へ入った。ところが30分ほどして様子を見ると、なぜか布団へ行って寝ようとしている。「どうしたの。体調悪いの?」聞いてみると、顔を見れば分かるくらい不機嫌だった。「もう寝る」もうご飯だよ、と言うと、「なんか忙しそうだから、いい」とぶっきらぼうに返ってきた。そのとき最初に頭へ浮かんだのは、なんじゃそりゃ、だった。妻は仕事から帰って食事を作っている。私は薬の時間を考えて風呂を勧めただけだ。誰も父を邪魔者扱いしていない。それがどういう経路を通れば、「忙しそうだから俺はもう食べない」という話になるのか、こちらにはよく分からない。ただ、そこで私まで腹を立てれば、話はもっと面倒になる。感情を抑えながら話して、なんとか食卓まで来てもらった。父は不機嫌なまま座り、妻が作ったメインの料理にはほとんど手をつけなかった。自分の好きなものだけを食べ、そのまま食事を終えた。その様子を見ているうちに、私の中にあった腹立たしさが、少しずつ別の感情に変わっていった。病気だから、だけでは済ませられない父は今、体調が悪い。余命の話もされている。以前のようには身体が動かず、人の手を借りなければできないこともかなり増えた。本人が面白くないのは分かる。自分の生活なのに、自分だけでは決められなくなる。知らない人が家へ来る。いつもと時間が変わる。人からあれこれ提案される。私が同じ立場になったら、やはり苛立つことはあると思う。だから今まで何度も、「病気なんだから仕方がない」と考えてきた。母についても同じだ。認知症が進み、もともとの好き嫌いの激しさや、自分の思い通りにならないと不満を表に出すところが、以前より強くなったように感じる。母は認知症だから仕方がない。父は病気だから仕方がない。そうやって考えないと、こちらが持たない日もある。ただ、昨夜の父を見ていて、ふと引っかかった。これは本当に、全部が病気のせいなのだろうか。思い返せば、昔からこういうところはあった。私たち子どもを叱るときも、何が悪かったのかを話して聞かせるというより、自分の怒りをそのままぶつけていたように思う。こちらがどう感じているかより、父が腹を立てていることの方が先だった。子どもの頃は、それが父親というものなのだと思っていた。昭和には似たような父親も少なくなかったのだろう。それでも、自分が50代になり、自分にも子どもができてから昔を振り返ると、あれを「厳しい父親」と呼ぶのは少し違う気がする。厳しかったというより、ただ怒っていた。今なら、そう見える場面がかなりある。ギャンブルも昔から好きだった。借金も作った。土日になれば、今でも競馬中継を長い時間見ている。私が子どもの頃に暮らしていた用賀の家がなくなったことにも、父のお金の使い方は少なからず関係していたと私は記憶している。もちろん、人の性格を一つの原因だけで説明できるとは思っていない。父にも父なりの事情があったのだろうし、私から見えていないこともある。それでも昨夜は、食卓で不機嫌な父を見ているうちに、昔のいろいろな記憶まで一緒に出てきた。父を軽蔑している自分がいたここまで書くかどうかは迷った。余命を告げられている父を介護している息子が、父親を軽蔑すると書く。それを読んで不快に思う人もいるだろうし、親不孝だと思われても仕方がない。でも昨夜の私は、確かにそういう目で父を見ていた。父の機嫌ひとつで家の空気が変わる。妻が気を遣い、私が言葉を選ぶ。その空気の中には子どももいる。娘は発達障害もあるうえ多感な年頃だ。影響は計り知れない。本人が腹を立てれば、周りがそれをどうにかしなければならない。昔から変わっていないな、と思った。その瞬間、怒りよりも冷たい感情が出てきた。親だから尊敬しなければいけない。病気なのだから優しくしなければいけない。介護している以上、最後まで穏やかに接しなければいけない。自分でも知らないうちに、そういうものを背負っていたのかもしれない。でも実際には、親だろうと嫌なものは嫌だ。病気になったからといって、それまでの何十年まで全部きれいになるわけでもない。父から見れば、私に対して言いたいことはいくらでもあると思う。出来の悪い息子だった時期もあっただろう。だから私の見方だけが正しいなどとは思っていない。それでも今の私は、父のすべてを肯定することはできない。そして、それはそれで仕方がないのではないかと思い始めている。妻と子どもに申し訳なくなる父に腹を立てたあと、いつも最後は妻と子どものことを考える。昨夜もそうだった。妻は仕事から帰ってきて夕食を作ってくれた。その料理を父が不機嫌なままほとんど残す。妻は大人だから、そこでいちいち何か言ったりはしない。だから余計に申し訳なくなる。妻は自分の親を介護しているわけではない。それでも私と一緒に、この家の介護に巻き込まれている。子どもも同じだ。家に帰れば祖父母の介護がある。父の機嫌が悪い日もあれば、認知症の母が同じ話を何度もする日もある。いつの間にか、それがこの家の日常になった。介護は家でやっていくと決めた。その判断を今すぐ変えるつもりはないし、家で介護していること自体を後悔しているわけでもない。ただ、最近は「自分で決めたことなのだから我慢すればいい」では済まないと思うようになった。父が不機嫌になるたびに私が機嫌を取り、母が怒るたびに全部こちらが受け止める。そのやり方を続けていたら、いつか誰かが持たなくなる。私かもしれないし、妻かもしれない。何とか回していかなければならないのは同じでも、回し方は変えていいはずだ。今朝もまだ、機嫌は悪い父は今朝も機嫌が悪い。こうなると数日は続くことがあるので、今日一日で元に戻るとは思っていない。以前の私なら、何が気に入らなかったのか聞き、こちらの考えを説明し、少しでも納得してもらおうとしたと思う。今日は、そこまでやらないことにした。朝食のことはやる。薬も確認する。訪問介護の予定も見る。必要なことは、これまで通りやる。ただ、父の機嫌まで私が直そうとするのはやめる。FAX修理のCEを17年やっていたせいなのか、私はどうも不具合を見ると直したくなる癖が抜けない。機械なら、それでよかった。原因を探して、手を入れて、最後に動けば仕事は終わった。人間はそうはいかない。直そうとすればするほど、こちらまで巻き込まれることがある。昨夜は父に腹を立て、昔のことまで思い出し、軽蔑するような気持ちまで出てきた。それでも今朝になれば、私は父の薬を確認している。自分でもずいぶん矛盾していると思う。でも今のところ、それが現実だ。好きだから世話をする日ばかりではない。腹を立てた翌日も、ご飯は出す。尊敬できないところがあっても、必要なら病院へ連れていく。今のわが家の介護は、たぶんそんなふうに続いている。この記事を書いている間も、父の機嫌はまだ悪い。今日はこのまま静かに終わるのか。それとも、また何か起きるのか。今朝の時点では、まだ分からない。とにかくいろいろな話題を振り、少しでも風向きを変える努力をしないといつまでこの状態が続くかわからない。今の私の役目はとにかく事態の収束に向けた努力のみだ。
2026.08.27
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笑いの臨界点 #43 咳払いが思ったよりおじさんだった昼。何かを飲み込んだわけでもないのに、喉が少し引っかかった。駅のホームだった。人はそこそこいる。誰もこちらを見ていない。それなのに、喉の奥だけが小さく主張してくる。んん。私は軽く咳払いをした。その音が、自分で思っていたより低かった。低いというか、太い。太いというか、年季が入っている。自分の中では、もう少し軽い音のつもりだった。「んっ」くらいの予定だった。実際に出たのは、「ん゛んっ」に近かった。濁点がついていた。私は少し黙った。誰も反応していない。隣の人はスマホを見ている。前の人はイヤホンをしている。世界は普通だった。でも私の中だけ、少し揺れていた。今の音、誰だ。自分だ。それが少し怖い。若い頃の咳払いなんて、ほとんど覚えていない。たぶん軽かったのだと思う。喉に何か引っかかっても、軽く払えば済んだ。音も、気配も、そんなに残らなかった。今は違う。一回の咳払いに、妙な存在感がある。会議室の端にいる課長みたいな音がする。書類をめくる前の音。何か言いたいけど、まだ言わない人の音。いや、私は課長ではない。少なくとも今は、駅のホームで電車を待っているだけの男である。なのに喉だけが、勝手に役職を持っている。もう一度、喉を整えたくなる。でも、連続でやると余計に目立つ。一回目は事故で済む。二回目は意思になる。私は我慢した。喉の違和感と、周囲への配慮のあいだで、静かに立っていた。電車が来るまでの数分が長い。こういう時に限って、喉は「まだいますよ」という顔をしてくる。顔はないけれど。飲み物を買えばよかったかもしれない。でも、ホームの自販機まで戻るほどではない。戻ったら戻ったで、電車が来そうだ。来なかったとしても、今度は飲むタイミングでむせるかもしれない。そこまで考えて、自分で少し嫌になる。喉の話から、なぜここまで広がるのか。ロスジェネ脱線学なら、「咳払いひとつで人生の段取りを考え始める世代」とでも言うのかもしれない。いや、そこまで大きくしなくていい。ただ、咳払いが老けていただけだ。電車が来た。乗る。ドアの近くに立つ。少し揺れる。喉はまだ微妙に残っている。私は窓に映る自分を見た。普通の顔をしている。咳払いの音ほど老けては見えない。と思いたい。窓の中の自分と、耳に残っている自分の音が、少しずれている。外見より先に、音が年を取ることもあるのかもしれない。立ち上がる時の声。靴を履く時の息。椅子に座る時の小さな「よいしょ」。気を抜くと、体のあちこちから自分の年齢が漏れる。しかも、だいたい不意に漏れる。私は一度、口を閉じ直した。喉を静かにする。静かにしたところで、若くなるわけではない。でも、なんとなく。次の駅で人が乗ってきた。少し混む。前に立った若い男性が、小さく咳払いをした。軽い。音が軽い。何も背負っていない咳払いだった。私は勝手に感心した。若い咳払いというものがあるのか。ある。たぶんある。その人は何も気にしていない顔でスマホを見ている。こちらだけが、咳払いの世代差を勝手に考えている。本当に暇なのかもしれない。いや、暇ではない。疲れているのだ。疲れている人間は、どうでもいいことに妙に引っかかる。電車が少し揺れた。私は吊り革につかまる。また喉が動いた。今度は咳払いをしなかった。飲み込んだ。少し苦しい。でも、耐えられる。耐えたあとで、私は小さく笑いそうになった。咳払いを我慢しただけで、なぜ少し勝った気になるのか。誰とも戦っていない。相手は喉だ。しかも自分の喉だ。目的地の駅に着いた。ホームに降りる。外の空気を吸う。喉の違和感は、いつの間にか消えていた。あんなに気になっていたのに。私は歩き出しながら、さっきの音を思い出した。ん゛んっ。やっぱり少しおじさんだった。でもまあ、仕方ない。五十代になると、体の音にも歴史が混じる。若い音だけで生きていくのは、たぶん無理だ。咳払いくらい、少し濁ってもいい。ただし、連続はやめよう。一回なら生活音。二回なら主張。三回目からは、たぶん何かの会議が始まる。そう思ったら、少し笑えた。喉も、私も、今日はそのへんで手を打つことにした。✨✨✨最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。✨✨✨50代になると、自分の身体も少しずつ点検対象になっていきます。少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります。
2026.08.26
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ロスジェネ脱線学 #46 目薬が目に入らない朝朝、目薬をさした。つもりだった。一滴が、目ではなく頬を伝っていった。冷たい。そして少し情けない。鏡の前で、私はしばらく上を向いたまま固まった。右手には目薬。左手でまぶたを広げている。姿勢だけ見ると、かなり本気である。それなのに入っていない。若い頃は、こんなもの簡単だった気がする。上を向く。一滴落とす。終わり。今は違う。距離感が合わない。手元が少し震える。まぶたを開けているつもりなのに、落ちてくる瞬間だけ本能的に閉じる。目が、私を信用していない。50代になると、自分の身体の中にも小さな反対派が出てくる。腰は急ぐなと言う。膝は深く曲げるなと言う。目は、液体を入れるなと言う。全部、正しい気もする。ただ、生活はそれでは進まない。昭和の頃、目薬はもっと家庭の薬箱の奥にあった気がする。赤チン、絆創膏、体温計。あの箱を開けるだけで、少し病人らしくなった。平成になって、パソコンで目が疲れるようになった。令和ではスマホである。目が疲れる理由だけは、時代と一緒に順調に増えている。私はもう一度、目薬を構えた。今度は慎重に。呼吸を止める。狙いを定める。落とす。また少し外れた。ここまで来ると、もう薬というより競技である。しかも観客はいない。点数も出ない。ただ頬だけが冷たい。三回目で、ようやく入った。目の中に広がるひんやりした感じに、少しだけ勝った気がする。大げさだが、朝の小さな勝利である。人生も、狙ったところにうまく落ちないことが多い。言葉も、努力も、気持ちも。少し横にずれて、頬を伝っていく。それでも、何度かやれば入ることもある。鏡の中の自分は、少し涙目だった。感動ではない。目薬である。そこを間違えないようにして、私は一日を始めた。
2026.08.25
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一瞬永遠 第50幕 向かいの木窓の向こうに一本の木がある毎日見ているはずなのに見ていない日もきっとある朝カーテンを開けたときふいにその姿だけが目に入ることがある風のある日は枝を揺らし雨の日は黙って濡れている晴れた日には葉のあいだに光をためているそれだけなのにときどき自分よりちゃんと生きている気がする若い頃は動いているものばかり追いかけていた人の流れ時計予定今は動かないものに目がとまる何も言わずそこにいるもの変わらないようで季節ごとに少しずつ姿を変えるもの人もたぶん同じなのだと思う同じ朝を迎え同じように疲れそれでも昨日とは少し違う失くしたものもある置いてきたものもあるそれでもまだここにいてまた窓を開ける向かいの木は何も教えない励ましもしないただそこに立っているその静けさだけで今日という時間に輪郭をくれる私はしばらくその木を見ていた名前も知らないまま何度も会ってきたものとして一瞬は通り過ぎるばかりではないこんなふうに黙ってそこにいてこちらが気づくのを待っていることもある窓を閉める前に葉がほんの少し揺れたそれだけで十分だった✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨
2026.08.24
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50代、私は何をもって幸せとするのか|足りないものは、まだ山ほどある一日が終わって風呂に入り、あとは寝るだけという頃になると、今日は何をしたんだろうと思うことがある。仕事をして家のこともやり、父や母の様子を気にしながら、その合間にnoteも書く。それなりに動いているはずなのに、本人にはあまり達成感がない。むしろ、もう少しできたはずだという方が先に出てくる。やろうと思っていたことが残った、身体が思ったほど動かなかった、時間の使い方が悪かった。誰に提出するわけでもない一日を勝手に採点して、しかも採点者まで自分なのだから始末が悪い。昔からこうだったのだろう。五十代になって急に始まったわけではない。最近、幸せというものを考えていて、この採点癖が案外邪魔をしてきたんじゃないかと思うようになった。「幸せですか」と聞かれると、少し困る今、幸せですか。こう聞かれたら、私はすぐには答えられない。不幸かと言われれば違う。しかし胸を張って「幸せです」と答えるのも、何となく居心地が悪い。親の介護がある。自分の身体だって若い頃のようにはいかない。仕事のことも金のことも頭から完全に消えるわけではなく、父や母に腹を立てる日もある。何も考えず一人になりたいくらいの日も、実際ある。そのくせ、親には元気でいてほしい。勝手なものである。介護から解放されたいと思うことと、父や母に少しでも長くいてほしいと思うことは、私の中では普通に一緒に存在している。どちらかを消して立派な話にすると、途端に自分の話ではなくなる。五十代になって、この手の矛盾を無理に片づけなくなった。人間の気持ちは、そんなに行儀よく並んではくれない。私が待っていたのは、幸せより「問題のない生活」だった若い頃より、幸せになるための条件がずいぶん増えた。仕事だけ考えていればよかった時期を過ぎ、家族ができ、親も年を取り、自分の身体にもあちこち気になるところが出てきた。仕事がうまくいっていても家の中で何か起きれば落ち着かないし、親の状態が安定していても自分がへばっていれば自由には動けない。結局私は、いろいろなことが同時にうまくいっている状態を待っていたのだと思う。そこまで行けば楽になれる。そこまで行けば、ようやく自分の時間になる。だが五十代まで来てみれば、そんな時期はほとんどなかった。FAXの修理をしていた17年間なら、もう少し話は簡単だった。原因を探し、故障した部品を交換して、調整して正常に動けば一応その現場は終了する。生活には修理完了の表示が出ない。親のことで何もなかった日は自分の身体が重かったり、今日は割とうまくいったと思えば翌朝の電話一本で予定が変わったりする。仕事も家族も身体も全部正常、それに自分の時間まで十分にある。そんな状態を待ちながら生きていたら、いつまで経っても本番が始まらない。ここまで書いて、少し嫌なことにも行き着いた。私は幸せになりたかったというより、問題のない生活が欲しかったのではないか。似ているようで、かなり違う。足りないものは、実によく見える最近は人の名前がなかなか出てこないことがある。何かを取りに隣の部屋へ行き、着いた途端に何を取りに来たのか分からなくなることもある。ところが自分に足りないものとなると、妙によく覚えている。もう少し金があればと思う。自由な時間も欲しい。身体だって今より動いてほしいし、介護を気にせず妻と出掛けられたらと思う日もある。この辺だけは記憶力が衰えない。老眼鏡なしでは見えにくい。SNSまで開けば材料はいくらでも増える。旅行へ行っている人を見れば羨ましいし、仕事で結果を出した人を見れば、自分ももう少し何とかならないものかと思う。人と比べるな、とよく言う。無理である。私は見るし、比べるし、羨ましいものは羨ましい。自分軸で他人と比べないのは出来る。それでも常にそうではないということ。これがやっかいだ。ただ、相手の人生のよく見える一場面と、自分の朝から晩までを比べていることがある。これではこちらに少々不利だ。さらに困るのは、自分にないものにはよく目が行くのに、今そこにあるものは最初から勘定に入れていないことだった。家の中が大きく崩れず、その日が終わる。妻や娘がいつものようにいて、父や母も相変わらず何か言っている。私は文句を言いながら仕事をして、飯を食い、夜になれば文章を書いている。昔なら全部「普通」で終わっていた。今も毎日ありがたがって暮らしているわけではない。そんな殊勝な男でもない。だが介護が生活の中へ入ってからは、この普通というものを以前ほど雑には扱わなくなった。楽しいことと幸せは、本当に同じなのか幸せという言葉からは、どうしても楽しそうな場面が浮かぶ。旅行、食事、趣味、家族でどこかへ出掛ける日。分かりやすいし、私もそういう時間は欲しい。では、楽しくない時間はどうなる。病院へ付き添っている日は幸せではないのか。親の介護をして、こちらの予定が全部狂った日は。身体が重くて何もしたくない朝は。そこを無理に「それも幸せ」と言う気にはならない。嫌なものは嫌だし、面倒なものは面倒である。介護まで全部美しい話にされたら、やっている方はたまったものではない。ただ、一日の中に嫌なことがあったからといって、その日全部が駄目だったとも限らない。父に腹を立てながら飯を食う日もある。予定が狂ってムッとしたまま仕事を片づけ、夜になればnoteを書いている。身体が重かった一日でも、風呂に入った頃には少し機嫌が直っていたりする。五十代の生活は、こういうものが全部混ざっている。若い頃より役割が増え、親のこと、自分の身体、家族、仕事、その先のことまで同じ頭の中へ入ってくる。楽しい日、嫌な日と単純に分けられなくなったのは、こちらの人生が少し複雑になったからだろう。幸せか不幸かという二択も、案外乱暴な分け方なのだと思う。介護が終われば自由になる、とは簡単に言えないときどき思う。介護がなければ、もっと自由に動けるのに。これは本音である。旅行にも行きやすい。妻と出掛けるにも時間を気にしなくていい。今日呼ばれるかもしれない、何か起きるかもしれないというものも減る。だが、その自由について少し先まで考えると、どうにも後味が悪い。介護が本当に終わるとき、その先には父や母がいなくなることまで含まれている。私は自由になりたい。でも、その自由をそんな形で欲しいわけではない。親には元気でいてほしいし、自分の時間も欲しい。両方欲しい。都合がいいのは分かっている。しかし、この都合のよさまで含めて今の私なのだと思う。介護をしていると、ときどき幸せについて妙な場所から考えることになる。何かを失えば楽になることがある。しかし楽になることと、幸せになることは同じではない。ここは今も、うまく言葉にできない。では、今の私は何をもって幸せとするのか最初の問いへ戻ってみる。私は今、幸せなのか。やはり即答はできない。ただ、昔のように何も問題がない状態だけを幸せとするなら、私はこの先もなかなか幸せにはなれそうにない。生活の中には、これからも面倒なことが起きるだろう。身体も若返らないし、親も私も歳を取る。仕事や金のことで考える日もある。それでも、自分の今の生活を全部嫌いなわけではない。ここが今の私には結構大きい。逃げたい日がある生活なのに、全部なくなってほしいわけではない。父や母に腹を立てながら、いなくなってほしいなどとは思わない。自分の時間が欲しいと言いながら、家族がいる暮らしを失いたいわけでもない。幸せというものを、もっと気持ちのいい完成された状態だと長いこと思っていた。実際はもう少し雑なのではないか。欲しいものがあり、不満も残り、明日の心配まである。それでも「この生活は全部嫌だ」とは思わない。今の私には、そのあたりがかなり近い。全部そろう日を待つのは、もうやめてもいい私はまだ欲深い。金は欲しいし、自分の時間も欲しい。身体にも頑張ってもらいたい。書くことでもまだやりたいことがある。もっと楽になりたいし、うまくいけば人から認められたい気持ちだって残っている。五十代になったから急に無欲になったわけではない。ただ、それらが全部そろった日を幸せの開始日にするのは、もういいかなと思っている。そんな日が本当に来るのか分からないからだ。先にある何かばかり待っていると、今日がずっと仮の時間になる。介護をしている今も、疲れて何もしたくない日も、気分よく文章が書けた夜も、全部自分の持ち時間なのに。昔の私は、その辺をずいぶん安く見積もっていた。もっと何かを手に入れたら。もう少しうまくいったら。その頃になったら今より幸せになれる。そうやって五十代まで来た。明日になれば、また父や母のことで腹を立てている可能性はある。身体が重いと言い、金が欲しいと言い、SNSで誰かを羨ましがっているかもしれない。たぶん、それはなくならない。今日ここまで幸せについて書いたくせに、明日には別のことを言っているかもしれない。それも別に構わない。今のところ私は、「幸せな人」になりたいというより、自分の暮らしの中に、悪くなかったと思える時間がちゃんと残っていてほしい。この記事を書き終えた今は、少し機嫌がいい。このあと父に呼ばれたら、また面倒くさいなと思うかもしれない。たぶん私の幸せは、その二つの間にある。この話と近いところにあるのが、以前書いたこの記事です。「今日を見捨てないために書く|直せない日々を、言葉で保守する50代」介護と仕事のあいだで、なぜ今も書いているのか。こちらにはその辺りを書いています。いつか時が流れ、今を振り返った時にきっと幸せだったと思えるように、今を全力で生きる。それが、私の人生劇場となるだろう。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.23
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50代、7年目の車を点検する朝|18歳の多摩川から続く、クルマと私の時間今日は車の定期点検だ。今の車はすでに2回の車検を終えて、7年目に入った。そろそろ乗り換えを考える時期なのかもしれないが、今のところその予定はない。というより、そんな余裕もないし、今の車にも特に大きな不満はない。ならば、まだまだ大事に乗っていきたい。私は車の整備士ではない。ただ17年間、FAX修理のCEとして機械を相手にしてきたせいか、「今動いているから大丈夫」という考え方にはどうもなれない。同じ機種でも壊れ方は違ったし、ほとんど手のかからない個体もあれば、なぜか何度も呼ばれるものもあった。今の車は昔に比べれば、ずいぶん故障しにくくなったと思う。それでも機械であることには変わりない。まして車は、人を乗せて走るものだ。壊れてから考えるより、何も起きていないうちに見てもらう。点検へ出して「特に問題ありませんでした」で帰ってくる。それでいい。むしろ、それが一番いい。17歳、二子玉川の教習所に並んでいた私が教習所へ通い始めたのは17歳、高校3年の頃だった。当時住んでいた用賀から一駅先の二子玉川。今とは街の景色もかなり違っていた。私たちの世代は、とにかく人数が多かった。免許を取る人も多く、教習所はいつも混んでいた。予約なんて簡単には取れないから、中学時代の友人と朝早くから行ってキャンセル待ちに並んだ。朝一番に来たのに、なかなか名前が呼ばれない。夕方になっても乗れず、結局夜になってようやく教習車に乗れたなんてこともあった。今の若い人に話したら「そこまでして免許を取るのか」と思うかもしれない。でも、あの頃はそれがそれほど特別でもなかった。待ち時間になると、すぐ横にある多摩川の土手へ行った。野良犬と遊んだり、友人とくだらない話をしたり、何もすることがなくなれば草の上に寝転んで空を見ていた。スマホはない。動画もない。ネットもない。本当に何もすることがないのだが、それでも不思議と苦痛だった記憶があまりない。友人と一緒だったからなのか、17歳だったからなのか。待っている時間まで、それなりに楽しんでいたような気がする。あの頃は、時間なんてこれからいくらでもあると思っていた。免許を取れば、少し大人になれた気がした18歳になって免許を取った。今の感覚とは少し違うかもしれないが、私たちの頃は免許証を手にすることに、ちょっとした節目のようなものがあった。自分で車を運転できる。親に連れていってもらわなくてもいい。電車の時間を気にしなくてもいい。夜でも、自分の判断でどこかへ行ける。それだけで、行ける世界が急に広くなった気がした。19歳の頃、親戚から中古のクレスタを譲ってもらった。新しくもないし、走行距離もかなりいっていた。それでも、自分が自由に使える車というだけで十分だった。目的なんてなくても走った。友人と出かけたり、夜にふらっと車を出したり。当時は車そのものが欲しかったし、車を持っていることにも意味があった。その後はデリカスペースギアに乗り、フェアレディZにも乗った。デリカの頃は仲間と温泉や海へ出かけた。軽油が60円台、70円台だった頃である。今思えば、よくそんな値段で走っていたものだ。Zに乗っていた頃など、実用性なんてほとんど考えていなかった。乗りたかったから乗った。それでよかった。結婚してZを降り、その後はオッティ。そして家族が増えればセレナになった。車だけ並べても、その頃の自分が見えてくる。自分が乗りたい車を選んでいた頃があり、家族が乗れる車を選ぶようになり、荷物や使い勝手を考えるようになった。車が変わったというより、その間に私の方が変わっていったのだろう。多摩川へは、別の理由でも戻っていた二子玉川の教習所でキャンセル待ちをしていた頃から、何年も経ったあと。私はまた、多摩川へ行くようになった時期がある。今度は暇つぶしではなかった。仕事に疲れていたのか、人生そのものに少し行き詰まっていたのか。もう細かいところまでは覚えていない。ただ、胸の中に何かが溜まっていた。夜明け前、まだ暗いうちに車を走らせて多摩川へ向かった。毎週のように行っていた時期もある。車を停めて土手に座り、空が少しずつ明るくなっていくのを見ていた。誰かに相談したいわけでもないし、何か答えを出したいわけでもなかった。ただ、一人でいたかったのだと思う。17歳の私は、教習車に乗れるまでの時間を持て余して多摩川で空を見ていた。それから歳を重ねた私は、自分自身を少し持て余して、また同じ多摩川で空を見ていた。同じ場所なのに、そこにいる理由はまるで違う。あの頃はそんなことを考えもしなかった。50代になった今だから、ようやく二つの景色が一本につながって見える。車を持たないという選択も、今なら分かる最近は若い人が車を持たなくなったと言われる。私は、それを「最近の若者は」で片づける気にはなれない。車そのものが高いし、駐車場、保険、税金、ガソリン、車検と、持っているだけでも結構な金が出ていく。都市部なら電車やバスもある。必要なときだけレンタカーやカーシェアを使う方が合理的という人がいるのも分かる。私たちの若い頃とは、そもそもの条件が違う。それでも同世代なら、少し分かってもらえる気がする。免許を取ったときの妙な高揚感。初めて自分の車を持ったときの嬉しさ。ガソリンを入れて、目的もなく走った夜。カーステレオから流れていた曲。助手席に誰が座っていたか。車というものが、ただA地点からB地点へ移動するための道具だけではなかった時代が確かにあった。もちろん、みんながそうだったわけではない。でも少なくとも私にとって、車は長い間、人生の横にずっといた。50代、車に乗せるものも変わったそして今日、点検に出すのは7年目のセレナだ。若い頃のように「休みだから、とりあえず遠くへ行こう」と車を出すことは減った。今は仕事で乗る。買い物へ行く。家族を乗せる。親のことで病院へ向かうこともある。ずいぶん現実的になった。新しい車を見れば、もちろんいいなとは思う。でも今は、7年目のこの車をもう少し乗りたい。買い替えられないから仕方なく、という現実もある。それも含めて今の私だ。元CEだった私は、こういうところだけは妙に真面目である。故障した機械を前に「もう少し早く分かっていればな」と思ったことは何度もある。だから、まだ動いているうちに見る。何かあれば早めに手を入れるし、何もなければそれでよし。17歳の私は、多摩川の土手で教習車に乗れる順番を待っていた。19歳の私は、中古のクレスタを手に入れて、ただ走れることが嬉しかった。その後何台もの車に乗り、仕事をし、結婚し、家族ができ、親を病院へ乗せていく歳になった。そして今日の私は、7年目のセレナを定期点検へ持っていく。ずいぶん地味になったものだと思う。でも、これも悪くない。車も人間も、若い頃のようにただ走ればいいというわけにはいかなくなる。だからといって、走るのをやめたわけでもない。点検が終われば、またいつもの道へ戻る。仕事も、家族も、介護も、昔の記憶も乗せたまま、今日も私はこの車で走っていく。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.22
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50代でも新弟子になる夜がある|三世代の親睦会で考えた、気遣いという難しい仕事ありがたいことと、してほしいことは同じではない。そこが人付き合いの核心だと思う。50代にして、まだ若手であるフリーランスで仕事をしている。お世話になっている会社には、今も一緒に動く同僚がいる。その同僚と時々、親睦会と称して年に3回くらい都合がついたときに飲みに行く。そこへ以前一緒に働いていた元同僚も加わることが多い。元同僚の方は、もう70代だ。心臓の手術も何度か経験している。とはいえ、元気である。週に四回近くウォーキングを続けていて、私などよりよほど規則正しく身体を動かしている。私が50代。今の同僚が60代。元同僚が70代。見事に一世代ずつ違う。この三人が揃うと、50代の私が当然のように一番下になる。普段の生活では、もう若手として扱われることなどほとんどない。なのにこの三人になると、話は別だ。店を考え、予約を入れ、時間を確認し、当日も目を配る。親睦会における新弟子みたいなものである。まあ、それはそれで悪くない。三人とも気を使う。ただし、使い方が違う面白いことに、この三人ともかなり気を使うタイプだ。ただし、使い方がそれぞれ違う。70代の元同僚は、さりげなく気を使う。相手に気づかせないというか、その場を見ながら臨機応変に動ける人だ。年齢を重ねた人の、乾いた自然さのようなものがある。60代の同僚も、かなり気を使う。人への配慮もするし、面倒見もいい。ただ、ときどきそれが少しだけ行き過ぎる。前回の親睦会で、そんな場面があった。帰り道のことだ。元同僚の家は駅からそれほど遠くない。だが60代の同僚は、家まで送ろうとする。以前にも何度かあった。心臓のこともあるし、もう70代でもある。ちゃんと家まで送り届けた方が安心だ。たぶん、そういう気持ちなのだと思う。悪気など一つもない。むしろ完全に善意だ。ところが横で見ていた私は、ああ、これはもういいなと思った。元同僚の方が、明らかにそこまでしてほしくなさそうだったからだ。ありがたいことと、してほしいことは同じではないそりゃそうだと思う。毎回毎回、家の近くまで送られたら、それはそれで気を使う。一人で帰れるし、自分のペースもある。心配してくれるのはありがたい。だが、ありがたいことと、してほしいことは同じではない。そこが人付き合いの核心だと、あの帰り道で改めて思った。善意というのは、時に相手へ重さとして届く。こちらに悪気がないぶん、余計に扱いに困る。断れば相手を傷つける気がする。受け入れれば、また次も続く。その板挟みの気持ちは、70代の元同僚にも確かにあったはずだ。間に立つ者が、一番疲れる私も、その場の空気は割と見る方だと思う。相手の表情や返事の仕方から、ここはもう引いた方がいいなというのは比較的早く感じる。ただ、私にはまた別の面倒くささがある。三人の中では一番下だ。仕事上の立場もある。だから60代の同僚が「送っていこう」と言えば、真正面から「いや、それはやめましょう」とも言いづらい。元同僚の気持ちもわかる。60代の同僚の心配する気持ちもわかる。両方わかってしまう。そして間にいる。こういう調整が、実は一番疲れる。善意と善意がぶつかる場所の、ちょうど真ん中に立たされる感じだ。どちらも間違っていない。どちらも悪くない。だからこそ、難しい。気遣いは、相手を見てから始まる人への気遣いというのは難しい。自分がこうした方がいいと思ったからといって、それがそのまま相手にとってありがたいとは限らない。良かれと思ってやっている。だから余計に難しいのだ。私自身だって、知らないところで同じことをしているかもしれない。気を使っているつもりで、相手にさらに気を使わせている。そんなことはいくらでもあるのだろう。結局、人付き合いというのは相手をどれだけ見ているかだと思う。年齢や立場だけではなく、その人がどういう人なのか。今その人がどういう顔をしているのか。そこまで見て、ようやく「気遣い」になる。見ていない善意は、ただの圧力になることがある。FAX修理の現場でも似たようなことがあった。早く直そうとする気持ちが先走ると、かえって原因を見落とす。焦りが、丁寧さを追い出す。気遣いも、たぶん同じだ。相手を見る前に動くと、善意が空回りする。来月末、また三人で集まる来月末、またこの三人で親睦会を開く予定になっている。さて、今度はどうなるのか。70代の元同僚が、あの帰り道の件をどう思っていたのか、さすがにこちらからは聞けない。60代の同僚は、また同じように心配するだろうと思う。そして私はまた、その間に立つのだろう。とりあえず50代の新弟子である私は、また店選びのあたりから気を回すことになりそうだ。三人とも善意の人間が集まっているのに、どこかで誰かが少し気を使いすぎる。人付き合いとはそういうものなのかもしれない。そしてそれは、何歳になっても変わらないのだろうと、夜の帰り道で少し思った。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.21
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私のnoteは人生劇場なのだ|50代自分のnoteについて考えてみた。noteを書いて7年目に突入している。試行錯誤しそのときにあわせて変化してきた。ここ2年で私のスタイルは固まりつつある。私の人生とリンクしながら変わっていると感じる。何を書いているのかと聞かれれば、介護のことがあり、50代になった自分の身体や仕事、家族、昔の記憶もある。物忘れやくだらない失敗を書いた翌日に、父や母のことでかなり重い話をしていることもある。一言で説明しようとすると、どうにも散らかっている。以前はそれぞれを別のテーマとして見ていたところもあった。だが、これだけ書いてきて、今は少し違って見えている。結論から言おう。私のnoteは、中年男の今をリアルタイムで見せている人生劇場なのだ。自分で人生劇場などと言うと、ずいぶん大げさである。ドラマのような事件が毎日起きるわけでもないし、主人公が難題を鮮やかに解決するわけでもない。むしろ解決できずに持ち越していることの方が多い。だが、それも含めて私の今である。私はここで何かを教えているわけではない私には私なりに身につけてきたものがある。FAXのカスタマーエンジニアとして17年間働いてきたし、それ以外の仕事もしてきた。その後に身に着けてきたスキルもある。長く現場にいれば、嫌でも覚えることはある。ただ、このnoteでそれを並べて「こうすればできます」と教えたいわけではない。FAXを直していた頃の話を書くことはあるし、あの17年間で染みついた物の見方が、今の文章に出ることもある。でも、このnoteで一番出しているのは知識でも技術でもない。もっと始末の悪いものだ。今の自分そのものである。介護で腹を立てれば、その日の私は腹を立てている。身体がしんどければ、元気なふりをせずに書く。しょうもない失敗をすれば笑うし、笑えない日はそのまま終わる。うまくいった話だけ選んでいたら、とっくに書くことがなくなっていただろう。完成した私なんて、ここにはいない以前、「noteを書くということ」という記事で、自分という物語を、書きながら生き直すと書いた。あの頃は、書くことによって過去の自分を消すのではなく、その上へ今日の自分を重ねていくような感覚が強かった。今もそこは変わっていない。ただ、積み重なった記事をずっと眺めていると、もう少し単純なことだったようにも思えてきた。私は毎日、自分の途中経過を公開していたのである。親の介護が始まり、それまでとは生活が変わった。自分も50代になり、身体のあちこちから以前とは違う返事が来るようになった。仕事について考えることもある。娘のこと、妻とのこと、昔住んでいた街、若かった頃の記憶まで出てくる。昨日と今日で言っていることが少し違う場合だってある。それでいい。昨日より今日の方が立派な人間になっている保証など、どこにもない。私のnoteには完成した私がいない。いるのは、その日のことで腹を立てたり、考え込んだり、たまにうまくいって機嫌を良くしている50代の男だけだ。読者は記事の続きを読んでいるだけではない長く読みに来てくれている人のことを考えると、ここも以前とは少し見方が変わった。一本の記事だけで私を知った人と、何か月、何年と読んでくれている人では、同じ文章でも見え方が違うはずだ。前に父のことでこんなことがあった。その後どうなったのか。この前は身体の調子が悪いと言っていた。今日は介護の記事ではなく、買い物で何かやらかしている。また昔の話を始めた。そして次の日には、また別のことを書いている。そう考えると、読者が追っているのは記事だけではないのだろう。私という人間の続きである。これは自分では、しばらく分かっていなかった。毎回ものすごい記事を書かなければと思ったこともある。もっと役に立つものを書かなければ、と考えたこともある。もちろん読まれる以上、独りよがりにはなりたくない。それでも結局、私のnoteの一番の材料は私だった。格好いいところだけではない。失敗するところも、迷っているところも、親に腹を立てて後で嫌な気分になっているところも入る。随分と安上がりなコンテンツである。本人一人で全部そろっている。もっとも、その本人を毎日使うので、なかなか疲れる。台本がないから私にも先が分からない人生劇場と言っても、筋書きはない。ここが普通の物語とは違う。私自身、明日何を書くことになるのか知らない。朝起きたら父のことで何かあるかもしれないし、母の状態で予定が変わるかもしれない。自分の身体のことで病院へ行く日もあるだろう。何事もなければ、スーパーへ行って買うものを忘れた程度の話になる可能性もある。それで翌日になれば、また違う一日が始まる。先の展開を作者本人が知らない。考えてみれば妙な連載である。しかも主人公は五十代。若者の成長物語なら、この先に何者かになるという分かりやすい方向もあるだろう。こちらは少し事情が違う。何者かになることより、これから何が削られ、何が残り、何をまだやろうとするのか。そちらの方が現実に近い。親は老いていく。私も老いていく。その中で仕事をして、家族と暮らし、書いている。かっこよくはない。英雄でもない。何度も同じことで腹を立てるし、転びそうになったら普通に慌てる。立ち上がったあとで「最初から大丈夫でした」という顔くらいはするかもしれない。その程度の中年男である。過去の記事は、そのときの私を知っている長く書いてきたことで、もう一つ面白いことが起きている。昔の記事を読むと、今の私ならこうは書かないと思うものがある。言葉に力が入りすぎている記事もあるし、随分と格好をつけている自分もいる。何とか答えを出そうとして、話をきれいに終わらせていることもある。それも消そうとは思わない。その時は本当にそう考えていたのだから。以前の記事で私は、文章は自分を塗り替えるものではなく、重なっていくものだというようなことを書いた。今なら、その話をもっと生活臭く言える。過去の記事には、その日にいた私が残っている。今の私が「あれはちょっと力が入っていたな」と思ったところで、当時の本人は大真面目だったのである。それが何百日分も残っている。なるほど。これは確かに人生劇場だ。読者との間にあるもの以前の記事では、読者との関係を「見えない契約」と書いた。今読むと、なかなか力の入った表現である。現在の私は、もう少し簡単に考えている。読みたい日に読みに来てもらえればいい。全部の記事を読む必要もないし、毎回共感してもらおうとも思わない。「今日はこいつ何を書いているんだろう」そのくらいでも、私は嬉しい。長く読んでもらううちに、書き手と読み手というだけでは説明しにくい関係になっている人もいる。私の人生に参加してもらおう、などと大層なことを言うつもりはない。ただ、客席のどこかにいつもの顔がある。そんな感覚は、確かにある。これからの私も見ていてほしいこの先、私がどうなるのかは私にも分からない。介護がどう変わるのか。仕事をどうするのか。身体はどこまで付き合ってくれるのか。noteを何日まで続けるのか。今ここで答えを作っても仕方がない。私はこのnoteで、成功した自分を見せたいわけではない。何かを成し遂げた後になって「実はこんな苦労がありました」と振り返るのとも違う。苦労している最中に書いている。失敗した当日に失敗したと書き、まだ答えが出ていないなら、出ていないまま出す。それが私のnoteなのだろう。中年男が一人、泥臭くその日をやっている。たまにはうまくいく。かなりくだらないことでも笑う。どうにもならないものを抱えたまま、それでも次の日になればまた起きる。立派な人生を見せるつもりはない。そんなものは、私には無理だ。だが、自分の人生から途中で降りるつもりも、今のところない。だから、これからの私も見ていてほしい。明日の台本は、まだ私のところにも届いていない。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.20
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笑いの臨界点 #42 階段の途中で景色を見たふり夕方。駅の階段を上っていた。エスカレーターは少し混んでいたので、まあ階段でいいかと思った。こういう「まあ」が、最近あまり信用できない。最初の十段くらいは普通だった。足も動く。息も乱れない。まだいける。そう思ったあたりで、急に来る。太ももに、じわっと重さが出る。息が少しだけ遅れる。心臓が、今さら気づいたように働き始める。あ、これは最後まで一気にはいけないやつだ。途中の踊り場で止まった。止まったのだが、止まった感じを出したくない。なので、横を見た。駅前の景色を見るふりをした。別に見たい景色ではない。バス停と、信号と、コンビニの看板が見えるだけだ。でも私は、いかにも「ちょっと外を見ています」という顔をした。息を整えているのではない。街を見ているのだ。誰に向けた言い訳なのかはわからない。若い人が横を抜けていく。軽い。足音が軽い。こちらは踊り場で、街の観察者になっている。少し悔しい。でも、まあ仕方ない。50代の体は、突然、会議を始める。膝、腰、息、心臓。それぞれが勝手に発言する。「このペースはどうなんですか」「事前に聞いてません」「階段は共有事項でしたか」うるさい。上るだけだ。けれど、上るだけのことが、昔より少しだけ大きい。私はもう一度、景色を見た。信号が赤から青に変わった。人が動き出す。バスがゆっくり発車する。その流れを見ていたら、自分だけ止まっている感じが少し薄まった。止まっているんじゃない。待っている。何を。自分を。そんなことを思って、少し笑った。階段の途中で自分待ち。なかなか地味な待ち合わせだ。息が落ち着いたので、また上り始めた。今度は少しゆっくり。無理に若いふりをしない。でも年寄りのふりもしない。ちょうどいい速度を探す。これが意外と難しい。上に着いた時、少しだけ息が上がっていた。でも倒れてはいない。誰にも迷惑はかけていない。階段もちゃんと上りきった。それだけで、今日の中ではまあまあの成果だった。昔なら、気にも留めなかった踊り場。今は、そこに少し助けられる。途中で止まる場所があるというのは、案外ありがたい。人生みたいに言うと大げさだけど。でも、階段くらいなら言ってもいいか。私は改札へ向かいながら、もう一度だけ後ろを見た。さっきの踊り場が見えた。何でもない場所だった。でも、今日の私はそこで一回、生き延びた。大げさだなと思いながら、少し笑った。✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。また読みに来ていただけたら嬉しいです✨
2026.08.19
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ロスジェネ脱線学 #45 買い物メモだけ完璧な午後午後、ドラッグストアから帰ってきて、ポケットから紙が出てきた。買い物メモだった。そこには、きちんと三つ書いてある。歯みがき粉。牛乳。単三電池。字も読める。自分で書いたわりには、なかなか丁寧だ。問題は、そのうち二つしか買っていないことだった。歯みがき粉は買った。牛乳も買った。単三電池だけが、店のどこかに置いてこられたままである。いや、置いてきたわけではない。そもそも手に取っていない。メモを書いた時点で、私はもう少しちゃんとした人間になった気でいた。これで忘れない。今回は大丈夫だ。ところが店に入ると、特売の洗剤やら、見たことのない栄養ドリンクやらが視界に入る。ついでにトイレットペーパーの値段も確認する。確認しただけで、少し疲れる。その間に、単三電池は頭の中から退勤していた。五十代になると、記憶そのものより、記憶を使う段取りが怪しくなる。メモは書く。ポケットにも入れる。そこまではいい。ただ、店で見るのを忘れる。昭和の頃は、おつかいもわりと暗記だった。平成は手帳やメモ帳。令和ではスマホに入れればいい。便利になった。だが、見るかどうかは本人次第である。私はテーブルの上に、買ってきたものを並べた。歯みがき粉。牛乳。なぜか予定になかった袋ラーメン。単三電池の場所だけ、きれいに空いている。腹は立たない。少しだけ、ああまたか、と思う。でもまあ、メモを書いたことは悪くない。忘れたことに気づけたのも、たぶん悪くない。次は、店に入ったらまずメモを見る。そう心に決めた。その決心も、できればメモしておきたい。✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。また読みに来ていただけたら嬉しいです✨#50代#記憶#メモ#ロスジェネ氷河期第一世代#ロスジェネ氷河期的視点#買い忘れ
2026.08.18
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洗濯の前にズボンのポケットへ手を入れた指先に冷たいものが触れる小銭だったいつ入れたのか思い出せない百円玉と十円玉が一枚ずつ手のひらに乗せるとそれだけで少しだけ重いたいした金額ではないけれどそこには確かにどこかで使われなかった時間が残っていた買おうとしてやめたもの渡そうとして渡さなかったもの何も考えずに受け取ったお釣りそのどれかがこの小さな円の中に沈んでいる昔は小銭入れの重さで一日の残りを考えた自販機の前で足りるかどうか指で数えた駅の売店で迷いながら缶コーヒーを買ったそんなことをふいに思い出す今では音もなく支払える財布を開かなくても物は買える便利になったぶん手のひらに残る感覚は少しずつ減っていった小銭を机の上に置く乾いた音がひとつ鳴るそれだけで部屋の空気がわずかに変わったまだここにあるそんな声が聞こえた気がした50代になってから失くしたものを数えることが増えた体力時間名前の出てこない記憶会わなくなった人戻らなかった言葉けれど残っているものもたぶんあるこうしてポケットの底で黙って待っていたもの忘れられても捨てられずにいたもの小さすぎて見過ごしていたものそれらは何かを語るわけではないただ手のひらの上で少し冷たいその冷たさが今の自分にちょうどよかった何も大きく変わらなくていい何かを取り戻したと言えなくてもいいただ残っていたものに気づける日があるそれだけで少し息がしやすくなる私は小銭を財布へ戻さず机の端にそのまま置いた使うためではなく忘れないためでもなく今日という時間に小さな重さを残しておくために窓のない部屋で百円玉がかすかに光る一瞬は音もなく消えるものではなくこんなふうにポケットの底からふいに戻ってくることがある私は洗濯機のふたを閉めた水の回る音がゆっくり始まるその音の中で小さな金属だけがまだ私の一日を覚えていた✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます。少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります✨
2026.08.17
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未完成のまま、今日も手を入れていく|50代未完成のまま、今日も手を入れていく人生とはなんなのだろうか。そんなことを、ふと思う時がある。若い頃は、人生にはどこか完成形のようなものがあると思っていた。仕事を覚え、家庭を持ち、年齢を重ねれば、人としても自然に整っていく。そんなふうに、どこかで勝手に思っていた。だが実際は違った。50代になっても、人間はたいして完成などしていない。むしろ年齢を重ねたぶんだけ、自分の欠けている部分や、歪んでいる部分や、直したつもりで直っていなかった癖が、前よりはっきり見えてくる。人は完成品ではない人は皆、不完全であり、未完成だ。これはきれいごとではない。不完全だから失敗する。未完成だから間違える。欠けているから、人を傷つけることもある。自分でも情けなくなる日がある。若い頃なら勢いでごまかせたものが、50代になるとごまかせなくなる。体もそうだ。心もそう。人間関係も。親の老いを見ていると、自分もまた確実に老いていく側の人間なのだと知らされる。人生は、完成へ向かう直線ではないのだと思う。むしろ、壊れかけたところを見つけながら、何度も手を入れていく作業に近い。異音を聞き逃さない私は、FAX修理のCEをしていた。機械は正直だった。異音が出る。紙詰まりを起こす。ローラーが摩耗し劣化をする。センサーが汚れ、検知しなくなる。小さな違和感を放っておくと、あとで大きく止まる。人間も、案外それに似ている。怒りっぽくなる。疲れが抜けない。言葉が荒くなる。人の話を聞けなくなる。そして、妙に昔ばかり振り返る。それもひとつの異音なのだと思う。問題は、その異音を年齢のせいだけにして放っておくことだ。成長とは、立派になることではない成長とは、立派な人間になることではないのかもしれない。少なくとも私は、もう今さら、立派な人間ですなどとは言えない。ロスジェネ氷河期第一世代として、入口の狭い時代をくぐってきた。現場で汗をかき、工具かばんを持ち、仕事にしがみついてきた。今は介護と仕事と生活のあいだで、毎日を回している。そこで思うのは、成長とは高みに登ることではなく、自分の未熟さから逃げないことなのだということだ。昔より人の痛みがわかる。自分の弱さを認められる。言わなくていい一言を飲み込める。その程度かもしれない。だが、その程度の積み重ねで、人は少しずつ変わっていく。まだ手を入れられる余地死ぬまで成長しなければならない。そう言うと、ずいぶん厳しく聞こえる。だが私は、それを罰のようには考えたくない。死ぬまで成長できるということは、死ぬまで完全には決めつけられないということでもある。人は変われない、と言い切るには早い。年を取ったからもう遅い、と片づけるには、まだ少しだけ余地がある。不完全であるということは、まだ手を入れられる余地があるということでもある。未完成であるということは、まだ変わる場所が残っているということでもある。未完成だから、まだ終わっていない人生とは、完成品になることではない。欠けたまま、歪んだまま、時々異音を出しながら、それでも自分というものを見捨てずに手を入れ続けることなのだと思う。今日もまた、どこかがうまくいかない。それでもいい。うまくいかない場所が見えたなら、そこが今日の点検箇所だ。人間は完成しない。だからこそ、まだ終わっていない。疲れたなど・・いや疲れなど感じている暇などない。爆発した後の後始末父親のせん妄なような状態。やはり演技だった。機嫌を戻すのに普段の何倍も時間と労力がかかった。まだ完全に戻ったわけではない。だが、これもまた不完全だから怒ってしまったのだ。また修正して、同じことを繰り返さないようにするしかない。折れかけた心もまだ折れたわけではない。改めて、やってやろうじゃないの!という気持ちが出てきた。まだやれる。人生に後退はない、前進あるのみ!さあ、今日も果てなき道を歩いていこう!!✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.16
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ついに爆発した|介護3年目、心が折れかけた日【50代】今日も介護は終わらない我慢にも限界はあるずっと我慢してきた。我慢して、我慢して、ときどきガス抜きをする。それで何とか三年間やってきた。何度か「もう無理だ」と思うところまで行ったこともある。それでも、そのたびに何とか戻ってきた。けれど今回は、いろいろなことが畳みかけるように続いた。前日には妻とあれやこれやと言い合いになった。それだけでも気持ちは削られていた。そして、とどめが認知症の母の罵倒だった。さらには父親の不機嫌かつ自己中心的な横暴な態度。さすがに心が折れかけた。血圧まで一気に上がっているような感覚がする。「これ、本当に切れるんじゃないか」そんなことまで頭をよぎった。もう細かいことを書く気力すらなくなってくる。もう3年なのか、まだ3年なのか介護を始めて三年。「三年も頑張ってきた」そう思う自分がいる。一方で、「まだ、たった三年か」と思う自分もいる。介護というものは、終わりの日が見えない。あと半年なのか。一年なのか。五年なのか。誰にも分からない。だから余計に疲れる。ゴールまでの距離が分かっていれば、まだ力の配分もできる。しかし介護には、その距離表示がない。今日を終えたら、また明日がやってくる。そんな日々を三年間重ねてきた。長生きしたいと思えなくなる瞬間こういう状態が続くと、ふと思ってしまう。人は長生きすると、みんなこうなってしまうのだろうか。もちろん、そんなことはない。高齢者がみんな同じではないことくらい、私も分かっている。それでも、目の前の現実に疲れ切っていると、自分は長生きしたくないなそんな気分になることがある。長生きすることが悪いのではない。ただ、自分で自分のことができなくなり、周囲の人間を巻き込みながら生きていく未来を想像すると、怖くなる。介護する側にいるからこそ、見えてしまうものもある。認知症だけの問題ではない訪問看護の人が来た日も、母は不機嫌全開だった。その日は、いつもの看護師さんだけではなく、新人の研修の方も一緒だった。それなのに、相変わらずの態度。見ているこちらのほうが申し訳なくなった。なんでこんな態度を取るんだそう思う。認知症だから仕方がない。そう言えば、それまでなのかもしれない。認知症によって感情のコントロールが難しくなっている部分もあるだろう。ただ、長年家族として一緒にいた私は知っている。もともと気難しいところもあった。自己中心的なところもあった。認知症になって突然、別人になったわけではない。元からあった性格が、より強く出ているように感じることもある。もちろん、これは母だけの話だ。高齢者だからこうなる、と言いたいわけではない。何のためにここまでやっているのか腹が立っていると、普段なら押し込めている疑問まで出てくる。何で私は、こんなに家族を犠牲にしてまで介護しているのだろう。自分の時間を削り、妻との時間も削り、身体も削り、気持ちまで削っている。そこまでして、なぜやっているのか。正直、分からなくなる日がある。親だから。家族だから。それだけでは説明できないところまで来る日がある。介護をしているからといって、いつも優しい気持ちでいられるわけではない。感謝されたいわけでもない。それでも罵倒され続ければ腹は立つ。嫌になる。軽蔑するような感情だって出てくる。そんな感情を持った自分を、今さら立派に見せようとも思わない。これも介護の中にある感情なのだと思う。それでも、一線だけは越えない今回、私は爆発した。とはいえ、一線は越えない。怒鳴り返したくなることもある。全部放り出したくなることもある。それでも、越えてはいけない線は分かっている。ここまで三年間、何度もギリギリまで行っては戻ってきた。今回も、たぶんそうする。ただ以前と少し違うのは、「最後まで自分一人でやり遂げなければならない」とは思わなくなってきたことだ。訪問看護もある。ケアマネもいる。使える支援があるなら使えばいい。自分が倒れてしまえば、結局もっと多くの人に負担がかかる。元CEだった頃、壊れかけた機械を根性で動かし続けるようなことはしなかった。異音がすれば止める。負荷が高ければ調整する。必要なら部品を替える。人間だって、本当は同じなのかもしれない。そして、その夜昨日の夜、夜ご飯で呼びに行く。そうすると突然、帰るという帰ってからご飯を食べるとどこへと聞くと介護になる直前まで住んでた家にもう処分してすでにない当然知っているよく麻酔から覚めた直後に起こるせん妄のようだだが、話を進めていくと死にたいもう田舎に帰りたいというどうもおかしいで、私は思った。多分芝居ではないかと医者に連絡をしようとすると急にはっきりと医者に電話をするなという?!なぜここだけはっきりしゃべる?さらに確信が深まるだがあえて口には出さずにとりあえず夕食へといざなうごはんを食べ、もう少し話すだんだんとはっきりしゃべるようになるやはり、めったに爆発することのない私への抵抗、当てつけなのか。とりあえずそのまま寝るまでそばではなしをした。結局、よくわからないまま、寝た。それでもいつも見るテレビのチャンネルは変えていたり今日、母に買いに行かせたロトのチェックはしていたりところどころ、これ?本当か?と思う馬車が多数あったが。あえて口にはしないそして、爆発した方があとあと大変な状況を家族善人に与えてしまうと改めて実感した。今日も介護は終わらない介護を三年続けたからといって、人間が強くなるわけではない。むしろ積み重なった疲れで、弱くなる日もある。優しくできない日もある。親を嫌になる日もある。「何で私が」と思う日もある。それでも今日まで来た。だからといって、明日も気合で乗り切る必要はない。爆発したなら、爆発した自分まで責め続けなくてもいい。少し距離を取る。誰かに任せる。今日は最低限だけにする。それも介護を続けるための方法なのだと思う。最後までやる。その気持ちは今もある。ただし、自分まで壊してやり遂げるつもりはない。三年間続けてきたからこそ、これからはそこも含めて保守していこうと思う。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、✨✨スキやフォローで応援していただけると励みになります✨✨
2026.08.15
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介護中の父、3か月ぶりの外出は大学病院だった|お盆の訪問診療から急きょ受診へ【50代介護】昨日は朝から父の訪問診療だった。定期的に来てもらっているものなので、いつもなら診てもらって薬の確認をして終わる。ただ、お盆期間中だったこともあり、この日はいつもの先生ではなかった。そこで父の不機嫌モードが発動する。最近は、わがままも前より強くなっている。自分が考えている通りに話が進まないと、どうも気に入らないらしい。いや、最近だけでもないか。昔からそういうところはあった。母も認知症が進んでいるが、今になって二人のことを思い返すと、もともと結構自己中心的なところはあったなと思う。病気になって突然そうなったわけではない。もともとあった性格が、病気や年齢で前より強く表に出てきたという感じが近い。介護する側としては、これがなかなかしんどい。「病気だから仕方がない」で全部飲み込めるほど、こちらも出来た人間ではない。腹が立つ日は腹が立つ。まあ、この話を始めると長くなるので、このへんにしておく。朝から、いつもと少し違った機嫌の話とは別に、この日の父は朝から調子が良くなかった。ここ数日、おなかの右側が変だと言っている。本人は「痛いというほどじゃない」と言う。痛みというより、何となく気持ちが悪い感じらしい。吐き気もある。ただ、吐き気止めは普段から朝晩飲んでいるので、これだけでは何とも言えない。診察した先生から、「お盆休みでもありますし、このあと週末にも入るので、一度調べてもらったほうがいいと思います」という話が出た。行き先は、結局いつもの大学病院になった。父は当然、行きたくない。顔を見れば分かる。ただ、こういう時でも「行かない」とはっきり言わない。先生から、「どうしますか。あとはご本人とご家族で」と言われた。ボールはこちらに来た。割とこちらにがんがん攻め入ってくる先生。正論ではあるが、どこか私が来た時に何買っては困るオーラを感じたのも確か。これが困る。「行く」「行かない」を言わない父正直なところ、私の中にも「今すぐ大学病院へ行くほどなのか」という気持ちはあった。血圧は普段より高めだった。とはいえ、私よりはるかに低い。ここ二、三日、高めの傾向が続いているということで、血圧については内科で診てもらうことになった。おなかの右側の症状と吐き気については消化器内科。調べて原因が分かるなら、そのほうがいい。そこは分かっている。ただ、父には前立腺がんのこともある。今の身体がどうなっているのか。調べれば何か分かるかもしれない。父自身、それを知るのが怖いところもあるのだと思う。そもそも、もう治療ができないのだから。ただ転移の状態を知るのみということになりかねない。病院そのものが嫌いなのもある。たぶん、いろいろ混ざっている。こちらも同じである。行ったほうがいいと思う自分と、そこまでしなくてもと思う自分がいる。結局、行くことになった。病院というのは、こういう時に「行かない」という判断をするほうが難しい。三か月ぶりに家を出る妻は仕事でいなかったので、母と娘にも来てもらった。本当は留守番してもらうのが良いのだが、雨も結構降ったりもしていたのでやはりフォローが必要な場面もある。そこから急いで支度をする。父にとっては、三か月ぶりの外出だった。とにかく運動が嫌いで、出歩くことも好きではない。私が最初に心配したのは、おなかでも血圧でもなく、家の入口にある階段だった。ちゃんと上り下りできるだろうか。三か月ほとんど外へ出ていない。足腰も以前とは違う。ここで動けなければ、大学病院以前の話になる。見ているこちらは結構緊張したが、何とか下りることができた。帰ってきてから上ることもできた。そこは正直、ほっとした。病院へ行く前に玄関の階段でこれだけ心配するようになるとは、昔は考えもしなかった。大学病院は意外と早かった急いで大学病院へ車を走らせる。お盆期間中だし、かなり待つだろうと覚悟していた。ところが意外とスムーズだった。まず内科。こちらはあっという間に終わった。血圧については、今のところ様子見でよいとのこと。続いて消化器内科へ。こちらもそれほど待たずに呼ばれた。胃の症状から来ている可能性もあるということで、とりあえず薬を出してもらった。そして胃カメラの話になった。前回やってから四年くらい経っているらしい。「一応やっておきましょう」ということで、月末にもう一度大学病院へ来ることになった。また病院の予定が増えた。久しぶりの外出先三か月ぶりに父が家を出た。「久しぶりの外出」と書くと、もう少し違うものを想像する。散歩でもない。買い物でもない。まして旅行でもない。大学病院である。本人はまったくうれしくない。連れて行くこちらも、別にうれしくはない。診察が終わって、結果として大きな問題を言われなかったのはよかった。ただ、これで終わりではなく、月末には胃カメラが待っている。訪問医療へかなり切り替えて、大学病院へ行く回数も減ると思っていた。三か月前には、これで大学病院への通院もずいぶん減るのかなと思っていた。そう簡単にはいかなかった。一つ症状が出れば病院へ行き、診てもらえば次の検査が入る。介護の予定は、こちらの都合のいい日に入ってくるわけではない。仕事があって、母のことがあって、家のことがあって、その間に病院の予約が一本増える。月末、また同じ道を走る。今度は胃カメラだ。父がその朝どんな顔をしているか。そこだけは、今からだいたい想像がつく。かなり予定が詰まってきた。父 前立腺がん、骨に全身転移、以後は不明で3年大学病院訪問医療訪問介護母 認知症、髄膜種摘出からの後遺症など大学病院訪問医療訪問介護デイサー-ビス娘 発達障害 支援学校2年生卒業後の就労模索企業体験町医者通院妻 頭痛、腹痛、昨年は手術町医者通院義理母 クモ膜下出血から左半身麻痺車で20分くらいの場所義理の兄と住んでいるが時折フォローが必要月何回かは行くことになる。私 高血圧町医者通院今月末から来月は予定が混みすぎている。ここに、仕事もあるし、妻も体調不良になりがちなので、あてにはできない。なんとか、私が回すしかない。さっそく、私の通院とバッティングしたので即私の病院をキャンセル。あとはイレギュラーなことが起こらないことを、祈るのみ。せめて、父と母の不機嫌モードが少ないことくらいは期待したい。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.14
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「一緒に面白がってくれる人」と書かれたので、次の三人を思い浮かべた|LaLaLaさん企画「note版ペイ・フォワード」日曜の夕方、スマホを見ていたら自分の名前が出てきた。こういう時は、一瞬だけ身構える。元FAX修理CEの習性なのかもしれない。自分の名前が出ていると、まず「何かやらかしたか」と思う。長年、電話が鳴れば故障、名前を呼ばれれば呼び出し、という生活をしてきたせいだろう。ところが今回は故障ではなかった。あおいしぐれさん、私は普段「しぐれさん」と呼んでいるが、そのしぐれさんからバトンが飛んできた。あおいしぐれ(しぐれ姐)│ 📝 × 🎸 × 🤖|note恋するバイタルnoter🍀 note界のLizzo(笑) 官能という名の人生を書いて、 パンクという名の恋と日常を歌う。note.comしかも私について、「ノリがいい」「一緒に面白がってくれる力」と書いてある。50代の元FAX修理CEが、そんなふうに見られていたとは知らなかった。悪くない診断結果である。今回飛んできたのは、LaLaLaさんが始めた「note版ペイ・フォワード」という企画だ。誰かからもらった応援や嬉しさを、その人へ返すだけではなく、今度は別の三人へ渡していく。三人の記事を読み、コメントを贈り、自分の記事でも紹介する。そんなバトンらしい。恩返しではなく、恩送り。この言葉を見て、なるほどと思った。noteを書いていると、コメントをもらったり、記事を紹介してもらったり、マガジンに入れてもらったりする。毎日書いている本人は、どうしても目の前の記事しか見ていない。今日も一本。明日も一本。投稿ボタンを押したら、また次の日が来る。FAXの保守をしていた頃もそうだった。修理が終われば次の現場へ向かう。直った機械の前でいつまでも余韻に浸っている暇などない。でも、後から振り返ると、ちゃんと誰かが見ていたりする。しぐれさんが私をそんなふうに書いてくれたのも、その一つなのだろう。ならば私も、次へ渡してみる。今回、私が思い浮かべたのはこの三人だった。① さわこは食べたいさんさわこは食べたい|管理栄養士さわこは食べたい|管理栄養士|note⚠️Xでなりすましアカウント有 注意+通報お願いします 病態栄養専門管理栄養士/日本糖尿病療養指導士/心不全療養指導士/食note.com名前からしていい。「食べるべき」ではない。「食べたい」なのだ。病院で管理栄養士として働き、糖尿病療養や心不全療養など、かなり専門的なところを扱っている人なのだが、記事を読んでいると最後はちゃんと食卓へ戻ってくる。私が印象に残っているのは、「食べられる」ということを病院の現場から見ているところだ。さわこさん自身、お父さまを糖尿病で亡くした経験から管理栄養士を目指し、仕事をしながら学費を貯めて資格を取ったという。病院では、病気や治療によって一口食べることさえ難しくなる人とも向き合っている。介護をしていると、これはよく分かる。栄養成分の数字ももちろん大事なのだろう。でも、茶碗を置いて、「食べる?」と聞いて、「食べる」と返ってくる。その二文字にほっとする日がある。私の家では医学的な説明より先に、今日のご飯が減ったか残ったかを見る日も多い。専門職でありながら、その「食べる」という生活の側から書いているところが、私は好きだ。一本目のバトンは、さわこさんへ。② ゆるるんさんそして二人目。ゆるるんさん。20年にわたる介護と看取りを経験し、今は家族相談士として学びながら、介護や家族について発信している。ここは私にとって、やはり近い。介護の記事は世の中にたくさんある。制度の話もある。施設の話もある。親孝行の話もある。けれど実際に家の中で始まると、もっと細かくて、もっと面倒くさい。電話一本かかってこない。薬を飲んだか分からない。病院へ行く。帰ってくる。暑い日に外へ出ていないか気になる。そんなことで一日の何割かが削られていく。ゆるるんさんの最近の記事にも、90歳のお父さまへ電話したところ出ず、折り返してきた父親が猛暑の中で庭の芝生を手入れしていた、という話があった。分かるなあ、と思った。元気なのはありがたい。しかし元気なら元気で、別の心配が増える。介護というものは、故障した部品を交換すれば終わる仕事ではない。本人の気持ちもあるし、昨日できたことが今日はできなかったり、逆にこちらが心配している横で本人は平然としていたりする。長く介護を経験した人の文章には、その辺の説明書に載っていない部分が残る。エニアグラムの記事もおすすめです!だから二本目は、ゆるるんさんへ渡したい。③ のぞみんさんのぞみん|揺れる乙女、45歳仕事、家族、人生。そのあたりを、格好をつけすぎず書いている人だ。プロフィールにも「迷ったり転んだり、勘違いしながら」とある。実際の記事にも、家族の話から日常の引っかかりまで、人間が暮らしていれば避けて通れないものがよく出てくる。最近の記事では、102歳のお祖母さまの施設で開かれた演奏会を書いていた。何日も前から演奏会を楽しみにしていた102歳のお祖母さま。ところが本番になると、車いすの上で入れ歯を出したり、はめたりしている。そこを書くところがいい。人生は、こちらが用意した感動の段取り通りには進まない。家族というのは特にそうだ。泣くところで笑ったり、笑うところで腹が立ったりする。その混線した感じまで書いてあるから、人の暮らしとして読める。のぞみんさんは、自分だけが書いて終わるというより、他の人の記事を読んだり、人がつながる場も作っている。今回のペイ・フォワードには、案外こういう人が似合うのかもしれない。三本目、置いていきます。三人を書き終えてみると、妙な共通点があった。家族。食べること。老いること。働くこと。どれも、人が毎日暮らしていれば逃げ切れないものばかりだった。私はたぶん、そういう文章を読んでいるのだと思う。しぐれさんから「一緒に面白がってくれる人」と書いてもらった。自分では分からない。ただ、50代になって思うのは、面白がれるものが残っているのは案外ありがたい、ということだ。介護もある。仕事もある。身体のあちこちも、そろそろ保守契約の更新が怪しい。そんな毎日の途中で、誰かの記事を読んで笑ったり、「ああ、分かるな」と思ったりする。noteには、そういう夜がある。受け取ったものを全部返すことはできない。だったら一本ずつ、次へ回していけばいい。のぞみんさん。さわこさん。ゆるるんさん。バトン、ここに置いておきます。受け取るかどうかは、ご自由に。こういうものまで義務にしたら、せっかくの日曜夜が仕事になってしまうので。今回、私はこの3人へバトンをつなぎます。参加はもちろん自由です。もし「誰かに紹介したい人がいるな」と思われましたら、今度は別の3人へバトンを渡してみてください。元企画はLaLaLaさんの「note版ペイ・フォワード プロジェクト」です。受け取った応援を、自分のところで止めず次の誰かへ。そんな企画です。ほかにもたくさん紹介したい方はいましたが、また機会があれば。#ペイフォワードプロジェクト最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。今回紹介した三人の記事も、よろしければ覗いてみてください。私とは違う場所から、それぞれの暮らしを書いている方たちです。この記事に何か引っかかるところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると、次の記事を書く燃料になります。👇おすすめ介護という旅の途中で|50代、認知症の母と父を支える日々|EX-FAX-CE|ロスジェネ氷河期的視点|note日々の介護に追われる日常について話しています。 父は余命一年でほぼ寝たきりに近い生活 母は認知症 そのほか家族を交えたいろnote.com
2026.08.10
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私が住んだ街 港区三田、二の橋の近くで|50代首都高の横で生まれた私が生まれたのは、東京都港区三田。二の橋という橋のすぐ近くだった。住んでいたマンションの真横には、首都高速道路が走っていた。部屋は三階にあり、窓の向こうを車が絶えず流れていたのだと思う。一度、すぐ近くで首都高の事故があった。幼い頃のことなので、事故の様子までは覚えていない。ただ、大きな道路が家のすぐ横にあり、そこで何かが起きたという怖さだけは残っている。考えてみれば、完全に都会の真ん中だった。けれど子どもの私は、そこしか知らなかった。首都高も、大使館も、坂道も、特別なものではなく、家の近所にある景色だった。観光地になる前の麻布十番麻布十番までは、歩いて十分ほどだった。六本木も歩いて行ける距離だったが、当時の麻布十番は、今のように観光客で混み合う場所ではなかった。もっとのんびりしていて、下町のような空気も残っていた。商店街には、買い物へ来た近所の人が歩き、店の人と立ち話をしているような温かさがあった。今も当時から残っている店はある。それでも、町全体の匂いは、ずいぶん変わったように感じる。同じ通りを歩いても、店の並びだけではなく、歩いている人の速さや、町を見る目つきまで違う。こちらが年を取ったせいもあるのだろう。一の橋の交通公園一の橋には、当時、交通公園があった。道路のように作られたコースを、自転車で走ることができた。白線や標識があり、子どもながらに、自分が本物の運転手になったような気分で走っていた。小さい頃の記憶なので、細かいところまでは残っていない。ただ、幼なじみの女の子と、よくそこで遊んだことは覚えている。何を話していたのか、どちらが速かったのか、そんなことはもう出てこない。自転車をこいでいた姿だけが、古い写真の一枚のように残っている。そば屋と喫茶フジ永坂更科にも、よく親に連れていってもらった。当時も二軒あったと思うが、よく入っていたのは商店街の中にある店の方だった。私がそばを好きになったのは、この頃から何度も食べていたからかもしれない。子どもの頃に親と入った店の味は、料理そのものだけでなく、店の椅子や湯のみ、親が注文を待っている姿まで一緒に残る。以前の記事に書いた「喫茶フジ」も、よく行った店だった。ダンディーなご主人が営んでいた喫茶店で、子どもの私には少し大人びた場所に見えていた。そば屋と喫茶店。どちらも家族で入るいつもの店だったが、今では記憶の中の目印になっている。画像おもちゃ屋と網代公園商店街の近くには、おもちゃ屋もあった。子どもにとって、おもちゃ屋は店ではなく、別の世界への入口である。買ってもらえるかどうかは別として、箱を眺めているだけで時間が過ぎた。網代公園も遊び場だった。今ほど遊具が安全かどうかなど気にしていなかった時代で、転んだり、服を汚したりしながら遊んでいたのだと思う。この近くには、今はもうないが、私が生まれた「ふせじま病院」もあった。自分が生まれた病院の近くで、その後も遊び続けていたことになる。当時は、そんなつながりなど考えもしなかった。三の橋の合気道道場三の橋の方へ行くと、私が通っていた合気道の道場があった。今も残っているのかは分からない。道場の匂いや、畳の感触まで、はっきり覚えているわけではない。それでも、自分がそこへ通っていたという記憶は残っている。子どもの頃の町には、学校や公園だけではなく、病院、道場、そば屋、喫茶店、おもちゃ屋が点々と置かれていた。それぞれが、小さな生活圏の部品だった。東京タワーの近くの小学校三田に住んでいたのは、小学一年生までだった。通っていたのは赤羽小学校で、東京タワーがすぐ近くに見えた。都会の学校らしく、校庭は狭かった。たしか綱引きをした時も、校庭の中だけでは収まらず、外の方まで使っていたような記憶がある。家から学校までは、ほぼ一本道だった。道に迷う心配はなかったが、坂道だった。体の小さかった私には、毎朝の上り下りが少々きつかったのかもしれない。それでも当時は、それが普通だった。学校の近くに東京タワーがあることも、大使館の前を通ることも、坂の多い町で暮らすことも、特別なことだとは思っていなかった。家の部屋から、東京タワーが見えていて、当時見るのが好きだった。夜の八時になるとライトアップが点滅して消灯する。オイルショックの影響だったかと思うがその時間に消えていた。それを見てから眠るのが幼いころの私の楽しみだった。家の前に来た幼稚園バス幼稚園は、聖徳幼稚園だった。二の橋の家の前が、ちょうど幼稚園バスの停留場所になっていた。私はとにかく幼稚園へ行きたくなくて、毎朝のように抵抗し、泣いていた。何がそれほど嫌だったのか、今となってはさっぱり覚えていない。幼稚園の先生は好きだったし、着いてしまえば、何事もなかったように過ごしていたらしい。嫌だったのは、バスに乗ることではなかったのだろう。家を離れること。親と離れること。小さな私は、バスの扉が閉まることを、ずいぶん大きな別れのように感じていたのかもしれない。行ってしまえば平気なのに、家の前では毎朝泣く。親にしてみれば、相当面倒な園児だったと思う。いまも残る迷子事件この頃の記憶で、もっとも鮮烈に残っているのが、迷子になった事件である。小学校へ入る前後の頃に起きた出来事だった。この話は以前の記事に書いているので、ここでは詳しく触れない。それでも、港区三田で暮らしていた頃を思い出すと、あの迷子の時間は必ず一緒に出てくる。子どもの頃の町は、知っている場所だけでできていた。家、商店街、公園、幼稚園、学校。そこから少し外れただけで、町は急に知らない顔になる。東京の真ん中が、私の普通だった今振り返れば、ずいぶん都会の真ん中で育ったものだと思う。麻布十番まで歩いて行けて、六本木も近く、東京タワーのそばの学校へ通っていた。家の近くには大使館があり、真横には首都高が走っていた。だが、子どもに住所の値打ちは分からない。遊べる公園があるか。好きなおもちゃ屋があるか。親とそばを食べに行けるか。幼なじみがいるか。町というものは、そういう近い距離でできていた。今の麻布十番を歩けば、私が知っていた頃とは違う町に見えるだろう。それでも、二の橋の近くに立てば、三階の窓から首都高を見ていた子どもの自分が、どこかに残っているような気がする。町は変わる。住んでいた人間も変わる。それでも、なくなった店や病院、公園への道は、頭の中ではまだつながっている。私が最初に覚えた東京は、観光地でも高級住宅街でもなかった。泣きながら幼稚園バスに乗り、坂道を歩いて学校へ行き、公園で自転車をこいだ町だった。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、✨✨スキやフォローで応援していただけると励みになります✨✨画像
2026.08.09
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昔も暑かった、ではもう通用しない|50代が迎えた酷暑日子どもの頃の夏も、たしかに暑かった。扇風機の前を陣取り、麦茶を飲み、夕方になれば少しだけ風が変わった。だから私たちは、ときどき今の暑さまで昔の延長で考えてしまう。けれど、もう同じ夏ではない。こちらの身体も、同じではない。40℃が日常語になった気象庁は今年、最高気温40℃以上の日を「酷暑日」と名づけた。名前がついたことで、異常だったはずの温度が、生活の予定表へ入り込んできたように感じる。かつてはニュース映像の中にあった40℃が、いまは明日の予報として表示される。言葉が現実へ追いついたのかもしれない。昔の経験が安全を保証しない昔は冷房なしで眠れた。夏休みは外を走り回った。そうした記憶は本物だろう。ただし、その記憶を今の安全基準に使うのは危うい。夜になっても気温が下がらず、建物に熱が残る。朝から身体が重い。寝不足が翌日に持ち越される。50代の身体は、若い頃のように無理を帳消しにはしてくれない。我慢が美徳だった世代私たちの世代には、多少の暑さや疲れを黙ってやり過ごす癖がある。仕事でも家庭でも、迷惑をかけないことを優先してきた。だが酷暑の前では、その癖が危険になる。「まだ大丈夫」は、限界を測る言葉ではない。身体が出している小さな信号を無視するための言い訳になることがある。生活を小さく組み替える若い頃と同じように動けないことを、敗北のように考えなくていい。外出の時間を変えるたり予定を減らしたり。ほかにも昼寝をしたり、冷房を使う。食事を軽くする。それは衰えに負けたのではなく、今の自分に合わせて生活を調整したということだ。修理の現場でも、機械の状態が変われば設定を変える。人間だけが、昔の設定のままで動き続けられるはずはない。昔の夏も暑かった、と言う人はいる。たしかに、子どもの頃にも汗だくになった記憶はある。けれど、いまの暑さを昔話の延長で考えるのは少し危うい。気温だけではなく、夜になっても熱が抜けない。家の壁も床も、昼間の熱を抱えたままになる。こちらの身体も若い頃と同じではない。過去の経験が、そのまま安全の基準にはならなくなった。介護をしていると、危険は大きな音を立ててやって来るとは限らないと知る。水分を取る回数が少し減る。返事がいつもより遅い。食欲が落ちる。部屋の温度が上がっている。どれも単独なら見逃してしまいそうな変化だ。だからこそ、派手な対策より、いつもの顔を見て、いつもの声を聞くことが大事になる。暑さへの備えは、立派な計画でなくてもいい。朝のうちに飲み物を用意する。昼前に一度、室温を見る。外出を一時間ずらす。食べられるものを少しでも口にする。眠れなかった翌日は予定を減らす。生活を守るのは、こういう地味な調整の積み重ねなのだと思う。今日の身体で生きる昔の自分を基準にすると、できないことばかりが増えて見える。けれど必要なのは、昔の夏を再現することではない。今日の気温と、今日の身体を見ながら、無事に夜までたどり着くことだ。50代の夏は、根性より調整で越えていく。明日のために何か大きなことをするより、今日の室温を見て、今日の顔色を確かめる。その積み重ねが、家族の暮らしを守っていく。今日からお盆休みの方も多いかと思う。🧨休みの間も熱中症に気をつけましょう👍✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます。少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります✨
2026.08.08
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ダブル介護の心得|崩れないのではなく、崩れても戻る技術【50代】ダブル介護に、立派な心得などあるのだろうか。正直、ない。少なくとも私の手元には、金色の文字で書かれた介護の奥義書などない。あるのは、父の尿パック。母のデイサービスの予定。血圧計。薬。食べ残しの皿。そして、朝からすでに少し疲れている自分である。父は末期がんで、ほぼ寝たきりに近い。母は認知症で、さっきの納得が今日には消える。この二人を同時に見ていると、介護とは愛情だけで回るものではないと痛感する。もちろん愛情は必要だ。だが愛情だけでは、尿パックは処理できない。怒鳴り声は止まらない。デイサービスの迎え時間にも間に合わない。介護とは、情と段取りの綱引きである。その綱を、毎日こちらは素手で握っている。手のひらはとっくに擦り切れている。それでも離せない。離せば、家の中のどこかがすぐに傾くからだ。説得しない。着地させる。認知症の母に対して、昔の私はつい説明しようとしていた。今日はこうだから。前にも言ったから。これは必要だから。こうしたほうがいいから。だが、ある時から気づいた。説明は、時に火種になる。こちらが正しく説明しているつもりでも、母の中では別の物語が始まっている。論点は霧のように散り、感情だけが残る。気づけば会話は、勝ち負けの土俵に上がっている。だから私は、なるべく説得しない。説得ではなく、着地である。相手を論破するのではない。今日という一日を、なるべく無事に地面へ下ろす。飛行機で言えば、荒天の中の緊急着陸に近い。多少揺れてもいい。多少荷物が落ちてもいい。乗員が無事なら、それで勝ちだ。介護の勝利は、世間が想像するよりずっと地味である。母がデイサービスへ行けた。父が薬を飲めた。尿パックをこぼさず処理できた。朝ご飯を食べた。大きな転倒がなかった。それで十分なのだ。いや、十分ということにしておかないと、こちらの心が先に破れる。父の怒りを、父だけのものにしない父は父で、怒る。母が覚えていないことに怒る。同じことを言うことに怒る。リハビリの担当者や訪問医療の担当者、診療時間などの変更にも怒る。自分の身体が思うように動かないことにも、たぶん怒っている。怒りは、だいたい別の怒りの顔をして現れる。母に向かっているようで、本当は病気に向かっている。病気に向かっているようで、本当は自分の衰えに向かっている。そして最終的に、その怒りは家の中に広がっていく。こちらはそれを受け止める。受け止めるが、全部は背負わない。ここが大事だと思っている。父の怒りは、父のものだ。母の混乱は、母のものだ。私の疲労は、私のものだ。混ぜると、家全体が濁流になる。だから、できるだけ分ける。部屋、時間、話題を分ける。こちらの心の中でも、少しずつ仕分けする。父が怒っている。母が忘れている。私は疲れている。この三つを一つの巨大な不幸にしない。そうしないと、朝が来るたびに自分が沈む。感情は殺すのではなく、棚に置く介護をしていると、感情を殺す場面が増える。腹が立っても、今は言えない。泣きたくても、今は泣けない。疲れていても、今は動くしかない。ただ、感情を完全に殺すと、たぶん人間の芯まで痩せていく。だから私は、殺すというより、棚に置くようにしている。今は置く。あとで書く。コーヒーを飲む。小高い丘へ行く。あとで、心の中で小さく毒づく。この「あとで」が、案外大事なのだ。感情は、なかったことにすると腐る。でも、すぐにぶつけると家が壊れる。だから、一度棚に置く。それは逃避ではない。生活を守るための、一時保管である。元FAX修理CEとして言えば、現場でいきなり基板を叩き割る技術者はいない。まず状態を見る。異音を聞く。紙詰まりの位置を探る。通電を確認する。原因らしきものを一つずつ潰していく。介護も、妙にそれに似ている。人間は機械ではない。だから余計に厄介だ。だが、慌てて分解してはいけないという点では、かなり近い。自分の時間は、発掘するものになったダブル介護が始まってから、自分の時間は自然には生まれなくなった。放っておけば、全部消える。父の見守り。母の機嫌。娘のこと。妻の負担。仕事。家事。気づけば一日が終わっている。だから自分の時間は、もはや余暇ではない。発掘品である。瓦礫の中から、5分を掘り出す。10分を救出する。玄関でコーヒーを飲む。空を見る。地図を眺めて妄想旅行をする。昔の用賀の地図を作る。小高い丘へ行く。どれも完璧な解決策ではない。だが、積み重ねで続く。これは逃げではない。持ちこたえるための技術である。介護者が倒れたら、介護は止まる。これは冷たい言い方ではなく、かなり現実的な話だ。だから私は、自分を保つことを後ろめたく思わないようにしている。まだ完全には無理だ。外に出ても家が気になる。友人と会っていても見守りカメラを見る。完全な自由にはなれない。それでも、少し外の空気を吸う。少し笑う。少し自分に戻る。それでまた、家へ帰れる。介護は毎日ゼロから。でもゼロは敗北ではない介護のしんどさは、積み上がらないところにある。昨日うまくいった説明が、今日も通じるとは限らない。行けたデイサービスを、今日も納得するとは限らない。落ち着いていた父が、今日も穏やかとは限らない。毎日、ゼロから。このゼロがつらい。努力が消えていくように見える。手応えが霧散する。同じ場所をぐるぐる回っている気がする。でも最近は、少し考え方が変わった。ゼロから始められるということは、昨日の失敗もまた、絶対ではないということだ。昨日怒鳴った。うまくできなかった。こちらもきつい言い方をした。それでも朝は来る。リセットされる残酷さと、リセットされる救いは、同じ顔をしている。だったら今日も、ゼロからやるしかない。私流の心得私流のダブル介護の心得を、あえて言葉にするならこうなる。正解を探しすぎない。被害を最小化する。説得で勝とうとしない。着地させる。怒りを全部背負わない。ただ、見捨てもしない。感情を殺しきらない。棚に置いて、あとで文章にする。自分の時間を待たない。掘り出す。介護を美談にしない。だが、地獄だけにもしたくない。笑えるところでは笑う。笑えない日は、せめて黙って通過する。笑うことが大事なことだと、今までやってきて思う所ではある。そして最後に。ゆるぎなく、まっすぐに。これは綺麗な標語ではない。毎朝揺らぎ、毎晩曲がりかける人間が、それでも何とか姿勢を戻すための、生活の中の手すりである。ダブル介護は、立派な人間だけができるものではない。疲れた人間がやっている。怒る人間がやっている。逃げたい人間がやっている。それでも、目の前に父と母がいるから、今日も動いている。その程度のことでいいのだと思う。大げさな覚悟ではなく、朝の一手。美しい理念ではなく、尿パックをこぼさない手元。親孝行という言葉より、今日の薬と食事と安全確認。そういうものの積み重ねで、家はかろうじて回っている。奇跡というほど美しくはない。だが、偶然というほど軽くもない。今日もまた、父と母のあいだで、私は一日を組み直す。崩れないためではない。崩れても、戻ってくるために。それが、今の私のダブル介護の心得である。今日もどこかで介護に苦しんでいる人がいると思う。私なりのやり方が、参考になるかはわからない。だが、たくさんの介護者の人に一緒に頑張ろうと伝わればよい。✨✨最後まで読んでいただき、ありがとうございます✨✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。もし今夜、玄関や寝室をひと回りしてみようと思われたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります
2026.08.07
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夜の台所で、まだ人生の画面から降りない|介護と仕事のあいだで私が書き続ける理由【50代】人生の主役というより、途中で帰れない担当者。それが今の私の実感に近い。夜の台所で、冷めた味噌汁を温め直していると、人生というものは、ずいぶん雑に編集された長編映画のようだと思うことがある。こちらの都合など聞かずに、次の場面へ進む。仕事の電話。家の用事。病院の予定。薬の確認。親のひと言。自分の身体の重さ。誰かが裏で脚本を書いているなら、一度こちらへ来て、洗面所の蛍光灯の下に立ってみろと言いたくなる。五十を過ぎてからの日々は、大きな事件ばかりではない。むしろ、じわじわ削ってくる用件の積み重ねだ。朝起きた時点で肩が重い。仕事へ向かう前に介護の段取りを考える。帰ってきても、家が休憩所になるとは限らない。靴下を脱ぐ前に呼ばれることもある。若い頃なら、もう少しきれいな言葉で処理しようとしたかもしれない。努力、成長、試練。そういう言葉を額に入れて飾れば、少しは格好がついたのだろう。だが今の私は、その額縁を置く場所にも困っている。主役というより、途中で帰れない担当者自分の人生の主役は自分だ、という言い方がある。間違ってはいないのだろう。だが、今の私の実感に近いのは、主役というより、途中で帰れない担当者である。FAX修理の現場でも、厄介な機械に当たると、途中で投げ出すわけにはいかなかった。入口で紙が止まるのか、途中で斜めに走るのか、出口で破れるのか。カバーを開け、ローラーを見て、紙粉を払い、もう一度通す。人生も、そこに少し似ている。全部が壊れているわけではない。けれど、どこかで詰まっている。仕事だけを見れば、まだ動いている。介護だけを見れば、どうにか回っている。身体だけを見れば、まあ年相応だと言われる。だが、それらが同時に来ると、紙送りの力が足りなくなる。そこで止まる。止まっているのに、外からは「まだ動けますよね」という顔で見られる。余計な登場人物に、台所まで明け渡さないしんどい時期には、妙な人も現れる。こちらの事情を軽く扱う人。正しそうな顔で余計なことを言う人。疲れているのを見て、都合よく使おうとする人。そういう人にいちいち焦点を合わせていると、ただでさえ少ない電力が持っていかれる。若い頃の私は、そういう相手に腹を立てて、頭の中で何度も言い返していた。今も腹は立つ。そこは変わらない。悟ってなどいない。ただ、少しだけ見方は変わった。その人たちは、私の暮らしの中心ではない。画面の端で騒いでいるだけの人間に、こちらの台所まで明け渡す必要はない。こちらには、薬の袋があり、仕事の段取りがあり、洗濯物があり、明日の朝に使う茶碗がある。そんなものを抱えている人間にとって、他人の芝居に付き合う時間は高い。大きな地図より、いま手元にある作業票昔は、人生の目的地のようなものを持っていないといけない気がしていた。何者になるのか。どこへ向かうのか。何を成し遂げるのか。ロスジェネ氷河期世代は、その問いを若い頃から突きつけられたわりに、入口でずいぶん待たされた。椅子の少ない部屋で、自分の順番が来る前に、時間だけが過ぎていった。今さら大きな地図を広げても、正直、目が疲れる。だから私は、遠くの目的地より、手元の作業票を見るようになった。薬を間違えないこと。余計な相手に生活の中心を奪わせないこと。仕事の段取りを崩しすぎないこと。自分の言葉を一行でも残すこと。誰かに褒められるような勝利ではない。だが生活は、そのくらいの小さな確認で、どうにか次の場面へつながっていく。直せない日々を書いている今の状況は、楽ではない。仕事と介護のあいだで、身体も気持ちも削れている。腹も立つし、情けなくもなる。家族だからこそしんどい日もある。台所で鍋を見ながら、何をやっているんだろうと思う夜もある。それでも、私はこの画面から降りるつもりはない。誰かの美しい見本になりたいわけではない。拍手が欲しいわけでもない。今ある日々を、誤作動だらけのまま点検して、どこがまだ生きているかを見る。止まったところを見つけ、紙片を取り除き、ローラーを拭き、もう一度だけ通してみる。直せない日々はある。それを知ったうえで、私は書いている。介護と仕事のあいだで、削れた時間を記録し、怒りや疲れや可笑しさを拾い、誰にも見えにくい生活の裏側に名前をつけていく。地味な作業に見えるかもしれないが、私の中では違う。私は、自分の人生という壮大なロマンを書いていると思っている。🖊️このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、絵本、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。また読みに来ていただけたら嬉しいです✨✨✨
2026.08.06
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笑いの臨界点 #41 休みの日ほど早く目が覚める休みの日だった。前の夜から決めていた。明日は寝る。誰に宣言したわけでもないが、自分の中ではかなり強めに決めていた。目覚ましもかけない。予定も入れない。朝の自分に期待しない。そういう休日である。なのに。目が覚めた。まだ外が少し暗い。時計を見る。5時38分。平日より早い。なぜだ。起きなければならない日は、あんなに布団が離してくれないのに、起きなくていい日に限って、体のほうが勝手に開店している。私は布団の中で、しばらく天井を見た。眠い。眠いのは眠い。でも、もう完全な眠りには戻れない感じがする。まぶたは閉じられる。体も横になっている。だが頭のどこかが、小さく電気をつけてしまった。若い頃の休日は、昼近くまで眠れた。寝すぎて頭が重くなるくらい眠れた。あれはあれで、あまり健康的ではなかったのかもしれない。でも、寝ようと思えば寝られるという安心感があった。今は違う。寝たいのに起きる。起きたい日は眠い。体の担当部署が、こちらの希望をあまり読んでいない。私はもう一度、目を閉じた。鳥の声が聞こえる。遠くで車が通る音もする。冷蔵庫が小さく鳴る。音というのは、眠ろうとした瞬間だけ妙にはっきりする。普段は気にもしていないのに、今だけ全員が自己紹介をしてくる。鳥です。車です。冷蔵庫です。わかった。寝かせてくれ。布団の中で寝返りを打つ。肩が少し鳴る。これも参加するのか。私は小さく笑った。休みの日の朝に、自分の関節まで起きてくるとは思わなかった。もう一度時計を見る。5時46分。八分しか経っていない。八分というのは、布団の中では長い。平日の朝なら一瞬で消えるのに、休日の早朝ではやたら広い。このまま起きるか。いや、起きたら負けだ。何に負けるのかはわからない。休日に負けるのか。加齢に負けるのか。5時38分の自分に負けるのか。だが負けた気がする。私は布団をかぶり直した。ここから二度寝に入れたら勝ち。そう思った時点で、もう眠りから遠ざかっている。睡眠に勝敗を持ち込むと、だいたい負ける。昔は、眠ることにこんなに作戦を立てなかった。ただ眠かった。だから寝た。今は、寝る前に水分を考える。夜中のトイレを考える。朝の予定を考える。寝すぎた時の腰の重さまで考える。寝るだけなのに、会議が多い。ロスジェネ脱線学風に言えば、休むことまで段取りしないと落ち着かない世代なのかもしれない。いや、そこまで広げる話でもない。私はただ、早く目が覚めただけだ。結局、6時を過ぎたところで起きた。台所で水を飲む。窓の外は少しずつ明るくなっている。街はまだ半分寝ている。その中で、自分だけが先に起きてしまったような感じがした。悪くない。悔しいが、悪くない。休みの日に早く起きるなんて、昔なら損した気分だった。今も少し損した気分はある。だが、朝の静けさを独り占めしているような気もする。寝る予定だった時間に、何もしないで座っている。これはこれで、休みなのかもしれない。コーヒーを淹れるほど元気ではない。テレビをつけるほど起きてもいない。ただ、台所の椅子に座って、水を飲む。それだけ。体はまだ少し眠い。頭もまだ少しぼんやりしている。でも、今日が始まってしまったことだけはわかる。休みの日なのに。いや、休みの日だからこそ、始まり方が少し雑でいいのかもしれない。予定どおりに寝られなかった。二度寝にも失敗した。それでも、誰にも迷惑はかけていない。せいぜい、自分の休日計画が少し崩れただけだ。私はもう一度時計を見た。6時17分。まだ朝は長い。長すぎるくらい長い。少しだけ笑った。若い頃は、時間が足りなかった。今は、早朝だけが勝手に増える。頼んでいないのに。でも、増えたなら増えたで、使い道を考えるしかない。何もしない、という使い道もある。私は椅子に座ったまま、しばらく外を見ていた。眠れなかった休日の朝は、損なのか得なのか、まだよくわからない。ただ、5時38分に目が覚めた自分を、少しだけ笑えるくらいには、今日も普通に始まっている。たぶん。昼過ぎに眠くなる未来まで、もう見えているけれど。✨このような50代の身体、介護、ロスジェネの日常、元FAX修理CEの視点を毎日書いています。また読みに来ていただけたら嬉しいです✨
2026.08.05
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ロスジェネ脱線学 #44 傘だけコンビニに残る午後午後、雨が降りそうだったので傘を持って出た。折りたたみではない。普通の長い傘である。念のため、というやつだ。コンビニに寄って、パンとコーヒーを買った。支払いを済ませ、袋を持って外へ出る。五十メートルほど歩いてから、手が軽いことに気づいた。傘がない。持って出た。たしかに持って出た。店に入る時、傘立てに入れた。そこまでは覚えている。つまり、置いてきたのだ。50代になると、持ち物の管理が途中で少し甘くなる。最初はちゃんとしている。玄関で傘を持つ。雨が降りそうだと空を見る。我ながら用意がいい。ところが、買い物をした瞬間、頭の中の持ち物リストが更新される。パンとコーヒー。レシートに財布、スマホ。傘だけ、古いリストに残されたままになる。昭和の頃、傘は家に何本もあった気がする。学校にも、職場にも、誰のものかわからない傘があった。平成になるとビニール傘が増えた。急な雨でも買えるようになった。令和では、スマホが雨雲まで教えてくれる。それなのに、持って出た傘を忘れる。技術の進歩と私の記憶力は、あまり連動していない。私は少し迷ってから、コンビニへ戻った。たった50メートルなのに、戻る時の道は少し長い。失敗を回収しに行く道だからだろう。傘立てには、私の傘がそのまま立っていた。よかった。誰にも必要とされていなかったらしい。少し失礼な安心である。傘を手に取る。今度は忘れないように、握りを少し強く持つ。人生も、こんなふうに置いてくるものがある。用意した気持ち。言おうとした言葉。持っていたはずの自信。気づいた時に戻れば、まだそこにあることもある。コンビニを出ると、雨はまだ降っていなかった。傘は少し邪魔だった。でも、その重さがあるだけで、私は少し安心して歩けた。✨✨最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。✨✨血圧計、薬、禁酒、睡眠。50代になると、自分の身体も少しずつ点検対象になっていきます。少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります。
2026.08.04
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一瞬永遠 第48幕 まだ灯っている朝でもなく夜でもない時間に部屋の隅で小さな光がまだ灯っていた消し忘れたのか消せなかったのかそのどちらでもよかった窓の外は少しずつ明るくなり街は昨日の顔をゆっくり脱いでいく机の上には飲み残した水開いたままの本そして何も書かれなかった白いページ終わったはずの時間がそこにだけまだ座っていた触れれば崩れてしまいそうで見つめれば戻ってしまいそうで私はただ息をひとつ置いた誰かに届かなかった言葉も言えないまま胸の奥に沈んだ想いも消えたわけではなかった形を変えて今日の静けさの中に混ざっている生きることは何かを手放すことだと思っていたけれど本当は手放したものにもう一度場所を与えることなのかもしれない忘れたふりをした記憶がふいに灯りのように揺れるそれは責めるためではなくまだここにいると知らせるために朝が完全に始まる前私はその光を消さなかった今日という一日はまっさらではない昨日の影を抱き遠い声を連れてそれでも前へ進む何も解決していない何も終わっていないそれでもこうして呼吸は続いている一瞬は過ぎ去るものではなく胸の奥で静かに灯り続けるものその光を見失わないかぎり私はまた今日を始められる
2026.08.03
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高血圧の薬が一か月で変更になった。下の血圧100超えが続く50代の朝先月から飲み始めた高血圧の薬が、早くも変わった。まあ、そうなるだろうとは予想していた。家で血圧を測ると、上は140台後半から160くらいまでを行ったり来たりしている。日によって多少のぶれはあるものの、下がったと言えるほどではない。下の血圧は100を越える数字が続き、洗面所の血圧計だけが朝から妙に元気である。薬を一錠飲めば、身体のほうも少しは事情をくんでくれると思っていた。こちらは毎朝忘れないように飲んでいるのだから、数字にも多少の遠慮があってよさそうなものだ。しかし、血圧計の液晶には情がない。高血圧の薬を飲み始めても、数字は居座った朝、血圧計に腕を通す。測定中は動かないようにしているが、頭の中まで止めることはできない。今日の仕事、家族の用事、病院の予約、薬の残り、洗濯機の終了音。腕を締めつけられている数十秒のあいだにも、生活は勝手にこちらを急かしてくる。測定が終わり、表示された数字を見る。上が150を越えている。下も100を越えている。一度目が高いと、もう一度測りたくなる。二度目なら少し下がるかもしれないという、根拠の薄い期待である。測り直して数ポイント下がると安心し、逆に上がると朝から余計なものを見た気分になる。高血圧の薬を飲み始めたのだから、もう少し分かりやすく下がってくれてもよさそうだが、50代の身体は家電製品の電源スイッチのようには動かない。昨日までの疲れも、運動不足も、食事も、睡眠も、家の中で飲み込んだ言葉も、何かしら数字に混ざっているのだろう。病院の血圧計は、こちらの事情を待ってくれない診察の日は、家を出る前から落ち着かない。診察券を探し、薬の袋を確認し、家族の昼の段取りを考える。病院に着けば受付をして、待合室の椅子に座り、呼び出しの番号を気にする。その状態で血圧を測れば、当然高くなる。少なくとも私はそう思っている。腕を入れるタイプの血圧計に座り、測定開始のボタンを押す。帯が膨らんで腕を締めつけ始めると、「高かったら薬が変わるかな」「診察で何を言われるかな」と考えてしまう。これで平常心を保てというほうが難しい。画面に出た数字は、家で測るより高かった。やはりなあ、と思った。驚きよりも、妙な納得のほうが先に来る。診察室に入り、家で記録した血圧の数字を見せると、医師はしばらく画面を確認してから薬を変えることにした。飲み始めて一か月。早くも選手交代である。薬の変更といっても、診察室で見る景色はほとんど変わらない。白い机があり、パソコンがあり、医師が処方内容を入力する。こちらは椅子に座ったまま、薬の名前が変わるのを待つ。身体の不具合に対して、処方箋の一行が書き換えられる。若い頃なら、薬が増えたり変わったりすることに、もう少し抵抗があったかもしれない。自分はまだ大丈夫だとか、少し生活を変えれば元に戻るとか、身体に対して妙な信用があった。50代になると、その信用にも細かなひびが入る。肩は上がりにくくなり、疲れは翌朝まで残る。少し前なら一晩寝れば消えていたものが、洗面所の鏡の前までついてくる。血圧も、その一つなのだろう。薬の変更も、身体の切り分け作業らしいFAXの修理をしていた頃、紙詰まりが直らなければ、同じ場所をいつまでも眺めてはいなかった。紙の状態を見る。ローラーを確認する。センサーを点検する。条件を変えて動かし、どこで止まるかを確かめる。一度で原因が分かる故障もあれば、何度か試さなければ見えてこない故障もあった。今回の薬の変更も、たぶん似たようなものなのだと思う。今の薬では十分に下がらなかった。それなら薬を変え、また血圧を測る。身体の反応を見ながら、次の手を考える。人間の身体をFAXと同じに扱うつもりはない。ただ、症状を見ながら一つずつ条件を変えていくという点では、どこか昔の仕事を思い出す。困るのは、修理する側と修理される側が同じ人間だということだ。面倒だから測りたくない朝もある。高い数字を見ると、それだけで気分が悪くなる。薬を飲み忘れそうになり、慌てて水で流し込む日もある。介護や仕事の段取りを考えているうちに、自分の身体の点検は後回しになりやすい。病院へ行くのも薬局へ寄るのも、予定表の中では地味に場所を取る。それでも、異常が出ている以上、見なかったことにはできない。故障表示を消しても、紙詰まりそのものは直らなかった。血圧の記録をやめたところで、身体の中の数字まで消えるわけではない。新しい薬が効くかどうかは、まだ分からない。次の診察でも高い数字が出るかもしれないし、また薬が変わる可能性もある。食べるものを考え、少し歩き、毎朝測る。書けばそれだけだが、その「それだけ」を続けるのが案外面倒くさい。今朝も血圧計に腕を通した。帯が膨らみ、腕が締めつけられる。数字が出るまでの短い時間、洗面所の隅でじっと待つ。薬は変わった。身体がどう返事をするかは、これからである。とりあえず今日の数字を記録して、朝の分の薬を飲む。あまりうれしくない保守作業だが、自分の身体まで置き去りにするわけにはいかない。✨✨ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます✨✨高血圧の薬を飲み始めた方、病院で測ると数字が上がる方、50代になって薬の袋が増えてきた方に、少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで合図をいただけるとうれしいです🪄✨✨介護と仕事のあいだで起きる、身体と生活の不具合を、これからも一つずつ点検していきます💡
2026.08.02
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娘に手帳を持たせるか、迷っていた頃の私へ|ASD|50代ASDの高校二年生の娘が、一人で企業へ赴き、一週間の企業研修を終えて帰ってきた。そこそこ大きな企業で、仕事は簡単な補助業務だったらしい。それでも、親が付き添わず、自分で会社へ行き、知らない人たちの中で一週間を過ごした。家では朝の支度もなかなか進まない娘である。何度声をかけても、どこかぼんやりしている。その娘が会社へ行って働いてきたのだから、親の知らないところで人は成長するものだと思う。娘に発達障害の手帳を持たせるかどうか、悩んだ時期があった。手帳を持たせることで、娘を障害者という枠に入れてしまうような気がしたのかもしれない。親である私の中にも、ためらいや抵抗がなかったわけではない。けれど今は、持っていてよかったのかもしれないと思っている。将来の就労を考えても、これから必要になる支援を考えても、手帳は娘を縛るものではなく、困ったときに使える道具の一つなのだと思えるようになった。道具は、持っているからといって、いつも使わなければならないわけではない。必要なときに使えることのほうが大事だ。小学校へ上がるときも、普通級に行かせるか、支援級にするかで悩んだ。発達障害の中でも、いわゆるグレーゾーンと呼ばれる子どもの場合、親は特に迷うのだと思う。頑張れば普通級でやっていけるのではないか。もう少し厳しくすれば、周りに合わせられるのではないか。親がそう考える気持ちも、まったく分からないわけではない。けれど、無理に普通級へ進ませた結果、子どもも苦しみ、親も苦しんでいる姿を何度も見てきた。普通級へ行くことが成功で、支援級へ行くことが失敗ではない。そこに親のプライドを持ち込んでも、子どもには何の役にも立たない。大事なのは、親がどう見られるかではなく、子どもがどこなら少しでも安心して過ごせるかだ。娘が通った小学校の支援級には、それぞれ違った特性を持つ子どもたちがいた。私が接した子どもたちは、みんな実に素直だった。どこか昔の小学生のようでもあった。余計な駆け引きがなく、うれしいときはうれしい、嫌なときは嫌だと、そのまま表情に出る。少なくとも娘のいた学年では、大きないじめもなかった。あの学校と、あの学年が、たまたま恵まれていた面もあるのだろう。それでも、支援級を選んだことを後悔したことはない。発達障害への理解は、以前より進んだ。それは間違いないと思う。ただ、まだ十分ではない。特に私たちの親の世代になると、発達障害という言葉そのものが、なかなか理解されない。努力が足りない。甘やかしている。根性がない。そんな言葉で片づけられてしまうこともある。考えてみれば、私の世代にも根性論はしっかり残っている。私も、娘が発達障害でなければ、ここまで考える機会はなかっただろう。たまたま自分の子どもがそうだったから、調べ、悩み、少しずつ知ることができた。だから、知らない人を簡単に責めることもできない。ただ、知らないままで人を決めつけることと、知ろうとしないことは違う。世間の理解は、まだ足りない。それでも娘は、一人で会社へ行き、一週間の研修を終えた。普通に見えるかどうかではない。娘が娘なりの方法で、社会との接点を一つ増やした。将来への心配は、今も消えていない。けれど、まだ起きてもいない心配ばかり数えるより、まずはここまで来た娘の成長を喜びたい。親が迷っている間にも、子どもは自分の足で歩き始めている。✨✨最後までお付き合いいただき、ありがとうございます✨✨認知症介護、デイサービス、親子のしんどさ。きれいに割り切れない朝を、今日もどうにか通しています。少しでも残るところがありましたら、スキやフォローで応援していただけると励みになります。
2026.08.01
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