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お風呂に落ちているもの|介護の夜も突然に…【50代】美談はあまりない。だが、美談ではないからこそ、書いておきたい。ここ最近、増えてきている気がする。お風呂に落ちているもの。うん◯である。こう書くと、少し生々しい。だが、これが在宅介護の現実でもある。昨夜は、母が入ったあとのお風呂。先日は、父をお風呂に入れている最中。二日続いた。もちろん、仕方がないことだ。高齢になれば、意思とは関係なく出てしまうこともある。父はトイレまで間に合わないことがある。母は認知症になってから、こちらが説明しても意味をなさない場面が増えた。だから怒っても仕方がない。責めても仕方がない。それは頭ではわかっている。だが、二日連続となると、精神的には少し来るものがある。淡々と、しかし徹底してやる汚いとか、匂いがどうとか、そこはもうある程度慣れている。ダブル介護を家でしていれば、そういう場面は避けて通れない。排泄物は感染源になり得るため、処理時は素手で触れず、手袋を使い、処理後は手洗いと手指消毒を徹底する。だから私も、そこだけは淡々と、しかし確実にやる。湯を抜く。落ちているものを処理する。浴槽を洗う。床も見る。飛んでいないか確認する。必要なところは消毒する。そしてもう一度、匂いを確認する。家族が次に入る場所だからだ。特に母の次には娘が入ることが多い。そこは絶対に雑にはできない。予定外の作業が、一日の終わりに差し込まれる介護の現場で本当にきついのは、こういう「予定外の作業」が平気で差し込まれることだと思う。風呂に入れた。終わった。ではない。そこから処理が始まる。掃除が始まる。消毒が始まる。着替えもある。洗濯物も出る。匂いの確認もある。そして、こちらの気持ちをいったん無に戻す作業まである。怒らない。顔に出さない。ため息を飲み込む。いつも通りの声で話す。これが案外、いちばん疲れる。父も母も、悪意があってそうなっているわけではない。そこはわかっている。だから余計に、こちらの感情の置き場がない。父はトイレまで間に合わない。これはもう身体の問題だ。母は認知症で、言っても残らない。これも病気の問題だ。では、こちらの疲れはどこへ行くのか。結局、飲み込むしかない。そして、洗うしかない。これが家で介護するということなのだと思う。GW。これがまた悩ましい。しかも、ここ数日は父の尿カテーテルの尿漏れもひどい。尿パックにはちゃんと溜まっている。完全に出ていないわけではない。そこはまだ救いだ。だが漏れがある。匂いもある。おむつ交換も増える。そのたびに確認し、拭き、替え、また確認する。カテーテル関連の感染管理は重要だ。素人判断でいじるのではなく、訪問医療や看護につなぐ段取りが大事になる。だからGW直前の火曜日に交換してもらう手筈にしていた。そこまでは持たせたい。幸い、漏れてはいるが尿パックには溜まっている。このまま何とかいければいい。そして何とか火曜日の交換まで持たせることが出来た。ただ、介護はいつも「このまま何とかいければいい」の連続だ。今日は大丈夫か。今夜は大丈夫か。明日の朝まで持つか。火曜日までいけるか。GWを越えられるか。そうやって先の小さな区切りまで、何とかつないでいく。大きな希望というより、小さな通過点を積み重ねる感じだ。美談ではないからこそ、書いておきたい介護というと、もっと感動的な場面を思い浮かべる人もいるかもしれない。手を握る。ありがとうと言われる。昔話をする。穏やかな時間を過ごす。もちろん、そういう時間もある。だが現実には、便を処理し、尿漏れを確認し、匂いと戦い、薬を塗り、おむつを替え、浴槽を洗い、床を拭く時間のほうがずっと多い。そこに美談はあまりない。だが、美談ではないからこそ、書いておきたい。家で介護するというのは、こういうことなのだ。人間の身体が老いていくこと。意思とは関係なく出てしまうこと。本人に説明しても残らないこと。それでも家族が処理し、洗い、整え、また次の朝を迎えること。それが現実だ。汚いから嫌だ、では済まない。匂うからやらない、でも済まない。やる人が必要なのだ。そして、いま我が家ではそれを私がやっている。これも一種のメンテナンスだ淡々とやる。感情をなるべく挟まない。ただし清掃は完璧にする。感染のリスクを増やさないようにする。家族が次に使える状態に戻す。それは愛情というより、生活防衛に近い。あるいは、家の機能を止めないための保守作業だ。元FAX修理CEとして考えるなら、これも一種のメンテナンスなのかもしれない。詰まったら流す。汚れたら清掃する。漏れがあれば原因を探る。完全に壊れる前に、次の対応を組む。感情で直るものではない。段取りで回すしかない。ただし、人間は機械ではない。そこが難しい。父にも羞恥心がある。母にも、もう自覚は薄いかもしれないが、かつての母の姿がこちらの中に残っている。だから、ただ処理すればいいという話ではない。声のかけ方。表情。こちらの態度。そこも含めて、毎回気を遣う。「大丈夫」「仕方ない」「今きれいにするから」そう言いながら処理する。本当は、こちらの心は少し削れている。でも、それを相手にぶつけるわけにはいかない。今日もまた、風呂を洗った二日連続は、さすがに少し来た。それでも今日も、処理した。洗った。整えた。父の尿漏れも確認した。おむつも替えた。匂いにも対応した。火曜日まで持たせるために、今日できることをやった。介護は、こういう一日の連続だ。誰かに見せるものでもない。褒められるものでもない。ただ、やらなければ家が回らない。だからやる。今日もまた、風呂を洗った。尿の匂いに向き合った。腰も背中も痛いが、それでも動いた。そして思う。これが家で看るということなのだと。きれいごとではなく、匂いも、汚れも、ため息も、全部含めて介護なのだと。明日もまた何かあるだろう。何もない日など、そう多くはない。それでも、できるだけ淡々と。できるだけ清潔に。できるだけ家の空気を壊さずに。そうやって、火曜日まで。そしてGWまで。また一日ずつ、持たせていくしかない。
2026.04.30
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笑いの臨界点 #28 鍵を持って出たのに、鍵が不安になる玄関を出た。鍵をかけた。カチャ。いつもの音。いつもの動作。私は今日もちゃんと大人だ。……のはずだった。二歩目で、急に不安が来た。鍵、閉めたよな。閉めた。閉めたはずだ。音もした。なのに不安は、音よりしぶとい。私は立ち止まりそうになり、立ち止まらないふりをして、ポケットを触った。ある。あるのに、「ない」みたいな気分が残る。この感じは何だろう。物はある。現実もある。なのに心だけが、まだ玄関に引っかかっている。私はもう一度、ポケットを触る。ある。それでも不安は少しだけ形を変えて残る。「閉めたか」ではなく、「閉まってるか」になる。閉めたのは私。閉まっているかは、扉の気分次第。そんなわけがない。だがこの年齢になると、自分の手順より世界の不具合のほうを信じてしまう日がある。私は戻りたい。確認したい。でも戻ったら、戻った自分を見てしまう。朝の住宅街で、玄関に引き返す男。鍵を持ってるのに鍵を疑う男。その姿は、悲壮ではない。ただ少し、切ない。私は結局、戻った。戻るんかい、と思いながら戻った。そして玄関の前で、ドアノブを軽く触った。閉まっている。ちゃんと閉まっている。世界は普通だった。私は少しだけ安心して、少しだけ恥ずかしくて、そして少しだけ笑いそうになった。鍵を持って出たのに、鍵を不安がる。大げさに言えば私は自分を信用していない。でも正確に言えば、信用していないのは記憶のほうだ。人は年を取ると、新しいことができなくなるんじゃない。「やったこと」を確信できなくなる。閉めた。消した。置いた。入れた。送った。その全部が、一拍遅れて不安に変わる。それでも私は、また歩き出す。確認して、安心して、何もなかった顔で前へ進む。大人の朝は、こういう小さな回収作業でできている。
2026.04.29
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ロスジェネ脱線学 #30 玄関の鍵がすぐに見つからない夜帰る場所はあるのに、すぐには入れない私は1974年生まれだ。ロスジェネ氷河期第一世代。人生のたいていは、ぎりぎりで辻褄を合わせながら帰ってきた気がする。そして今夜も、家の前で立ち止まっている。買い物袋は少し重い。肩も少し重い。気持ちまで軽い日は、最近あまり多くない。ようやく玄関までたどり着いた。あとは鍵を出して、靴を脱いで、ひと息つくだけ。そのはずなのに、ここで手が止まる。鍵がない。いや、ないわけではない。持ってきている。朝、たしかに入れた。財布とスマホと鍵。この三つは確認した。したはずなのだ。なのに、出てこない。ポケットを探る。ない。反対側も探る。ない。エコバッグの外ポケット。ない。内ポケット。レシート。飴。よくわからない紙片。でも鍵はない。家の前で、入れないまま、少しずつ焦っていく。この感じは、妙にこたえる。遠くにいるわけではない。目的地には着いている。なのに最後の最後で中に入れない。ロスジェネの人生に、少し似ていると思う。若い頃、鍵はもっと単純なものだった。金属の感触があって、ポケットに入れればそれでよかった。家に帰るという行為も、今よりずっと軽かった気がする。明日のことは曖昧でも、とりあえずドアは開いた。今は違う。鍵そのものも増えた。家の鍵。自転車の鍵。時にはロッカーの鍵。そして目に見えない鍵も増えた。ログインID。暗証番号。認証コード。入るためには、いちいち正しさを求められる。家に入るだけでなく、社会に入るにも、会話に入るにも、何かしらの鍵が要る時代だ。しかも、その鍵は年々見つけにくくなる。若い頃は、勢いで開いた。多少乱暴でも、多少無理でも、扉の向こうへ行けた。だが50代になると、そうはいかない。体力も記憶も指先の感覚も、どこか一発では決まらなくなる。それは大きな衰えではない。小さな遅れだ。ほんの数秒。ほんのひと手間。だが、その数秒が積み重なると、人はじわじわ疲れる。私は玄関灯の下で、もう一度バッグの底を探った。底のほうに沈んだレジ袋が出てくる。その下に、ハンカチ。その下に、読みかけのメモ。そして、ようやく鍵があった。あった瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。たったこれだけのことなのに、妙に安心する。誰にも褒められない。拍手もない。だが、今日いちばんほっとしたのは、その瞬間かもしれない。鍵穴に差し込む。回す。カチャ、という音がする。私はあの音が好きだ。派手ではない。感動的でもない。それでも、「今日も戻ってこられた」と思わせる力がある。ロスジェネの脱線学は、こういう音の積み重ねでできているのかもしれない。劇的な勝利ではない。すべてが解決する朝でもない。ただ、つまずきながらも最後には自分の鍵を見つけて、ちゃんと中に入る。その繰り返しだ。社会の扉は、ずっと重かった。景気も雇用も未来も、簡単には開かなかった。それでも私たちは、別の入口を探したり、少し待ったり、遠回りしたりしながら、なんとかここまで来た。家の前で鍵が見つからない夜。そんな小さな不便に、人生はよく似る。すぐには開かない。思った通りには進まない。少し焦る。少し情けない。それでも最後には、ちゃんと帰る。玄関のドアが閉まり、外の気配が遠くなる。ようやく私は、自分の一日を内側に戻した。それだけで今夜は、もう十分だと思った。
2026.04.28
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一瞬永遠 第34幕 戻る気配どこかで名前を呼ばれた気がしたはっきりとは聞こえないけれど確かにこちらへ向いていた景色がゆっくりと揺れ形を保てなくなるさっきまでいた場所がもう思い出せない足元が曖昧になり進んでいるのか止まっているのかもわからない胸の奥でふと何かを置き忘れたような感覚が走りわずかに心が引き戻されるその瞬間空気が変わる温度が現実に近づく遠くで何かが鳴る規則的な音夢は引き止めないただ静かに手を離すまぶたの裏が少しだけ明るくなり思考が輪郭を取り戻すまだ完全ではないけれど確かに戻り始めている一瞬とも永遠ともつかない時間がここで折り返される私はその流れに抗わずただ浮かび上がる
2026.04.27
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身体は根性で動かすな、保守で回せ。【50代】朝、腰が重い。元FAX修理CEが考える、自分自身のメンテナンス起き上がる前に、一度だけ深呼吸をする。それが最近の習慣になった。以前なら、そんなことは気にもしなかった。目が覚めれば、そのまま起きる。多少眠かろうが、身体が重かろうが、とりあえず動く。若い頃の私は、身体というものをずいぶん雑に扱っていたのだと思う。だが今は違う。布団の中で、まず腰の状態を確認する。首は固まっていないか。背中に嫌な張りはないか。膝は重くないか。立ち上がった瞬間、ぎっくり腰の入り口へ足を踏み入れないか。たったそれだけのことが、今は小さな儀式のようになっている。50代の身体は、いきなり動かしてはいけない。そんなことを、ようやく身体のほうから教えられている気がする。私は17年間、FAXの修理をしていた。壊れた機械を前にするとき、私はまず「なぜ壊れたか」よりも、「どこから兆候があったか」を探していた。機械は嘘をつかない。必ず、前置きがある。異音。わずかな遅延。紙送りの微妙な重さ。印字のかすれ。電源投入時の反応の鈍さ。使用者が「何となく変なんです」と言った時、そこにはたいてい何かがある。本当に突然壊れることもある。だが多くの場合、機械はその前から小さな声を出している。その声を拾えるかどうか。そこがCEとしての勘所だった。見逃せば、修理は復旧ではなく延命に変わる。まだ直せる段階で手を入れるのか。それとも限界まで使い切ってから、慌てて呼ばれるのか。同じ故障でも、そこには大きな差がある。機械は壊れた瞬間だけで判断してはいけない。壊れる前から、すでに物語は始まっている。人間も、たぶん同じだ。50代の身体は、根性で動かすものではない。保守で回すものだ。それに気づいたのは、両親の介護が始まってからだった。ダブル介護が始まり、生活の中心は一気に変わった。父の状態を見守る。母の認知症に対応する。娘のこともある。妻の負担もある。仕事もある。そのすべてを何とか回そうとすると、自分のことは自然に後ろへ回る。眠れない夜が続いた。食事を後回しにした。休むことを後回しにした。自分の身体の違和感を、あとで見よう、今はそれどころではない、と棚上げにした。そういう日が続いた。昭和に育ったロスジェネの私には、そういう回路が最初から組み込まれていたのかもしれない。頑張ることが美徳。弱音を吐かないことが大人。消耗することが誠実さの証。そんな価値観が、どこか身体の奥に残っている。もちろん、それで乗り越えてきた場面もある。根性で踏みとどまった日もある。気合いでやり切った仕事もある。若い頃なら、それで何とかなった。だが50代になると、同じやり方は通用しなくなる。気づけば、身体が言葉を返してきた。膝が重い。首が固まる。腰が怪しい。疲れが翌朝まで持ち越される。少し無理をすると、翌日どころか数日残る。目の疲れも抜けない。眠りも浅い。酒を飲めば眠れるようでいて、実際には眠りが浅くなる。機械なら、画面にこう出るところだ。定期メンテナンス未実施。消耗部品交換時期。内部清掃が必要です。負荷が高すぎます。だが人間の身体には、そんな親切な表示は出ない。ただ黙って、少しずつ動きを落としていく。ある日、腰が重い。ある日、肩が上がらない。ある日、何となく息が浅い。そういう小さな異音で知らせてくる。それを見逃してはいけない年齢になったのだと思う。昭和の道具は長持ちした。そう言う人は多い。たしかに、昔の道具には妙な頑丈さがあった。家電も、工具も、家具も、今よりずっと長く使えた気がする。だが、それは単に丈夫だったからだけではないのだろう。使う人間が、手をかけていた。油を差す。汚れを拭う。締め直す。乾かす。湿気を避ける。負荷をかけすぎない。壊れる前に、少し面倒を見る。道具が長持ちしたのは、道具そのものが強かったからだけではなく、使う人間が手をかけ続けていたからだ。今になって、ようやくわかる。長持ちするとは、「壊れないこと」ではない。ちゃんと手をかけ続けることの別の言い方なのだ。私は自分に、油を差していなかった。動けるから大丈夫。まだ倒れていないから大丈夫。痛いけれど何とかなる。眠いけれど動ける。そう言いながら、自分の身体を酷使していた。機械なら絶対にやらない扱いだ。異音がしているのに、そのまま使う。紙詰まりの兆候があるのに、無理に回す。モーターが熱を持っているのに、止めない。そんな使い方をしていれば、いずれ壊れるに決まっている。それを、自分の身体には平気でやっていた。母の朝のケアを終えると、コーヒーを一杯だけゆっくり飲むことにした。たったそれだけのことだ。だが、私はそれを「段取り」として組み込んだ。余った時間で飲むのではない。たまたま余裕があったら飲むのでもない。最初から、そこに置く。予定の中に入れる。そうしないと、私はたぶん休まない。大げさに聞こえるかもしれない。だが、根性で走り続けてきた人間には、「立ち止まること」にも許可がいる。休むことを、ただの怠けではなく、必要な工程として認めなければならない。CE時代、点検には意味があった。まだ壊れていないから点検しない、ではない。まだ壊れていないからこそ、点検する。部品を見て、汚れを取り、動きを確認する。壊れてから呼ばれるより、壊れる前に手を入れたほうがいい。人間も同じだ。完全に倒れてからでは遅い。眠れなくなってからでは遅い。腰をやってからでは遅い。心が折れてからでは遅い。その前に、小さく止まる。小さく休む。小さく整える。保守とは、弱さではない。継続のための技術だ。私は最近、肉体改造を再開した。とはいえ、若い頃のように追い込めるわけではない。腕立て伏せをすれば肩や肘が気になる。ウォーキングを長くやれば腰や膝にくる。筋トレも、できる日はできるが、介護の予定や父母の状態によっては思うようにできない。それでも、やらないよりはいい。少しずつでいい。身体に聞きながらやる。そういうやり方に変えていくしかない。昔は「もっとできるかどうか」で考えていた。今は「明日も続けられるかどうか」で考える。この違いは大きい。一日だけ頑張ることは、案外できる。問題は続けることだ。続けるためには、壊さないことが必要になる。壊さないためには、引く日も必要になる。休む日も必要になる。今の自分を過信しないことも必要になる。それは衰えではない。戦い方の変更なのだと思う。老いは修理できない。これは、たぶん事実だ。時間は戻らない。若い頃の身体には戻れない。50代の身体は、50代の身体として付き合うしかない。目も悪くなる。歯も手入れがいる。腰も膝も気をつけなければならない。睡眠も昔のようにはいかない。だが、段取りはできる。どこに負荷がかかっているのか。どこを休ませるべきか。明日のために、今日何を省くか。無理に詰め込まない。違和感が出たら止まる。回復する時間を先に確保する。それは、かつて機械に向けていた目線と、実はまったく同じだった。異音を聞く。熱を感じる。動きの鈍さを見る。部品の摩耗を疑う。無理な使われ方をしていないか確認する。そして、必要なら止める。私は今、自分自身のカスタマーエンジニアになろうとしている。誰かに修理を頼む前に、自分で点検表をつくる。無茶をしない。異音に気づいたら、すぐ立ち止まる。睡眠を軽く見ない。食事を後回しにしすぎない。酒に頼りすぎない。腰が重い日は、勢いで動かない。風呂にゆっくり浸かれる日は、ちゃんと浸かる。5分でも家キャンをする。小高い丘で風に吹かれる。地図を広げて、妄想旅行をする。こういうことの一つ一つが、今の私にとっては保守なのだ。派手ではない。誰に褒められるものでもない。だが、こういう小さな保守を怠ると、人は案外簡単に壊れる。介護をしていると、どうしても親のことが先になる。父の状態。母の認知症。通院。薬。訪問看護。デイサービス。食事。排泄。感情の衝突。その全部を回しているうちに、自分のことは後回しになる。だが、私が止まれば家も止まる。これは偉そうな話ではない。単純な現実だ。だからこそ、自分の保守はわがままではない。家を回すための最低限の整備なのだ。自分を大事にしましょう、という言葉は、少しきれいすぎる。私にはまだ少し照れがある。だが、「自分を保守する」と言われると、すっと入ってくる。点検する。清掃する。摩耗を見る。無理な負荷を避ける。必要なら止める。そして、また動けるようにする。それならわかる。それならできるかもしれない。窓の外に、薄い春の光が差している。今日も母が起きてくる前に、もう一度だけ深呼吸をしようと思った。腰はまだ重い。背中も少し張っている。睡眠も足りているとは言えない。それでも、今日を回さなければならない。だからこそ、いきなり動かない。まず、自分の状態を確認する。異音を聞く。無理をしない。できることから始める。50代の身体は、根性で動かすものではない。保守で回すものだ。そう言い聞かせながら、私はゆっくりと身体を起こす。今日もまた、自分自身のCEとして。
2026.04.26
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朝は、ある日突然こわれる。いや、こわれるというより、静かに歪み始めると言ったほうが近いのかもしれない。昨夜までどうにか均衡を保っていた家の空気が、朝になった途端、別の顔を見せる。介護のある暮らしの朝とは、そういうものだ。目を開けた瞬間から、こちらの頭だけが先に動き始める。今日は父の機嫌はどうか。母は何を言い出すか。どこで詰まり、どこで荒れ、どこで話をそらし、どこで飲み込めば被害が一番少なく済むか。そういうことを考えながら、一日が始まる。母が認知症になってから、朝はただの朝ではなくなった。起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、それぞれの支度をする。そんな当たり前の流れに、もう戻れなくなった。昨日できたことが今日もできる保証はどこにもない。介護とは、こちらの段取りと相手の混乱が、毎朝違う形でぶつかり合う営みなのだと思う。そんな朝の中でも、いちばん神経を使うのがデイサービスの日だ。母に対して、私は「デイサービス」という言葉を使わない。その言葉には、もう嫌なものとしての印象がべったりとこびりついてしまっているからだ。あんなところには行きたくない。おかしなのがうつる。私はそんな場所に行くような人間じゃない。家に帰ってこられるんだから認知症ではない。そういう言葉を、母はこれまで何度も口にしてきた。本当は、どれもまともに相手にするような言葉ではない。理屈で言えば崩せる。説明もできる。だが認知症の相手に理屈は積み上がらない。こちらがどれだけ丁寧に説明しても、その場で消える。ときに一分ももたずに消える。努力だけがこちらに残り、相手の中には不快感だけが薄く残る。介護をしていて嫌というほど思うのは、正しさにはほとんど力がない、ということだ。だから私は、言い換える。今日、スポーツジムの日だからね。そう言う。今、母が通っている場所はリハビリに特化した施設で、スポーツジムのような機械も充実している。できてまだ半年ほどで、かなりきれいだ。病的と言っていいほど潔癖症の母にとって、この「きれいさ」は決定的だった。古びた施設だったら、たぶん最初の段階で終わっていた。椅子が古い。トイレが嫌だ。匂いが嫌だ。誰が触ったかわからない。そういう理由だけで拒否されていた可能性は高い。だから、スポーツジム。その一語の言い換えで、朝の難易度はかなり変わる。しかも、母にそれを伝えるのは当日の朝、一時間ほど前だ。前日のうちに言っても意味がない。忘れるからだ。ただ忘れるだけならまだいい。認知症は厄介で、事実は消えるのに嫌な感情だけが残ることがある。行ったことそのものは忘れている。だが「嫌な場所らしい」という印象だけが残る。そうなると、こちらは最初から不利だ。だから直前。朝食を出し、着替えを促し、支度を始めさせる流れの中で言う。考える暇を与えない。このやり方がいまのところ一番被害が少ない。被害という言い方がすでに介護者の本音なのだろうと思う。もっと穏やかな表現もあるのだろう。だが現場感覚としては、やはり被害なのである。何を言えば長引くか。何を避ければ爆発しないか。介護とは、そういう地雷原を毎日歩くことでもある。それでも、毎回うまくいくわけではない。荷物のことでもめる日もある。財布を持って行きたいと言い出す日もある。施設でみんなとスーパーに行く予定があると聞けば、自分だけお金を持っていないことに腹を立てる。では財布を持たせるかと言えば、今度は「あんな人たちと一緒に買い物なんかしたくない」と来る。結局、何をしても引っかかる日というのがある。本人の中の怒りも不安も、こちらの都合とは関係なく生まれてくる。私はそこで、できるだけ感情を閉じ込める。情けない気持ちもある。腹立たしさもある。何をどうやっても気に入らないのなら、いったいこちらは何をすればいいのかと、言いたくなることもある。だが、そこでこちらまで熱くなったら終わる。送り出す前に朝の空気が壊れる。そうなったら、その日の疲れは朝のうちに上限まで達する。介護をしていない人にとって、「デイサービスに送り出す」という言葉は軽いのかもしれない。朝、車が来て、乗せて、見送る。その程度に聞こえるのかもしれない。だが実際には違う。送り出すまでの一時間に、こちらはかなりの神経と体力を使う。同じことを何度も聞かれ、そのたびに答える。今何時だ。どこへ行くのだ。なぜ行かないといけないのだ。そんなところへ行ったことがない。行かなくても私は大丈夫だ。帰ってこられるんだからおかしくない。こういう言葉の波を、正面から受けず、横へいなし、何とか流れの中へ戻していく。デイサービスに行かせること。それは母のためでもある。こちらのためでもある。だが認知症の本人に、その全体図は見えない。いまの不安、いまの不満、いまの不快だけが現実だ。そこへこちらが「あなたのためだから」と言ったところで、何の意味もない。だからこそ、朝は言葉より段取りなのだと思う。ようやく送り出した時には、こちらの気力はかなり削られている。まだ午前中だというのに、一仕事どころか、半日分くらいはもう終えたような疲れ方をする。そのうえで、こちらには仕事もある。家事もある。父のこともある。介護の朝は、ひとつ越えたら終わりではない。ひとつ越えたところから、また次が始まる。母は、昔からこういう人だったのかもしれない介護をしていてよく思うのは、病気が人をまるごと別人にするというより、元々その人の中にあったものを強く前へ出してくるのではないか、ということだ。母は昔から、かなりわがままだったのだと思う。ただ、親子という関係の中では、それがあまりに当たり前で見えなかった。あるいは、二十年近く離れて暮らしていたことで、こちらが忘れていただけなのかもしれない。近くにいて毎日向き合うようになると、認知症以前の輪郭まで見えてくる。病気だからそうなった、だけでは済まないものがたしかにある。ちょっとしたことで怒る。気に入らないとすぐ顔に出る。自分の中の筋が通らないと引かない。誰かが自分に合わせてくれることを、どこかで当然と思っている。そういうものが昔からあったのだろう。そこへ認知症が重なり、ブレーキだけが外れたようになっている。だからこちらは時々、病気なのか元々の性格なのか、その境目がわからなくなる。わからなくなるから余計にしんどい。病気なら仕方がない。そう思えば飲み込めることもある。だが「昔からそうだった」と思い当たってしまうと、そこでまた別の感情が出てくる。ああ、この人は元気な頃からそうだったのか、と。その苦みが介護をさらに複雑にする。食卓は、やすらぎの場ではない母がデイサービスから戻ってきたら、次は昼食である。だが、食事というものも、うちでは安らぎの場ではない。母は食の好みがかなり偏っている。嫌いなものも多い。しかも妥協がない。人の作ったものは基本、食べたくない。ところが外食は好きだ。ただしそれも、店構えが古い、汚い、雑然としている、それだけで駄目になる。牛乳類は一切だめ。白いものも嫌い。ここまで来ると、好き嫌いというより、自分の中にしかない規則で世界を裁いている感じがする。少しでも食卓が汚れると、母はすぐ拭く。そこだけ見れば潔癖症である。だが、その拭き方がまた独特だ。自分の飲んでいる水でテーブルを濡らし、それで拭いたりする。こちらからすれば、潔癖というより、奇妙なこだわりと無頓着が同居しているように見える。だから毎回、食卓用のアルコールで拭いてくれと言う。もちろん覚えてはいない。その場で「そうね」と言っても、一分後には元に戻る。また言う。また繰り返す。介護者が疲れるのは、こういう反復に意味が感じられなくなる瞬間だと思う。どうせ忘れる。どうせまた同じことをする。そう思いながらも言うしかない。やめればもっと酷くなるかもしれないからだ。この「意味があるのかないのかわからない努力」を積み重ねること。それが介護の地味で深い疲れになる。買い物は、生活ではなく欲望になる午後になると母は近所のスーパーへ行く。本人は散歩だと言う。足腰のためだとも言う。だが実際は買い物である。何かを買いたいのだ。何かを手に入れたいのだ。母には昔から、買い物依存と言ってもいい傾向があった。洋服。アクセサリー。趣味だったトールペイントや絵の道具。同じようなものを何度も買う。買ってまるで使わないものも多い。整理したらどうかと優しく言っても、自分で働いて稼いだ金なのだからいいでしょと返ってくる。たしかにそうだ。だが、買って使わないものは、やがて暮らしを豊かにする物ではなく、ただの荷物になる。それでも、持っていたい。手に入れたい。増やしたい。所有そのものが快感になっているように見える時がある。私は娘が発達障害を持っていることで、特性というものを身近に見てきた。だから母にも、元々そういう性質があったのだろうと感じる。そこへ認知症が重なり、抑えが利かなくなっている。そう考えると少しは腑に落ちる。だが、腑に落ちても、現実の困りごとは何も減らない。帰宅後の点検は生活防衛である母が買い物から戻ったら、私はまず買ってきたものを確認する。これを怠るとろくなことがない。以前、生ものが袋の底に残ったまま腐っていて、かなり大変なことになった。匂いが立ってからでは遅い。だから確認は必須だ。たいてい買ってくるのは決まっている。光り物の刺身。日本酒。タオル。この三つは本当に多い。光り物は母の大好物だ。なぜか私は好きだから、と毎回のように言う。実際、うちでは私以外あまり食べない。だからといって毎日買われても困る。高齢の身体にとってもどうなのかと思う。日本酒はもっと厄介だ。最近新たに疑いが出た病気の関係で、本当はやめたほうがいい。病院でも説明を受けた。その瞬間はわかったような顔をする。だがすぐ忘れる。ここがいま最も苦慮している部分の一つだ。では隠すのか。隠しても買ってくる。金を持たせないのか。それも現実的ではない。家に閉じ込めるわけにもいかない。結局、こちらが見張り、止め、また忘れられ、また同じことを繰り返すしかない。終わりの見えない徒労感。認知症介護の本当の苦しさは、こういう部分に凝縮している。タオルも同じだ。百均のタオルを毎日のように買ってこられても困る。だが本人にとっては必要なのだろう。いや、必要というより、買うという行為そのものが必要になっているのかもしれない。夜の風呂に落ちているものそして夜。風呂である。もちろん、一番風呂でなければ駄目だ。ここも譲らない。認知症になっても、こういうこだわりだけは驚くほど薄れない。だが、問題はその後だ。毎回ではない。ただ、時折、少しとはいえ、うんちが落ちていることがある。高齢であり、認知症でもある。仕方がない。頭ではそうわかっている。わかっているが、現実として次に入るのは娘であることが多い。だからこちらは、そのまま終えることができない。湯を抜く。洗う。張り替える。予定外の仕事が夜の終わりにまた増える。正直、一番風呂でなければまだ違う。だがそれも無理だ。本人の強いこだわりとこちらの現実がぶつかる時、折れるのはこちら側である。介護とは、こういう小さな敗北を積み重ねながら続いていくものなのだと思う。父と母、そのあいだに立つ者さらにしんどいのは、父がいることだ。父は元々短気だ。そのうえ病気のストレスもあり、身体は思うように動かず、先への不安も強い。母は母で認知症以降、感情の起伏が大きくなり、怒りっぽくなっている。そうなれば当然ぶつかる。この二人のあいだに入るのが私だ。いまの私の最重要課題は、たぶんここにある。介護とは、排泄、食事、通院、薬の管理だけではない。感情の交通整理でもある。誰がどこで爆発しそうか。どちらを先になだめるべきか。今ここで正論を言えば火に油か。それとも黙って聞き流すべきか。そういう判断を一日に何度もする。そして、こちらの怒りはつねに後回しにされる。理不尽なことを言われる。介護者をけなされる。人格を否定される。悪者にされる。それでもこちらまで感情的になったら終わりだ。家は回らない。だから飲み込む。ただただ飲み込む。介護の現場では、飲み込んだものだけがこちらの中に沈殿していく。認知症介護のリアルとは何かここまで書いたことは、まだ一部に過ぎない。本当に一部でしかない。毎日、こういうことが起きる。一つ片付いたと思ったら、また別のことが起きる。説明は消える。努力は残らない。感謝されることは少ない。むしろ、苦労しているこちらのほうが責められることもある。それでもやる。やらなければ日常が崩れるからだ。認知症介護のリアルとは、症状の一覧ではない。徘徊。物忘れ。被害妄想。怒りっぽさ。そういう言葉だけでは足りない。介護する側が、どれだけ感情を飲み込み、どれだけ日々を支え、どれだけ自分の心を削りながら、それでも朝を回し、夜を越えているか。そこまで含めて、ようやく本当の姿になる。きれいごとだけでは持たない。優しさだけでも持たない。根性だけでも持たない。必要なのは工夫と、諦めと、忍耐だ。そして、自分が壊れないための小さな逃げ場である。病院の待合室で見たもの認知症介護の現実は、家の中だけで完結しない。病院へ行けば、また別の形でそれを思い知らされる。大学病院の待合室は、いつも混んでいる。父の時もそうだったし、母の検査でも同じだ。三時間待ちなど珍しくない。駐車場の時点でもうかなり埋まっていて、建物の中に入れば、そこには似たような表情をした人たちが並んでいる。本人より、付き添いの顔のほうが印象に残ることがある。たいていは子ども世代だ。見た感じ、私とそう変わらない年齢の人も多い。みな、よく似た空気をまとっている。疲れている。だが、崩してはいない。その絶妙なところで持ちこたえている。同じことを何度も聞かれる。順番はまだか。ここはどこだ。何をするのだ。帰りたい。そのたびに付き添いの人が答える。また答える。怒らず、なるべくやわらかく。だが、表情の奥ではたしかに削られている。その感じが、見ていてよくわかる。中には、もう限界だろうなと思う人もいる。声を荒げそうになっている人もいる。それでも耐えている。たぶん皆わかっているのだ。ここで感情的になったところで、事態は一つも好転しないと。むしろ悪くなるだけだと。私はああいう待合室に座るたびに思う。介護というものは、家の中で一人だけが苦労しているようでいて、実は同じような綱渡りをしている人が、あちこちにいるのだと。だが、いるからといって楽になるわけではない。救われるわけでもない。ただ、ああ、自分だけではないのだなと、少しだけ息をつける。その程度だ。その程度だが、その程度のことが案外大事でもある。ただ、見ていて本当に大変そうだと思うのは、老夫婦で来ているケースだ。付き添っている側も、すでに危うい。話の筋がずれる。説明がうまくつながらない。先生の問診一つとっても、誰が何を補えばいいのか曖昧になる。あれは相当しんどいと思う。子どもが来ているだけ、まだましなのだろうかと思うこともある。だが、その「まだまし」の中にいる側も、当然しんどい。結局、どこまで行っても楽な介護などないのだと思い知らされる。眠れない介護者の身体介護は、親の身体だけを相手にするものではない。介護者の身体もまた、じわじわ削っていく。私は最近、あまり深く眠れていない。夜中に父の様子を見に行く。母の気配で目が覚める。物音に反応する。見守りカメラを確認する。その繰り返しだ。寝ているようで寝ていない。眠ったつもりでも、身体の底が回復していない。そんな朝が増えた。若い頃なら、寝不足でも何とかなった。一晩くらいなら押し切れた。仕事もして、帰ってまた動けた。だが五十代になると違う。首から背中、腰へと鈍い重さが残る。頭の切れも鈍る。視界もどこか曇る。なのに、介護はそこを待ってくれない。寝ていないから今日は休みます、とはならない。朝は来る。親も起きる。薬もいる。トイレもある。食事もある。つまり、疲れている側が先に動くしかない。これが案外きつい。介護の記事というと、親の状態や出来事が中心になりがちだ。それは当然だ。だが、その裏で介護者の身体も確実に痛んでいく。眠れない。肩がこる。腰が痛い。食事も乱れる。酒に逃げたくなる日もある。それでも、そんな自分の不調は後回しになる。両親のことで手いっぱいだからだ。私は肉体改造だの、睡眠の改善だの、歯の治療だのと書いている。それは見方によっては呑気に見えるかもしれない。だが実際には逆だ。自分の身体のメンテナンスを少しでも意識しておかないと、こちらが先に潰れるという切迫感がある。介護とは、相手を見ることと同時に、自分の壊れ方を見つめ続けることでもあるのだと思う。親子だから難しい介護がきついのは、作業が多いからだけではない。親子だからきつい。そこがかなり大きい。相手が単なる利用者や患者なら、もう少し割り切れるのかもしれない。だが、親は親である。子どもの頃からの記憶がある。言われたくなかった言葉も覚えている。こちらが傷ついた過去もある。逆に、世話になったことも当然ある。恩もある。情もある。だから厄介なのだ。母が理不尽なことを言う。父が怒鳴る。その瞬間、目の前の高齢者を見るだけでは済まない。こちらの中の「親」が立ち上がる。昔からこういうところがあった。あの時もそうだった。そういう記憶まで一緒に出てくる。すると、単なる介護技術では処理できない感情が混じる。病気だから仕方がない。老いだから仕方がない。その理屈はわかる。だが同時に、いや、この人は元気な頃からこういうところがあった、という感覚も消えない。ここが苦い。病気に全部を預けて許すこともできず、元々の性格に全部を押しつけて断罪することもできない。そのあいだで揺れる。親子だからこそ、言葉が刺さる。親子だからこそ、放ってもおけない。親子だからこそ、最後は引き受けてしまう。その重さが、介護にはある。それでも朝は来るそれでも、朝はまた来る。昨夜どれだけ感情が荒れても、どれだけこちらが削られても、どれだけ疲れ果てても、朝になるとまた、今日を回さなければならない。母に声をかける。父の様子を見る。食事を出す。トイレを手伝う。薬を確認する。時には怒鳴られ、時には悪者にされ、それでも家の流れだけは止めないように動く。認知症介護とは、そうやって壊れかけた日常を、毎朝いちから組み直す作業なのかもしれない。昨日うまくいったことが、今日もうまくいくとは限らない。昨日の努力は、今日には消えていることもある。それでもまた同じことを言う。また同じことを支える。また同じことに耐える。報われるとは言い難い。感謝されるとも限らない。むしろ責められることのほうが多い日もある。だが、それでも朝を回す。こちらが止まったら、本当に全部が止まるからだ。だから私は思う。認知症介護のリアルとは、症状の説明ではない。壊れやすくなった親の現実だけでもない。壊れ続ける日常を、壊れたまま毎朝立て直していく家族の手つきこそが、本当のリアルなのだと。最後に、いま介護のただ中にいる方へもし今、同じような介護のただ中にいる方がいたら、私は伝えたい。しんどいのは当然です。腹が立つのも当然です。投げたくなるのも自然です。優しくできない日があるのも、人間として普通です。それでも今日を何とか回しているなら、それだけで十分すごい。認知症介護は、こちらの善意だけでは回らない。だから苦しい。だから疲れる。だから泣きたくなる。だが、それでもなお立ち続けている介護者は、本当にすごいと私は思う。認知症高齢者のリアル。それは介護される側の病気の重さだけではない。介護する側が、どれだけ飲み込み、どれだけ立ち続け、どれだけ自分をすり減らしながら、それでも家を守っているか。その現実まで含めて、ようやく本当のリアルなのだと、私は思っている。
2026.04.25
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介護の合間に編み出した、小さな息抜きの技術|自分を保つということ【50代】ダブル介護が始まってから、自分の時間というものが消えた。両親を見守る時間。娘のケア。妻の負担を少しでも減らすための家事への加担。仕事もある。当然のように、自分のためだけに使う時間は、放っておけばきれいに消えていく。気づけば、ただ日々を回すだけで一日が終わる。朝から晩まで段取りを考え、気を配り、家の中の空気を読み、何とか崩れないように持たせる。そういう生活の中では、自分のための時間は意識して作らない限り、存在しない。だから私は、小さな息抜きのやり方をいくつか編み出してきた。5分、10分の家キャン時間がまったく取れない時。そんな時は、これだ。玄関や縁側にキャンプ用の椅子を置く。そこに座って、コーヒーを飲む。空を眺める。雲の流れを見る。それだけのことだ。大したことではない。だが、この5分、10分が案外効く。家の中にいながら、ほんの少しだけ日常からずれることができる。この「少しだけ」が、今の私にはかなり大きい。妄想旅行という、頭の中の脱出地図を開く。どこへ行くか。どう回るか。どこに泊まるか。頭の中で各地を巡る。私としては、紙の地図のほうがやはり入り込みやすい。スマホやPCは便利だが、どうしても余計な情報が入りやすい。実写の映像まで見えてしまうと、少し違う。妄想旅行は、あくまで頭の中で旅を立ち上げるところに面白さがある。行けないからこそ、想像で深く遊べる。それが今の私にはちょうどいい。小高い丘と、外の空気1時間くらい時間が取れる時は、もう少し動く。ウォーキングや散歩に出る。近所にある、心の避難所の一つである小高い丘へ行く。町並みを見る。風に吹かれる。それだけでも、かなり違う。ずっと家の中にこもっていると、気持ちもまた内へ内へと詰まってくる。だから外の空気に触れることは大事だ。筋トレをすることもある。もっとも、身体と相談しながらである。腰も膝も肩も、何かと主張してくる。それでも少しずつやる。身体を動かしていると、頭の中も少し整理される。掃除も悪くない。無心になれる。目に見えてきれいになる。整っていく感じがある。介護の生活は、どうしても乱れたものを抱え込みやすい。だから何か一つでも整うと、それだけで気持ちが少し前へ向く。新たな息抜きが一つ増えた今回、新しい息抜きを一つ加えた。かつての用賀の街の地図作りである。Googleマップのマイマップを使って作っている。この場所に、この時代に、こういうものがあった。そしてこう変わっていった。そんなことをコメントとして入れていく。店の名前も、わかるものはなるべく記している。やっていて思うのは、意外と忘れていることが多いということだ。覚えているつもりでも、地図の上に置いていくと、抜けている。曖昧になっている。だが、やっているうちにふと思い出すこともある。ああ、ここにはあれがあった。この角にはあの店があった。そういう記憶が、少しずつ浮かんでくる。しかも、これが父とのコミュニケーションにも役立っている。今の不安定な父と話すきっかけとして、これはかなりいい。昔の街のこと。昔あった店のこと。昔の用賀の空気。そういう話になると、父も少し表情が変わる。何かを思い出すこと。それ自体が楽しそうでもある。一石二鳥だと思っている。小さな息抜きは、派手ではないからこそ続く息抜きというと、何か大きな贅沢や特別な外出を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが今の私には、そういうものはなかなか現実的ではない。介護がある。家を空けられない。時間も細切れだ。だからこそ、小さな息抜きを自分で作るしかない。5分の家キャン。妄想旅行。小高い丘。筋トレ。掃除。昔の用賀の地図作り。こうして並べると、どれも派手ではない。だが、派手ではないからこそ続く。続くからこそ、自分を保てる。介護のある暮らしでは、自分を後回しにしすぎると、気づかないうちに心が痩せていく。だから、こういう小さな余暇は必要なのだと思う。逃げではない。持ちこたえるための技術だ。新たな息抜きが一つ増えた。それだけでも、少し前向きになれる。さあ、またがんばろう。今は、そんなふうに思っている。
2026.04.24
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介護の朝は突然に…#25 母の精密検査、父の留守番、眠れぬ朝を越える【50代】今日も朝から慌ただしかった。介護のある暮らしでは、静かな朝などそうそうない。何も起きていないように見えても、頭の中では常に段取りが動いている。誰を先に見るか。何を先に済ませるか。どこで時間を作るか。そういうことを考えながら、朝はもう始まっている。今日はまず、母を大学病院へ妻と送り届けるところからだった。20日の朝。やはり病院はかなり混んでいた。それでも何とか間に合った。まずはそれだけで一つ山を越えたような気持ちになる。今日の検査は、多血症の疑いが出てきたことで、それを詳しく調べるためのものだった。訪問医療に切り替えてからの血液検査で、その可能性を指摘された。そこから結局、精密検査は大学病院で受けることになった。ようやく脳神経外科のほうは訪問医療へほぼ移行できたばかりだったのに、また大学病院に戻る流れが出てくる。仕方がない。仕方がないのだが、介護というものは、ひとつ落ち着いたと思ったところにまた別の課題を置いてくる。多血症という言葉自体、そうそう身近なものではない。だが内容を見ていくと、なかなか厄介だ。血液が濃くなる。いわゆるドロドロの状態に近づく。そうなることで、全身の細い血管に血が行き渡りにくくなったり、逆に血管に負担がかかったりする。顔のほてり、赤ら顔。頭痛やめまい。かゆみ。目の充血。耳鳴りや視界のかすみ。そしていちばん怖いのは、血栓だ。脳梗塞や心筋梗塞につながる可能性もある。高血圧や痛風の原因にもなりうる。こうして並べると、決して軽い話ではない。治療としては、増えすぎた血液を抜いて濃度を下げる瀉血や、血栓を防ぐ薬、細胞の増え方を抑える薬などがあるらしい。原因が別にある場合は、そちらを治す必要もある。母はもともと血圧が高く、薬も飲んでいる。今回も、たまたま血液検査でその疑いを指摘された形だ。ひとまず、もともと撮っていたMRIのデータからは血管系の異常はなかったようで、そこは少し安心材料ではある。だが、血液がドロドロ気味なのは事実らしい。そうなると、やはり酒は控えたほうがいい。だが、これがまた難しい。完全にやめるのは、おそらく無理だろう。隠しても買ってきてしまう。知らない間に飲んでしまう姿も目に見える。だからといって、お金を一切持たせないわけにもいかない。家の中にずっと閉じ込めておくようなこともできない。病院で聞いたその瞬間は理解したように見えても、すぐ忘れてしまう。認知症というのは、こういう時に改めてこちらへ重くのしかかる。この戦いも長くなりそうだと思った。しかも、今日は母を病院へ連れて行っている間、父が一人の時間を長く過ごすことになる。そこも心配だった。今の父の状態で、長く目を離すのはやはり気がかりである。だから仕事の合間に、カメラで何度も確認した。電話もした。直接そばにはいられない。だが、見ないわけにもいかない。こういう綱渡りのようなことを、介護のある暮らしでは当たり前のようにやることになる。今日は自分自身の状態も、正直かなりきつかった。睡眠は三時間くらい。あまりにも短い。最近は寝ているようで寝ていない日も多いが、今日はその中でもきついほうだった。首から背中、腰にかけて痛みもある。肉体改造だ何だと言っているが、まずこちらの身体のメンテナンスも考えないといけないなと思う。若い頃のように、寝不足でもそのまま押し切れる感じではない。それでも押し切ってしまっているのが、また少し厄介でもある。だが、何とか乗り切った。本当に、それしかない。今日を越える。朝を回す。病院へ送り届ける。父を見守る。仕事もこなす。身体は痛い。眠い。それでも立つ。立ってやる。今の私は、そうやって日々をつないでいる。介護の朝は、やはり突然に来る。そして朝だけで終わらない。病気の話も、親の気分も、病院の混雑も、認知症ゆえの難しさも、こちらの寝不足も、全部まとめて来る。そのたびにこちらは削られる。だが、削られたままでは終わらない。終わってたまるかという気持ちで、また次へ向かうしかない。母の検査も、父の余命も、まだ先は見えない。だが、見えないからといって止まるわけにもいかない。私がやるしかないことは、まだまだ山ほどある。だったらやる。しんどくてもやる。気持ちが落ちてもやる。そういう時期なのだと思う。とりあえず今夜は、湿布でも貼っておこう。そのくらいの小さな手当てでも、今は大事だ。大きな答えなどすぐには出ない。だからこそ、小さく立て直しながら前へ進む。介護の朝は突然に。同じように頑張っている読者の人達もいる。同じ悩みや、境遇の人もいる。もっと大変な人達もいる。だから、私も簡単には折れない。そう自分に言い聞かせながら、今日もまた一日を終えようとしている。
2026.04.23
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笑いの臨界点 #27 指紋が急に私を拒むコンビニを出た。駅を出た。家の前まで来た。今日はスムーズだった。忘れ物もない。つまずきもない。人として合格。……のはずだった。ポケットからスマホを出す。いつもの動作。いつもの角度。いつもの親指。そしてロック解除。……解除されない。もう一回。解除されない。もう一回。解除されない。私はここで、静かに自分の存在を疑い始める。私の指なのに。私のスマホなのに。私の人生なのに。なぜ。指紋認証というのは未来の技術のはずだ。「あなたです」と言えば「あなたですね」と開くはずだ。なのに今日は、冷たい。まるで昨日まで仲が良かった相手が急に敬語になったみたいにスマホが距離を取ってくる。私は指を拭いた。服で。意味はない。だがやる。もう一度。解除されない。私は焦った。焦ると指が雑になる。雑になると認証されない。認証されないと焦る。完璧な循環である。周囲には誰もいない。だがこの瞬間、私は社会から置き去りにされた気分になる。現代でスマホが開かないというのは、財布がないより怖いときがある。財布は最悪、現金でなんとかなる。スマホは、なんともならない。私はパスコードを打とうとして、一瞬止まった。これを打ったら負けだ。という謎のプライドが出る。指紋で開け。いつも通りで行け。ここでパスコードに逃げたら人類の進歩が泣く。誰が泣くのかは知らない。だが泣く。私はもう一度、丁寧に親指を置いた。……解除。開いた。あっさり。驚くほどあっさり。私は勝った。勝ったというより、許された。画面が開いた瞬間、私の中の緊張がほどけた。そして同時に、さっきまでの自分の必死さが少しだけ滑稽に見えた。自分の指に拒まれただけで、ここまで心が揺れるのか。でもこれが今の生活だ。鍵は指。財布はアプリ。連絡先は雲の上。時間も予定も、全部ここ。だからこの小さな拒否は、意外と大きい。私はスマホをしまい、家の鍵を開けた。鍵はふつうに開いた。その瞬間、私はちょっと安心した。少なくとも私はまだ、金属の世界には受け入れられている。スマホには拒まれる日がある。だが鍵は、今のところ私に優しい。そして私は思う。明日また指紋が通らなかったら、今度は潔くパスコードを打とう。人類の進歩より、私の時間のほうが大事だ。そういうふうに大人は未来と折り合いをつけていく。
2026.04.22
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ロスジェネ脱線学 #29 駐輪場の番号が思い出せない夜停めたはずなのに、自分だけが取り残される私は1974年生まれだ。ロスジェネ氷河期第一世代。人生のだいたいは、探しものをしながら進んできた気がする。仕事。居場所。報われ方。そして今夜は、自転車である。スーパーを出た。エコバッグは少し重い。惣菜と豆腐と、安かったバナナ。派手さはないが、これで今夜はどうにかなる。そういう買い物を終えて、私は駐輪場へ向かった。停めたはずなのだ。たしかに停めた。番号も見た気がする。見た気がするのに、着いてみると、その「見た気」がものすごく頼りない。14番だったか。18番だったか。いや、21番かもしれない。機械式の駐輪場は、妙に無機質だ。番号。ランプ。精算機。すべてが正しい顔をして立っている。間違っているのは、こちらだけみたいな気分になる。私は小銭を手にしながら、ひとつずつ見て回る。違う。これでもない。あれ、自分の自転車って、こんな色だったか。疲れてくると、記憶だけでなく、自信まで薄くなる。若い頃は、こんなことは少なかった。もっと頭も身体も、雑に使えていた。駅前に自転車を置いて、何も考えず戻れた。場所も、流れも、自分の中に勝手に入っていた。今は違う。一つひとつ確認しないと、どこかでほどける。財布。スマホ。ポイント。レシート。ビニール袋。そして今夜は、駐輪場の番号。50代になるというのは、大きく何かが壊れることではない。小さなことが、少しずつ一発で決まらなくなることだ。それが地味に効く。誰にもわからないところで、静かに効く。それでも、私はこの感じを少し知っている。ロスジェネの人生そのものだからだ。停めた場所がわからない。自分の番号が曖昧になる。社会に出た頃から、ずっとそんな感じだった。ここだと思った場所に、席はなかった。頑張れば届くと言われた先に、急にはしごが外れることもあった。なのに、探すのをやめるわけにはいかなかった。だから今夜も、私は番号を追う。17。違う。18。違う。19。あった。あった瞬間、胸の奥で小さく何かがほどけた。たったそれだけのことなのに、少し嬉しい。誰にも褒められない。ドラマにもならない。だが、こういう小さな回収で、人は案外もっている。精算を済ませ、自転車を引き出す。カゴの中にエコバッグを入れる。夜風が少し冷たい。店の明かりはもう背中側だ。思えば、人生もずっとこんなふうだった。なくしたと思っていたものが、少し先の番号のところで見つかる。すぐには出てこない。手間もかかる。たまに情けなくもなる。それでも、見つかったときには、ちゃんと自分のものとして戻ってくる。ロスジェネの脱線学は、たぶんその繰り返しだ。まっすぐ行けない。一度で決まらない。でも、探し直して、確かめ直して、最後には持って帰る。今夜の私は、駐輪場で少しだけ自分を見失い、少しだけ取り戻した。それで十分だと思った。完璧ではないが、ちゃんと帰れる。50代の夜としては、悪くない。
2026.04.21
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一瞬永遠 第33幕 名もない景色音はもう届かない光も形を保てずどこかへ滲んでいる意識はゆるやかにほどけ境界を失っていく見覚えのある道知らないはずの部屋誰かの背中それらが順序もなく現れ意味も持たず通り過ぎる私はそこにいるのか見ているだけなのかはっきりしないただ流れていく胸の奥でふと懐かしさに似た感覚がよぎりわずかに身体が浮いた次の瞬間にはもう消えている追いかけない留めないここではすべてがそのまま過ぎていく時間も名前も理由もなくそれでも確かに何かは在る一瞬とも永遠とも呼べないただの流れその中で私は静かにほどけていく
2026.04.20
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用賀の空き地と坂道とファミコン 昭和生まれ50代の心に残った地図 小学四年生が拾い集めた、昭和の余韻と孤独の温度時間が余っていた街小学四年生のころ。私は用賀に住んでいた。麻布から引っ越して、二年が過ぎた頃。あの頃の用賀は今思えば、街そのものが深呼吸しているような場所だった。時間は急がず、人も急がず。風景だけがゆっくりと季節を運んでいた。令和の効率主義からは想像もできない、時間が余っていた時代。胸の奥が、少し痛む。片道二十分の坂道に、寄り道という本番があった学校までは、片道二十分ほど。しかも、なかなかの坂道。身体の小さかった私は、今なら「大変だっただろう」と周囲が同情するだろうに、当時はそんな感覚はまるでなかった。なにしろ、寄り道が本番だったからだ。通学路には、まだ畑が残っていて、草むらにはバッタがいた。ランドセルを背負ったまま、網も持たずに飛び込んでいって、素手で捕まえる。今なら怒られそうなことも、あの頃は「子どもの日常」だった。効率もタイパもコスパも、誰も口にしなかった時代。子どもは、ただ寄り道をして、バッタを追いかけて、それで良かった。昭和は、寛容だった。いや、時間が寛容だった。背の順、前から三番目 守られていた記憶学校では、背の順は前から三番目。小さすぎるわけでもないが、決して大きくもない。そのせいか、いじめられることもあった。けれど不思議なことに、私はいつも「強い友達」に恵まれていた。気がつけば、誰かが前に立ってくれていた。あの頃の私は、自分が思っている以上に、守られて生きていたのだと思う。クラブは将棋クラブ。小さい頃から駒には触れていたから、流れるようにそこに収まった。委員会は図書委員。委員会はたしか五年生からだった気もする。本の匂いと、静かな空気が、なんとなく好きだった。言葉にならない感情を、静寂が受け止めてくれた。かぎっ子の夜 アニメの光が埋めた孤独家に帰れば、誰もいない。いわゆる「かぎっ子」だった。二年生からずっと。両親は帰りが遅く、夜はいつも一人。今思えば、あれはなかなかに心細い時間だった。けれど当時は、夜にもアニメがあった。テレビの光と、聞き慣れた主題歌が、静かな部屋の隙間を埋めてくれた。孤独を孤独と認識する前に、アニメが救ってくれた。あの頃の私にとって、テレビは「家族」だったのかもしれない。一人でいることに慣れすぎた子どもは、大人になってからも、どこか一人でいることを恐れなくなる。それが良いことなのか悪いことなのか、今でもわからない。塾という名の居場所 理不尽で、優しくて、人間臭い大人塾には通っていた。三年生までやっていた公文をやめて、いわゆる「普通の塾」へ。そこの先生は、正直、今の基準ならアウトな人だったと思う。体罰もあったし、怖い先生だった。でも、その先生は、ある日ふいに言うのだ。「今日は勉強なし、パーティーな」お菓子とジュースを山ほど買い込んだり、マックでハンバーガーを買ってきたり。理不尽で、優しくて、どこか人間臭い大人だった。私は中三までそこに通い、なぜか高一になっても少し面倒を見てもらった。今思えば、あの塾は「勉強の場所」より、「居場所」だったのかもしれない。昭和の大人は、矛盾していた。でもその矛盾こそが、人間の温度だった。習い事という名の彷徨 ピアノ、水泳、体操他にも、ピアノ、水泳、体操。そういえば、結構いろいろやっていた。幼少期からやっていた合気道は、この頃にはもうやめていた。塾へ行く前には、コロッケ屋や大判焼きの店で腹ごしらえをしたり、時には銭湯に寄ってから行ったりもした。銭湯はある意味、子供にとっては遊び場でもあった。駄菓子屋も、まだ何軒も残っていた時代だ。10円や20円で買える幸福が、確かに存在していた。ベビースターラーメン、うまい棒、チロルチョコ。子どもの経済圏は、小さくて、温かかった。歯医者は、大井町まで一人で通っていた。小二からだ。今考えると、なかなかの距離だが、当時はそれが「普通」だった。子どもに対する信頼があった。いや、放任と信頼の境界が、曖昧だった。空き地だらけの用賀 昭和が残した空気駅前には、まだビルなんてなかった。モータープールの跡地は、塀に囲まれた空き地。玉電の跡地も、まだ空き地のまま。今は道路になっているが、当時は「やたら空き地の多い街」だった気がする。盆踊りは、その玉電跡地の空き地でやっていた。商店街も、今ほど店はなく、昔ながらの店がぽつぽつと並んでいるだけ。スーパーは駅前の小さなOK(いまでこそ有名だが、この頃はマイナー)と、個人商店みたいな店が一軒。あとは、中華屋と寿司屋がちらほら、という程度だった。空き地は、子どもの遊び場であり、街の元気の象徴だった。今のように、すべてが埋め尽くされて、効率化された街ではなかった。用賀は、まだ昭和のままだった。親友という名の喪失 引っ越しが教えた別れの重さそして、この頃。親友が引っ越した。用賀に来て、初めてできた「本当の友達」だった。だから、ショックは大きかった。翌年、五年生になって、また親友と呼べる友達ができた。けれど、その子も六年生になるときに引っ越した。しかもアフリカへ。この頃から、なぜか「仲良くなると、いなくなる」というジンクスが、私の中にできてしまった。中一のときにも、また一人、引っ越していった。今思えば、あれは私にとって「別れ」という概念を学ぶ、最初の教室だった。人は去っていく。いつまでも一緒にはいられない。この感覚が、後の人生に深く影響を与えたことは、疑いようがない。ファミコンという衝撃 テレビが世界を広げた瞬間四年生といえば、忘れられない衝撃がある。友達の家でやった、ファミコンだ。発売されたばかりの頃。それまでゲームウォッチはやっていたが、「家のテレビで、こんなことができるのか」と、心底驚いた。しばらくして、うちでも買ってもらった。夜、一人でも、少しだけ寂しさが紛れた。ファミコンは、孤独を埋める装置だった。いや、孤独と向き合う方法を教えてくれた装置だった。一人でも楽しめる。一人でも世界がある。この感覚が、今の私にまで続いている。時間が余っていた街で拾ったもの思う。あの頃の用賀には、時間が余っていた。空き地があり、寄り道があり、夕方が長かった。そして、あの頃の私は、小さな身体で、少し寂しくて、でも確かに、世界の真ん中を歩いていた。もう戻れない。でも、あの風景は、今も私の中で、静かに息をしている。それだけで、たぶん、十分なんだと思う。昭和という時代は、不便で、非効率で、矛盾だらけだった。でも、そこには確かに「人の温度」があった。寄り道を許す寛容さがあった。孤独を埋める優しさがあった。私たちロスジェネ氷河期第一世代は、昭和の最後の残り香を吸い込んだ世代だ。だからこそ、今の時代に違和感を覚える。効率、タイパ、コスパすべてが数値化され、最適化される世界。でも、本当に大切なものは、数値化できない。用賀で拾い集めた記憶。寄り道で捕まえたバッタ。一人で見たアニメ。理不尽な塾の先生。引っ越していった親友。これらすべてが、今の私を形作っている。あとがき 記憶という財産1974年1月生まれ、現在52歳。用賀での日々は、もう20年以上前のことだ。でも、不思議なことに、あの頃の記憶は色褪せない。むしろ、年を重ねるごとに、その価値が増していく。記憶は、時間が経つほど深くなる。今、末期がんの父と認知症の母を介護しながら、発達障害の娘と向き合う日々。この状況の中で、ふと用賀の風景が蘇る。あの頃の孤独が、今の孤独と重なる。でも、あの頃の私が乗り越えたように、今の私も乗り越えられる。過去は、未来を支える土台になる。もしあなたが同世代なら、きっと似たような記憶を持っているはずだ。空き地、駄菓子屋、アニメ、ファミコン。もしあなたが若い世代なら、「そんな時代があったのか」と感じてほしい。効率化される前の、時間が余っていた時代のことを。私たちの記憶は、次の世代への贈り物でもある。昭和の記憶を胸に、令和を歩いていく。それが、私たちロスジェネ氷河期第一世代の生き方なのだと思う。
2026.04.19
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ようやく歯科治療が終わった 身体のメンテナンスは後回しにしない【50代】ようやく、歯科治療が終わった。長かった。本当に長かった。期間にして、8か月くらいだろうか。とはいえ、月に一回くらいのペースだったので、そこは仕方がない。一気に詰めて終わるような話でもなかったし、内容的にも全体を見ながら少しずつ進めていく感じだった。虫歯の治療ではなかった。どちらかと言えば、歯周病の手前に入りかけているところがあり、全体的に整えていく流れだった。痛みも、そこまで強くはなかった。だから余計に、後回しにしようと思えばできたのだと思う。きっかけは、歯茎の腫れだった。あれがなければ、たぶんもう少し先送りにしていたかもしれない。まだ大丈夫だろう。忙しいし。今は時間がないし。そのうちでいいだろう。医者に行かない理由というのは、いくらでも作れてしまう。そして人は、そういう理由を作るのが案外うまい。私もその一人である。どうしても医者というのは足が遠くなりがちだ。特に、痛みが強くないと余計そうなる。緊急性がないように見える。だから優先順位が下がる。その結果、気づいた時には意外と進んでいた、ということもあり得る。だが、50代からはそれではまずいのだと思う。もっと早めに。もっと前倒しで。少し気になる時点で動く。それくらいでちょうどいい。むしろ、それを意識しないと大きなことになりかねない年代なのだろう。今回、今の年齢で全体的に見てもらえたことは、本当によかったと思っている。痛くなってからではない。問題が大きくなってからでもない。歯を失ってからでもない。そうなる前に、ちゃんと手をかけられた。そこは一つ、自分でも評価していい気がする。もちろん、治療が終わったからすべて終わりではない。ここから先がむしろ大事なのだろう。2か月後に点検。その後は3か月ごと。そんな流れで、定期的に通うことにした。終わったからもういい、ではなく、保つために通う。この発想に切り替えないと、せっかく整えたものもまた崩れていく。歯というのは、放っておいて悪くなることはあっても、放っておいてよくなることはまずない。そこが実に現実的だ。今回もし、歯茎の状態をそのままにしていたらどうなっていただろう。歯を失っていたかもしれない。歯周病が進んで、他の病気にまでつながっていたかもしれない。そう思うと、やはり怖い。最近はよく言われるが、歯や歯茎の状態は口の中だけの問題ではない。身体全体にも響く。年齢を重ねるほど、そういうことは軽く見ないほうがいいのだと思う。長かった。だが、ようやく一区切りついた。この「一区切り」が、今は地味にうれしい。派手な達成感ではない。だが、やるべきことを一つ終えた。それだけで、気持ちは少し軽くなる。これで、今年の目標をまた一つ達成したことになる。そして次は夏あたりに胃と大腸カメラをやりたいと思っている。これもまた、後回しにしようと思えばいくらでもできる。だが、だからこそやる。50代の身体のメンテナンスというのは、何か悪くなってから駆け込むのではなく、何もないうちに確認しておくことが大事なのだと思う。歯もそう。目もそう。胃も腸もそう。身体はまだ使う。この先も使いたい。だから、面倒でも見ておく。それが今の自分には必要な感覚なのだろう。読者の皆様は、定期的な身体のメンテナンスをしていますか。同年代の方は特に、である。忙しい。面倒だ。まだ大丈夫だ。その気持ちはよくわかる。私もずっとそちら側だった。だが、50代からは、早め早めのほうがたぶんいい。大事になってからでは、身体も気持ちも余計に削られる。だから、少し気になる時点で動く。それを今年は、自分にも言い聞かせながらやっていこうと思っている。歯科治療、ようやく終了。まずはここで一区切り。また、次のメンテナンスへ向かうつもりである。読者の皆さんは、ご自身の身体メンテナンスしてますか?
2026.04.18
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直せないものを抱えて、生きている|元CEの私が介護で知ったこと機械は直せた。けれど、人の老いは直せない。第1章 夜の呼び出しは、まだ終わらない記録時刻 2:17事象 母の呼ぶ声で起床対応 起き上がり、確認、声かけ、移動介助備考 夜は、終わったと思ってからが長い午前二時すぎ。いちど眠りに落ちた身体が、名前を呼ばれる声で引き戻される。最初は夢の続きかと思った。だが違う。耳だけが先に現実へ戻る。深夜のコールを受けた時もそうだった。ベルが鳴る。電話が鳴る。呼ばれる。身体より先に、意識だけが持っていかれる。「ちょっと来て」母の声は大きくない。けれど、ためらいがない。それがかえって切実だった。布団をはね、足を床に下ろす。夜の床は冷たい。寝ぼけた頭のまま廊下に出る。暗がりの先に、母の気配がある。昔、夜間の修理受付から連絡が入ったあと、工具鞄をつかんで外へ出た時の感覚を、こんなところで思い出すとは思わなかった。あの頃の私は、FAXのカスタマーエンジニア(CE)だった。呼ばれれば行った。昼でも夜でも、故障のある場所へ向かった。紙が詰まった。送れない。受けられない。線が死んでいるのか、本体なのか、相手先なのか。原因を切り分け、順番にあたりをつけ、ひとつずつ潰していく。それが仕事だった。深夜の呼び出しは、決して気分のいいものではなかった。だが、まだわかりやすかった。相手は機械だった。壊れている箇所があり、直る可能性があった。いま目の前にいるのは、機械ではない。母だ。夜中に呼ばれる理由は、毎回少しずつ違う。トイレに行きたいのか。不安なのか。ただ、誰かがいてほしいのか。「どうした?」そう聞くと、母は少し怒ったような、困ったような顔をする。自分でもうまく説明できないのだろう。原因不明。再現性なし。マニュアル外。昔の仕事なら、いちばん厄介なやつだ。それでも、こちらは止まれない。声の調子を見る。足元を見る。部屋の空気を見る。どこまで意識がはっきりしているかを探る。いま必要なのは理屈ではなく、手順だ。声を荒げない。急がせない。転ばせない。夜はそれだけで難易度が上がる。母の腕に手を添える。軽い。けれど、老いは軽くない。こちらが支えているのは腕一本ではなく、その人が生きてきた年数なのだと思うことがある。なんとか移動し、座ってもらい、水を飲ませる。ほんの数分のことなのに、こちらの神経はすっかり目を覚ましている。夜中に一度こうなると、身体は朝まで警戒を解かない。昔の私は、呼ばれた先で機械を前にしていた。いまの私は、家の中で母を前にしている。場所も相手も違うのに、呼ばれる側の身体だけは妙に覚えている。完全には眠れないこと。どこかで次を待ってしまうこと。ひとつ片づいても、それで終わりとは限らないこと。夜間コールの仕事には、いつか朝が来れば終業があった。だが介護には、その区切りがない。夜が終わって朝になるのではない。夜の続きのまま、朝が始まるだけだ。母が少し落ち着き、私は自室へ戻る。布団に入り直しても、眠気はさっきの場所にはもういない。耳だけが立っている。直せないものを前にした夜は、長い。いや、長いというより、終わり方がわからない。それでも私は、また横になる。ただ、暗い部屋で目を閉じ、次の声に備える。あの頃と違って、いま守っているのは機械ではない。ひとりの母と、この家の朝だ。そしてたぶん、夜が終われば朝になる、という考え方は、もうこの暮らしには通用しない。引継事項 夜は、終わったあとにもう一度始まることがある。第2章 介護の朝は突然に来る記録時刻 5:08事象 寝室から異変の気配対応 起床、確認、清掃、着替え、洗濯、各所連絡備考 朝は始まるのではない。もう途中から始まっている気がつくと、部屋が少し明るくなっていた。眠ったのか、眠れていないのか、自分でもよくわからない。身体はまるで休んだ気がしていなかった。耳だけが先に朝を拾う。音というより気配だった。何かがずれている時の、あの独特の気配だ。布団を出る。時計を見る。まだ五時を少し回ったところだった。朝と呼ぶには早い。だが、この暮らしでは時間の名前にあまり意味はない。寝室へ向かう。戸を開けた瞬間、状況はすぐにわかった。やってしまったのだ。母が、ではない。起きてしまった出来事が、という意味である。布団、パジャマ、足元。順番に目に入る。一瞬だけ、頭の中でいくつかの段取りが同時に走る。転倒がないか。母の意識はどうか。着替えが先か、清掃が先か。必要なら連絡はどうするか。考えているようで、ほとんど反射だった。こういう時、感情は後ろへ回される。大変だとか、つらいとか、そんなものは一度脇へ退く。先にやることがある。昔もそうだった。トナーで真っ黒になった内部を前にしても、まずは原因確認と復旧見込みだった。気持ちは、そのあとだった。「大丈夫、大丈夫だから」自分に言っているのか、母に言っているのか、わからない声が出る。母は申し訳なさそうな顔をしていた。こちらがその顔を見るのがいちばんつらいと、たぶん本人は知らない。責めても何も戻らない。急がせてもいいことはひとつもない。だからこそ、声だけは乱さないようにする。着替えを用意する。身体を支える。汚れたものをまとめる。床を拭く。シーツを外す。窓を少し開ける。家の中に新しい空気を入れる。こうして書けば手順のようだが、実際にはそんなにきれいに進まない。途中で母が同じことを聞く。立とうとする。寒いと言う。不安だと言う。こちらはそのたびに動きを止め、やり直し、また戻る。朝の介護は、一本道ではない。枝分かれだらけの細い道を、その場その場で選び続けるようなものだ。ひととおり片づいた頃には、空はもう朝の色になっていた。世の中では、これから一日が始まる時間だろう。その同じ朝に、こちらはすでに一度、ひと仕事どころではないものを終えている。いや、終えてはいない。これもまた途中だ。朝食、服薬、様子の確認、その先の予定。予定表どおりに進む朝など、ほとんどない。それでも、こちらは予定を持たないわけにはいかない。崩れる前提で、組む。乱れる前提で、整える。それがこの暮らしの朝だ。私は洗濯機の音を聞きながら、台所に立つ。一日が、また始まってしまったのだと思う。けれど同時に、今日もここまで来られたのだとも思う。無事だった、という言葉は、若い頃にはもっと軽かった。いまの無事は、もっと細かく、もっと切実だ。転ばなかった。怪我をしなかった。朝を越えられた。それだけで、十分に重い。この暮らしでは、朝は静かに始まるものではない。夜の続きを引きずったまま、少し乱れた息の上に置かれる。こちらが整うのを待ってはくれない。だから私は、次の段取りへ進む。今日も無事だった。その一言が、前よりずっと遠い場所にある朝だった。引継事項 朝は整えて迎えるものではなく、乱れたまま引き受ける日もある。第3章 白紙に戻る朝を前にして記録時刻 7:41事象 同じ説明を、また最初から繰り返す対応 声かけ、確認、準備、見守り備考 昨日が消えても、朝はまた来る朝食を終えたあとだった。ようやくひと息つけるかと思った頃に、母がふいにこちらを見る。「今日はどうするんだっけ」その言い方に、私はいちどだけ時を止められる。昨夜も話した。今朝も話した。さっきも話した。けれど、そこに責める気持ちを差し込んでも、何も始まらない。こちらの声の角が、ただ家の空気を荒らすだけだ。「今日はデイサービスだよ」なるべくやわらかく答える。すると母は、少し安心したような顔をして、「そうだったか」と言う。だが、その安心は長くはもたない。数分もすれば、また同じ朝に戻ることがある。「今日はどうするんだっけ」白紙だ。見事なくらい、白紙に戻る。昨日までの話も、今朝交わした言葉も、ついさっきの確認も、きれいに消えている。ただ、消しゴムの粉だけが舞って、机の上だけが少し散らかったような感じがこちらに残る。認知症という言葉は知っている。だが、実際にそれを毎朝の光の中で受け取るのは別の話だった。知識として知っていることと、生活の中で何度も差し出されることのあいだには、深い溝がある。母は悪くない。わかっている。忘れようと思って忘れているわけではない。それでも、胸の奥に小さな疲れがたまっていく。説明したことが届かなかった疲れではない。届いたものが、残らない疲れだ。昔、修理の仕事をしていた頃、不具合の再現が取れない機械がいちばん厄介だった。けれど、いま目の前にいるのは機械ではない。再現しない不具合ではなく、消えてしまう記憶そのものだ。母は服を見て、「これでいいのかね」と聞く。私は「大丈夫」と答える。その数分後に、また同じことを聞かれる。同じやり取りが輪のようにつながり、朝の中にいくつも重なっていく。こちらが試されているのは、やさしさというより持久力なのだと思うことがある。一回や二回なら、たいていの人はやさしくできる。問題は、その十回目、二十回目だ。介護には力仕事もある。段取りも要る。判断もある。だが、その土台には、同じことを同じ重さで受け止め続ける、見えにくい体力がいる。出かける支度をしながら、母は急に昔の話をする。さっきまでの会話より鮮やかに言う。その時の母の顔には、さっきまでの不安とは別の光が差す。新しい記憶からこぼれていく。古い記憶の奥では、まだ生きている。迎えの時間が近づき、私は靴をそろえ、荷物を確認し、もう一度声をかける。母は少し緊張した顔で立ち上がる。二回目なのに、初めてに近い。いや、本人の中では、そのたびに本当に初めてなのだろう。私は「大丈夫だよ」と言う。この言葉も、今日はもう何度目かわからない。だが、数えないほうがいいのかもしれない。残ることを期待しすぎると、こちらが削れていく。残らなくても、その場で少し安心してくれたなら、それでいい。そう思うしかない朝がある。白紙に戻る。そのたびに、こちらがまた書き直す。昨日の続きを読んでもらうのではなく、今日の最初の一行を、何度でも差し出す。認知症の介護とは、そういう作業に似ている。玄関先で母を見送りながら、私は思う。この朝もまた、何かを失いながら進んでいる。けれど同時に、失われるばかりでもない。忘れてしまっても、不安の中でこちらを探す目は残っている。人は記憶だけでできているわけではないのだと、こういう朝に教えられる。母を乗せた車がゆっくり動き出す。静かになった玄関に立ちながら、私はようやく息を吐く。だがこちらだけが知っている。この明るさの下で、何度も同じ言葉を手渡し、何度も小さく受け取り直してきたことを。そして、その繰り返しの先に、いつか答えがあるわけでもない。あるのはただ、また次の朝だ。引継事項 消えていく記憶の前では、同じ言葉を何度でも最初のように渡す。第4章 その決断の重さに触れた夜記録時刻 21:36事象 延命と蘇生に関する確認書類を前にする対応 説明を受ける、読む、迷う、考える、署名する備考 決めることは、割り切ることではないその夜は、いつもより静かだった。母が眠り、家の中の物音もひと通り引いたあと、私はテーブルの上に置かれた紙を見ていた。たった数枚だった。だが、重さは紙の枚数では決まらないらしい。そこに書かれているのは、手続きでも案内でもなく、もっと先の話だった。容体が急変した時、どこまで処置を望むのか。蘇生をどう考えるのか。延命をどう受け止めるのか。要するに、命が大きく傾いた時、こちらは何を選ぶのかという話だった。こういうものは、もっと遠い場所の話だと思っていた。けれど、順番が来たのだ。静かに、逃げ場のない形で。説明を受けている間、私は何度もうなずいた。言葉の意味がわからなかったわけではない。むしろ、わかるからこそつらかった。一つ一つの文が、未来のある場面を勝手に連れてくる。選ぶとは、想像することだった。想像するとは、まだ起きていない別れを、少し先に触ってしまうことだった。私はこれまで、いろいろな故障と向き合ってきた。だが人の命は、そんなふうにはいかない。前兆があっても、その通りには進まない。そして何より、そこにあるのは修理ではなく、生きることそのものだ。紙を見ながら、私は何度も思った。これは誰のための決断なのだろう、と。母のためか。家族のためか。あるいは、これから先の混乱の中で、誰かが迷い続けなくて済むようにするためなのか。正しい答えがあるなら、まだ楽だった。だが、こういうものに限って、あとから採点できない。選んだほうが正しかったのか。選ばなかったほうがよかったのか。たぶん完全にはわからない。母の寝息が、別の部屋からかすかに聞こえる。その気配があるだけで、紙に書かれた言葉は急に生々しくなる。この人の未来を前にして、自分は印をつけようとしている。その事実に、手が止まる。決断という言葉は、もっと鋭いものだと思っていた。けれど実際には、断ち切れないまま引き受けることのほうが近かった。迷いは残る。気持ちも揺れる。そのうえで、どこかに線を引かなくてはならない。それが、あの夜の決断だった。私は何度かペンを持ち直し、ようやく名前を書いた。書いた瞬間に覚悟が決まるわけではない。ただ、戻れない場所へ一歩出た感じだけが、確かにあった。母のために考えたつもりだった。けれど同時に、自分がこれから負うものの重さも、そこには含まれていた。選ぶということは、あとでその選択と一緒に生きるということでもある。それでも、朝になればまた介護は始まる。大きすぎる問いだけを抱えて、そこに立ち止まることは許されない。人生はときどき、答えの出ない問題を胸ポケットに入れたまま、次の現場へ向かわせる。その夜、私は決めたというより、触れたのだと思う。命にまつわる判断の重さに。人を支えるということの、きれいごとでは済まない部分に。眠ろうとしても、すぐには眠れなかった。けれど、その重さから逃げないことも、たぶん介護の一部なのだろう。世話をすることだけではなく、決めなければならない場面から目をそらさないこと。それもまた、家族の仕事なのだと思った。そして私は、その夜ようやく知った。支えるとは、手を貸すことだけではない。いつか来るかもしれない最終の判断に、震えながらも席を外さないことでもあるのだと。引継事項 決めたことに迷いが残るのは、間違いではなく人間の重さである。第5章 眠れない身体で、明日を迎える記録時刻 3:48事象 眠っているはずなのに、意識だけが起きている対応 目を閉じる、水を飲む、寝返りを打つ、耳を澄ます備考 休むことと、止まることは違う夜中に何度目かの寝返りを打って、私は自分がまだ起きていることを知る。時計を見なくてもわかる。眠れていない時の時間には、独特の手触りがある。目は閉じている。身体も横になっている。けれど、眠りだけがこちらへ降りてこない。介護をするようになってから、私は眠りを以前のようには信用しなくなった。若い頃は、寝るとは切れることだった。いまは違う。眠りの中にいても、どこか一部だけが起きている。耳だけが番をしているような夜がある。廊下のきしみ。遠くの水音。布団の擦れる気配。家の中の、ほんの小さな変化に神経が触れる。反応しなくていい音にも、身体の奥が先に身構える。完全に眠るということが、だんだん贅沢に近いものになっていく。起き上がって水を飲む。暗い台所でコップを持つ手が、少しだけ頼りない。窓の外は暗い。街は静かだ。だがこちらの身体だけが、どこかでずっと勤務中のままだ。昔、夜間対応のあとに帰宅して寝る時も、似た感覚があった。作業自体は終わっているのに、身体がそれを終業として認めてくれない。あの頃は、仕事の残響だった。いまは違う。いま身体に残るのは、仕事ではなく生活そのものだ。介護の疲れは、筋肉痛のようには出ない。だが本当に厄介なのは、抜けない緊張のほうだと思う。何も起きていない時にすら、次に何か起きるかもしれないと身体が待っている。だから休んでいるつもりでも、どこかでずっと備えている。介護には、目に見える作業がたくさんある。けれど、それと同じくらい見えにくい消耗がある。眠れないこと。眠っても戻らないこと。朝になっても、身体の芯がまだ夜のままでいること。これらは記録に残りにくい。けれど、確実に人を削っていく。それでも朝は来る。しかも、こちらの回復を待たずに来る。介護にこちらのコンディションは関係ない。相手の不安、体調、記憶の揺らぎ、予定、その日の機嫌。そういうものが朝には先に立っている。こちらは、その後からついていくしかない。ときどき、自分でも思う。よく持っているな、と。立派だからではない。強いからでもない。ただ、止まれないから動いているだけのような日もある。だが、人は案外、その「だけ」で進んでしまう。崩れきる前に、なんとか今日の形を保つ。介護の毎日には、その繰り返しがある。私は布団に戻る。眠れるかどうかはもう、あまり考えない。ただ横になる。目を閉じる。耳はまだ起きているが、それでも横になる。休むとは、完全に回復することではなく、壊れきらないようにすることなのかもしれない。明日は向こうから来る。こちらが迎えに行く前に、もうそこに来てしまう。それでも私は、寝不足のまま、その朝の前に立つ。きちんと眠れなかった夜のあとでも、台所へ行き、水を沸かし、カーテンを開ける。その動作のひとつひとつが、小さな抵抗なのだと思う。直せないものを抱えて生きるというのは、劇的な覚悟の話ではないのかもしれない。むしろ、眠れないままでも、朝の支度を始めること。疲れた身体のままでも、声を荒げずに今日を始めること。そういう、ごく地味な継続の中にしか現れないのかもしれない。そして私はまた、次の朝を前にして思う。深く眠れなくなったのではない。深く眠ったままではいられない暮らしの中に、もう入っているのだと。引継事項 眠れなかった夜も、朝の支度だけは待ってくれない。第6章 それでも季節を感じていたい記録時刻 16:22事象 介護の合間、窓の外の風に足を止める対応 洗濯物を取り込む、空を見る、深呼吸する備考 暮らしが細っても、季節は手を抜かない介護で疲れている時ほど、季節のことなど気にしている場合ではない。本来なら、そうなるはずだった。朝から動いて、気を張って、同じことを何度も説明して、予定を組み直していると、一日はすぐに削れていく。気がつけば午後で、もう夕方が近い。外の天気が晴れだったのか曇りだったのか、あとから思い出せない日もある。暮らしが狭くなっていく、というのは、こういうことかもしれない。空を見た回数が減る。風のにおいに気づく時間が減る。季節が来ているのに、それを受け取る場所が自分の中から少しずつ減っていく。それでも、私は時々、季節を感じていたいと思う。たとえば洗濯物を取り込む時だった。ベランダに出ると、風が少し変わっている。冬の終わりの乾いた風ではない。そんなことに気づくと、それだけで胸の奥がわずかにほどける。若い頃は、季節なんて向こうから勝手にやってくるものだった。いまは違う。こちらが受け取りにいかなければ、季節はただ窓の外を通り過ぎていく。それでも、花の色や、夕方の空の伸び方や、日差しのやわらかさにふと足が止まる時がある。その一瞬だけ、介護の人ではなく、ただのひとりの生活者に戻る。いや、介護の人でありながら、その外側もまだ消えていないことを確かめるのかもしれない。母の世話をしていると、時間はどうしても実用の単位になる。だが、その時間の使い方だけで一日が埋まっていくと、人はだんだん、時を感じるのではなく処理するようになる。季節を感じる、というのは、その処理の流れに小さく逆らうことなのだと思う。まだ感じている。まだ見ている。まだ、自分の中に受け止める余地がある。それを確かめる行為だ。もちろん、そんな余裕がまるでない日もある。だが、それでも外に季節があるという事実は、閉じかけた気持ちにとって、どこかで逃げ道になる。介護には終わりが見えにくい。良くなるための努力ではなく、悪くなりきらないための支えが続く。だからこそ、人はときどき、何か別の循環を身体に通したくなるのかもしれない。春が来て、夏へ向かい、やがてまた秋と冬が来る。人の暮らしがうまく回らない時でも、季節だけは勝手に進んでいく。私はたまに、洗い物の手を止めて窓の外を見る。少し前まで真っ暗だった時間に、まだ空の色が残っている。それだけのことなのに、胸の内側にわずかな広がりが生まれる。いまの私は、介護の中で生きている。だが、介護だけの人になってしまうのは、たぶん少し違う。介護をしている人でありながら、風を感じる人でもいたい。空の色を見てしまう人でもいたい。それは現実の中で自分を完全に干上がらせないための、ごく小さな技術なのだと思う。暮らしが重くなると、人は役に立つものだけを手元に置きたくなる。だが、役に立つかどうかだけで生きていくと、心は先に痩せる。季節を感じることは、何の生産性もない。それでも必要なのは、役に立たないものの中にしか、回復できない部分があるからだ。夕方、取り込んだ洗濯物に手を伸ばす。布に残った外のにおいが、ほんの少しだけ春に近い。私はそれを、黙って受け取る。ただ、今日という日の中に、まだ季節が入る余地があったことを確認する。そういう小さな感覚を失わずにいたいと思う。直せないものを抱えて生きるなら、なおさらだ。そして私は、その夕方に思う。人は大きな救いがなくても、風の質が少し変わったことに気づけるだけで、明日へ渡れる日があるのだと。引継事項 役に立たないように見える感覚が、心を乾かさずに残してくれる。第7章 CEだった私が、直せなかったもの記録時刻 18:47事象 古い仕事道具の記憶が、不意に戻る対応 振り返る、たどる、言葉にする備考 直せると思っていた頃の手が、まだ少し残っている私は長く、修理の仕事をしていた。FAXのカスタマーエンジニア。故障した機械の前に立ち、原因を探し、直し、また動くようにする仕事だった。いまこの言葉を口にすると、少し遠い時代の話のようにも聞こえる。けれど、私の身体にはまだ残っている。紙の匂い。トナーの黒さ。異音を聞いた瞬間に、どのあたりが怪しいか見当をつけるあの感じ。仕事というのは、案外、頭より先に身体に住みつく。呼ばれれば行った。客先へ向かい、機械の状態を見て、使い方の問題か、本体の故障か、回線か、相手先か、切り分ける。何が悪いのか。どこまで壊れているのか。いま何をすれば、とりあえず動くのか。そういう順番を考えることに、私はそれなりに慣れていた。修理には理不尽もあった。それでも、まだわかりやすかった。相手は機械だった。壊れ方には癖があり、原因には道筋があり、手順を踏めば改善する可能性があった。少なくとも、そう信じて現場へ向かうことができた。私はあの仕事が嫌いではなかった。むしろ、かなり好きだったのだと思う。直る、ということが好きだった。不具合で止まっていたものが、もう一度動き出す。困っていた人の顔が少しゆるむ。その感覚は単純だが強い。だから私は、どこかで思い込んでいたのだと思う。世の中には、原因があり、手順があり、なんとかなるものが多いのだと。その考え方は、仕事をするうえでは役に立った。だが、人生には通用しない場所がある。親の老いは、その最たるものだった。認知症も、排泄の失敗も、夜の呼び出しも、通院も、書類も、判断も、どれも「原因不明」ではない。けれど、わかったからといって直せるわけではない。ここが、修理の仕事と決定的に違う。部品交換はできない。初期化もできない。再起動すれば元に戻る、ということもない。その変化の前で、こちらはCEの習性のまま、つい手順を探してしまう。何をすればよくなるのか。どこを整えれば持ち直すのか。だが、その問いが空振りに終わる場面は多い。介護をしていると、自分の中に残っているCEの癖をよく見る。状況を把握したがる。段取りをつけたがる。再発防止を考えたがる。そして、うまくいかなかった時には、自分の見立てが甘かったのではないかと考える。だが、人を相手にすると、その癖はときどきこちらを苦しめる。直せないものまで、自分の責任で直すべきもののように感じてしまうからだ。親の老いは、私の失敗ではない。わかっている。頭では、わかっている。けれど、長く「直す側」にいた人間には、直らない現実を前にした時の諦め方が、うまく身についていない。私はロスジェネの世代にいる。社会に出た頃から、どこか空気は冷えていた。頑張れば報われる、という言葉は耳には入ってきたが、現実のほうが先にそれを否定していた。それでも、私は働いた。自転車で都内を回り、汗をかき、機械を直し、現場で頭を下げ、また次へ向かった。仕事そのものに救われた部分は確かにある。自分には手がある。足がある。判断ができる。そう思えることが、人生をギリギリでつないでくれた時期はあった。だからこそ、いま介護の前で思う。私はずっと、壊れたものを前に立つ人生だったのかもしれない、と。機械の不具合。時代のゆがみ。家庭の重さ。自分自身の年齢。それぞれ性質は違うのに、どれも「予定通りにはいかないもの」として、こちらの前に現れ続けた。ただ、昔といまとで違うことがある。昔は、直せるかもしれないと思って現場へ行った。いまは、直らないかもしれないと知りながら、それでも向かう。この差は大きい。CEだった頃の私は、役に立つことに価値を感じていた。それは今も変わらない。だが介護をしていると、役に立つだけでは足りない場面がある。そばにいること。同じ説明を何度もすること。正解のない書類の前で席を立たないこと。眠れないまま朝を迎えること。それらは「直す」とは別の種類の仕事だ。私はようやく、この年になって知り始めている。人は、直せないものの前でも無力なままではない。元に戻せなくても、今日を一緒に越えることはできる。悪化を止められなくても、不安を少し薄めることはできる。壊れたものを新品に戻せなくても、その壊れ方ごと抱えて生きることはできる。思えば、私はずっと「戻す」ことに意識を向けすぎていたのかもしれない。元通り。正常。以前の状態。そういう言葉は、機械の世界では頼もしい。けれど人生には、ときどき残酷だ。人は戻れない。親も戻れない。若い頃の自分にも戻れない。時代も戻らない。それでも私は、昔の仕事を無駄だったとは思わない。むしろ逆だ。CEとして過ごした時間があったからこそ、いま私は、壊れていくものの前で簡単には目をそらさないでいられるのだと思う。すぐに投げない。持ちこたえる方法を考える。完全には無理でも、今日の形を保とうとする。その習性は、いまも私を支えている。ただし、昔と違って、最後の最後まで「直るはずだ」とは思わない。いま私が抱えているのは、直せないものだ。親の老いも、時代の痛みも、自分の年齢も、きれいには直らない。けれど、直らないからといって、見捨てていいわけでもない。そのことを、私はCEを終えたあとになって、ようやく学び始めている。直せないものを前にしても、人は手ぶらで立ち尽くすしかないわけではない。言葉がある。まなざしがある。手順ではなく、付き添い方がある。そしてたぶん、次に私が探さなくてはならないのは、原因ではなく、それをどう書き残すかなのだと思う。引継事項 直せないものの前でも、人は手ぶらではない。終章 それでも、人は書く記録時刻 23:11事象 一日の終わり、ようやく机の前に座る対応 思い出す、言葉を探す、書く、消す、また書く備考 残せるものが少ない日ほど、人は書くのかもしれない夜になって、ようやく座れる時間ができる。母が眠り、家の中の気配が少しずつ静まり、洗い物も片づき、明日の段取りもひと通り頭に入れたあと、私は机の前に座る。座ったからといって、すぐに何かが出てくるわけではない。疲れている。眠い。いや、眠いだけではない。身体のどこかがずっと起きたままで、心だけが少し遅れて椅子に腰を下ろす。そういう夜が多い。それでも、書こうとする。もっと早く寝たほうがいいのはわかっている。明日の朝だって、静かに始まる保証はどこにもない。それでも、机に向かう。たぶん私は、書くことで何かを整えようとしているのだと思う。介護の現場では、うまくいかないことが多すぎる。説明したことは消える。眠りは浅い。段取りは崩れる。正しい判断だったのかどうかも、あとからはわからない。そういう一日を、そのまま闇に返したくないのだ。書いたからといって、介護が軽くなるわけではない。母の記憶が戻るわけでもない。自分の疲れが消えるわけでもない。書くことは万能ではない。そのことくらい、もう十分わかっている。けれど、書かなければ、たしかにあったはずのものまで、なかったことのように沈んでいく。夜中に呼ばれた声。白紙に戻る朝。延命の書類を前にした手の重さ。眠れないまま迎えた台所の光。洗濯物に残った季節のにおい。そういうものは、誰かに説明しようとすると急に平板になる。だからこそ、言葉で拾わなければならないのだと思う。大きな事件ではなくても、人が少しずつ削られ、それでも少しずつ持ちこたえている、その途中の感触を。若い頃の私は、もっと結果のはっきりした仕事をしていた。だがいまは違う。介護には、直った、完了した、解決した、という言葉が似合わない日が多い。今日も大きく壊れずに済んだ。なんとか一日が回った。そんな小さな言葉の積み重ねでしか表せない日々がある。その日々を、ただの消耗で終わらせたくない。そのために私は書いているのかもしれない。noteに書くということは、日記をつけるのとも少し違う。自分だけのためなら、もっと雑に書ける。けれど人に向けて書こうとすると、言葉の置き方が変わる。独りよがりでは届かない。説明しすぎても嘘になる。飾りすぎれば軽くなり、生々しさだけを押しつけても読めない。その間を探りながら書く。そこに、書くことの厳しさがあり、同時に救いもある。自分ひとりの痛みとして閉じない。読んだ誰かが、少しだけ自分のこととして受け取れる形にする。介護の話でありながら、介護をしていない人にも届くように。ロスジェネの話でありながら、別の世代にも伝わるように。FAXのCEという古い仕事の話でありながら、いま働いている誰かの疲れや誇りにもつながるように。そうやって言葉を渡せた時、ようやくその一日は、ただの消耗ではなくなる気がする。書くことは、修理ではない。壊れたものを元に戻すことはできない。けれど書くことには、別の働きがある。散らばってしまったものに、かすかな輪郭を与えること。言葉にならず沈んでいたものを、沈んだままでも見える場所へ引き上げること。せめて、ここにあったのだと残すこと。それは再起動ではない。なかったことにする技術でもない。継続なのだと思う。壊れかけた日常を、その壊れかけたままの形で、今日の分だけ受け止めて、明日へ渡す。書くとは、そういう地味な橋渡しかもしれない。机の前で、私は何度も書いては消す。うまく言えない夜もある。それでも、ひとつだけでも残す。今日の匂い。今日の声。今日の重さ。それだけでも、紙の上に置く。昔の工具鞄には、現場で使う道具が入っていた。いま私の手元にあるのは、もっと頼りない。言葉だけだ。だが、この頼りないものに、何度も助けられてきたのも事実だった。直せない日を直したことにはできない。けれど、直せないものを抱えたままでも、今日を見失わずにいることはできる。書くとは、そのための確認作業なのだと思う。一日が終わる。本当は終わっていないのかもしれない。夜中にまた呼ばれるかもしれないし、明日の朝も何かが起きるだろう。それでも私は、今日の分の言葉を置いてから眠りたいと思う。ただ、ここに生きていたことだけは消さないように。だから私は書く。直せないものを前にしても、黙って立ち尽くすだけでは終わりたくないからだ。戻らないものを戻るとは言わない。つらくないとは言わない。希望だけで乗り切れるとも思っていない。そのうえで、それでも書く。夜はまだ続いている。暮らしも続いている。老いも、介護も、時代の重さも、簡単には終わらない。けれど、終わらないものの中で、人はときどき、自分の言葉を持つことができる。それは小さい。頼りない。それでも、確かに手の中にある。そして私は、その小さな灯りのようなものを頼りに、また次の朝へ向かう。直せないものを抱えて、生きている。記録終了直せないものを抱えたまま、暮らしは続く。
2026.04.17
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介護をして思うこと 長生きとは何か、老いるとは何か【50代】介護をしていて、あらためて思うことがある。ダブル介護で両親を見ていると、昔から思っていたことが、やはりそうだったのだなと浮かび上がってくる。かなり、わがままだなということだ。もちろん、今は病気もある。認知症もある。身体も思うように動かない。だから仕方がない部分は大きい。それは頭ではわかっている。わかってはいるのだが、それでも思う。元気で、もっと若い頃から、やはりそういう所あると改めて思い返してみて気づく。親子だからこそ、当たり前すぎて見えていなかったのかもしれない。あるいは、20年近く離れて暮らしていたから、少し忘れていたのかもしれない。だが近くで、毎日、介護という形で向き合っていると、親の性格は病気だけでは説明できないことも見えてくる。ちょっとしたことで、すぐ感情的になる。すぐ怒り出す。母は認知症だから、なおさら話はややこしい。父も、もともと短気な上に、いつその時が来てもおかしくない状態で、身体も思うように動かない。そうなれば、苛立ちが増すのも当然なのだろう。だから、仕方がない。そう思うしかない。だが、仕方がないと受け止めながらも、しんどいものはしんどい。介護というのは、きれいごとだけでは回らない。こちらも感情がある。疲れもある。腹も立つ。うんざりすることもある。それでも飲み込んで、また次をやる。その繰り返しだ。親には元気でいてほしい。長生きしてほしい。そう思ってきた。今でも、もちろんそう思う。だが同時に、こうも考えてしまう。これが自分だったらどうだろう、と。親子だから、やはり似ている部分はある。自分もいずれこうなるのではないか。頑固になり、感情的になり、身体が動かないことに苛立ち、人に当たるようになるのではないか。そんなことを思う時がある。そう考えると、健康寿命が尽きたあと、自分は生きていたいのだろうかとも思ってしまう。もちろん、これは今の自分の考えだ。まだその時を迎えていない自分の考えにすぎない。実際に年齢を重ね、本当にその時が来たら、また違うことを思うのかもしれない。人の気持ちは、その場に立たないとわからない。若い頃に思っていたことと、50代になって思うことが違うように、その先でもまた変わるのだろう。だから断言はできない。だが、いま思う。できるだけ健康でいたい。少なくとも、身体も心もなるべく保ちながら生きたい。それはかなり切実な願いだ。だが現実は厄介だ。どんなに気をつけていても、突然襲ってくるものがある。病気。事故。老い。介護。人生は、こちらの準備が整うのを待ってはくれない。その理不尽さも、この数年で嫌というほど見てきた。そう考えていると、何が正解なのかわからなくなる。長生きとは何だろう。生きるとは何だろう。長く生きることそのものに意味があるのか。それとも、自分らしくいられる時間のほうが大事なのか。人の手を借りてでも生きることに意味を見出すのか。そこに耐えられなくなった時、人は何を支えにするのか。誰にも答えは出せないと思う。そういう問いは、たぶん誰かが一つの正解を示せるものではない。その答えはそれぞれにある。自分だけのものだ。自分で出すしかない。そして、その答えはたぶん一度決まって終わりではない。その時、その時で変わっていくのかもしれない。若い頃の答え。50代の答え。介護をしている今の答え。もっと先の答え。全部違っていても不思議ではない。だから今は、まだ結論を急がなくてもいいのだろうと思う。わからないまま考え続ける。揺れながらでも考え続ける。それでいいのかもしれない。ただ、願いはある。上手に老いたい。そして、できることなら、すっと旅立ちたい。それは身勝手な願いなのかもしれない。都合のいい理想なのかもしれない。だが、介護の現実を見ていると、やはりそう思わずにはいられない。長生きが悪いのではない。老いることが悪いのでもない。ただ、その時間をどう生きるか。どう老いるか。どう終わるか。そこに、人それぞれの願いと恐れがあるのだと思う。介護をしていると、親のことを見ているようで、どこかで自分の未来も見ている。それが少し怖い。だが、目をそらしても仕方がない。だから今日もまた考える。長生きって何だろう。生きるって何だろう。答えはまだ出ない。たぶん簡単には出ない。それでも考え続けること自体が、今を生きることにつながっている気もするのである。
2026.04.16
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笑いの臨界点 #26 ホームで待ってたのに、どっち行きか消えるホームに立っていた。立っていた、というよりもう「待っている人」の顔をしていた。電車は来る。その前に、私は乗る。そのためにここにいる。筋は通っている。……はずだった。ふと、看板を見た。上り。下り。私は一瞬、固まった。どっちだっけ。ここに来た目的は確かにあった。改札も抜けた。階段も上がった。Suicaも確認した。そこまでの流れは完璧だ。なのに最後の最後で、肝心な向きだけが霧になる。私はホームの空気を吸った。駅特有の、乾いた匂い。遠くのアナウンス。線路の金属音。落ち着け。これは簡単な話だ。私は今日、どこへ行く。……どこへ行くんだっけ。もう一段階、消えた。消えるときって音もしない。静かに消える。頭の中の予定表が誰にも知られず白紙になる。私はスマホを出そうとして、やめた。スマホを出すと全部、負けた気がする。ここは駅だ。大人の戦場だ。自力で思い出せ。私は顔を上げ、人の流れを見た。みんな迷いがない。迷いがないふりがうまい。どちらにせよ、速い。私だけが遅い。ホームの速度に合っていない。そこで私は、推理を始めた。会社。家。買い物。病院。用事。どれだ。用事って言葉は便利だ。思い出せない予定を全部まとめて包んでくれる。しかし包んだままでは乗れない。私はまた看板を見た。上り。下り。上って、どっちへ行くんだ。下りって、どっちへ帰るんだ。駅というのは地理の場所ではなく精神を試す場所なのかもしれない。そのとき電車が来る音がした。あの音。遠くから近づいてくる重さ。私は焦った。焦ると人は思い出すものも思い出せない。なのに焦る。完璧な無駄だ。電車が入ってくる。扉が開く。私は乗り込む寸前でやっと思い出した。あ、こっちだ。こっち、という曖昧な言葉がこの瞬間だけは世界一頼もしく感じる。私は乗った。席に座った。そして何事もなかったように窓の外を見た。外にはいつもの街。いつもの線路。いつもの生活。さっきまでの私の混乱が嘘みたいに平然としている。人はこうして小さなパニックを毎日どこかに置いてくる。置いてきたはずなのに、また別の日に同じ場所で拾う。それが大人の反復練習だ。次にホームに立ったとき、私はまた一度だけ看板を見つめるのだろう。上り。下り。そして、ほんの一拍だけ自分の脳内に問いかける。今日は、どっちだ。その一拍が、人生の笑いどころになっていく。
2026.04.15
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ロスジェネ脱線学 #28 薄いビニール袋が開かない夜指先の乾きと、時代の不親切私は1974年生まれだ。ロスジェネ氷河期第一世代。人生のたいていは、気合いより調整で乗り切ってきた。そして今夜も、スーパーの袋詰め台の前で立ち尽くしている。会計は終わった。買うものは買った。レジ前でアプリが開かないという小さな戦場も、なんとか越えた。本来なら、あとは品物を袋に詰めて帰るだけである。なのに、最後の最後で立ちはだかるものがある。あの、薄いビニール袋だ。惣菜や肉のパックを入れるために置かれている、あの無料の透明袋。一枚取り、口を開こうとする。開かない。指でつまむ。開かない。反対側をこする。開かない。驚くほど、開かない。たった一枚の薄い袋なのに、こっちはまるで人生の否定を受けている気分になる。若い頃は、こんなことはなかった気がする。何も考えずに取って、何も考えずに開いていた。だが今は違う。指先が乾いている。冬場など特にひどい。紙もめくれない。スマホも反応しない。そして袋も開かない。便利な時代のはずなのに、こちらの身体のほうが少しずつ対応外になっていく。袋詰め台の前には、独特の空気がある。誰もが無言で、自分の荷物を整えている。手際のいい人は早い。肉も魚も冷凍食品も、迷いなく分けていく。エコバッグをきれいに広げ、重いものを下に、柔らかいものを上に。実に美しい。あれはもはや生活の職人だと思う。それに比べて私は、薄い袋一枚で止まっている。後ろに人が来る気配がすると、余計に焦る。焦ると、ますます開かない。こういうとき、人は小さく老いを知るのだと思う。階段を上ると息が上がる。レシートの文字が見えない。アプリが開かない。そしてビニール袋が開かない。どれも大事件ではない。病院に運ばれるような話でもない。ニュースにもならない。だが、こういう「小さなつまずき」が増えてくるのが50代なのだ。若い頃は、大きな壁ばかり見ていた。就職。収入。将来。夢。社会の理不尽。もちろん今だって、そういうものは消えていない。消えていないどころか、むしろ重くなっている。親のこともある。身体のこともある。金のことは、昔よりずっと現実味を帯びて迫ってくる。だが日々の生活では、それとは別に、薄いビニール袋みたいな敵がいる。誰も敵だとは思っていないのに、こちらだけが勝手に敗北感を味わう相手。それが地味に効く。私は結局、備え付けの濡れ布巾に指をそっと当てた。ほんの少し湿らせる。それだけで袋は、あっさり開いた。なんだよ、と思う。だったら最初からそうすればよかった。だが、その「最初から」ができないのもまた、この年齢の妙な意地なのだ。自分ひとりでやりたい。まだそんなこともできる。そう思っている。けれど、身体は少しずつ別の答えを出してくる。それでも私は、この感じを嫌いきれない。情けないが、どこか人間くさいからだ。何でもスムーズにいく人生は、たぶんきれいだ。でも、私たちロスジェネの人生は、だいたいどこかで引っかかる。就職もそうだった。景気もそうだった。評価もそうだった。まっすぐ進めず、横道にそれ、寄り道をしながら、なんとか今日まで来た。袋ひとつ開かない夜にも、それが少し出る。すんなりいかない。でも、工夫して、立て直して、結局は持ち帰る。その繰り返しで、生きてきたのだと思う。買った惣菜を袋に入れ終え、私はエコバッグの口を閉じた。店内の照明は明るい。外はもう夜だ。帰れば、温めて食べるだけの夕食がある。豪華ではない。映えもしない。だが、それでいい。薄いビニール袋が開かない。そんなことで少し立ち止まる夜がある。けれど、立ち止まったまま終わるわけではない。濡れ布巾に助けられながらでも、私はまた袋を開ける。そうやって今夜も、暮らしを持ち帰る。ロスジェネの脱線学とは、案外こういうことなのかもしれない。派手な逆転ではない。ささやかな不便に少し傷つき、少し笑い、結局は自分の手で整え直すこと。誰にも気づかれない場所で、今日もちゃんと生きている。そのことだけは、薄い袋よりも確かだった。
2026.04.14
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一瞬永遠 第32幕 眠りの手前で部屋の明かりをひとつ落とすそれだけで世界は少しだけ遠くなる窓の外ではまだ誰かの時間が動き音がかすかに残っているけれどここには届かない布団に横になり天井を見ていると今日の断片が順番もなく浮かんでは消える整理はしない意味もつけないただ通り過ぎていくのを待つ胸の奥でふと言いかけたままの言葉が浮かびわずかに喉がつまるそれもすぐにほどけていくまぶたが少しずつ重くなる考えは途中で途切れ形を保てなくなる一日はここで静かに手放される終わったのか続いているのかその境目はもうわからない呼吸だけが一定の速さで夜に溶けていくそして意識はゆっくりと名前を失う
2026.04.13
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追い込まれてからの立ち直り方|私の精神の持ちようとCE的思考【50代】精神論だけでは持たない。私が困難をさばく時、土台にあるのは切り分けの技術だ。50代になってから、この問いを何度も自分に向けてきた。追い込まれてから、どう立ち直るか。いや、正確に言えば、考えざるを得なかった。仕事。ダブル介護。義理の母の介護フォロー。発達障害のある娘の進路。妻の入院と手術。自分自身の身体の衰え。睡眠不足。気力の低下。そこへ日々の細かな問題が容赦なく重なる。一度崩れかけると、もう全部が重く見えてくる。何から手をつければいいのかもわからなくなる。ただしんどい。ただ重い。ただ逃げたい。そういう状態に、私もなる。鋼のメンタルがあるわけではない別に打たれ強い人間だと思っているわけでもない。むしろ情で動くほうだ。引きずることもある。腹も立つ。落ち込む。投げたくなる時もある。だが、それでも何とかここまで日常を回してきた。その理由を考えると、結局は精神論だけではないのだと思う。根性もいる。気合いもいる。だが、それだけでは持たない。私が自分を立て直す時、いつも土台にあるのは、CE時代に染みついた思考だ。つまり、まず切り分ける。これである。故障対応で学んだこと昔、FAXのカスタマーエンジニアをやっていた頃、現場では常に不具合と向き合っていた。紙が詰まる。送れない。画像が乱れる。機械が止まる。原因は一つとは限らない。むしろ複数重なっていることのほうが多い。そういう時に必要なのは、闇雲に焦ることではなかった。まず、何が起きているのかを切り分ける。どこまでが正常か。どこからが異常か。機械の問題か。回線か。設定か。消耗品か。一つずつ分ける。混ざったままでは見えないからだ。今の私は、人生の困難に対してもわりと同じことをしている。追い込まれた時こそ、切り分ける追い込まれた時、人は簡単に全部を一つの塊にしてしまう。全部つらい。全部重い。全部無理。そうなった瞬間、たいてい動けなくなる。だから私は、まず切る。分ける。整理する。頭の中で配線をほどくようにやる。何が緊急か。何は今すぐやるべきで、何は後回しでいいか。誰の問題で、どこまでが自分の担当か。感情と現実を一度分ける。不安と事実を分ける。最悪の想像と、今起きている現実を分ける。たとえば、父の状態が揺らいでいる。母の認知症も不安定。仕事の締切もある。自分も寝不足。こういう時、全部を同時に抱えたら一気に沈む。だから順番をつける。全部はできない。だから、やる順を決める。完璧を捨てることが、続ける技術だCEの現場でもそうだった。時間がない。部品も限られている。客先は待っている。その中で、すべてを美しく解決することなどできないこともある。ならば、最小の被害で最大の効果を出すしかない。今の生活もまさにそれだ。時間は有限。体力も有限。集中力も若い頃のようにはない。だから取捨選択がいる。全部やろうとするから潰れる。全部背負おうとするから崩れる。何をやるかと同じくらい、何をやらないかを決める。そこが大事だ。誰かの機嫌まで全部は背負わない。相手の感情は受け止める。だが、巻き込まれすぎない。正論で勝とうとしない。今日はやらないことも決める。これは冷たさではない。自分が倒れないための技術だと思っている。家族相手だと、なおさら難しい感情が入る。過去もある。言われた一言が刺さる。他人なら流せることも、家族だと流れない。だからなおさら、一歩引いて切り分ける必要がある。これは父の怒りか。不安か。衰えへの苛立ちか。母の混乱か。認知症によるものか。私の疲れが増幅させているのか。一つずつ見る。そうすると、少しだけ対応が見える。そして、解決策を出す。大したものでなくていい。今夜だけどう持たせるか。自分のメンタルをどこで逃がすか。家キャンか。小高い丘か。NOTEを書くか。それもまた、立派な解決策の一つだ。小さく解決する。それしかない。人生を丸ごと解決しようとすると、たいてい無理になる。だから、小さく解決する。一日を越える。今夜を越える。今週を回す。その繰り返しでいい。追い込まれた時、人は大きな答えを欲しがる。人生を変える答え。一発で楽になる答え。だが実際には、そんなものは滅多にない。あるのは、小さな切り分けと、小さな手当てと、小さな選択の積み重ねだ。CEの仕事もそうだった。劇的な修理より、地味な確認のほうが大事なことが多かった。現場で強いのは、派手なひらめきより、地味な切り分けを丁寧にやる人間だった。人生も似ている気がする。「戻す」力が、今の私には大事だつらい出来事が起きる。理不尽だと思う。なぜ自分ばかりと思う。それは自然なことだ。だが、そこで意味を掘りすぎると余計にしんどくなることがある。だから、起きたことは起きたこととして受け止める。感情は感情として認める。だが、呑み込まれすぎない。いま必要なのは何か。次にやるのは何か。そこへ戻す。もちろん、毎回うまくできるわけではない。2年半介護をやっていても、まだ下手だと思うことは多い。だが、以前よりは少しだけマシになった。切り分ける。優先順位をつける。捨てるものを決める。感情と事実を分ける。小さく解決する。今日を越える。これが、今の私の立ち直り方だ。自分なりの再起動の仕方が、必要になる50代になると、気合いだけでは立ち直れない。身体も、気持ちも、回復には工夫がいる。私にとってそれは、CE的思考で困難をさばくことだった。人生は故障対応とは違う。そんな単純ではない。だが、混乱した時に一つずつ切り分け、限られた中で最善手を探し、必要なことを先にやる。この考え方は、今の私をかなり助けている。追い込まれた時こそ、闇雲に暴れない。まず見る。分ける。選ぶ。そして進む。それが、私が困難に立ち向かう時のやり方である。
2026.04.12
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はじめての仕事|私の社会人の始まりは、かなりむちゃくちゃだった【50代】私が社会に出て、はじめて就いた仕事。それがCEだった。今思えば、ずいぶん濃い入口だったと思う。いや、濃いというより、かなり過酷だったというべきかもしれない。入った会社は小さかった。10人程度。年の近い人は、2つ上の先輩が一人いるだけ。あとは全員、10歳以上年上だった。しかも、その一番年の近い先輩とも、最初はあまり反りが合わなかった。同期もいない。横を見ても、同じように手探りでやっている同世代はいない。最初から、わりと一人だった。昭和の縦社会が、色濃く残っていた会社の空気は、昭和をかなり色濃く残していた。表面的には接しやすそうでも、中は完全な縦社会。職人気質の人ばかりで、どこか気難しい。柔らかい顔をしていても、距離はちゃんとある。そういう世界だった。当然、新人研修などない。マニュアルもない。体系だった教育もない。言葉にはしなくても、空気としては完全に「見て覚えろ」である。最初は先輩について回る。いわゆる鞄持ちだ。同行して、横で見て、空気を読んで、少しずつ覚える。だが、その「少しずつ」が、思っていたよりずっと不親切だった。はじめての仕事は、普通の点検や修理ではなかった改修作業だったのである。共栄会社として当時扱っていた大手メーカーの最新機種についての改修。不具合が起きる可能性がある部品を、市場に出ている機械の中で交換していく作業だ。当時、その機種はかなりの台数が世の中に出ていた。つまり、やることは山ほどある。駆動部のスプリングクラッチ。記録紙カセットの部品。基板上のROM交換。などなど。来る日も来る日も、あちこちの客先へ行っては交換作業をする。毎日それである。だからその改修作業だけは、たぶん誰よりもやった。少なくとも新人の中では圧倒的だったと思う。どこを外し、何を換え、どこを締めるか。そこだけは身体に入った。だが問題は、そこだった。半年ほど過ぎた頃、いきなり独り立ちになった今考えても、かなりむちゃくちゃだと思う。それまでの大半を、その改修作業しかやっていなかったからだ。まともな点検。本格的な修理。数多くある機種への対応。そういうものには、ほとんど触れていなかった。にもかかわらず、現場へ出される。独り立ち。一人で行け。そういう流れだった。いや、本当にどうしろというのだと思う。見たことのない機種。やったことのない修理。紙詰まり一つ取っても、機種によって癖が違う。客先ごとの使い方も違う。現場ごとの空気も違う。その全部に、ろくな下積みもないまま向き合わなければならない。ここからの一年は、地獄だった会社の雰囲気もまた、なかなか厳しかった。皆、職人。一匹狼。自分の現場は自分で何とかする。そういう文化だ。修理がたまろうが、現場でハマろうが、基本は無視。困っていようが、手が止まっていようが、誰かが横から救ってくれるような世界ではなかった。この時期、何度辞めようと思ったかわからない。正直、かなり本気で思っていた。自分には向いていないのではないか。このまま続けても駄目なのではないか。考えない日のほうが少なかったかもしれない。それでも、何とか続いた。積み上がるものは、ちゃんとある一年が過ぎる。二年が過ぎる。少しずつ、できることが増える。後輩も入ってくる。気づけば、自分も何とかこなしていた。不思議なものだ。毎日が限界ぎりぎりでも、積み上がるものはちゃんとある。見て覚えろの世界であっても、身体に入るものは入る。もちろん、それがいい教育だったとは思わない。だが、あの時代のあのやり方の中で、確かに鍛えられた部分はあるのだと思う。私のあとに入った後輩たちも、独り立ちのタイミングで辞める者は多かった。やはり、そこが最初の大きな壁なのだ。先輩の後ろにいるうちは、まだ守られている。だが、一人で客先へ行くようになると、一気に現実が来る。その重みは、やった人間にしかわからない。辞める人が多いのと、時代の流れもありその後は新人に対しての教育は手厚くなっていった。最もそれが普通とは思うが。それでもやはり最初の壁で辞めてしまうものは多い。あのむちゃくちゃな始まりが、今の土台の一部になっている「はじめての仕事」は、私にとってかなり重大な出来事だったと思う。あそこで社会の空気を知った。仕事の厳しさを知った。理不尽も知った。自分の限界も知った。そして、限界だと思っていた場所の少し先まで、人は案外行けるのだということも知った。切り分けて考えること。現場で慌てないこと。わからなくても逃げないこと。嫌でも食らいつくこと。あの頃に身についたものは、今もかなり残っている。だから、はじめての仕事を思い出す時、懐かしさだけでは終わらない。少し苦い。かなりしんどい。だが、やはり自分の原点なのだと思う。社会へ出て最初にぶつかったあの壁。あれはたぶん、私の仕事人生の中でもかなり大きな山だった。
2026.04.11
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一期一会について考える|今この時しかない出会いと別れの中で【50代】一期一会について考えることがある。大げさな話ではない。ふとした時だ。空を見ている時。星を眺めている時。小高い丘から街を見下ろしている時。そんな、少しだけ時間がゆるんだ瞬間に思う。今この時しかない出会いがある。今この時しかない別れもある。それは何も、ドラマのような大きな場面だけではない。日々の中に、静かに混じっている。たまたまの積み重ねが、あとになって妙に心に残るたまたま交わした言葉。たまたま会った人。たまたま同じ時間に同じ場所にいたこと。そういうものが、あとになって妙に心に残ることがある。出会う。離れる。また誰かと関わる。気づけば、もう会わなくなっている人もいる。あの時が最後だったのか、と後から思うこともある。あの時もっと違う言葉をかけていれば、と思うこともある。だが、その瞬間にはたいてい、そんなことはわからない。だからこそ、一瞬一瞬はやはり重い。若い頃は、その重さがわかっていなかった人はずっといるような気がしていた。また会える。また今度でいい。そのうち話せる。どこかで先送りにしていた。だが50代になって思う。また今度、は意外と来ない。会えると思っていた人に会えなくなることもある。元気だと思っていた人が、急に弱ることもある。昨日まで普通だった日常が、そうではなくなることもある。介護をしていると、その感覚はさらに強くなる父も母も、少し前とはもう違う。同じ家にいて、毎日顔を見ていても、昨日と今日で空気が違うことがある。父と将棋を指せる時間も、永遠ではない。母を何とかデイサービスへ送り出す朝も、きっとずっと同じ形では続かない。今あるやり取りは、今しかない。そう思うと、どれもこれも少し見え方が変わる。もちろん、いつもそんなに丁寧に生きられるわけではない。腹も立つ。疲れる。うんざりする。もういい加減にしてくれと思う日もある。それが現実だ。だが、その現実の中でも、一期一会という感覚はやはり消えない。つながることと、触れ合うことは少し違う今この時代は、人との関係がどうしても希薄になりがちだと思う。便利になった。一人でも生きやすくなった。連絡も簡単だ。つながること自体は、昔よりずっと容易い。けれど、つながることと、触れ合うことは少し違う。言葉を交わす。相手の空気を感じる。その場の温度を受け取る。そういうことは、やはり人間にとって必要なのだと思う。顔を合わせること。少し立ち話をすること。短い言葉でもちゃんと交わすこと。それは面倒なことではなく、今の時代だからこそ余計に必要なことなのではないか。街の灯りの数だけ、一期一会がある空を見ていると、そういうことをよく考える。星を見ていてもそうだ。小高い丘から街を見ている時もそうだ。街には無数の灯りがある。それぞれの家に、それぞれの暮らしがある。誰かが笑っていて、誰かが泣いていて、誰かが今日を必死に終えようとしている。そのすべてが、たまたま今この時に重なっている。そう思うと、少し不思議な気持ちになる。人は一人で生きているようでいて、本当はずいぶん多くの一期一会の中で生きている。家族との時間もそう。仕事で関わる人もそう。通りすがりに交わす言葉もそう。もう二度とないかもしれない一瞬が、案外そこらじゅうにある。一期一会は、平凡な日常の中にこそある一期一会というと、昔ながらのきれいな言葉に聞こえる。少し構えた感じもある。だが、実際の人生はもっと雑で、もっと泥くさい。感動的な別ればかりではない。気づかないうちに終わっている関係もある。言葉足らずのまま離れてしまうこともある。それでも、だからこそ思うのだ。今この時を、もう少し大事にしてもいいのではないかと。大げさに生きろという話ではない。すべての出会いに意味を見出せという話でもない。ただ、目の前にいる人との時間は、思っている以上に一度きりかもしれない。そのことを、少しだけ忘れずにいたい。介護の朝にもある。家キャンの夜にもある。小高い丘で風に吹かれる時間にもある。何でもない会話の中にもある。そんなことを思いながら、今日もまた空を見る。そして、今この時しかない時間を、少しだけ丁寧に受け取ってみようと思うのである。私はこのnoteにいつでもいる。皆様にとっての一期一会を感じる時はどんな時でしょう?その時を大事に生きる、それが人生だと思います。
2026.04.10
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介護の朝は突然に…#24|デイサービスの朝、母をなだめ父に当たられる【50代】今日も母のデイサービスの日だった。ここ最近は、当日の朝に「今日スポーツジムの日だよ」と伝えることで、何とか円滑に送り出せている。前日から言ってしまうと駄目なのだ。考える時間を与えると、行かない理由を自分の中でどんどん育ててしまう。だから当日の朝。しかも出発の一時間前。朝食、支度、着替えと流れの中に乗せてしまい、考える暇を与えない。今のところ、それがいちばんうまくいくやり方だ。だが今日は、久々に苦戦した。引っかかったのは、荷物とお金のことだった今通っているデイサービスは、できたばかりのきれいな施設で、スポーツジムのような雰囲気がある。母の持つ根深い偏見を何とかクリアしてきた部分はたしかにある。だが当然、それだけではない。今日は、みんなでスーパーへ行くらしかった。これが母には引っかかった。母は買い物となると、絶対にお金を使わずには済まない性格だ。もはや買い物依存と言ってもいいくらいで、これは昔から変わらない。見れば買う。買い物をするなら金を使う。本人の中では、そういう回路がかなり強い。だから、みんなでスーパーへ行くのに、自分はお金を持って行っていない。そこに腹を立てた。では、お金を持って行って、みんなと一緒に買い物できるのかといえば、そうではない。「あんな人たちと一緒に行けない」そう来るのである。お金がないのは嫌。だが、みんなと一緒なのも嫌。何を出しても引っかかる。認知症の相手というのは、ときどきこちらの理屈や段取りをあっさり飛び越えてくる。こんなに段取りを考えて、それでもまだこうなるのか正直、情けない気持ちもある。腹立たしさもある。こんなに段取りを考えて、ここまで持ってきて、それでもまだこうなるのかと思う気持ちはある。だが、そこでこちらが感情を表に出してしまったら終わりだ。だから閉じ込める。怒りも、うんざりも、いったん飲み込む。できるだけ冷静に対処する。しかし、そういうこちらの落ち着いた態度すら、母には気に入らない。結局、何をしても気に入らないのである。時間は来る。車も来る。普段なら、気が済むまである程度は聞く。吐き出させる。少し落ち着くのを待つ。だが今日は迎えの時間がある。そこが介護の朝のつらいところだ。無限に付き合ってやれるわけではない。外の時間で動かなければならない。その限られた時間の中で、何とか母をなだめ、気をそらし、流れを切らさないようにする。今日は朝から、それだけでかなり力を使った。しかも、こういう時は父の機嫌まで悪くなる家の中の空気というのは本当に厄介で、一人が荒れるともう一人にも伝染する。母の不満。こちらの緊張。その気配を父も感じ取るのだろう。ただでさえ最近は父も不安定になりやすい。そこへ母の騒ぎが重なると、機嫌が一気に悪くなる。もう袋叩きである。だが妻や娘に負担をかけるわけには行かない私が最前線に立ち防波堤にならなくてはならない。母をなだめる。父の空気も悪くなる。こちらは間に入る。そして誰からも感謝されるわけではない。むしろ、両方から不満の矛先が来る。介護の朝というのは、こういう理不尽さが平気である。それでも、回すしかないこちらが崩れれば終わる。感情的になったらもっとひどくなる。だから何とか飲み込んで、流れだけは守る。そうやって今日も朝を越えた。たかがデイサービス。そう見える人もいるだろう。だが、認知症の親を送り出すまでには、その何倍もの神経と段取りと忍耐がいる。今日もまた、朝から消耗した。だが、とにかく送り出すところまでは持っていく。それが今の私の仕事でもある。介護の朝は、本当に突然に始まる。そして静かには終わらない。そんなことを、今日もまた思い知らされた。
2026.04.09
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笑いの臨界点 #25 改札を抜けた瞬間、急に不安になる改札を抜けた。ピッ。あの音。あの一瞬の許可。私は通過した。今日も社会に受け入れられた。……はずだった。二歩目で、急に不安が来た。Suica、あるよな。いや、ある。タッチしたんだから。理屈はそうだ。だが不安は理屈を嫌う。私は立ち止まりそうになり、立ち止まらないふりをしながら、ジャケットのポケットに手を入れた。ない。ないわけがない。だが「ない」という感触が、指先に残った。次。ズボンの右。ない。左。ない。胸ポケット。ない。私はもう、財布どころか、存在まで失いかけていた。周囲には人がいる。流れている。朝の駅の川だ。立ち止まったら沈む。なのに私は、歩きながら自分を捜索している。なぜこうなるのか。改札を抜けた瞬間、人は一度「安心」を手にする。その反動で、次の瞬間に「不安」が育つのだろうか。成功したのに、成功した実感が薄い。だから確認したくなる。私は歩きながら、もう一度ポケットを探った。あった。あった、というか、最初からあった。ある場所に、普通に、あった。私は安堵した。だが同時に、少しだけ恥ずかしかった。自分の不安の速さが。不安の立ち上がりの俊敏さが。若い頃なら、こんな反応はしなかった気がする。いや、していたのかもしれない。ただ、気にしなかっただけか。今は違う。失くすかもしれない、が先に来る。失くしてから焦るより、先に焦いでおく。そういう人生の運用になっている。そしてこの運用は、意外と悪くない。失くしていないのに焦ぐ。それは滑稽だ。だが失くしてから絶望するより、ずっと軽い。人は軽いほうを選ぶ。たぶん大人とは、そういうものだ。私は人の流れに戻った。駅の匂い。案内放送。遠くのホームの音。Suicaはポケットの中。私は現実の中。たったそれだけのことで、今日の自分が整う。改札というのは、通るためのものではなく、通ったあとに自分を確かめるための装置なのかもしれない。そんなことを考えながら、私はまた歩き出した。そしてきっと明日も、抜けた瞬間に、同じ不安が来る。不安はいつも、改札より早い。
2026.04.08
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ロスジェネ脱線学 #27 レジ前でアプリが開かない夜ポイントより先に、動悸が貯まる私は1974年生まれだ。ロスジェネ氷河期第一世代。「慣れろ」と言われてきた世代でもある。慣れた。たしかに慣れた。なのに、今夜も私はレジ前で固まっている。店員さんが、いつもの口調で言う。ポイントカードはお持ちですか。私は笑って、スマホを出す。ここまでは完璧だ。問題はこの次。画面が、動かない。指が乾いているだけで、世界に置いていかれるスマホの画面を叩く。反応が薄い。指先が乾いている。冬の手だ。もう一度。ダメ。後ろに人が並んでいる気配が、背中に刺さる。この世でいちばん怖いものの一つは、列だと思う。静かな圧。無言の「早く」。店内のBGMだけがやけに明るい。焦りに合わない。私は一瞬、昔の自分を思い出す。財布からカードを出して、差し出すだけだった頃。あの動作は、短くて、潔かった。いまは違う。ログイン、パスワード、二段階認証、通知。ポイントをもらうだけなのに、人生の手続きを踏まされる。便利とは、こういうことだったか。紙のスタンプカードは、裏切らなかった高校生の頃、喫茶店のスタンプカードがあった。小さな紙。店の名前が入っていて、スタンプがたまると一杯無料。押してもらう瞬間が、ちょっと嬉しかった。店員さんの手が、そこにあった。「はい、あと三つですね」そんな一言が、なぜか温かかった。あれは、ポイントというより、会話だった。今は、会話より先にバーコードだ。人より先に画面だ。画面が沈黙した瞬間、こちらも沈黙する。ロスジェネの「対応力」は、ここで試される私たちは、ずっと追いかけてきた。ポケベル。ガラケー。パソコン。ネット。スマホ。時代はいつも「新しい方が正しい顔」をしている。置いていかれたくないから、追いつく。追いついたと思ったら、また更新が来る。その繰り返し。でも、レジ前だけは違う。ここは試験会場みたいに、一発勝負だ。失敗したら、恥ずかしい。誰も責めていないのに、自分が自分を責める。私はスマホを必死に操作しながら、ふと思う。ポイントって、そんなに必要だったか。たぶん必要なのは、ポイントじゃない。「私はちゃんとやれてる」という感覚の方だ。そして今、私はそれを失いかけている。結局、言ってしまう言葉すみません、ポイント大丈夫です。この言葉には、独特の負けがある。いらないわけじゃない。ただ、もうこれ以上ここに居られないだけだ。店員さんが、軽くうなずく。大丈夫ですよ。その「大丈夫」が、少しだけ救いになる。ポイントじゃない。人の声だ。袋を受け取って、私はレジを離れる。たった数十円。たった数秒。それでも、心はしっかり疲れている。ポイントは貯まらなかった。でも今日も、買うべきものは買った。帰る場所へは帰れる。そんな日もある。ロスジェネの寄り道は、たぶんこういう夜でできている。勝った負けたじゃない。ちゃんと立って、ちゃんと帰る。それだけで、十分な日がある。
2026.04.07
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一瞬永遠 第31幕 音のない場所部屋の明かりがすべてをやさしく照らす外の音は窓で一度止まりここには届かない時計の針だけが正確に夜を進めている椅子に座り何をするでもなくただ手を置く今日の出来事はもう整理されないまま静かに沈んでいく言葉にすれば軽くなるのかもしれないけれどそのままにしておく胸の奥でふと誰かの声を思い出しわずかに息が止まったすぐに何もなかったように呼吸を戻すそれでいい夜は答えを急がない考えきらなくても結論を出さなくてもこの時間はそのまま受け入れてくれる明かりの下で影はゆっくり揺れ私はその揺れを見つめるでもなくただそこにいる一日は終わり次の始まりがまだ来ないそのあいだにあるこの時間だけが妙に深い
2026.04.06
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介護の夜も突然に… 父の怒りが家じゅうに広がる夜夜に、父が突然激怒した。きっかけは、認知症の母の言動だった。またか、と思う。いや、思うのだが、その「また」が軽く済まないから厄介なのである。母は認知症だ。同じことを言う。話が通らない。言葉もずれる。話の流れも平気で壊す。それはもう、日常の一部になっている。こちらはそれを前提に、どうにか受け流しながら回している。だが父は、そこにいちいち腹を立てる。もう少し頭がしっかりしていると思っていた。認知症相手に真正面から怒っても仕方がないことくらい、わかっているはずだと思っていた。だが、そうではなかった。何を言ったのかはわからないが、気にさわることを言ったようだ。怒り始めると、矛先は一気に広がる。母だけでは終わらない。家の空気そのものを巻き込み、こちらにも向いてくる。私にも向く。全方位である。「もう死ぬだけだ」「苦しい」そうわめき散らす。だが、こちらが手を貸そうとすると、さらに火に油になる。助けようとすれば、余計に荒れる。だからといって放ってもおけない。このあたりが本当に難しい。昔から、父にはこういう一面があった。感情が一気に高ぶる。子どもが駄々をこねるように、怒りが膨らんでいく。年を取れば少しは丸くなるのかと思っていたが、そう単純でもないらしい。むしろ身体が衰え、思いどおりにいかないことが増えた分、感情の置き場が難しくなっているのかもしれない。こうなると、たぶん数日はこのままだ。今夜だけで終わらない。しばらく引きずる。機嫌の悪さは残る。空気も悪くなる。また眠れない日が続きそうだな、と思う。そういう予感だけは、よく当たる。こちらも感情的になったら終わりである。言い返したくなる時はある。いや、かなりある。理不尽だと思う。何でこちらまでぶつけられなければならないのかと思う。だが、そこでこちらまで熱くなれば、家は完全に壊れる。介護のある家では、誰か一人の感情の暴発が、そのまま全体の崩れにつながる。だから飲み込む。ひたすら飲み込む。正直、しんどい。我慢にも限度はある。だが、今夜は我慢するしかない。落ち着くまで待つ。言わせるだけ言わせる。時間が過ぎるのを待つ。結局、そのくらいしか打つ手がない。介護は、排泄や食事や通院の段取りだけではない。こういう感情の処理まで含めて、全部こちらにのしかかってくる。それが本当にきつい。目に見える作業より、目に見えない空気を持たせるほうが、時にずっと消耗する。今夜もまた、静かに削られる夜になりそうだ。それでも、こちらが崩れるわけにはいかない。とにかく耐える。今はそれしかないのである。
2026.04.05
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入社式で思い出した、私の新人時代はこんなに甘くなかった【50代】新年度が始まり、入社式で自分の新人時代を思い出した声に出すほど軽くは言えない。だが、心の中でつぶやいてしまう。がんばれ、と。こういう場に行くと、やはり思い出す。新年度が始まり、仕事でお世話になっている会社の入社式に行ってきた。新入社員だった頃のことを。今のように研修が整っているわけでもない。面倒を見てくれる先輩が丁寧に一から教えてくれるわけでもない。社会人になる、という言葉の響きだけは立派だったが、中身はずいぶん泥くさかった。同期もいない。横を見ても、誰もいない。私が入ったのは小さな会社だった。しかも学校を卒業してすぐではなく、2か月後の就職だったので同期もいない。横を見れば一緒に頑張る同世代がいる、という環境ではなかった。会社の中も、職人の集まりのような空気だった。年が一番近い先輩が一人いたが、気安く話せる関係でもない。あとは10歳以上離れた人たちばかり。新人教育や研修など、無いと言っていい。来る日も来る日も、先輩のかばんを持って同行する。それが毎日だった。手取り足取り教えてもらえるわけではない。ノートにまとめようにも人により違うから難しかった。本当に、見て覚えろの世界だった。半年間、それが続いた。今思い返しても、よくあれでやれたものだと思う。いや、やれたというより、何とか食らいついていたというほうが正しいかもしれない。独り立ちが、最初の大きな難関だった独り立ちしたら、もう全部自分でやらなければならない。点検、修理、納品、契約全部である。しかも、ある程度しか触っていない。機種も少しのしか経験がない。それなのに現場へ行けば、見たこともない機種がある。やったことのない修理も多くある。同じ機械でも、置かれている場所が違えば癖も違う。紙詰まり一つでも、使い方の癖でまるで様子が変わる。現場は本当に、生き物みたいなものだった。そして、だいたいの新人はここで辞める。実際、その後に入った新人たちも、たいていはこのあたりでいなくなっていった。独り立ちしてからの壁が、いちばん高い。見て覚えろで放り込まれ、いきなり全部やれでは、そりゃきつい。私自身も、何度辞めようと思ったかわからない。あの頃の2年は、試練の時間だったもちろんその後も、大変なことはたくさんあった。クレームもある。理不尽もある。時間に追われる日々もある。だが、一番の山場はやはり最初のあの時期だった気がする。今のように、しんどければ気軽に辞めて次へ、という時代でもなかった。辞めるという選択肢がゼロではないにしても、もっと重かった。根性と気合いで乗り切るしかない空気があった。正直、あの頃の自分は、よくやっていたと思う。できて当たり前。できなければ使えない。そういう世界だった。だから誰も褒めなくても、自分くらいは今になって認めてやりたい。よく辞めなかったな、と。どんな時代でも、最初の一歩はやはり大変だ新年度の入社式で、新人たちの顔を見ていると、時代の違いは当然感じる。空気も違う。環境も違う。教え方も違う。だが、それでも思う。右も左もわからない。気も使う。覚えることは多い。自分だけ置いていかれている気になる日もあるだろう。向いていないのではないかと思う日もあるだろう。社会というものに、自分がちゃんと馴染めるのか不安になることもあるはずだ。そういうものだと思う。最初からうまくやれる人ばかりではない。むしろ、ぎこちなく始まる人のほうが多い。そこから少しずつ、自分の立ち位置を覚え、仕事の勘を覚え、人との距離を覚えていく。新人時代というのは、たぶんそういう時間なのだろう。私も、あの頃は本当に不器用だった。今もたいして器用ではないが、当時はもっとひどかった。それでも何とかしがみついて、目の前の現場を一つずつ越えていった。その積み重ねの先に、ようやく少しずつ仕事が見えてきた。だから今、新人たちを見ると、つい心の中でつぶやいてしまうがんばれ、と。声に出すほど軽くは言えない。簡単な言葉では済まないのもわかっている。だが、それでも思う。最初はきつい。たぶんかなりきつい。でも、そこを越えると見えてくるものもある。新年度。新しい場所へ入っていく人たちを見ると、自分の古い記憶まで一緒に動き出す。少し苦く、少し熱い。そんな気持ちになる。あの頃の自分がいたから、今の自分がある。あの時代に叩き込まれたものが、今も自分の土台のどこかに残っているのだろう。切り分けて考えること。現場で慌てないこと。わからなくても逃げずに向き合うこと。しんどくても何とか前へ出ること。新年度の空気の中で、そんな昔の自分を少し思い出した一日だった。
2026.04.04
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介護の朝は突然に…#23|出張直前、父の痛みと母の異変 それでも立ち続けるしかない【50代】出張直前に、父の痛みが引かなかった。ここ数日、カテーテル交換後の痛みが続いていた。これまでの薬では、どうにも抑えきれない。そこで新しい薬に切り替えることになった。貼るタイプの鎮痛薬。皮膚から吸収して、24時間効くタイプのものだという。即効性はない。だが、そのぶん持続性がある。これまでの舌下錠と併用していく流れになった。容量はまだ少ない。理解できる。だが父にとっては、別の部分が大きかった。説明の中で、やんわりとではあるが「麻薬成分」という言葉が出た。その一言が、父にはかなり強く響いたようだった。痛みそのものもつらい。そこへ「そこまでしないといけない状態なのか」という思いまで重なる。父の気持ちが一気に沈んでいくのが、見ていてわかった。出張の直前だというのに、まるで鬱のような状態になってしまった。だが、もう出なければならない時間だった本当は何とかしたかった。もう少しそばにいて、言葉をかけて、落ち着くところまで見届けたかった。だが現実には、時間が来る。仕事は待ってくれない。介護があっても、そこだけは容赦がない。結局、あとは妻と娘に任せるしかなかった。私はそのまま東北新幹線に乗った。この時の気持ちは、なかなかきつかった。父をあの状態で置いていく。しかも新しい薬を始めたばかり。本当に大丈夫なのか。気持ちはさらに落ち込まないか。痛みは少しでも和らぐのか。次から次へと考える。だが、考えたところで、その場にいない私は何もできない。見えているのに、何もできない出張中も、見守りカメラで様子を見た。妻からのLINEも入る。介護士さんが来てくれた。医師にも来てもらった。状況はそのつど伝わってくる。それはありがたい。本当にありがたい。だが一方で、見えているのに何もできない苦しさは、想像していた以上だった。介護は、そばにいて大変なことも多い。だが、離れている時のほうがしんどい場面もある。自分の手で動けない。自分の目で見られない。頼るしかない。任せるしかない。その無力感は、なかなか重い。帰る頃には、父の鬱っぽい状態も多少は和らいでいた。そこはひとまず救いだった。一番沈んだところからは、少し戻ってきていた。ようやく少しだけ息をつけるか。そんなふうに思った。だが、今度は母だった母は認知症で、訪問医療と大学病院の両方で診てもらっていた。前回の血液検査で、カリウムの値が低すぎると言われ、投薬も始めていた。だが改善しなかった。さらに検査を進めたところ、多血症の可能性があると言われた。多血症。あまりあるものではないらしい。大学病院で精密検査を受けなければならなくなった。父の状態も悪化してきている。そこへ今度は母まで、である。正直、かなり堪えた。父だけでも十分重い。母の認知症だけでも軽くはない。そのうえで、さらに別の病気の可能性が出てくる。先が読めない。というより、もはやこの先どうなるのか予測不能である。「ここが底か」と思ったところの先に、まだ続きがある介護をしていると、そういうことがある。それがいちばんきつい。人は、ある程度先が見えていれば踏ん張れる。だが、次に何が来るかわからない状態が続くと、心の芯から削られる。気持ちが沈む。重くなる。何も考えたくなくなる。いや、考えなければならないのに、考えたくない。そういう感覚に近い。さすがに、心が折れそうになった。それでも、立ち続けなければならない父がいる。母がいる。妻もいる。娘もいる。誰かが崩れた時、こちらまで崩れてしまったら、家は回らない。それがわかっているから、簡単には倒れられない。もちろん、強いわけではない。平気なわけでもない。本当はしんどい。かなりしんどい。だが、それでも立つしかない。認知症どころの話ではない。もうそれだけでは済まない段階へ、じわじわ入ってきているのかもしれない。さらに過酷な未来が待っている可能性もある。それでも、やるしかないのである。結局、今日もやるしかない50代になって思う。人生は、ある日突然、想定の外へ連れていかれる。しかも、一つだけでは終わらない。父、母、介護、病気、仕事、全部が重なってくる。そして、そのただ中でこちらは判断をし、動き、支え、回し続けなければならない。前向きなことばかりも言えない。頑張ります、だけでも足りない。だが、それでも思う。一気に全部は越えられない。ならば一つずつだ。父のことを見て、母のことを見て、必要な連絡をして、検査を受け、また次へ進む。その繰り返ししかない。追い込まれるたびに思う。まだ終われない。まだ投げられない。私が立ち続けるしかないのだと。介護の朝は、やはり突然に来る。しかも最近は、朝だけでは済まない。昼も、夜も、次の波が来る。それでも、そのたびに立ち上がるしかないのだろう。かなりきつい回だった。だが、きつい現実は、きついまま書いておこうと思う。それもまた、いまの私の生きる記録なのだと思っている。
2026.04.03
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NOTE論|数字に振り回されるくらいなら、ゆるく長く続ければいいフォロワー数がなんだ。PVがどうした。そんなものに気分を握らせていたら、続くものも続かない。辞めますという言葉をよく見かける。NOTE辞めます。卒業します。少しデジタル・デトックスします。様々なクリエイターさんで、そんな言葉を見かけることが増えた気がする。理由は人それぞれだろう。家庭の事情もある。体調の問題もある。外から簡単にどうこう言える話ではない。それでも、見ていると思ってしまう。せっかく始めたのに、と。始める理由も、辞める理由も、だいたい見えてくるざっくり分ければ、二つだろうか。稼ごう層。副業になればいい。少しでも収益につながればいい。そういう思いで始める人たち。もう一つは、自分の思いを書きたい層。考えを残したい。誰かと共有したい。共感してもらえたらうれしい。そこから始める人たち。辞める理由も、傾向がある。稼ごう層は「思ったほど稼げない」で離れる。共感層は「全然読まれない」「反応がない」で心が折れる。もちろん私だって、この先どうなるかわからない。介護の状況。家庭の事情。自分の病気。何が起きるかはわからない。始めるのも簡単。辞めるのも簡単。それがSNS的な世界の一面なのかもしれない。最初から結果を求めすぎると、必ず苦しくなるだが、見ていて思うのだ。もう少し肩に力を入れすぎず、ゆるくやればいいのに、と。最初から読まれようとしすぎる。最初から評価を取りにいきすぎる。それをやると、どうしても苦しくなる。NOTEは、始めるのは簡単だ。だが、続けるのは難しい。しかも、静かに続けるのはなお難しい。全部を丸投げした文章は、やはり滑るここ一年くらいは、AIの急速な普及もあって、書き始める人も増えたように思う。AIは確かに便利だ。私も当然使っている。もうそこは隠すような話でも何でもない。ただ、全部を丸投げした文章は、やはり読まれにくい。うまくまとまっている。整っている。一見それらしい。だが、何かが薄い。書いている人の温度。その文章の背景。そこにあるはずの、自分の言葉。そういうものが抜けていると、やはり人の心には残らない。便利だからこそ、最後に問われるのは「何を自分の言葉として差し込めるか」になる。そこがないと、文章は整っていても、妙に滑る。読まれても、残らない。今はそういう時代になってきたのだと思う。相互フォロー文化も、あまり好きではない全部が嫌だというわけではない。交流の中で自然にそうなることもある。そこはいい。だが、とにかくフォローして、フォロワーになってもらって、はい終わり。それだけの関係は、どうも好きになれない。今までも、あえてフォローを増やしてこなかった。理由は単純だ。今の私の状況では、その全部にきちんと反応しきれないからだ。スキも、コメントも、見に行くことも、全部は無理だ。介護がある。仕事もある。家のこともある。NOTEを書く時間も必要。見かけだけの関係を増やしても、結局自分が苦しくなる。数字は気にするな。それが私の答えだ結局いちばん多いのは、フォロワー数やPVに振り回されて疲れてしまうケースではないかと思う。増えた、減った、読まれた、読まれない、伸びた、伸びない。その増減に一喜一憂する。消耗する。つらくなる。嫌になる。辞める。だから、あえて言いたい。数字は気にするな。フォロワー数がなんだ。PVがどうした。そんなものに自分の気分を握らせていたら、続くものも続かない。私なんてNOTE6年目の今ですらNOTE公式にピックアップもされたこともない。バズったと言えるような記事もない。数字気にしてたらとっくに折れてる。私はフォロワー1000人に到達するまで、5年かかった。早いとは言えない。むしろかなり遅くゆっくりだろう。だが、たどり着いた。気にしなかったから、続けられた。続けられたから、結果としてそこへ行けた。順番は、たぶんそこなのだ。自分が投げないために、今日も書くまずは愚直に続ける。それしかない。途中で数字に心を持っていかれたら、続けること自体がストレスになる。ストレスになったものを、長く続けられるわけがない。NOTEは、うまくやろうとしすぎると苦しい。稼ごうとしすぎても苦しい。読まれようとしすぎても苦しい。だったら、まずは自分が投げないために書く。自分の思いを置いていく。それでいいのではないか。私にとって毎日のNOTE更新も、結局はそこに近い。数字のためだけではない。承認のためだけでもない。自分の人生を自分で投げ出さないために、今日も書く。それが結果的に誰かの励みになれば、なおうれしい。その順番で十分だと思っている。派手に伸びなくてもいい始めるのは簡単。辞めるのも簡単。だからこそ、続けることには価値がある。派手に伸びなくてもいい。静かでもいい。ときどき休んでもいい。肩に力を入れすぎず、それでもやめない。それが結局いちばん強いのではないかと、私は最近ますます思っている。
2026.04.02
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